軍事板初心者質問スレまとめ(FAQ)

日本海軍

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匿名ユーザー

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旧軍の話なんですが。陸軍には憲兵隊があったのは知っていますが海軍に憲兵隊はあったのでしょうか?

海軍にも憲兵隊はありました。憲兵手帳も陸軍と違います。
(4:145)

なんで昔の日本は10隻以上もの空母を運用できたのでしょうか?

現在の自衛隊が空母を運用出来ない理由としてはコスト云々ではなく、
憲法判断や外交上の理由、等々技術的なものが一番の理由ではないからです。
(4:629)

太平洋戦争時の連合艦隊はなぜ連合艦隊とよばれてたんですか?

連合艦隊は戦時下に編成されるもので、名称のとおり、2個以上の艦隊を合流させて編成したものです。

この制度は明治17年に定められ、実働は日清戦争時(明治27年)の戦時下に、
常備艦隊と警備艦隊という2個艦隊をもとに初の連合艦隊が編成されています。

日清戦争後は連合艦隊を解体し、再び常備艦隊のみに戻り、次の連合艦隊は日露戦争時前夜、
常備艦隊他の艦艇を第1・第2艦隊に再編し、編成されています。

第1次大戦後の大正8年にさらに艦艇数・種類の増加に伴い、第1~3艦隊を中心とする連合艦隊が常設となりました。

ある意味、連合艦隊=海軍といって過言ではないでしょう
(7:398)

旧日本海軍の軍艦で、菊の御紋が付くのは1万トン以上の艦のみ、というのは本当でしょうか?

軽巡はあったような気も。駆逐艦はないですよね。
海防艦はあったらしく、大戦時に作られた初期の「占守」あたりはあったらしく、駆逐艦より艦長の格が高く、
最初のうちは駆逐艦から欠礼されてしまったりしたようです。

えと基本的に軍艦には菊の御紋がつきます。
一万トンという分け方ではなくて駆逐艦より上の艦(軽巡、重巡など)に付けるという感じです。
例外があって205トン(多分)の河用砲艦(熱海など)が菊の御紋を付けていたりもしました
(7:928-929)
うろ覚えですが、砲艦は軍艦扱いでほとんどの砲艦に菊の御紋章は付けてたような気がする。
(7:931)
太平洋戦争中使用された海防艦には2種類あったはずです。船団護衛用の戦時量産型の海防艦とそれ以前に建造された北方警備用の海防艦です。
「占守」は後者で、ソ連との外交交渉にも使用される可能性が高かったために、権威付けのために、菊の御紋章を付けていたと記憶しています。
船団護衛用の海防艦には御紋章ついていなかったと思うのですが、ちょっと記憶にありません。
河川砲艦に付いていたのも「占守」についていたのとほぼ同様の理由で、揚子江などで使用された河川砲艦は、
他の列強との外交交渉に使用される可能性があったために菊の御紋章が付いていたはずです。
(7:948)

旧日本海軍はなぜ、駆逐艦・潜水艦を軍艦の仲間にしなかったのでしょうか?

駆逐艦や潜水艦は消耗品だからいちいち菊の御紋章つけてると何かと具合が悪い
(91:385)
駆逐艦が攻撃された場合と砲艦が攻撃された場合とではどのような違いがあるのか?
駆逐艦、潜水艦は中佐が艦長だ。
駆逐艦、潜水艦は大量生産される。
だから中佐クラスで艦長にしないと人員の数も足りなくなる。
故に軍艦より1歩下になる。
(91:388)
軍艦の定義は時代によって変化しますが、駆逐艦や潜水艦が軍艦に分類されなかった経緯は、
これらの艦種の成立当時の事情が原因です。
戦艦は帆走軍艦時代の主力艦である戦列艦の、巡洋艦はフリゲイトの、
それぞれ直系の子孫と言ってよいでしょう。
それらの指揮官である艦長は、正規の海軍大佐(ポスト=キャプテン)であり、
外国に対して一国の利益を代弁する“軍の指揮官”としての完全な資格を備えているものと見なされました。
これに対して、駆逐艦や潜水艦は、その登場当時においては、"ふね"と呼ぶより"ボート"と呼ぶほうがふさわしい小艇でした。
そのため、それらの指揮官は、より下級の将校の職となり、一国の利益を代表するような重要な任務は、
数隻を集めて編成された"隊"の指揮官である"隊司令"(海軍大佐)の職分とされました。
そのため、駆逐艦や潜水艦が"艦"と呼べるほど大型化しても、指揮官は中佐どまりであり、
前大戦が始まって重要性が見直されるまで"軍艦”籍には入れてもらえませんでした。
(91:396)

なぜ連合艦隊の根拠地が、呉に出来たんですか?

征韓論華やかりし頃、大韓国に攻め入るには西に拠点を築く必要がありました。
しかし、舞鶴は北に過ぎ、佐世保は東シナ海に面しており、大韓国の保護者である清国の脅威にさらされてしまいます。
(幕末、長崎出島に英国海軍のコルベットが侵入して、オランダ船を攻撃したのは有名な話ですし、
当時は清国海軍もかなりの戦力を有していると思われていましたので)

候補地としては他に三原などもあったそうですが、呉ならば、

1. 周りは寒村ばかりで人口も多くなく、しかも入江で浚渫も不要。
2. 連絡も汽車を使えば可能な本土にあって、波の穏やかな内海である。
3. 周辺海域は海峡を要塞によって守れば、制御可能という地形。
4. 広島には陸軍の拠点があったので、陸海軍連携に有利。

と言うことで拠点として選ばれたようです。

もっとも、裏には藩閥の論理もありまして、維新回天に活躍した薩長土肥の
次に第二勢力として活躍した芸州への配慮という話もあります。
(17:眠い人 ◆ikaJHtf2)

連合艦隊の略称GFのGってなんの略っすか?

Grand FleetのG。
英訳としては「Combined」が正しいらしいけど
お師匠の英国海軍にならったらしい。
(20:ulysses)

戦前の戦艦や空母の名前はどうやって決められているのでしょうか?

旧海軍命名基準

戦艦
旧国名

重巡洋艦・巡洋戦艦

軽巡洋艦
河川

一等駆逐艦
天象・気象

二等駆逐艦
草木

水雷艇
水鳥・島

航空母艦
天に関わる抽象名詞
(22:のりしお)

聯合艦隊司令長官は誰がどのような基準で任命していたのですか?

連合艦隊司令長官職は天皇に直隷する親補職なんで、推薦と言う形ですが
事実上海軍大臣が任命しております。
たいていは艦隊司令長官か鎮守府司令長官の中から年功序列で
選んでいたようです。
(31:193)

士官養成学校が、陸軍が士官学校であるのに対して、海軍はなぜ「兵学校」になったのですか?

「海軍兵学校」はかの勝海舟が命名したのが引き継がれていました。
(32:12)

軍政を海軍省が軍令を軍令部が担当していたということですが、海軍大臣と軍令部総長はどちらが偉いのですか?

伏見宮の軍令部長・総長時代の前と後で違うでしょう。
陸軍と違って、海軍の人事権は海軍大臣の専権事項ですから、
軍令部長・総長の人事権も海軍大臣が握っている建前ですが、
伏見宮が総長となって以降、総長退陣後も、上層部人事には
伏見宮の承諾が必要になって行きますし、
海軍内部での「偉さ」の指標である先任順位も、
米内の2度目の海軍大臣期を除いては、軍令部総長の方が上です。
ただし海軍大臣職と次官職は武官職ではなく文官職なので、
先任順位には拘束されませんが。
米内が1度めの海軍大臣を務めた後、伏見宮軍令部総長後任の最有力候補となり、
米内が首相となって予備役編入となることに伏見宮らが強い難色を示した点からも、
この時期には実質的に軍令部総長の方が「偉く」なっていたと思われます。
(41:532)

旧軍の機関中将ってどんな仕事してたんですか?

同じ様な呼称の階級でも、待遇は悪かったようだ。
(42:771)
造船部で機関の設計、製造とその監督をやっていたのでは?
あと、艦では機関長ということで、機関のお守りをしていたか、と。
(42:眠い人 ◆ikaJHtf2)

旧軍の海軍設営隊って陸軍の工兵隊に相当すると考えて良いですか?

海軍設営隊は飛行場などの設営がメインだけど、沖縄では
地下防空壕を掘ってたわけで、そういう点は工兵隊と変わらんね。
「海軍設営隊の太平洋戦争 ―航空基地築城の展開と活躍―」佐用泰司著
638円+税 光人社NF文庫
「ルソン海軍設営隊戦記」岩崎敏夫著 光人社 1700円
こんな本があるようなので、参考にされては?
(42:258)

海軍兵学校は3年制だったという理解で正しいのでしょうか?

1932年より兵学校は4年制になり、
後々戦争の激化に伴い年数は短縮されています。
(50:453)

旧日本軍において、明治初期、海軍に海兵隊が編制されたものの、陸軍があれば海兵隊はいらないとか言う理由で短期のうちに解散してしまった。

しかし、後に海軍陸戦隊と言う名で復活したと聞いております。

そこで質問なのですが、いったん陸軍との違いを説明できずに解散に追いやられた海兵隊をどういった理由で再編制したのでしょうか。

また、再編制した際に海兵隊から陸戦隊に名称が変更になったのはなぜでしょうか?海兵隊だと海軍兵学校と混同されるから?
ひょっとして旧日本軍にとって「海兵隊」と「陸戦隊」とでは違う意味の部隊になるのでしょうか?

そこで質問なのですが、いったん陸軍との違いを説明できずに解散に追いやられた海兵隊
そりゃ、基地警備や前進拠点の占領なんかの為に海軍にも陸上作戦能力
が必要ってのはある程度は自明だろう。今の海上自衛隊にすら「陸警隊」
があって、基地防空の短SAMなんかを運用してる。

ひょっとして旧日本軍にとって「海兵隊」と「陸戦隊」とでは違う意味の部隊になるのでしょうか?
上から続く…要は常設じゃなくても、必要に応じて水兵に武装させれば
その程度の目的には十分だろうというのが「陸戦隊」。後に鎮守府(大規模軍
港)で常設に近い部隊として編成されたのが特別陸戦隊。

 その他、設営隊やら特別根拠地隊やら、そりゃ必要でしょうなという部隊が
陸戦隊とは別にある。
(64:799)

「比島決戦の歌」という曲で、「海に鐵血 大川内」ってのが解りません。

大川内傳七 当時海軍中将、南西方面艦隊司令官
(71:192)
何で呼び捨てなんでしょうか
単に、「提督」とか入れると、メロディに上手く合わなくなるとかという理由では?
この歌は、1番から3番までありますから、同じ音符の並びで歌詞の音数も、
無理なく合わせないとですからねえ。
(71:194)

鎮守府って・・・なんですか?

鎮守府と言うのは、簡単に言えば、海軍の根拠地のことです。
(古くは蝦夷制圧後の、大和政権の軍政府として東北に置かれたものですが)
日本の防衛をするために、周辺の海域を5つに分け、西海方面の根拠地は呉に置かれました。

昭和17年に船を下りたと言うことは、大体明治中期以降の生まれと推定されますので、
大正時代に海軍に在籍したと言うのは十分に考えられる話ですね。
(漏れの曾祖父が、明治10年代の生まれで、民間ですけど昭和17年に船を下りていますから)
(74:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

中島知久平は大正六年に海軍を退役していますが退役理由は何なのでしょうか?

元海軍将校なのに採用機種が90艦戦97艦攻天山くらいで
陸軍の方が多く採用されています。
なぜなのでしょうか?
中島と陸軍:
中島知久平は馬賊の親玉になりたかった少年である。
 12歳のときに日清戦争の馬関条約が結ばれ、臥薪嘗胆を誓った日本の将来にチューンインしてしまった。
そこで大陸にわたって馬賊の親玉になり、大陸を制したかった。
 ところが、陸軍士官学校に行くつもりが、海軍機関学校に入ってしまった。

中島の海軍退官のいきさつ:
やがて第一次世界大戦がはじまると、飛行機の活躍が証明されてきた。中島は
トラクターや水雷や双発機の開発を手がけつつも、このまま海軍にいたのでは
本格的な飛行機はつくれないとおもうようになる。当時の海軍造兵部には
水雷部・大砲部・電機部の3つしかなく、飛行機部がなかったのである。
 中島は海軍を退役して財団法人帝国飛行協会の名義を借り、ついに民間の
飛行機開発研究所に挑む。このときの「海軍退職の辞」が泣かせる。
(86:849,852)

旧日本海軍の「陸戦隊」は米軍の資料とかではどのように英訳されていたのでしょうか?

Naval Landing Force

横須賀鎮守府第5特別陸戦隊という場合、Yokosuka 5th SNLF(Special Naval Landing Force)となります
(91:505)
たしかSpecial Landing Forceではなかったかな?
確認後、誤りがあれば訂正します。
(91:545)

海軍のダイハツと現在の車メーカーのダイハツとの関係を教えてください。

クルマメーカーのダイハツは、1907年に創業した会社で、日本で一番古い自動車メーカーです。
最初は発動機製造という社名でしたが、1951年に「大阪にある発動機製造」と言うことで、
ダイハツと言うブランドを社名に変え、ダイハツ工業になりました。

船の大発は、大型発動機艇の略称で、ダイハツとは、余り関係ないです。
(93:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

大東亜戦争で亡くなった親戚は海軍水兵長だったらしいです。階級で言えばどこでしょうか?

