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永井荷風「人妻」


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 住宅難の時節がら、桑田は出来ないことだとは知っていながら、引越す先があったなら、現在借りている二階を引払いたいと思って見たり、また忽《たちまち》気が変って、たとえ今直ぐ出て行って貰いたいと言われようが、思のとゞくまではどうして動くものか、というような気になったりして、いずれとも決心がつかず、唯おちつかない心持で其日其日を送っていた。それも思返すと半年あまりになるのである。
二階を借りている其家は小岩の町はずれで、省線の駅からは歩いて二十分ほど、江戸川の方へ寄った田圃道。いずれも生垣《いけがき》を結《ゆ》い囲《めぐら》した同じような借家の中の一軒である。夏は蚊が多く冬は北風の吹き通す寒いところだという話であるが、桑田が他へ引越したいと思っている理由は土地や気候などの為ではなかった。家の主人と細君との家庭生活が、どこにも見られまいと思われるばかり、程度以上に、また意想外に、親密で濃厚すぎるように思われるのが、桑田にはわけもなく或時にはいやに羨しく見え、或時には馬鹿々々しく、結局それがために、今まではさほど気にもしていなかった独身の不便と寂しさとが、どうやら我慢しきれないように思われ出した。その為であった。
桑田は一昨年の秋休戦と共に学校を出て、四ツ木町の土地建物会社に雇われ、金町のアパートに居たのであるが、突然其筋からの命令で、同宿の人達一同と共に立退かねばならぬ事になり、引越先がないので途法にくれていたが、偶然或入の紹介で現在の二階へ引移ったのである。
年はまだ三十にはならないので、当分は学生の時と同様、独身生活をつゞけて行くつもりでいたのだが、小岩の家の二階へ引越してから、とてもそんな悠長な、おちついた心持ではいられなくなったのである。
家の主人は桑田よりは五ツ六ツ年上で、市川の町の或信用組合へ通勤している。身長《せい》は人並で、低い方ではないが、洋服を着た時の身体つきを見ると、胴がいやに長い割に足の短いのと、両肩のいかったのが目に立ち、色の黒い縮毛《ちゞれげ》の角ばった顔が、口の大きいのと出張った頬骨のために、一層|猛々《たけだけ》しく意地悪そうに見えるが、然しその子供らしい小さなしょんぼりした眼と、愛嬌のある口元とが、どうやら程よく其表情を柔げている。
細君は年子といって三年前に結婚したというはなし。もう二十五六にはなっているらしい。まだ子供がないせいか、赤い毛糸のスエータに男ズボンをはいたりする時、一際目に立つ豊満な肉付と、すこし雀斑《そばかす》のある色の白いくゝり頤《あご》の円顔には、いまだに新妻らしい艶しさが、たっぷり其儘に残されている。
良人はどっちかと云うと無口で無愛想な方らしいが、細君はそれとは違って、黙ってじっとしては居られない陽気な性《たち》らしく、勝手口へ物を売りにくる行商人や、電灯のメートルを調べに来る人達とも、飽きずにいつまでも甲高《かんだか》な声で話をしつゞけている。
桑田が初め紹介状を持って尋ねて行った時、また運送屋に夜具蒲団を持ち運ばせて行った時、細君年子さんは前々から知合った人のように、砕けた調子で話をしかけ、気軽に手つだって、桑田の荷物を二階へ運び上げてやった。この様子に桑田は何という快活な、そして親切な奥さまだろうと感心せずには居られなかった。
「もうじき帰って参りますよ。遠慮なんぞなさらないで下さい。何しろ私達二人ッきりですからね。このごろのように世間が物騒だと、一人でも男の方の多い方が安心なんですよ。それに二階を明けて置くと、引揚者だの罹災者だの、そういう人達に貸すようにッて、警察からそう言って来て困るんですよ。」と細君は一人でしゃべり続けた後、配給物もついでゞすから、家の物と一ッしょに取って来て上げる。洗濯もワイシャツくらいなら一緒に洗ってあげようとさえ言うのであった。
