戦中関連



昭和十八年一月十六日、大阪に空襲はあったんでしょうか?

火災です。
空襲ではないです。
(14:眠い人 ◆ikaJHtf2)

トーキョーローズは何人いらしたのですか?また、軍部が期待したほどの効果は有ったのですか?

米軍の兵士は、ラジオ東京の複数の女性アナウンサーを(東京ローズ)と呼んでいた。
全部で何人いたのかは不明。
戦後名乗り出たのは、アイバ・トグリ・ダキノ(本名 戸栗郁子)さんだけ。
米軍の兵士は、東京ローズの放送を楽しみにしていたというくらいだから、
日本の軍部が期待したような効果はなかったと思う。
(27:154)

太平洋戦争当時、朝鮮半島に軍事企業はありましたでしょうか?

何を軍需産業と規定するかによって変わってきます。
少なくとも、航空機、車両の工場はありません。

鴨緑江の電源開発が行われ、その電力を利用したアルミ精錬事業、石炭と
鉄鉱石を利用した鉄鋼業、石油精製といった素材に関わる部分を担っていたようです。
あとは、薬莢の元型になるパンチ材を製作していました。

進出企業としては、日産コンツェルンの日本鉱業、日窒コンツェルン、日本高周波重工業等が上げられます。
(33:眠い人 ◆ikaJHtf2)

戦中の右翼はどんな活動してたんでしょうか?

新聞使って戦意高揚にこれ勤めたり(頭山某、池崎某、徳富蘇峰)、
裏で企業人と結託して大儲けしたり(笹川某、児玉某)していました。
あと、東条打倒をやって逆に発覚し、自殺した人(中野某)もいます。
少壮軍人とはあまり仲が良くなかったみたいです。

詳しいことは、清沢洌という人が書いた「暗黒日記」(ちくま文芸文庫)とか、
昭和軍閥史をお読みになれば宜しいかと思います。
(37:眠い人 ◆ikaJHtf2)

大戦末期日本まで攻めてきた米軍機が一般市民に機銃掃射をするというような事は本当に起きたのでしょうか?

うちの爺さんが山菜取りに行って、えびの高原付近で攻撃され
鉈を投げて追っ払ったそうです
一緒にいった人も同じことを言ってたので本当だと思われます
(41:295)
交戦相手とはいえ一般市民相手に直接銃撃を加えるというのは、問題にはならないのでしょうか?
大問題です。

が、敗戦国でGHQの軍政下に置かれ、講和/独立は賠償権放棄とセット
でしたので、これに限らず連合国の戦争犯罪は追及がほぼ不可能です。
(41:298)

沖縄で日本軍が沖縄市民を虐殺したってホント?

軍ヲタご用達の客観資料

港区西麻布交通安全教育センタービル「沖縄戦資料室」
(63:304)
洞窟に避難している市民を追い出した(艦砲射撃下では事実上の虐殺)
泣き叫ぶ赤ん坊を殺害したなどなど

ただし、軍や師団による命令ではない
日本軍による虐殺ではなく、個人犯罪なら正確
(63:305)

「平型関の戦い」で、公平な戦史上の評価はどの程度のものなのでしょうか?

戦史叢書では、補給部隊となっています。
この資料は比較的信頼の置けるものであり、事実と思います。

この戦いは中国軍の勝利として喧伝され、国民の士気高揚に役立ちましたし、
補給部隊が弱体化したことで、日本軍の進撃速度が鈍り、忻口戦で中国軍が
戦線を構築するための時間を稼ぐ格好にもなりました。
(65:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

連合艦隊のトラック進出の意義について教えてください。

内地からいちいち出撃していたら石油が持たない
(65:382)
敵の手の届かないところで思う存分訓練ができる、という点が最大の意義では?
(65:383)

戦時中の日本は塩まで欠乏する有様になったそうですが、なんで周りが海なのに欠乏するんですか?

生産してもそれを運ぶ手段がなかったからです。
海上は機雷で封鎖され、陸上ルート(鉄道)は空襲で寸断されるといった状況では、
たとえ生産できてもどうにもなりませんでした。
(70:657)
生産手段が大量生産ではなく、またリソースを農産物の増産、
あるいは工場・軍関係のほうに廻される事が多かったためです。
特に、低い生産能力と運送手段が問題だったでしょう。
(70:658)
海水から塩を作る作業は、職人が居れば可能と言う訳ではない。

海水中の水分を直射日光で蒸発させて塩分濃度を高めた物を燃料で熱して塩分を抽出する。
その方法は数種あるが、基本的に
1.雨の少ない海岸に大量の燃料(他に使い道がない雑木)を運ぶ。
2.雨の少ない内陸に大量の海水を運ぶ。
のどちらか、つまり、大量の人員を投入して輸送作業を行う必要がある。

人件費が安い分、今では絶対にコストに見合わないようなやり方で人力に頼る業種が多かった点を考慮されよ。

ヨイトマケとか。
(70:677)

第2次大戦において、補給線が断たれ孤立した島の兵士に食料や医薬品などを潜水艦で運んであげることはできなかったのでしょうか。

当時物資輸送用潜水艦という考えはなかったのでしょうか。
ありましたが、何か?>輸送潜水艦
(76:519)
ネズミ輸送でググると良いと思われ
(76:520)
輸送用の潜水艦のうち、潜輸小(波号101型)は硫黄島と父島の輸送に
従事しただけで、陸軍の丸ゆ艇は、フィリピン戦線です。
また、丁型(伊号361型)、丁型改(伊号373)の完成はガ島戦後です。

結局そう言う専門艦がなかったので、ガ島への補給は、攻撃潜水艦たる
甲型潜水艦が主に行いました。
(76:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

戦地に赴く男がお守りとして女のあそこの毛を持っていたって本当でしょうか

本当
(77:287)

防衛庁の研究で、戦略上沖縄を捨て駒にしたというのは事実でしょうか?

第2次大戦時の話かな?
前後の話がよくわからないのだが、一応書いておくと、
沖縄を「戦略上」捨て駒にしたというより、
沖縄戦開始時すでに日本は反撃の余力などほとんどなく、
捨てざるを得ない、選択の余地などない状態。
それをふまえて考えよう。

捨て駒っていうのは、意味としてはその駒を見捨てる
(敵に取らせる)ことによって、全体を有利に進めようとするものだ。

確かに本土決戦用と称して戦力の温存が始まっており、
兵力を退避させるなどの傾向があったのは否定できないが、
菊水作戦は大和をはじめとして動く艦船のほとんどを動員しているし、
沖縄特攻は九州の航空兵力を根こそぎ動員している。
沖縄をまるっきり捨ててしまっているわけじゃなく、それなりの反撃はこころみてる。
ほぼ日本の全力と言っていい反撃だろう。
だから、その前後の戦況を見ても沖縄は「捨て駒」ではない。

だから、「ウヨサヨの問題じゃない」のも確かだが、
沖縄は捨て駒ではないし、最初から見捨てる予定だったわけでもない。
反撃が及ばなかっただけ。
(77:681)
遅滞行動ってのは後退しながらやるもんで
捨て駒ってのは無意味な作戦のために踏み止まって死守作戦、

と言ってみる。
沖縄の場合は増援の見込みもなければ後退もできず
負け戦を長引かせるのが目的だから戦った将兵や被害を受けた
島民には悪いが「捨て駒」
(77:687)

米軍か英軍が日本軍の立て籠もってる島に上陸した時に、落ちてる排泄物の量から300人はいると推測したが実際には100人しかいなかったという事があったというのは本当の話ですか?

本当ですよ。日本人は米が主食なので、肉食が主の欧米人に比べ、
食物繊維を多く採っているので、便の分量が多かったのです。
(82:711)

大東亜戦争中,軍部の力が強かったというのなら,なぜ東条英機内閣は倒されたんですか?


 元々海軍系の重臣は反東條だし,参謀総長兼任で,陸軍内部にも反感を抱く者がぽつぽつ出てきた.
 さらに,サイパン失陥により,国民の間にも漸く東條に対する不信感が芽生えていた.
 マリアナ決戦の敗戦を機に,重臣たちの倒閣運動は活発となったが,しかし東條も辞める気はさらさらなく,内閣を改造し,強力な挙国一致内閣をつくろうとした.
 そこで国務大臣のポストを一つ空けるために岸信介に辞めて貰おうとしたが,裏から重臣の手が回っており,岸は辞表の提出を拒否.
 内閣改造に失敗し,自分に対する(特に重臣たちの)反感の強さを痛感した東條が,失意のうちに桂冠した.

 なお,これに関しては「軍閥」という映画が秀逸・必見!

(日本史板)

戦時中の東条内閣が潰れた理由の一つに「身内の陸軍からの反発」があったそうですが、どの辺が不満だったのでしょうか?

東条は戦争を遂行するに当たって海軍との協力が必要と考えていました。
その為、海軍に対して非常に宥和的であったのが身内である陸軍は不満だったのでしょう。
事実、陸軍内では「海軍との揉め事を東条さんの所に持って行くとこっちが負ける」とボヤかれてました。
それでいて負けが込んでいる訳ですから、身内からも「東条さんじゃ駄目だ」と思われてしまいます。
他にも参謀長や大臣兼任による独裁化や懲罰召集等の公私混同も挙げられます。
(348:ue ◆WomMV0C2P)

日本は,広田・マリク会談,近衛特使など,ソ連に和平仲介工作をしてますが,なんでソ連に頼んだんですか? むざむざ反故にされて……,


 1,開戦前から講和の仲介はソ連かローマ法王と考えていた.この安心感で昭和天皇は,御前会議で英米協調派から開戦派へ変身したといわれている.