水兵長は階級の1つです
(94:706)
それ微妙に違ってる。
当時は(昭和17年に呼称改正)兵の階級は
水兵長→上等兵→一等兵→二等兵の順になっている。三等/四等水兵は無い。
(94:707)

WW2の大日本帝国海軍の重巡で砲術長を務めたのは中尉クラスだったのでしょうか?

少佐。駆逐艦でも中尉が分隊長以上を勤める事は定員上はない。
ただし、掌砲長(砲術の下士官、兵のまとめ役)はたたき上げの特務中尉や特務少尉の仕事。

 砲術一筋30年の下士官に新品少尉と同じ教育をして
指揮官コースに乗せるってのは馬鹿らしいので、
下士官が昇進して士官になるとそういう役職に就けた。
(95:355)

瀬谷には「海軍道路」という約3Kmの直線道路があるのですが、ここは昔は何だったのでしょうか?

海軍道路は横須賀水道道路といい、大正10年に横須賀軍港に水を引くために
作られた水道道で浄水場に水を送る水道管が地下に埋まっているそうです
「海軍道路・由来」などでぐぐるとヒットするかと
(97:630)
ん~と、その海軍道路は、愛川町~横須賀市で、藤沢とかを通っているの
ではないかと思ったのですが。

結局、確たる回答になっていなくて申し訳ありませんが。

当時、瀬谷駅周辺は横須賀第二海軍航空廠瀬谷補給工場があり、1941年頃は
爆弾、火薬庫が点在した、「横須賀海軍資材集結所」という施設になっていました。
その補給基地と駅を結ぶ専用道として「海軍道路」は作られたようです。
ちなみに、その歩道部分は、旧神中鉄道(今の相模鉄道です)瀬谷駅から分岐した
資材集結所専用線となっていました。
今の市立瀬谷中学が分岐点で、其処に貨物入換え用の小ヤードがありました。

この専用線自体は、1952年まで存在していたようです。
(97:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
参考になるかどうかは判りませんが。
空自百里基地の近くにも、「海軍道路」はあります。
やはりかなり距離の長い直線道路です。
滑走路とは全く関係なくて、旧百里原航空隊の舷門に通じる道だから、地元
住民が「海軍道路」と呼び習わしていたとのこと。
そちらも似たような理由ではないでしょうか?
(97:635)

戦前の日本海軍の建艦方針の中心にあったという個艦優秀主義ですが、この方針は結局失敗だったんですか?

ワシントン軍縮会議、ロンドン軍縮会議において、日本の海軍兵力の総額が、当時
日本海軍が仮想敵としていた米国の兵力総額よりも低い水準(ワシントン会議では
主力艦について米国の7割、ロンドン軍縮会議では補助艦について米国の約七割)
に抑えられたことはご存知だと思います。

さて、このような状況下において、兵力量において制限を受けた日本海軍が、兵力の
質において米海軍に優越し、この兵力量の差を質で補おうとしたことは、当然の発想
としてよいと思います。で、問題は、

また、実際の個艦の戦闘能力は、大和武蔵は別として、米英の軍艦と
比べて本当に優秀だったのですか

これについては議論百出なところですかね(大和武蔵についても議論百出ですが)。
他に個艦優秀主義については、優秀な艦を建造するために巧緻な設計を行い工数が
増大した(割には性能が大したことなかった)とか色々批判がありますが、太平洋戦争が
日本海軍が想定していたのとはだいぶ違う展開で進んでしまった、という点を考慮に
入れておく必要があるかもしれません。

あとは、兵力量の差を埋めるために日本海軍が考えたのは、個艦優秀主義だけではない、
というあたりを押さえておけばいいかと。
(98:382)
あとは、兵力量の差を埋めるために日本海軍が考えたのは、個艦優秀主義だけではない、 
というあたりを押さえておけばいいかと。
一つは決戦主義ですね。
(98:383)

海軍経理学校って経理を勉強する所ですか?

主計科士官を養成する学校です。会計学も教授されましたが、
それ以外にも軍事学全般や、法学・経済学等も科目に入っています。
(100:24)
海軍の主計士官を養成する学校でしたので、経理も当然科目に入っています。

軍事学としては、軍制、庶務、会計、軍需品学、工業通論、厨業管理、兵学、
軍隊教育学、衛生学を学び、基本として、法律学、経済学、財政学、統計学
を、教養として数学、理化学、神精科学、歴史、地理、国語漢文、
外国語(英、独、仏、支、露)を学んでいます。
(100:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本海軍で、「航空艦隊」の略称は何なのでしょうか?

AF"Air Fleet"です。
(101:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

帝国海軍の八八艦隊計画艦は、長門-陸奥 加賀-土佐 天城-赤城 以下の

12隻の艦名は正式に決まっていたのでしょうか?
高雄は起工されていましたから、当然候補艦名はありました。
候補艦名は二つあって、もう一つは愛鷹でした。
また、愛宕も既に起工されていたので候補艦名とされていました。

紀伊、尾張も候補艦名として命名されていたのでこれも確定しています。
駿河、近江については、起工すらしていませんでしたから、予定名、あるいは
仮称艦名でしかなく、数多の命名候補の一つと言えるでしょう。
(106:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

旧海軍は士官はともかく、曹士に対しては今、自艦がどこにいてどこに向っているのか、任務は何なのかなどについて

はほとんど教えなかったようです。(うわさという形で伝わったらしいですが、)

そこで質問なのですが、なぜそうまで旧海軍は曹士に状況を知らせ無かったのでしょうか?
危険な地域に進出する事になったら逆に士気が下がるじゃん。
まあ旧軍は変なところで機密保持にこだわる軍隊だったりしましたが。
(106:666)

昭和2年の海軍大演習で発生した「美保ヶ関事件」について調べたいのですが

「世界の艦船」1997年9月号で日本の艦艇の事故に関して特集を組んでいます。
『わが国艦艇事故のケーススタディ(6)美保ヶ関事件』という一章がありますので、
それがよろしいのではないでしょうか。
(111:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

旧海軍の軍艦の命名権者は誰になるのでしょうか?

海軍首脳部が2つの案を天皇に奏上。
然る後天皇がご決断されたようです。
(111:猫侍 ◆fj8rUSB2rc)

金剛や三景艦を外国に注文した際、日本が支払った代金の額はいくらなのか教えてください

やっとこ資料が出てきましたので。
ただ、残念ながら三景艦の代金は幾らなのかは分らなかったのですが、
畝傍の保険金額が邦貨換算129万5000円でしたので、そのくらいの金額より上ではないかと思います。

ちなみに、1903年竣工の英国戦艦Swiftsureが邦貨換算932万円、日露戦争時代の
日進、春日は、2艦で153万ポンド(1隻当り邦貨換算746万8695円)となっています。
うち、3万ポンドは仲介手数料ですので、実質2隻で150万ポンドとなります。

金剛は、大正2年竣工の方だと仮定しますが、契約価格236万7,100ポンド
(後に追加費用5万ポンド(新式甲鉄の使用)と、148ポンド(アートメタル費用)が追加)となっています。

うち、Vickersから三井物産に当初契約金額の5%(118,355ポンド19シリング11ペンス)が
仲介手数料として支払われ、三井からはその3分の1が艦政本部長に支払われました。
また、Vickersの代理人にVickersから31,195ポンド5シリングが支払われ、
これが海軍高官にリベートとして渡っています。
更にVickersからは他に当初契約金額の2.5%にあたる59,177ポンド10シリングが
日本製鋼所に支払われています。

ちなみに、紀伊級1隻の予算要求額は3,725万円、赤城級1隻の予算要求額は3,742万円になっています。
なお、英国軍艦の日本向け基準価格は、1910年当時で、

装甲板:95ポンド/t
砲、砲架、砲弾:日本、英国海軍の通常価格
砲塔天蓋の垂直装甲の価格、防御甲板価格:Herculesと同じ
機関価格:パーソンズ式/7ポンド/hp
     カーチス式/7ポンド15シリング/hp
船体及び艤装価格:26ポンド5シリング/t

となっています。
(114:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
できれば、その資料本の名前教えてください
書評スレの前スレで紹介されていた、日本経済評論社「日英兵器産業とジーメンス事件」
(こいつが殆どの元ネタ)、吉川弘文館「歴史文化ライブラリー18 軍備拡張の近代史」、
すずさわ書店「創出の航跡」、それと、Jane's Fighting Shipsの復刻版(1909とか)を参考にシマスタ。
(114:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

ジパングの世界では通信将校が海軍のエリートとして幅を利かせておりますが、実際の旧海軍の社会でも、砲術科以外のエリートコースはあったのでしょうか?

ご質問の意図がよく分らないのですが…(どちらにしても、ジパングネタだし…)。

海軍に於いては、主流なのは、兵科将校です。
兵科将校と言うのは、直接戦闘兵種で、航海、砲術、水雷、無線電信、
信号、操縦、航空機に関するものを扱う職種です。
この兵科将校の中での順位付けは、余り意味を持ちませんが、強いて付けるならば、
砲術>水雷=航空=操縦≧航海>無線電信=信号くらいにはなります。

機関科は1943年まで分かれていましたが、後に兵科に含められています。
但し、主流ではありません。

他に将校担当官として、軍医科、薬剤科、歯科医科、看護科、主計科、造船科、造機科、
造兵科(造船、造機、造兵、水路は1943年に技術科に統一)、法務科、水路科、軍楽科
(1943年に独立)がありました。
これらは厳密には将校ではなく(将校というのは兵科の人を言う)、傍流です。

兵科現役将校への正当コースは、海軍兵学校(海兵)卒業後、少尉候補生になり、
遠洋航海を経て在役軍艦の勤務を経て少尉に任官することです。
その後、大尉任官後1年を経た者(大抵は海兵卒後10年程度経過した者)で、
海軍大学校に甲種学生として入学を許された者に対して原則としてエリートとして遇されます。

海軍大学校には他に航海学生、機関学生、専科学生などがありますが、
戦闘関係の部署(砲術、水雷、航空)以外の兵科の人々はこちらになります。
(115:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
あくまでも典型例ですが
明治30年(地方幼年学校設立)から大正9年くらいまで

13歳    旧制中学入学
     ↓            ↓ 
14歳 地方幼年学校入学 ↓
17歳 中央幼年学校入学   ↓
18歳  ↓           隊付
19歳  隊付           ↓
     ↓            ↓
      陸軍士官学校入学
21歳   卒業、見習士官となる

年齢は中学に入った年や地幼に入った年によって多少変わりますよ
(115:299)

知り合いの骨董屋さんから明治中期頃の古写真を数枚譲って貰いました

その中の一枚に白のセーラー服セーラー帽の兵士4人の写真が有ります。
超セピア色の写真の上部には墨書の和紙が貼られています。
4人の出身地、氏名が阿波国美馬郡曹岳村大木原大西宗斎為大西新造等と詳しく
書かれています、当時の軍服で年代が特定出来るHPを教えて下さい。
軍服は日本海軍軍装図鑑 幕末・明治から太平洋戦争まで 柳生悦子=著
という本が決定版だそうですが、私も読んだことありません。

阿波国美馬郡曹岳村大木原大西宗斎為大西新造から現在の徳島県美馬郡脇町に
いた人だということは特定できます。("大木原"という地名がある)
合併の時期などからある程度は年代を見ることは出来るのではないでしょうか
{(115:526)

山本元帥は、靖国神社に奉られているでしょうか?

当然奉られていますよ。
(116:803)

日本で連合艦隊司令長官が直接指揮を執った、海戦てどのくらいありますか?

日清戦争の黄海海戦で伊東祐享
日露戦争の黄海海戦と日本海海戦で東郷平八郎    以上3回。
(120:鷂 ◆Kr61cmWkkQ)

山本五十六が身長159cmだったというのは本当ですか?

身長:五尺二寸五分(159センチ)
(120:806)

鎮守府を英訳するとするとどうなりますか

"Naval District"と訳して下され。
(120:818)
管区司令部とか、軍区司令部みたいなのに相当するわけだよな。

naval district HQとか…つか、他国の海軍のホムペ当たって、
管区司令部みたいなのが、どういう英語を当てられているか、調べてみてはいかが。
(120:819)
HQていうのは・・・head quarter の略ですかね?
HQ = Head Quarter
yesつか、それくらいは辞書に出てるはずだぞ(w
(120:821)



日本海軍では師範学校出身者徴兵と言う制度がありますが師範学校を卒業したらいきなり徴兵なのでしょうか?

師範学校(尋常師範学校)の卒業生は19歳。徴兵検査は20歳。卒業後すぐではありません。

正式には「師範学校出身徴兵」という制度。
それまでの短期現役兵制度に替わって昭和16年から始められた。
短期現役兵制度が師範学校卒業生の体験入隊みたいなものだったのに対し
師範学校出身徴兵は他の徴兵とほぼ同様に実務に就くことになった。
ただし、服役期間は1年10ヶ月と短く、昇進スピードも速かった。
(483:509)

日本軍は、兵員輸送に客船はどの程度使用していたの?

