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    <title>網迫の電子テキスト乞校正@Wiki</title>
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    <description>網迫の電子テキスト乞校正@Wiki</description>

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    <title>山本実彦「アインシュタインの片影」</title>
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    <description>
      
&lt;p&gt; アインシュタインの片影&lt;/p&gt;
&lt;div&gt;山本実彦&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　私は、自分が接したうちで、最もすぐれたと思った偉人は、アルベルト・アインシュタインであった。彼が改造社の招請に応じて神戸港についたのが、大正十一年十一月十七日であったが、日本を去ったのが十二月の二十九日であった。この日、彼は朝からお客を謝絶して門司清滝の三井倶楽部に静かな瞑想に耽っておった。私達夫婦、石原氏も三、四日間、この倶楽部の厄介にあずかっておったのであったが、朝飯をわれわれと一しょにとった彼は、何を思い出したのか、私たち夫妻にたいして、「ずいぶん長らく厄介になった、私は今まで各国をよく講演や、旅行やで歩いたが、こんな心からのもてなしにあずかったことは、今までかつてない。自分は、いま、何もあなた御夫妻に贈ることはできないが、ここに記念のために一つなにか、かいて見ました。そしてことさらに毛筆にて、したためたから、どうかおさめておいてもらいたい」とのことであった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　うち見れぱ、彼自身が、日本の各大学の教授たちに、東京帝大で相対性原理を講演する自画像をかき、その下で、石原博士が筆記している禿頭を戯画し、そして、それに左記のような讃をしたものであった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　　Gedrangt das Volk, gespitzt die Ohren&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　　Sie sitzen alle wie verloren&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　　In Sinnen Lief, verzi ckt den Blick&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　　Ergeben in ein hart&#039; Geschick&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　　Der Einstein an der Tafel steht&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　　Die Predigt rasch von Stapel geht&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　　Und Ishiwara f link and f ein,&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　　Schreibt alles in sein Buchlein ein.&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　　           ALBERT EINSTEIN&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　　                  1922.&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　　人々が押しよせ、耳をそばたてながら、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　　みんな虚心に腰かけています。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　　心を深め眼を見張って、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　　ぎごちない運命に自らを委ねるように。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　　アインシュタインは|黒板《ボールド》に立って、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　　講義はずんずん進んでゆきます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　　そしてイシワラはすばやくまた繊細に、&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　　すべてを彼の手帖に書きこんでいます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　(石原純氏訳)&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　われわれは彼が、はじめて持ったであろう毛筆でかき上げた、尺八の軸ものをながめつつ、彼氏に感激のあいさつをかわすと、こんどは、夫人エルゼが、毛筆をとって、いく枚も記念の色紙をかいてくれるのであった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　この日の午後三時、榛名丸はまさに錨を巻きかけるというので、私はシャンパンをぬいて、四十数日、兄弟のごとくしたしんだ彼及びその夫人の一路平安を祈れば、彼氏たちは、まるっきり朗かさをなくしてしまい、遂にニルゼは、余が妻と握手しつつ、ハンケチを目にあててしまい、ア氏も眼に手をふれているので、わたしたちも、ものを言うことができなくなってしまって、三井のランチに飛び移ったのであった。曝世の偉人アインシュタインは、まったく、純情な、なつかしさを深く秘めている人であった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　私たちは、榛名の煙が見えなくなるまで、門司の岸壁のほとりを、あちこちと、あるきまわっているのであった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　私たちは、その夜の急行ですぐに東上したのであったが、その夜は、さすがに、四十余日、彼氏と一しょに、あちらこちらとかけずりまわったつかれで、すぐに横になりたいと思ったが、いろいろの思いでねむりもならず、それからそれへと彼と行動をともにした耀かしい口が、目の前に現われてくるのであった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　彼は、宮島の景色を、ことのほか愛した。そのホテルの閑寂が気に入ったのであったろう。しかし、その日は寒い冬の日であったが、他にお客がないというので、スチームも入れてなかった。食いものも、あまり気をつけてくれてたかったので、教授夫妻にまずい思いをさせたことがあった。だが、彼は、そしらぬ態にてヴァイオリンをとりだしなどしたのであった。こうしたときにも、彼は決して不平を憩えるようなことはなかった。彼は、この地の山水がとても気に入ったらしいので、私は数日の逗留をすすめ、そして静養してもらいたいと言ったら、彼の喜びはこよないものであった。彼はいくらか疲れ気味があったので、この間、日程をつくらずに、気ずい気ままに漫歩して、無邪気な神鹿とたわむれたり、また清例たぐいなき岩清水のチョロチョロ流るるあたり、霜にたやめる紅葉を仰ぎ見つつ、日本にきてから一ばん、のどかなきもちになって、こころゆくばかり自然を観賞したのであった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　もう、あと福岡での講演がすめば、彼は解放されて、日本よりの帰途に、あるいは極楽鳥の素的な声をジャワの旅にきくことも、ここ三旬の間に迫ってきたし、また、自分らの祖先の墳墓の地であるパレスタインにも、新春早々夫婦同道で訪れることができることなどのことを、思いうかべているのではなかろうか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　彼は夢を追っているように見える。私はまた、彼の夢のたかにはいってみようと思う。彼は、一平画伯を愛した。一平の描く漫画は、つかれた彼を慰籍するなにものかであった。一平は、彼の鼻が気になっていた。だが、鼻を言われれば、彼の心のなかは、暗くなるらしかった。自分の属する民族が、胸の一部にしまいこんである、ききたくない民族の声が頭をもたげてくるのであった。ユダヤ人!　この三字を彼に思いださせることは罪悪のようにも思えた。しかし、私はこうした圧迫がいつでもつきまとったればこそ、彼が世界の偉人として今日のごとく、比類なき業績に歌わるるようになったのだと、思うのだ。放浪の民、一千五百万の人びとが、東に、西に、そしてジューと蔑まれ、貧慾の標本とされ、民族の屑と思わるるのであるが、屑どころか、人類の花であるアインシュタインもヂスレリーも、ベルグソンも、トロツキーも、ラッサールも、スピノザも、ハイネも、ロスチャイルドも、マルクスも、みんた鼻の大きいユダヤ人ではないか。ウィルヘルムニ世が黄禍を唱えてから、ムッソリニがこれを唱え、我が国などでは、赤禍とか、ユダヤ禍とかをシッペイがえしのつもりでか唱えるものが多くなった。そのよしあし、当、不当は批評家にまかせるとして、とにかく、大偉人とか、大天才とかをぞくぞく輩出して、人間最高位の役割りを果たしたことをも考えてみたくてはならぬ。そうした悩みや、苦しみやが、いく百回、彼のあたまを訪れたことだろう。この心しずかな自然、この澄明無比な自然、環境皆が詩の世界であるのに、偉大な彼の心境には払えどもさりがたい、こうした黒点が一生を通じてつきまとうているのだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　彼はくさ味のない人であつた。ジューの匂いも、性格も、それらしいいやしさも、物慾も。そして彼はあれだけ、いためつけられて人となったにもかかわらず、こせこせして、くらい気持をもっていなかった。彼は「他人と憎み合うために生まれてきたのではなくて、愛し合うためにこの世に生まれてきた」という言葉が一ばんすきであった。彼のうまれつきはこの文句のようになごやかであった。だが、半面に、正義感が強くて、身を以て当たろうとするところがあった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　彼が来朝したとき、私は帝国ホテルで一ばんいい部屋を彼に提供したのであったが、彼は、あまりよすぎるから、他に部屋を変えてくれというのであった。私は、社賓としての最高の敬意を表する意味と、帝室でもいろいろお心づかいがあらせらるることをもれ承ったので、ぜひにと言ったが、彼は、とうとううベなってくれなかった。そして今後なにごとにつけても、質素にしてくれとのことであった。私は、千年か、二千年かに、一ぺん出るか、出ないかの偉人の一言、一行にいいしれぬ興味を覚えるものであったが、そのときも思わず頭がさがったのであった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　彼の顔は、やわらかくまろみがあり、その言葉は音楽をきくように、澄みきって、きれいで、そして自然であった。私は、彼が相対性原理の講演をなした東京、大阪、京都、福岡、仙台、神戸、名古屋等でその紹介役をつとめたのであったが、いつか、どこかのサロンで私に向って「アナタの演説は、まるで、軍人が号令をかけるような言葉ですナ」と言った。そのとき、私はなんにも気にとめないで、笑ったまま聞いておったのであったが、彼が日本を去ってから、ふと、この言葉の意味ーそれを考えるときがあった。なぜ、彼は号令のようてあるといったのだろう。キット、声音の蛮的であることと、音楽的譜調のないこと、声に美的要素の欠如せることなどが、いかにも耳ざわりであったのであろうなどと思ったのであった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　彼は、理論物理学でニュートン、ガリレオと並び称せられる世界的権威であるばかりでたく、実に音楽にかけても、独逸でも有数といわれるくらいであった。彼のような、始終頭脳ばかりを使っている人は音楽によりて、その疲労を医するの必要が、ことさらあるらしい。彼は日本古楽にたいしても、そうとうに興味が深かった。そのことを当時宮内次官であった関屋君に伝えると、関屋君は、直ちに宮内省の雅楽部の人びとにはかって、教授のために古楽を聞くの会を開いてくれたのであった。ちょうど、その日は東京帝大で特別講演のある第五日目であったが、その時間の切迫せる間にも、ゆったり熱心にきき耳を立てて需った。そして彼は、「日本音楽が欧州のそれと発達形態を異にしていること、日本音楽と西洋音楽との相違は根本的であること」等々を、きげんよく話しながら、帝大に自動車で急いだことをも記慮している。そして彼は、日本音楽は一種の感情画であると賞揚し、日本の音楽は、鳥の鳴く声、波のかなずる音より受けた人間の感じを形に表わしたものだと言ったりした。そして、日本音楽の特質は、あの小さな笛によりて代表さるるものであり、日本人のやさしい、可愛いものを好むのは、実にそうしたところに原由するものだと言った。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　そして彼は、日本の絵画と、木彫とを喜び見た。彼は、現在までの日本芸術の長所はそこにあると思った。そして将来日本芸術の伸ぶるであろうところも、そこにあると思ったらしい。彼は、いくたの仏教芸術に鋭い表情の現われがあることを看取し、巨勢金岡や、光琳の芸術にも、そのリズムの活きいきしているのを看取したのであった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　私は、もちろん、相対性理論についての奥深い原理を究めたことはない。しかし、私どもはニュートンの引力論にたいし、別見地より宇宙の状勢を洞観し、時間と空間の融合をはかり、以て自然現象を究明するの針路を開いた暖世の偉人であることだけは知っているのである。東京帝大では私が、アインシュタインの約三十時間の特別講義を寄附したので、古在総長の名をもつて懇篤なる感謝状を送って来た。それと同時に、長岡半太郎博士から、私がア教授を我が国に招聰した費用の一部にもとて三千円を大学から出してもよいと言って来たが、私はそれを辞退したのであった。そして鉄道省からも、ア教授の日本各地で講演の旅をせらるるときは、車室を提供したいとのことであったが、それも辞退したのであった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　その他、教授にたいしてはいろいろ有難い帝室からの恩命もあった。そのときのことをつくづく思い出だせば、そこに教授の具体的の大きさと、ユーモアと、人となりが現われてくるのであるが、しかし、このことにかぎり、後日稿をあらためて書くことがあるかも知れない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　それから、あるとき服装のことで一つの議論が生まれたことがあった。ちょうど、そのとき、私の改造社では、黒の背広がほとんど正服ときまっておった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　彼は、服装のことでかれこれ言うのは、小児病だと一蹴して笑って蔚った。そのときのあのやさしい目つきを思い出すと、とてもたつかしいものがある。当時、我が国の社会運動者が、なんでも、ルパシカ熱にうかれているときであった。要するにルパシカを着ていても、その魂をソビエット化することに、どれだけのかかわりをもつものであろうかなどの話も生まれたようだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　また、彼はいつも、「日本が大きな覚悟のもとに西洋の科学につくは、もとより喜ぶぺきであるが、自己が西洋に優越したものをも純潔に保って行ってもらいたい」と、言っていた。私は、このところをいつも穿きちがえさせたくない。すベてのことに国粋、国粋と言って西洋文明を絶対に排斥しては大きた文化を形づくることはできないが、しかも、たかには、我が国が千年以上もかかってつくりあげた、いろいろの文学や、美術の価値をも認識することのできないものが、だいぶんあるようである。彼が日本で一ばん感心したのは、日本の古代的な瀟洒な建築や、庭園のつくりかたの|さび《傍点》がかったところにあったらしい。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　彼は、すぐる日、ヒットラーによって独逸を逐われた。そのとき、彼は長い間に亙って集め得た貴重な書籍と、欧米各国を歩いてかせぎためた財産とを没収された。その財産は別として、自分の生命にも等しき書籍を彼らの手に委することを自分の愛児に別れる以上に怨み、悲しんだらしい。このことについては、私どもは無限の同情を彼に捧ぐるものである。彼の集め得た書籍の大部分ー彼は書籍蒐集癖はいままで、あまりなかったらしいがーが、われわれ人類にとってどれだけ高い価値のある文献であるか、そして、またその文献が今後の文明に、科学に、どれだけ大きな役割を遂げ得るのであったろうかを考え見るとき、いうにいわれぬ感慨をおぼえるのである。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　かれヒットラーは一世の雄であろう。民族を率いる、小じんまりした一世の英雄であろう。世は、彼をムッソリニと並び称している。しかしながら、冷静に考えて見ると、この二人は世界の文明にどれほどの寄与をしているか、人類のためにどれだけ、ありがたい頁献を遂げているか。彼らは一度死ねば、イタリアのムッソリニたるにとどまり、ドイツのヒットラーたるに止まる。同じ英雄でも、高貴な人道的経編を遂げた『プルターク英雄伝』中の人びとのごとく、戦の背後に民族を代表する大きな文化というような姿はないのだ。ただ、その日暮らしの苦しいイタリアやドイツの、一時的の民族の動向を象徴している一つの世話人にすぎないのだ。知事か、行政長官の毛のはえたものにすぎないのだ。彼らに永遠へのものが何一つあるであろうか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　だが、かれ教授の世にも稀れな直観力で、きずきあげられた相対性原理の偉大な貢献は、万世に燦然たる耀きを加えるのである。人間が人類としての超特権に誇り得る第一の高き尊い功業であるのである。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　しかしながら、彼は、決して自分の大きな姿、自分の大きな功業を誇ろうとはしない。あらゆるところにおいて常に謙虚である。彼は自分が相対性原理の完成に成功したのは、グローズマンの数学的協力によることを挙げた。私は、さすがに、彼の姿が日月の如くであることが、世にも稀れなる謙虚の上にきずき上げられていることを、悟らずにはいられない。それから、もう一つは、彼が学界に出ることを、自分の弟が出世するがごとく喜んで世話した偉大なプランクの存在だ。プランクは生粋のドイツ人であるがため、今では敵人のような立場になってしまった。ナチスは憎いアインシュタインではあろうが、プランクにたいしては、アメリカの一角から朝夕感謝の念をささげているだろうと思われる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　日本に来朝している時分でも、彼は数学の一権威である京大の園正造君や、石原純博士と、相対性理論の後に来たるべき大きな役割りについて、いろいろ相談している謙遜そのものの姿を、たびたび発見することがあった。東北大学では、本多光太郎君の丹精にかかる金属研究所の研究に、きくべきものが相当あることをも、私に話したこともあったのであった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　それから、われわれに深く考えさせるのは、彼が科学的に徹底しているごとく、思想的にもはっきりした立場をもっており、そして勇敢なる実践者であるということである。何も彼の社会観に私か同意するとか、そうした問題を離れてー。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　私は、彼に接してからこう思うようになった。それは、彼の如く科学的の大革命を遂げようと思えば、他の何事にたいしても、徹底的でなければなるまい。すなわち、思想的の問題にたいしても、科学にたいするような妥協なき態度であるということが、アインシュタインをして、ニュートンを凌駕せしむる偉大性をはぐくんだものではないだろうか。なるほど、ロマン.ローランにしても、バルビュッスにしても、バーナード・ショウにしても、ゴールキイにしても、彼らは、大文豪という以外に、確乎たる思想的立場、社会的立場をはっきりさせている。ところが、我が国では、自分は単なる学者だからとか、芸術家だからという意味において思想的立場などはないというのが普通のようである。私は、そうした曖昧の態度を、かれこれ論議しようというのではないのだが、ただ、そうしたなまくらなことで真の大きな科学的革命ができるものであろうかということを研究してみたいのである。一つの仕事に立派な理論的立場を持ち得る人は、他の一面にも、必ず徹底的な、勇敢な立場を持つのが当然のように思われるのであるが、それが自分の持ち場の学問だけには忠実で、勇敢で、他の一面には腹ふくれどもの言わず、思想的にきまったものを持ってはいるが、それを発表するのは自分に不利益な結果を招来するから、黙っていた方が利巧だ、さわらぬ神にたたりなしの事なかれ主義から割り出されるものではあるまいか?　正を踏んで怖れず、死に面して自分の信念をまげないという大気魂とは、およそ正反対の生き方であるのである。真理の発見、科学の革命というようたものが、そうした二元的な生き方で、もうろうたる処世ぶりで、遂げ得られろものであろうかと、いろいろ考えさせられるのであった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　彼は自分の研究や、思想にたいしては断じて妥協しないことは、すでにのベた通りであるが、こうした彼の思想をつきつめて研究するのは有益で、有意義のことではあるが、それは、別にその人があろうから、私は、これから、彼が、自分との関係において、経験した、いろいろの話材を基本として、日本における彼をもうすこし勇髭せしめてみたい。アインシュタインの演説は、日本各地でいたるところ、文字通りの満員で、公会堂や、劇場でも立錐の余地もなかったのであった。彼は、このことが、いとも不思議でたまらなかったのだ。二円、三円の入場料を支払って、私の顔を見にくるのだ、とても、相対性の理論などむずかしくてわかるものでないーなどと言った。厳密な意味でいえば、その当時は日本に幾人と指おるくらいしか、わかっている人はなかったのに、毎晩、千人も、二千人もという聴衆がくるので、彼はとても骸いていたのであった。もっとも、それは、米国でも、西洋各国でも同じことで、必ずしも私の学説に了解ある人びとのみ聴講するわけではないのだと彼は言った。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　それより、彼にとって大きな謎は、演説会のあるごとに、彼が講演することについて、いく段かの新聞広告をすることにあった。彼は、「どうして、こんなに大きな広告をするのか、広告料はいくらくらいかかる」と、私に耳打ちするのであった。そして、その実際を知るに及んで、彼は目をまるくして驚いて、「どうして、そんな馬鹿なまねをするのか、ベルリンその他では、私が講演するときは、ほんの小さい文字で一、二行かけば、私に関心してくれる人びとは皆集まってくれるのに」……。私は、その言葉にたいして、私が、日本の新聞広告は事実を報道する以外に、啓蒙運動もいささか加わっておることを、ことこまかに説明してきかしたら、彼は呵々大笑して、すべてが、はじめて解せたという顔をしたのであった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　もう一つの奇蹟とさるるのは、彼の全集を出すときのことであった。いろいろの文字が印刷所にないものが多いので、わざわざ鋳造したりして取りかかったものだ。初めのほどは、二、三百部も出るだろうかくらいに思った。否、我が国の物理学界の第一の権威者は、まあ多くて五十部くらいだろうと言ったくらいだったが、それが二千三百という売行きがあって驚かされたのであった。この全集をやるときは、種々の点においてたいへん困難したものだったが、その全集の大部分は、あの大震火災のために、焼失されてしまったことを思うと、いささか淋しくなるのである。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　彼は、日本料理はあまり好きではないらしかった。欧米人の誰だって、そう好きだという人もいないだろうが、しかし、私の家で天ぷらや、肉のすき焼きのとき「うまい」と言って、むさぽり食ってくれたことは間違いのないことであった。これにはいくらかのお世辞がこもっているように察せられたが、しかしえびの天ぷらをいくらでもかえてくったことなどから見て、必ずしもそうばかりではなかったらしい。また、帝国ホテルでよく伊勢えびを好んで食った。夫婦ともこれはドイツでは一尾幾百マルクもするのだとかいって、とても喜んで食ってくれたものだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　それから、日本人の衛生思想の幼稚なことは、すくなからず、彼をして驚かしめた。すなわち、あの風呂場に、五十人も、百人もはいることの危険、そして垢がういていたり、徽菌がたくさんすてられているであろうなかで、からだを洗うなどいうことはあり得ないことであり、そして、あのWCに十日も二十日も汚物が積まれていることなどは、文明国にあり得ぬことであると笑っておった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　お風呂の話がでたついでに、仙台に講演にいったときの、しくじりの一つもあげておきたい。それは仙台のホテルで、、お風呂場が俄かづくりであったため、更衣場もなく、ゆかたをかける釘もなかったので、彼は流し場に脱衣するのやむたきに至ったのであった。そのため、ゆかたはずぶぬれになった。その水のポタポタ滴るのをきて階段を昇って行くさまを見て、私はしまったと思ったことがあった。彼は、そんなときは、にこにこ笑って、決して不快の色をせぬのである。そして磁石のように引きつける目で挨拶をするたど、寛容と、人柄とを示してくれる。こうしたとき、私のような短気な性質のものにいい何かを与えてくれるのであった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　また、同じ仙台での話だが、大学の歓迎茶話会席上で、五十数人の教授たちに、いちいち握手や、挨拶を交わしたときなどは、うんとくたびれたらしかった。ところが、そのうえ、歓迎文の朗読、万歳などがあって、彼はすっかり、神格化されてしまった。しかし、仙台は、彼にとって思い出の深いものがあった。それは世界的の植物学者モーリッシュと久かたぶりに相見ることができたからであった。モーリッシュがまだドイツにあったとき、彼は年若き教授であった。そしてこの年若き教授から物理を教わったのであったが、今ではモーリッシュも、植物学の世界的な存在として、東北帝大からはびっくりするほど高い俸給で招かれて教鞭をとる身となったのであった。だから、両氏の会見は劇的なもので、どちらも、感慨ぶかそうに見えた。そのとき、両氏はなかよく大学会議室のあたらしき壁におのおのの姓名を毛筆で自署したことをも思い出さるるのである。そのとき両氏を祝福する万雷のごとき拍手が、いま、かすかに蘇えってくる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　いったい、彼ほど、至るところで歓迎された人はあるまい。行った先きざきで、小学校生の堵列するものや、大学生の隊伍をくんで堂々出迎えるなど、全く凱旋将軍の趣があった。ことに、東京駅についた光景の如き、三十分も四十分も駅頭に立往生して、息のつまるのを感じた。そして数万の群集から嵐のごとき万歳をなげかけられたとき、そのときも、彼はにこにこして、すこしも興奮の色もなく、ただ、息が苦しい!　と幾度も、いく度も軽い叫びをあげたのであった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　私は、このごろ、アインシュタインが、できるなら、アメリカに国籍を移すようなことがないように祈っている。別に、たいした理由はたい。ただ、我が国とアメリカとが、いつも、せり合いをする。このうえ、どうにかなるようたことがあったならば、いままでレしおりの交遊をつつけて行くことができないから、そうした私情からであるのであるがーー。しかし、我が国と、アメリカとが不幸、争うようなことがあったとしても、彼は戦争反対の声を挙ぐるであろうか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　彼は、南ドイツのドナウ河のゆるく洗うウルム市に生まれたのであったが、少年時代は血のめぐりのおそい、無口な質だった。だから、別に取りたてて話すほどの逸話もない。それでも、彼が六つのとき、楽天家の彼の父にたいして磁石がいつでも南と北とを指して動くのはどういうわけだ?　と、きいたことのみが、深い印象に残るぐらいであったらしい。これだけでよいのだ、この一点のみが、偉人としての素質を遣憾なく持ちつづけさして加ったのだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　しかし、彼の親たちにも、周囲のものどもにも、彼の遅鈍な行動のみが、はっきり映認されるのみであった。