 2,ソ連がヤルタ密約で対日参戦をアメリカから要請を受け,合意してたのを知らなかった.天皇・内閣・外務省は,なぜかソ連信頼派が多かった.松岡の不可侵条約締結のインパクトが幻を生んでいたのではないかと思う.
 一部に,ソ連対日参戦可能性ありとの情報も入ったらしいが,最上部まで届かなかったらしい.
 大国で,頼める国が他になかったのも大きい理由のひとつ.法王は非現実的だし,スイスなどではちょっと力不足.それに,満州からすぐ行けるのも大きい.

 3,ソ連も,日本の提案は具体的でないとか,近衛特使の使命が不明確とか時間稼ぎをしていて,日本に気を持たせていた.

 4,軍部・政策決定上層部の,情報不足が致命傷.しっかり,諜報して分析していれば,ソ連はアメリカ側についてると分かったはず.
 和平交渉時点では,太平洋戦争に参加してないソ連とするとアジアで米などが東アジアで主導権を握るのは好まないから,均衡策から日本のことでアメリカを牽制するんじゃないか,っていう甘い見通しがあった
 どうも,当時の軍や上層部は思い込みが激しい.ドイツ勝利の確信とか(以下略.

 5,ソ連への仲介工作がなくとも,原爆・ソ連参戦・千島占拠はあったと思います.
 対日参戦と見返りとしての千島確保のヤルタ密約は45年2月,和平仲介交渉は45年の6~7月.
シベリア抑留は,関東軍参謀が助かるために抑留を内諾してたとかしてないとか言われててわかりませんが.

 なお,ソ連が講和斡旋してくれた場合の日本の手土産は,以下のとおり.
  • 南樺太返還
  • 漁業権解消
  • 津軽海峡開放
  • 北部満州諸鉄道譲渡
  • 内蒙におけるソ連の勢力範囲
  • 旅順と大連の租借
  • 北千島割譲
  • 満州国中立化(6月に追加)
(朝鮮は留保と満州帝国は独立維持)
 以上,1945年5月14日の最高戦争指導会議にて.

 関東軍特別演習等,ずっと敵視政策をしてきたソ連に頼るという観点が,甘えの構造を感じさせる.

(日本史板)

南太平洋海戦後に、一時的に日米の空母戦力が拮抗しましたが、今の内にアメリカと講和をしようという考えは日本にはなかったんでしょうか?

アメリカにその意思が無いから無理。
色々と戦略眼の無さが指摘される日本海軍and陸軍だが、
アメリカが戦力を整えるまで、守りに入っている事だけは認識していた。
(377:261)

戦時中、外地の捕虜を日本へ海上輸送すると嘘の電文を流したりして、潜水艦に輸送船団の攻撃を躊躇わせたりすることはできなかったんでしょうか?


国内へ輸送された捕虜4.7万人のうち、1.1万人が、途中で海没しています。
まあ、無駄ですね。

ここに戦時中の連合軍兵士の捕虜について書いてある。
http://homepage3.nifty.com/pow-j/j/00100camp/campinjapan.htm
(初心者スレ482:914*一部加筆)

太平洋戦中、熟練工が徴兵されて女子や中学生?が工場で働いたため品質が低下したそうですが、全工場労働者に占める女子や中学生の割合というのはどれぐらいだったのでしょう?

1940年10月の時点で、機械工業に従事している男子は1,879千人、女子は225千人。
1944年2月の時点で、機械工業に従事している男子は3,524千人、女子は787千人です。

1944年の時点での労務動員計画では、学校在学者は男子1,133千人、女子が920千人の動員を
見込んでいましたが、これらが全て工業に従事した訳ではなく、農業や建設奉仕に回す分もあります。
学徒動員の軍需生産と食糧生産、建設工事の割合は大体、50:43:7の比率です。

産業全体で行くと、1944年の労務動員計画では、男性2,536千人、女性1,986千人となります。
(505:311:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
補足だけど、1945年初めの八大造船所の平均では、正規従業員は20%、徴用工と学徒が55%、
朝鮮人・中国人・捕虜・囚人など合計21%となってる。
(505:315:経済板住人 ◆ebHA.RI.WI)

戦時中、医者はほとんど徴兵されて戦地ですよね。本土では病院に医者がいなくなって困ったと思いますが、どうしていたんですか?

それを補うために女子医学専門学校(通称女子医専)が国内に多数作られた。戦後は共学に。
たとえば、
東京女子医専=東京女子医大
福島女子医専=福島県立医大
岐阜女子医専=岐阜大学医学部
北海道女子医専=札幌医大
など。だから、現在90歳前後の医者には女医が非常に多い。
また、必ずしも医者が枯渇していたわけではない。年寄りの医者は徴兵されなかったから。
それでも非常に医者不足であったことは間違いないが。
蛇足だが、医者が最も多かったのは昭和30~40年代。これらの学校で養成された医者が非常に多かったからね。
その後、医療費抑制政策の影響で、現在は戦中を思わせるような極端な医師不足w
(505:436)

5年制だった旧制中学の中で、戦場に送り込むために1年早く卒業させられた少年たち

http://www.morioka-times.com/news/2005/0512/29/05122908.htm
この認識は正しいのでしょうか?戦場に送るためにこうなったの?
そう言う面も一部にはありますが、どちらかと言えば、中等学校の年限と軍学校や高等学校の
入学試験が中学校4年修了で可となっていて、その入学試験の出題範囲も中学校4年までだった
ので、中学校教育が大いに乱されたことから、その混乱を収拾することに重きが置かれました。

とは言え、一方では彼等の卒業年限を縮めて其の分を実業教育に充てるか、世に出して生産力の
増強や、軍事力の増強に充当した方が良いと言う観点から、1943年入学者より中等学校の修業年
限を1年短くし、1944年勅令第80号国民学校令等戦時特例により、1944年の4年生から適用したものです。
この年度の4年生は、1945年3月に5年生と同時に卒業することになりました。

流石に生産増強や軍事力増強が不要となると、旧に復し、1946年度より5年制に戻っています。
(516:733:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

戦時中は、米の替わりにアワやヒエやソバやヌカもたべていたんですか?

手に入る地域では食べてました。
ほかにも芋茎や蘿蔔を米に混ぜたり汁に入れたりして食べる事もありました。
また新聞で美味しく食べられる野草や昆虫の特集が組まれる事すらありました。
道ばたや庭先、学校の校庭などで新たに畑を作る場合、
苗の入手が簡単でカロリーの生産効率に優れ手入れも簡単なイモ類が第一に好まれたようです。
そのためイモで不足する栄養素を補うための野菜等はあわせて作られましたが
雑穀の類いは効率が悪く苗の入手先も限定されるため敬遠されたようです。
(522:382)

大戦の末期に海上封鎖で塩が不足したそうですけど、海に囲まれた日本で何で塩不足なんかが起きるんでしょうか?

石油と石炭不足になったので、海水焚き(海水を濾して煮詰めて塩にする)の塩を作るための燃料が不足した。
更に、日本本土上空を米艦隊の艦載機や硫黄島等から飛んでくる陸軍戦闘機が飛び回るようになると、
日中海水を焚いているとその煙を上げている設備が銃撃された。
海水焚きの製塩は24時間以上焚き続けなければならないので、日中釜に火を入れられないと製塩が出来ない。
加えて東海地震で塩田が被害を受け、徴兵による若壮年の労働力不足で数少ない生産量が壊滅状態になった。
海上封鎖されてるので輸入も出来ず、どうにもならない状態だった。

製塩には大量の燃料が必要となる。
近代以前だと、塩田は周囲の林や森から伐採と植林を繰り返し複数の生産地を使いまわしていた。
戦前なら燃料は石炭が相場だろう。石炭は北海道や九州辺りが産地。
海上交通が破壊されれば燃料不足で製塩が出来なくなるのは自明の理。
また、当時の製塩方法は入浜式製塩。
これは気候、海岸の地形に左右されやすく、瀬戸内の十州塩が製塩の大半を占めていたように産地が偏り易い。
同上の理由で輸送が阻害されれば、他の地方への塩の供給が止まる。
それに、イオン交換膜法がある現代でも日本は塩の一大輸入国だ。
それより遥かに効率の悪い入浜式製塩をやっていた戦前なら、ちょっとでも妨害を受ければあっさり塩不足が起きる。
(523:186,187)

日本は火山国なので戦時中に硫黄が不足する事はなかったのでしょうか?