居住性は良好、脱出も「戦時標準船」なんていうヤバい船よりは容易に思うんだが。
戦前を代表する客船や貨客船の多くは海軍に徴用や買収されて
病院船特設軍艦(改造空母、潜水艦母艦や水上機母艦)になっている
これは海軍より船舶改善助成施設や優秀船舶建造助成施設として
建造時に補助金をもらう代わりに有事の際は上記艦艇への流用を盛り込んだ設計とすることが決まっていたため

また、軍隊の前線への輸送には兵士だけでなく武器弾薬の輸送も必要であり
そのためには人だけでなく荷物も積める貨物船や貨客船が適していることということがある。

最後に、太平洋航路、インド洋回りの欧州航路とも大西洋横断航路と比較すると利用者が少ないという要素もあり
日本の持っている客船は元々少なく、軍隊輸送に使おうにも十分な数が無いので
どうしても貨物船の船倉にカイコ棚という方法しかたくさんの人を一度に運べないということがある。
(552:597)

海軍特別陸戦隊に、大隊より大きい部隊は無かったのですか?

戦争末期には乗る艦もないので、可成りの数が陸戦隊要員で、各鎮守府に二隊以上
の特別陸戦隊を編成し、それを総称して連合特別陸戦隊としていました。

開戦当初の海軍特別陸戦隊は、例えば佐世保鎮守府の第6特別陸戦隊の要員は
3個中隊+砲隊+高射砲隊+戦車隊の合計約1500名、横須賀鎮守府第7特別陸戦
隊は、7個中隊+歩兵砲隊+速射砲隊の約1900名でしたが、戦争末期の連合特別
陸戦隊は、例えば、横須賀には6個特別陸戦隊で2万4000名の兵力を持っていました。
(344:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

なぜ南雲は新鋭の翔鶴・瑞鶴を旗艦にしなかったの。当然、航空隊は赤城・加賀から母艦変えでね。

戦艦戦隊や重巡戦隊とかだと新鋭艦が旗艦になるパターンが多いのに。
旗艦設備が充実していたから。
赤城は元が戦艦(巡洋戦艦)なのでその手の設備余裕がやたらとでかい。
あと、元が元だけに速力が速いこと。
それから、新鋭艦を旗艦にするのは、何か問題が起きる可能性が高い
(新鋭艦だけに予想外の問題が起きるかもしれない)ので、艦隊の中で
重要なポジションにつけるには不向き。

日本の艦載航空隊は母艦の固有編成
従って、中の人だけお手軽に引っ越したりできんのだよ
そして戦隊なんかの番号は基本的に編成した順に振っていく
翔鶴・瑞鶴を一航戦にしたかったら、まず現行の戦隊を解かなければならない
両者ともに書類作業がえらい事になって、出師準備に悪影響を与えそうだぞ
それに熟練搭乗者だって、新空母に移ったら、その空母に合わせて訓練せにゃならん

開戦に秒読み始めてる時点で実現できそうな事じゃないな
(344:627,628)

開戦時に編成を大きく変えるためには、戦時編制の改訂(天皇の裁可)が必要になる。
1航戦(赤城・加賀・第7駆逐隊)・2航戦(飛龍・蒼龍・第23駆逐隊)・5航戦(翔鶴・瑞鶴・秋雲・朧)だけ
でなく、3航戦(鳳翔・瑞鳳・三日月・汐風)が所属する第1艦隊の編制も変更しなければならない。
(344:737)

レイテ沖海戦の前に第2艦隊司令部が旗艦を愛宕(第4戦隊)から大和(第1戦隊)に変更したいと希望したが、軍令部
や海軍省から「第2艦隊の司令部(司令長官)は第4戦隊の司令部(司令官)を兼務しているし、夜戦の指揮をするた
めには重巡を旗艦にするべきだ」との意見が出され実現しなかった。

パラワン水道で愛宕が沈んだため、結果的に要望は実現したが、そのためにサマール沖で…。
(344:739)

山本五十六が最も嫌いだった戦艦:大和、武蔵。最も愛した戦艦:長門、金剛・・・これって本当ですか?

大和・武蔵は「嫌い」というか、航空本部長時代、建造計画に猛反対していたし。
設計者のところにわざわざ顔を出して「こんなもの造ったって、飛行機の前には無力だよ。君たちも今に失業するぜ」
などと憎まれ口を叩いていたし。

そもそも五十六サンは、「戦艦なんか床の間の飾り」などと公言していた人なので
長門と金剛も「愛して」いたかどうか怪しい…
(344:642)

1941年12月の時点で、日本海軍はいかほどの人員を抱えていたのですか?

1941年の時点で、311,359名です。
1942年になると、429,368名に増加します。
(343:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

映画「男たちの大和」で「お前は12分隊だ」と指示を受けていましたが、昔は編成が違ったのでしょうか?

どういう基準で分隊分けをしていたのですか?
旧海軍の分隊の数は艦の規模によって異なります
駆逐艦は海自と同じ4個分隊、ただし役割は違っていますが
(旧海軍の駆逐艦では第1分隊が砲術、第2分隊が水雷、第3分隊が航海、第4分隊が機関)
一方、重巡では分隊の数は15個
第1分隊が主砲砲台、第2分隊が高角砲、という具合
さらに戦艦長門だと21個分隊、主砲砲台だけで4個分隊あります
これは、主砲のサイズが大きく、必要な人員も多いため1個の分隊にはまとめられない
(人数が多くなりすぎてしまう)ため分けられたと思われます

ちょっと大和の艦内編制の資料がないので第12分隊が高角砲なのかは判りませんが
戦艦クラスだと武器を使う分隊も複数あるので不思議ではないと思います
(569:178)

日本海軍の局地戦闘機のコードJは局地戦闘機だけでなくて陸上戦闘機全般のコードなんですか?

元の陸上戦闘機の月光のコードはJ1N、制空戦闘機のはずの陣風はJ6Kです。
海軍機なので陸上機は制空機も迎撃機もすべて局地戦闘機、という位置づけです。
A記号振られたのは空母機のみ。
(342:751)

日本の水雷戦隊について、第2水雷戦隊が最精鋭と評価されており、新造駆逐艦も優先配備されていた と本に書かれていました。

ナンバー順――第1水雷戦隊が最精鋭でない、新造艦艇の配備が優先されていないのは何か理由があるのでしょうか。
戦艦・巡洋艦だと、基本的にナンバーが若い戦隊に、より新しく強力な艦艇を配備していますよね?
戦艦同士の艦隊決戦の前に行われるであろう夜戦に賭けていたから、
2水戦に最精鋭の駆逐艦が配備されていた。
第2艦隊所属の2水戦4水戦とも、次発装填装置付きの新鋭艦
戦艦部隊である第1艦隊所属の1水戦3水戦は戦艦部隊の護衛が主任務で、
雷撃能力は重要視されていなかった。
(341:52)

源田実氏は何故叩かれるんでしょうか?

軍人の業績としては失敗が多かった。

戦闘機無用論を振り回したり、一航艦航空参謀時代には「源田艦隊」と言われるくらい
口出して、そのくせミッドウェーで負けて帰ってきて、今度は「戦争に負けてるのは制空
権がとれないからだ、制空権が取れないのは戦闘機が弱いからだ、なら戦闘機部隊を
強くしなければならない」とか戦前とは逆の事言って343空の司令に収まって、どこの隊
でも不足している熟練搭乗員をかき集め、錬成が終わってないと戦闘に出さず、レアケ
ースの勝利を以って名指揮官を自称し、戦後においては失敗に触れず自己弁護に終
始し、旧軍のシガラミの残る自衛隊で栄達し、参議院議員にまで成り上がって寿命で死
んだ。

彼が余計なことをしなければという場面はいくらでもあるが故に、嫌われている。
(572:675)

帝国海軍ものの映画を観ていると、普通に英語を交えて話したり、陸軍なら怒鳴られそうなユーモアを交えて話をしたりしていますが、

実際、海軍は陸軍に比べ英語やユーモアの使用に寛容だったのですか?
色々な戦記を読んでいると、
海軍の場合、フネが沈むと、
艦長から末端の兵士まで死の危険にさらされるので、上下の信頼関係が重要になってくる。
戦艦などの大型艦では、兵への体罰もありましが、
小さな艦になるほど、上下の信頼関係が増してくる傾向にあったようです。
潜水艦では、体罰が無い艦も有ったようです。
そのような陸軍との雰囲気の違いを、映画の演出として表現しているのではないかと。
(340:269)

山口多門が名将扱いされている理由を教えてください。

ミッドウェイ海戦において、三空母喪失後にわずか数機の攻撃機を発進させたことは、あま褒められる指揮ではないと思います。
太平洋戦争前に(あるいは太平洋戦争中に)彼が指揮して勝った戦いがあるのでしょうか?
日本海軍の提督の中では航空戦に詳しく、実戦指揮経験もあった
(機動部隊のではないが…)。

「これからは航空機の時代」と唱えていた点で評価されていると
いうことかな。

ちなみに日中戦争では陸攻隊の司令官として渡洋爆撃を指揮して
いたが、損害続出の陸攻隊員に
「根性が足らんからやられるんだ。もっと気合を入れて出撃して来い」
と訓示して戦術や機体の改良といった面には全く触れず、陸攻隊員の
上申書や改善願いもことごとく握り潰して
「人殺し多聞丸」と陰口を叩かれていた。
ついでに言うと同じく陸攻隊の司令官だった大西瀧次郎が損害の多さに悩んで
改善策を上申し続けたのはあまり知られてない。

山口提督が評価されているのはもっと具体的なことだと思います。
例えば真珠湾攻撃で南雲機動部隊は燃料タンクや軍事施設を見逃し、第二次攻撃で
早々に引き上げたことなど攻撃の不徹底だと後世非難されることになりますが、
山口は予め計画の段階から燃料タンクなども攻撃目標に加える事を進言していて、
第三次攻撃を行なうことも機動部隊司令部に催促していました。

ミッドウェーでは敵空母発見と同時に攻撃隊を出さなかったことが
南雲の判断ミスと言われているのに対して山口は即時攻撃を進言していました。
また同海戦で米空母に唯一反撃できた飛龍を指揮していたのも山口で、
結果論として山口の判断は全て正鵠を射ていたと思われる余地ができたのではないでしょうか。

機動部隊輪形陣など革新的な空母戦術も考案していたり、
優れていたという評価があっても不思議ではない程度の
戦術眼と先見性は備えていたのだと思います。
(339:601-643)

日本海軍における潜水艦の区分がよく解りません

大雑把に言うと
  • 伊(イ)号(巡洋潜水艦(巡潜)、一等潜水艦:水上速力が高く長大な航続力を持ち、
 高い外洋航行能力のある大型の潜水艦、艦隊攻撃/索敵用

  • 呂(ロ)号、二等潜水艦:主に沿岸から近海域で通商破壊を主目的にする中型の
 潜水艦、速力、航続能力共におしなべて普通(世界的に見れば)
 日本海軍は対艦隊戦を重視して巡潜をメインにしたので補助戦力扱い

  • 波号、3等潜水艦:沿岸防衛・哨戒用の小型潜水艦、日本海軍はやはり重視しなかった
 ので補助戦力扱い

日本海軍の潜水艦の任務はとにかく太平洋を越えて日本近海にやってくる敵艦隊
(ぶっちゃけて言うならアメリカ)を発見、攻撃することで、そのことだけを
考えて潜水艦戦力を整備したので、呂号と波号は「その他」扱いなので分類も
相当に適当。
伊号以下は「大きいのは呂号、小さいのは波号」程度にしか分類してない。
イ号が巡潜ならば日本海軍の潜水艦は全てイ号艦となるの?
基本的には排水量1000トン以上で伊号、以下で呂号になるが、そもそもの設計思想が
違うので、「排水量で区分」されてる、という考え方はあまり適切とは言えない。

海大型(海軍式大型潜水艦)は要するに後の巡潜のこと。
 排水量1000トン以上の遠海用潜水艦。
潜高型(潜水高速型)は水中速力の向上を主眼にした潜水艦のことで、これは
 排水量や任務とは別の区分。というか、設計思想。
 伊呂波で分けるなら伊号クラス(潜高大型)と波号クラス(潜高小型)があった。
(576:249,267)

海軍主計士官は、物資の管理などの他に、艦橋で戦闘記録をとるという仕事があったといいます。そういった記録係は、階級によって配属される艦が違っていたのでしょうか?

ただ単に、主計科の人数によって取りまとめ者の階級が上がっただけ。
一般会社でいうと庶務課とか経理課にあたるものだから、人数の多い戦艦とかだと
上の階級の人減が割り当てられた。あと後方の工場勤務も多かったらしいぞ。
(579:124)

昔の海軍の砲術とはまず目標より遠目に大砲を撃って、次に目標の手前に撃って三発目で命中させてたそうですがなぜでしょうか?

艦砲は狙って初弾必中が望めるような簡単なものじゃない
角度と距離が合ってないと当たらないのよ

基本的には、
 ・一発目で遠弾を撃って、苗頭(角度)を修正する
 ・二発目の近弾で苗頭の確認を行い、同時に一発目との兼ね合いで距離を修正する
 ・三発目以降は修正値でぶち込んで、夾差してウマー
てな感じ


上のはドイツ式の射撃
日本は英式で弾着を見て砲の上げ下げを指示する
(334:584,588)
戦艦ワシントンの砲術員の記述では、当時の彼等は旧海軍の射撃を以下のように認識していた様子だじょ。
「その二回目の一斉射撃のとき、私はまずそれがオーバー、次に手前、それから命中といういつものジャップの撃ち方だと判った『戦艦ワシントン』より原文まま」

いわゆる「夾叉及び梯段」。
(334:ドイツ厨 ◆Kmf5mxsjcM)

海軍機月別生産機数

(589:134)

海軍大学校の甲種、乙種、選科とは何の区別なんですか?