彼の友達が「律義《ビ　デル》な農夫《マイエル》」の紳名で彼を呼んだということから考えて見れば、鋭敏でなかったことだけは確実だ。それに、一面にはジュー、ジューの罵声でおどかしつけられていたので、遅鈍な彼は、ますます固くなり、自分の環境にたいして怨みの多い、いやな日を送ったことは、どの伝記記者も一致する書きかたをしている。さすが呑気ものの彼の父も、彼の前途と、彼が周囲から悪罵さるることによって、たいヘんな苦悩をしたらしい。六歳のとき、彼は父に伴われてュンヘンに移りすんだ。このとき、彼は誕生の地と離るるを、泣き悲しまずして喜んだということに徴して、いかにウルムの悪童どもから、いためつけられたかがはっきりするのである。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　されど、ミユンヘンの小学でも成績は思わしくなかった。いつでも、中位より上がれない悲しさだった。当時、ドイツの教育方法は、すベてが、軍隊式のつめ込み主義で、器械的に暗諦する科目が多かったので、そうした科目に不得手な彼としては、中ぶらの成績も無理もないことだった。しかし、このときから、数学と、音楽だけは抜群で、ことに数学のうちでも、計算する方面でなく、思索することだけは誰でも及ばなかったとある。いつか、彼は伯父のヤコブに珍しく「代数とはどんなものか」と質問の矢を放った。ヤコブは工業技師をしていて、そうした方面には造詣があったのだが、「代数という奴は、あれは無精ものの、ずるい計算術である、知らない答えをXと名をつけて、それを知ったかぶりに、知っているものとの関係式を書く、そこからこのXを決定することができるのだ」と、噛んではきだすように笑って答えてやったら、彼は、とても大喜びで、きいたそうだ。ところが、彼は学校で循環小数をやるじぶんに到達したら、俄然として頭角を現わしだし、もう微分学のすベてをわかるようになってしまったのであった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　一千八百九十四年、イタリアのミランに移住した。まだ中等学校を卒業しないときではあったが、このときもう大学にはいるだけの実力は十分にあったそうだ。十六歳のとき、スイスのチューリッヒに移ったのであったが、この前後、すなわち、十六歳のときは「運動体の光学」について研究をすすめていたといわるるから、たいへんな進歩で、ここらあたりから、一大天才の風貌が徐々に展開されてきたのであった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　この大天才の大業を完成するには、彼が少年時代からいじめられたことが、たいヘんよかった。誰とも馬鹿げた交際をせずに、孤独と剛情とを守ってゆくことが、どれだけよかったか。しかし、彼の家庭はなかなか裕福ではない。どうしても、自分で戦って行って、両親を養わなければならぬ事情にある。そこで彼は、チューリッヒの教員養成所にはいった。十七歳から二十一歳までここで勉強したのであったが、卒業してもなかなか口がなかった。それは、人種と国籍とが禍をなしたのであった。彼は、やむな/、家庭教授などをして、ささやかなくらしを立てておった。このとき物理の研究に南ロシアからきておった一女学生と結婚したが、あまりうまく行かないで、三、四年で離婚し、いまのエルゼと結婚したのであった。エルゼは彼の従妹にあたる女であった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　一千九百二年に、彼と一生涯の友だちになった、数学の大家グロスマンの斡旋で、やっとのこと、チューリッヒ特許局の技師となることができた。ここから、いよいよ彼は本腰の物理学研究をなすことができたのであった。しかしながら、彼は、どうしても大学の助教授となって、物理学の研究をしたい、そういう希望が満ちあふれていたのであった。それに、そのときは、一つの研究の方向を決定していたので、一層大学へ移りたい気持にもえていたのであった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　彼は、千九百五年に、「運動せる物体の電気力学」の題下に堂々たる一つの研究論文を発表した。この論文こそ実にニュートン引力を葬り、ガリレオを埋没せんとするの創造に富めるものだったので、ドイツではプランクの樗きは一方ならぬものであった。そしてわざわざ懇篤の書面を送って彼の成功を祝福したのであった。ああ、これまでであった、これまで漕ぎつけるまでの苦しさであった。これがためドイツでも、スイスでも、どちらからも大学助教授の地位を以て迎えにきたのであった。学問の力は、人種問題をも、国籍問題をも超越し、克服するに至った。彼のそのときの喜びは、たいしたものであったろう。彼は三十一歳でチューリッヒ大学助教授に就職したのであった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　これからはトントン拍子で千九百十一年プラーグ大学の正教授になり、その型年またチューリッヒのポリテキニクムの正教授となり、千九百十四年再びベルリンにかえって相対性原理を完成したわけだった。彼の名声が世界的となり、もう、どの学者の地位より偉大となるにつれて、彼にたいする排斥はますます強大となり、さては団体をつくり、排斥同盟までできるに至った。だが、そうした排斥熱が加わるとともに、学者を中心とする擁護党も生まれてきた。彼の科学的貢献の偉大であり、超人的であることを知った学者たちは、彼をいかにかしてドイツに留まらしめんとし、連名で、彼を攻撃するの不当なるを署名して新聞に出したくらいであった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　相対性原理の完成は、彼をして国際人たらしめた。英、米その他よりの招請はもちろんのこと、ドイツと相戦ったフランスでさえ、国家の賓客にも均しき待遇を以て彼をパリに迎えたことでも、彼の声名は、もはや、動かしがたいものになってしまったのであった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　彼が、日本におったじぶん、つくづく彼の生活にたいする態度の真剣なところを見せつけられた私は、あれでなくてはだめだ、あれでなくては第一義的の仕事はできないであろうことを思った。それは、彼があくまでも、あたまと心とを過度に苦しめないことだった。根のつづくかぎり、精力のあらんかぎり、馬車馬的に駆けずりまわって、疲れたあげくには、一杯ひっかけて倒れるがように床の中にもぐりこむのが、われわれの毎日毎日のくらし方、生きかたであるが、彼は毎日、余裕をのこし、余地をのこし、元気をのこし、そのうえ、晩方からは、音楽とか、芸術の話とかに余念なく、その日でくるしめた頭と心とは、その夕でいたわって、朝がたの元気のように、白紙の状態にまで取り返しておくのである。私どもは、たいてい臥床に苦しみと、もだえと、疲れと、憂えと、悩みとを持ってはいるが、彼は、臥床に疲れや、苦しみを持ってはいらない。ゆったりした、のびやかさでベットに横たわるのであった。この点が、私の彼に学んだ最も大きな土産であった。興奮をもっで、眠ってはいけない。悲しみをもって眠ってはいけない、失望や、煩悶や、落ちつきをもたず、おどおどして床についてはいけない。ことに、それは、大望、大業を念とするものは、とりわけ、ここのところに静かた思いを潜むべきである。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　彼は愛煙家である。彼のゆくところ、マドロス・パイプの伴わざるはないが、しかし、彼の監督者は一日いくらと分量を決定してくれる。この監督者のいいつけは、とても厳格で、彼はいつも弱らされる。だが、ときたまには、その目をぬすんで、プカプカ、のどかにくゆらしているのを見る。そこに監督者が突如、姿を現わそうものなら、それこそ大変である。こうしたことは、コーヒーの場合も同じことで、夜ぶんなどは、ぜったいにのませない。その監督者のエルゼであることは、もちろんである。彼は、相対性原理の後に来たるもののために、それほど自分の頭脳をいたわっている。そして、自分の一代において成さるるであろう大業に向かって、いつまでも年の若さ、頭脳の若さ、鋭さ、健やかさを保持せんと努力しているのである。一つの大きな事を成し遂げて、それに満足せず、一歩は一歩と科学の殿堂を究めんとするには、何が大事だといえば頭脳の健全が第一でなくてはならない。この点において彼の周到無比の注意ぶりに、ただ、驚くのほかはない。彼が詩を愛し、音楽を愛するのが、生を愉悦せんがためのみにあらずして、実に科学を完成せんがため、人格を潭成せんがために、なさるるであろうことを思わしめるのである。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　彼は日本の至るところで、心からなる歓迎を受けた。わが武の国に加いて武将の歓迎さるるものとは、いささかことなるもののあるのを感じた。彼には母国がない、母国がないだけにこのことが骨身にしみてうれしかったらしい。彼は日本には住んてもよいーと考えるに至った。そういうささやきをもらしておった。彼が、日本行をほぽ決したのは大正十年の九月下旬であった。十月二日には正式に日本に赴くことを我が社の特派員室伏君に明言したのであった。その当時、各国からの招聴がたいヘんに多かったが、彼にどうしても日本を訪問したい心願の切なるものがあったので、東京行きが決定したわげだった。当時、駐独日本代理大使松原一雄君が、このことに介在して努力して下さったことは、ここに改めて感謝の意を表して置く次第である。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　いつでも、新聞にユダヤ王国建設のニュースが出るごとに、彼の名前をきかないことはない。彼はそれほど、ユダヤ国建設に熱意があるのであろうか。また、事実そうした計画があるのであろうか。私のきくところ、見るところでは、彼はこうした計画の中心であったことは一度もなく、また、新しい国家というものにたいして、彼にどれほどの期待と希望と&quot;かあるであろうか。ことに、実在せるユダヤ国建設の運動には、かなり大きな不満、むしろ根木的の不満をもっているのではなかろうかと、思われるふしがある。もちろん、その運動の動機にたいして反対であろうはずはなく、心中では、できるなら、そのことが可能性を帯びてきたならば、と軽く思っているのではないかと思われるところもあるが、自分が中心となるとあれば、あれほどの宇宙観、世界観に生きている人であるから、何か、そこに異なったものがあることを思わせる。だから、過去において彼のユダヤに関する一、二の議論を以て、ただちに、それで付度はできがたいものと私は思っている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　彼は、国からくる圧迫、人種からくる大きな圧迫、それにたいして、どういうように見ており、感じておるか。たいていの人びとはそうしたものが二つも、三つも重なって圧迫すれば、その面貌のごときもトロツキーなどの顔のごとく戦闘的になってくるか、憎悪を象徴するような顔つきになるものだが、彼は、自分の心の渕で悠々と生活しているがゆえに、正面から押しよせてくる荒波にも、暴風雨にも、ものともしない。まことに深い心池のごとくである。あんなに、圧迫されて、始終、童顔童心で通せるところに、天資と修練の二つが魏々として從耳え立って、凡俗に同じからざるを示している。彼は、そのような重圧のもとにあるが、表面に反抗的色彩を見せたことは、たえてないといわれている。いな、それどころでなく、弱き人びとにたいして思いやりが、とても深いものがあるそうだ。これはごく卑近な例であるが、彼が日本にきてからも、電車に乗っては、どんなに疲れていても、彼は席を婦女子にゆずった。そして人間虐待で見るにしのびないと言って、人力車には、かたく乗らなかった。彼は、我慾を極端に節制していた。そして相互の人類愛によって、なにごとでもうまくやって行けると信じていた。だが、決して安価な人道主義者ではなかった。彼は、強烈な刺激は嫌いであった。しかし、内心には正義に殉ずる心が、はちきれそうに強かった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　彼の平和にあこがるるの声、それはカントのごとく、組織的、哲学的のつめたいものではなかった。彼は純理論に立って恒久平和を提唱するものとばかり見ることができない。そこに彼の境遇からきた実際的、実現可能的と見らるる功利的の部分が含蓄されているのを否むことはできない。彼が昭和九年四月号『改造』にかいた論文のなかに、彼が平和主義者として把持する綱要は見られるのであるが、それで見ても、恒久平和の形式、道程にくさくさしているのでなく、また、軍備撤廃によりて、永久平和ヘの道がすぐに招来さるるものとも断じていない。しかし、彼が近時、抱懐する平和思想を窺うことのできる重要な論文ではある。今の場合、彼の立場は一国にとらわるるところがないから、こうした議論をするにはもってこいの地位にある。私どもは、空想的な平和主義ばかりにはあきあきしたから、この点についても彼の努力が、そうとうに期待さるべきだと思っている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　私は、これから先きも、彼の科学的完成に期待をもつものだ。彼の相対性原理が永劫不変であり、絶対であることを望んでやまないものだ。彼が、プランクによりて認識されたじぶんは、まだ年齢三十そこそこで壮年の域に達したばかりのときであった。当時は、数学の大家であったパンルヴェー、ルルーらが敢然として相対性原理に反対したものだそうだが、今はそうした反対の声もなく、彼の宇宙観、世界観は絶対の真の姿のごとく、当年のニュートン、ガリレオが神様と見られたと同様、もしくは以上の栄光に耀いているのである。いまの私にとりては三次元のユークリッド幾何学も、非ユークリッド幾何学も、縁なき衆生である。時間と空間の問題でも、量子論のそれにしても、猫に小判と同様だ。それよりは、彼が門外漢と称する音楽や、絵画の話などが、私どもにとりては、どれだけ、したしみ深いものであったかわからない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　モスコウスキーによれば、彼は音楽の鑑賞において、ヴァイオリニストとして玄人の域に達している。絵画の方面ではさほどでもないそうだが、ある我が画壇人や、鑑賞家の言うところによれば、この方面にも優に一家の見があったらしい。現に、彼は当時ドイツ帝展派の首脳とも見るべきリーベルマンとは別懇の間柄であった。そのため、我が国に来朝したときも、リ氏へ土産へのためとて、幾枚かを我が画壇人にかかせたことは事実だ。そんなことは、彼の絵画鑑賞家としての地位を語るなにものでもないが、彼が光琳や、雪舟、応挙、光信、等々の絵画を一瞥したときの評語、態度からして、駆けだしの素人ではたいと、いく度も思わせたのであった。彼はインドや中国をよく視察して来なかったが、我が仏教諸芸術にも、そうとうの関心を持ったようであったので、できるなら、中国やインドを見てきてもらいたかった。それでないと、ほんとうの鑑賞はてきまいと思うからー1。別に、日本の仏教芸術にケチをつける意味ではなくして。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　それから、彼が日木にきて、ときおり、私たちにきかしてくれたのは、ベートーヴェンのソナタとバッハのシャコンヌとであった。ヴァイオリンには自信もあり、それに夫人エルゼもすきであったので、この点は大びらでやってもらった。彼は本来瞑想的な人で、宗教的気分もそうとうあるように見受けられたが、それよりは音楽なしには生きて行けぬ人、そうした横顔をいくども見せつけられた。彼がヴァイオリンをかなでるときの、あの満足そ5な相貌、あの輝きのある目、それだけでも歓喜の殿堂という感じをさせるのであった。彼のヴァイオリンをきいた人は我が国でも数百人はあったと思うが、これには玄人も素人もひとしく感心しておった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　わけて、それが我ら三、四人しかいない小人数のときに弾いてもらうときの感激は、妙にしめっぽくなった。そんなとき、私は、よく彼が少年時代をくらしたミュンヘンの、あの静かな自然、牧羊、森影、そうしたものを思い浮かべた。パレスタインの廃櫨のあとのベンベン草をも頭に描いてみたりした。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　それから文芸にたいしては、とりたてて、どうというようなことはなかったように思うが、それでも、　シェークスピアものや、『ドンキホーテ物語』、『カラマーゾフ兄弟』などはすきらしかった。ところが、一つの宇宙観、世界観があまりはっきりしていると馬鹿らしくてよむ気になれないじゃないかーと、そう思わした。なんでも軽い気持で読んでいるのじゃないかとも思われた。だが、詩集には愛着があるらしかった。こんなことで、もっとゆっくり話しておけばよかったにと、今になって思うしだいである。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　彼にたいする思い出はいくらでもある。書けば、書くほど、それからそれヘと、いろいろの感想の展開を示すのであるが、もう、このヘんでペンを欄くことにしたい。日本では四十二日間の滞在ではあったが、知識階級の人びとは幾千人とも接触した。そして、我が大学の大半を一瞥した。諸教授とも懇話を交わした。こうした方面には非常にしたしみ多い存在となった。そのほか、観菊会も、三、四の芝居見物も、お能も、日本料理も、雅楽も、琴や三味線、尺八も、日光、厳島、奈良、松島の風景も、宮殿やお寺も、お茶の会にも、仏画瞥見にも、それぞれ、ひと通りをすましたわけであった。この点において、我が国に一年、二年の滞在客とひとしいほどの、努力の跡づけがあったと見てよい。ふりかえって自分のささげた誠意が全身的のものであったことに、今でも満足できるのである。また、当時、いろいろの方面に亙って、援助していただいた方々にたいして本、ここにあつい感謝のまごころをささぐるものである。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt; &lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　その当時、どういう気持で、アインシュタイン教授を招聰したか、それを語らしてもらおう。はじめ、ラッセル教授が、我が社の招きで来朝したとき、ふと、私が世界第一の偉人は誰と思う?　と質問したとき、ラ氏は言下に、アインシュタインと答えた。私は、そのとき、それでは相対性原理の論文を一般大衆に了解できるようにかいてほしいとねだった。ラ氏は唯々として承諾したのだった。それから直ぐ、私は西田幾多郎教授を京都に訪ねたとき、相対性原理が、ニュートン引力論の根本をくつがえし、ユークリッド幾何学を不用にした画時代的の業績であるを具さにきいた。それから西田さんは、石原さんに逢ってきいた方が、一層よくわかると言われたので、さらに、仙台に向かって石原さんに逢い、それから、社議をまとめて、室伏君に交渉のためベルリンヘ行ってもらったわけであった。当時の気持、それは一個の大偉人を憧憬する心、我が国の文化に全力をささげたい気持ーそれにほかならなかったのだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;
　私は、だんだん、彼に接触して行くうちに個人的にとても好感のもてる人だと思った。もちろん、思想上の立場において、私は彼と全然一致するものではないが、彼の墳遇からくるいくたの圧迫には、そうとうに私の心を動かすものがあった。それはゾラや、スコットのユダヤ人にたいしていだいた感情や、人道的憤りやとある点においては一致するものもあるが、私は日本においての彼とのつながりにおいて、彼の物理学的貢献、文明ヘの貢献にたいする盲目的の一個のファソーそうした微力なものにすぎないのである。私は、文明のため第一義的の前衛に立つの戦士の資格はないかも知れない。だから、せめて彼の何かのたしにでもと思って、ああした招聰という形をとるに至ったものであった。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　(昭和九年六月二十四日)&lt;/div&gt;
&lt;div&gt; &lt;/div&gt;
    </description>
    <dc:date>2012-02-23T11:14:12+09:00</dc:date>
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    <item rdf:about="http://www6.atwiki.jp/amizako/pages/8.html">
    <title>森鴎外「大発見」</title>
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    <description>
      
&lt;p&gt;僕も自然研究者の端榑《はしくれ》として、顕微鏡や試験管をいぢつて、何物をか発見しようとしてゐた事があつた。&lt;br /&gt;
併し運命は僕を業室《げふしつ》から引きずり出して、所謂《いはゆる》事務といふものを扱ふ人間にしてしまつた。二三の破格を除く外は、大学出のものに事務の出来るものはないといふ話である。出来ない事をするのも勤なれば是非が無い。そこで発見とか発明とかいふことには頗《すこぶ》る縁遠い身の上となつた。&lt;br /&gt;
考へて見れば、発見とか発明とかいふ詞《ことば》を今のやうに用ゐるのは、翻訳から出てゐるのだが、甚だ曖昧《あいまい》ではないかと思ふ。亜米利加《アメリカ》を発見したとか、ラヂウムを発見したとかいふのは、あれはdiscoverである。クリストバン・コロンが出て来なくても、亜米利加の大陸は元から横《よこた》はつてゐたのだ。キユリイ夫婦が骨を折らなくても、ラヂウムは昔から地の底にあつて、熱を起したり、電気を起したりしてゐたのだ。今まで有りながら、目に見えなかつたものを見えるやうにする。衣被《きぬかづき》を取つてお顔を拝ませる。これも発見発明である。&lt;br /&gt;
竹の台に発明品博覧会があるなどゝいふのは、あれは又意味が違ふ。あれは何か今まで無かつたことを工夫したものを陳列して見せるのだ。さういふ新工夫をするのをも、発明するといひならはしてゐる。意匠をするのである。創意をするのである。inventするのである。これも発見発明といはれてゐる。&lt;br /&gt;
そこで洋語の未熟なものは、飛んだ間違つた話をして、西洋人に笑はれたり何かする。僕なんぞもさういふ目に逢つたことがある。発見といふ話をしようと思つて、一寸《ちよつと》思ひ出したから、御丁寧なわけではあるが、最初にことわつて置く。&lt;br /&gt;
僕は生れつき鈍い方であつて、新工夫なんぞをする機智には甚だ乏しい。又宇宙の秘密をあばくといふ側もさつき言つたとほり、最初に職業として、諸先生の下風に立つて、少し遣《や》つて見たこともあるが、いつか運命が顕微鏡から僕の目を離させ、試験管を僕の手からもぎ取つてしまつた。旅行は僕はめつたにしない。北海道は箱館《はこだて》より先を知らない。九州は熊本より先を知らない。満洲や台湾は戦争をする兵隊に附いて歩くので、職務の為めに行かねばならない処まで行つたに過ぎない。欧羅巴《ヨオロッパ》は学問修行を申附けられて、独逸《ドイツ》へ行つて、帰りに倫敦《ロンドン》と巴里《パリ》とを見たばかりだ。近頃評判のスヱン・ヘヂンやシヤツクルトンのやうに土地を発見することも出来ない。&lt;br /&gt;
但し学者仲間に発見といふことが今一つある。これは俗に掘り出すといふのに当る。勿論これもdiscoverなのである。坪井正五郎君なぞは、十字|鍬《ぐは》や円匙《ゑんび》を使つて、正確な意義に於いて掘り出してをられる。僕の弟にも一人土器を掘り出して歩くのがある。隠居が骨董《こつとう》店を覗《のぞ》いてまはるのを、言語の転用で、掘り出すと云つて、それからこの掘り出すといふ詞の意味が広くなつた。こ丶に古文書の掘出しといふのがある。僕の友人にもさういふ発見を遣つてゐる人が沢山ある。職業として遣る人は格別として、これは随分時間を要する為事《しごと》であつて、僕が端《はた》から見ると、釣《つり》をする人に似てゐるやうな心持がする。一体掘出しはのん気な為事に相違ないのだが、これも功名心が伴つて来ると、危険がないでもない。其辺《そのへん》は仏蘭西《フランス》のアルフオンス・ドオデエといふ先生が不死者といふ本に十分書いてゐるから、僕は復《ま》た贅《ぜい》せずとして引き下る。この発見の方にも、僕は先づ縁が遠いやうだ。&lt;br /&gt;
然《しか》るに僕は此頃《このごろ》期せずして大発見をした。今そのお話をしようと思ふ。&lt;br /&gt;
かう吹聴したら、諸君は頭から僕を法螺吹《ほらふき》とせられることであらう。それも御尤《ごもつとも》である。大発見。ちと大袈裟《おほげさ》かな。併《しか》し大小なんぞといふのは比較の詞《ことば》である。お山の大将も大将である。僕なんぞも文学の大家ださうだ。啻《たゞ》に比較の詞であるのみでない。大小は又主観的に物を形容することに使つても差支《さしつかへ》ないのである。子供に餡餅《あんもち》を遣らうと云へば、大きいのをと云ふ。大きいと云つたつて知れたものである。僕は主観的に僕の為《し》た発見を大なりとするに過ぎないといふことを、前以てことわつて置く。主観は私で、客観が公だなどと云ふ。それはさうに相違ない。併し公平だ、客観的だといふ触込《ふれこみ》で書く批評なんぞといふものも、何だか余り正直には受取りにくいやうだ。僕が僕の発見を大なりとするは固《もと》より私であるから、左様御承知を願ひたい。&lt;br /&gt;
僕が洋行した時の事である。僕は椋鳥《むくどり》として輪出せられて、伯林《ペルリン》の真中に放された。先から来てゐる友達が、何でも最初に公使に伺候《しこう》せねばならないと云ふから、ドロシユケといふ辻馬車、しかも青硝子《あをガラス》の嵌《は》まつてゐる、がたぴしするやつに乗つて出掛けた。&lt;br /&gt;
公使館はフオス町七番地にあつた。帝国日本の公使館といふのだから、少くも一本立《だち》の家で、塀《へい》もあるだらう、門もあるだらうなどと想像してゐたところが往つて見ると大違である。スウテレンには靴屋の看板が掛かつてゐる。その上がパルテルである。戸口に個人の表札が打ち附けてある。今一つ階段を上る。そこが公使館であつた。這入《はい》つて見れば狭くはない。却《かへ》つて広過ぎて、がらんとしてゐるといふやうな感じのする住ひであつた。&lt;br /&gt;
若い外交官なのだらう。モオニングを着た男が応接する。椋鳥は見慣れてゐるのではあらうが、なんにしろ舞踏の稽古《けいこ》をした人間とばかり交際してゐて、国から出たばかりの人間を見ると、お辞儀のしやうからして変だから、好い心持はしないに違ない。なんだか穢《きたな》い物を扱ふやうに扱ふのが、こつちにも知れる。名刺を受け取つて奥の方へ往つて、暫くして出て来た。&lt;br /&gt;
「公使がお逢になりますから、こちらへ。」&lt;br /&gt;
僕は附いて行つた。モオニングの男が或る部屋の戸をこつ／＼と叩く。&lt;br /&gt;
「ヘライン。」&lt;br /&gt;
恐ろしいバスの声が戸の内から響く。モオニングの男は戸の握りに手を掛けて開く。一歩下《さが》つて、僕に手真似《てきね》で這入れと相図《あひづ》をする。僕が這入ると、跡から戸を締めて、自分は詰所に帰つた。&lt;br /&gt;
大きな室である。様式はルネツサンスである。僕は大きな為事机の前に立つて、当時の公使Ｓ．Ａ．閣下ど向き合つた。公使は肘《ひぢ》を持たせるやうに出来てゐる大きな椅子《いす》に、ゆつたりと掛けてゐる。日本人にしては、かなり大男である。色の真黒な長顔の額が、深く左右に抜け上がつてゐる。胡麻塩《ごましほ》の類髫《ほおひげ》が一握程《ひとにぎりほど》垂れてゐる。独逸婦人を奥さんにしてをられるとかふことだから、所謂《いはゆる》ハイカラアの人だらうと思つたところが、大当違《おほあてちがひ》で、頗《すこぶ》る蛮風のある先生である。突然この大きな机の前の大きな人物の前に出て、椋鳥の心の臓は、歛《をさ》めたる翼の下で鼓勘の速度を加へたのである。&lt;br /&gt;
「旧藩主の伯爵が、閣下にお目に掛つたら、宜《よろ》しく申上げるやうにと、申す事でござりました。」&lt;br /&gt;
「うむ。伯爵も近い内に来られるといふではないか。」&lt;br /&gt;
「さやうでござります。何《いづ》れお世話にならなければならんと申されました。」&lt;br /&gt;
「君は何をしに来た。」&lt;br /&gt;
「衛生学を修めて来いといふことでござります。」&lt;br /&gt;
「なに衛生学だ。馬鹿な事をいひ付けたものだ。足の親指と二番目の指との間に縄《なは》を挾《はさ》んで歩いてゐて、人の前で鼻糞《はなくそ》をほじる国民に衛生も何もあるものか。まあ、学問は大概にして、ちつと欧羅巴人がどんな生活をしてゐるか、見て行くが宜しい。」&lt;br /&gt;
「はい。」&lt;br /&gt;
僕は一汗かいて引き下つた。希臘《ギリシア》人や羅馬《ロオマ》人の画にかいたのを見ると、紐《ひも》で足に括《くゝ》り附けたサンダルといふのを穿《は》いてゐるが、なる程現今の欧羅巴に、足の親指と二番目の指との間に、縄を挾んで歩いてゐるものは無いに違ひない。但し、鼻糞をほじつてはならないといふことは、僕はこれまで考へても見なかつた。人の話に、どこかの令嬢が見あひに行つて、鼻糞をほじつて、破談になつたといふことは聞いたが、それも令嬢で、場所が場所だから不都合であつたのだ位にしか思はなかつた。まあ、公使の前でほじらないで好かつたと思つたのである。&lt;br /&gt;