国内に硫黄鉱山があったので。
廃墟マニアには有名な岩手の松尾鉱山がが有名。

国内の硫黄鉱山は戦後は石油を脱硫する過程で人工硫黄が安価に大量に
得られるようになって採算が取れなくなり、皆閉山した。

松尾鉱山は硫黄分の強い排水を未処理のまま北上川に流した為に一時は
北上川を”死の川”に追いやった。
そのままでは流域のの農業が絶滅してしまうので、莫大な費用を掛けて
処理施設が作られ現在も稼動中。

余談だがこの松尾鉱山に出稼ぎに来ていた朝鮮人労働者が鉱山労働を
辞めて帰国しようとしたが朝鮮戦争の為に帰国が不可能になり、盛岡の街で
屋台を出したのが「盛岡冷麺」の発祥。

余談だが、硫黄以外でも石灰石も自給できる数少ない資源。
セメントの原料になるので、特火点の設営やコンクリ船の建造等、戦中は特に不足しなかったそうだ。
ただ、末期は輸送網が陸海共に壊滅状態になって、採掘は出来ても輸送できない状態だったが。
(353:485,488)

女学生が「慰問袋」を送った所 受け取った兵隊さんから返事が来て文通が始まったという話

テレビで見ましたがこのようなことは本当にあったのでしょうか?
家族などでない人アカの他人が前線の兵隊さんに手紙を送る事は許可されていたのでしょうか??
前線の兵隊さんが見ず知らずの人に手紙を送るのは機密保持の観点から許されていたのでしょうか??
軍事郵便という制度があり、可能です。
ただし、検閲が入り戦地の情報を書くことはできません。
例えば、南の暑い所で大変だ みたいな事を書くのは大丈夫ですが具体的な地名を書くのは駄目。
また、戦争反対みたいなことも駄目。

ただ、80過ぎのうちのバァさんに言わせると、番組の内容には違和感を覚えるそうです。
慰安袋が盛んだったのは、太平洋戦争が始まる前 日中戦争の頃だそうで
当時ならまだ余裕があり戦地の兵隊さんと文通するようなこともあったかもしれない。

でも、太平洋戦争が始まる昭和16年頃からは、そんな余裕もなくなり慰安袋も廃れたいったような記憶だそうです。
そんな悠長な事をするより、借り出されて普通に工場で一日働かされていたそうです。
まぁ、テレビに出演された方が「実話だ」と言われればそれまでですが同時代を生きたうちのバーサンに言わせると 
「なんだか、しっくりこない、まるで別の世界の話のようだ」という感想になるそうです。

ちなみに、番組に中でも手紙を書く再現映像はあっても、戦地から送られてきた手紙の映像はありませんでしたね。
普通この手の話の場合、現物の手紙の映像を流すのが普通ではないか、と考えるのは邪推でしょうか?ww
それとも、夫婦共に大事な手紙をすべてなくしてしまったのでしょうか??

まぁ、貴方が疑問を持たれるのもわかるような気はします。
(353:780)

旧日本軍の兵器工場で働いていた人から、「物資不足の末期には航空機エンジンに陶器を使用していた」と聞きましたが、本当でしょうか?

実際、その兵器工場と言うのが、どんな会社なのかが判らないとはっきりした答えは出ないと思います。
エンジン部品だと点火線用碍子とか特呂号用のロケット部品や隔膜板ではないか、と推定できます。
他に航空機エンジンの部品で陶器が使われるものは考えられず、実際に東洋陶器、名陶、高島製陶、村万製陶
が生産したのはこの辺りです。
(539:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

太平洋戦争末期、日本中が空襲にあっていた中でも大本営は、嘘の大戦果を垂れ流していたんでしょうか?

例えば、神戸大空襲の時は、B-29撃墜20機とか言う風に、戦果を過大に発表しています。
国民の士気に関わるのと、迎撃機の操縦士や対空砲指揮の人々が、空襲の火炎の照り返しを
燃えて撃墜したものと勘違いした場合などがあったりする訳で。
(352:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

東京大空襲のとき、連合国側の大使はどうしてたんですか?

連合国側の外交官は、不可侵条約を結んでいたソ連以外は開戦後に交換船でそれぞれの母国に送り返された。
連合国側に駐在していた日本の外交官も同様に日本に帰還している。
それ以外の枢軸国の外交官やソ連の外交官は、東京空襲が始まると軽井沢(だったか)に疎開している。
(352:669)

先の大戦中、日本国内の民間人が、戦争や徴兵から逃れるために、国外に脱出することはできましたか?

徴兵から逃れるのは難しいですが、満州、中国、フィリピン、東南アジア地域、南洋諸島に
移民として渡る事は可能でした。
それでも、戦禍は逃れられたかと言えば疑問符は付きますが…。

後、特殊な事例ですが、豪州北部海域では真珠貝を採取する船の乗組員の大多数は日本人
でした。
彼等は、豪州領の島に渡っており、此処で12月8日を迎え、民間人捕虜第1号として敗戦まで
豪州本土で過ごしています。
また、移民でも、日英、日米交換船で帰還した人々の中には、途中、シンガポールやフィリピン
などで下船し、通訳や現地で就職した人もいます。

それから、一部の人々の場合は、満州からシベリア鉄道を経由し、ノボシビルスクで途中下車、
カスピ海を南下してタシケントから西に向かい、カスピ海を渡り、バクーに至り、トルコに至る経路で
欧州に渡っています。
この経路は屡々用いられ、留学生も外交官や軍人とチームを組んで利用しています。

と言う事で、民間人でも外国に行けないと言う訳ではありません。
(545:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
東京都の場合(1873年から1883年までの10年間)税金を二百七十円納付すると兵役免除となりました。

徴兵事務手続きの関係で、転居を繰り返して赤紙の発行を最初からやり直させて逃れるという
手が使えていた時期があります。その後、転居の場合は発行された赤紙が転居先へと追いかけて
いくよう手続きが変わりこの手は使えなくなったそうです。
(545:759-762)

海軍乙事件が起こらず古賀峯一がGF長官であり続けたなら戦争はどうなったでしょうか?

基本的に変わらない展開を辿ったと思われる。
ただ、古賀長官は就任後最初の会議での有名なやり取り、

「既に我が海軍には3分の勝ち目もないだろう」
「まだ3分はあるということです!」
「陸軍の原則では3割を失ったら全滅と判断される。つまりはそういうことだ」

で解るように「もうこの戦争には勝てない」と悟っていたようなので、もしかしたら
講和の方向へ誘導する努力をしたかもしれないな。無駄だったろうけど。

仮想戦記的に考えるんなら、海軍きっての戦艦派だっただけに、マリアナ決戦で
戦艦を主体にした作戦を考えたかもしれない。
レイテ決戦が半年繰り上がったような戦況になったかも。

それと、海軍乙事件が起きないならあの事件での重要な失点である「暗号文書の流出」が
起きない事になるのでそれで少しは・・・いや変わらないか。
(549:863)

日本軍が在インドネシアの蘭人を収容所にいれたのはなぜですか?

占領の前半期には、抑留所外での生活が可能でした。
しかし、1943年11月に全オランダ人を収容しますが、これは戦局逼迫の折から、
敵性外国人が敵国に情報を流すことを恐れた為とも言われています。
また、在蘭印の日本軍が度重なる島嶼部での敗戦で、前線に抽出され、兵力が枯渇し、
実質的に兵補を用いることでしか占領地域の維持管理が出来なくなっており、それならば、
敵性外国人を収容して一つ所に集めた方が監視しやすいと言うこともありました。
(343:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

天皇が各地の作戦に口出しをして犠牲を増やした・・・これ本当?

大和の沖縄特攻は天皇のせいってのは知ってるけど
ガ島の戦いは天皇の一声で増派決定
送られた人々は飢えと病の中で無残にのたれ死んでいった
(572:669)

終戦の日にも東京では電車が(当時の基準で)普通に走っていたと聞きますが、これは将来の占領政策か何かの意図で手加減とかあったからなのでしょうか?

予定では8月15日以後から大々的な鉄道施設空爆が始められる予定でした。
(574:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

太平洋戦争末期のフィリピン戦ではゲリラが跳梁して日本軍の小部隊の移動は後方でさえ自殺行為だったそうですが

なぜこのような状況にまでなってしまったのですか?
単純には日本の占領統治が悪かったから

戦前は
Q・日本人とスペイン人とアメリカ人が公園に馬車を止めていた
  フィリピン人の乞食が集まるのはどの馬車か
A・日本人の馬車、他の馬車はフィリピン人を奴隷としかみないから
とか、アメリカ共産党ですらフィリピンを自派の指導下にあるとみなすとか
色々例はあるが、ともかくフィリピンはアメリカから搾取されていた

で、占領当初は親日だったのだが
軍政下におかれてから、徴発とか教育とかがフィリピン人の希望に添ったものではなかった
むしろスペイン・アメリカに代わる植民地支配としかフィリピン人には思えなかった
で反感が広がり、日本の軍政下にあるよりかはアメリカの支配のほうがましだ、と思えるぐらい
日本の軍政はひどかったから、日本が負け戦になると、今までの軍政下の反感が噴出した
で、日本軍が弱体化すると、「どれ日本軍をぼこぼこにしてアメリカからお金でももらおうか。」
というぐらいフィリピン人の感情が悪化したため


占領統治だけの問題でもない。
大戦勃発・日本の占領により、東南アジア植民地は欧米市場から切り離され経済が崩壊した。
また、戦争中期以降は日本軍による軍需作物の栽培強制、食料徴発、米軍潜水艦による通商破壊で
食糧事情が逼迫している。
結局のところ、日本の”開放”によって何もかもが悪化しちゃったんだよ。
(336:341,345)

「硫黄島からの手紙」で憲兵隊が非国民の犬を撃ち殺すシーンが有りましたが当時はそのような事が頻繁に行われていたのでしょうか?