甲種学生は、高等兵学に関する学術を体得させるもので、入学資格は大尉任官後1年の海上勤務を経た者。
通常は海兵卒後10年程度の大尉もしくは少佐です。
乙種は無かった筈ですが、航海学生は航海科の、機関学生は機関大尉、機関中尉で、機関術その他の学術を
修習させます。
これらはいずれも修業年限は戦前で二カ年。

選科学生は、士官に専門の学科を修習させるもので、修業年限は1~4年になります。
(333:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

帝国海軍には、ドイツ海軍のミルヒの様な補給潜水艦はなかったのでしょうか?

ないとしたら、広大な太平洋を戦線とするのに建造しなかった理由は、何だったんでしょうか?
補給用潜水艦としては厳密な意味ではありません。

但し、飛行艇に対する補給用として、潜補型の伊351型2隻、前線部隊に対する補給用として、
丁型の伊361型12隻、丁型改の伊373型2隻を建造しています。
これらは所謂、輸送用潜水艦です。

乳牛のような補給用潜水艦が造られなかったのは、そもそも、伊号潜水艦自体が、極めて大きく、
燃料や弾薬の補充を必要としなかったこと、また、任務自体も通商破壊ではなく、偵察任務と軍艦
攻撃主体の為、魚雷をボカスカ発射する機会に恵まれなかったこと、更に手近な場所に補給基地が
あったので、独立した形で補給部隊を置く必要がなかったことが挙げられるでしょう。
(331:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

下瀬火薬による榴弾攻撃が対艦戦において、有効だったのは何時までだったのでしょうか?

ピクリン酸炸薬としての完成度の高さや日露戦争の実績により、下瀬火薬万能主義があり、
以後停滞していきます。
有効だったのは正に日露戦争時までです。

しかし、列強は第一次世界大戦の頃にはTNT系の火薬への転換を行っています。
これは、ピクリン酸系炸薬は衝撃に関する感度鋭敏と言う問題があり、屡々爆沈を齎した事
から、各国ともTNTへと変更した訳です。

ところが、日本海軍は下瀬火薬万能主義で中々転換出来ず、TNT系の転換が開始された
のは大正末期からやっと試験的に行われたに過ぎません。
先ずはカーリット系の八八式爆薬が1930年に正式制定され、TNAの九一式爆薬、TNAと
ヘキソーゲンを混合した九四式爆薬、1934年にやっとTNT系の九二式爆薬が採用されています。

それでもTNT系の割合は増えず、TNAは毒性に問題があり、長く下瀬火薬も陸用爆弾用として併用
されています。
これが改められたのは1938年6月の南昌事件で、中国軍戦闘機の撃った機銃弾が爆弾に命中して、
爆撃機が木端微塵となり、友軍機も誘爆して航空隊に重大な損害を被ってからでした。
この為、直ちに九八式爆薬への転換を図り、やっと下瀬火薬は表舞台から消えていきます。
(595:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

下瀬火薬を使った榴弾攻撃という攻撃方法自体が、日露戦争以後もまだまだ有効だったのかどうか

攻撃方法自体には問題はなく、単に下瀬火薬が危険だったから行わなくなっただけなのでしょうか?
1915年に金剛級4隻を用いて、廃艦となった壱岐を相手に榴弾で射撃を行っています。
その時、前部中甲板から発した命中弾の黒煙が、壱岐の砲戦側を艦尾方向に流れていた為、
もし、実戦であれば、砲側照準は妨害されたであろうと考えられました。
しかし、檣楼の指揮所、方位盤照準装置は影響を受けていません。
また信管が遅動出来なかったために装甲板面で自爆したものも多数ありました。

1924年9月、日向と金剛が同じく廃艦となった薩摩に対して榴弾射撃を行っていますが、この時、
金剛は160発を発射して12発の命中をしたものの、沈没しませんでした。
この時の分析で初めて、弾頭の徹甲性、信管の遅働性、自爆防止の欠陥が明るみに出ました。

搭載弾薬数は有限ですし、生産能力も日本の場合非常に低い状況です。
主力艦を相手にするのに、威力の低い榴弾を相手に放ち、相手に殆ど損害を与えられないよりは、
大威力の徹甲弾を相手に放ち、轟沈させた方が効率がよい訳です。

余談ながら、陸用爆弾に下瀬火薬が用いられたのは、その鋭敏さ故の弾片効果を狙ったのではないか
と思います。
(595:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本海軍では駆逐艦や潜水艦は軍艦に分類されていないので、菊のご紋章が付いていないと聞きました。なぜ軍艦扱いされなかったのですか。

国際法的には駆逐艦も軍艦(naval ship, warship)。
単に海軍内部の用語として船舶を軍艦と艦艇と(その他)船舶に分類してただけ
(507:モッティ ◆uSDglizB3o)

日本海軍内部での格式の問題。
格式が高い海軍艦艇のことだけを「軍艦」と呼ぶことにした。
駆逐艦は小型で品位のある設備はつけられないし、集団で使うのが通常と言う事情もある。
国際法上の軍艦ではある。

軍艦というのは国際的に特別な立場を認められた海軍の顔であり国家の看板にも等しい。
だからこそ他国に訪問した際は相応の敬意を持って出迎えられるし、
自分達も外国の軍艦を無下になどせずもてなさなければならない。
そんな外交そのものの役割すら担う船だからこそ、
国際的慣習に従った相応の規模と権威を伴った艦でないと困るわけ。

日本海軍でももちろん、駆逐艦や潜水艦も軍艦です。
ただ日本海軍では「軍隊に所属する船」という一般的な意味での「軍艦」
とは別に、一部の艦を、特別な意味で「軍艦」と呼ぶ区別がありました。
(戦艦とか空母とか)
(507:963-965)

日本海軍の南遣艦隊の各輸送船などについて、船腹の手当てなどは聞くのですが上陸手段は具体的にどうしていたのでしょうか

ノルマンディー上陸作戦などでは、大規模な準備が必要とされ上陸舟艇についても同様に万単位で建造されたと聞いています。
俗にいう大発を積んで行き使っていたのか、それとも現地のはしけや舟艇を徴発して間に合わせていたのかなどが疑問です。
大発と小発が基本
基本は兵隊だけを海岸にピストン輸送だ
舷側にロープ、縄梯子を横に繋いだもの等を垂らして移乗(一斉移乗なんて簡単な話じゃない)
波高1メートル程度でもとんでもなく上下左右に揺れる状態だ

車両(主にトラック)を含め重装備は港湾施設を占拠するのが大前提
艀にデリックで吊り下ろして桟橋等へ
無い時は当然大発を使う
重砲などは馬で牽くのが当たり前だったから砲兵連隊を輸送してる船の中は馬だらけ
これらも一頭一頭吊り上げてってなこともやらないといけない
ちなみに15榴1個中隊には輓馬150頭は最低でも必要

大発は当然ひたすら修理して使いまわし
大日本帝国には余剰の装備など一切無い
敵の銃弾等で穴が空いたら木工作業でコンコンと一つ一つ穴を塞いで使うのが常識
気の利いた修理素材やキットなんか無いからな
そもそも軍服から靴から小銃からなにからなにまで手作業で修理して使ってた軍隊ってこと

ちなみに特大発と中発ってのもあったからな
ニューギニア方面になると慣れてきて
戦没時の用意も兼ねて筏に予め物資を載せておいて泊地で筏ごと下ろすとかもやってる
(602:570,575)

『ジパング』みたいに旧海軍がチャフを実践使用した記録ってあるの?

昭和19年まんなか頃から電探欺瞞紙を使用している
ただ、艦隊戦はほとんどが遭遇戦なので『ジパング』のように使ったことはほぼないはず。
(325:238)

日本海軍の艦載砲に、四〇口径八九式十二糎七高角砲という高角砲がありますが、この砲は地上に設置されて使われたことはあったのでしょうか?

太平洋各地の海軍飛行場の防空&沿岸砲台に使用されてます。
例えば、タラワ島には連装砲架2基(計4門)があったようです。

下の画像右側はラバウルで戦闘中のもの。
http://blog-imgs-30.fc2.com/s/o/l/solitaryisland/rabaul1.jpg

こちらのページではポナペ島に現存する遺跡が紹介されてます。
http://www.w1vx.net/pedition/v63_2006/pohnpei.htm
(609:◆yoOjLET6cE)

よく海軍は「大鑑巨砲主義」を捨てられなかったといいますが、捏造ですか?

けっして大艦巨砲主義ではありません。
列強の中では日本がいち早く戦艦の建造をあきらめています。
大艦巨砲主義と言われるのは、やはり世界最大の戦艦を作ってしまったからだと思われます。

どっちかと言うと「大鑑巨砲主義を捨て切れなかった」。
機動部隊でハワイを強襲するんだから航空機も十分戦力として期待されていただろうし。
空母を理想的な形で運用出来た国はアメリカと日本ぐらいということも知っておいた方が良いよ。
(297:355-356)

海軍の中の人たちが、戦後にそういう反省を言ったからというのが一つあります。

例えば福留繁、軍令部第一部長や連合艦隊参謀長をやったりした超エリートで、
自ら第二航空艦隊司令長官もやり、戦略戦術の神様と称された人ですが、
「多年戦艦中心の艦隊訓練に没頭してきた私の頭は転換できず、
南雲機動部隊が真珠湾攻撃に偉功を奏したのちもなお、(中略)
決戦兵力は依然、大艦巨砲を中心とすべきものと考えていた。」
と戦後に回想してます。

戦後も旧海軍高級軍人グループの中心にいた一人で、
そういう人たちの通説的な意見として言って良いものかと。
(610:◆yoOjLET6cE)

本土決戦になった場合、帝国海軍の残存艦艇は侵攻してくる米軍に対してどういった迎撃作戦をとる予定だったんでしょうか?

帝国海軍の残存艦艇と言っても、殆どが小艦艇です。
とりあえず、佐世保地区や横須賀地区などの海軍要地に上陸が行われた場合は、陸軍の担当正面に
艦砲射撃を行ったり、鎮守府地区の対空火器を交通援護に割愛することが行われる予定でした。

輸送船団に対する攻撃は、航空特攻の他、佐世保鎮守府指揮下の第3水雷戦隊は回天を搭載し、宮崎
沖もしくは有明湾への敵船団の泊地侵入時、暗闇を利用して肉薄し、回天攻撃を加えた後、駆逐艦並び
に魚雷艇による突入攻撃を行います。
関東上陸の際は、これが東京湾になりますね。

また、海上特攻部隊も最寄りの敵上陸正面で特攻を敢行することになっていました。
すなわち、蛟竜と海竜が敵船団泊地進入前、または進入時に攻撃し、震洋が泊地にて敵船団を攻撃、
回天は上陸支援に任ずる敵艦隊と泊地の敵船団攻撃を実施します。
なお、関東地区への上陸作戦時に使える特攻艇は、3300隻のうち、800隻しかありませんでした。

さらに事前には潜水艦部隊でウルシー泊地攻撃を行うことを計画しています。
(322:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

ワシントン、ロンドン条約で、空母の保有制限が出きたので、優秀客船をいざという時に空母に改造できるように建造に補助金を出した船は?

該当するのは
大鷹(春日丸)、雲鷹(八幡丸)、冲鷹(新田丸)
海鷹(あるぜんちな丸)
飛鷹(橿原丸)、隼鷹(出雲丸)
(612:522)

千島列島(北方四島含む)にあった旧海軍の基地ってどんなものがありますか?

木更津海軍航空隊と厚木海軍航空隊(203空)の分遣隊、452空、502空、
553空、752空、801空、戦闘第303、304空が千島列島に、903空が樺太に
ありますね。
後、占守島には海軍の通信傍受隊があって、海軍で唯一シベリア抑留者を
出していた筈です。
軍港というか、軍艦が拠点とするような場所はなかったというわけですね。
泊地としては単冠湾があって、真珠湾攻撃時の出撃基地にもなっていますが、
大々的に港湾が整備された訳ではなく、あくまでも集結地と言う扱いです。

『蟹工船』に描かれている北方警備の駆逐艦も、その出撃地は小樽でした。
(619:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本海軍は海軍なのになんで局地戦闘機等を開発してるんですか?

海軍は中国で、中国の空軍に痛い目に遭いました。
爆撃機の出撃準備中に、敵の航空機がやってきて、爆弾を散蒔いて逃走、
と言うケースが結構発生したため、強力な武装で、敵爆撃機を撃墜できる
高速戦闘機を輸入したのが最初で、当初は、米国からセバスキー戦闘機、
ドイツからHe-112を装備しています。

但し、二機種とも性能が良くなかったので、要地防空用の局地戦闘機を
国産で開発することになった訳で。
(319:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

山本五十六がドイツの勲章を受章したのはなぜ?