それから僕に独逸に三年ゐた。学生に交際する。大相《たいさう》親切らしいと思つては、金を貸せと云はれてびつくりする。バンジオンの食堂に食事をしに出る。一同にお辞儀をすると、ずらつと並んで腰を掛けてゐる男女のお客が一度に吹き出す。聞けば立つて礼をする法は、此国では中学時代に舞踏の稽古をするとき、をすはるのである。それだから僕のやうな無調法《ぶてうはう》なお辞儀は見た事がないのだ。跡《あと》で人の好いお嬢さんが、責めて両手に力を入れないで、自然の重りでぶらつと下がつてゐるやうにして、体を真直にして首をお瞰めなさいと教へてくれた。大学の業室に出て、ベツヘルグラスの中へ硝子棒の短いのを取り落す。これはしまつたと、長い硝子棒を二本、箸《はし》にして、液体の底に横《よこた》はつてゐる短い棒を挾《はさ》んで、旨く引き上げる。さうすると、通り掛かつた教授が立ち留まつて見てびつくりして、どうしてそんな軽技《かるわざ》が出来るのだと問ふ。飯を食ふとき汁の実をはさむのと同じ事だから、軽技でも何でもないと答へると、教授が面白がつて、業室中にゐる学生を呼び集めて、今の軽技をもう一遍|遣《や》つて、みんなに見せて遣れと云ひ付ける。為方《しかた》がないから、器《うつは》の儀は改めまして御覧に入れますとも何とも云はずに、同じ事を遣つて見せる。師弟一同野蛮人といふものは妙なものだと面白がる。僕は腹の中で、なる程箸なんぞも例の下駄《げた》や草履《ざうり》の端緒《はなを》と同じわけだなと思ふ。併し負けじ魂は底の方にあるから、何だ欧羅巴の奴等《やつら》は日本人の台所でする事をお座敷でするから、ナイフやフオオクが入るのだ、マリア・スチユアアト時代にはそのナイフやフオオクもまだ行はれないで、指で撮《つ》まんで食つたといふではないかなどと、腹ではけなしてゐるのである。&lt;br /&gt;
僕は三年が間に、独逸のあらゆる階級の人に交つた。詰まらない官名を持つてゐたお蔭で、王宮のアツサンブレエやソアレエにも出て見た。労働者の集まる社会党の政談演説会にも往つて見た。但し次の分は内証である。あの時は翌日新聞に書かれて、ひどく恐縮したつけ。&lt;br /&gt;
併し此三年の間鼻糞をほじるものには一度も出逢はなかつた。独逸から帰りがけには倫敦に立ち寄つて、颶鼠《もぐらもち》のやうに地の底を潜《もぐ》つて歩く地下鉄道の車にも乗つたが、鼻糞をほじるものには逢はない。巴里にも立ち寄つて、天を摩するエツフエル塔の上にも登つたが、鼻糞をほじるものには逢はない。&lt;br /&gt;
果せるかな、欧羅巴人は鼻糞をばほじらないのである。&lt;br /&gt;
一体鼻糞をほじるといふことは、我党の士の平気で遣る事ではあるが智余り好い風習ではないやうだ。併し欧羅巴人がしないから、我々もしてはならないと云はれると、例の負けじ魂がむくむくと頭を持ち上げて来て、僕にこんな議論を立てさせる。&lt;br /&gt;
そも／＼鼻糞は白皙《はくせき》人種なると黄色人種なるとを問はず、必然鼻の穴の中に形成せらるべきものである。然るに日本人がそれをほじつて、欧羅巴人がそれをほじらないのは何故《なぜ》であるか。&lt;br /&gt;
汗を流す為めに日本人は毎日湯に入る。欧羅巴人はシヤツに吸ひ込ませて、度々シヤツを着更へて、湯に入らずに済ます。ペツテンコオフエルは吾人の襦袢《じゅばん》は吾人に代つて浴すと書いてゐる。鼻糞もこれに似たわけで、欧羅巴人は鼻の中がむづ痒《かゆ》くなつても、ハンケチで鼻をかんで済ます。まだ痒くても、鼻をこすつて済ます。矢張彼等のハンケチは彼等に代つて鼻糞をほじるのである。ほじらないまでも揉《も》み潰《つぶ》すのである。&lt;br /&gt;
揉み潰すなんぞは姑息《こそく》の手段である。ほじるのラヂカルなるに如《し》かない。&lt;br /&gt;
まあ、こんな議論も立てたくなるのである。序《ついで》だから言ふが、ハンケチを用ゐるなんぞといふ風習は不潔|極《きは》まる風習である。度々鼻をかんでは、ポッケットの中にしまつて置く。ポッケットの中で、鼻涕《はなじる》の水分と共に揮発分が、肌の温《ぬく》みで蒸散して、羅紗《ラシヤ》を通して外へ出る。其《その》揮発分の一部は羅紗の質の中に残つて溜《た》まる。羅紗は、諸君も御承知の如く、洗濯が利《き》かない。たま／＼赤羽《あかばね》の何とかいふ店のやうに、羅紗を洗濯したり、丸染にしたりしてくれるといふので、すばらしい好男子と別品《べっぴん》さんとが、羅馬人の拵《こしら》へたヤヌスの神の像の様に、背中合せにくつ附いてゐる大看板を辻々に立てるから、僕のやうな貧乏人は、締めたと思つて、去年の暮にずぼんを二つ頼んだところが、何遍催促しても、ずぼんは取り放しで帰してはくれない。要するに羅紗は穴があいて着られなくなるまで、浄《きよ》めることの出来ないものである。ブラシ位でこすつたつて、地質に沁《し》み込んでしまつた汗の揮発分も、鼻涕の撞発分も、永遠に取れない。此処で一寸《ちよつと》活板屋に注意して置くが、しみると云ふ字はさんずゐに心といふ字を植ゑてくれ給へよ。三ずゐに必ずといふ字を植ゑるのではないよ。分泌の泌の字を植ゑるのではないよ。こなひだ昴《すばる》に沁みるといふ字の議論を書いて、誤植をせられて、何の事だか分からなくなつたから、念の為めことわつて置くよ。&lt;br /&gt;
話が横道に這入つたが、兎《と》に角《かく》ハンケチは不潔極まる物だ。それよりは鼻紙の方が迥《はるか》に清浄だ。使つたのは棄てるからね。此頃結核を予防する一手段として、ハンケチの代りに紙を使つて棄てるが好いと、発明らしく書いてゐる学者があるが、何もこれは結核の予防に限つた事ではない。暁《さと》ること既に晩《おそ》しと謂《い》ふべしだ。&lt;br /&gt;
議論は議論として置いて、僕はとう／＼西洋人の鼻糞をほじるのを目撃せずにしまつた。&lt;br /&gt;
なる程《ほど》目撃はせずにしまつた。併しまだ載籍《さいせき》に徴しては見ない。尤《もつと》もホメロスのエポスを見ても、ダンテのコメヂヤを見ても、鼻糞をほじる事はないやうだ。シエエクスビイヤにもない。コルネイユやラシイヌにもない。ギヨオテにもない。シルレルにもない。イプセンにもない。マアテルリンクにもない。かういふものに無い位であるから、正史には勿論無い。古来宮廷のイントリグや戦争の勝敗なんぞばかりを書くのが忙しくて、それも粗筋《あらすぢ》をやつと書いて行くのだから、&lt;br /&gt;
拿破崙《ナポレオン》がモスクワのクレムルで、鼻糞をほじくりながら思案に暮れたとも何とも書いてはない。&lt;br /&gt;
所詮《しょせん》白皙《はくせき》人種が鼻糞をほじつたといふことは、正確に証明することが出来ないらしい。僕は一時|殆《ほとん》ど絶望したのである。&lt;br /&gt;
兎角する程に年月が立つ。僕は役所へ往つたり来たりするうちに、髭に白い筋が殖えて、内職の文芸も耕さない荒地のやうになつた。&lt;br /&gt;
「彼は文壇を去つた」、「彼の時代は過ぎ去つた」と、一度書かれ二度書かれするうちに、いつか有れども無きが如く、生きてゐても死んでしまつたやうになつて、たま／＼く新聞なんぞを手に取つて見ると、何某の時代にはかうであつたといふ、昔話の中に自分の名が出て来る。それでどうかした拍子で何か書く。同じ月に人の書いたものは囈語《ねごと》のやうな物まで批評が出る。自分の物|丈《だげ》は選《よ》つて除《の》けたやうに批評が出ない。これが黙殺といふのださうな。かうなつてしまつても、体だけは生《なま／＼》々しく生きながらへてゐる。器械的に寝たり起きたり、電車の弔革《つりかは》にぶらさがつたりして、東京といふ人の海の渦巻の間に出没してゐる。そして西洋人が鼻糞をほじるといふことは、終に未だ発見しないのである。&lt;br /&gt;
基督《キリスト》暦一九〇八年と算する頃になつて、独逸から取り寄せて見てゐる新聞維誌の中に、グスタアフ・ヰイドといふ名が頻《しきり》に見えて来るやうになつた。それより前に独逸では、外国の詩人としてオスカア・ワイルドが流行《はや》つた。バアナアド・シヨオが流行つた。今度はヰイドが流行児《はやりこ》になつたらしい。　　　　　　　　　　　　　　．&lt;br /&gt;
ヰイドは|■馬《デンマルク》の人である。頗《すこぶ》る奇警な自伝を書いてゐるのが左の通である。&lt;br /&gt;
「おれは一八五八年三月六日に軽い産でひよつくり生れた。一八七二年に堅振《けんしん》を受けた。書肆《しょし》になつた。一八八○年に卒業試験に落第した。一八八一年に弁護士の事務所に雇はれた。一八八二年に二度目に落第した。一八八三年に家庭教師になつた。一八八四年にはブラアガアルドにある師範学校での一日の記念がある。一八八五年に大学々生になつた。一八八六年に哲学科の受驗生になつた。一八八七年に人の家を教へて歩く時間割の教師になつた。一八八七年に詩人になつた。一八九〇年の劇場で口笛を吹かれた。一八九一年に監獄にゐた。一八九六年に妻を持つた。子を拵へた。家を立てた。追つて一九二七年四月十二日には、家内ぢゆうのものどもに惜まれ哭《こく》せられて死ぬるであらう。」&lt;br /&gt;
ヰイドが書いたものの中で、最も名高いのは、昨年あたり盛に所々で興行せられてゐた２×２＝５《ににんがご》といふ脚本である。一の諷刺劇である。しかも主人公は自分らしい。主人公の教員が思ひ切つて進歩的な事を書く。免職になる。地方長官の御覚《おんおぼえ》のめでたい保守党の外舅《しうと》に女房を取り戻しに来られる。そこへ昔|馴染《なじみ》のじだらくな女が来てちやほやする。忽ち巡査が来て拘引して行く。監獄にゐる。その間に地方長官の更迭《かうてつ》がある。進歩党の長官が出来る。外勇《しうと》が進歩主義になつて、監獄へ面会に来て、どうぞ娘をもう一遍妻に持つてくれいと歎願する。監獄から出て見ると、内は大変な始末になつてゐる。例のじだらくな女が情夫を引つ張り込んで、婆あさんの女中を追ひ廻して、我家らしく暮してゐる。情夫は馬券の売買か何かをしてゐるといふ性《たち》の男である。此三人の会話が尤《もつとも》妙である。情夫の放浪的な恬然《てんぜん》たる言草《いひぐさ》も好い。女のずるい癖に非常に狼狽《らうばい》して、出来ない申しわけをするのも好い。&lt;br /&gt;
主人が戸口に突立《つった》つた儘《まゝ》、始終無言でゐて、とうく二人を手真似で追ひ出すなどは、尤《もつとも》振つてゐる。元の女房が戻つて来る。麺包《パン》にありつくには、昔の恩人たる某伯爵夫人のお情で、保守党新聞の主筆になるより外|致方《いたしがた》がない。何故《なぜ》、外舅《しうと》の保守主義は進歩主義になつたか。２×２＝５である。何故主人の進歩主義は保守主義になつたか。２×２＝５である。２×２＝５の意味はざつとこんなものである。&lt;br /&gt;
此脚本を始として、今日まで出板になつた作が十三種程ある。僕は先頃からそれを読んでゐる。読んで行くうちに、「手紙の往復」と題した短篇になつた。これは借家人の煙草屋が家主と手紙の往復をして、とう／＼家主をへこます話である。煙草屋アアペルは得意で此話をするのを、店の売卓《うりづくゑ》の前に坐つて、柔い帽子を阿弥陀《あみだ》に被《かぶ》つた船頭ハアルリヨフが聞いてゐる。聞きながら、此船頭は何をするか。嗚呼《あゝ》。此船頭は何をするか。&lt;br /&gt;
僕はヰイドをして自ら語らしめるであらう。&lt;br /&gt;
「彼はをり／＼何物をか鼻の中より取り出してゐる。さてその取り出した結果を試験する為めに、鼻の穴の中に一ぱい生《お》ひ茂つてゐる白い毛を戦《そよ》がせて、彼は空気を通過させて見てゐる。」&lt;br /&gt;
読者はクリストバン・コロンが望遠鏡の中に、白玉盤上一点の青螺《せいら》を認めた時の心持はどうであつたと思ふか。キユリイ夫婦が幾桶《いくをけ》かのヨアヒム谿谷の鉱屑《かなくづ》を製錬し尽して、一ちよぼのラヂウムを獲《え》た時の心持はどうであつたと思ふか。発見者になつて見なくては、発見者の心持は知れないであらう。&lt;br /&gt;
発見は力つくでは出来ない。一目の羅《あみ》は鳥を獲ず。鳥を獲る羅は唯《た》だ是《こ》れ一目である。&lt;br /&gt;
併し始から羅を張らなくては、鳥は獲られない。脚気の病原はなかなか攫《つか》まらなくても、脚気調査会といふ羅は張つて置かねばならない。&lt;br /&gt;
僕は昼飯の弁当に、食麺包《しよくパン》に砂糖を附けて齧《かじ》つてゐる。馬の外は電車にしか乗らないで、跡《あと》はてく／＼歩いて、月給の大部分を書物にして読んでゐる。そのお蔭で、是《かく》の如く欧羅巴人の鼻糞をほじるといふ大事実を、最も明快に、最も的確に、毫釐《がうり》の遺憾なく、発見し得たのである。&lt;br /&gt;
欧羅巴の白皙人種は鼻糞をほじる。此大発見は最早|何人《なにびと》と雖《いへど》、抹殺《まつさつ》することは出来ないであらう。&lt;br /&gt;
前《さき》の伯林駐剳《ベルリンちゆうさつ》大日本帝国特命全権公使子爵Ｓ．Ａ．閣下よ。僕は謹《つゝし》んで閣下に報告する。欧羅巴人も鼻糞をほじりますよ。&lt;br /&gt;
＊　　　　　　　　　　＊　　　　　　　　　　＊&lt;br /&gt;
これを書いた後に、LeonidAndrejewの「七人の戮《りく》せられたもの」といふ小説を読んで見ると、これにも主人を小刀で刺した百姓IwanJanssonが法廷で、節榑立《ふしくれだ》つた指で、鼻の穴を掘つてゐるといふことが書いてあつた。ろすけも矢張ほじくると見える。&lt;br /&gt;
（明治四十二年六月）&lt;/p&gt;
    </description>
    <dc:date>2011-12-11T11:05:37+09:00</dc:date>
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    <item rdf:about="http://www6.atwiki.jp/amizako/pages/30.html">
    <title>渡辺源三「書画贋作物語」</title>
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    <description>
      
&lt;p&gt;渡辺源三「書画贋作物語」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;
　書画の贋作は今に始まつた事ではなく古くから盛んに行はれて居る事敢てこゝに断るまでもない、その起りといふのも妙だが最初の贋作といふものは、今日の
如き売買を目的とした贋作ではなく崇敬して居る先人の筆の運びを研究の為めその儘臨模した、これは今日でも行はれ殊に洋画方面に於ては模写といつて盛んに
行はれて居る、日本画に於ける所謂扮本研究が夫れである、斯うして美しく臨模されたものを、模写物として壁間に掲げて賞玩して居たのを、何時か狡猾なる商
人連によつて売買目的の為めに製作される事となつたものである事いふまでもない、その結果、最初有り合せの紙や絹に描いて只その構図の妙や著彩の美、運筆
の建を賞するに留つて居たものが、終にはその作者の時代に合つたやうな紙や絹を用ゐたり、又はその時代の絵の具を使用したりして所謂迫真の味を深めたのを
利に敏なる商人連が発見、好餌逸すべからずとして茲に贋作偽作が一つの商品と化せられるに至つたのでその起りはヤハリ支那辺にあるらしい、扨て一口に偽作
といつてもいろ／＼ある、例へば画用紙中の俗にせいろつぴきと呼ぶのは二重層に漉かれてある紙で是を水に浸すと二枚に離れて了ふ夫れで此せいろつぴきに描
いたものを表具師などが奸手段で二枚に剥がし、剥がし取つたものを更に一つの作品として扱つたもの、即ち一枚の書画を二枚に剥がしたのでこれは偽作でも何
でもないが、併し作者としては全く関知しないものなのである。又光筆画的に真物を写真で原物と同寸法に撮影しこれを更に描き起したもの、又は巧妙な技術を
有つた作人が原物若くばその写真等を手本にしてこれを臨模したもの、或は又ある作者がその門下に命じて代作せしめたもの但しこれなどは偽作といつても全く
原作者御免の偽作である、以上の外画学生などが研究の為に応挙風、若くは雪舟風などに描いた無落欸物へ、新らしく応挙とか雪舟とかの落欸を入れたもの、又
は円山派なら円山派であつても余り名の知られて居ない作者の作ではあるが、非常に出来がよく、誰が見ても応挙と立派に通る作だといふやうな場合、その原作
者の落欸を抜いて之に値売りの出来る応挙の落欸を新らしく入れて市へ出すといふやうなのもあるので、仔細にこれを分類して行くと、その内容は極めて複雑を
極めて居るのである。&lt;br /&gt;
　支那あたりから来る古名家の法帖などは、大抵偽物だといつてもよい位真物の少いものだ、その多くは双鈎法といつて王羲之ならば王羲之の真蹟を俗にいふカ
ゴ字に摸し、その中へ墨を填充したもので、この法は古くから支那に行はれて居る、而して斯ういふ方法によつて作つたものを版としてドシドシ摺り出して居る
のである。&lt;br /&gt;
　元来此双鈎法は支那人が古人の書を学ぶ一つの方法と心得て居る結果、支那の書家で此双鈎法を巧にやらぬ者は一人もないといはれて居る、その為め万一これ
を偽作に悪用されゝば具眼者と雖も又斯かれる事はいふまでもない話である、殊に其双鈎法による偽作を行ふのに、例於ば先人が或る長巻へ他日先輩に題跋のや
うなものでも書かせるべく多くの余白を残して置いたその長巻を手に入れた者があり、その余白を利用して更にその筆者の書を双鈎法を以てこれに偽作し、長巻
と切り離して商品とするやうの事があつたとすれば、これも亦なかく観破する事は能きない、夫れは何故かといふにその紙の時代がその筆者の時代と合致して居
るからである。&lt;br /&gt;
　素より偽作でもしやうといふ者の用意は寔に周到で、前にも記した通り偽作すべき作者の時代に適した紙や絹及び顔料等を用ひ、尚一層綿密な者になるとその
作者が使用して居た印肉まで研究をするのであるから容易に鑑別は能きない、併し少しく注意をして見るとその墨がその絹紙に馴染んで居らず絹紙の上に浮き上
つて居るので略見当はつく、その時代に合つた絹紙を用ゐその時代の墨を用ゐて描いたのだからそんな筈はないと思ふのであるが、肝腎その墨をすり下す水が若
い為めに斯うした結果を来たすのであるといふ、けれども之れを識別するまでにその眼を肥やす事は一通りの練習では能きない。&lt;br /&gt;
　又新らしい絹や紙に時代をつけて偽作するのもある、伝世によつて変色したものは大抵鼠灰色又は青黄色に変じて居るが、仔細にこれを点検すると全紙面同一
の色ではなく、原料によつて若くは織りムラ等によつて一見鼠灰色と見られる色の内にもいろ／＼の斑紋等があり、且つその色はよくその紙絹に透徹して居るの
である。これに反し染料を用ゐてやつたものは大抵刷毛を以て全紙を塗るので、然うした自然の味を出す事は能きない、何処かにこれを見破り得る箇所が残され
て居る事をも学んで今日尚盛んに斯うした偽作贋物を造る者の多いのは、畢竟する処其師に忠なものとして見なければなるまい、さりとは寒心な次第である。&lt;br /&gt;
　といつて了へばモウこれでこの物語もめでたし／＼となつて了ふのだが実のところはマダ／＼書き残した事が随分と多いので、更に興味の多い方面の事に筆を
進める、先年歿くなつた大山元帥に偽筆問題の起つた事があつた、これは元帥に能筆の芸がなかつたので代筆を命じた為めであるとその当時云はれて居たが、こ
れに就いて思ひ起すのはなき土方久元伯が未だ宮内大臣として元気で居られた時の事である、明治大帝の御前に於て当時の顕官連が御陪食の栄に浴した事があつ
た、その内には大隈重信侯も大山元帥も加へられて居た。&lt;br /&gt;
　土方伯は予てから此両氏が代筆をさせて居るといふ一事を不快に思つて居たので御陪食後スツクと起ち上り「今日のやうに一同顔を揃へて御陪食の栄に浴する
といふ事は全く例の少い事だから、記念の為めに皆此席で署名して献上したらよからうと思ふ」と口を切つた処、大帝にもこれを少からず興がらせ給ひ「皆の書
風中知つて居るのもあるがまだ見た事のないのもあるから皆書いたらよからう」との御詞があつた、土方伯は直ぐと料紙硯を取り寄せ「大命でござるから一同此
席に於て謹書されたい」と暗に大隈、大山両氏の困惑振りを見やうと態と斯ういつた、果して両氏は酢の昆蒻のと却々応じない「家へ戻り謹書をして奉ります」
といつたが、土方伯なかく承知をせず「大命でござる」を真向上段に振り翳し「万一此席に於てお認めにならぬやうな方は大命に反く不忠の方と見なします、上
《かみ》は書の巧拙を御覧になるのではありませんから、お考へ違ひのないやうに」と殊更ら意地悪く出たので、万已むを得ず両氏も渋々認めて奉つたといふ事
を土方伯から直接聞いた事があつた。&lt;br /&gt;
　土方伯は常に書は自分の心で書くもので手の技ではない、随つて拙からうと歪んで居やうと精神さへ籠つて居れば好いのだと説いて居た人だから、拙いといつ
て代筆をさせる等とは以ての外だといふ意見を持つて居たので、その不心得を矯めるべく機会を覗つて居たのであつた、而して図らずも此御陪食に顔を揃へたの
を見て好機逸すべからずとなし、殊更ら此問題を持出し両氏に一寸の動きもとらさず無理遣りに執筆せしめたのであつたといふ、「腹を切れ」と大命が下つて居
るのに「宅へ戻りましてから謹んで釖腹いたします」と御答へ申上げて夫れで済むと思つたら大間違ひだよ、書を書けと仰せになるのも腹を切れと仰せになるの
も受ける臣下の身にとつては同じ大命だからナと、伯はその時斯うつけ加へた、而して「二人の困る様子がをかしくてナ」と呵々大笑した、思へば秦山伯もなか
／＼の茶目公だが、併し伯の目的を考へると双手を挙げて共鳴される。&lt;br /&gt;
　代筆問題については支那の名家董其昌にこんな話がある、董其昌は曩の大山元帥とは違ひ、自身に筆墨の芸能がなかつたといふのではなく、晋唐以降の支那歴
代に於ても蘇東坡や趙松雪などと倶に其能書を天下に知られた人であるだけに、その代筆問題は甚だ興味深く感じさせられるのである。&lt;br /&gt;
　董其昌の門下に|呉楚侯《ごそこう》とよぶ者がある、名を翹といひ、能書によつて中翰に挙げられた程の名士であつた、其書生時代には董其昌の許に起臥し
て居た、天性筆墨に妙を得て居たところから、其昌も少からず之れを愛したばかりか其昌が其心血を注いで研究した書法の総てをこれに授けて少しも惜まなかつ
た、而して来訪の客に対しても一々此楚侯を紹介し、私の衣鉢を伝へ得る者だといつたといふ事であるから、大凡その芸能の奈何を窺ふ事が能きる。&lt;br /&gt;
　董其昌も老境に入つてからである、日夜相踵いで来る依頼者との応酬も懈く且つ執筆も面倒臭く感じて来てからといふものは滅多に自ら筆を採らなかつたそれ
にも拘はらず市場には其昌の新作がドシ／＼と現はれ、又一方直接の依頼者へも新作の書が次ぎくに渡されて行つた、これは寔に不思議な事であるが其昌の家か
らいへば少しも夫れが不思議ではなかつた。&lt;br /&gt;
　其昌は楚侯に命じて代筆をさせ印章だけを自から捺して人に与へて居たのであつた、けれども世人は誰一人としてこれを楚侯の代筆だなどとは甞て思つて見た
ものもなかつた、夫れ程楚侯の筆は其昌の夫れに酷似して居たのである、こんな風で其昌の書斎よりも楚侯の書斎には多くの絹楮が積上げられて居たといふ。斯
うして其昌は晩年顕貴の御用以外は概ね楚侯に代筆せしめて居たのであつた、其昌の生活は老いて益々盛んの方で、暇さへあれば多くの内寵の房室を訪れ美姫の
膝に凭れながら痛飲して居た、而して興が湧いて来ると美姫の需めに任せて小絹に筆を執つては与へた、此事が何時か世上に漏れてからは其昌の真筆を求めよう
とする者は競つて皆美姫の許に多くの贈物をしてこれを得たといふ話である。&lt;br /&gt;
　万巻の書を読まず万里の道を往かずして画祖たらんと欲するも夫れ得べけんやと、其識見の高きを誇った当年の|玄宰董其昌《げんさいとうきしやう》も老来
内寵に耽溺しては芸能家の最も忌むべき作品の代筆を甘んじて門下に命ずるのみか、自ら印章をとつてこれを検しつゝベタ／＼押捺したといふに至つては、寔に
沙汰の限りといはなければならない。されば斯うした関係から我国などへ古く舶載されて居る董其昌の書画にも、真に其昌が毫を揮つたものゝ如きは実に少く、
其多くは楚侯の代作になつた物が多いのかも知れないが、中には又その楚侯の書を偽作した物が大分に加へられて居るかも知れない。&lt;br /&gt;
　斯うなつて来ると彼の王を買はんとして羊を得れば望むところを失はずとの諺通り、董を得んとして呉を得れば望むところを失はずといふ事になる、此其昌の代筆とは稍その根本に於て異るが茲に松村景文にも一寸似た話がある。&lt;br /&gt;
　松村景文の兄弟子に|呉嶺《ごれい》とよぶ者があつた、運筆設色ともに景文よりはその技遥かに秀れてゐたのであつたが、惜しい事には一向世上に用ゐられ
ず、家には米塩の貯へは素より着るべき衣類さへ碌にはなかつた、然うした状態であるのに家には妻子の外に年老いた父母さへあるといふ大家族であつた。&lt;br /&gt;
　一日景文の許へ箱書を依頼に来た者があつた、書斎に在つた景文はその作品を取寄せて見るとどうも自分の描いた作ではなかつた、景文の眉宇の間には一種の
憂色が漲つた、依頼者には預り置くと称して帰宅せしめると入れ違ひに使を呉嶺の許へ走らせた、何の用事かと呉嶺は早速やつて来た「わざ／＼御呼び申して済
みませんでしたが実は貴方に見て頂きたいものがございましたので」と云ひながら、景文は曩の幅を取り出して壁間へ掛けた、呉嶺は一心にこれを見戊つて居た
が幅の図が現はれて来ると同時に真蒼な顔をしてうつ向いて了つた、而して畳に両手を仕へ「面目次第もこざいません」といつた。&lt;br /&gt;
　景文は気の毒さうな顔をしていつた「貴方程、立派な伎倆をお有ちになりながら何故私如きものゝ偽作をなさるのですか、私としては貴方程のお方に代筆されるのは寧ろ名誉にも思ひますが、夫れでは肝腎貴方のお名前の出る時がありません」とその偽作の理由を尋ねた。&lt;br /&gt;
　呉嶺は自分の名では買人のないこと、家族が多くて生活に窮した事などを細々と語り、悪いとは知つて背に肚は代へられず万策尽きた儘やりましたと涙ながら
に物語つた、景文は呉嶺の憎い仕業を心の裡で怒りながら、呼び寄せたのであつたが、今筆者が何の隠す処もなくその悲しい実情を物語つたので胸に燃凄さかつ
て居た怒りの焔も打ち消されて了つたと同時に、今度は反対に同情の念がムラ／＼と胸にこみ上つて来た、而してこんな悲しい物語を聞くのであつたなら何もわ
ざ／＼呼び寄せるのではなかつた、仮りにも自分の兄弟子、夫れにこんな恥辱を与へるのではなかつた、アア済まなかつたと思ふと景文の眼にも露の玉が光つ た。&lt;br /&gt;
　景文が然うした思ひに打ち沈んで居るのを呉嶺は適切り怒りの為めに黙つて居るものと考へ、更に諄々と陳謝するのであつた。&lt;br /&gt;
　軈て景文は斯ういつた「お話はよく分りました。お話が分かると同時に貴方を此処へ呼び付けた事を私は悔いて居るのです、私よりも遥かに秀れた伎倆を持つ
て居られる貴方が、時勢とはいへ私如き者の名を借りねば其作品を金に代へる事が能きぬとは世は全く逆様です、私の名が貴方の仰有るやうに幸ひにも貴方の御
家族の方々をお救ひする役に立つと仰有るのならばどうか御遠慮なくお使ひ下さい。そしてモツトお描き下さい、ドシ／＼景文の名を使つてお売り下さいこれが
私よりも伎倆の落ちた方であつて私の今日の地位を傷つけんが為めにされたり、又は自分一人の酒食の費を作らんが為めにやつたりされるのであれば私は断じて
許さないのですが、貴方の事情は全く斯ういふものとは違ひますので、私としては決して悪い気持ちはいたしません」と、親切に語りながら傍の印箱を引寄せ
「折角やられても此幅に押してあるやうな印では余りにお粗末で不可ません、丁度私が常に用ゐて居る印がコ丶に在りますので夫れを進上いたしますからこれか
らはこの印をお使ひ下さい」といつて、二三顆の印章を取り出して与へた。&lt;br /&gt;
　事の意外に呉嶺は驚いて直ぐには詞も出なかつた、而して贈られた印を押し戻しながら「貴方の御同情は余りに過分です、自分の絵が自分の名で売れないのは
自分の伎倆が足りないからです、夫れを食へぬからといつて他人様のお名前をお借りするといふのは間違つて居る話です、夫れにも拘はらず今日までお詫びにも
参らず過ごしましたのは全く人間としての心を捨てた悪魔の仕方です夫れに斯うした御同情に預ります事は冥加に尽きて末が怖ろしうございます」と、心から其
罪を陳謝し且つその同情に対しては涙ながらに感謝したが、景文は兎も角もと彼の印に幾干かの金まで添へて呉嶺に与へた。&lt;br /&gt;
　其後呉嶺は此印章を用ゐて更に景文の偽物贋作を作つたかどうかは知らないが、景文の作に対しては景文の生前既に斯ういふ事件さへあつたのである。&lt;br /&gt;
　以上の外伝へる話は残つて居ないが応挙にも、呉春にも、芦雪にも、探幽にも、常信にも、抱一にも、文晁にも、崋山にも、竹田にも、直入にも山陽にもその他相当市場で喧しくいはれる画家や書家の作には多くの偽作がある。&lt;br /&gt;
　近くは鉄斎、拝山、栖鳳など随分多くの偽作が世間を横行して居る、殊に吉嗣拝山などは偽作七分に真物三分とさへいはれその為め価額も偽作相場として安い
のは寔に気の毒な話だ、又東郷元帥の書にも少からず偽作がある而して偽物の方が文字も巧くこれも偽物本位の相場になつて居るからおかしい、山陽の偽物につ
いてこんな話がある。&lt;br /&gt;
　　夫れは明治二十年頃であつたが、中国辺のある書画屋が山陽の真蹟を豊富に蒐蔵して居るといふので山陽好きの連中は次ぎから次ぎと買出しに行つたもの
だ、ところが夫れが悉く偽物で見るに堪へぬ物が少くないのでツイに山陽の偽せ物師などと呼ばれるやうになつたが、併し其家の主人は一向平気なもので、依然
として山陽を売つて居た、ある時一人の男が談判に出掛けた「こんな酷い書を山陽などとは実に怪しからん」といふと主人は「何が怪しからんのです、私は頼山
陽外史の筆だとは只の一度も申したことはありません、山陽といふのは私の号です、此辺にある書は皆私が書いて売って居るのです、夫れにも拘はらず山陽とい
へば頼氏のみだと早合点され、一つ掘出して大儲けをしてやらうなどといふ慾張つた考へで此店へ来られるから、此真蹟偽りのない私の山陽書を何の彼のといは
れるのです、私も永年此商ひをして居りますが未だ曾て此山陽を頼襄の作だといつて売つた事は只の一度もありません、書いた本人が売る山陽に偽物も贋作もあ
りやうがありますか」と一本逆さにキメ付けたので、客は這々の態で逃げ出したといふ話である。&lt;br /&gt;
　これは或は慾張り連を戒める為めに何人かが作つた話かは知らぬが、併し頗る面白い味のある皮肉な話である、慾の深い連中は大に此話を玩味するのも一種の良薬かも知れない。最近の話にこんなのがある。&lt;br /&gt;
　　大阪のある入札に安田靱彦の描いたものが出品されて居た、それを、ある書画屋が落札したところ箱書がないので註文主から箱書の依頼を受けた、丁度東京
へ商用で出向く用事があつたので途中靱彦の処へ立寄つて見せたところ「よろしい書いた上で大阪へお送りいたしませう」との事に彼の依頼者は東京の用を済ま
して下阪した、半月程経つとその箱は約の如く届けられた、これで事が済むと此話もものにならずに終つて了ふのだが其後三月程経つと靱彦から妙な書面が来 た。&lt;br /&gt;
　　夫れには先般箱を書いて渡した幅は一度見直したいから送つて呉れうといふのである。妙だナと思ひながら上京の序でに靱彦の許へ立寄ると、実はその後ア