桑田はこんな好い家は捜しても滅多に捜されるものではない。アパートを追出されたのは全く有難い仕合《しあわせ》だと思った。
しかしこの喜びはほんの一ト月ばかりの問で、桑田は忽ち困りだしたのである。引越す先があったら明日といわず直にも引越したいような気になり出したのである。
最初、どうやら身のまわりが片づき、机の置処もきまり、座敷の様子から窓外の景色にも親しみが感じられるようになりだした頃、或日の朝である。桑田は下座敷から聞える夫婦の声に、ふと目を覚して腕時計を見た。午前七時半であった。
「おい、寒いよ。寒いよ。風邪ひくよ。裸じゃいられない。」と言うのは主人浅野の声。
「そんならもう一遍おねなさい。ボタンがとれてるからさ。お待ちなさいよ。」と命令するように言うのは細君年子さんの声であった。
それなり二人の声は途切れて、家中は静になっていたが、忽ち甲高な年子さんの笑う声。それから着物でも着るらしい物音と、聞きとれない話声がつづき初めた。
桑田はこんな事から程なく主人の浅野は毎朝出勤する時、自分の手では洋服がきられないのか、わざと着ないのか、それは分らないが、子供が幼稚園へでも行く時のように、細君にきせて貰い、ネキタイも結んでもらう人だという事を知った。そしてタ方近く勤先から帰って来ると、洋服だけは一人でぬぐが、すぐに丹前の寐巻に着かえる時、帯はやはり細君に締めてもらうらしい。
この事が桑田の好奇心を牽《ひ》きはじめた初まりで、次に桑田は二人の食事をする茶ぶ台には飯茶碗だけはニツ別々にしてあるが、汁を盛る椀も惣菜の皿小鉢も大ぶりのが一個《ひとつ》しか載せられていないのを見て、味噌汁は交《かわ》る/\一ツの椀から吸うのではないかと思った。桑田は仕事の都合で午後から出掛けたり、また昼近くに帰って来たりすることがあるのを幸、それとなく家の様子に気をつけた。
主人の浅野はタ方六時前にはきまって帰って来る。電車に故障でも起らないかぎり、早くもならず晩《おそ》くもならない。細君は時計を見ずとも其時刻を知っていて、タ飯の仕度にかゝるより早く、風呂へは行かないことがあっても、白粉《おしろい》だけはつけ直さないことはない。昼間良人の留守中、細君は配給物など取りに出る時、桑田が二階に居れば、「済みませんが、桑田さん。一寸お願いしますよ。」と声をかけて出て行くが、いつもは格子戸と潜門《くぐりもん》とに鍵をかけ、目立たぬように取付けてある生垣の間の木戸から出入をするのである。そういう無人《ぶにん》な家のことで、衣類や大切な物は市川の知り人の許に預け、箪笥には時節のものしか入れて置かないことを、細君は得意らしく桑田に話をした。
細君は良人の留守中、いつも小まめに休まず働いている。主人が出て行った後、天気つゞきで風でも吹くような日には、朝夕二度拭掃除をすることもある。タオルで髪を包み、そこら中を拭き拭き二階へも遠慮なく上って来て、桑田の敷きはなしにした夜具を縁側の欄干に干してやったりする事もある。よく働きよく気のつく細君だ。家庭の主婦としては全く何一ツ欠点がないと思うと、桑田は自分も結婚するなら、年子さんのような人を貰わなければと云うような羨しい気がしてならなくなった。話をしながらも、桑田はいつか細君の働く姿から目を離すことができなくなった。
スエータの袖を二の腕までまくり上げ、短いスカートから折々は内股を見せながら、四ツ這になって雑巾掛をする時、井戸端で盥《たらい》を前にして蹲踞《しやが》む時、また重い物の上下しに上気《じようき》したように頬を赤くする顔色などを見る時、桑田はいきなり抱きついて見たいような心持にさえなることがあった。