勲章は、それを贈る国に関連した働きに与えられるとばかりは限らないからです。
日本海軍で果たした役割に対して、叙勲されたのです。

「剣付柏葉騎士鉄十字章          1941年7月15日制定
Ritterkreuz Des E.K.mit Enchenlaub und Schwerten

柏葉騎士十字章に銀製の2本の剣をつけたもので、1941年6月の対ソ連戦開始と共に制定された。
受章者は陸軍士官76名、海軍士官5名、空軍士官53名、空軍下士官1名、武装親衛隊士官24名の計159名と日本海軍将官1名。
日本人で受章したのは連合艦隊司令長官だった山本五十六であり、戦死時1943(昭和18)年5月27日に同章が授与された。」

下記、ドイツの勲章を参照ください。
http://www.geocities.jp/ahatoahato/kunsiyou.htm
(622:霞ヶ浦の住人 ◆iQXTBGahk.)

日本海軍で魚雷艇の活躍はあまり聞かないような気がするんですけど何故、重用しなかったんでしょう?

一応、島嶼防衛用に大量生産をしています。
大型艇はドイツのSボートを原型に、小型艇はイタリアのMASと英国のもの(中華民国から
鹵獲したもののコピー)を原型に開発しています。
但し、高速小型舟艇に必要な船形の開発に失敗したのと、高速小型舟艇に必要なエンジン
の開発に失敗した(大馬力のガソリン水冷発動機が無かった)為、高速舟艇用エンジンとして
は、航空廠の倉庫に仕舞い込まれていたエンジンの埃を払って搭載しています。
また、空冷星形をやむを得ず搭載するものもありました。
このエンジンの状態がまちまちで、その状態によっては34ktsを発揮したものもありましたし、
逆に20ktsも出ないものもあったりします。
(316:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

「戦陣訓」は海軍の中でも徹底されていたのか?

陸軍と比べると温度差はかなりあったらしい。もちろん海軍も捕虜に
なる事を不名誉とする点では一緒だったんだけど徹底されていたとは
言いがたいな。一空事件の場合、フィリピン空爆作戦に参加した
海軍パイロットたちがブリーフィングにおいて「フィリピンは親日的
な人間が多いから撃墜された場合安直に自害せず原住民の協力を得て
戦線復帰を目指せ」と不正確な情報を訓示されていた事が原因の一つ
にある(参考文献・岩川隆「我れ自爆す天候晴れ」中央文芸社)
(捕虜第一号:19)

海軍にいた祖父の部隊名を調べています

垂水航空隊気付い1220岩田部隊 魚雷調整班とか言ってます
台南航空隊とか岡山航空隊とかまわっていたらしいです。正式部隊名は調べられますか
正式部隊を知るには、お仲間をあたるのが近道かと思います。
垂水空は日本唯一の魚雷整備訓練隊として昭和19年2月に開かれ、魚雷調整員の多くがここで訓練を受けてます。
台南空に着任とのことですが、台南空は19年12月に解散していますので、19年後半しかいられないかと。
なお、岡山空は存在せず、予科練の倉敷空には魚雷調節員は不要なので、
水偵訓練隊の福山空や詫間空が妥当かと思います。
陸攻・天山隊ならば希少なので、魚雷調節員とも顔なじみのパイロットに出会えるかと思いますが
水偵隊は関係者そのものは多いものの、調節員を知っている方は少ないかもしれません。
知っている方に出会えることをお祈りします。
(310:鷂 ◆Kr61cmWkkQ)

海軍が、昭和13年度計画防空艦なる艦を計画していたとするHPを見たのですが、

航空機の艦船に対する脅威度も実戦で証明されていない(と思う)この時期に、
65口径10cm連装砲12基24門搭載などという艦を作ろうと考えるにはどうも合点が行きません。
未完成艦名鑑1906~45のp.p.108に載ってます。

元々はイギリスのC級軽巡の防空艦への改装案が基になっているようです。
んで、日本側も
旧式化した天龍級の改装案

5500t級の改装案

艦内スペースの配分・機関の旧式化等でお蔵入り

マルヨン計画の秋月級で日の目を見る

という流れのようです。

まぁこのような計画がたった理由としては、そもそも
「戦艦に航空機で対抗できるか?」
という議論が起こる時点で、航空機はそれなりに脅威だったと考えられるわけです。
(307:152-153)
1935年に旧式化したC級軽巡洋艦を改造して防空巡洋艦にしています。
こうした旧式軽巡の活用法として注目されたのが最初です。
これは、新型巡洋艦が対空兵装を強化したとは言え、船団や艦隊の防空には不十分と言う評価があった為で
(意外と艦隊防空に対する航空機の脅威は評価されています)、1936年に更に新式艦であるDido級を計画して
います。
同様に、それに並んで米国は、Atlanta級を計画し、その対抗軸として日本も防空巡洋艦構想を打ち上げた訳です。
(307:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

海軍機のパイロットは、普通の水兵としての訓練や勤務は一切しないんですか?

予科練も艦船に乗って、艦務実習をしました。
戦艦陸奥の爆沈に遭遇して多数が死亡しました。

「乗組員1350人と1時間前に乗船したばかりの予科練艦務実習生120人のうち、10cmもの層の油の海から生還したのは350人であった。」

下記、<広島・呉>戦艦陸奥は浮上せずを参照ください。
http://www.geocities.jp/showahistory/history02/topics18b.html
(648:名前:霞ヶ浦の住人 ◆iQXTBGahk.)

山本五十六は名将であるとされることが多いですが,アメリカに勝てないことを公言していたこと以外に,どんな証拠が挙げられますか?

戦艦ではなく空母が主力になることを予見していて、実際世界で初めて
(実践はイギリスに先を越されたが)空母主体の作戦を発想した。
全部が全部五十六の発想かというとちょっと違うかもしれんが。

なんといっても真珠湾攻撃を成功させたことでしょう。
それ自体の功績も立派なものですが、「とにかく名指揮官」というイメージがこれによって
多くの人々の中に鮮烈に焼きついたといえるかもしれません。
最近は非名将説も唱えられていますよ。
(296:290-292)

海軍のエース・岩本徹三少尉は、ライフジャケットに「天下の浪人虎徹」などと書いていたという

オタク的な性格の人物だったのでしょうか?
それは本人が書いたんじゃなくて
整備の人が書いたのを着たんだよ。
その人の手記が雑誌に載っていたよ。
(662:964)

戦間期の戦艦と空母は、戦力的にはどのような位置づけあったんですか

1937年の本より。

戦艦は艦船の内で最も堅牢強大な物で海軍兵力の骨幹と言われる。
即ち、各艦種の内で最も卓越した攻撃力と防御力を備えていて、戦闘の時は味方の主力となって最強の敵と
対抗するのが本務である」

「航空母艦は海上空軍の母である。
各種の飛行機を多数搭載していて、必要の際思うところへ行動して、海上で飛行機を飛ばして戦闘の要に
供するのである。
欧州戦争の時には、航空母艦は余り発達していなかったが、飛行機の発達に連れて、現在では艦隊の大切な
要素となっている。
しかし、航空母艦には大きな欠点がある。
それは、飛行甲板が敵の爆撃砲撃の目標に成りやすいことである。
この甲板を破壊されたら『動く飛行根拠地』としての働きが出来なくなってしまうのである。
だから、10門、20門と高角砲が数多く用意されていて、敵攻撃機の襲来を防ぎ、また大航空母艦は、20糎砲を
備えて砲戦の準備をしているのである。」
(293:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

大日本帝国海軍では船内の規律が厳しく、それに違反すると酷い処罰を受けることにあったそうですが。

「海軍規律令」でぐぐってみると
16世紀イギリス海軍の規律令がトップにかかるんですが…。

正式な懲罰は「海軍刑法」に基づいて「軍法会議」で懲罰を決定します。
海軍刑法に問えない勤怠に対しては
鉄建制裁・平手打ち・バッターなど、黙認されていた制裁が現場の判断でされていました。
軍法会議なしには、上官といえども部下を死に至らしめてはいけません。
(289:鷂 ◆Kr61cmWkkQ)

芙蓉部隊ってなんですか?

海軍の夜間戦闘機隊です。特攻を行わずに
彗星を主体とした効果的な攻撃を続けたことで知られています。

おっと、彗星というからには爆撃機隊というのが適当でしょう。
(48:648-649)

ネルソン提督と日本海軍とのゆかりはあるのでしょうか?

日英同盟時代の名残でしょうか?
ネルソン提督は1805年のトラファルガー沖海戦で戦死していますので、
言うまでもなく直接の関係はありません。
ただ、東郷平八郎提督は若かりしころ海軍兵学寮(後の海軍兵学校)に入校せず英国に7年間
留学しています。
また、兵学寮の開校と同時にイギリスから海軍顧問団を招いて教育を施しており、いわば生みの親といっていい
英国海軍の偉大なネルソン提督を尊敬する気持ちから遺髪を収めたものと思います。
(50:名無し軍曹)
その遺髪の出所はどこなの?
江田島にあるネルソンの遺髪は、東郷提督の日本海での勝利を祝して
英国のリー卿が提督に贈ったものだそうです。
提督はそれを海軍兵学校に寄贈し、提督の没後に教育参考館の東郷遺髪室に
提督の遺髪とともに収められたそうです。
(50:名無し軍曹)

連合艦隊には第七艦隊が無いようですが、何故でしょうか?

戦争末期の1945年4月に、関門海峡方面の護衛部隊として編成されています。

8が艦隊番号として優先された理由は「末広がりの八」だから優先したなどという
記述も見かけました
(52:541)

士官学校を卒業したらすぐに少尉だよね。兵卒から上がってきた少尉(下仕官?)と待遇の違いはあるの?

 下士官ってのは兵と士官の間の「軍曹」、「曹長」とかの事。
陸軍の場合はソレが昇進して士官になっても「待遇に違いは無い」事になってる。

 海軍の場合は「士官学校」ではなく「兵学校」。機関科将校は機関学校って事になっている。
下士官が昇進しても「特務士官」として扱われ、指揮権は持たなかった。

 当たり前だけど、方位盤(射撃指揮装置)の旋回手に戦術を教育する意味なんて無いし、
実地で学べる機会もない。

 今の自衛隊の様に幹部に昇進する時に教育すれば良いんだが、
砲術専門の士官に適した配置(戦艦主砲の砲台長とか)があればソレに付けた方が適材適所だろう。
(98:52)

八八艦隊計画が財政破綻必至といわれたのでは何故でしょうか?

八八艦隊整備の為に使われる国家予算を当時の日本の国家予算と比べれば分かると思うが?
同じくダニエルプランも無茶苦茶金掛かる計画だったからこそワシントン軍縮会議が行われたのだ。
(106:801)


旧海軍の艦隊派と条約派の対立ってロンドン軍縮条約以降も続いたんですか?また、他にも派閥などはあったのでしょうか。

艦隊派と条約派の対立は、いわゆる大角人事で多くの条約派将官を追放できた時点で決着してます。
艦隊派の首領たる伏見宮元帥のお墨付きがないと海相に就任できない習慣も完成してますし。
もちろん条約派の壊滅にまでは発展せず、山本さんや井上さん、吉田さんら「小者」は対象外でした。
最後の砦となった米内さんについても、
在学時から米内さんを高く評価していた藤田尚徳さんと、艦隊派の重鎮だった高橋三吉さんという
同級生の出世頭が身を引いたおかげで残留ができたようなものです。
あんだけ軍令部を強化した三吉姐さんが自ら身を引いた、ということは
「艦隊派の思惑通りの制度は作ったけれど、実行は阻止してくれ。その役は米内しかいない」
というわけで、身を引いてからの姐さんの関心は、対米戦回避に移ってる状態です。

「派閥」の一つではありますが、
古賀さんや豊田さんに代表される旧来の大艦巨砲主義者と山本さん以下の航空優勢主義については
海軍を混乱させるほどの深刻なダメージは与えていません。

海軍を割る恐れがあった意見対立は
三国同盟を受け入れたがる多数派と、拒絶するトリオを頂点とする少数派による同盟問題。
開戦時は意外と混乱してません。
威勢よく開戦をぶち上げる課長級の突き上げに、できたら避けたい部長以上が押し切られて開戦に至ります。
(287:鷂 ◆Kr61cmWkkQ)

沈没の際に重い御真影を背負って海に飛び込んだ兵士達がいたそうですが、御真影は無事回収できたんでしょうか?

ボートが横付けできる状況であれば、御真影を無事に移せます。
ミッドウェーの4空母のうち、艦橋が炎上した蒼龍を除く3空母が回収に成功してます。
自沈した赤城・飛龍は当然のことながら、艦橋の幕僚が全員爆死した加賀も、炎上を免れてたので。
ただ、いったん飛び込んで…となると引き揚げは困難でしょう。
フィリピン沖海戦の囮空母は、撃沈されることを前提にして出撃したので、あらかじめ駆逐艦に預けてました。
(285:鷂 ◆Kr61cmWkkQ)

旧日本海軍の軍艦の動力が石炭から石油に変わったのはいつ頃ですか?