レと同じ絵を持つて来た人がある、私は一枚しか描いた覚えがないのに絵が二枚あるといふのは甚だおかしいので較べて見たいと思つて手紙を上げたのですとの 話。&lt;br /&gt;
　　書画屋は曩の幅を見せたところ靱彦はジツとこれに見入つて居たが軈て斯ういつた「寔に申わけがありませんが此幅は贋物です」書画屋はびつくりした、何
故それなら箱書をしたかと詰問したが靱彦は「貴方も商売人の方ですからそのお埋め合せはキツト致します、代償に一枚描いて差上げます」といひ出したのでそ
の書画屋も強くはいへず下阪して来た、やがて作品は届けられた。&lt;br /&gt;
　といふのである、自分の描いたものと他人の偽作との見さかひがつかぬなどとは甚だ困つた事だが、つまる処夫れだけ迫真の作であつたのだ、夫れにしても自
分の偽物を見誤つた陳謝に、書き下した作品を贈るなどといふことは全くその作家にとつては飛んだ災難といはなければならない。これなどは偽物の挿話として
は近頃面白い話の一つである、夫れは兎に角斯うなつて来ると古いものは危ないが、新作物は慥だと初めから安心してかゝる訳にも行かなくなる。&lt;br /&gt;
　さる横浜在留の外人で我国の古美術品を愛玩して居る一人が顕微鏡を持たないと日本の書画を買ふ事は能きないと語つたさうであるが、強ち侮辱した詞だと一
図に排斥して了ふ事も此調子だと出来難い事になる、夫れが書画だけでなく、彫刻その他の器物にまで皆此偽物が作られ大手を振つて市場を横行して居るのだか
ら無理もない、書画の偽作に就いての話は先づこの位にして打切り次きに書画以外の偽作について面白い処を少し紹介する。&lt;br /&gt;
　彫刻といつても木竹金属といろいろあるが先づ木彫品から初める、木彫刻で値売りの出来る品といへば少くとも藤原鎌倉時代から足利の初期時代になる、慾を
いへば推古、天平となるのである事敢て断るまでもない、ソコで同じ偽物を作るなら儲けの多い方をといふやうな事で推古、天平の物を作るとする、大抵は仏像
であるがいつれもその時代々々の手法に特徴があるので夫れを模したら事はすむといふ勘定だが一番困るのはその材料である、夫れで斯うした贋作や偽物でも作
らうといふものは絶ぬず奈良辺の古い寺の潰れたものや、又は修理等に不用となつた古材を仕入れて置き、その材料が天平であればこの材を以て天平物を刻む、
又その材が鎌倉時代であれば同時代の物を刻むのである、併し然う／＼この時代に合つた材料のありさうな事がない場合にはどうするかといふと新らしい材料に
時代をつけるのである。&lt;br /&gt;
　書画に用ゐる絹紙であれば顔料を塗り又は煤ぼらせるなどといろいろあるがこれは木材料の事とてその儘の事では一廉の人々の眼の玉は抜く訳には行かない夫
れで古材同様古い寺の埃を蒐集して置き例へば夫れが藤原期に建てられた寺の天井にでも溜つて居た埃であればこれは藤原期、足利期ならば足利期といふ風に貼
紙をして甕か何かへ貯蔵して置く、而して先づ刻んだ物体を蒸籠に入れて蒸し上げるなりその埃の内へ放り込んで置く、斯うすると一度熱によつてその|木目
《きめ》の分子を|粗《あ》らけた木材は冷却すると同時にその埃を十分に吸収する。&lt;br /&gt;
　斯ういふ方法を幾度か繰り返しくしてその地肌から一遍に天平なり藤原なりに|老《ふ》け込ませるのであつて、夫れは丁度白髪の老人が白髪染めを行ひ顔の皺を押ばし若くは生理的に若返り法を行ふのと反対な方法によつて老込ませるのである。&lt;br /&gt;
　けれどもこれだけではマダ／゛＼十分とはいへないので、更にその材料によつて自然の裂け割れ等が夫れ夫れの特徴を現はして生じるので、夫れをも巧みに作
るのである。無論科学の力を以て十分に乾燥させる事などはいふまでもない話である。斯うして作る偽物は相当加工に多くの日子を費し、又工程も要されるだけ
出来上つたものは殆ど実物と見分けのつかぬ程立派な物となる、随つてその作の多くは実物として市場を横行するのであるが此外にも立派な方法がある、夫れは
俗に|張付《はりつけ》などと称し例へば藤原時代の仏像の顔面の五六分通り残つたものがあるとする、するとそれを他の新らしい木へ張り付けて他をその時代
に合った手法によつて彫刻し彩色して全然その時代の作として了ふのである、この方法は兎に角その時代の実物がその彫像全体の内の最も肝腎な顔面に一部分で
あつても実際に残されてゐる関係上、これを真物として通す場合には一番有利な処があるので、これには一廉の具眼者と雖も引つかけられて了ふ。&lt;br /&gt;
　　大分前の話であつたが一流のある骨董家が大阪の八幡筋で天平仏の首を見付け、よくもこれだけの立派なものがこんな処にころがつて居るものだと思ひ、買出しに行かうとして居る処へ昵懇な彫刻家が遊びにやつて来たので、骨董家は此話をして聞かせた。&lt;br /&gt;
　　ところが其仏の首は既にその彫刻家が見て知つて居たので「イヤあれならば私も知つて居ますがあれは大きなまやかし物《、、、、、》です、あれを真物と
御鑑定になるやうでは不可ませんネ」と答へたので骨董家は少からず驚いたが、併しどうしても自分の眼を疑ふ訳には行かず「そりや君の方が見誤つて居るの
だ」となかなか負けて居ない、暫く斯うした押問答に時間を費したが「ぢや論より証拠をお目にかけますから御一緒に見に参りませう」と揃つて出掛けて行つた
「何処が不可ませんか」と骨董家はまだ自説を主張して居た。&lt;br /&gt;
　　彫刻家はその首の耳の際から顔へかけて指さし「これが継ぎ目です第一此耳は後作ですよ、真物は此顔のホソの一部分でそれも極く薄く丁度仮面のやうに残
されたものを新らしい木へ着せ付けてあるのです、よくこゝを御覧なさい」といつたが、容易にウン然うかとはいはないので、更にその耳の後ろから下へかけて
見事に作られた天平割れの割れ目へ指頭を挿入し「一寸此処へ指を入れて御覧なさい、此天平割れも真物の割れではなく作りものなんですヨ」といつた。&lt;br /&gt;
　　骨董家はいはれる儘にその裂ケ目へ指頭をさし入れて、木材の乾燥程度を調べようとしたが指を入れるなり「オヤッ」と妙な顔をした、而して更に入念に彫
刻家の言のまにまにその総てを見直したが果ては唸るやうに「ナンと巧くやつたものではないか、私程の者でさへこれには一本参つて了つた、ウーム」と初めて
その作の真物でない事を知つて少からず驚嘆した。&lt;br /&gt;
　此骨董家といふのは骨董王と呼ぼれた先代の山中■篁翁で、又彫刻家といふのは大阪難波橋の橋頭に飾られた石のライオンの原型を作つた天岡均一であつた、而してこれが即ち張り付けの偽作であつたのだ。&lt;br /&gt;
　此外古い手、古い胴体、古い足等を骨子として他を補作してそれを全部古い作としたものなども随分と多い、斯ういふものは全然偽作でなくその一部分に真物
が使用されて居るのであるから補作品として堂々と売つても売れるのであり、又相当の利潤を見る事も能きるのであるから其方が却つてその作家の技術も認めら
れて佳いのであるのに、然うはせず大利を得ようとする結果、折角の作品が贋物とされ、又自身も偽物造りとされて了ふのである。&lt;br /&gt;
　又此彫刻にも書画同様銘の入れ代へや又は無銘物へ名家の名を入れて売るのもある、此外石刻物、乾漆彫像、金属物とそれ／゛＼に従つて皆斯うした偽作をや
る、先年も金属製の六朝仏を幾体も偽作しその原物の所有者を驚嘆せしめた彫刻家があつた、又酷い輩になると原物へ直接膏土をあてゝその形をとり、これを原
型として偽作の用に充てるのもある、石像物になると古拙な手法で彫つたものを小便壷へ抛り込んだり、或は又溝へ埋めたりして時代のサビをつけるが、これな
どは先づ相当具眼の人々ならば大抵は鑑別が能きるさうである。以上の外漆器物の偽作もなかくに多く又陶磁器物にも少くない。&lt;br /&gt;
　京都のある陶匠などは今日でこそ自分の名に於てその作品を市場へ出して居るが、これまでには可なり多くの偽物を専門にやつて居た、無論夫れは日本陶器の
まがひではなく支那古窯の贋作であつて、此作者の偽作品で今日名家の倉庫に支那の名作として納められて居るものも亦少くない。&lt;br /&gt;
　前にいつた漆器物で|断紋《だんもん》といつて漆面にヒビの入つたものがある、即ち黒無地断紋の|平卓《ひらしよく》などと呼ぼれ相当の高価に売買される、これはその製作の時代が古い為めに自つと漆にヒビが入り断紋が現はれるのであるといはれてゐる。&lt;br /&gt;
　時代の古い為めに斯うした現象を呈する事はいふまでもないが、併しナゼ古くなつたらそのヒビ破れが生じるかといふと、それは膝の製法が今日と違ひ精練法
が完全でない為めいろくの不純物が含有されて居るので、その為めに斯うした結果を来たすので、夫れは丁度支那の周や夏の時代の銅器は、製錬の方法が今日の
如く進歩した科学の力によつて些の不純物の含有混合を許さぬまでに発達して居なかつた関係上、時代を経るに従ひそのサビに今日の電気分銅などでは断じて見
る事の能きぬやうな幾多の美しいサビの斑紋を見る事が能き、その為めにその価を貴く珍重されて居るのと同じである、ソコで今日銅器の偽作には幾多の薬品を
用ゐて周銅に見るが如き色付けを行ひ、或は又サビの斑紋を施したりして一見周銅と変らぬやうなものを作るが、併し付け焼き刃は何処までも付焼刃で、そのサ
ビの部分とサビのない部分との銅質を仔細に点検すればそれが自然のサビか付け色かといふ事は明かに鑑別される。&lt;br /&gt;
　断紋の摸作も盛んに行はれて居るが之れも此銅器の付けサビやつけ色同様奈何に巧にやつてあつても容易に之を見分ける事が能きる。即ち器局、平卓、高卓、
手函等の何品によらず注意深くこれを看ると、その断紋の斑文は人工だけに何処となく天意の妙がなく、且つその隅々或は角々等を見ると摸作の断紋は他の平面
部の亀裂の甚だしいのに似ず少しも然うした形跡もなく極めて滑らかに見られるのである。&lt;br /&gt;
　又今日では殊更粗悪な漆を用ゐて此断紋を生ぜしめる方法もあるがその方策のいつれにせよ偽物は依然偽物として具眼者の眼をかすめる事は能きない。&lt;br /&gt;
　又近頃は浮世絵の版画等にも幾多の偽物が現はれて居る、これは木版の技術が進歩した結果、いかなる精密のものでも摸作し得られる結果であるが併しこれを看破る事はまたいと易い事である。&lt;br /&gt;
　夫れはその木版画の摺つてある紙が承知をしないのである、即ち色彩の色合や調子等がどれ程巧妙に歌麿は歌麿、春信は春信の作に出来てあつても、陽に向つ
て此紙の表面を透かし、その表面に毛羽立《けばだ》つて居る処のその毛羽立ちを摘んで見ると実物であればその毛羽は力なく容易にとれるに反し、新作偽物は
毛羽の腰が強く指に力を感じるのである。又着色したり態と煤気さしたりしたものも多い、浮世絵の版画の盛んに売れ出した明治三十年前後には、偽作の版画を
田舎の茶店等へ持ち込み、ソコの壁や襖等に貼らせ十分に煤ぼらせた上、これを探す商人に真物の春信、歌麿と誤認させ、勝手に一枚一円とか七十銭とかに買取
らせ、その利益を茶店の婆さんと山分けにしたものも少くはなかつた、然うして引き剥がされた後へ又新らしい偽作版画を貼り付けて置き、更に慾張つた掘出し
あさりの商人を引つかけたので、この方法は可なり盛んに行はれた斯ういふ方法を其道の者の間には埋め物などと呼んで居る、思へば埋め物とは面白い呼称であ る。&lt;br /&gt;
　斯ういふ方法を各種のものに就いて一々紹介して居るとなかく際限がないので贋物としては幾多の物の中でヤハリ書画が一番その数に於て多いといふ事を繰り返し、最後に茶器類に必要とされて居る書付けのある古箱について記す事とする。&lt;br /&gt;
　茶器類には箱といふものが喧しく騒がれてゐる事は今更いふまでもないが併し局外者の為めその箱のどういふものであるかといふ事から順序立つて記して置か
う。茲に例へば楽長次郎の作つた茶怨があるとする、破損を防ぐ為めにその作家は木箱を作つてこれを納めて置く、無論その箱には作家が自作である旨を記して
置くが、これを茶の用具として使用する上には茶道家の権威者に何か銘をつけて貰つたり、又は長次郎作に相違なき旨の証明を箱に書かせて用ゐる風がある、而
してその箱書付けを行つて居る者が斯界の名家であればある程その茶盤は値高く売買される、随つてその中味の茶怨が偽物と入れ換へてあつても此箱によつて夫
れが真物となり、値高く扱はれるので斯うした書付けのある古箱が相当の価に売買されて居るのである、これに就いては面白い話がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;
 &lt;/p&gt;
    </description>
    <dc:date>2011-10-22T23:32:34+09:00</dc:date>
  </item>
    <item rdf:about="http://www6.atwiki.jp/amizako/pages/5.html">
    <title>岩村透「巴里の美術学生」</title>
    <link>http://www6.atwiki.jp/amizako/pages/5.html</link>
    <description>
      
&lt;p&gt;巴里の美術学生&lt;br /&gt;
大都の社会生活というものはどこも大概は同様であって、ロンドンもニューヨークも巴里《パリ》も羅馬《ロ　マ》も大した相違はたい、何《いず》れの都にも
賛沢と無駄に日を消して居る貴族や金持ちがある、コツコツと朝から晩まで勉強して居る学者がある、有難い一方で日を暮らして居る宗旨家がある、デコデコと
着飾って大道狭しと練り廻る淫売婦がある、また日に夜を続けて働き抜く貧乏人がある、この都にあってあの都にないというものは先ずないといってよろしかろ う。&lt;br /&gt;
ところがここに巴里にのみ在ってほとんど他の都に見ることの出来ぬものが一つある。これが美術家の生活である。なるほどニューヨークにもボストンにも立派
な美術学校がある。ロンドン、ローマ、ミューニック唱アントウエルプにもりてれぞれ有名な美術学校があり、また立派に生活を立てて居る一本立ちの美術家が
大勢あり、学生の群があるが、しかしそれは学生が技術を研究し大家が家業大切に商売をして居るというまでであって、一種毛色の変った、特殊の美術社会を形
造って、他の社会と異った、一種固有の美術家の生活をやって居るのは巴里のほかにはない。この美術生活という奴は多数の美術学生、殊に多数の外国から来て
居る留学生の集まって居る所でなければ出来ない。ところが世界の美術教育の中心は時によって所を変えるから、今でこそ巴里に本陣を構えて居るが一時は羅馬
にも、ミユーニックにもまたヅセルドルフなぞにも華々しい美術生活が行われて居たのである。&lt;br /&gt;
しかし巴里は昔から美術生活の行われて居った所で、今日まで多少の盛衰はあったが全く廃れてしまったという事はない、引き続いて今日にまで伝わって、巴里
名物の一つとして数えられて居る。ベンヴェヌト・チェリ一…の伝を見ると、その時分に伊太利亜《イタリア》から出稼ぎに来て居った美術家連と土地の技術家
がいかに生活をして居ったという事がわかる、確かにその時代にすでに技芸家という一種の団体が他の商売人と異った生活をして居った。それから『巴里におけ
る一英人』という書物があるが、この本なぞを見ると十八世紀々末から十九世紀の半頃ヘかけて、巴里の美術家連がどのような生涯を送って居たかがわかる。近
頃になってはこの美術家の生活という奴は一種の名物また随って一種の研究物となって居る。&lt;br /&gt;
七、八年前に西洋の読書社会を騒がしたデュモーリエーの書いたツリルビーまたその以前に出たスチーヴンソンのレッカーなぞはいずれもこの巴里の美術社会の生活を写して、興味を添えた。&lt;br /&gt;
さて美術の生活とは一体なんであるかを問えば、返答は別にむずかしくない。すなわち美術家が、他の人間社会と別に団体を結んで、他人の事には一切無頓肴
に、朝から晩まで美術の事ばかり見、聞き、話して一生涯を幕らせるというかような社会に生活して居るその有様をいうのである。ところでこれはロンドンでも
ニューヨークでもどこでも出来そうなものであるが、実際のところ出来ぬ。巴里に五、六年も勉強して居った米国の美術家が本国へ帰って来ると、「米国は駄目
だ、美術の空気がない、金銭の空気ばかりで美術の空気がない、アー巴里アー仏蘭西《フランス》」という声を出すのが千人がほとんど千人であるというのは、
米国には美術家の団体生活がないという事を証拠立って居るのであって、つまり巴里のみが一種技芸家にとって心持ちの善い空気すなわち美術生活を持って居る
という事になる。&lt;br /&gt;
これは無理たらぬという事は、第一巴里には別に美術社会という特殊の団体を形造るだけの人間の数がある。政府の美術学校だけでも学生が一千二百人もある。
これだけを見て巴里美術界の有様が想像されるであろう。このほかに各私立学校の学生、女学生、すでに修業の時代を終えて居る一本立ちの技術家、音楽は別に
したとしても建築、諸工業、手芸に関係のあるいわゆる、小美術をやって居る職工の連中から外国より移住をして居る美術家を加えたならば、巴里の技芸社会は
少なく見ても万に近い数になるであろう。&lt;br /&gt;
この大勢の人間が巴里という比較的狭い一箇所に集まって居るのであるから自然とその集合が一種固有の生活をやるのは当然である。巴里では実に技術家が一生
専門の美術と首ッ曳きをして美術に関係ある事ばかりを見聞きし、他の事には一切心を奪われずに心持ち善く生涯を終えることが出来る。&lt;br /&gt;
ところが、亜米利加《アメリカ》や日本なぞではそうはいかん。縦《たと》い別に美術生活をやるだけの人数が揃って居るとしても人間がまるで駄目だ。美術生
活をやるには数も必要であるが、人間の根性がやはり一種芸術家の根性とならなければいかん。巴里には数百年の間一種の社会を形造って居って、それがために
出来て居る技術家の根性がある、習慣がある、これが肝要な点であってこの気風はなかなか一朝一夕に製造は出来ない。&lt;br /&gt;
一体西洋人という人間は大概は心おきのない気さくな一口にいってしまえば子供がそのまま大人になったような奴が多い、ところが西洋の技芸家という奴はこの
普通の人間に倍して淡泊な無邪気なのが常例である。いう事も、する事も日本人の眼から見ては話にならぬほど子供ッぽい人間が多い、もし日本人で西洋殊に巴
里に居る芸術家のような無邪気な真似をしたら馬鹿とか気狂いとほか思われはすまい、相応にやって居ても、親類中の厄介物、不評判になるのが今の通例であ る。&lt;br /&gt;
学生として、或いは商人として西洋に永く住んだことのある人から見ると日本の人はいかにも交際のしにくい、油断のならぬ、不活澄な、底の知れぬ、興味のな
い人間に見えるだろうが、技芸家として住んで常に西洋の芸術家と交わって居った人から見たら日本の芸術家という連中はどう見えるだろうか。西洋人のいう交
際というようなものが日本に行われて居るであろうか。他人の相手になる事の嫌いな、大勢の前に出る事の厭《まびり》いな、人に口を開く事を暉り、人の話を
聞く事を好かん、自分の感情を人に打ち明げて語る事をせぬ、他人の前に威張りたがり、己れの実力をなるべく大袈裟《おおげさ》に見せたがる、という、かよ
うな人間が、交際などいうものが出来るか知らん。&lt;br /&gt;
人間が互い互いに一時も永く他人の顔を見て居たい、一言も多く他人の詞を聞きたい、己れの考えもなるたけ多く知らせたい、人の考えも十分聞きたい、食うに
も共に飲むにも同時という考えで、一人よりは二人、二人よりも三人という風に共同の楽しみを感じてこそ団体の生活というものが出来る。人を見れば、何か役
人のように威張りたがる。威張りたいから、人のいう事は聞きたくない、何事も自分一人という考えでは、すべて共同という精神から湧いて来る快楽は味わえな
い。西洋風の倶楽部《クラブ》とか或いは仏蘭西のカッフェのようなものは真似たくも出来ない、やはり一体の根性が待合いの四畳半に合うように出来て居る。&lt;br /&gt;
これは少し話の外に出たようだが、僕のいおうというのは先ずかような根性では一つの団体生活というものは出来ない、随って巴里の美術生活というようなもの
は、今の日本のような社会には湧いて来ない、羨ましく思っても駄目だ、これに必要の要素がない、という事を話すと、同時に巴里の技芸社会はこれとまるで
違った人間の集合所であるという事である。&lt;br /&gt;
さて、一体がかような風であるから、広い、不便な東京に五百や六百の技術家が居った所で、別に特殊の美術生活というものはない。美術家はあっても別段他の
人種と異った所がない、異って居ないどころではない、少しは腕もあり評判もある人問で自分の商売さえ碌々《ろくろく》せずにトンダ政治家の真似をしてヤレ
運動であるのヤレ会合であるのと技術家が政治屋の真似をして喜んで居る奴さえある。こんな連中に芸術家の生活なぞ一風変ったものが出来よう筈がない。&lt;br /&gt;
それからまた美術学校もある、しかしその学校といっても別に他の学校と異った所はない。他の高等学校や中学校と別に異った所はない、同じような規則で縛って、同じような教授法でやって居るのである。&lt;br /&gt;
学生といってもむろんの事で法学生や医学生と別段これという違った所は見えない、これが美術学生でございという特色がない。同じような事を考えて、同じような根性で居るのである。&lt;br /&gt;
巴里ではそうでない、美術家は他人に優れて根性が淡泊だ、他の商売人に勝れて活澄だ、実に勇壮だ。何となくカラットした気風がある。独立の精神が強い。他人でも外国人でも感服する技一云の前には他人も己れも皆無だ。威張らないし、また威張らせない。&lt;br /&gt;
一体の根性がそうである上に周囲がうまくいって居る。第一技芸家の活動する範囲が広い上に多数の専門家が同所に集合して居るのであるから、朝から晩まで、
年がら年中、美術の事をいい、聞きして他事には一切無頓着に生涯を過す事が出来る。常に二、三の展覧会がある。政府の美術館、図書館がある。&lt;br /&gt;
大家の仕事場を訪問する。美術家の倶楽部に集まる。カッフェに美術家の友人と語る。外国の技芸家に逢って見聞を拡げる。新聞雑誌を読んで技芸上の見識を養
う。というような具合に常に外部から刺戟を受けて、技術も進め、またその道の欲を増して行く事が出来る。これがいわゆる美術の空気であって、米国人なぞが
巴里にあって米国にないというものはこの境遇の事である。&lt;br /&gt;
この一種の社会を為《な》し、特殊の生活をやって居る美術生活の最も肝要な、また大部分を占めて居るのが美術学生である。この団体の生活はすでに一家を為して居る美術家の生活とはよほど異って居る。これが僕の本題である。&lt;br /&gt;
美術学生の事を話す第一にいいたいのは、西洋の美術学生という奴は体格屈強なゴチゴチした人間で、面《つら》の生白い、痩形《やせがた》の病人でないとい
う事だ。それから奴らは自ら人間の屑を以て任じて居る不活澄なイクジのない、根気のない、青年でない、実に活撥な、自任の強い、独立の根性のある、あくま
でも根気強い、ネッチリした剛情な奴らで、人に対しては遠慮会釈もない、代りには親切気のある、よく食い、よく飲み、よく喋り、またよく悪口をいう奴であ る。&lt;br /&gt;
特別にいいたいのは学生の活気のある事だ。これはほとんど乱暴といっても善い位である。しかしその乱暴も皆無邪気な乱暴であって、ちょっと猪や熊の暴れる
ようなものでその中に少しも悪気はないし人間らしい意地の悪い所はない。がとにかく騒ぐ、活撥だ、四十歳前後を頭として二十二、三歳の小僧連まであるが三
十前後の奴らもまるで五つか六つのワンパク者のように騒ぐ。勉強することも勉強するが暴れる事も実によく暴れる。&lt;br /&gt;
僕が初めて巴里に行ったのは二十四年の夏であったが、美術修業という目的で行ったのであるからかねて評判に聞いて居ったアカデミー・ジュリアンという私立
美術学校に入学した。巴里の美術教育界の大体を話すと、先ず第一に政府の建てて居る美術学校がある、すなわち有名なエコール・ナショナル.工・スペシア
ル・デ・ボーザールで、ちょっと前にいったとおり一千余の生徒がある。学校は例の書生窟カルチェー・ラタンの端の方でセイヌ川に沿うた所にある。&lt;br /&gt;
このほかには種々の私立学校があるが、その中に最も有名なのが、アカデミー・ジュリアン、それからコロラシーというのがある、白馬会の和田英作はこのコロラシーに入学して今勉強して居る。このほかにジュランという学校もある。&lt;br /&gt;
先ずこの三校が有名な学校で、今は大家として指を折らるる人物も元は大抵これらの学校の生徒であったのである。&lt;br /&gt;
しかしこれらの私立美術学校は、学校とはいうもののむしろ修技場とか今一層適切にいえば道場とでもいった方が当って居るのであって、決して素人の考えるよ
うな美術学校ー学校然とした教育場ではない、ただ技術を練習するというだけの場所であって、技巧を鍛え上げるほかには学術の講義のようなものは一切ない。
これはなくても差し支えないので、政府の美術学校は万事開放主義でやって居るから遠近法とか、美学とか、歴史とかまた解剖の講義なぞは私立学校の生徒でも
ボーザールの生徒同様傍聴する事が出来る、わざわざ各校に置いておく必要はない。&lt;br /&gt;
元来がかような組織であるから自然と校舎なぞも学校然とした構えはない。ただ光線の善い部屋で五、六十人の生徒が入る事の出来る所であれば差し支えない。万事実利主義でやって居るから、他国の美術的の美術学校から行くとその質素と、殺風景なのに驚く。&lt;br /&gt;
マァ大抵学校は二階か三階にある、平家で一軒別に構えて居る所でも裏のようなところに引っ込んだ実にムサクロしい場所が多い。外部もつまらないが内部は実
に殺風景極まる。壁は荒壁、天井は梁《はり》が現われて居る、床は荒板で菰《こも》一つ敷いてはない、部屋中装飾といっては競技優等の画を安っポイ額縁に
入れたのが壁に懸って居るばかりである。これと、時によると生徒が教師の肖像をポンチ絵風に描いたのが壁の一部にある。この位の物で後はドロンとした灰色
の壁ばかりで、美術学校なぞ想像して行くものには淡泊、無味極まる粗末な所だ、普通の大工の仕事場でも今|少《ち》っと興味がある。&lt;br /&gt;
僕の行った時にはジュリアンの学校がリュー・ジュ・フォブルグ・サン・ドニという町にあった。これはポルト・サン・ドニを這入ってまっ直ぐに五、六丁行っ
た右側の所で番地は確か四十八番と思った、入口を過ぎるとガラ明きの中庭があって、そこから左にある槽子段を上ると狭い廊下がある、何でも一階は何かの問
屋であったと思う、時々銭勘定の音を聴いた事がある、学校はその二階にあった。この時には学校が三軒に別れて居った、一つがプラス・ヴアンドームの近辺で
リュー・サントノレ、それからリュー・フオンタンヌと、次に我々のとほかに女学生のために設けてあったのが巴里中に三箇所、都合六箇所でやって居った。つ
まりアカデミー・ジュリアンというのが五箇所に支店を出して生徒を教育して居ったのである。&lt;br /&gt;
僕の入学した時分は絵ではジュール・ルフェーブルとバンジャマン・コンスタン、ブグロー、ロベール・フレアリー、フラマン、フェリエーとヅーセーの連中、
それから彫刻の方ではシャピユーが受け持って居った。これはこの大勢の教師が大勢寄ってたかって一人の生徒を攻めつけるというわけじゃない、教師の受け持
ちの教場があってその教場に来る奴だけ自分が教える、生徒は入学の時に自分の好きな人を定めて、その教師の室に入るという次第である。&lt;br /&gt;
ちょうどこの時には学校に部屋が三つほかない。ブグ口ーとフェリエーの受け持ちの教場が一つと、バンジャマン・コンスタンの受け持ちの教場とその間に彫刻
生の研究場が一箇所と合せて三間、ほかには小さな事務室と小使い部屋位のもので、話に聞いては居ったが、世界に有名なジュリアンの学校もコンナ所かと大い
に驚いた。&lt;br /&gt;
家も粗末であるが入校の手続きも実に無造作だ。別に入学試験というものはない。下手は下手、上手は上手なりにそのまま入校が出来る。技倆にも構わないが年
齢にも構わない、教場に入って驚いたのは十六、七の子供と五十位の白髪交りのお爺さんと平気に列《なら》んで描いて居る。段々慣れて見たら、このお爺さん
決して珍しくない。四十歳位の人は幾人も居った、しかも皆々立派な腕のある奴だ。これで大抵学校の程度がわかるだろう。家こそ穢《きたな》いがその中でや
るものからいうと実に恐ろしい学校だ。これで思い出すが、巴里に居った時黒田、岡田の連中と一緒にカッフェに行って居った、ちょうどその時に乞食が、ヴァ
イオリンを奏でてやって来た。「可哀ソーにもし奴が日本人であったなら音楽学校教授で従六位とか高等官とかいって威張れるのに、生れ所が間違った」と連中
の一人がいって笑った事がある。しかしこれは笑うどころではない、音楽の道ばかりでなく大概はその通りで絵画彫刻のいわゆる大家連も本場へ出して目方にか
けたらやはり砂文字か焼判師位の程度に落第するのが多いだろう、幸いにして世界の隅に引っ込んでヘッポコなりに比べて喜んで居るから相応にニラそうな事を
いって居れる。日本が楽園といわれて居るのは豊唯《あにただ》風景季候においてのみならんやだ。&lt;br /&gt;
さて、生徒は事務所について入学の手続きをする。手続きといって別段むずかしい事はない。ただ誰について学びたいと教師を極める。これと同時に一ヵ月なり三ヵ月なりまた一年なりの月謝を前金で払う。&lt;br /&gt;
このほかには入校願いも、在学証書も、保証人も、証明もなにも要らない。前金払いという奴がすべてこれらの代りをする。この法はジュリアンばかりでない、
米国あたりの学校でもその通りである。ソコでその時分の月謝が、終日の稽古であると一ヵ月分五十|法《フラン》、半日だと二十五法、終日で一年の謝金が三
百法、彫刻の方が四百法である。&lt;br /&gt;
学校入学の手続きはかようで実に簡単であるが、実際画室に行って生徒の仲間入りをするという奴はそう軽便には行かぬ。というのは教場の整理は一切自治制で
あって教場の事は一切生徒が自分でやって居る。ところで、学校に入るのと教場に這入って生徒の仲間になるという事は自ら別のような具合になって居るので、
入校は屍《へ》でもないが入学は屍でもある。コイッ下手をやるととうてい学校に居溜《いたた》まれなくなるほど苦《いじ》められる。&lt;br /&gt;
先ず第一、新入生が初めて教場にやって来ると教場の連中が種々の事をいい立ててからかう。これは誰でもやられる。老人であろうが、女であろうが、外国人で
あろうが、また自国人であろうが、一切誰という事に構わずにやる。大抵新入生がポート・フォリオを手にして戸を開けて顔を出すと、画室の連中が五、六十人
一同こちらの方を向いてアーというような声を出す。コイッ不意に来るから全く知らずに居るとメン食らう。&lt;br /&gt;