ググッタ結果
どうしても猫を殺すと軍の人が言うのです。白い雪が赤く染まって、
数百匹の犬や猫が死んでいました。『私が坂を下りていきますから、
殺すなら、坂を下りきってからにしてください』と言うと、軍の人は
『わかった』と言いました。そこで、私はいやいやながら、猫を差し
出しました。そして背を向けた瞬間、『ぎゃっ!』という断末魔の叫
びが聞こえました。今でもその時の猫の叫びが聞こえてくるかのよう
で、つらいです」

井上こみちさんは、戦時中の犬や猫の供出について取材し『犬の消えた日』という本を出版なさっています。
関連リンクを3つ紹介しましょう。
http://tinyurl.com/9f8rq
http://tinyurl.com/btgp4
http://tinyurl.com/8wpaa
毛皮にされたり,缶詰にされたり・・・
あのように撃ち殺す事は無いでしょうね多分。
(336:393)

軍用犬種を一般の人が育てて、成長すれば軍用犬にするという制度はありました。
しかし犬は今でもそうですが優秀な防犯装置であり
これを憲兵や軍人が勝手に連れて行くことはありません。

また猫もねずみを取る優秀なハンターであり、猫の飼育も
戦前の日本の衛生環境では、重要な伝染病予防手段でした。
そのため、きちんと飼育されている犬や猫を、軍人が殺すということはありません。

ただし、野犬狩りや野良猫狩りといったことは戦争前から行われており
野犬や野良猫と間違って捕まらないように、飼い犬・猫には首輪に鑑札をつけるようにとの
内務省からの通達が、戦争前からあったことから考えて
野犬狩りや野良猫狩りとの混同も考えられます。

あと、戦争中はウサギの飼育の奨励も国から行われました。
ウサギは多産で成長が早く雑草を餌にでき糞の始末も楽で鳴声も出さず臭いもひどくなく
と都市部での飼育に向いていたので、子供にウサギを与えて成長させ
成長したウサギは食用にし、毛皮を供出する制度はありました。

恐らくこの辺が混同されたか
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/%82%8A-2005/06/0506j0617-00002.htm
朝鮮総督府は38~45年の間に、朝鮮の在来犬を毎年10~50万匹も供出させ、
合わせて150~200万匹を殺して防寒服の毛皮と食用に使ったといいます。

朝鮮半島からの帰国者の情報が混じったものかと思われます。
(336:404)

天皇が玉砕した島届かないものと知りながら電報(無電)を打たせたという話を以前聞いたのですが

アッツ島での守備隊に対して、天皇陛下が打電した話ですかね。
昭和帝を扱った本であれば、大抵のエピソードにこの話が掲載されていたかと記憶しております。
(333:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

戦時中、食糧不足を少しでも解消する為に釣りをしたり野山へ山菜を取りに言ったりすることが流行ったりしたんでしょうか?

本格的にヤヴァいとなってきた18年後半ごろには勤労動員が始まってたので
そんなに活発じゃありませんでした。
配給品をなるべく食い延ばす方法は色々な形で啓蒙されましたが
山菜・釣りの推奨などはほとんどありませんでした。
そちらへ向けられる労働力があるのならお国のために働け、といったところかもしれません
都市部の場合だと、野山や海に出るだけでも大変だったりするのも積極的でなかった理由の一つでしょう

が。
しいたけ栽培などの管理を小学校以下の学童に移管した例もありますので
労働力として期待できない学童などを使って
食料確保の補助のために山菜取りや釣りをした例もあったかもしれませんね

藤子不二雄先生の漫画「少年時代」では児童が宿題として
山菜や、火薬の原料にする為蓬の干したものを提出しないと
授業を受けさせないというシーンが出てきます。

戦時中よりむしろ戦後に山菜や野草まで食べねばならない地域があり、
食べられる野草の見分け方、調理法などの本(粗末な)がいくつも出ていたようです。
(329:631-634)

太平洋戦争中って、人海戦術で砂鉄をかき集めたりとかしなかったんですか?磁石とか使って

真面目な話、太平洋戦争中に列車がブレーキをかけた際に落ちた車輪の鉄粉を回収して
鉄にすると言う研究が行われたことがありました。
しかし、大戦中の研究とは言え、流石に投入する工数に対して得られるものが少なすぎる
と言う事でおじゃんになっています。

ついでに、砂鉄を坩堝で溶かして玉鋼にする昔ながらの踏鞴製鉄は、主に中国地方にて
行われており、明治末から大正期までは、特殊鋼の元になる鋼として呉海軍工廠に納品
されていたりしました。
(その流れで、日本砂鉄工業が特殊鋼製造の為、高砂とか姫路で、鹿児島産砂鉄を用いて
特殊鋼生産をしていました)

当然、日本にもそれなりに埋蔵量のある砂鉄(利用可能な砂鉄鉱の埋蔵量31,400,000トン、
うち、含鉄量17,217,000トン)があり、釜石と倶知安を主要鉱山としています。
釜石が品位60~65%の富鉱が1,400~1,500万トン、品位20~30%の貧鉱が3,000万トンで、
年産30万トン、最盛期で61万トンとなっており、倶知安では品位50%、埋蔵量400~500万トン
で年産15万トン程度です。

その砂鉄資源の利用は技術上難点があり、溶鉱炉の湯溜り、炉面の狭窄、炉底の隆起などがあ
あり、中々利用出来ないでいます。
日鐵では八幡製鉄所内に日産1トンの小型溶鉱炉を設置して北海道は噴火湾沿岸の八雲
砂鉄の焼結鉱(品位鉄分37%、珪酸34%、酸化チタニウム4.6%)のみの試験生産を行いました。
その実験の結果、輪西工場第三溶鉱炉(日産225トン)で、八雲砂鉄の焼鉄鉱(鉄分50%、珪酸12%、
酸化チタニウム6.5%)を普通の鉱石に対し50%混入して実験を行って、実用を確認しています。
(602:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

第2次大戦中、紙の割り当てが削減されて、雑誌は多くが休刊・廃刊になったそうですが横溝正史や江戸川乱歩、小栗虫太郎などの作家はその間どのようにして生計を立てていたのでしょうか?

紙数制限を受けたのは、初期は主に軍にとって都合の悪い本を出版した会社が主(例えば、中央公論社
とか)で、戦争末期にやっと多くの出版社が影響を受けた形です。

しかし、娯楽作品の分野では、西洋ものの探偵小説や耽美小説が掣肘を受けたくらいで、捕物帖とかには
余りお咎めがありません。
従って、彼らは別の分野、例えば捕物帖を書いて糊口を凌いだり、外国作品の翻訳をして時を過ごしたり、
戦後に出版するつもりの長編小説を書いて過ごしたりしています。
また、日本文学報国会に属している作家は、軍に要請されて、南方に赴き、占領地を題材にした作品を
書いたり、国民向けの講演会を行っています。
このほか、時局報告会と称して、各地で講演を開催したりもしていました。

このほか、戦前に貯めた金を投資して、事業を興したりして文学と全く違う分野に進出した人もいました。
(604:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

先の大戦当時、日本でおおっぴらに戦争反対を唱える人はどうなったんですか?

階層によっても異なります。

例えば、吉田茂の様な人物ならば憲兵隊の監視下に置かれたくらいですし、
評論家の清沢冽の場合は、本人が注意深い性格だったからかも知れません
が、それとなく注意されるくらいで、特にお咎めはありませんでした。

とは言え、某上等兵を激怒させると、本人がどれくらい年を食っていようが、兵役に
引っ張られ、一兵卒として前線に送られるくらいの懲罰はありましたし、自殺を強要
させられたりした例もあります。

庶民の場合は、特別高等警察や憲兵に引っ張られました。
ちょっとした言動で引っ張られても、学生だったら下手をすれば放校処分を受けたり、
ムラ社会であれば容赦なく村八分。
つまり、社会的に抹殺されます。

戦争反対を大っぴらに唱えるのは命がけであり、下手をすれば命を失いかねません。
万一、収監された場合は、最もきつい労役現場に送り込まれることになります。
例えば、南洋群島の飛行場設営とか、常磐炭鉱、夕張炭鉱など炭鉱や鉱山での労役、
造船所での建造作業など危険な現場での作業が割り当てられました。
尤も、共産党指導部みたいに、禁錮を食らってずっと塀の中と言うケースもありますが。
(607:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

南方の資源地帯を占領したのに、そこに現地工場を作らなかったの?

アルミ精錬には大量の電気が必要で、発電所から作るとアルミ工場が精錬を開始する前に
日本国内の備蓄が尽きます.。それよりはボーキサイトを国内に運び込んで精錬した方が
よっぽど手っ取り早い.。

工場とは少し違うが、南方油田地帯を占領した後、大慌てで採掘用資材を南方に送り出し、
あまつさえ国内や満州で操業し始めていた油田からも資材をわざわざ取り外させて南方へ送り、
結局戦争中盤はどこもかしこも採掘機材設置中…で石油は手に入らず、
終盤にようやく設置が終わった頃にはタンカーを沈められまくって運べず…なんてこともあったらしい。

日本の建設能力の低さを考えると、工場を作ってる間に戦争の決着はついてそうだな。
(323:249,250)

日本の消費者物価は、昭和10年度から20年度にかけて、13倍になっていますがこれは統制価格がでしょうか?