また、石油だとほとんど煙は出ないということですが、遠目では分からないということになるのでしょうか。
手間だろうけど、wikipediaで日本の戦艦を1隻づつみてその機関を調べることを薦める。
そうすれば、いつ石炭から重油になったかが一番よく分かる。
石炭>重油と石炭の混焼>重油とかわってるから。
(283:737)

戦艦だけでなく戦艦から駆逐艦まで網羅すると、もっと見えてきます。
石炭を燃やすと、煙もさることながら盛大に火の粉が上がります。
夜襲を仕掛けても簡単に発見されてしまう…ということで、
楢型駆逐艦が初めて完全重油ボイラーを採用しました。

今ではソナーでエンジン音が聞こえ、レーダーで船が見えるので
煙を出してるかどうかは問題なりませんが、姿を隠して肉薄する手段としての側面がありました。

逆に、石油でも不完全燃焼させれば煙幕がはれますし。
(283:携帯鷂 ◆exxupUqotM)

旧海軍横須賀鎮守府付近の詳しい地図、建物の案内図などが紹介されている、書籍等をご存知の方は教えて頂けないでしょうか?

例えば、横須賀地方隊の田戸台分庁舎は、1913年の横鎮施設部長の桜井小太郎(英国公認建築士で後に丸の内ビルヂングを設計)が
設計した旧横須賀鎮守府長官官舎ですし、第七艦隊司令部の建物は、1924年建築の旧横須賀鎮守府庁舎、横須賀製鉄所創設当時の
船渠が三基残っていました。
ちなみに、幕末にフランスから輸入されたスチームハンマーは、1997年まで艦船修理部で使われ、ヴェルニー記念館に移設展示
されています。

詳しくは、若干の記述に目をつむる必要があるかもしれませんが、神奈川県歴史教育者協議会編「神奈川県の戦争遺跡」
(1996/大月書店)が資料としては整備されているのではないでしょうか。
(279:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

帝国海軍の八八艦隊計画艦は、長門-陸奥 加賀-土佐 天城-赤城 以下の12隻の艦名は正式に決まっていたのでしょうか?

架空戦記等を読むと、長門-陸奥、加賀-土佐、天城-赤城-高雄-愛宕、紀伊-尾張-駿河-近江、というのがよく出てくる艦名ですが
高雄は起工されていましたから、当然候補艦名はありました。
候補艦名は二つあって、もう一つは愛鷹でした。
また、愛宕も既に起工されていたので候補艦名とされていました。

紀伊、尾張も候補艦名として命名されていたのでこれも確定しています。
駿河、近江については、起工すらしていませんでしたから、予定名、あるいは
仮称艦名でしかなく、数多の命名候補の一つと言えるでしょう。
(106:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

ドイツや英国、米国の船は救命ボートをあっちこっちにくっつけて積んでいたのに、日本艦にはあまりそういったものが見当たりません

これは、日本艦乗員はもし船が沈んだら泳ぎなさい、ってことなんでしょうか?
短艇とかの数が足りなかったのは確かなようです。
それでも、海軍艦艇は未だマシな方で、商船だと(ry。

足りない分は、竹で編んだ筏を搭載して、沈没したら救命胴衣を付けて、
この筏につかまれと言う状況もあったらしいです。
(106:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

金剛や三景艦を外国に注文した際、日本が支払った代金の額はいくらなのか教えてください

残念ながら三景艦の代金は幾らなのかは分らなかったのですが、畝傍の
保険金額が邦貨換算129万5000円でしたので、そのくらいの金額より上ではないか
と思います。

ちなみに、1903年竣工の英国戦艦Swiftsureが邦貨換算932万円、日露戦争時代の
日進、春日は、2艦で153万ポンド(1隻当り邦貨換算746万8695円)となっています。
うち、3万ポンドは仲介手数料ですので、実質2隻で150万ポンドとなります。

金剛は、大正2年竣工の方だと仮定しますが、契約価格236万7,100ポンド(後に追加費用
5万ポンド(新式甲鉄の使用)と、148ポンド(アートメタル費用)が追加)となっています。

うち、Vickersから三井物産に当初契約金額の5%(118,355ポンド19シリング11ペンス)が仲介手数料として
支払われ、三井からはその3分の1が艦政本部長に支払われました。
また、Vickersの代理人にVickersから31,195ポンド5シリングが支払われ、これが海軍高官にリベートとして
渡っています。
更にVickersからは他に当初契約金額の2.5%にあたる59,177ポンド10シリングが日本製鋼所に支払われて
います。

ちなみに、紀伊級1隻の予算要求額は3,725万円、赤城級1隻の予算要求額は3,742万円になっています。

なお、英国軍艦の日本向け基準価格は、1910年当時で、

 装甲板:95ポンド/t
 砲、砲架、砲弾:日本、英国海軍の通常価格
 砲塔天蓋の垂直装甲の価格、防御甲板価格:Herculesと同じ
 機関価格:パーソンズ式/7ポンド/hp
        カーチス式/7ポンド15シリング/hp
 船体及び艤装価格:26ポンド5シリング/t

となっています。
(114:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

栗田は海軍内の評判は悪かったと聞きますが、何故重要なレイテ沖海戦で、勝利の鍵を握る第一遊撃部隊を任されたんでしょうか?

海軍兵学校/海軍大学時代の成績に基づいた人事。

日本海軍は人事の柔軟性がほとんどなく、戦時でも平時と同じ基準で
人事を決めてた。
栗田提督はわりと席次の高い方なので、地位の持ち回りであの位置に。
(274:546)

というか、栗田氏は席次は高い方じゃなく、海軍大学校も出ていないし
中将への昇進も、海兵同期(38期)では遅い方(昭和17年5月、ちなみに早い人は昭和15年11月に昇進)だし
どう見ても、艦隊司令長官まで行ける人じゃなかったよね。

当の本人も、戦後に語ったところによると、2F長官を拝命して
「自分でも驚きました。冗談じゃない、こんな野武士なんか駄目じゃないか、そう思いましたね」
などと言っている。

ちなみに、レイテ沖海戦で利根艦長を勤めた黛治夫氏は
「中央から見れば、水雷屋で頼りになる人に見えたんだろうけど、酒飲んでフネで突っ走っているだけじゃ、
アタマは出来ないよ。高等教育(海軍大学校)を受けさせるべきだった」
と語っている。

栗田氏が、近藤信竹氏(ちなみに、この人は海兵35期クラスヘッドで、栗田氏とは正反対にバリバリの海軍エリート)
の後任の2F長官に選ばれたのは、3F長官・小澤治三郎(海兵37期)よりも後任の中将で、適当な人(水雷屋)を探して
中央の目に付いたのが栗田氏だった、という事も有るらしいね。

2Fと3Fが共同作戦を行う場合、やはり、空母部隊である3F長官が総指揮を執るのが望ましいし
いちいちGFシチが陣頭指揮というのも「時代錯誤」だし。
というわけで、極端な事を言えば「小澤氏よりもエリートじゃない人」という理由で選ばれたわけだ。

でも捷一号作戦では、小澤氏は「裏方」で、栗田氏が「主役」になっちゃった。
昭和18年初頭に上記のような理由で2F長官を決めた時には「想定外」の事態だったんだね。
(274:571)

漫画ジパングの世界では、通信将校が海軍のエリートとして幅を利かせておりますが、実際の旧海軍の社会でもそんなことがあったのでしょうか?

海軍に於いては、主流なのは、兵科将校です。
兵科将校と言うのは、直接戦闘兵種で、航海、砲術、水雷、無線電信、信号、操縦、航空機に
関するものを扱う職種です。
この兵科将校の中での順位付けは、余り意味を持ちませんが、強いて付けるならば、
砲術>水雷=航空=操縦≧航海>無線電信=信号くらいにはなります。

機関科は1943年まで分かれていましたが、後に兵科に含められています。
但し、主流ではありません。

他に将校担当官として、軍医科、薬剤科、歯科医科、看護科、主計科、造船科、造機科、
造兵科(造船、造機、造兵、水路は1943年に技術科に統一)、法務科、水路科、軍楽科
(1943年に独立)がありました。
これらは厳密には将校ではなく(将校というのは兵科の人を言う)、傍流です。

兵科現役将校への正当コースは、海軍兵学校(海兵)卒業後、少尉候補生になり、遠洋航海を
経て在役軍艦の勤務を経て少尉に任官することです。
その後、大尉任官後1年を経た者(大抵は海兵卒後10年程度経過した者)で、海軍大学校に甲種
学生として入学を許された者に対して原則としてエリートとして遇されます。

海軍大学校には他に航海学生、機関学生、専科学生などがありますが、戦闘関係の部署(砲術、
水雷、航空)以外の兵科の人々はこちらになります。
(115:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

海軍艦艇の部隊ではそれぞれの艦艇の乗員とは別に旗艦に司令官が乗ってるんでしょうか?

そして旗艦に艦艇とは別の乗員が乗るのは駆逐艦隊や駆逐艦郡みたいなわりと小規模な部隊でもなんでしょうか?
艦艇の乗員は艦長までで、その上に司令部が旗艦に乗り込みます。

旧軍の駆逐艦を例にとると、
駆逐艦x3~4隻で駆逐隊を編成し、駆逐隊指令(キャプテン)がつきます。
で、駆逐隊数個で水雷戦隊を編成し、旗艦に将旗をあげます。
(271:フェチ ◆kK77XB6/ug)

海軍兵学校は卒業後、席次順に昇進するそうですが主席や次席の場合、佐官まで昇進するのにどのくらいかかるんでしょうか?

ハンモックナンバーに関係なく、大尉まではクラスメイトは一斉に進級します。
で、質問の佐官昇進ですが、ハンモックナンバーと現場での働きを考慮して、大尉どまりの士官を足切りして、残りが一斉に少佐に上がります。
ハンモックナンバーで出世のスピードが変わるのは、少佐から中佐に上がる時からです。
ハンモックナンバーをひっくり返す手としては、海大や術科学校で好成績を上げることや、
現場で上官に気に入られて後ろ盾になってもらう手があります。
(269:鷂 ◆exxupUqotM)
少佐から影響してくるんですね。因みに期間はどのくらいかかるんですか?
例えば、海兵45期生(1917年卒業)の場合、こんな感じです。

(海兵を優等で卒業した人) (普通の成績で海大に進学した人) (海兵後航空畑に進んだ人) (海兵の成績が良くなかった人)
 1918年 少尉任官        少尉任官                 少尉任官              少尉任官
 1920年 中尉任官        中尉任官                 中尉任官              中尉任官
 1923年 大尉任官        大尉任官                 航空術学生卒 大尉任官
 1924年               砲術学校高等科卒                               大尉任官
 1927年 海大(甲種)入学
 1929年 同卒業 少佐任官  海大(甲種)入学 少佐任官      少佐任官
 1930年                                                          少佐任官
 1931年               同卒業
 1933年 中佐任官
 1935年               中佐任官                 中佐任官              待命・予備役編入
 1938年 大佐任官
 1939年                                      大佐任官
 1940年               大佐任官
 1941年                                                          召集
 1943年 少将任官                                                   中佐任官

補足
海軍に於ては進級の際、「考課表」というものがあり、佐官~一等兵まで、一人一葉の甲表と部下全員の比較をする乙表がありました。
これは年一回書かなければならないもので、将校のものは調整官の手を経て最終的に海軍大臣まで進達されます。

准士官以上の主な記入項目はは、
 本人告白(家庭事情、自己研鑽の内容、体力(身体の状態)、職務上の希望、特に告白するべき事象(断酒など))

 対上所見(家庭事情の考察、自己研鑽の所見、体力評価、職務上の希望についての所見、
        学術技能の所見(他人に比較して明らかに優位にある場合に記述)
        本人の長所、研究心努力素質将来見込、褒賞、外国語の力量、気質、欲望(飲食欲、性欲、休憩欲、
        労働欲、生命欲、智識欲、所有欲、幸福欲、社交欲、名誉欲、秩序欲)、趣味及び感情、操行(道徳的
        理想、行為)、態度動作及び言語、注意力、記憶力、想像力、判断力、作業力、最適の職)

 調整官及閲歴諸官所見

と、対上所見については、大体この様なことを書くと言うことで、あくまでも目安に過ぎません。
調整官の所見も同様で、被考課者の総てについて知悉し、しかも豊富な表現力、語彙力がないと作成出来ません。
ちなみに、調整官は、艦船では士官以上と候補生が副長、下士官兵は分隊長で高等官以外所見を書くことは許されていません。
(269:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

旧海軍で聯合艦隊司令長官って上から何番目の地位なんですか

日本海軍では、敗戦直前の時期を除いて、明確に各々の序列が決まっていた訳ではありません。
1933~1945までは、図にすれば、こんな感じです。

天皇----+----海軍省
      |
      +----軍令部
      |
      +----鎮守府(佐世保、横須賀、舞鶴、呉)
      |
      +----警備府(1941年以降、それ以前は要港部として鎮守府の下部組織)
      |
      +----聯合艦隊--+--第一艦隊(時期によって変遷していますが)
      |           |
      |           +--第二艦隊
      +----支那方面艦隊

と言うことで、天皇から見れば、序列的には海軍大臣、軍令部総長、鎮守府長官、警備府長官、聯合艦隊司令長官、
支那方面艦隊司令長官は全くの同格です。

但し、実際の権限は、海軍大臣は軍政を所管し、海軍軍人を統督し、鎮守府、艦隊は所管の軍政に於いて海軍大臣の
指揮を承けるとされ、海軍大臣が他の幹部よりも優越します。
海軍大臣と軍令部総長は、国防用兵に関することを総長から大臣に発議することになっており、海軍大臣は平時の海軍
軍備、経費、艦隊、鎮守府の建制を担当していました。
鎮守府長官、警備府長官は、軍政は海軍大臣、作戦計画は軍令部総長の指示を受けることになっていました。
聯合艦隊司令長官も、これは同様で、軍政は海軍大臣、作戦計画は軍令部総長の指示を受けることになっていました。
(130:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本海軍の海防艦や水雷艇や哨戒艇は何隻ぐらいで行動してたんでしょう?