サアそれから悪口が初まる、ー悪口といっても一通りや二通りの悪口ではない、あまりうまく穿《うが》って居る批評で、いわれて居る御当人までがおかしくな
ることがある。時によると身振りでサンザからかわれる、例えば新入生が丈の高い男で首でも長い奴なれば、生徒の一人が即座に画帖を携えて、麒麟《きりん》
の真似をして皆の前を歩き廻る、うまく新入生の癖を採った上に、妙な眼をされて、オマケに多年動物園で研究した鳴声でもやられたら、とうてい真面目に椅子
に坐ってはおられない、生徒もドッと吹き出す、モデルも笑い出す、暫時は稽古をせずにワッワといって騒ぐ。&lt;br /&gt;
英国人であるとか、独逸《ドイツ》人ででもあると一層烈しい。英吉利《イギリス》人の下手な仏語の真似をする。妙な声で英吉利語を唸《うな》る。ロース
ト・ビーフ、プラム.ブッヂングなどいう辞が所々の隅から出る。端に居てヒヤヒヤするような毒言も、おかしくてとうてい真面目にたって描いて居れぬ奇言も
遠慮会釈なしに出る、実にその頓智とその滑稽にはジュリアンの生徒に敵う奴はないージュリアンは悪口、頓智滑稽の名所だ。&lt;br /&gt;
この悪口雑言も歯をくいしめて聞かぬふり、先ず無事に自分の座を定めると、その次に学生中の幹事というような奴がやって来て仲間入りの金を取りに来る。こ
れが学生仲間の束脩《そくしゆう》のようなもので、定額は一人前確か五|法《フラン》であったかと思う。この金を払うというと幹事の触れ出しで出席者一同
近辺の酒屋に酒を飲みに行く。これはむろん修業時間中の事で、別に規則というものもない。一同賛成という事なれば修業時間でも勝手に稽古を止してしまう。&lt;br /&gt;
酒屋へ出かける時もなかなか面白い。一同二列位に行列を組んで人道を歩く。途中は歌を謡う、演説をする、楽隊の真似もすれば、物売りの仮色《こわいろ》を
やる。衣物はむろん、稽古着そのままで、例の長い職人の上ヅパリを被《き》て居る。帽子を被る奴もあるし被らぬ奴もある。通行人の背中を後ろから叩いて知
らぬふりをする奴もある。通りかかる女に戯れる奴がある、中には自分の背中に「売物」なぞいう看板をブラ下げて平気で歩いて居る奴もある。活撥といおうか
無頓着といおうか、とにかく普通の人間の出来ぬ事を白昼平気でやって居る、少しも恥かしいなぞ思うては居らぬ。奴らの胸には技術家という別世界があってこ
の社会の人間のする事は几俗の奴らの批評なぞには乗らぬものと心得ているから面白い。&lt;br /&gt;
不思議なのはこの行列の途巾誰独り肝腎《かんじん》の金主の新入生に気をつける者のない事だ。初めて来た奴ではあるししかもその人の御蔭で一杯やれるので
あるから、少しは愛想もありそうなものだが、誰一人見向きもする奴がない。当主は後からスゴスゴ踵《つい》て行く。実に淡泊極まった話だ。&lt;br /&gt;
酒屋へ着くと歌はいよいよ烈しくなる、乱暴は募って来る。舞踏をする、驍《しやち》ほこ立ちをやる、大声に演説をする。その内に給仕人が注文を聞きにやって来る。万事メチャ苦茶である。吩咐《いいつけ》る酒も十人十種だ。&lt;br /&gt;
葡萄酒もやる、ビールもやる、コニャックもやる、リモナーデも好し各々勝手気ままに注文する。やがて二旦一百飲んで一座ようやく治まると、ソコで新入生にとって大変な事がオッ始まる。&lt;br /&gt;
これが仲間入りの芸当で、これは是非ともやらねばならん。幹事が起立してこれより新入生○○君の芸当始まり始まりと怒鳴ると、一同拍手で是非是非と所望する、少し躊曙すると気早い連中は傍へ来て無理矢理に引き連れて何かさせるまでは承知せん。&lt;br /&gt;
僕の入学の日にはちょうど、布畦《ハワイ》から来た米人と独逸人と僕と三人の新入生であったが、先ず布畦先生テーブルに飛び上って布畦名物カナカ土人の尻
振踊りをやった。尻を振り始めると一同テーブル、コップ、戸、障子、何でもかでも手当り次第のものを叩きたがら五、六十人一斉にラララーラーララララー
ラーラと拍子をとる。その喧《やかま》しい事は何ともいえない。これが済むとこんどは僕の番だ。&lt;br /&gt;
ここでちょっと入れたい事がある。この芸当という奴をやらされたのはこの時が始めてでない、これ以前には幾十度となくやらされた、これには実に閉口するが
しかし西洋ヘ行った以上はどこかで必ずやらされる。これは仕方がない、この覚悟は誰も西洋に足を踏み出す人は持たなければならん。今まで西洋へ行った連中
でこの一条で非常に苦しんだ先生方が多いだろう、また珍奇の話もあるであろう。とにかく、イザという場合には少しも閉ロせずに出す事の出来るだけの何か歌
なり詩なり踊りなりの芸をあらかじめ用意しておかねばならん。&lt;br /&gt;
これで思い出す事がある。二十三年の夏米国に居った時ムーデー氏の夏期学校に在留日本人の学生一同が招かれた事があった。ある時、何かの祝賀会の時であっ
たと思う、米国各地の学校その他英国、仏、独を代表して居る学生連がそれぞれ自国の歌を謡うから日本も自国を代表して何かやれというので日本人連中集まっ
て相談をした。相談はしては見たもののもと元何も知らぬのであるから話が纏《まと》まらない。なんでも文句は西洋人にわからぬからかなり皆のよく知って居
るものが善いというので「一ツトヤ」をやッつけろという事に一決して、それから一日稽古をした。しかしこの数え歌でさえなかなかうまく行かん。&lt;br /&gt;
が、トウトゥ稽古をして当日出たが、仏蘭西人のマルセー工ーズ、独逸人のラインの歌の後で、聴衆にはわからぬとはいいながら五、六百人の前で一同高座に
上って、髭《ひげ》の生えた立派な連中が「一ツトヤー」を歌うのだから耐《たま》らない。殊に「五ツトヤーいつも変らぬ、とし男くお歳をとらずに嫁をと
る」の一段に来た時には自分ながら腋《わき》の下に汗をかいた。未だよく覚えて居る、この時の音頭とりが今の貴族院議員の三島弥太郎君だ、それから歌った
連中には大分今日の紳士連がある、名をいちいち挙げる必要もあるまいが、今の第一銀行の市原盛宏君なぞも確か合唱連の一人であったと思う、何でもみんなで
十五、六人一緒だった。&lt;br /&gt;
さて話が外《そ》れたが、順が僕の番に来た、仕方がないから詩を吟じて御免を蒙《こうむ》った。布畦先生も僕も非常な拍手|喝采《かつさい》で済んだ。二
人は無事にやってのけたが次の独逸先生はどうしてもやらない。この人はよほど柔和な人であったが、知らないか、知って居るのか、如何《どう》勧められても
やらない。ところでなんとなく仲間外れというような風になって来て例のジュリアン得意の悪口が四方八方から降って来た。この先生幸いに仏蘭西語が通じな
かったから悪口もさほどに感じなかったろうがもしわかったら穴にでも這入りたく思ったであろう。&lt;br /&gt;
この酒屋の会合が新入生の紹介見たようなものでその時の仕打ちで大概新入生の人物を鑑定してしまう。&lt;br /&gt;
活撥な奴か優柔の男か、話せる奴か話にならぬ奴か大概見当がつく。実に新学生にとっては大切な場合である。この時にヘマな事をすると在学中の愚弄物、嫌われ物になる。&lt;br /&gt;
現に今の独逸人なぞもその翌朝、坊主の衣を着けて、苦虫噛み潰したような面をして居る肖像を描かれて壁上高々と懸けられた。このポンチ画と悪口が学生の武器で、時によると竹槍で横ッ腹|刺《つつ》かれるようなポンチ画の似顔が壁に出る。&lt;br /&gt;
気の毒の事にこの独逸人は在校中皆の弄び物になって居った。ある時(これはジュリアンがルユー・ドラゴンという町に移ってからの事であった)稽古中にわか
に四、五人の学生が隣室に引っ込んでしきりにゴトゴトやって居ると、その内やがて一人の男が二尺ばかりの焼鉄棒を持って来た。鉄は真赤に焼けて居る、そし
て棒の元を濡れ手拭で巻いて握って居るが火気でポッポッと湯気が出て居る。&lt;br /&gt;
この棒で、例の独逸先生を攻撃するという趣向だから耐らない。先生早速椅子を離れて逃げ出したが、他の連中なかなか室外に出せばこそ。先生一生懸命蒼く
なって逃げ廻った。僕は悪戯《いたずら》にもほどがある、これはあまり酷《ひど》いと思って居ると、その時にちょうど居合わした生徒の中にハッチソンとい
う男があった。この人はカナダから留学して居った学生で至極着実なまた義攸に富んだ男で平素から学生の乱暴を嘆息して居った、少しジュリアンには不相応の
変り者であったが、この先生この悪戯を見てはもはや耐えられない、蒼くなって止めに往った。鉄棒を持って居る男と独逸人の間に這入って止めたがなかなか止
めばこそ、トゥトウ迫り迫って、ハッと思う間に焼鉄を横ざまに独逸先生の頬ッペタに押しつけ反《かえ》す刀でまた仲裁人の頬へも打ちつけた。&lt;br /&gt;
コレハと思って見ると面白い、独逸先生の面は朱だらけ、仲裁人の面も手も真赤、焼鉄は木の棒を写実的に絵具で塗り上げ熱湯につけたる手拭で元を握って居っ
たという趣向。満室拍手喝采飛ぶやら跳ねるやらの大騷ぎ。仲裁人もあまりの馬鹿気さに果ては腹をかかえて笑い出した。こんな美術的の悪戯は時時やるがしか
し新案の犠牲に供せらるる奴はいつも真面目な充分弄び甲斐のある男に限る。かようの悪戯は臨時でその度々の新案に任せて有志の連中がやるのであるが、この
ほかにお定りの奴がある。これは大概の新入生はやられる。その中の一つが大鏡の狂言だ。これは雨天の時に光線が弱いので連中の一人が来て「事務室に大鏡が
あるから行って持って来い、暗くて仕方がない」という。使われるのは新入生の役目であるから事務室に行って大鏡の話をすると、事務員はニコニコと笑って返
事しない。利口な奴なれば、この時にヤラレタナと気がつく、馬鹿な奴は真面目に報告すると、サー一同でそれからそれと善い慰みものにする。&lt;br /&gt;
中には性質《たち》の善くない悪戯がある、スコットランドから来て居た若い学生が居ったが、この先生少し軽卒な性質で、至極好人物だが、国自慢が病いで、ナンデも蘇格蘭土《スコツトランド》でなければ通らない、しまいにはみながグラスゴーという綽名《あだな》をつけた。&lt;br /&gt;
この先生、この位の男であるからなかなかの剛情者で、人の忠告や、教師のいう事などは聞き入れない。友人が自分の描いたものを批評する事でもあればなかな
か承知すればこそ、何でも自分の作には問違いないと思って居た。コンナ男が一番慰み者になる。この男が学校中の憎まれ者になって居る最中の事であった、あ
る男子のモデルを稽古して居る時ちょうど教師の廻って来る前にグラスゴーの小用に降りて居る間に誰がやったか先生の描き終って居た裸体画の陰部を真物大の
二倍位に延ばしておいた。グラスゴー用事を済まして昇って来たが訂されたとは少しも気がつかない。やがて教師が廻って来て、サテ、先生の作の批評に取り掛
かると教師驚いたの驚かないの、「コリャあまり太過ぎる」と直すとグラスゴー例の反し詞で、イヤといいながら見るとイッの間にやらステキに肥えて居るの
で、この時にはさすが傲慢のグラスゴーも謹んで教師のいう事を容れた。&lt;br /&gt;
こんないたずらもやるがしかし勉強する時には実に真面目に勉強する。むろん教師は平日画室に居らない。教師どころか生徒のほかには事務員も居らん。監督者
というような人間は影も見えない。生徒自身が監督者で、画室の中の事は誰が何といおうが聞かぬ。また統御者のようなものが居った所でいずれも一騎当千の乱
暴者であるからソンナ人間のいう事は誰も聞くものはない。実に自由も自由、勝手気ままの人間の集りだ。しかしこの我儘の人間もモデルの形或いは色の善いの
に逢うか、また佳境に入った時には一生懸命に勉強する。大概一週間の初めに新モデルが出て、その手本の大体を描き入れる時にはシーンとしてただ木炭の紙面
を擦《す》る音のみ聞えて息も迫るように一生懸命勉強する。遊ぶ時には犬ッコロのように遊ぶ、勉強する時は全力を尽して勉強する、コレが学生の風だ。&lt;br /&gt;
しかし少しでも飽いて来ると決して黙って居ない、第一が口笛でそれから誰か歌を謡い初める。それも仏蘭西《フランス》の歌ばかりではない。生徒は各国から
集まって居るのであるから、露西亜《ロシア》も出る、米国も出る、英国も出る、伊太利《イタリ　》も出る、葡萄牙《ポルトガル》も出る、瑞西《スイス》も
出る、希臘《ギリシア》も出れば波斯《ペルシア》も出る。各々自国の歌をやる、むろん自分の画は描きながら。時にうまくその国歌をやると一同その国の万歳
を唱える。ちょうど僕の居た頃は露仏同盟の風説が盛んな時であったが日々四、五十遍露西亜の国歌を教室で聞かなかった事はなかった。これが学校であるかと
思うと不思議なようであるが、論より証拠、この乱雑な学校で出来るものがしかつめらしい、規則立った学校で出来るものよりも十倍も百倍も善いというのが面
白い。&lt;br /&gt;
学生の退屈を醒《さ》ますは歌も一つの手段であるが、そのほかに未だ種々ある。仮色《こわいろ》ーその当時有名な役者の仮色もその一つだ。時々自慢にその
節評判の筋をやる、一座感服して謹聴する時もある。またしばしばやるのが動物の仮色で犬、猫、猿、豚、羊、雁、鴨、鶏を初めとしカンガルーでも象の仮色で
も一同負けず劣らず一生懸命にやる。これは各々それぞれ得意の受け持ちがあって初めは一人一人やってるが後には一度に出すのでノアのアークが難船したらか
ようであろうと想像することもあった。&lt;br /&gt;
一番僕の感服したのは西班牙《スペイン》とか葡萄牙《ポルトガル》とかから巴里に来て居る銀行の頭取りの子息であるとか評判のあった男の芸だった。この男
は当時乱暴者の首領であったがおよそ物真似と来たら、身振りでも、口真似でもこの男に叶う奴はなかった。この先生の最も得意なのが「ドーヴァー海峡」の一
段で旅客が乗船する時から途中船に苦しむ所まで眼前に見るように真似する。友人でこの話を聞いて胸を悪くした奴があった。一体奴ら、物の癖を取って、人に
感を与えるように表わす事においては非凡の技倆がある。ここが美術家だ。&lt;br /&gt;
一体がこういう風であるから、この道場に別段|喧《やかま》しい規則のようなものはない。学校とはいいながら、出るも出ぬも勝手次第で、競技はあっても試
験というものはない。ただ時の気の模様で休みたければ休む。勉強したければ勝手に勉強する、何事も当人の気ままに捨ておくという話だ。しかし誰でももし学
生一般の意向に反対な事をするか、或いはいうかすると例のワイワイでただちに打ち潰してしまう。つまり多数の自然制裁で万事やって行くのである。&lt;br /&gt;
ところが人間という奴は人種こそ異なれ欲には大した相違がない、希臘《ギリシア》人でも安南人でも十二時が近くなれば腹が減るといったようなもので望む所
に甚だしい違いがないから別段堅苦しい規則を製造しなくてもうまく行く……四、五月頃になって画室は少し暑くたって来る。ブールヴァールの並樹が芽を吹き
出して来る。馬車の音が何となく陽気に聞えて来る。サアそうなって来ると冬中四、五ヵ月の間日々むし暑い空気と煙草の煙に燻《いぶ》られた学生は飛び出し
たくて耐《たま》らない。厭気ながらモデルと首ッ引きをして居ると、ちょうどその時に町の角で乞食が手風琴をやり始めるウォルツの調子に浮れ出す。もう辛
抱も我慢もして居られない。&lt;br /&gt;
突然学生の一人が起立して演舌する、「諸君、我々は馬鹿です、気狂いです。この美しい春の日に我々のごとく穴にもぐって馬鹿な真似をして居るものが広い世
界にまたとありましょうか我輩はこれより野外写生と出掛けます。諸君いかが」。賛成賛成の声が湧く、「実に我々は馬鹿老だ、気狂いだ」「しまえしまえ」と
いうような声が聞える。急に画板を拭い出す。筆を洗う。ポート・フォリオをしまう、画架を片づける。モデルも台を飛び降りて衣裳を着けるというようなわけ
で二十分後にはシーンとした空家になる。学生はサン・クルーの森に行くもある、マルンの河畔に新柳を写生に行くもある、なお一層奮発して遠征と出掛ける連
中は一夜泊りにバルビゾンにミレーの旧家を訪いがてらフォンテヌブローの森の写しと出かける学生もあるだろう。&lt;br /&gt;
前のような調子で学生は自由、自在、勝手気ままで己が意の通り馳せ廻る不規律極まった人間で技術のほかには天下に尊いと思う者もなければ、恐いと考える人
もないが、この乱暴者が青菜に塩、猫の前の鼠のように閉口《へいこう》してグーの音も出ないものが天下に一つある。これが教師である。実に教師の前では平
素の悪口はもちろんの事ろくろく声も出さない。巴里美術学生と教師の関係というものは敬仰、服従の点において神様と信徒のようだといって差し支えなかろ
う。学生にとっては師匠の一言一句はむろんの事、御尊体を拝するのさえ有難い。実に美術の生仏様である。&lt;br /&gt;
教師は大概一週間に二度来る。教師の来る日は定まって居て、その朝になると生徒の様子で何となくわかる、描き残りのある老は一生懸命仕上げをして居る、仕上って居る者もなお一層調べて研究して居る。&lt;br /&gt;
皆忙しい。ドーゾ一言でも快い批評を先生から得たいというのが学生の心願だ、これよりほかには何の欲もない。&lt;br /&gt;
教師が校舎に這入って来るとすぐわかる。にわかに学生がシーンと静まってしまう、誰一人座を離れる者もない。先生は画室に入るとすぐさま入口に近い所から
当り次第に画架から画架と順次批評をして行く。ところが大勢の学生の事であるからたかなか長々しい事はいって居らぬ、大抵二言か三言位で「善し」「この調
子が間違ってる」「大して悪くもない」「姿勢がまるで狂って居る、駄目だ」なぞいう詞《ことば》が普通で、自ら筆を執って直してくれるなぞいう事は実に稀
だ。しかし「大して悪くもない」なぞいう詞を頂戴した時の嬉しさ、この嬉しさは実験した事のある者でなければわからない。ゾーッと身に染むように嬉しい。
その晩は考え出して眠られない。&lt;br /&gt;
ところが「大して悪くもない」なぞいう御言葉を頂戴する事はなかなか出来たい。褒《ほ》められるどころで&lt;br /&gt;
はない、大勢の中でビシビシと悪口をいわれて穴にでも這入りたい心地のする事がある。むろん教師も皆生徒の境遇はやって来て居るのであるから、悪口、皮肉の批評は上手だ、実に上手だ。気の毒で他人ながら手に汗を握る事がある。&lt;br /&gt;
「コリャなんだ、コレは何のつもりだい。これが手だと?御前|何歳《いくつ》、三十?絵具箱をしまってお帰り。田舎で芋を掘って居た方が善い」なぞいう批評が年に二、三度は必ず出る。&lt;br /&gt;
これは必ずしも生徒の作が悪いために出るのではない。時の先生の機嫌にもよるだろうが、しかし悪い機嫌も生徒の作の善いために直る事もある。画室にやって
来る時は渋々顔でも出る時はニコニコとメシュアーの前置きで愉快に挨拶をして帰る時もある。とにかく、一種の別世界で人間の全体が技芸というものに全く捧
げられてある、他心のない無邪気な、他から見れば不思議な社会だ。&lt;br /&gt;
ちょうど僕の入学してから三、四日経っての事であった、フェリエー先生がやって来て烈しいのを食らわした。この時の生徒は五十近い男であったが、他の事な
れば命も捨てて撃ってかかるだろうが、技芸の評言ばかりは黙って聞いて居る。学生一同もその生徒の作を囲んで教師のいう小言は一言も聞き洩らさぬようにす
る。これは悪口の時のみでない、平素でも教師が来て直す時には画架から画架と教師の後を生徒一同ゾロゾロとつき纏って一言半句の詞も聞き洩らさぬようにす
る。殊に、その中でも学生中腕の善い奴の作の番に来るとあらかじめこの点を何というかという欠点を見つけ出しておいて、教師がどんな所に気をつけるかと注
意する、もし自分の考えて居った所と符合する事でもあれば、ちょっと嬉しい。&lt;br /&gt;
この時にやられた先生なぞも腕はなかなか善い男だった、日本でいう大家先生なぞはなかなか側へも寄りつけぬ腕であったが、しかしとにかく十年も十五年も引
き続いて勉強し、しかも世界各国から来て居る、生徒とはいいながら、いずれも七、八年の辛苦をしてその仕上げに来て居る連中の中であるから容易な事では満
足は与えられない。それに形も色も喧《やかま》しいから手は手、足は足らしく見てくれるようになるまでには容易な事ではなれぬ。実に芸術の教授法は酷だ。&lt;br /&gt;
この学校には卒業というものは全くない。だから生徒の中でも十年来て居るとか十五年来て居るなぞいう連中は珍しくない、腕も善くなるはずだ。しかしこのよ
うな男でも時々教師から五つ六つの子供同様の取り扱いを受ける。とにかく教師の批評には遠慮というものがない、勝手次第、心に浮び任せの事をズンズンいっ
て行く、僕が学校に入る少し前に死んだブーランジェーという名家があったが、この先生はまたエライ直言家であったそうな。或る時例の通り直しに学校に来
て、部屋の端から端へと次第に見て行ったが、一言もいわない。&lt;br /&gt;
スッカリ見終って、出口の所ヘ来て「此奴《こいつ》らに睾丸のクッついて居る男は一人もない」といい捨てたまま一言もいわずに行ってしまった。&lt;br /&gt;
教師はかような直言がドレほどの奮発心を生徒に起さすか、ドレだけの結果があるかをチャーンと知って居る。これを見ても生徒がドレだけ教師を信じて居る
か、いかに敬服して居るかがわかるだろう。生徒は教師に何と悪口をいわれようが、恥を掻かされようが、少しも怨まない、怨むどころではない、一層奮発して
ドーにかして一言でも嬉しい辞を貰いたいといよいよ勉強する。ここが技芸教育の面白い所で、仏蘭西《フランス》が近来他国に抜きんでてエライ美術家を続々
出し殊にテクニックでは世界の先導者となったのはこういう教育法で人間を鍛え上げたからである。馬鹿な人間も一人前の日傭取りに仕上げるという今日普通の
教育法で、この荒ッぽい教育法で鍛錬すると技芸家の根性が出来るようだ。技術家の根性というはほかでもないが、スラッとした、のびのびした、イジケない正
直な、活灌な人間が出来る。先の眼色や鼻息を窺ってこちらの考えを製造しようというような根性がなくなる。これに従って他人と自分という区別が判然として
独立という所が堅固になって来る。この独立という奴が技芸界にとっての最も肝要なもので、変化のない人間ばかり居る世の中になったなら技芸というものはな
くなってしまう。オリジナリチー、独創という奴は人と同じような考えを持って居る者には出来ん。人が左といえば右、右といえば左というように常に反対の根
性がなくチャー起って来ない。コイッが真の美術家の根性で、独立という考えがなけりゃ、変化がなくなる。それからこの酷な教育法でやると出来上る学生に人
間の屑が少ない。完全《ちさ》という考えが強くなって来る。メジオクリチー、平凡、中途という奴と朷魔化《ごまか》し、善い加減という奴を嫌忌する一種の
根性が出て来る。こいつも技芸家にとっては最も必要である。仏蘭西の美術が彫刻でも絵画でも古来見た事のないしっかりしたテクニックを出したのは実に偶然
の事でない。&lt;br /&gt;
しかしこの教育法は善いだけに辛い。第一よほど良い無理に耐えられる体を持って居る者でなければとうてい辛抱が仕切れない、三ヵ月と辛抱が仕切れない。僅
か二十坪か三十坪位の部屋に閉じ籠って、空気もろくろく通わぬように閉じ切って五十人の生徒とモデルを裸体にしても差し支えないだけに夏冬の構いなくス
トーブをカンカン燃《た》いて三、四十人のパクパク吹き出す煙草の煙に巻かれて、朝の八時頃から夕の四時頃までコツコッやるというはなかなか一通りや二通
りの体では永く続くものでない。世間では美術家とか何とかいってエライ呑気《のんき》なようなものと思って居るが実際技術の修業というものは決して小説家
の想像するような楽な呑気な色男のする仕事じゃない、頭を使う事においては木を読んでむずかしい問題を判断する学者と違わず、また労働と辛抱の点でいえば
土方と大した違いはない。&lt;br /&gt;
修業の辛い上に美術学生は学資という奴で他の学生より一層に困難をする。中には金満家の子息もある、また金満家とまで行かぬとも豊かに資金をもらって居る
者もあるがしかし美術学生といえば大概不充分の学資で支えて居るのが多いようだ。ここにおいては西洋も日本も変らない、「美術家貧乏」という事は昔から一
つの諺にまでなって居る位だから親にしても親戚にしてもその家から美術家なんていうものが出るのはあまり感心しない。感心しない位だから学資なぞは出そう
はずがない。出ないから仕方がない乞食同様の姿で勉強しなければならぬ。昔から西洋の大美術家といわれた人の伝記を見るのに子が絵かき彫刻家になるという
申し出に対して双手を揚げて大賛成を表した親の話は聞いた事がない。ただターナーの親のみがその例外である。しかしターナーの老爺《ろうや》は理髪床の主
人だったという事を記憶しなければならぬ。もし役人とか代言人でもあったならむろん不賛成不承知であったに違いない。これは一通り無理でないというのはお
よそ職業として美術の修業位前途の不確かなものは少たい、また出来損った美術家位|潰《つぷ》しのきかぬ厄介た者も少ない、可愛い子供を乞食にしたくない
という親の考えはもっともだ。&lt;br /&gt;
理窟はさておき実際の所不充分な学資でコツコツ勉強して居る美術学生が多い。英吉利、独逸から来て居った学生にも貧乏で貧乏で実に可哀想なのがあった、部
屋は五階か六階の上でようよう小机一つに寝台を容れるだけの場所しかない薄暗い小便臭い所に城を構えて食事は自炊、洗濯も大概は自分、夜は油代倹約に運動
と出掛けるか、さもなくば比較的富有の友人を訪問して一夕を過すというような連中も居った。&lt;br /&gt;
だが、巴里の外国留学生は美術学生としては割に呑気に見える。これは巴里が他の市と異ってとうてい外国人として自分の技術を売って金を取る望みがないので
初めから相当の学資を用意して来るからであろう。実に巴里では一通りや二通りの腕で芸を金にする事は出来ぬ。外国人の巴里ヘ来る旅客で一番散財をするのは
米国人であるがその亜米利加の学生でさえ巴里在留の本国人から金を取ることはなかなか出来ないそうだ。亜米利加の女学生なぞは巴里見物にやって来る同国の
金持ちの通弁なぞをして学資の助けとして居るがなかなか暮しに困難な様子だ。&lt;br /&gt;
前にいう通り学校の修業もまた貧乏生活も随分困難ではあるが巴里はこの困難に対して美術学生に酬《むく》ゆるだけの愉快を備えて居る。教師の小言に落胆し
た連中を奮発させる美術館がある。なお一層落胆のあまりもはや人間界が厭になった連中にはクロコダイルやアルッパカを友として一日を過すことの出来る動物
園がある。&lt;br /&gt;
六階の頂上に寒中火なしに震えている学生も美術家倶楽部に行けばドンドンと火が燃えて居る暖炉の傍で馬鹿ッ噺に面白おかしく一夜を過すことも出来る。平生
は節倹に節倹でただ腹を空にせぬだけに止めておく連中も少し奮発すれば僅かの散財でとうてい他では同類の腹に這入らぬ御馳走の食える安飯屋がある。一週六
日画室に閉じ込められた貧書生も日曜には僅かの費用でムードン、サン・クルー、スレスンの森に終日を暮らすことが出来る。古道具、古本の道楽者にはケイの
子店がある、ちょうど今頃だ、セイヌ河畔の並木が芽を出した時分にブラリブラリと古本屋を素見し、掘り出し物を目当てにムウッと徽《かび》臭い古本をこれ
かあれかと掘り廻すその心持ちは何ともいえぬ、本道楽の極楽だ。&lt;br /&gt;
それから夜にたれば夜相応の場所がある。芝居好きには立見も出来る、助平連には三|法《フラン》の夜鷹も居る、カッフェに隣席の美人を己が手の者気取りに
なって一夜を過すもよし、ブルヴァルの小間物店に一万|法《フラン》のダイヤモンドに眼を飽かせるもお安い事。万事コンナ調子で貧乏書生には貧乏書生だけ
に他の市でちょっと得られぬ快楽と利益がある、他の富豪書生同様立派に美術の刺激を受けられる機関が備わって居る、ここが巴里の巴里たる所で美術教育地と
して他市の真似の出来ぬところである。&lt;br /&gt;
これらの種々備わって居る快楽の中で美術学生生活の大半を占めて居る、いわば半公半私ともいう修業半分愉快半分の仕事が美術館への参詣《さんけい》だ。実
に美術館は学校についでの教育場で、学生は美術館と学校の間に修業して居るといって善い。この美術館にも種々ある。古代、中古、ルネサンス、近代の美術、
美術工芸の歴史的名作を研究する者はルーブルヘ行く。現代の絵画、彫刻を研究する者はルクサンブールヘ行く。建築の研究者はトロカデロの建築歴史参考館へ
行く。このほかに東洋の技芸に凝《こ》って居る濘中はギメー美術館、中古の芸術を調べる者にはクルニーの古寺がある。このほかに、ミューゼ・カルナヴァレ
の歴史博物館がある、いずれもそれぞれ専門の方面に向って蒐集し、それぞれその美術館所属の学者が研究に研究を積んで、常に材料を増し、区分をこまかにし
て居るから学生にとっては有難い場所である。&lt;br /&gt;
なおこのほかに学生の行くべき場所がある。これが中古以降の建築で、この点においては巴里自身が立派な美術館であるといっても差し支えない。寺院建築とし
てはゴシック最良の建築の標本の一つとして数えられているノーッル・ダームがある、サン・ゼルマン・オーキセロワの寺院がある。なお溯《さかのぼ》って
ローマネスク時代からゴシックヘの変遷時期の建築を調べたい者にはサン・ジェルマン・デ・プレの寺院、サン・ドニの寺がある。復與時代の建築ではルーブ
ル、ルクサンブール、少し廓外に出づればヴェルサーユ、サン・ジェルマン、フォンテヌブロー、シャンチー、コンピエンヌの宮殿がある。近代の建築としては
パンテオン、マドレーヌ。オぺラを始めとして大小美術館さては新美術《アさルヌヴオ　》を隅から隅まで施したニョロニョロ、デレデレした最近の建築に至る
までとうてい算え切れぬほどたくさんある。それから建築装飾画の研究をしたい者にはソルボンの装飾、美術学校講義室の壁画を始めとして、パンテオン、オペ
ラ、オペラ・コミック、ルーブル美術館の装飾、これもいちいち数え切れぬほどある。&lt;br /&gt;
このほかに年々五、六月の頃に開かれる両サロンの展覧会を始めとしてジョルジ・ピチー、ヅラン、ヅエルのような家に開かれる私設展覧会を算入すると学生に
とってはなかなか三年や四年で頭の中に入れ切れぬほどの材料がある。日本を出る時には大抱負を持って巴里美術界征伐という勢いで出掛けた先生方が、さて
行って見るとその材料の多いとなかなか力の及ばないのに閉口して「とうてい駄目だ、おッつかない」なぞと泣言を出すのは無理でない。小ッポケな所から想像
しては西洋の美術界なぞいうものは何の事だか見当もつかない。しかしこれほどの所を現在目撃しても「ナアに巴里といったって知れたものだ」なぞとスマして
居る変り者がある。これらの人間は何を見ても少しも感のない無神経か、さもなくば質《たち》の一層悪い己が商売の側《がわ》から割り出した喝《おどか》し
策を振り廻して居る不埓《ふらち》な奴らでとうてい何を見せた所で正直な音《ね》を吐く生物じゃない。またもし正気でいって居る奴なれば話にならぬ気違い
だ。感服すべきものは感服し驚くものには驚くが当り前、それを驚かぬ振りをしたところで少しもエライ所はない。こんな連中が国を危《あやま》るというもの