それとも闇価格がでしょうか?
統制価格になります。
元々、1941年5月には高物価増産論が国会でぶち上げられていましたし、1942年
6月には価格形成委員会が公定価格の引き上げを具申しています。
1944年には物不足が極まってきて、公定価格は実質上廃止されてしまいます。
更に、1945年になると各地域の自活を打ち出したことと空襲でモノの移動がスムース
にならなくなった事から、遂に政府は自治的価格統制に後退してしまっています。
(610:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

本土決戦直前の内地の毒ガス配備状況は、どうでしたでしょうか。

結論から言うと、よくわかってない。以下、参考程度。
日本の化学剤の生産量はざっと7千トン。
うち4千トンは終戦時に大久野島(陸軍)と相模(海軍)の工場周辺に残ってた。
残り3千トンは各地に出荷され、うち相当量は国内16か所の兵器工場・研究機関にあった。
大戦後半には基本的に軍レベルで管理してて、中国戦線だと南京の兵器廠なんかに多くはあった。
でも、中国各地から結構発見されてるとこからして、前線にも少し残ってたようだな。
特殊なものとして、対戦車用のちび弾はソ連参戦時に満州で前線に配布されたようだ。

構ってほしくて質問してるんじゃなく、まじめに調べてんなら、下のスレでじっくりやるのを勧める。

【BC兵器】生物・化学戦総合スレ【731部隊】
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/army/1235388332/
(610:299)

終戦間際、日本の共産主義者が危なくなってたという話を聞いたのですが

日本共産党の党史でも読めば。

昭和二十年になっ”本土決戦”が予想されるようになってくると、
当局は収監した左派政治犯の「処分」と在野の「要注意者」の
強制収監処分を計画して発動の寸前だった。

また、当時政治犯として収監されてた人によると、昭和二十年の春を
過ぎたあたりから急に食事が(更に)減量されてメニューもしょぼく
なったそうで、どこでも飢餓の寸前だったという。

なのでもう少し戦争が長引いていたら日本の共産主義勢力は絶滅する
ところだった。
まぁ「隠れキリシタン」や国外逃亡組もいたわけだけど。
(322:574)

戦中の報道管制下でイタリアやドイツの同盟国の敗北を新聞やラジオはどのように伝えたのですか?

1944年の年鑑類でも、きちんとイタリア降伏は書かれています。
但し、我らがDuceは北イタリアにおわし、健在。
北イタリアの政府が南のバドリオ傀儡政権に対し圧迫を加えつつあると言う報道が
成されていますね。

同様に、1945年のドイツ降伏もきちんと伝えています。
これから我々はどうしていくべきか、なんて論調もあります。
また、ドイツ降伏の影響についても新聞は報道してます。
(322:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本の工業力の実態

  • 外国製品の模造について困難を感じる点、という調査の結果は次の通り。
1、外国産と同じ材料が得られない 14件
2、材質が分からない 1件
3、熱処理不明 7件
4、外国産のような滑らかな切断面が得られない 5件
5、鍛造技術の研究不十分 5件
6、主要部分が特許となっている 2件
7、国産の軸受用ボール・ローラー・ベアリングの質が悪い 16件
8、歯車の製造困難 7件
9、工作方法不明 1件
10、機械仕上げ加工の基礎知識不十分 1件
11、工作機械の各部門専門部品がないため全ての部品の研究製作が必要 3件
12、工場設備不十分等々で模造困難 5件
13、電気部品製作所との協力困難 7件
14、特殊電気装置の製作設計困難 3件
15、強力な小型電動機の入手困難 9件
16、精密計測設備の不十分 9件
17、精密工具の入手困難 5件
これでも各メーカーは自社の技術を誇張するためかなり控えめに報告しているという。
(対ソ戦に全力を挙げるべきだった:530)

戦時中、日本から脱出する方法はあったの?

残念ながら日本の周辺は海に囲まれています。
が、日本から出るルートとしては、幾つかあります。

まず、北。
樺太に渡って、日本側警備兵の隙を見て、国境に走って下さい。
不法入国で逮捕されるかもしれませんが、運が良ければ、脱出することは可能です。
ただ、強制送還もしくは収容所の露となることは覚悟してください。
正規ルートならば、日本とソ連の間は1945年8月までは中立状態ですので、ソ連への渡航ビザさえあれば、
満州里からソ連に入ってカムチャツカ辺りを通って、北ルートで米国に渡ることは可能です。
とは言え、途中で消え去る可能性もありますが。

中国大陸に渡ることさえ出来れば、後の脱出経路は自由です。
西に向かって進めば、新疆省に出ることも出来ますし、蘭州まで行けば、上手くすれば航空便を捕まえること
が出来るかもしれません。
そうすれば、重慶に渡って、インド経由で外の世界に出ることも可能です。
1941年なら、香港に渡って其処から南方へと言うことも出来ます。
但し、途中で日本人と分かれば、ただでは済まない可能性もありますし、航空便の場合は、途中で撃墜されても
文句を言わないでください。
また、重慶で空爆死することもありますからサイレンの回数には気をつけてください。
2回目のサイレンで防空壕に逃れられなければ動いてはいけません。
動くと監視兵に射殺されます。

南方なら、仏領印度支那に抜けるかタイに抜けさえすれば、後はご自由に。
1941年以前なら蘭印という選択肢もあります。
1942年以降なら、外国人に成り済まして下さい。
上手くいけば、交換船に乗って安全地帯に逃げることが可能です。
後、南洋諸島に渡れば、ほら、船を使えば、グアムまではほんの少し。
或いは、アラフラ海で操業する真珠貝採取船に乗り込むのも良いかもしれません。

こんなところですかね。
(317:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

教科書の杉原千畝氏の欄に「なお43年2月以降、日本は上海にゲットーを創設し、上海に非難していた無国籍ユダヤ人に迫害を展開した」と書いてました

嘘だろうけど?当時のユダヤ人への対応ってどんな物だったか詳しく教えてください
河豚計画と称してユダヤ系資本の流入を期待してユダヤ難民を受け入れた
ものの、独日の接近、開戦などで頓挫。
しかも難民の殆どがユダヤ資本の後援の無い貧乏人でもてあましてしまい
元々あった上海のユダヤ人街に送致、そこからの移動を禁じてたのよ。
ナチスから日本政府への要求よりマシだけど胸は張れないなorz
(316:19)

太平洋戦争中は、日本沿岸や遠洋での鯨漁はどの程度行われていたんでしょうか?

大きな鯨を取る事で、食料不足の解決にならなかったんでしょうか?
元々日本の捕鯨船には有事の際に徴用して母船は補給艦&油槽艦に、捕鯨艇は
掃海艇&哨戒艇にすることが考慮されて海軍が補助金を出していた。

太平洋戦争勃発と共にみな徴用され、ほとんどは沈みました。

船がない上に戦争後半には日本近海は潜水艦と空母艦載機がうろうろしてるので、
出漁になど出られません。
そもそも、船を動かす燃料がありませんでした。

日本の水産業は上記の理由で戦争の後半にはほぼ操業不可能に追い込まれています。
魚を捕ることすらできなくなっていたのです。
(315:583)

戦時中日本やその他の国々では女性や学生を工場に兵器製造として徴用させていましたが、工具はあるとはいえ素人が銃砲弾や手榴弾などを製造できたのでしょうか?

今だって派遣や期間工の素人が自動車作ってるだろ
(642:37)
ケースバイケース。
はじめから非熟練工でも生産できるようにつくらた生産ラインなら問題が少ない。
アメリカを中心に普及していたフォード生産方式はこれ。
設備投資がかさむ代わりに、工員はいくらでも入れ替え可能。
逆に旋盤やヤスリを使った職人的技術に頼っていた工場は性能の落ち込みが激しかった。
弾薬類は構造が単純だから不発が増えるぐらいで済むが、航空機のエンジンなんかは末期に近づくほど、まともに動かなくなっていった。
そんな工場で生産できるように兵器の方を省力化・簡略化する努力もされていたが限度がある
(642:モッティ ◆uSDglizB3o)

ついでに補足すると「はじめから非熟練工でも生産できるようにつくらた生産ライン」は
その生産をする工具が、非熟練工でも精度に狂いが無い全く同じものを作れるようにする
工作機械であることなどを指す

これに、各工員ごとに簡単な最小の部品をひたすら作らせる事で、熟練工員のような
技術を持っていなくても、同じものを大量に作る事が出来る
(そうして出来た部品同士を組み合わせる工程も、非熟練工による単純流れ作業)

ただこの方式の欠点として、単純で同じ作業を延々続ける事で工員の精神的疲労が高く
同じ人がずっとその仕事を続けていく事が出来ない事
そのため、工員は定期的に新しい人を雇って入れ替えていく必要があるが
もともと誰でも工員になれる上に簡単に取り替えられる前提であるのであまり問題が無い

そして、戦時中の日本の場合、その「工作機械」が無かったので非熟練工を雇っても
本当に単純なものしか作らせる事が出来なかったし、
作らせるものの方を単純簡略化する、という対応ぐらいしかできなかったという

ちなみに旋盤加工にも、後付けで倣い旋盤装置なんかを取り付けて
非熟練工でもある程度、精度の高い製品を複製できるようにした装置なんかもある
(642:40-41)

本人は本土にしか戦争に行ってないって言うんですがそういうケースもあったんですか?

大戦末期の根こそぎ招集だと、乗る船もないので、本土決戦用の蛸壺掘って
終わったと言う人もありますよ。
(47:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
みんながみんな外地に行ったわけじゃないんですよ。
「本土決戦」も考えていましたし、内地にもちゃんと部隊はいました。
たとえば、作家の池波正太郎は海軍に入り、横須賀の海兵団を経て
終戦まで美保にいました。
(47:327)

映画「将軍と参謀と兵」 (1942年日活)は戦時中公開の映画?

中国戦線の独立混成旅団の戦いを描いた映画
陸軍省後援だけど戦意高揚的な匂いはあまりしなかったと記憶
(48:247)

戦時中、ヤクザ屋さんはどうやってしのいでたんでしょう?戦時中はヤクザも兵隊に取られてました。

活動はかなり低調化していたようです。
当時のヤクザは現在みられるように大規模なものでなく、街ごとのこじんまりとした集団でした。
あとは”仁義無き戦い”でも読んでください。復員後のヤクザについて書かれております。
(48:269)

戦時中、ラジオの短波放送が禁じられていたそうですが、主な理由はなんですか?