  • 駆逐隊…おおむね駆逐艦4隻で1個駆逐隊。吹雪型は3隻で組んだことがあります。
  • 潜水隊…潜水艦3隻で1個潜水隊。
  • 水雷隊…水雷艇4隻で1個水雷隊ですが、17年春には3個水雷隊を全部解散してます。
  • 掃海隊…掃海艇(または特設掃海艇)3~6隻で1個掃海隊。
  • 駆潜隊…駆潜艇3隻、または特設駆潜艇2隻+特設捕獲網艇1隻で1個駆潜隊。
  • 砲艦隊…19年に砲艦を軍艦から艦艇に格下げして編制しました。2隻で1個砲艦隊。
       特設砲艦3~4隻で組む砲艦隊は日華事変から編制されてます。
  • 海防隊…19年7月に初めて結成し、3~4隻で1個海防隊。終戦まで8個海防隊しか編制してません。

哨戒艇で組んだ哨戒隊、てのは当初なかった気がします。
太平洋戦争開戦に備えて、三陸沖海上に「特設監視艇」を並べて敵襲を調べる部隊を
「第1哨戒隊」と称しましたが、17年には「監視艇隊」に改称していますし
徴用漁船が減った末期に、海軍が自前で調達した特設哨戒艇をその任務に当てはしましたが
その時も「監視艇隊」のままでした。
(263:鷂 ◆Kr61cmWkkQ)

日本海軍が陸軍戦車を使用する事ってあった?

海軍陸戦隊の警備用に、八九式戦車数両を陸軍から分けて貰って装備していますし、
教育部隊には九五式軽戦車を装備していますし、大戦末期に海軍が試作した自走砲は、
九七式中戦車の車体が基になっています。

ちなみに、熱河作戦の際、日本陸軍が八九式戦車で長躯疾駆したのですが、その整備
には上海の海軍航空部隊の非公式協力があったらしいです。
(264:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

陸軍幼年学校は結構検索にかかるのに、海軍幼年学校はあまり検索できません

古い本ですが、景山昇「海軍兵学校の教育」(1978年 第一法規出版)辺りが詳しい資料か、と。

で、海軍には、1945年に設立された、海軍兵学校予科がそれに充たるかと思います。
それ以前は、15歳から19歳の間に行なう、海軍兵学校での教育が海軍の教育キャリアパスの最初で、
これには入学試験があり、中学校四年一学期修了程度で行ないます。
入学定員は大正期~昭和初期までは130名程度、以後増加して、戦争末期には4000名まで拡大しています。

修了年限は明治期に2年10ヶ月~4年1ヶ月、大正期は2年9ヶ月~3年3ヶ月、昭和6年入学までは3年8ヶ月、
昭和9年までは4年、以後、3年6ヶ月~2年1ヶ月となっています。

創設は明治9年海軍操練所として設立され、海軍兵学寮を経て、明治9年に海軍兵学校となり、22年に
広島県江田島に移転、昭和18年生徒急増の為、岩国に分校を設置、翌年江田島町内に大原分校が設置
され、更に海軍機関学校を舞鶴分校としました。

先述の海軍兵学校予科は、中学生が学徒勤労動員で勉学する余裕が無く、また、陸軍幼年学校に人材を
取られる不安から設置され、これは長崎県針尾島に作られています。

欧米では、陸軍幼年学校の様な教育機関は、米国に見られますし、旧ソ連でもあったやに記憶しています。
(135:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

「鉄甲艦」の定義、区分の仕方について教えていただけませんでしょうか。

また千代田、比叡は「半鉄甲艦」と呼ばれる意味を教えていただけませんでしょうか。
とりあえず、公式には甲鉄艦、鉄甲艦という呼称は存在しません。
明治5年に、軍艦と運送船に分かれ、明治20年5月に、艦齢10年以内の甲号、
水雷艇などの小型艦艇を乙号、艦齢10年超の丙号に分かれました。

これが、明治23年5月の海軍艦船籍条例で、戦闘航海の役務に耐える軍艦を第一種、
水雷艇を第二種、戦闘航海の役務に耐えない軍艦を第三種、運送船、曳船、小蒸気船を
第四種、倉庫船、荷船、雑船を第五種とする五種類に分けられました。
明治29年には、第一種(以前の第一種)、第二種(以前の第三種)、水雷艇(第二種)、
雑役船舟(第四種と第五種)の四種に集約されました。

なお、実際に戦艦、巡洋艦と言った艦種が設定されたのは、明治31年に制定された
軍艦及水雷艇水別標準が定められてからです。

ちなみに、扶桑は、鋼船でしかも、水線全体に渡って装甲帯を持ちます。
この艦のタイプシップは、1870年に建造された英国の中央砲郭艦Iron Dukeを小型化したChileのAlmirante Cochraneです。

一方の比叡、金剛は、舷側装甲を持ちますが、これは船体中央部にのみ施されており、船体は鉄骨木皮構造です。
ちなみに、こちらのタイプシップは、RussiaのGeneral Admiral、英国のGem級巡洋艦になります。
そこで、扶桑は鉄甲艦、千代田、比叡は半鉄甲艦と記述したのではないでしょうか。
(138:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

第二次大戦中、日本海軍は艦船の迷彩塗装を行っていたのでしょうか?

意味合いが違いますが、ドイツ海軍はシルエットを別の戦艦に似せようとしていたと思いますが。
日本海軍では第二次世界大戦前から、
演習などで実験的な迷彩塗装は行われていましたが、
終戦まで迷彩・擬装に関する組織的研究は行われず、
専門の人員も置かれませんでした。

しかし、幾つかの艦では自発的・実験的に迷彩塗装を行う例があったようです。

1942年4月就役の水上機母艦「秋津洲」には、
艦長黛大佐の発案で、前後に艦首波を描いた船体全体の迷彩例があります。
同じ年の6月にはシンガポールで福井技術少佐が特設水上機母艦「相良丸」に、
淡灰色船体に濃灰色の帯を描き、艦尾を濃青色という迷彩を施しました。
後者は特に艦側からの評判が良かったそうです。

また、北太平洋のアリューシャン作戦に参加した第五艦隊の艦船には
迷彩を施していた写真があります。
1947年7月のキスカ島撤退作戦にあたり、軽巡「木曽」艦長長川井大佐が、
同艦の3本煙突の1本を白に塗る事を提案しています。
この煙突を白く塗るという迷彩は、アメリカ海軍の「メジャー6」迷彩と同じ手法で、
アメリカ側に見抜かれても「迷彩塗装を施したオマハ級では」
と言う疑念を抱かせる事も目的の1つだったとされています。
また、同艦には船体長を欺瞞する迷彩も施されていました。

戦争末期の1944年には空母の迷彩実験が行われ、
比島沖海戦などで米軍が撮影した日本空母の中には
迷彩塗装を施した姿が見受けられます。

空母の飛行甲板の迷彩には、「大変効果的である」と言う、
アメリカ側の評価があります。
(当の施した日本側ではそれほど効果があるとは考えられていませんでした)
(259:113)

宇垣纏の戦藻録(字合ってます?)を黒島亀人が自分に都合が悪い部分を抹消したという話を聞きました。

どういう経緯でそうなったんですか?
 黒島亀人はほとんど一人で真珠湾攻撃の計画書を作成したくらいで、当時の連合艦隊
司令部で数少ない航空主兵論者だった。
 なので叩き上げの戦艦派である宇垣纏には激しく嫌われていた。
 そもそも他人と仲良くする能力が無い人だったので(天才にありがち)、連合艦隊の
参謀には全員から嫌われていた。
 更に、そんな人なのに山本五十六のお気に入りだったので、陰でボロクソに言われて
いた。まぁ黒島亀人自身、「奇人」でならしてて自身の天才振りを鼻にかけて憚らない
人間だったので自業自得の面が多分にあるけど。

 そんな経緯があって「戦藻録」には「日本が負けたのは全部黒島のせいだ」的な
描写(宇垣纏の個人的主観)があちこちにある。

あと宇垣纏と黒島亀人の関係で重要だったのは、黒島は軍令部第二部長として
特攻兵器の開発にGOサインを出した、ということ。

黒島はこの事に対し「既に海軍の方針として決まっているので反対などできよう
筈も無かった」と後に主張しているが、黒島を嫌っていて特攻にも反対していた
宇垣は
「あいつなら当然のようにやるだろう」と更に黒島を嫌う事に。
さらに特攻部隊の司令官にさせられた宇垣は、その事と絡めて
「これは自分へのあてつけに違いない!」
というような考察(個人的主観)を「戦藻録」に残す。

このあたりも出版に関して抗議が入り、大幅にカットされたという経緯が。
(259:705-709)

日本海軍の造機能力は貧弱と言われますが、艦本式などのボイラーやタービンは民間工場では作られていなかったのでしょうか?

駆逐艦作りまくった浦賀船渠とか、藤永田造船など、ああいった民間造船所は
船体を建造するだけで、機関などはもよりの海軍工廠から供給される、とかいうものだったのでしょうか?
艦本式では無い、カーチス式、パーソンズ式のタービンやボイラーは民間造機工場、
例えば三菱神戸、長崎などでも製造されています。

しかし、海軍用の造機に関しては、資材は投入したものの、大規模工場で敗戦までに
本格的に能力を発揮したものはありませんでした。

商船の主機は徐々に経済性の観点からディーゼルへと転換され、民間造船所付属の
造機工場は、ディーゼル機関製造が主になりつつありました。
ただ、その製造には高度な技術と多量の工作機械を要するため、造機能力の向上には
至っていません(大型船舶用内燃機関は潜水艦用に、小型船舶用内燃機関は、戦車、
航空機、上陸用舟艇、作戦用舟艇への供給が主でした。)

またタービン翼に充当する特殊鋼の生産量は多くなく、更にこれを航空機、軍艦、兵器など
に充当したので、民間には余り供給されませんでしたし、缶についても、その材料となるべき、
缶板は、日鉄八幡の第二圧延工場が殆ど唯一の生産工場であり、量的に制約を受けています。
このため、民間には余り供給されず、缶の生産についても、缶板の使用量の少ない水管缶への
移行を余儀なくされています。
(142:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本海軍の鎮守府制についてご教授ねがいます

具体的に何を知りたいのか不明確ですが、適当にレス。

明治9年に海軍職制章程を制定し、東海・西海鎮守府を設置しました。
防衛海域と召集区域を明確化するために設置したものです。
それぞれの鎮守府に必要な艦艇を置き、それに必要な兵員を招集・養成して搭乗させ
常備艦隊に必要な艦艇を貸し出すものです。
16年頃から陸軍が沿岸防御の強化を唱え始め、5個海軍区への拡大を図ります。
19年に海軍条例が制定され、5個海軍区が確立します。
 第1海軍区は太平洋東岸を担当、鎮守府は既存の横須賀
 第2海軍区は太平洋南岸・周防灘を担当、鎮守府は呉として22年に開庁
 第3海軍区は九州沿岸を担当、鎮守府は佐世保として22年に開庁
 第4海軍区は日本海を担当、鎮守府は舞鶴として34年に開庁
 第5海軍区は北海道を担当、鎮守府候補地は室蘭が挙がったものの撤回
それぞれの鎮守府が独自に工廠・補給所・採炭所を持ち、自活できるようになっています。
もちろん鎮守府の垣根を越えて編制される艦隊には、どの鎮守府も支援をします。
(145:鷂 ◆Kr61cmWkkQ )

海軍陸戦隊についてですが

1.定員何名ですか? また、何個大隊or中隊の編成ですか?
2.海軍には陸戦を教える学校があったのですか?それとも海兵団・海軍兵学校などでは
初期の頃は、平時に艦固有の乗員として任務に就いています。
敵地上陸の際に艦に配備している小銃、機関銃を装備して陸戦隊になります。
従って定員なんてあってないものです。

で、2.に関しては、上述の通り、艦乗組時の任務の一部ですから海兵などできっちり
陸戦の教育も行ないます。

昭和7年内令第299号で海軍特別陸戦隊令が発令され、特別陸戦隊が出来ました。
それによると、司令官(少将または大佐)・参謀のほか、機関長・軍医長・主計長・分隊長を置き、
定員1,594名(または1,136名)で編成されました。

太平洋戦争中には各地に特別陸戦隊が編成されましたが、例えば佐世保第6特別陸戦隊は、
銃隊3個中隊、砲隊、高射砲隊、戦車隊を主とし、隊員は約1,500名で編成され、横須賀第7特別
陸戦隊は、7個中隊、歩兵砲隊、速射砲隊を主とし、隊員は約1,900名でした。
戦争末期には、乗る艦がない水兵を陸兵化し、各鎮守府に2隊以上の特別陸戦隊を新設、
これらで、連合特別陸戦隊を編成します。
この連合特別陸戦隊は、横須賀だけで6特別陸戦隊が編成され、兵力24,000名に及んでいます。
(153:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

海軍で「准士官」っていう階級がありますが、なんでわざわざ兵曹長だけを特別扱いしたんですか?