で、こンナ奴らが庇理窟を並ベて煽立《おだて》たお蔭で日本の美術殊に美術工芸はどの位損をして居るか知れない。美術工芸なぞいうものについては善い所は
異人から皆採られて今日では「縁の下の骨を見ろ」といわれて居らぬばかりだ。中には実際「骨を見ろ」といって居る奴があるだろう。それでも自惚《うぬ　
れ》というものは烈《ひど》いもので今だに日本の美術とか工芸とかいって独《ひと》りでエラがって居る連中がたくさんある。この塩梅《あんばい》で行くと
ちょうど伊太利亜がルネサンス時代の美術に威張って安心してトゥトウ今では諾威《ノルウエ　》や瑞典《スウエヨデン》の尻に陥ちてしまったと同様日本の美
術もアルゼリヤ美術や布畦《ハワイ》美術の後に引き摺り落されるかも知れぬ。他人の力量を看破する明《めい》のないにつけて加えて自惚が強いとドンナ事に
なるか先が知れない。馬鹿な奴ほど恐ろしいものはない。&lt;br /&gt;
学生は学校に行くかまた美術館に行くのが業務である。普通は学校に行くのであるが少し気持が悪くて学校では勉強が出来ぬとか、また何か考える所があって古
人の作を見たくなるか、或いは少し飽《いや》気が差して蒸気の欠乏を感じて来ると学校は止めにして美術館に出掛ける学生は美術館を学校同様の研究場と心得
て居る。中には学校よりもルーブルに一日を過した方が蓬かに利益があると考えている者もある。&lt;br /&gt;
少し思慮のある学生なれば美術館から出て来る時に遷這入った時と決して同じ心持ちでは出て来ぬ。何か新しい考えを起して来るか、一層の奮発心を持って出て
来るか、また悪くすると這入った時の勢いも挫《くじ》けて閉口の体で出て来るだろうが、とにかく同様の人間では出て来ぬ。たまたま学校の競技に勝って我こ
そはと思う得意の先生も一度ルーブル、ルクサンブールの作を見ては大概の自惚は醒めてしまう。&lt;br /&gt;
これがどの位薬になるか知れない。落胆して居る奴も傑作を見ては奮発をしようし、少し位頭の足りぬ奴も大家の作を見ては自然と覚る所があるようになる。美術館は学生の病院のようなもので、この病院に節々行く必要があるし、また実際しきりに出入りをする。&lt;br /&gt;
学生は各々この美術館に自分の守神様と崇《あが》め奉って居る本尊がある、この本尊の前に行くのが楽しみである、楽しみどころではない有難い。時によると
崇拝のあまり嫉妬を起して来る。こうなって来るとその作者ばかりに熱中して他の人は一切構わなくなる。ヴェラスヶスを神様のように尊敬する奴もある。&lt;br /&gt;
ルーベンスを仏のごとく思う奴もある。ミレーを師と仰いで虹の図の前に眼を据える学生もあれば、ボッチチェリの聖母に願かける者もある。その他ピュヴィー
スの壁画、モネーのアンプレッション、十人十種で学生の性質、修業の具合でそれぞれ考えは異うが古来数百の大家のうち誰か自分の理想を現表する人を選み出
してその人その制作を敬愛する。&lt;br /&gt;
この守本尊の自慢比べ堅苦しくいえば比較研究が学生間の生活のなかなか大部分を占めて居る。一日の業務が済むと大概は夕方から友人の所に出掛ける。または
親友を誘うて夕食をやりに出掛ける、いずれにしても話相手はある。かような場合に幸いにして同座の者が同じ流派同じ崇拝の本尊であると至極円滑に行くが不
幸にして旧教と新教、モルモンとクエーカーといったようにクラシック好きとロマンチック崇拝家という調子にとうてい根本から折り合いのつかぬ宗旨では大変
な議論が持ち上る。議論の果てには組み打ちになる事もある、親友の間でも十日も二十日も口を開かぬ事もある、時によってはそのまま絶交となる人もあるだろ
う。ここが学生気風のちょっと気をつけべき所であると思う。外国の学生は各々自分の信ずるままに敬愛する大家を崇めて他人の本尊様と自分の本尊が異って居
るのを少しも意にしない。これは外国人であろうが三千年前の古人であろうが時と場合には少しも頓着しない。こういう気風だから巴里の真中に居っても他の俗
物がヤレ異教国のものヤレ未開国のものと攅斥するその間に北斎や歌麿をラファエル、ミケランジェ口同様に敬慕信仰する者も出来るのである。これを思うと西
洋の物といえば一概にこなしつける撰夷風の技術家とは同日の論でない。しかしその代り自分自身の感服しない奴なれば大家であろうが、古人であ&lt;/p&gt;
    </description>
    <dc:date>2011-05-28T16:39:52+09:00</dc:date>
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    <item rdf:about="http://www6.atwiki.jp/amizako/pages/210.html">
    <title>火野葦平「皿」</title>
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&lt;p&gt;
　河童は立ちすくんだ。背の甲羅がひきしめられて枯葉のように|軋《きし》み、膝小僧が金属板のように鳴る。自分の目がつりあがってゆくのが自分でもわかる。こんな恐ろしいものを見たことがない。&lt;br /&gt;
苔のついたしめった石垣が上部からの光線に、円筒形に|鈍《にぶ》く光っている。昔はまんまんと水がたたえられていたのであろうが、今はほとんど乾いてしまって、古井戸の底にはわずかに点々と水たまりがあるきりだ。その水も腐って青いどろどろの糊になっている。しかし、路上の馬の足あとにたまった水たまりにさえ三千匹も棲息することのできる河童は、こういう腐水であっても、水分さえあれば姿をかくすに十分だ。相手に気づかれずにどんな観察でもすることができる。河童をこんなにおどろかせたのは、一人のうら若い女性であった。&lt;br /&gt;
|黄昏《たそがれ》、河童はさわやかに吹く春風のこころよさに、浮かれ心地で山の沼を出て散策していると、一匹の蛙を見つけた。冬眠からさめて地上に這い出たばかりらしく、まだ十分に手足の運動ができない様子で、きょとんとした顔つきで置物のように柳の木の根もとにうずくまっていた。河童は食欲を感じてその蛙をつかもうとした。すると意外にも蛙は飛躍したのである。自由がきかないと思いこんで、油断をしていたので逃がした。蛙はかたわらにあった古井戸のなかに飛びこんだ。河童もすぐ後を追った。そして、河童は蛙どころではなくなったのである。&lt;br /&gt;
暗黒の井戸の底に、その娘の姿だけぼうと浮きあがっている。年のころは十八九であろうか。頭髪はみだれ、そのほつれ毛が顔中にたれさがっているが、その頭の結びかたは当節では見られない古風なものだ。河童はまだ城があり、御殿があり、そこに大名やたくさんの腰元のいた時代のことを思いだした。そういえばその顔形も古典的で、このごろ銀座などを横行濶歩しているパンパン・ガールのような文明的な顔形とはおよそ対蹠的である。衣装も振袖だし、窮屈そうな幅びろい帯はうしろで太鼓にむすばれ、古足袋のこはぜはまだ錆びていず、金色に光っている。一口にいえば、絵草紙から抜けでて来たような女だ。しかし、その|瓜実顔《うりざねがお》のととのった顔は、|嫩葉《わかば》いろに青ざめていて、唇は|葡萄《ぶどう》色をしている。&lt;br /&gt;
(幽霊だ)&lt;br /&gt;
河童にはそのことはすぐわかった。しかし、河童が恐怖に立ちすくんだのは、彼女が亡霊であったからではない。河童とて|妖怪変化《ようかいへんげ》の一族であるから、幽霊くらいにはおどろかない。おどろいたのはその亡霊の動作であった。&lt;br /&gt;
若い女はしきりに皿の勘定をしている。じめじめした古井戸の底にやや横坐りになった娘は、膝のまえに積みかさねられた幾枚かの皿を、なんどもなんども計算しているのである。女は一枚一枚を丁寧にかたわらへ移しながら、一枚ごとに数を読む。&lt;br /&gt;
「一枚、……二枚、……三枚、……四枚、……」&lt;br /&gt;
その弱々しい低い声が河童の心を冷えさせる。こんなにも陰欝で消え入るような|声音《こわね》というものを聞いたことがない。それはただ弱々しいだけではなくて、そのなかに含まれている悲しみや恨みやがたしかに永劫のものであることを感じさせるような、絶望的なひびきを持っている。その声を聞いているだけで奈落へでも引きこまれてゆくように気が滅入る。&lt;br /&gt;
「五枚、……六枚、……七枚、……」&lt;br /&gt;
ゆっくりゆっくり一枚ずつをたしかめながら読んで行く声は、七枚目あたりからなにかの期待と不安とにかすかに調子づくが、&lt;br /&gt;
「八枚、……九枚」&lt;br /&gt;
九枚目でぽつんと切れると、まるでこれまで|点《とも》っていたかすかな灯がふっと消えたような、終末的な表情が女の美しい顔を|掩《おお》いつくす。女は暗澹とした顔つきになって、肩で大きなためいきをつく。うなだれる。唇を噛む。涙をながす。すすり泣く。&lt;br /&gt;
「やっぱり、九枚しかないわ」&lt;br /&gt;
と、呟く。&lt;br /&gt;
しかし、まもなく、きっと頭をあげ、意を決した希望のいろを青ざめた顔にただよわせて、また皿を数えはじめる。細く骨はった青臘のような手で、直径五寸ほどの皿は一枚ずっもとの位置へ返される。&lt;br /&gt;
「一枚、……二枚、……三枚、……四枚、……五枚、……」&lt;br /&gt;
河童は皿が九枚あることを知った。その模様は九枚とも同じである。紅葉の林を数匹の鹿がさまよい、清流にかけられた土橋のうえで、神仙のような老人が二人ならんで釣をしている絵がかいてある。空に紫雲がたなびいている。色どりはあざやかで、陶器の肌はつややかだ。しかし、そんな皿の美しさに気をとられているどころではない。&lt;br /&gt;
「九枚」&lt;br /&gt;
という最後の声とともに、死に絶えるような女の失意の姿が河童をふるえあがらせ、ほとんど発狂しそうな恐怖へおとし入れる。河童の胸にいいようもない女の孤独が氷の|鏝《こて》をあてるようにしみわたってきて、全身戦慄で硬直しそうになるのだった。&lt;br /&gt;
亡霊は三尺とは離れていない臼分のかたわらに、自分をのこるくまなく観察している河童のいることなど、気づく様子もない。いや彼女には皿の計算以外、いかなるものも関心をよぼないもののようだった。さっき井戸のてっぺんから飛びこんだ蛙は、一度彼女の右肩にあたって下に落ちたのだが、亡霊は眉ひとつ動かさなかった。時代を経た古井戸には、虫や、螢や、|蝙蟷《こうもり》や、|蛞蝓《なめくじ》や、|蜘蛛《くも》や、|蛭《ひる》や、|蜥蜴《とかげ》や、いもりや、|蚯蚓《みみず》など、いろいろな生物が同棲していて、ときどき出没したり騒いだりもするのであったが、なにひとつ彼女の注意を喚起するものはなかった。天井のない井戸のうえからは、雨や雪が降りこみ、風が花びらや木の葉を散らしこんでいることだろうが、恐らくそういう電のも彼女から皿への執心を|反《そ》らせることはできない。河童はこんなにも頑固一徹な情熱というものを見たことも聞いたこともなく、このほとんど頑迷といってよい計算のくりかえしに、甲羅の破れる思いを味わったのであった。&lt;br /&gt;
河童は女に話しかけたい衝動を感じた。沈黙に耐えられなくなった。それには好奇心も手つだっていたことは否定できないが、主としてあまりの息苦しさに負けたのである。&lt;br /&gt;
どろどろした青い糊の水をゆるがせて、河童は姿をあらわした。若い女も、あまりに唐突に、自分のすぐ横から異様な形のものが出現したので、さすがにはっとした面持で、皿を数える手を休めた。もっとも、河童は、女が九枚を数え終ったときに名乗りをあげるだけの注意はしていた。この悲しみに打ちひしがれている女を恐れさせることを避けたのだ。河童の措置は適切であった。河童が計算の途中で姿をあらわしたならば、女はおどろきで皿を取りおとし、幾枚か割っていたかも知れない。&lt;br /&gt;
「失礼しました」&lt;br /&gt;
無言で凝視する淑女にたいして、礼儀正しい河童は丁重に頭を下げた。しかし、女は答えようとはせず、凝結したまま、ただ|闖入者《ちんにゆうしや》を見まもっているだけである。冷たい目である。狼狽した河童は追っかけられるように、どぎまぎしながら、&lt;br /&gt;
「いったい、どうなさったのですか」&lt;br /&gt;
と、とりとめのない質問をした。こんな問いかたにはなにも答えられまい。河童もそれを知らなくはなかうたけれど、|咄嗟《とつさ》には上等の言葉が出なかった。冷汗が出てきた。&lt;br /&gt;
すると、思ったとおり、女はなおも無言で河童を睨みはじめた。最初のおどろきの表情は消え、女がしだいに不機嫌になってゆくことがわかった。河童はさらに狼狽した。そしてつまらない言葉を吐いた。&lt;br /&gt;
「わけを聞かせて下さいませんか」&lt;br /&gt;
今度返事がなかったら、河童は窒息したかも知れない。しかし、幸いなことに、女は口をひらいた。&lt;br /&gt;
「あたくしは悲しいのでございます」&lt;br /&gt;
そういった声の悲しさと、たったそれだけでぽつんと切れた言葉の余韻の恐ろしさとに、河童はもはや亡霊と対決している忍耐をうしない、脱鬼よりも早く、井戸の外へ飛びだした。&lt;br /&gt;
河童の|俄《にわか》勉強がはじまった。&lt;br /&gt;
(歴史を知らなくてはならぬ)&lt;br /&gt;
河童は唐突な情熱をたぎらせて、古典を|漁《あさ》り、史書や、小説や、口碑や、伝承のたぐいを探った。山の沼にいる仲間たちは彼の奇妙な変化に気づいて、そのわけを聞きたがったが、彼はなにごとも語らなかった。他の者であったならば、古井戸の底で女に出あったことを得意げに|吹聴《ふいちよう》してまわったかも知れないが。彼はこれを秘密にした。この経験を自分のなにかの発見や生長に役立たせたいという気持があり、謎は人の知恵を借りずに一人で解きたいという願いもあったからである。そして、いつか心の一隅で芽生えているひとつの感情、彼はそれを意識はしても意味づけることに混迷して、はじめのうち、それこそは人間を救う正義感のあらわれだと信じていた。秘密のこころよさや、誇りのようなものさえ感じていた。&lt;br /&gt;
河童は大して時日を要せずして、謎を知ることができた。それは彼の熱心さに負うところが大であったことは勿論だが、それ以上に、この古井戸をめぐる怪談があまりにも有名な歴史的事件であったためである。&lt;br /&gt;
(あの井戸の底の女は、お菊という名だ)&lt;br /&gt;
と、まっさきにそれを|憶《おぼ》えた。そして、お菊が数えている皿の数が九枚あって、それを幾度となく計算しているのは、もとは十枚あったからだということを知った。お菊はその足りない一枚の皿のために殺されたのである。昔、徳川時代、音川家に浅山鉄山という悪逆な執権があって、お家横領を企てた。鉄山は兄の|将監《しようげん》と結託して着々と陰謀をすすめていたところ、ふとした機会にその秘密を腰元お菊に知られた。そこで、一策を案じ、音川家のまたなき家宝として大切にされていた色鍋島十枚揃いの皿をお菊にあずけ、その一枚をこっそり隠したのである。お菊はたしかに十枚あった皿がなん度数えても九枚しかないのに仰天した。&lt;br /&gt;
「一枚、二枚、三枚、四枚、五枚、六枚、七枚、八枚、九枚、……一枚、二枚、三枚、四枚、……」何十ぺん数えても、十枚はない。そして、鉄山に殺されて、井戸の中に投げこまれてしまったが、お菊の|怨霊《おんりよう》はその時以来、井戸の底で皿の計算をつづけているのであった。そのときから、何十年、何百年と歳月がすぎたけれども、お菊の努力は|撓《たゆ》むことがなく、今はからずも偶然の機会から、河童の知るところとなったのである。時代の変遷は目まぐるしく、徳川、明治、大正、昭和となって、皿屋敷は跡かたもなくなり、荒野と化した一角に水も|涸《か》れてしまった古井戸だけが残っているけれども、お菊の皿の計算だけは数百年間、一貫していささかも変ることがなかったのであった。&lt;br /&gt;
(なんという哀れな女だろう)&lt;br /&gt;
河童は一切を知ると、お菊の運命に涙がながれた。井戸の底では恐怖におののいたが、事情がわかってみると、幾千万べん、幾億べん数えても、絶対に、十枚にはならない皿をお菊があきらめもせず数えていることの気の毒さに、深い同情心がわいた。そして、河童は大決心をしたのである。&lt;br /&gt;
(お菊のために、皿を探しだしてやろう)&lt;br /&gt;
河童は俄勉強をして唐突に歴史家となったように、今度は突如として探偵に早変りした。&lt;br /&gt;
またも河童の活躍がはじまる。浅山鉄山が隠した一枚の皿はどこにあるであろうか。河童は捜索をはじめるまえに、その皿をあやまりなく認識するために、ふたたび、古井戸の底へ潜入した。お菊に気づかれぬように、水分のなかに隠れて、綿密に皿を調べた。&lt;br /&gt;
お菊の動作は前に見たときと寸分ちがっていない。青い顔にたれたほつれ毛や、葡萄色の唇や、痩せ細った手や、消え入るように陰気くさい声や、絶望的なため息や、悲しげな目や、頬をつたう|口惜《くや》し涙などはなにひとつ最初見たときと変らないけれども、河童の心の方は正反対になっていた。恐怖心は消え去り、いまは女をいじらしく思う同情心が胸一杯だ。そして、早くお菊をこの悲しみと不幸とから解放してやりたい気持で、すでに焦燥をおぼえているのだった。&lt;br /&gt;
(お菊を救う方法はたった一つだ。なくなった一枚の皿を探しだし、ここへ持ってきてやればよい)&lt;br /&gt;
そして、そのときのお菊のよろこびを考えると、自分までわくわくする思いになって、河童はどんな困難をも冒険をも恐れぬ勇気が身内にわいてくるのであった。たしかに、もはや河童はお菊を愛するようになっていたといえる。彼が最初のとき、恐怖におののきながらも逃走しなかったことのなかに、その萌芽があったというべきであった。彼がどろどろした青い糊の水のなかで、ふるえながらも、不気味なお菊の動作をいつまでも見つめ、遂には声をかけずには居られなかったのも、愛情の最初の兆候といってよい。お菊がお岩か|累《かさね》かのように醜悪むざんの亡霊であったならば、河童はその姿を|暼見《べつけん》しただけで逃げだしたであろう。河童を古井戸の底に釘づけにしたのは、お菊の美しさに外ならなかった。河童はここに|淑女《レデイ》のために犠牲をいとわぬ|騎士《ナイト》となったのである。&lt;br /&gt;
(きっと探しだしてみせる)&lt;br /&gt;
その成功の日の予感は、河童をすばらしい幸福感で有頂天にさせた。&lt;br /&gt;
お菊が数を読みながら移動させる皿を、河童は写生した。同じ皿を探しだすためには見本が要る。九枚とも同じであるし、お菊の動作も単調で緩慢なので、この色鍋島の皿をそっくりうつしとることはそんなに困難な仕事ではなかった。おまけに、河童はそのスケッチが妙に楽しくてならなかった。それが絵を描くことよりもお菊のそばにいることの方に原因があることは、もはや彼にも明瞭に自覚された。河童はいつか模写の手を休めて、うっとりとお菊に見とれている自分に気づく。はじめのときは奈落へ引きこまれるように陰惨にひびいたお菊の声も、今は音楽のようにこころよく鼓膜をくすぐるのであった。&lt;br /&gt;
河童は心のなかで、お菊に声をかける。&lt;br /&gt;
――お菊さん、もうすこしの辛抱ですよ。私があなたの欲しがっている十枚目の皿を見つけて来てあげる。そうしたら、あなたはそういう永遠に到達する可能性のない企図や、馬鹿げた絶望の計算から解放されるんだ。何百年間もつづけてきた奴隷のような重労働が停止されて、あなたは自由になるんだ。一週間とは待たせません。あと五日ほど御辛抱なさい。&lt;br /&gt;
一度はお菊にそのことを打ちあけてしまおうかと思ったが止めた。打ちあければ、お菊はよろこんで、いきいきと目をかがやかし、&lt;br /&gt;
「ぜひお願いしますわ。五日などといわず、三日のうちに、いや、今日中にでも……」&lt;br /&gt;
というであろうが、河童はそんな目前の小さなよろこびを捨てた。よろこびは意外で突然であるほど大きい。皿を見つけだし、いきなりそれを持参した方が効果的だ。この忍耐もまた楽しいものといえなくはなかった。&lt;br /&gt;
古井戸のなかに棲息している鼡や、蟹や、蝙蝠や、蛞蝓や、蜘蛛や、蛭や、蜥蜴や、いもりや、蚯蚓などが、河童の作業を不審そうに見ていた。けれども、だれ一人、声をかける者はなかった。彼等はこの狭い井戸のなかでおたがいに生きてゆくためには、争いをおこさないこと、他人へ無用なおせっかいをしないこと、自分の意見を述べないこと、沈黙しているにかぎることなどを悟りきっていたので、河童の行動を不思議には思っても、これに|容喙《ようかい》したり、まして妨害したりする者は一人もなかった。&lt;br /&gt;
皿の模写が終ると、河童は勇躍して井戸から出て行き、十枚目の皿の探索にとりかかった。&lt;br /&gt;
「このごろすこし君は変だなあ」&lt;br /&gt;
これが仲間のうちでの定評である。原因不明の行動をしている者は変に見える。正しい立派な理由があっても、他人は理由などは問題にせず、外部にあらわれた行動だけを批判する。秘密を一人だけの胸におさめ、血眼になって皿をさがし歩く河童は馬鹿のようにも狂人のようにも見えた。彼が独身であったのが不幸中の幸だ。女房がいたら、そわそわしている彼はいくたびとなく折檻にあったことであろう。しかし、内心に期するところのある河童は仲間のどんな悪評にも耐え、今にみていろと考えていた。さらに、&lt;br /&gt;
(おれがどんなに美しい目的のために働いているか、おまえたちのようなうすよごれた精神の者たちにわかるものか)&lt;br /&gt;
昂然と胸を張って、仲間たちの低級と無知とを蠏鑽い、|蔑《さげす》んでさえいたのである。&lt;br /&gt;
ところが、日が経つうちに、河童はすこしずつ狼狽し焦燥しはじめた。あてが外れたのである。皿の捜索は彼の考えていたような簡単なことではなかった。意外の困難だ。三日、五日、一週間と経っても、ほんのちょっぴりした手がかりも得られない。またたく間に、十日間がむだにすぎた。&lt;br /&gt;
(お菊に打ちあけて、約束などしなくてよかった)&lt;br /&gt;
河童は自信を喪失しかけると、今はせめてそのことだけでも気休めであった。&lt;br /&gt;
文献のあらゆる頁に鋭い眼光をみなぎらせ、幾度も皿の行方をつきとめ得たと確信したのに、その場所に行ってみると、皿はないのだった。河童は歴史の記述がいかにまちまちで当てにならぬものかを知った。浅山鉄山が皿を隠したという点は一致しているが、その方法や場所にいたっては、千差万別に記録されている。まるで正反対に書かれているのもある。十五日、二十日と経ってもなんの片鱗も発見することができないので、河童は出たらめな記録をしたりげな筆致で書いている歴史家や作家にはげしい憤りをおぼえた。しかし、彼が今ごろになっていかに|切歯扼腕《せつしやくわん》してみたところで、問題はすこしも解決しないし進展もしない。&lt;br /&gt;
二十五日、三十日と徒労の日がすぎると、河童はへとへとに疲れた。食欲もなくなって痩せ細り、見るかげもなく憔悴してしまって、彼の方が亡霊に近くなった。古井戸の底にときどき行ってみると、悲しげに皿を数えているお菊の顔は、青ざめているけれどもふっくらと丸味があり、頬から顎にかけての豊かな線には、内部になにか充実しているためから来るいきいきとしたものさえ感じられるのだった。三百年近くも絶望的な計算をつづけているのにお菊はすこしの衰えも見せず、わずか三十日の捜索で河童は疲労|困憊《こんぱい》の極に達し、|気息奄々《きそくえんえん》としているのである。河童はとまどいし錯乱して、&lt;br /&gt;
「こんな変なことがあるものだろうか」&lt;br /&gt;
と、呟かざるを得なかった。&lt;br /&gt;
しかし、河童は勇気をうしないはしなかった。いったん定めた偉大な目的を放棄はしなかった。&lt;br /&gt;
(こうなったら、意地だ)&lt;br /&gt;
ただ、方法はすこし変えたのである。もはや肉体的にこの捜索を自分一人でやることは不可能といってよかった。あくまでも独力でやりとげるという最初の決意を変更し、心ならずも仲間に協力を求めることにした。しかしながら、なお最後の部分だけはあくまでも秘密にした。お菊のことは絶対に打ちあけたくない。皿さえ出て来ればよいのだ。彼は仲間に集まってもらうと、模写してきた皿の絵をみんなに示して、&lt;br /&gt;
「こういう皿を探しだすのに、諸君の力が借りたいのだが……」&lt;br /&gt;
と、いくらか残念そうな口調でいった。&lt;br /&gt;
そこは山の沼の|土堤《どて》で、柳の木がならび、蓮華の花がマットをひろげたようにはてしなくつづいていた。もうすっかり冬眠を終った蛙たちが沼の岸や芭蕉葉のうえに三々五々たむろして、聞くともなしに河童の会議の模様に耳をかたむけている。空は青く、まだ陽は高い。&lt;br /&gt;
「それはなんという焼物だ?」&lt;br /&gt;
と、一匹の河童がきく。&lt;br /&gt;
「色鍋島だ。天下の名器だよ」&lt;br /&gt;
「ははアン」と、他の一匹が鼻を鳴らして、「君はその皿が欲しいばっかりに、こないだうちからきょろきょろして、そんなに痩せてしまったんだな」&lt;br /&gt;
「そのとおりだ」&lt;br /&gt;
「その皿を見つけだして、どうするんじゃね」&lt;br /&gt;
皮肉な口ぶりでそうたずねたのは老河童である。&lt;br /&gt;
「どうということはないんです。ただ欲しいんです」&lt;br /&gt;
「ただ欲しいだけで一ヵ月も血眼になって、痩せてしまうんかね。その皿はよっぽど珍奇で高価なものとみえるのう。どんな手問をかけて屯手に入れさえすれば、いっぺんで身代のできるような宝物らしい。|骨董屋《こつとうや》に売るのかい」&lt;br /&gt;
「とんでもない。そんな下品なことはいわないで下さい」&lt;br /&gt;
「下品も上品もねえやしと、意地悪で有名な黒河童がせせら笑った。「取引で行こう。お前さんがその皿を是ぶ非でも手に入れたい気持はよくわかった。だけど、おれたちが、お前さんの大儲けの片棒をロバでかつがねばならん理由はねえ。たんまりとお礼をもらいてえものだな」&lt;br /&gt;
「それはいうまでもないことだ」&lt;br /&gt;
「いったい、その皿はどこにあるんです」&lt;br /&gt;
円陣の隅っこから、狡猾と敏捷できこえているいなせな若い河童がどなった。爪先立ちしていて、これからでもすぐ捜索に駆けだしそうな姿勢である。&lt;br /&gt;
「どこにあるかがわかっているなら、君たちに相談しやしない」&lt;br /&gt;
「方角の見当をきいているんですよ」&lt;br /&gt;
「日本のどこかにあるんだ」&lt;br /&gt;
この言葉に河童たちはどっと笑った。しかし実際はあまりにも茫漠とした探し物にいささか当惑して、笑いにまぎらしたにすぎなかったのである。よい儲け口らしいけれども、結局は代償と労力との比例にあるのだから、不精な者たちの中にはこの宝さがしを断念するものもあったのである。円陣はしばらく騒然となった。やがて、&lt;br /&gt;
「お願いします」&lt;br /&gt;
頭を下げながらそういった彼の言葉で、解散された。彼が日ごろ軽蔑している仲間の前でへりくだったのはいうまでもなくお菊のためであった。&lt;br /&gt;
それから三日、五鼠、七日と、また日が流れた。成果はなかなかあがらなかった。数百匹の仲間を動員したにもかかわらず、こんなにも混沌としているとすれば、彼が一人でやろうと考えたことは無謀といってよかった。独力であくまでやることは死を意味したかも知れない。欲と二人つれの河童たちはもう記録やあやふやな文献などは相手にせず、自分たちのかんや運をたよりに日本中を彷徨した。&lt;br /&gt;
さらに、十日、十五日、二十日と日が流れる。&lt;br /&gt;
河童は衰弱のためもう動くことができず、山の沼底の|棲家《すみか》に横たわって、ただいらいらしながら吉報を待っていた。あたりが|静謐《せいひつ》で孤独になると新しい思想が生まれる。藻がゆらめいている間を、口から吐く真珠の玉をつながらせながら、編隊になって鮒の一群が通りすぎる。車えびが透明な身体を屈折させて岩の穴から出たり入ったりする。そういうものをうつろな眸でながめていた河童の心に、これまでは想像もしなかった一つの疑念が浮かんだ。&lt;br /&gt;
(十枚目の皿はもうないのではあるまいか?)&lt;br /&gt;
青天の|霹靂《へきれき》よりもっとはげしい|衝撃《シヨツク》であった。背の甲羅が枯葉のように軋み、膝小僧が金属板のように鳴りはじめた。自分の目がつりあがって行くのがわかる。その疑念の恐ろしさに河童は悶絶しそうであった。しかし、その惑乱のなかで、彼の脳髄だけは冷静に残忍な思考をすすめる。&lt;br /&gt;
(たしかに、皿は浅山鉄山によって隠されたと記述されている。しかし、歴史は嘘だらけだ。権謀術数の大家であった鉄山は、皿を隠したものとみせかけて砕いてしまったのではないか。鉄山が砕かなかったとしても、どこかに隠された皿は三百年の時間の暴力によって破壊されたのかも知れない。でなければ、これだけ探しても行方の片鱗だけも知れないというわけがない)&lt;br /&gt;
また、別の考えが河童を愕然とさせる。&lt;br /&gt;
(皿はもう、日本にはないのじゃないかしらん?)&lt;br /&gt;
割れてはいなかったとしても、美術品として外国に持ちだされることが想像される。そんな例はたくさんある。もし海を渡って西洋にでも渡っているとしたら、いかに河童の神通力をもってしてももはや絶対に発見の可能性はない。河童は人間よりは数十倍の能力を持ってはいるけれども、名探偵をもってしてもその力は地球全体には及ぼない。日本だけでも持てあますほどだ。限界の自覚は悲しいことであるが、希望も冒険も自己の圈内だけの話にすぎないのである。河童はこの突然わいた疑念の恐ろしさに耐えかねて、ぶるぶると濡れ犬のように頭をふりまわし、この悪魔の想念を追っぱらおうとしたが、一度生まれた思想はいかに努力しても消え去りはしなかった。しかしながら、もともとはじめからこの疑念をいだかなかった河童の方が|魯鈍《ろどん》というべきであろう。三百年という歳月を無視していたとはおかしな話だ。ただ考えられることは、河童が古井戸の底で三百年の歳月にすこしも影響されていないお菊の姿を見たために、錯覚をおこしたのかも知れないということだ。&lt;br /&gt;
(そうだ。たしかにお菊のせいだ)&lt;br /&gt;
溺れる者が藁をつかむように、河童はやけくそに心中で叫んだ。&lt;br /&gt;
ところが、皿はあったのである。&lt;br /&gt;