外国の流す宣伝放送を聴く事ができないように。
あと、スパイがラジオを通して指令を聴くことができないようにさせるため。

主にこの二つ。
(51:309)
短波は電離層反射により遠くまで届くため、防諜上から受信そのものが禁じられた
(51:310)

大本営に関してですが、小磯内閣時の1944(昭和19)年8月5日に「最高戦争指導会議」と改称した際、どの様な権限拡充が行われたのでありましょうか?

なぜ、わざわざ名称まで変えたのでしょうか?
1943年9月30日の御前会議で、戦争指導の大綱が決定しますが、軍政府と行政府との
齟齬で、その実現が余り上手くいっていないこと、また、大本営だけでは、殊軍事だけの
視点でものを見がちで、外交面はともすれば等閑にされてしまっていること、でもって、
外交面で言うと、大東亜共栄圏の諸国が今後独立を達成するに当たって、彼らの協力を
得るため、また、独ソ戦などでのドイツの勢いが落ちてきたことなどから、今後の戦争指導
には外務省(大東亜省)の助力が必要なこと、などが理由となり設置されました。

また、軍需生産が軍需省に一元管理されて、軍政と切り離されたことによって、調整の場が
必要になったこともあります。
(307:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

徴兵された人の奥さんや子供はどうやって生活してたんでしょうか

一応、出征家族に対しては家族手当があります。
また、万一の時に備えて、徴兵保険(富国生命保険は昔これを一手に扱っていました)を
掛けている人も多かったようです。
更に、軍事扶助法によって、現役下士官の家族には扶助金が出ます。
(233:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

戦争中、戦死した兵士の遺族には、現代の貨幣価値に換算していくらぐらいの弔慰金が貰えたんでしょうか?

戦闘または戦闘に準じる公務で死亡した場合、その遺族には、普通恩給の金額、それ以外
の普通公務で死亡した場合は、普通恩給の10分の8、それ以外の要因で死亡した場合は、
普通恩給の10分の5が、それぞれ支払われますが、これは、軍在籍3年以上で恩給年限に
達しなかった人の場合です。
それに達しなかった人の場合は、当時の棒給月額に在職月数を乗じた額が一時的に支給
されます。

戦地に出た人のいる家族に対しては、隣組や婦人会、町内会で相互扶助を行っていました。
特に応召者のいる家庭の訪問、遺家族に対する慰問などが重要視されています。
(233:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

蛇足
恩給法における公務扶助料は、軍人等が戦病死した場合に、その軍人等によって生計を維持し
または生計をともにしていた配偶者を先順位者として、続いて未成年の子、父母等の順序で
支給されることになっています 従って支給額は個々によって違います

その他には金杯と知事から労いの紙切れ一枚
(304:シチュー砲 ◆STEW.ibjrE)

大戦末期のフィリピンでは味方同士で人肉食い合ってたとか

ニューギニアの第十八軍は人肉食の横行に苦慮し友軍の肉を食べたものは厳罰に処す旨の
通達を出している。実際に処刑された日本兵もいる。
逆に敵兵の肉は食べてもお咎めなしであった
(658:226)

1944年、日本からソ連、東欧経由でベルリンへ行けますか?

ソ連は、ドイツに利益となる日本人のビザを発行したがりません。
日本のドイツ駐在武官を、東欧の他の国の駐在武官として偽って報告したこともありました。
日本は苦肉の策として、遭難したソ連人船員の帰国のビザと交換に、日本人のソ連通過ビザを得たこともありました。

しかし、1942年に日本人外交団がソ連のビザを得て、ソ連領を通過してドイツへ行きました。
中央アジアを経由しました。
その際、観察したソ連の様子を、ヨーロッパから無線電信で日本へ報告しました。
それは、暗号解読していた、アメリカやイギリスの関係者にも、有用なソ連情報でした。

1944年1月は、独ソ戦でソ連が有利になっていました。
ドイツへの日本人の通過ビザは、なかなか発行しません。
(672:霞ヶ浦の住人 ◆1qAMMeUK0I)

多分、佐貫亦男さんのエッセイか何かを呼んで疑問に思ったのでしょうが、可能です。
但し、1943年10月に日本近海で撃沈されたソ連貨物船乗組員50名を満州国経由で送還する交換条件ですが。
この時は外国人3名、民間人3名、満州の民間人1名に査証が降りています。

そして、1943年11月にベルリンから在ドイツ日本大使館一等書記官の牛場信彦、佐貫さん、古賀電工技師の松尾敏彦、
川村知、満州国官吏の河野徳太郎、ブダ=ペシュトから、大久保利隆マジャール公使、
ブカレストから在ブルガリア日本大使館二等通訳官が帰国しています。
先ず、ベルリン組は二手に分かれて、寝台列車でブレスラウ、スロバキア領を通過し、ブダ=ペシュト着、それから
ブカレスト経由で、ソフィア、イスタンブール、アンカラを経てソ連へ、クラスノボーツクからノボシビルスクを経由し、
チタ、そしてアトポールで満洲里到着というコースです。

また、1943年11月から1944年1月にはトルコに赴任する田辺宗夫三等書記官、スウェーデンに赴任する土屋準二二等
書記官、スイスに赴任する武川基外交官補がソ連経由でドイツに向かっています。
途中、伝書使としてベルリンに赴いています。
このルートで最後に帰国したのは堀切善兵衛欧州遊撃大使になります。

後、ブルガリアから帰国する日本外交官が、1944年11月にソフィアからイスタンブールに行き、アンカラ、バクー、コーカサス
経由で、モスクワに行き、そこから満洲里に言った記録も残っています。
(672:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本と同盟国のドイツ・イタリアとの交流はどんなものだったのでしょう?

特に人の行き来は、現代の海外旅行のようにはいかなかったと思うのですが。
第二次大戦勃発当初は、イタリアがまだ参戦していませんでしたので、通常の欧州航路から地中海に入り、
ナポリで下船し、鉄路でベルリンに向かいました。
これは1940年春にイタリアが英仏に宣戦を布告するまで続きます。
1940年9月以降はスエズを通航出来なくなり、パナマ運河経由か喜望峰経由に変更。
この場合、リスボンに寄港し、欧州に行く人々はここから鉄路で各地に向かっています。
前者は1941年7月18日に米国が通航を拒否したため休止、後者も経済的に維持出来ず休止されました。

シベリア鉄道経由はウラジオ、ハバロフスク経由、満洲里経由の2ルート(満洲里経由は出発地によって2ルートあるので、
都合3ルート)ありましたが、ソ連が軍人、外交官を除き一般人にビザを発給しなかったので、利用は少ないです。
1939年9月1日に一旦中断し、12月頃再開、1941年6月22日の独ソ開戦で中断されました。

米国経由は、太平洋航路で、シアトル、サンフランシスコから鉄路でニューヨークへ、其処から大西洋航路で
欧州(米国は未だ中立国)へ渡ると言うものですが、これも1941年7月26日の在米国日本資産凍結によって
事実上閉鎖されました。
以後は、南米航路で、ブラジル、アルゼンチンからリスボンに渡ると言うものでしたが、これも、
1941年12月8日の日米開戦で途絶しました。

太平洋戦争勃発後は、先ず、日米、日英交換船による外交官赴任があります。
これはポルトガル領だったロレンソ・マルケス(今のモザンビークの首都マプト)経由、其処からポルトガルの
便船で喜望峰経由でリスボンに向かい、其処から鉄路でベルリンやらヴィシーやらベルンなどに赴きました。
(ちなみに、外交官のポルトガル船での赴任は、連合国に了承されています)

また、陸路は、シベリア鉄道のモスクワ経由は無くなっていますが、満洲里から
ソ連に入り、中央アジアを抜け、コーカサス経由でトルコに入り、トルコを横断し、
ブルガリアへ、ブルガリアからロマーニャ、そしてマジャールを経由してドイツという
ルートです。
そのルートは二ヶ月の時間を要し、ソ連の通過査証が中々降りないのがネックでした。
一応切り札として、日本領海で遭難して救助したソ連船員との交換で発給を受けて
いたのですが、なかなか発給されず、屡々在モスクワ日本大使館とソ連外務省との
間で丁々発止の遣り取りが行われています。

この陸路を通った例としては、ローマのイタリア大使館から帰国した参事官が最初で、
ローマ→ウィーン→ブタペシュト→ブカレスト→ドナウを下ってジュルジュからブルガリア
のルセを渡り、ソフィア→スビレングラード→其処からバスでイスタンブール→アンカラ
→サルカムシ→カルスを経て此処からアルメニアのレニナカン(現在のクマイリ)→グル
ジアのチフリス(今のトビリシ)→ソ連に入ってスターリングラード→ラポリ→クイビシェフ
→ノボシビルスク→シベリア鉄道で満洲里という右往左往ルートです。

独ソ戦で、コーカサスが最前線になると、チフリスまでは上記通り(但し、ドナウの結氷期は連絡船は動かないため、
小舟で渡るか、歩いて渡ることになります)、チフリスからはロシアに入らず、バクーに移動し、カスピ海を横断、
トルクメニスタンのクラスノボーツクから鉄道でタシュケントに抜け、カザフスタンのアルマアタ、セミパラチンスク
を経てノボシビルスクというルートで以後、シベリア鉄道というルートに変わりました。
このルートは、1944年8月23日のルーマニア降伏まで続きました。