准士官の官階名である「兵曹長」というのは、1920年以前の特務士官の名称であり、
少尉相当。
その時は准士官は「上等兵曹」となっていました。
その後、兵曹長が准士官の名称となり、下士官の最高職階は上等兵曹となります。

特務士官とは、下士官出身の士官のことで、これを定めることで、年齢に相応しい高い
棒給を支給したり、退職年齢を定めることが出来、反面、一般の士官より明らかに格の
低い差別的位置づけを為し、例えば、名称も1942年までは「特務」が付き、昇進も尉官
(後に少佐まで進級可能)となっています。
准士官もこれに準じ、退職年齢が設定されてしまいます(定限年齢は48歳)。

士官(または士官相当官)は奏任官であり、一応、高等官になります。
准士官との待遇の差は、官階がまず違いますし、これによって、棒給にも差が出ます。
当然、年金も大きく違ってきます。
例えば、特務少尉の最低号棒は、1943年度で、1,368円/年、これに対し、准士官は、
最高号棒では、1,330円/年(最低号棒なら、930円/年)になります。

また、学歴によっても昇進速度に差が出てきます。
例えば、予科練の場合、甲種は中学校3年~4年修了者から採用し、16歳で入隊後、
23歳で特務士官になりますが、乙種は高等小学校卒業者から採用し、15歳で入隊後、
特務士官になれるのは29歳になります。
(190:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

商船学校出身の予備士官や予備学生出身の士官は、海軍ではどのような扱いだったのでしょうか?

高等商船学校を卒業して船員免状を取得すれば、好むと好まざるとに関わらず、
海軍呼び将校となります。
高等商船学校に入校すると同時に海軍予備生徒として海軍生徒に準じた扱いになり、
卒業後、海軍砲術学校で半年の教育、商船実務練習2年半の後、航海科の生徒は海軍
予備少尉、機関科は海軍予備機関少尉になります。
後に、水産講習所、水産専門学校遠洋漁業科卒も同じ扱いとなりました。

なので、これらの科では将校扱い。

予備学生は、大学、大学予科、高等学校、専門学校卒業生から採用し、採用後
1年の部隊または諸学校での教育の後、海軍予備少尉に任命されますが、航海、
機関少尉には任命されず、兵科将校の扱いとなります。

予備役の将校担当官は、その制度がありません。
但し、軍医科、薬剤科、後に、主計科、技術科には、それに準じる現役士官制度が
あります。
これは、大学、専門学校卒業生から採用し、2年間の現役を経て、予備役に編入され
ます。
とは言え、彼等の扱いは、予備役でも海軍軍医少尉など現役の名称と同様に呼ばれる
ことになります。
(233:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本海軍で「艦隊」と「鎮守府」はどういう関係なのでしょうか。

鎮守府は海軍の艦艇・航空機・地上部隊・乗組員をすべて管轄しています。
艦隊は軍令部の要求に応じて、鎮守府から必要なものを選抜して編制されます。

たとえば、第1航空艦隊の赤城と蒼龍は横須賀、加賀と飛龍は佐世保、翔鶴と瑞鶴は呉の備品。
ただし、いったん艦隊に預けたからには、船の運用について鎮守府長官は南雲さんに横槍を入れられません。
逆に、翔鶴と瑞鶴を一刻も早く現場復帰させよと南雲さんが意見しても、呉鎮長官は無視できます。
艦隊と鎮守府の交渉はすべて軍令部が間に入って行うもので、どちらも上下関係はありません。

なお、鎮守府も艦隊に貸し出していない沿岸警備用の武力を装備しています。
特攻兵器で編制した特攻戦隊とか、敷設艇や水雷艇からなる防備戦隊とか、
水偵だけじゃなく艦爆や艦攻も保有する各地の内戦航空隊とか…。
特に強力なのは呉防備戦隊で、海上護衛隊が編制されるまで船団護衛を担当していましたし、
編制後もすべての海防艦はこの部隊に組み込まれて慣熟訓練を行った後に実戦配備されてます。
(225:鷂 ◆Kr61cmWkkQ)

鎮守府の下にある防備戦隊、警備戦隊、防備隊、警備隊といった部隊は、どのような部隊だったのでしょうか?

防備戦隊は、各鎮守府が担当する重要海面(海峡、島嶼など)の防禦と機雷戦に当たる部隊で、海防艦の様な護衛艦艇や
敷設艦、敷設艇などの機雷戦艦艇を基幹にして、特設掃海艇や特設駆潜艇などの徴用艦船で編成されていました。
大抵は、重要海面に機雷を敷設することが主な任務です。
防備隊は、重要海面並びに重要島嶼に設置された防備戦隊の根拠地であり、当該地域の防禦任務に当たっていました。
また、その他に特修兵の教育任務も持っています。

警備戦隊は、各鎮守府が担当する重要海面の警備を担当する部隊で、或程度の戦力を有していました。

警備隊は、それらとは異なり、太平洋戦争末期の1944年、各鎮守府所管の各術科学校を戦力化して
本土決戦に備えるものとして、陸上警備隊が発足し、1945年に海兵団を警備隊と名称変更しています。

ちなみに、海兵団は鎮守府所属で、軍港の航空機に依らない空中防禦、陸上防火を掌り、また補欠員を
統括し、新兵の教育に当たる任務に就いていましたが、本土決戦に際しての戦力不足によって、警備隊に
格上げされたものです。
(188:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本海軍の軍艦の船首に菊の御紋が付けられるようになったのはいつからですか?

また、あの菊の御紋には何種類かあったりするんですか?
菊の紋章についての規定は海軍省の艦船造修規則に定められてまして
材質はチーク材に金箔、但し河川用艦は金属製も可
サイズは
戦艦 1200mm
航空母艦、水上機母艦、潜水母艦 1200、1000、800mmのうち船体に合うもの
巡洋艦 800、600mm
施設艦、砲艦 600、450mm
とされています
但し、サイズはきっちりでなくても良く可也自由度が認められていたようです
また、金箔は大戦前あたりから不足したため銅系金属箔で代用されていましたが
大和型は最後まで純金箔が使用されています
(218:76)
よく見慣れた正面向きの御紋章は八八艦隊計画艦から採用されています。
衝角を撤去した筑波から日向までの明治末~大正中期のクリッパー艦首艦の御紋章は下向き。
それ以前の鋼鉄艦は、艦首の形にあわせてV字に折り曲げた御紋章をつけています。
 初期の吉野・高砂・高雄みたいに唐草文様の飾りレリーフをまとうものもあります。
浪速・高千穂に代表される古式艦や、満州・韓崎・姉川などロシア鹵獲艦、鳥羽など河用砲艦の場合は、
 2個1対の御紋章を左右両舷の先端に向かい合わせに取り付けています。
(218:鷂 ◆Kr61cmWkkQ)

開戦時、潜水戦隊の旗艦に軽巡の鬼怒や由良が就いていますが、なぜでしょう?

まさか潜水艦と行動を共にするでなし、母艦設備もなしの軽巡に何の用があったんですか?
開戦前に第6艦隊に組み込まれた精鋭潜水戦隊の旗艦は、ことごとく特設潜水母艦が握ってますが
鬼怒と由良がトップに納まった南遣艦隊の潜水戦隊は、すべて海大型であることに注目してください。

巡洋艦が率いる潜水戦隊の起源はかなり早く、
大正11年度編制で矢矧が韓崎とツートップを組んで2潜戦を統率してますし
翌年の12年度編制では、1潜戦も筑摩が満州と組んでトップとなっています。
補給任務を負うのが韓崎と満州なのはご理解できるでしょうが、
軽巡筑摩・矢矧の役目は…当然ながら作戦指揮艦になります。
筑摩・矢矧がトップを取った頃の主力潜水艦は、艦隊随伴を志向した海中型であり、攻撃的運用を期待されていました。
巡洋艦が指揮を担当する構図は潜水母艦が迅鯨・長鯨に新調され、潜水艦が海大型にバージョンアップしても変わりません。
筑摩型以後も、球磨型・長良型に指揮権は継承され、やがては満を持して大淀型に譲られるはずの地位でした。
巡洋艦指揮下の海大型は、甲乙丙型登場まで、一貫して攻撃艦隊(第2艦隊)に属しており
単独偵察行動を旨とする巡潜型は、第6艦隊新設まで、一貫して迎撃艦隊(第1艦隊)に閉じ込められてます。
それから察するに、巡洋艦にはかなり指揮能力を期待されていたと読み取れます。
香取型は史実の通り、南遣艦隊やその指揮下にある根拠地隊旗艦として使うのが無難な線でしょう。
最前線に突出した挙句にブルックリンとかち合った日にゃあ、目も当てられませんからね。
(197:鷂 ◆Kr61cmWkkQ)

日本海軍将校で、「演習でアメリカ側を担当した際には、日本側をさんざんに打ち負かした」という逸話が残っている人がいたと思うのですが、誰でしたっけ?

27期の中村良三さんです。
中村さんが鎮守府長官の時のエピソードなので、佐鎮長官だった昭和7年度か呉鎮長官だった8年度。
(ということは、どっちにしてもコテンパンやられたGF長官は小林躋造さんですね)
中村さんは同期の末次さんと並び立つ鉄砲屋のエキスパート、しかも漸減邀撃作戦に精通した戦術家でした。
で、小林さん率いるGFを完全に翻弄し、非難轟々の中、
「敵が貴様らの思い通りに動いてくれると思ったら大間違いだぞ!」と一喝して沈黙させちまいました。

ちなみに中村さん、上に厳しいだけでなく下にも厳しく、利根艦長となる黛さんは
「中村さんの言動は『貴様ら低能は黙って俺の命令に従ってろ』て感じがにじみ出てて嫌だった」と回顧してます。
末次さん同様、艦隊派の過激派でしたが、末次さんみたいに権力への執着はあまりなく、
艦政本部長として③計画着手中に、2・26事件後の陸軍粛清にあわせて海軍も現役大将の減員を要求されたとき
中村さんは予備役入りを受諾して下野しました。
ついでに、例の演習で惨敗した小林さんも、同時に予備役入りしてます。
(214:鷂 ◆Kr61cmWkkQ)

海軍陸戦隊って何個師団ぐらいあったの?

昭和期に入ってからの「陸戦隊」の編成は、2度の「上海事変」で勇名を馳せた国際都市上海の
租界警備のために編成された常設陸戦隊である「上海海軍特別陸戦隊」を除けば、
任務や現状によってまちまちであるが多くの場合は中隊2~4を保有する大隊規模の編成
がほとんどである。

以上、ここから引用→ttp://www.horae.dti.ne.jp/~fuwe1a/newpage65.html
(56:512)
横須賀特別陸戦隊の編成

陸戦隊司令部 士2准3兵13
本部小隊 士1兵33
巡邏分隊 長1兵10
伝令分隊 同上
通信分隊 同上
小銃小隊 士3准3兵183
第1中隊(海岸砲)  士3准3兵149
第2中隊(海岸砲)  士1准5兵150
第3中隊 兵1准7兵271
移動高角砲中隊 士1准6兵178
高射機銃中隊 士1准4兵160
その他 通信隊、建設隊、衛生隊、補給隊、兵器機器隊

総員
士20
准士官41
下士官兵1377
計1438
(56:548)

旧海軍で言うロングサインって何?

「ロングサイン」は「蛍の光」の海軍での呼び方。
原曲のタイトル"Auld Lang Syne"からとってロングサインと呼んだそうですよ。
(57:名無し軍曹)

旧帝国海軍の陸戦隊の士官って海軍兵学校を出てるのですか?

海軍内の組織ですので、陸戦隊の士官も兵学校を卒業しています。
陸戦隊を志望する士官は砲術学校の陸戦教育課程に進みました。
日中戦争以降の陸戦隊の拡大に伴い、陸戦と防空教育のみを受け持つ
館山海軍砲術学校も開校されています。
(59:724)
出てる人も多い。予備学生出身者も多いけど。
(59:729)
海軍兵学校で地上戦も教えてるのですか?
日本の場合は館山砲術学校で教えてた。
(59:729)

旧海軍の入隊区分は 甲・乙・丙種飛行予科練習生、志願兵四等兵、徴兵三等兵 これだけですか?

士官なら他に機関学校や経理学校を卒業して任官することも出来ますし、あと
海軍予備学生がありますな。
昭和6年から始まった飛行科予備学生制度が昭和16年10月から
兵科、飛行科、整備科、機関科に広げた海軍予備学生に改変されました。
旧制の大学・高等学校・専門学校卒業生から志願により採用し、1年程の訓練期間を経て
少尉に任官させる制度です。
その他高等商船学校から海軍予備生徒になるとか、商船学校から海軍予備練習生になったり、
海員養成所から海軍予備補習生になるルートもありました。
(62:698)

太平洋戦争の頃の帝国海軍は人事って誰が決めてたの?

少将までは海軍省の人事局、中将以上は海軍大臣
(俺初質スレ40501:601)
人事局ワイロもらい放題じゃん
そんなことしたら人事局内のライバルから告発されて失脚するから
賄賂なんかもらっても無駄
(俺初質スレ40501:605)
実はコネによる人事はアメリカ軍の方が酷かったりする
(俺初質スレ40501:607)
コネって結局派閥だからね。派閥に役に立つかどうかで判断される。
それは古今東西普遍的なものだよ
(俺初質スレ40501:608)



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