或る日、一匹の仲間の手から、彼はその皿を受けとった。それは彼が古井戸の底で見た色鍋島と寸分ちがわぬものであって、お菊の死の原因となったあの皿であることに疑いはなかった。骨董品には偽物の多いことを彼も知らなくはない。しかし、仲間が探してきてくれたその皿は偽物とは思えなかった。彼が随喜の涙をながして、その友人に感謝したことはいうまでもない。&lt;br /&gt;
「ありがとう、ありがとう。君は命の恩人だ」&lt;br /&gt;
そんな平凡なことしかいえなかったが、彼はまったく蘇生の思いがしたのである。大願成就のよろこびのため、衰弱し憔悴しきっていた河童はたちまち元気を回復し、宙をとんでお菊のところへ駆けつけたい思いであった。&lt;br /&gt;
しかし、実はこの一枚の皿を得るまでに河童はすでに破滅に瀕していたのである。仲間が皿を探してきてくれたのは友情でもなんでもなかった。その皿を持ってきたのは、沼の土堤で会議を召集したとき、嫌味な|啖呵《たんか》を切って、取引で行こうといいだした張本人の黒河童である。黒河童は徹頭徹尾欲と道つれであったから、二人の会見はまったくの商談であった。彼がどんなにこの皿を欲しがっているかをよく知っている黒河童は足元を見こんで、|搾油機《さくゆき》のように彼をしぼろうとする。しかし彼はすでに皿を手にするまでに、多くの仲間たちから|搾《しほ》られつくしていた。捜索のためには旅に出なければならない。そのためには旅費が要る。心あたりがあるとまことしやかにいわれれば|一縷《いちる》の望みをつないで、そこへ行ってもらう。旅費、日当、酒代、前借り、はては|恐喝《きようかつ》に類する強談で、金をまきあげられる。あまりの失費に彼は仲間へ依頼したことを後悔しはじめたくらいだ。しかし、皿を探す手段はもはやこれ以外に考えられなかったので、沼の縄張り、食餌圏、茄子や胡瓜の耕地、漁場、山林、貯蔵庫等、財産の大部分を仲間に提供してしまったけれども、最後の希望をうしなわなかった。&lt;br /&gt;
今、その望みが達せられたのである。しかし相手が商売人であったために、皿の代償として、わずかに残っていた財産の一切をまきあげられ、彼は裸一貫になって一枚の皿を得たのである。しかし、彼は満足であった。彼は涙をうかべて心に呟く。&lt;br /&gt;
(この一枚の皿は、地球全体くらい価値があるんだ)&lt;br /&gt;
三百年間も陰惨であった古井戸の底に、はじめて明かるい笑い声が満ちた。&lt;br /&gt;
「これだわ、この皿にちがいないわ。まあ、うれしい」&lt;br /&gt;
お菊の歓喜の表情を見て、河童も自分の献身と犠牲とが報いられたことをよろこんだ。お菊は最初の|邂逅《かいこう》のとき失礼な態度をとったことを詫び、河童の持ってきてくれた十枚日の皿を手にとって、いく度もいく度も裏表をかえして感慨ぶかげに眺めるのだった。それから、河童にちょっと、というように会釈しておいて、重ねた皿を数えはじめる。&lt;br /&gt;
「一枚、二枚、三枚、四枚、……」&lt;br /&gt;
それは前の陰欝な声ではなくて、明かるく弾んだ調子だ。数を読むテンポも早い。青蝋に似た女の手はせかせかと動き、皿は迅速にぞんざいに移動させられて、がちゃがちゃと音を立てる。&lt;br /&gt;
「五枚、六枚、七枚、八枚、九枚、十枚、……ああ、十枚あるわ」&lt;br /&gt;
お菊の計算はもはや渋滞することがなく、三百年目にはじめていった「十枚」という言葉に、フッフと気恥かしげな微笑を洩らす。&lt;br /&gt;
「よかったですなあ」&lt;br /&gt;
河童もお菊のよろこびに釣りこまれて、身体をゆするようにして笑った。笑うとは妙なことである。なぜ笑うのであろうか。滑稽なことはひとつもなく厳粛な勝利の悲しみがあるだけではないか。実際に胸が迫っているのである。一人だったらわっと泣きだしたかも知れない。しかし顔を見あわせると、二人は笑ってしまうのであった。三百年目にはじめてお菊の顔にあらわれた笑いは、しかし河童をとまどいさせる。悲しみにうちひしがれていたとき、お菊の顔いっぱいにあらわれていた静かで沈んだ美しさはどこかに消えてしまった。昔のお菊の高貴な顔は、たわいもない、痴呆のような賤しい笑顔の面ととりかえられている。そして河童はその新しいお菊の楽天的な顔を見ると、わけもなくげらげらと笑いだしてしまう。&lt;br /&gt;
古井戸の生活者である鼡や、蟹や、蝙蝠や、蛞蝓や、蜘蛛や、蛭や、蜥蜴や、いもりや、蚯蚓などはこの笑劇を呆気にとられて眺めていた。かれらはこの静かで住み心地のよい古井戸の世界の空気が、俄かに変って、生存をおびやかされるにいたるのではないかという不安を、一様に感じているらしく思われた。空気の震動だけでも大変である。お菊が笑い、河童が笑うたびに細長い円筒形の井戸の中はわんわんと鳴りひびく、革命的な現象といわなければならなかった。&lt;br /&gt;
ところが、腑抜けのように笑いころげていた河童は、ふとなにかに気づいたように緊張した顔つきになると立ちあがった。突然、河童の顔に不思議な苦痛の表情がうかんだ。彼は井戸の世界いっぱいに鳴りひびく笑い声の|谺《こだま》に、われに返ったのである。そのだらしのない愚劣な音響が自分の声だと知ると、この|真摯《しんし》な河童の心に俄かに狼狽と反省の思いがひらめいた。&lt;br /&gt;
河童は羞恥でまっ赤になると、もの竜いわず、地底を蹴って、井戸の外へおどり出た。&lt;br /&gt;
「待って、……待って頂戴」&lt;br /&gt;
深い井戸の底でお菊のそう呼ぶ声がきこえたが、耳をふさぎ一散に逃げた。&lt;br /&gt;
(堕落してはならぬ)&lt;br /&gt;
河童の心を領したのはそのことであった。河童はお菊へ待望の皿をとどけたけれども、目的と現実との不可解な混交を、古井戸の底に行ってみるまで気づかなかった。河童は犠牲の美しさというものをつねつね無償の行為のなかに求めたいと考えていた。ところが、皿をとどけてお菊のよろこぶ姿を見たとき、なにかの代償を求めようという不純の気持が、ふっと胸の一隅に|兆《きざ》したのにおどろいた。心中にどんな妖怪が棲んでいるか、自分でもわからない経験は前にもあった。しかし、こんな妖怪が頭をもたげたことは生真面目な河童を恥じさせた。お菊になにを求めようというのか。その恐ろしいみずからの詰問に逢った途端、円筒のなかにひびきわたっただらしのない笑い声の餝が、河童を羞恥で|赧《あか》らめさせた。同時に、罪の意識が電気のように彼の胸をかすめた。また、仲間への裏切者となることの恐れがそれに重なった。&lt;br /&gt;
(堕落してはならぬ)&lt;br /&gt;
河童はそうして古井戸からあわてふためいて脱出したのであった。&lt;br /&gt;
それから、数日がすぎた。&lt;br /&gt;
沼の仲間たちは、彼が皿をどこにやったのか不思議がった。あんなに欲しがっていた皿を手にした途端、もう持っていない。仲間たちの間では、その皿を彼がいくらの金に換え、いくら瀦け、そしてどんな大金持になるかが問題であったのに、彼は皿をなくしただけで相かわらず尾羽うち枯らしている。そして、ただ身一つを入れるだけになったうすよごれた穴のなかに横たわったきり、まったく出て来ない。仲問とのつきあいも忘れたようだ。しかし彼のそんな不精たらしい|蟄居《ちつきよ》の様子を偵察しに行った者の一人は、彼はさびしそうではあるが、どこかに楽しげな満ち足りた様子も見られると、不思議そうに報告するのであった。&lt;br /&gt;
また、数日がすぎた。&lt;br /&gt;
河童は忍耐をうしなった。もう二度と古井戸の底には行くまいと決心していたのに、お菊に逢いたい気持をどうしてもおさえることができなくなったのである。河童はこの自然の情をやたらに抑圧する必要はないと考えた。自分は死ぬかも知れない。そのまえにもう一度お菊に逢いたい。お菊へなにかを求めようという不純な気持などはまったくなかった。皿を渡した日、彼が一散に逃げだすとお菊はうしろから呼びとめた。そのお菊のやさしい声は耳にこびりついている。彼はそれだけでも満足であった。そこで、もう一度逢い、あんな風な奇妙な別れかたでなく、きれいに納得ずくでもう二度と逢わないことを約束しようと思った。お菊は悲しむかも知れない。&lt;br /&gt;
(しかし、それがおたがいのためだ)&lt;br /&gt;
と、河童はせつなくなる胸をおさえて、強くひとりでうなずいた。&lt;br /&gt;
河童は軽い足ど蔘で、古井戸に行った。初夏の|嫩葉《わかば》のうつくしい朝である。蝉が鳴いている。もうこっそりと忍ぶ必要はないので、河童の姿で堂々と、井戸の円筒形の石壁を降った。苔むした垣の間から顔を出していた鼡や蟹や蜥蜴が、闖入者におどろいてひっこんだ。&lt;br /&gt;
地底に降り立った河童は、つよい親しみを含んだなれなれしい語調で、&lt;br /&gt;
「お菊さん」&lt;br /&gt;
と、声をかけた。&lt;br /&gt;
青いどろどろの糊水のなかに|蹲《うずくま》っていたお菊は、顔をあげた。&lt;br /&gt;
河童は仰天した。河童はお菊が彼の来訪を待望し、井戸の口からのぞいただけで、もうよろこびの声をあげて迎えてくれるものと思っていた。ところが、お菊は彼が底に着くまで}口もきかず、声をかけると顔をあげたが、その眸は歓迎どころか、憎悪の光に満ち満ちていた。さらに河童の|胆《きも》を冷えあがらせたのは変りはてたお菊のむざんな姿であった。これがあのお菊であろうか。まるで骸骨である。お岩や|累《かさね》よりもっと醜悪だ。ふっくらと丸味のあった頬や顎の線は|鉈《なた》でこそいだように削りとられ、二つの目は|眼《がんか》窩の奥に落ちくぼんでいる。葡萄色の唇は腐った茄子の色になって、|蟇《がま》のように歯をその間にむきださせ、乱れ放題の頭髪は全身に|棕櫚《しゆろ》をかぶせたようだ。痩せて針金のようになったお菊の膝のまえに、十枚の皿が積まれている。&lt;br /&gt;
河童は茫然となって、そこヘへたばりこんでしまった。甲羅が枯葉のように軋み、膝小僧が金属板のように鳴りはじめる。その河童の耳に、お菊のすさまじい怒声が憎々しげにひびきわたった。&lt;br /&gt;
「なにをしに来やがったんだ。悪魔、この皿を持って、とっとと帰りやがれ」&lt;br /&gt;
河童は耳を疑った。しかし、それはお菊の口から出た言葉にちがいなかった。動転してしまった河童はもうなにを考える余裕もなく、お菊がつきだした一枚の皿をつかみとると、一散に井戸から飛びだした。&lt;br /&gt;
(なんたることか)&lt;br /&gt;
錯乱は極に達した。どう考えてもなんのことやらわからない。河童は皿をかかえて山の沼に帰ると、やけづばちに寝ころがって|呻吟《しんぎん》した。河童の頭のところに皿が置かれてある。紫雲たなびく空の下、紅葉の林をさまよう鹿と、釣をする二人の白髪老人を配した色鍋島の皿は絢爛としている。&lt;br /&gt;
古井戸の底で、お菊はしだいに|終焉《しゆうえん》に近づきつつあうた。現在のお菊の絶望は、十枚目の皿の見つからなかった前の絶望にくらぺて、さらに絶望的であった。お菊は九枚しかない皿を数えながら、十枚あるかも知れない、なくともいつかはきっと十枚目が見つかるという希望だけで、わずかに生命を支えていたのである。河童はそれを永遠に到達の可能性のない企図として、彼女の不幸を哀れみ、その絶望へ光をもたらそうと考えたが、お菊はその絶望の計算への情熱だけで、いきいきと内部を充足されていたのであった。しかしながら、彼女は自分ではそのことを気づいていなかった。だから、河童が皿を見つけてきてくれたときは本心からよろこんだのであった。三百年の絶望に終止符が打たれたと思った。ところが、それはもっと恐ろしい絶望への出発点であったのだ。&lt;br /&gt;
「一枚、……二枚、……三枚、……四枚、……」&lt;br /&gt;
十枚あればよいがと祈りっつ、期待と不安とにおびえ数えてゆくときの充実感と、やっぱり九枚しかないと知ったときの、悲しいとはいえ次に望みを託し得る生活の持続感とは、お菊にとっては魂の火花であった。それなのに、皿が十枚揃ったとき、　一切の情熱も充足感も、それから来る美しさも生命力も消え去ってしまった。お菊はなにもすることがなくなったのである。彼女はただ退屈になっただけだ。皿を数えて行っても十枚あるとわかって居れば、全然無意味だ。はじめは河童の親切をよろこんだのに、もう翌日には河童のおせっかいが恨めしくなった。二日目には憎くなった。三日目には呪わしくなった。お菊は内部を支えるものをうしなって、急速に憔悴し萎縮し死へ近づいた。そこへ河童が得々としてやってきたので、思わずどなりつけたのである。それはお菊の魂の叫びであった。&lt;br /&gt;
「やっと一枚減った」&lt;br /&gt;
そう思って、また生日のように、　一枚、二枚、三枚、と数えてみても、もはや挽回することのできない空洞が、お菊の心のなかにぽかんと倦怠の口をひらいている。なんらの情熱も希望もわいて来ない。十枚目の皿が河童のところにあるという事実を、突如としてお菊が忘れ去ってしまわないかぎり、事態は復旧しないのだった。&lt;br /&gt;
お菊は絶望して、九枚の皿を石垣にたたきつけた。その散乱した欠片のなかに横たわり、しずかに目をとじた。&lt;br /&gt;
山の沼で、錯乱から容易に脱することのできなかった河童は、お菊を忘恩の徒だと断定することによって、ようやくなにをすべきかに思いあたった。&lt;br /&gt;
(向こうが向こうなら、こっちにも考えがあるんだ)&lt;br /&gt;
河童は山の沼を出た。人間に化けて大都会にあらわれた。一軒の骨董屋に入った。持参した色鍋島の皿を売った。鑑定のできる骨董屋の主人はそれが天下の珍品であることを知って、客のいいなりに莫大な現金を払った。客は皿を渡し、金をふところに入れて店を出た。骨董屋の裏口から、目つきのわるい屈強の若者が四五人、そっと抜け出た。惨劇はどこで行なわれたかわからない。目的をはたした若者たちが店にひきかえしたとき、骨董屋の主人は粉微塵になった皿のまえで、茫然と立ちつくしていた。&lt;br /&gt;
(昭和二十七年)&lt;br /&gt;
 &lt;/p&gt;
    </description>
    <dc:date>2011-01-05T21:20:12+09:00</dc:date>
  </item>
    <item rdf:about="http://www6.atwiki.jp/amizako/pages/209.html">
    <title>火野葦平「石と釘」</title>
    <link>http://www6.atwiki.jp/amizako/pages/209.html</link>
    <description>
      
&lt;p&gt;火野葦平「石と釘」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;
一&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;
|鍛冶犀《かじや》はいそがしかった。汗を垂らしてまっ赤に|灼《や》けた鉄を打った。火花が散った。|鞴《ふいご》が喘息のような声で鳴り、小さい空気窓を、ばくりぱくりと動かしていた。&lt;br /&gt;
「ごめんよ。たのみごとがあるんじゃが」&lt;br /&gt;
一人の乞食のような山伏が表に立った。&lt;br /&gt;
「たのまれんよ。いま仕事がいっぱいだ」&lt;br /&gt;
鍛冶屋はふりむきもせず答えた。&lt;br /&gt;
「釘を一本つくって貰いたいのじゃが」&lt;br /&gt;
「釘なら釘屋に行きなさい」&lt;br /&gt;
「そんな釘じゃない。一尺くらいの大釘じゃが」&lt;br /&gt;
鍛冶屋はふりむいた。&lt;br /&gt;
「なんするんじゃ」&lt;br /&gt;
「河童を封じるんじゃが」&lt;br /&gt;
「ほうろく言うとけ」&lt;br /&gt;
鍛冶屋は唾を吐いた。まっ赤な鉄を打った。火花か散った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;
二&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;
「ごめんよ、たのみごとがあるんじゃが」&lt;br /&gt;
その翌日も山伏は一本歯をひきずって来て、鍛冶屋の表に立った。赤鼻に水ばなを垂らして山伏は|嗄《しやが》れ声で言った。鍛冶屋は相手にしなかった。その翌日も山伏はやって来た。その翌日も山伏はやって来た。鍛冶屋は灼けた鉄を冷やすよごれた水をぶっかけた。その翌日も山伏はやって来た。鍛冶屋は灼けた鉄を埋める砂を浴びせた。その翌日も山伏はやって来た。鍛冶屋は立ち上り、向こう槌をふり上げて山伏を打った。打とうとした。すると彼の手は痺れて向こう槌はかえって彼の頭を打った。鍛冶屋は水ばなを垂らした蒼白の山伏のために、丹念に鍛えた一本の釘を作った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;
三&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;
喊声をあげて、河童の群は香木川の土堤のかげから、手に手に葦の葉を太刀のごとくひらめかして飛び立った。天に高く上るにつれてそれは無数の|蜻蛉《とんほ》の群のごとく見えた。やがて星のない夜空の申に吸いこまれ見えなくなった。まもなく空間にあって異様な物音が起った。ひょうひょうと風の音のごとく、藤の実の|啄《ついば》まれて裂ける音のごとく、硝子のかち合って破れる音のごとく、鳥の羽ばたきのごとく、さまざまの音が起った。地上にあってこの物音を聞いた人々は、そらガアッパさんの合戦だといって、仕事をしているものは仕事をやめ、話をしているものは話をやめて、その音の止むのを待った。&lt;br /&gt;
|島郷《しまこう》の河童群と|修多羅《すたら》の河童群とが時折縄張争いのため空申で戦闘をまじえた。征覇の心に燃える伝説の動物達は、その果敢なる攻撃の精神をみなぎらせて、空間を飛び、ひるがえり、たたかった。&lt;br /&gt;
「またやられているそや」&lt;br /&gt;
朝になって、百姓達はきまってそう呟きながら、彼等の耕地にやって来る。&lt;br /&gt;
田や畠の中に、例のごとく点々と青苔のようなかたまりが出来ていた。折角丹精こめて作った野菜畑の中の各所に、どろどろの占い液体が一間四方位に流れ淀み、鼻をさす臭気を放っていた。それは昨夜の空中戦闘で戦死した河童が地上に落ち、青い水になって溶けてしまったあとである。かくして河童の合戦のたびに農作物の被害はおびただしいものであった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;
四&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;
「申しあげます。申しあげます」&lt;br /&gt;
一匹の河童が|嘴《くちばし》を鳴らし息を切って注進して来た。当時、島郷軍の部隊長は筑後川に棲んでいた頭目九千坊の二十七騎の旗頭であった。彼は九州永遠の平和のためには、どうしても修多羅軍を圧倒|殲滅《せんめつ》しなければならないと確信しているのである。&lt;br /&gt;
「なにごとじゃ」&lt;br /&gt;
「実はたいへんなことを聞き及びました。|堂丸総学《とうまるそうがく》という破れ山伏が、小癪にも、我々河童を法力をもって地中に封じてしまう|祈祷《きとう》をはじめたそうでございます」&lt;br /&gt;
「それは大変だ。あいつは先年|日向《ひゆうが》の名貫川で、我々一族の|目痛坊《めいたぼう》をちまの葉でまきこんだ男だ.同文同種の河童同士で戦争をしている場合でない」&lt;br /&gt;
そこで、修多羅、禹郷、両河童軍の和平連合が成立した。彼等は大根と|胡瓜《きゆうり》と|茄子《なす》とをさかなにその和睦の式典をすませ、彼等の新しい共同の敵への闘志をはらんで、おのおのの頭の鋸にまんまんと水を満たした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;
五&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;
|高塔山《たかとうやま》の頂上に風が荒れた。雨に朽ちた御堂の中に石の地蔵尊があった。山伏堂丸総学はその前に端座し、|護摩《ごま》をたき、狂人のごとく身体をうちふるわせながら、高らかに経文を|誦《ず》した。この赤鼻の|修験者《しゆげんじや》は石の地蔵の冷たい体躯を豆腐のごとく柔軟にするために祈祷をしているのである。彼は汗にぬれ、眼は血走った。彼は立ち上り、地蔵尊に手をふれた。地蔵尊は冷たく堅かった。彼は吐息をついてまた坐った。またはげしい祈りが始まった.しばらくしてまた立ち上り、地蔵にふれた。地蔵は柔くなっていなかった。このようにして山伏の祈祷はくりかえされ尽きることがなかった。日は上り、沈み、また上り、また沈み、彼はなにも食べなかった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;
六&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;
河童の中から優秀なる連中が選抜され、祈祷の妨害が始まった。経文の威力にとりまかれている総学に対して、河童達は手をふれることが出来なかった。術を好くするものが|窈窕《ようちょう》たる美女となり、ふくらはぎをあらわにして山伏の面前を徘徊した。金銀を積み立ててその黄金の光を山伏の目の前に浴びせた。怪異なるものの形になり、山伏の|周《まわ》りを飛び交うて|恫偈《とうかつ》した。はては、数百の河童が山伏の周囲にくまなく糞尿を垂れながし、そのたえがたき臭気の中に山伏をつつんだ。しかしながら、堂丸総学はみじんも動揺せず、祈祷をつづけたのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;
七&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;
何日かが過ぎ、山伏は線香のごとく痩せ細ったが、そのはげしい祈祷の精神は|毫《ごう》もひるまなかった。また河童たちの必死の妨害も止むことがなかった。&lt;br /&gt;
何千べん目かに堂丸総学が立ち上って石の地蔵の肌にふれた時、石は山伏の指の下にへこんだ。山伏の顔が朝日のごとくかがやいた。彼は膝の前においてあった一本の釘と金槌とを取り上げた。そうして、地蔵の背後に回り、その釘を背にあてた。この時、今まで彼の手から離れることのなかった経文が下に置かれた。経文を持っていたために近づくことの出来なかった河童たちが、その隙をうかがって山伏のからだに群がり&lt;br /&gt;
ついた。山伏は金槌をふるって釘を打ちこんだ。その手に河童たちはすがり、他の河童は山伏の身体にするどい爪を立てた。或る者は嘴をもってその肉を|啄《ついば》んだ。山伏は血にまみれ、傷だらけになりながらも、必死に経文を唱え、釘をちょうちょうと打った。一尺の釘がようやく半分入った時、山伏は力つきてそこにたおれた。しかしながら、もはや彼の一念は|成就《じようじゆ》していたのである。山伏がたおれるとともに、多くの河童たちも地蔵尊のまわりにはらはらと木の葉のごとく落ちてたおれ、青いどろどろの液体となって溶けながれた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;
八&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;
私は高塔山に登り、その頂上の石の地蔵尊の背にある一本のさびた釘に手をふれる時には、奇妙なうそざむさを常におぼえるのである。そうして、その下に無数の河竜が永遠に封じこめられているという土の上&lt;br /&gt;
に、ようやく|萌《も》えはじめた美しい青草をつくづくながめるのである。&lt;br /&gt;
(昭和十五年)&lt;br /&gt;
 &lt;/p&gt;
    </description>
    <dc:date>2011-01-05T18:16:27+09:00</dc:date>
  </item>
    <item rdf:about="http://www6.atwiki.jp/amizako/pages/208.html">
    <title>横光利一「面」</title>
    <link>http://www6.atwiki.jp/amizako/pages/208.html</link>
    <description>
      
&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
吉《きち》を、どのような人間にしたてるかということについて、吉の家では晩餐後《ばんさんご》、毎夜のように論議せられた。またその話がはじまった。吉はうしにやる雑炊をたきながら、しばの切れめからぶくぶく出るあわをじっとながめていた。&lt;br /&gt;
「やっぱり吉を大阪へやるほうがいい。十五年もしんぼうしたなら、のれんがわけてもらえるし、そうすりゃ、あそこだからすぐに金ももうかるし。」&lt;br /&gt;
そう父親がいうのに母親はこう答えた。&lt;br /&gt;
「大阪は水がわるいというからだめだめ。いくらお金をもうけても、早く死んだらなんにもならない。」&lt;br /&gt;
「百姓させればいい、百姓を。」&lt;br /&gt;
と、兄はいった。&lt;br /&gt;
「吉は手工《しゆこう》が甲だから、信楽《しがらき》へお茶わん作りにやるといいのよ。あの職人さんほど、いいお金もうけをする人はないっていうし。」&lt;br /&gt;
そう目を入れたのは、ませた姉である。&lt;br /&gt;
「そうだ、それもいいな。」&lt;br /&gt;
と、父親はいった。&lt;br /&gt;
母親はだまっていた。&lt;br /&gt;
吉は、流しのたなの上に光っているガラスの酒びんが目につくと、庭へおりていった。そして、びんの口ヘじぶんの口をつけて、あおむいて立っていると、まもなく、ひと流れの酒のしずくが舌の上でひろがった。吉は口を鳴らして、もういちどおなじことをやってみた。こんどはだめだった。で、びんの口を鼻へつけた。&lt;br /&gt;
「またっ。」&lt;br /&gt;
と、母親は吉をにらんだ。&lt;br /&gt;
吉は、「へヘヘ。」とわらって、そで口で鼻と口とをなでた。&lt;br /&gt;
「吉を酒屋のこぞうにやるといいわ。」&lt;br /&gt;
姉がそういうと、父と兄がわらった。&lt;br /&gt;
その夜であった。吉はまっくらな、はてのない野の中で、口が耳までさけた大きな顔にわらわれた。その顔は、どこか正月に見た、ししまいのししの顔ににているところもあったが、吉を見てわらうときのほおの肉や、ことに鼻のふくらぎまでが、人問のようにびくびくと動いていた。吉は必死ににげようとするのに、足がどちらへでもおれまがって、ただあせがながれるぱかりで、けっきょく、からだはもとの道の上から動いていなかった。けれどもその大きな顔は、だんだん吉の方へ近よってくるにはくるが、さて、吉をどうしようともせず、いつまでたっても、ただにやり、にやりとわらっていた。なにをわらっているのか吉にもわからなかった。とにかく、かれをばかにしたようなえがおであった。&lt;br /&gt;
よく朝、ふとんの上にすわって、うすぐらいかべを見つめていた吉は、ゆうべゆめの中でにげようとしてもがいたときのあせを、まだかいていた。&lt;br /&gt;
その日、吉は学校で三度教師にしかられた。&lt;br /&gt;
最初は算数の時間で、仮分数を帯分数になおした分子ときかれたときに、だまっていたので、&lt;br /&gt;
「そうれ見よ。おまえはさっきからまどばかりながめていたのだ。」と、教師ににらまれた。&lt;br /&gt;
二度めのときは習字の時問である。そのときの吉の草紙《そうし》の上には、字が一字も見あたらないで、お宮の前のこまいぬの顔にもにていれば、また人間の顔にもにつかわしい三つの顔が書いてあった。そのどの顔も、わらいをうかばせようとほねおった大きな口の曲線が、いくども書きなおされてあるために、まっ黒くなっていた。&lt;br /&gt;
三度めのときは学校のひけるときで、みんなの学童が包みをしあげて礼をしてから出ようとすると、教師は吉をよびとめて、もういちど礼をしなおせとしかった。&lt;br /&gt;
家へ走り帰るとすぐ吉は、鏡台の引き出しから油紙《ゆし》に包んだかみそりを取り出して、人目につかない小屋の中でそれをみがいた。とぎおわると軒へまわって、つみあげてある割り木をながめていた。それからまた庭へはいって、もちつき用のきねをなでてみた。が、またふらふら、ながしもとまでもどってくると、まないたをうらがえしてみたが、きゅうに井戸ばたのはねつるべの下へ走っていった。&lt;br /&gt;
「これはうまいぞ、うまいぞ。」&lt;br /&gt;
そういいながら吉は、つるべのしりのおもりにしばりつけられた、けやきのまるたを取りはずして、そのかわりには石をしばりつけた。&lt;br /&gt;
しばらくして吉は、そのまるたを三、四寸も厚みのある、はばびろい長方形のものにしてから、それといっしょに、えんぴつとかみそりとを持って屋根うらへのぼっていった。&lt;br /&gt;
つぎの日も、またそのつぎの日も、そしてそれからずっと吉は、まいにちおなじことをした。&lt;br /&gt;
一月もたつと四月がきて、吉は学校を卒業した。&lt;br /&gt;
しかし、すこし顔色の青くなったかれは、まだかみそりをといでは屋根うらへかよいつづけた。そしてそのあいだもときどき家のものらは、ばんめしのあとの話のついでに吉の職業をえらびあった。が、話はいっこうにまとまらなかった。&lt;br /&gt;
ある日、昼めしをおえると父親は、あごをなでながらかみそりを取り出した。吉は湯をのんでいた。&lt;br /&gt;
「だれだ。このかみそりをぼろぼろにしたのは。」&lt;br /&gt;
父親は、かみそりの刃《は》をすかして見てから、紙のはしを二つにおって切ってみた。&lt;br /&gt;
が、すこしひっかかった。父の顔はすこしけわしくなった。&lt;br /&gt;
「だれだ。このかみそりをぼろぼろにしたのは。」&lt;br /&gt;
父はかたそでをまくって、うでをなめると、かみそりをそこへあててみて、&lt;br /&gt;
「いかん。」といった。&lt;br /&gt;
吉は、のみかけた湯《ゆ》をしばし口ヘためて、だまっていた。&lt;br /&gt;
「吉がこのあいだといでいましたよ。」&lt;br /&gt;