で、それ以外は、潜水艦によるものが人口に膾炙されていますが、伊号第30号潜水艦、同第8号潜水艦、同34号潜水艦、
同29号潜水艦、同第52号潜水艦の5回試みられ、欧州到達したのは3回、往復したのは1回でした。
ドイツ潜水艦によるものも試みられ、U511、U1224、U234の3回のうち、1回のみ成功、イタリア潜水艦も4艦のうち、
1回だけ昭南に到達しました。

後は、物資だけなら、ドイツの封鎖突破船、イタリアからの福生まで空路というのもあったりします。
イタリアからの福生まで空路ってどの程度実現していたのでしょうか?又中継地は?
特殊型なのですが、1939年7月30日~8月1日に掛けて、Savoia-Marchetti S.M.82PDと言う
改造型は、航研機の持つ周回記録を上回る12,910kmの飛行を行っています。

同じような改造型で、1942年にイタリアのローマから、ブカレスト、コーカサス(当時はドイツの
占領下)を経て、其処からは無着陸でアフガンを越え、天山山脈上空を飛行し、中国の日本占
領地(蘭州辺りだったかと記憶)に飛び、其処から満州を経て、福生へ飛んでいます。
ちなみに、このルートは、1938年4月23~28日に満州航空が購入したHe-116の2機が通った
ルートをほぼトレースしています。
この時には、カプロニの「ジェット」エンジンを搭載してきたんですよね。
帰りには南方で採取された資源(生ゴム、雲母、錫、タングステン、阿片)を搭載して見事に
帰着しています。

後、思い出しましたが、逆ルートで、立川A-26の2号機を用いて、シンガポールからドイツまで
無着陸連絡飛行(セ号)を1943年6月30日に福生を出発、シンガポールで給油し、7月7日にド
イツに向かいましたが、インド洋上空で行方不明、1944年から45年にかけて、立川キ-74遠距離
偵察爆撃機の2号機を使って同じような飛行をしようとしていましたが、ドイツ敗戦で中止になりました。
(236:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

太平洋戦争中、毒ガスの大規模製造工場があった広島県の大久野島のことを米軍は把握していたのでしょうか?

この島は機密保持の為、地図から消されていたといわれていますが
工場が設置されたのは、戦前の1929年で、東京第二陸軍造兵廠忠海兵器製造所
となっています。
この工場開設時は、昭和の大恐慌時だったので、工員の応募総数が6,000名で、
そのうち200名が採用されています。
従って、地域では、陸軍が工場を設置したことは判っていたでしょう。

また、1933年に秩父宮、1934年に高松宮が工場を訪れており、日中戦争勃発後
は生産拡張のために、男女従業員1000名が採用され、工員は忠海港から島に
通い、1940年には、工場内に技術者養成所が設置されて、広島、岡山の国民
学校高等科卒業の男子を集め、養成工として3年間の教育を始めました。
彼等は、20年の雇用契約を結んでいます。

1943年のRooseveltによる毒ガス報復宣言が出てからは、この島でのガス生産
は低下し、風船爆弾などの製造に転用されたりしています。

戦前からの動き、毒ガスの使用状況、砲弾の補給状況などを丹念に追っていけば、
何処で製造されているか、までは突き止められます。

但し、ホスゲン、サリンなどの新規開発の瓦斯はあるのかは、第二次大戦末期になる
まで判らなかったみたいですがね。
(289:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

戦争中に個人でジャガイモやサツマイモの栽培をしての食料の確保でも、国の配給制等の法律に違反したんでしょうか?

我が実家も有耶無耶の内に、隣の土地を市に没収されたっけ。
曾祖母が怒ること怒ること。

配給途絶に備えて、空き地の徹底的活用で食料を緊急増産する為に、地方自治体から
南瓜、韮、不断草などの種子を無料配布したり、作り方を教授するようにしています。
ただ、例えば、南瓜などの種子は、粉末化して食料にするため、回収していますね。

なお、こういった耕作地については、戦時農園としてきちんと登録する必要がありました。
更に、芋類に関しては、戦時農園推進員が巡回して、生育状況を確認しますが、統制外の
南瓜の様な作物は、お目こぼしされています。
但し、種芋についての配給は、入荷が遅れて、種付けに間に合わない場合が多かった様です。
(289:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

宮崎県宮崎市に住んでいた祖母が戦中、林で銀色のきらきらしたものを沢山見たそうです

チャフでしょうか?
多分チャフ(日本では電探欺瞞紙と呼ぶ)。
アルミ箔(日本では紙に錫箔を貼った物)をレーダー電波の波長と同じ長さに細長く切ったもの。
空中で大量に散布して電波を撹乱して、敵の探知を妨害した。
レーダー画面上では白い雲のように映る。
おそらくは日本に侵攻してきたB-29が散布した物。
(286:48)

大正から昭和初期にかけての川崎造船所の倒産の危機や海軍による扶助、頻発する争議などについてわかる書籍を探しているのですが

「川崎造船所40年史」以外で。
Tom Smith辺りの論文でそうしたものを扱う予定でしたが、残念なことに本人が病没しました。
とりあえず、新修神戸市史の産業経済編巻2と3が参考になるでしょう。
また、日本経済新聞に、日本財閥経営史という一連の本がありますが、このうちの「新興財閥」編、
「地方財閥」編もしくは、「阪神財閥」編に触れているものがあったかと。
(283:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

太平洋戦争中、日本統治下の朝鮮半島や、台湾の食糧事情はどうだったんでしょうか?

少なくとも邦人に関しては、それなりの生活が出来ています。
食料事情も内地よりは豊かでした。

例えば、台湾の場合、日本の内地では余り見かけなくなった砂糖がふんだんにあったりしますね。
朝鮮の米事情に関しては1939年の凶作の影響で、余り良くなかったと言う点はありましたが、それ
以外はまずまずと言えるかもしれません。
(280:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

戦争時召集された人たちを見送るために提灯行列とかやったのでしょうか?

提灯行列自体は、1941年までは何とか行われていましたが、太平洋戦争が
勃発した時点では、既に止めようと言うことになってしまっています。
見送りも最小限になっています。
(280:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

戦争中に日本の漁船も徴用されてたようですが、どのように使われていたのでしょうか?

雷撃艇とか揚陸艇にでも使われてたんですか?
海軍は、レーダーの代りに海上を見張る監視艇、掃海艇として主に用いられていました。
陸軍は、海上トラックとして、また、現地調弁用の漁船として使用しています。
(277:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

ビハール号事件ですが、ドイツ海軍のUボートのように生存者には、陸地の方角だけ教えて立ち去ることはできなかったの?

参謀長口達覚書なるものに捕虜の扱いが書かれていたとされる。
元々、商船を捕獲するとは思っても見なかった。
海上通商破壊には情報漏洩を第一に考える。
Uボートの場合、大西洋上で撃沈することが多く、少々の食料を与えて陸地の方角を教えたところで、
その陸地に到達するまで長い時間が掛かり、更に、現地に着いてからも人跡未踏のジャングルだった
りするので、情報の伝達まで時間が掛かる。
インド洋では、陸地に到達する距離が短く、また人口も密集している為、情報伝達時間が短いことを
考慮したものかもしれない。
(275:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

駆逐艦秋風虐殺事件について教えて下さい。

「秋風艦上の虐殺事件」
1943.3. 東部New Guinea、カイリル島とマヌス島にいた海軍分遣隊長が、駆逐艦を使って両島にいる外国人抑留者を
全員ラバウルに移送するよう命令を受ける。
カイリル島には26名(ロークス司教ら12名の神父と修道士、11名の修道女、彼女たちが世話していた2~7歳の中国人3名。
3.16PM. 彼等は「秋風」に乗船、翌日午後、マヌス島の40名(3名の神父、3名の修道女、ドイツ人プロテスタント宣教師夫妻
2組と1人の子供、2名のドイツ人農園主、2名の中国人と3名の原住民。)が乗船。
なお、ドイツ人の他、少なくとも5名がオランダ人、1名がマジャール人、1名が米国人。
3.18.AM.10:00 秋風はカビエン沖に停泊、海岸と信号をかわした後、ラバウルに向けて航行を開始。

カビエン沖60マイルの地点で、艦長(佐部鶴吉少佐)が、士官全員に外国人の殺害を命ぜられたことを伝える。
外国人たちは、前方の乗員室に連れてこられ、目隠しをされ、船尾に特設された処刑台に連行。
両手首を縛られて吊され、小銃の一斉射撃にて銃殺され、そのまま、海中に放り込まれる。

処刑開始は正午、終了が午後3時半。
その後、秋風は午後10時にラバウルに帰港。

豪州側は、三川軍一中将と大西新蔵参謀長を1947年1月に逮捕したものの、管轄権の問題で
米国側に委譲され、不起訴に終わる。
これは、「秋風」の艦長、先任将校が戦死、秋風自体も米潜水艦によって撃沈され、乗組員は
全滅したため、三川長官との命令関係を立証できなかった為とされている。

詳細は、豪州国立公文書館 SeriesMP742/1 細目336/1/1444 「秋風虐殺事件調査ファイル」を
参照してください。

ちなみに、ビハール号事件の際にも、南西方面艦隊作戦命令の別冊「参謀長口達覚書」が根拠に
なったと言う話もありますが、その資料そのものが発見できていません。
(派生議論スレ4:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

戦中、日本国内で軍属またはそれに類する人たちが米国の陰謀によって破壊工作に誘導利用されたという事実はあるのでしょうか?