やがて桑田は夜もおち/\眠られなくなった。下座敷の夫婦は晩飯をすまして暫《しばら》くラジオを聞いているかと思うと、いつの間にか寐てしまう。毎晩、よくあんなに早く寐られると思われるくらいで。連立って映画を見に行ったり、買物がてら散歩に出るようなことは殆どない。桑田が勤先からの帰り道に、鳥渡《ちよつと》用足しでもして帰って来ると、家の内は早くも真夜中同様、真暗闇になっている。朝の出勤時間が早い為めだろうと、桑田は初の中は気にもしなかったが、或夜何かの物音に、ふと目をさますと、宵の中に消えていた下座敷の電灯がいつの間にかついていて、しかも低い話声さえ聞える。二人して交る/゛\何か読んでいる声のすることもあった。どういう種類の書物であるかは推量されるが、然しその文章は聞きとれない。やがて男か女か知れぬが立って障子をあけ、台所へでも行くような物音の二度三度に及ぶようなこともある。
桑田は学生時分からアパート住いには馴れた身の、壁越のさゝめきや物音にはさして珍しい気もせずにいたのであったが、今度初て、其時分の経験からは到底推察されない生活の在ることを、ありあり事実として認めねばならなかった。桑田は是非なく、成るべく外で時間をつぶして帰ろうと思いはじめた。一度帰って自炊の晩飯を済ましてから、また外出することもあるようになった。然し場末の町のこと、殊に夜になっては何処へも行くところはない。駅に近い方に一二軒カフェーはあるが、女給はいずれも三十近いあばずればかり。そして飲物の高価なことは、桑田が一ケ月の給料などは二三度出入をしたら忽ちふいになるかと思われるくらい。トラックの疾走する千葉街道の片ほとりには、亀戸《かめいど》から引移って来た銘酒屋があるし、また一駅先の新小岩にも同じような処があるが、いずこもインフレ景気の物すごさに、桑田は唯|素見《ひやか》し歩くよりしようがない。已《や》むを得ず勤先からの帰り道、銀座か浅草へ廻って、レヴューの舞台で踊子の足を蹴上げて踊る姿を見詰めたり、ダンス場で衣裳越しに女の身にさわり化粧の匂を嗅いだりするより外に気を休める道がない。然しそれさえ随分な物費《ものい》りである。
毎夜の睡眠不足から桑田はすっかり、憂欝になってしまった。引越したいと思っても引越す目当がないと思うと、無暗に腹が立って座敷の物でも手当り次第|毀《こわ》してみたいような気になる。夜のみならず、昼間でも家内の物音が、台所の水の音から襖《ふすま》障子の明けたてされる音まで、何一ツ気をいら立せないものは無いようになる。夫婦の話声がいやらしく怪し気に聞えてしようがない。「ねえ、あなた。ねえ、あなた。」と良人に話をしかける細君の声が、毎日毎夜、あけても暮れても耳について、どうにも我慢ができないような心持になる。
桑田は腹立しさのあまり、思切って暴行を加えて見ようかと思った。然しどういう風に実行すべきものか、其手段がわからない。いざという場合になったら、女の方が遥に強くはあるまいかという気もする。拭掃除に水一ぱいの大きなバケツを幾度となく汲みかえては持運ぶ様子から、半日洗濯をしつゞけても、さほど疲れた風もしないところなどを見ると、あべこべに繊細《かぼそ》い自分の方が身動きもならないように押えつけられはしまいかとも思われる。押えつけられて、そんな剰談《じようだん》しちゃいけませんと叱られるくらいならいゝが、帰って来た主人に事の始末をありのまゝに告げられたら、其時はどういう事になるだろう。今すぐ出て行ってくれと言われても出て行く処がない。自分は低頭平身してあやまらなければなるまい。そして馬鹿ッと怒鳴られた挙句、場合によっては拳骨の一ツぐらいは食《くわ》されないとも限るまい。そんな事を思うと、いかに切なくとも我慢に我慢してこのまゝそっと人知れず、様子を立聞きして自分ばかりの妄想に耽けるより仕様がない……。