と、姉はいった。&lt;br /&gt;
「吉、おまえどうした。」&lt;br /&gt;
やっぱり、吉はだまっていた。&lt;br /&gt;
「うむ、どうした?」&lt;br /&gt;
「ははあ、わかった。吉は屋根うらへばかりあがっていたから、なにかしていたにきまつている。」&lt;br /&gt;
と、姉はいって庭へおりた。&lt;br /&gt;
「いやだい。」&lt;br /&gt;
と、吉はさけんだ。&lt;br /&gt;
「いよいよあやしい。」&lt;br /&gt;
姉は梁《はり》のはしにつりさがっているはしごをのぼりかけた。すると吉は、はだしのまま庭へおりて、はしごを下からゆすぶりだした。&lt;br /&gt;
「こわいよう、これ、吉ってば。」&lt;br /&gt;
かたをちぢめている姉は、ちょっとだまると、口をとがらせてつばをかけようとした。&lt;br /&gt;
「吉っ。」&lt;br /&gt;
と、父親はしかった。&lt;br /&gt;
しばらくして屋根うらのおくの方で、&lt;br /&gt;
「まあ、こんなところに面がこさえてあるわ。」&lt;br /&gt;
という姉の声がした。&lt;br /&gt;
吉は姉が面を持っておりてくると、とびかかった。姉は吉をつきのけて面を父にわたすと、父はそれを高くささげるようにして、しばらくだまってながめていたが、&lt;br /&gt;
「こりゃよくできとるな。」&lt;br /&gt;
また、ちょっとだまって、&lt;br /&gt;
「うむ、こりゃよくできとる。」&lt;br /&gt;
といってから、頭を左へかしげかえた。&lt;br /&gt;
面は父親を見おろして、ばかにしたような顔でにやりとわらっていた。&lt;br /&gt;
その夜、納戸《なんど》で父親と母親とは、ねながら相談をした。&lt;br /&gt;
「吉をげた屋にさそう。」&lt;br /&gt;
最初にそう父親がいいだした。母親はただだまってきいていた。&lt;br /&gt;
「道路に向いた小屋のかべをとって、そこで店を出さそう、それに村にはげた屋が一けんもないし。」&lt;br /&gt;
ここまで父親がいうと、いままでだまっていた母親は、&lt;br /&gt;
「それがいい。あの子はからだがよわいから遠くへやりたくない。」&lt;br /&gt;
といった。&lt;br /&gt;
まもなく吉はげた屋になった。&lt;br /&gt;
吉の作った面は、その後、かれの店のかもいの上でたえずわらっていた。むろん、なにをわらっているのかだれも知らなかった。&lt;br /&gt;
吉は二十五年、面の下でげたをいじりつづけてびんぼうした。&lt;br /&gt;
ある日、吉はひさしぶりでその面を見た。すると面は、いかにもかれをばかにしたような顔をしてにやりとわらった。吉ははらがたった。つぎにはかなしくなった。が、またはらがたってきた。&lt;br /&gt;
「きさまのおかげで、おれはげた屋になったのだ。」&lt;br /&gt;
吉は面をひきおろすと、なたをふるってその場でそれを二つにわった。しばらくしてかれは、げたの台木をながめるように、われた面をながめていたが、なんだかそれでりっぱなげたができそうな気がしてきた。&lt;br /&gt;
 &lt;/p&gt;
    </description>
    <dc:date>2011-01-05T17:26:14+09:00</dc:date>
  </item>
    <item rdf:about="http://www6.atwiki.jp/amizako/pages/202.html">
    <title>四つの袖 (part1)</title>
    <link>http://www6.atwiki.jp/amizako/pages/202.html</link>
    <description>
      
&lt;h2 align=&quot;center&quot;&gt;四つの袖&lt;/h2&gt;
&lt;div align=&quot;right&quot;&gt;岡鬼太郎&lt;/div&gt;
&lt;h3&gt;上之巻&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;女の操といふは、心か、体(からだ)か、われ／＼稼業の仲間には、堅気の人達の察しも附かぬ義理人情 のある事なり。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;わたしがまだ松廼家(まつのや)に出て居た頃、姉妹(きやうだい)のやうに仲よくした三歳(みツつ)年下のお貞(てい)さん、これが笹家(ささや)
の空看板(あきかんばん)を買つて自前(じまへ)になツたのには、いろいろのゆきさつあツての事なれど、つまりは持つて
生れた意地つ張(ぱり)をとほしての一本立、さすが旧幕御直参(きうばくごぢきさん)の家に生れた江戸つ子の血すじと、わた しは其の時、からかつてやつた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;わたしも続いて年が明け、今の若松廼家(わかまつのや)の分看板(わけかんぽん)の手前稼ぎ、いくぢ無ければ身すぎ世すぎも
無事なれど、お貞さんの身の上、気の毒とも可哀想とも、これも意地つ張からの心がらとたゞ一口にいへやうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;お貞さんことし二十八、其の二十一の時にかうした事。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;徳川の御家人(ごけにん)と、世が世の時にパリ／＼して居た人達はいつか死に絶え、お貞さんが一本にな
ツた頃には、もうその両親も無く同胞(きやうだい)も無く、笹家(ささや)の看板を出した時に喜んでくれた親族(みうち)といつ
ては、おつかさんの弟のおかみさん、お貞さんには義理の叔母さんに当る寡婦(ごけ)さんたつたひとり、 お貞さんいよ／＼もつてうから／＼とはして居ぬ訳なり。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;されど世にいふ思案のほか、日頃は何んの男なんぞといつて居た其の男を、可愛いと思つたが 苦労の初め、これが自前になツたお貞さん二十一の春。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昔の稗史(ほん)やお芝居によくある筋、新年宴会のお座敷で顔を合はせたがそも／＼にて、だん／＼
お貞さんの方から深くなツたは、日本画を稽古して居る書生さん、名は磯上重雄(いそがみしげを)といつて年は二十(はたち)、女の子より一つ年下なり。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;磯上ざんは、常陸(ひたち)の土浦と水戸の間の石岡といふ処に、代々の造酒家(つくりざかや)として有名(なうて)の豪家の二番
息子、惣領のにいさんは、先祖からの通名(とほりな)を名乗つて調四郎(てうしらう)、年は二十七、相応に東京の学校で 勉強したのだといふ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;お貞さんの磯上さんも、十九の春中学を卒業して、それから首尾よく専門の学校へはひり、画
のお稽古はするもの」、可愛がられるが毒になツて、にいさんの奥さんの御実家(おさと)、京橋本八丁堀
の岩佐回漕店の世話になツて居るにもかまはず、昼はもとより夜さへ時々明ける始末、まことに
不行跡不身持には違ひ無けれど、自分は女めづらしい若い身上(みそら)、相手は年上の商売人、堅気さん
のお耳には聞辛くとも、われ／＼の口からいはせれば、磯上さんの迷ひ少しも無理で無し。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかもよく／＼深い縁でがな、逢つて間も無くの事と見え、其の年の師走のはじめ、お貞さん
は女の子を産み落し、これにお花と名は附けたれど、うちのつがふ、稼業のてまへ、折角産んだ
楽しみの初めての子も手もとでは育てかね、お喜びにと出掛けたわたしに、お信(のぶ)さんどうしたものだらうねエといふ、&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;腹帯を固くして、随分無理な勤め方もしはしたものゝ、冬からはもう人目に立つにぞ、病気といつての商売休み、其の揚句の今、春は目の前。
「わたしだツて、ひとりや半分お客の無い事も無いけれど、こゝまで我慢をして来たものだから、 此の子ひとりぐらゐのことで、今さらひとに弱い音を吹くのも。」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;トさすがの負けぬ気にも溜息、後見(うしろみ)代りなり寄食人(かかりうど)なりの叔母さんお友さんも、いはず語らず苦労の様子。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;人はあひみたがひ、殊には姉妹(きやうだい)同様の仲、お貞さんの内輪の事も知り抜いて居るわたしは、ど
うぞして春をやす／＼稼がせてやりたいものと思案のうち、ふと思出したは、以前松廼家に居た
女中お定といふが、その後宇都宮在の実家へ帰り、近所の小商人(こあきんど)へかたづいて、此頃子供が出来たよしを、松廼家の姐(ねえ)さんから聞いた一条。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ねエお前さん、気にはすむまいけれど、せめてかうにでもして見たらどう。」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ト子供を里に出すはなしをすれば、物の十分も黙つて侑向いて居たお貞さん、&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「里つ子にやると、親子の情愛が薄くなるさうですねエ。」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ト、ホロリと一雫、産んだばかりでも我が子はかうも可愛いものか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでもほかに差当つての分別なく、叔母さんとふたりしてまア／＼と慰め諭(さと)し、松廼家の姐
さんとも相談の上、宇都宮在の干瓢(かんぺう)屋兼百姓の、関口久蔵といふかのお定のつれあひのところへ、 わたしからきゝあはせの手紙。&lt;/p&gt;
    </description>
    <dc:date>2010-12-04T13:01:30+09:00</dc:date>
  </item>
    <item rdf:about="http://www6.atwiki.jp/amizako/pages/207.html">
    <title>四つの袖 (part6)</title>
    <link>http://www6.atwiki.jp/amizako/pages/207.html</link>
    <description>
      
&lt;p&gt;「姐さん、あんたわたしをあそびなさツたなア。」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ト竜市師匠真剣にさう思つたか、飲ける口にやけ気味の酒、芸人の身の尚更切上げの附かぬ一段。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「相手が旦那なので、出ない訳にもいかず、行つたが間違ひの基でこんな事に。」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;愚痴は種切れ、いひわけも一つ事、&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「わたしがみんな鈍痴(どぢ)なのですから、師匠、かうして下さいな。」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;グイとあふつて、じつと見たお秀さん、&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「飲み明かしもご迷惑でせう、といつて、此のまゝにらみあつても居られますまい、お互に引込
が附くやうに、今夜はわたしがみがはりに立ちませう、こつちも不しやう、ぜいたくはいひツこなし。」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;自暴(やけ)でなし、身を粗末にするでなし、かうなツた此の場合此の肚の据ゑ方、世間は理窟ばかりで通れず。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;結び違ひの縁の糸、お秀さんは思ひも寄らぬ人に馴染み、丸子さんは旦那の機嫌を取直して、
いたづらぎは其のまゝのお流れ、師匠の方は二日(か)の日延べとなツて、お秀さんと其の二晩(ふたばん)の又の首尾、次の朝は新聞にはや浮名。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まゝよ、女房のこうるさい男の世話になツて、日蔭の者のいくぢなさをくやまうよりは、気ず
ゐ気まゝの旅あるき、芸人に芸人、飲助に飲助、勝手放題に暮らすが徳用、人間いつまで生きる
ものか、此の足腰の達者なうちに稼いで遊んで、どうにか月日のたつた頃には、だいじな娘が一
人前の新造(しんぞ)にならう、田舎などへ置けばこそ、黒こげ女房からかくし子呼ばはりの疽も立つ、世
界の果まで母子(おやこ)一緒に行くが本望、と竜市に得心させて、お秀さん俄女房、太夫の一座が一旦逗
留の間に、あしもとから鳥の立つやうに、杉本にも話し、立鼓さんにも話し、衣類手道具を一行李(ひとこり)にしてきちがひじみた旅仕度、杉本のうちのあるじさんは、&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どこに居るも同じな体(からだ)ではさうも思はう、気の毒な事だ。」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ト男ながらも苦労人のおもひやり。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「わたしのやうな男運の無い女も少いでせう。」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;トお秀さんひとしづく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「変な事になツて了つたのねえ。」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ト丸子はしよげた顔。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「かうと知つたら、年期でもきめて置くのだツたに、おれも立鼓さんも惜しい事をした。」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;トあるじの冗談、何にしろ肝腎な娘をと、関口のうちへ引取りに行けば、里親ふたりは泣きの
涙のそれはまだしも、どうにも引離すに離されぬは当人のお花さんの不承知、&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「此のおつかさんといくのはいやだ、うちのおつかと一緒に居るんだ。」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ことし六歳(むツつ)の物心あるがなまじひ毒になりて、生みの母よりそだての母を親とするいぢらしさ、
だましても叱つても、久蔵夫婦の人にしがみ付いて離れぬにぞ、おかみさんは涙の止め度なく、&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お願ひですからもう一二年預けて置いて下さい、里扶持も要りません、たよりも無ければ無い
でようございます、姐さんの体がチヤンとおきまりになるまで、しつかりお預かり申します、こ
つちからお知らせする用が出来たら、松廼家の姐さんのうちか、若松のお信姐さんのとこまでい
つて上げます、短気な事をしないで、一日も早く東京へ帰つて落着いて下さい、あんまりだしぬけで夢のやうだ。」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ト飾り気も無き真味の異見。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「どうかして、男親に一度逢はせたいと思つては居ても。」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;かひなき事とあきらめてか、さらば当分のいりようにと、お秀さんかなりのお金を里親に預け、
泣出しさうに顔をそむける我が子憎くもうしろがみ、帰つて此の晩杉本の二階で、丸子さんへか
たみにといつた三味線取つて爪弾の『四(よ)つの袖(そで)』、泣き明かしたやら次の朝お秀さんの眼は真赤。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
旅興行の常として、さきからさきを急ぐ宮子太夫の一座、これより福島仙台と乗出す中に、笑顔(ゑがほ)さびしいお秀さん、汽車の窓からステーシヨンの見えずなるまでそこに未練の眼の色は、里親
が連れて来るかの心待ちの、あきらめ切れぬせゐでがな。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きちがひじみた旅立ちをしたお秀さんはきちがひか、洒落か冗談か、思案の末か、去年の暮、
お秀さんの縁で丸子さんがわたしのうちの抱妓(かかへ)になツた処から、宇都宮でのあらましは分つたれ
ど、寒さに向つて寒い方へいつたその後の事は分らず、お花さんは、磯上さんは、と思ふうちに
又一年、ことしの二月になツて、紀州からお秀さんの年始状、おほよそをいへばかう。&lt;/p&gt;
&lt;blockquote&gt;
&lt;p&gt;　その後は永らくご無沙汰、延引(えんにん)ながらご年始状を差上げます、風のたよりに聞けば、丸子さ
んが住替へて行つて居るとの事ですから、さうならば大抵はごぞんじでせうが、去年の夏、桐
生前橋高崎と歩いた時、お花は無理から引取つて、今も手もとでそだてゝをります、玉蜀黍(たうもろこし)の
やうな頭髪(かみのけ)も少しは黒くなり、手足の色もだん／＼はげ、田舎詞(ことば)もだいぶ直つて参りました、
ことしは大阪に落着いて、小学校へ入れるつもり、唄もポツ／＼教へて居ますが、義太夫なぞ
は決して習はせません、竜市のわがまゝなのには困つてをりますが、娘がもう少し大きくなる
までは、辛抱をしてをります、此頃お花が『四(よ)つの袖(そで)』を覚えたので、愚痴を聞かして、親子
で泣きます、しかし石にかぶりついても、娘は一人前にして、血すぢの正しい、両親にまさつ
た身分の男にきつと添はせます、実意のある男をきつと持たせます、ことし娘は八歳(やツつ)、わたし
は明後年(さらいねん)もう三十です、去年素通りをしましたから、丸子さんからおついでに杉本のうちへよ
ろしく、廃業の事や何やかや、あとで定めしご面倒でしたらうとお察し申します、叔母さんの
ゐどこをごぞんじでしたら、何ぞの時にお言伝(ことづけ)を願ひます、唯今では広い世界に親子たつたふ
たりです、嬉しかツたも男、苦労も男、姐さんも丸子さんもお達者で、当分又おたよりを怠け ます、東京といふ処を思出したくありません。&lt;/p&gt;
&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;竜市さんのうちはどこか未だ尋ねず、『四(よ)つの袖(そで)』を幾何十度(いくなんじつたび)か弾いた涙のいきがたみ、其の
三味線は、丸子さんがもつてゐて、今わたしのうちに在る。&lt;/p&gt;
    </description>
    <dc:date>2010-12-04T12:17:22+09:00</dc:date>
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    <item rdf:about="http://www6.atwiki.jp/amizako/pages/206.html">
    <title>四つの袖 (part5)</title>
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    <description>
      
&lt;h3&gt;下之巻&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;
由緒(ゆいしよ)正しい江戸つ児はいはぬ事としても、東京の本場で仕上げた一人前の立派な芸妓(げいしや)、それが
縁なればこそ、なま若い書生さんに打込んで、末はどうなる身の上か、生れ故郷をみれんげも無いやうに振捨てゝ、木から落ちた何とやら、からだひとつの旅かせぎ、女心といふものは、なまじひの男よりもかうなると強(きつ)いが常と知りながらも、気に掛かるはお貞さんのおきふし、われ人ともに、女のさかりは短いもの。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
地方とはいへ、都近くでは指折の繁華の地、宇都宮から杉本のお秀といつて店借(みせがり)同様で出たお貞さん、さすがにギラリと目に立ちて、弘(ひろ)めの日からの大(おほ)繁昌、芸は確か、お酒は飲む、いやみ
一さいお断りの野暮をいつてもお座敷の数を減(へ)らさぬうでまへを、見込んでか、意地からの無い
物ねだりか、土地で有名の資産家麻問屋の鏑矢さん、あそびの方も家標で通つた立鼓さんといふ
が、手を廻しての金(かね)びら、到頭たゞでなくなツたは、お秀さんが出た其の年の夏頃らしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どうせわれ／＼風情(ふぜい)の稼業、堅いといつても男嫌ひといはれても、いつがいつまで聖人君子で
居られやう筈は無し、臨機応変、詠(よみ)と歌、我が身可愛いのかけひきは、堅気さんも商売人も同じ事、五歳(いつつ)になる娘はあり、自分は二十五、幾ら意地つ張(ぱり)でも強情でも、それだけに又気の廻るお
秀さん、きつと考へたに違ひ無く、秋頃にはもう立鼓(りふご)さんを旦那にして安気に稼いで、押しも押
されもせぬ一流のおほ姐(あねえ)。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それでも世帯は面倒とて、自前にはして貰はず、おもしろをかしく客と芸妓(げいしや)で過ごすうち、知
れるともなく明かすともなく、お秀さんと立鼓(りふご)さんとの仲にはお花さんの事もあけすけになツて、
いよ／＼へだてがとれ、二十六の春頃からは慰み半分の勝手勤め、それでもお客は天(あま)の邪鬼(じやく)、やつぱりお茶の晩とては無し。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これまでの間の月日、さう短い事でなけれど、どうしたのやら、磯上さんからたゞの一度もた
より無きにぞ、お秀さんつひには我慢しかねたらしく、暑中見舞にとて久々でわたしへ寄越した手紙のうちに書いた事には、世帯の持ちたてにまはりを恐れて、住所(ところ)も知らして寄越さぬは未だ
勘弁のしやうもある、こつちのゐどこは変つてゐても、お前さんのうちへちよいと電話を掛けれ
ば直ぐ知れる事を聞きもせず、お花の里親へも端書一本寄越さぬは、去る者日々に疎(うと)しとやらか、
それも急に今悟つた訳で無けれど、さりとては不実者、おつかさんのこはかツたは分つて居れど、
女房がこはいやうな男はもうこつちも御免、とはいふものの子供の親、成人してからも、男親の
顔を知らずじまひに死なせるかと思へば、因果なおふくろをもつたお花がふびん、お信さん此の
愚痴だけは聞いて下さい、としみ／゛＼とした文句、わたしは返事の書きやうに困つたり。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
然(しか)し、それもこれも商売繁昌無事のうちはまだよけれ、秋口になツて、立鼓(りふご)のうちのおかみさ
ん、誰か胡麻摺かいろがたきかにしやくられたものとみえてお秀さんにたゝり、ご亭主の出(で)はひ
りにうるさく其の事を言立て、何んでも子供まである仲、行く行くはわたしを追出し、其の女を
あとへ直す気に違ひ無い、それであなた済みますか、と畳をたゝいての苦情、奉公人の手前はか
まはず、実家(さと)へは泣込む、それがいつかパツとして新聞へ長々と出る、又それを文句の種にして
おかみさん泣きわめく、此のおかみさんといふ人、お作さんといつて年は四十、旦那より四歳(よツつ)下、
大きな男の子がふたりもあるのだとの事、そんな身の上でさへ女はやきもち取越し苦労、それな
らわたしたちはどうして居ればいいのだらう、とも思ひはすれど、だいじな男の貸をしみ、めつたにひとの事ばかりはいはれず、又お秀さんもさぞ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さて立鼓さんまアさ／＼も古くなツて、奥方の逆鱗日に増し烈しく、さしもの遊び人も余り世
間のうるさいに根負して、これから暫くの間、月に二三度の遠出(とほで)ぐらゐにして置かう、狭い土地
での此の評判は、幾ら暢気(のんき)なおれにもこたへる、商売上の信用にかゝはつて来てはお互に詰まら
ぬ、との割つてのはなし。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「女房つていふ者は、そんなに怖い者ですかねえ。」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;トお秀さんのはらのうちには何やかや。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「少し気を抜くだけの事だ、そんな憎まれ口をきくものぢやない、男が女房のギヤア／＼いふに
弱るのは、女房を怖れるのではなく、世間を怖れるのだ、つまり自分が可愛いからだ、をかしか
らうが黙つて居てくれ、悪いやうにはしないから。」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
ト遊びの却(かふ)をへて居る旦那の説得、もつともと思へばまさかに取つて附けた駄々もいはれず、&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
「それでは当分神妙にして居ませう。」「立て過ごしにしてある情人(いろ)の顔でも見て、鼻の下を長くして居るがいい。」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;トからかふはお花さんの事、何んといつても心だのみになるのは他人ではない、とお秀さん、
帰つてから妹分の丸子といふのにつく／゛＼といつたさう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それからその後、お秀さんは約束通り遠ざかるやうにして居たれど、十日(か)逢はずに居る事に何
んの効も無く、一晩逢ふのは直ぐ響いて罪になる鏑矢(かぶらや)さんのうちのもんちやく、立派な伜のふた
りもある癖に、何を不安心に思つて四十づらのやきもち、今更女房を追出すやうな良人(ていしゆ)か、しん
しやうを曲げるやうなべらぼうか、二十年来つれそつて居て、其のくらゐの弁別が附かぬとは、
呆れ返つた馬鹿女、こつちなんぞは一年ばかりのうちにはらの底まで知つて居る、とお秀さんの
例のかんしやく、或夜の座敷の酒(さか)機嫌に、立鼓さんに面と向つて毒づくと、&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「そこが女房と商売人さ。」「其の女房が気にくはない。」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;明いて居た障子の外、麦酒のコツプは庭石にこなみぢん。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;立鼓さん笑つて大抵にあしらひ、あと／＼もたまに逢つてこつそりと遊ぶうち、こゝに又一つのはなし。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
十月の末の事、阪地(かみがた)から名古屋、横浜、東京と打つて、宇都宮へ廻つて来し義太夫の一座、切語(きりかたり)は豊竹宮子太夫三味線竹沢竜市、前景気からたいしたものにて、いよくとなツては芝居の小
屋にギツシリの客、初日も二日目も。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
其の三日目に行つたかの丸子さんといふ二十(はたち)になるのが、絃(いと)の竜市といふ三十幾歳(いくつ)のやせぎす
を見染めて、姐さん一度遊(あす)ばして、と一緒にいつたお秀さんへぶちまけてのたのみ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「旦那に知れたらどうおしだ、」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
トよさせやうとすれば、急凝(ご)りの意地きたな、是非といつて承知せぬに、たか／゛＼五日(か)ぐらゐ
の興行、あとくされもあるまじと、その夜打出してから、気の置けぬうちへ竜市さんを座敷にし
て呼び、ちかづきの一杯、そして別れて次の夜の首尾と、そこまでは運びしが、いよ／＼のきは
になりて、丸子さん旦那の座敷がぬけられず、あせるを胡散(うさん)と感付かれてか、いつに無く旦那お
泊りとなツて、双方の間の使三度四度、男の来たのは打出し後とて、其(そ)のうちに直ぐ十二時、お
秀さん飲んでしやべつて、うでかぎり繋いではみたものゝ、到頭丸子さん先方にいけどりときま
つては、もう意地にも根(こん)にもまとまりが附(つ)かず。&lt;/p&gt;
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    <dc:date>2010-12-04T12:14:43+09:00</dc:date>
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