日はいつか長くなって、勤先から帰ってタ飯をすませても外はまだ明く、生垣の外の畠が青く見えるようになると、忽ちそこら中一帯に蛙の鳴く声が聞え出した。桑田はいつもに変らぬ深夜の囁きに加えて、枕元に蚊の声をも聞くようになった。眠られぬ夜はますます眠られなくなるばかりである。
蚊遣香《かやりこう》を焚いて我慢をしていたのも暫くの問であった。桑田は蚊帳《かや》を釣るために釘と金槌とを借りようと、或日下座敷へ行くと、主人の浅野は細君と二人で旅行用の穐毬をひろげていた。桑田の降りて来るのを見て、
「三四日留守にしますから、何分よろしく御頼みします。田舎の親類に弔いがあるんで、一寸行って来ますから。」
次の日の朝、桑田が朝飯の仕度をしにと台所へ降りて行った時には、主人の浅野は既に立って行った後と見えて、板の間に置かれた茶ぶ台の上には、食べ残されたものが其儘叙紘?ていて、細君はひとり蚊帳の中の乱れた床の上に、たわいもなく身体を投出して高鼾をかいていた。
桑田はおそる/\弔う其枕元まで歩み寄って、じっと寐姿を眺めていたが、そのまゝ意久地なく台所へと立戻って、わざと物音あらく鍋や皿を洗いかけたが、細君はどうしてそんなに疲れたのかと寧《むし》ろ恠《あや》しまれるほど、いよく鼾の声を高めるばかりであった。
桑田の煩悶は主人が居た時よりも更に甚《はなはだ》しく、とても二階にじっとしては居られなくなった。
二日目の夜である。小雨が降ったり歇《や》んだりしていたに係らず、勤先からの帰道、桑田は映画館で時間をつぶした後、その辺のおでん屋で平素飲まない酒を飲み、真暗な横町を足もとしどうに帰って来た。離れ/゛\に立っている人家には門口の灯さえ消えているところもあった。遠くに聞える省線電車の響、蛙の声と風の音とが、さほど深《ふ》けてもいない夜を、気味わるいほど物さびしくしている。
桑田は危く溝に踏込もうとして道ばたの生垣につかまり身を支えたのも一度や二度ではない。やっとの事自分の家の潜門を、それと見定め、手をかけて開けようとすると、その戸は内の格子戸と共にあけたまゝになっているのに気がついた。酔っていながらも変だなと思って、見るともなく様子を窺うと、家の内は外と同じように真暗であった。
桑田は今夜こそ是が非にも運だめしをする決心であったので、片足を出入口の土間に踏み入れると共に、わざとらしく声を張上げ、
「奥さん。どうも、おそくなってすみません。」
すると闇の中から、「大変よ。桑田さん。」という奥様の声がしたが、それは顫《ふる》えた泣声であった。今まで一度も聞いたことのない異様な調子を帯びた声であった。
この声に驚かされて、其方へと一歩進寄った時、更に一層桑田をびっくりさせたのは、何物をも纏っていないらしい女の柔な身体に、その足がさわったことであった。
顫える手先に電灯をひねると、抽斗《ひきだし》を抜いた箪笥の前に、奥さまは赤いしごきで両手を縛られ俯伏《うつぶ》しになって倒れていた。
畳の上には土足で歩いた足跡がある。
夜がふけるに従って、また誰か、餌をさがす狼が来はせぬかというような気味悪さが、いつまでも二人を其儘《そのまま》一ツ座敷に坐らせてしまった。夜があけても二人は離れることができなかった。そのまゝ食事も一緒、つかれて蚊帳の中にうとうとするのも亦一緒であった。
二人はぽつ/\こんな話をした。
「ねえ、奥さん。届けるなら、暗くならない中盗まれたことになさい。」
「わたしは家に居なかった事にしてよ。縛られたなんて、そんな事言われないからさ。」
「でも、よく、何ともありませんでしたね。怪我しなくってよござんした。」
「わたし、ほんとにそればっかりが心配だったのよ。おとなしくしているより仕様がないと思ったのよ。だけど、よくって。秘密よ。絶対に秘密よ。あなただけしか知ってる
人はないんだから。きっとよ。」
三日目に浅野がかえって来た。たぶん午後に早く帰って来たのであろう。桑田はその勤先から帰って来て格子戸を明けた時、二人が夕飯をたべながら、いつもと変らない調子で話をしている声をきいた。
桑田はそのまゝ二階へ上ろうとすると浅野が、「留守中はどうも御世話さまでした。」
と言うので、黙ってもいられず、
「お帰りですか。汽車はこんだでしょう。」
「イヤ思ったより楽でした。」
「それは能《よ》うござんしたなア。」
桑田はまたもや梯子段《はしごだん》へ片足踏みかけようとすると、
「空巣をやられたそうですな。あなたの物でなくッて能うござんした。」と言うので、
桑田は其晩の事が既に二人の間に話し出されていた事を知った。
「わたしがいればよかったんですが、会社へ出かけた後なもんで、申訳がありません。」
言いながら桑田は襖際《ふすまぎわ》まで立戻って、何より先に細君の顔を見た。
灯火のせいか、または気のせいか、桑田の眼には細君のタ化粧がいつもより濃く見えた。横坐りに少し片足を投出し飯茶碗に茶をついでいた手も止めず、
「桑田さんが帰って来て下さったからよかったのよ。わたし一人だったら、とても気味がわるくッて、夜なんぞ寝られなかったかも知れなかったわ。」
桑田はまアよかったと言わぬばかり、俄に安心したような気がした。それと共に、人間は虚言をつかなければならない場合になると習わなくとも随分上手に虚言がつけるものだ。男よりも女の方がそういう事には余程上手であり大胆《だいたん》にやれるものだと思わないわけには行かなかった。
あくる日、桑田はいつもより仕事が忙しかったにも係らず、大急ぎに浅野よりも早く帰って来て、台所で洗物をしている細君の後姿を見るや、すぐさま其身近に進み寄り、
「奥さん。」と呼びかけた。
奥さんは何も言わず唯じっと桑田の顔を見返し、返事の代りに意味あり気な微笑を口元に浮べた。その目つきとその微笑とは、桑田の眼には、あの晩の事はあれなり誰にも知れる気づかいはない。もう心配しないでもいゝと云うような意味にしか見えなかった。そして桑田が二階へ上ると、細君もつゞいて其後から二階へ上った。
桑田はその日から折々浅野よりも早く帰って来たり、また浅野が出て行った後昼近くまで出かけずにいることもあった。
二階の窓から見渡すあたりの麦畠には麦が熟して黄いろくなり、道端にも植えられた豆の花はそろ/\青い実になりかけた。
桑田は再びこの二階には居たくない。今度こそ一日も早く明間をさがして引越したいと決心するようになった。以前のように夫婦の性的生活に対する羨望と嫉妬からではない。桑田は人の秘密を自分一人知っていることが、自分ながら不快でならなくなったのだ。
細君は以前よりも親切に小まめに身のまわりの世話をしてくれる。時には食事までこしらえてくれることがある。桑田は親切にされゝばされるほど、それもみんなあの秘密を知られている弱身があるためだと思うと、気の毒な心持が先に立って、つまらない剰談も言えなくなるのであった。そうかと言って、黙って何も言いかけずに慎《つ丶し》んでいると、女の方では心配でたまらないと言うような顔をして、機嫌を取ろうとすることもある。桑田はいよ/\居辛くて堪らなくなった。
一ケ月ばかりして、諸処方々へ引越先を聞合していた結果、小松川辺の或る農家の離家を見つけ、人に金を借りてまでして敷金を収め、桑田はよう/\の事で、小岩の貸二階を引上げた。見渡す青田の其処此処《そこここ》に蓮の花が咲き初めた頃であった。
(一九四九年十月)

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