戦略爆撃調査団の報告書では”本土に対する諜報工作は絶望的”という記述がある。
陸奥爆沈事件などのきな臭い事件もあるが,破壊工作の可能性は低いという説が一般的。
(112:13)

戦中は軍にも車の車校とかあって、免許とかもいったの?

1935年前後、大学卒の初任給が60円前後、対して自動車の価格は、
キャデラック・フリートウッドが35,000円、リンカーン・ゼファーが9,000円、シヴォレーが4,000円、
ダットサンが2,100円でしたから、自家用の免許を持った人はあまりおらず、殆どが職業運転士
でした。

で、今、手元にあるのが、KKKのバス事業の資料しかないのですが、まず、運転士になりたい
人は、会社に入って、現役運転士の補助になります。
この現役運転士がお師匠となり、補助に付くと、その一挙手一投足を目で盗み、庫内で自習を
します。
いい人に当たると、結構手取り足取り教えてくれた人も居たようですが。

そんなこんなで数ヶ月すると、路上教習になります。
で、これにお師匠と試験官が付いて、路上に出て一通りの運転動作をした上、問題が発生しな
ければ、運転免許証が発行されます。

内務省が自動車運転に関する規制を考え始めたのは、大正8年に内務省警保局・土木局が
連名で出した自動車取締令によるものです。
これを基に、各府県は自動車取締細則を定めて運用します。

ちなみに、軍事とは離れますが、大正12~13年の千葉に於ける一年間の交通事故件数は61件、
歩行者の死者3名、負傷者41名、従業員の負傷者1名、その他13名で、事故を起こした運転士
61名のうち、15名は無免許です。
運転手の養成所はありましたが、数が足りず、免許取得の運転手の添乗の下、
助手が無免許でハンドルを握らせています。

流石にこの状態は不味いので、大正15年に自動車取締令施行細則が改訂され、
業務用(乗合、貨物)と自家用とナンバープレートが色分けされ、そのナンバーも
外せない構造となります。
(118:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

太平洋戦争末期に誕生した国民義勇隊の詳細を教えてください

一応、国民義勇軍は、小磯内閣の最末期である1945年3月の閣議に於て、義勇奉公隊(仮称)組織ニ関スル件が
閣議決定され、府県毎に本部を設け、本部長は知事とし、市町村隊の隊長は市町村長が当たることを定めています。
(但し、義勇奉公隊が国民義勇隊と訂正されている部分と無い部分があり、訂正も閣議前か後かが不明であり、
 また、国民義勇隊に関する閣議決定、了解資料は数多いのですが、施行しないもの、前後矛盾したものが多かった
 りしますので、注意が必要です)

1945年4月の鈴木内閣成立後の閣議で、国民義勇隊組織ニ関スル件が決定され、国民義勇隊に中央機関を設けないこと、
大政翼賛会と大日本翼賛壮年団の解体を定めます。
同時に警防団は国民義勇隊の組織に一体化することとなり、陸海軍大臣請議の「状態急迫セル場合ニ応スル国民戦闘
組織ニ関スル件」が閣議決定され、情勢急迫した場合は、国民義勇隊組織から戦闘組織に転移することを明確にし、戦場
となる地域の国民義勇隊は戦闘隊に転移するものとし、軍管区司令官、鎮守府司令長官の命令に服すること、そのため
兵として動員し、統帥権下に服従させ得るための法的措置をすること、戦闘隊と国民義勇隊は表裏一体とすること、在郷
軍人防衛隊は発展解消させることが確認されています。

また同じ4月に内務大臣請議による「国民義勇隊ノ組織運営指導ニ関スル件」が閣議決定され、国民義勇隊の当面の任務
として、軍需・食糧増産など戦力の増大に努めるものとし、戦闘隊に転移した場合でも、主に作戦の要望する生産・輸送・築城・
防空・救護など兵站業務を中心に服し、最後の場合、戦闘任務に就くと言うこととしています。

国民義勇戦闘隊とは少し性格が違うものです。
国民義勇隊は、行政措置で設置された任意組織であり、出動には強制力が無く、衛生組合や翼賛会と同様に民間の機関であって
国家機関ではありません。
国民義勇隊は、地方に於ては地方総監府第三部が所管し、国民義勇隊自体は市区町村単位あるいは、職域単位で設置され、
その隊員は非戦闘員です。
(272:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

敗戦直前の昭和20年7月頃に勝札なんて宝くじがあったそうですが、

こういうギャンブル的なこと、芸能・スポーツとかも戦時中に普通に行われていたんでしょうか?
芸能に関しては、1945年も押し迫った状態でもやってます。
徳川夢声とかが新宿の演芸場なんかで芸をしてたら、空襲警報であっという間に中止とか
言う話もありましたけど。
流石に歌舞伎は中止でしたが(芝居を掛ける小屋がない)、演劇とか漫才などは、
移動演劇ということで、田舎の慰問の名目で最後まで行なってます。

スポーツは、武道・鍛錬の名目で推奨されていましたが、学生野球が1943年秋のシーズンまでで終ったのを
皮切りに、他のスポーツも、決戦態勢の確立の名の下、1944年までにどんどん中止させられていきます。

ちなみに、株式市場も1945年8月10日までやってました。
(121:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

戦中、日本国内にいた外国人はどんな扱いだったのでしょう?

日本国内にいた日本国籍を持つ欧米系外国人は、スパイの疑いがあるとして憲兵による
監視下に置かれていました。
J・Bハリス氏の他にも、かのグラバーの子息倉場富三郎や外交官寺崎英成の妻女
(娘マリコの名が日米交渉の暗号に使われたのは有名)など、かなりひどい目に
あったようです。

日本国籍を持たない外国人は開戦と同時に拘束されましたが、日本と連合国が
行った在留者相互交換により本国へ強制送還されました。
日英および日米の交換船は合わせて4回抑留者の交換を行っています。
(143:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

戦艦や巡洋艦のスペックとか、一般市民にどれぐらい公開されてたのでしょうか?

まあ娑婆の人々がどこまで理解していたかはともかく、海軍はそれなりに広報していました。
私のかかりつけの医者は、子供の頃に陸奥の実物をスケッチしたことがあると話していますし
軍港見物ができた時代は、佐世保は陸奥、舞鶴は吾妻が船内公開されていたようです。

開戦まで、新聞報道はギリギリの線で海軍の情報を流していました。
佐世保のお膝元、長崎日日新聞の記事には
  • 6年6月、霧島が長崎・五島で公演・映写会・見学
  • 11年10月、修理中の由良で蒸気噴出、6名死亡 など、やばげな報道もしていました。

陸海軍が現代の「白書」じみた年鑑を発行していたことも分かっています。問題は頒布先ですが。
また、維新から日華事変参戦中の艦艇の写真集も発行してます。(編纂委員長が古賀さんなのです)。

公開されたスペックを覚えている海軍ヲタから、名前ぐらいは知っている程度までの幅はあれど
銃後の人たちは、艦艇を知る義務ではなく、知る権利を与えられていたのはまちがいないです。
(143:鷂 ◆Kr61cmWkkQ)

鉱物資源は日本領土や大陸でコストを度外視して採掘しても、戦前の必要量すら確保できなかったのでしょうか?

石炭、鉄鉱石など連合国の通商破壊で日本本土への輸入が叶わなくなった資源の場合、
本当に採算を度外視して、鉱脈があれば人的資源を投入して採掘を行ないました。

しかしながら、その鉱山開発に必要な採掘機械生産への投資や資源配分が行なわれなかったため、
既存の鉱山から採掘機械を転用するなどして、本来、重要鉱山(例えば、室蘭の鉄、常磐、筑豊の炭坑など)
で使用すればもっと生産が上がったであろうものまで影響を受けており、そうした資源開発をすることは
反って生産効率を落とすことになっています。
(146:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

戦中、キリスト教は敵の宗教として風当たりが強そうな気がするのですが、それらの宗教は社会的にどのような扱いを受けたのでしょう?

最近、仏教徒の宗派にしろ、基督教の宗派にしろ、太平洋戦争に於ける国家への戦争協力
を反省する文章が出てた筈です。

例えば、賀川豊彦門下のキリスト教徒が、国家総動員体制の一翼を積極的に担ったりして
います。
また、太平洋戦争では、宗教団体戦時中央委員会と言うのが結成され、戦時活動実施の要目
として、教化活動の強化、宗教施設活用、報国団の整備拡充を申し合わせています。
仏教徒は、大東亜仏教青年会連盟を結成し、大東亜諸地域に於ける仏教徒の総力を結集する
としていました。
基督教では、日本基督教団が、各宗派の大同団結の下に結成され、ラテン語の賛美歌を日本語化
する活動を行い、新日曜学校賛美歌集と言う日本独自の作詞作曲で作られたものを1943年以降
使っています。

建前上、日本は宗教に関してはどれも同じ扱いとしていましたが、国家神道は別格扱いでした
(とは言え、その神道を管轄していた内務省内では三等局扱いだったそうですが)。
民間レベルでは、特にその教義から基督教は敵視され、徴兵に於いても、生きて帰ってきても
何度も徴兵を受ける人もいました(うちなんか仏教徒なのに、基督教系の学校で先生やってた
から、祖父は三回も徴兵されたし)。
(251:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

徴用された船舶が撃沈されたら弁償してもらえたの?

太平洋戦争中徴用された船舶が喪失した場合、海上危険(衝突、座礁、沈没など)の
要因によって、保険金が支払われる場合がありました。

敵国に撃沈されたと明確に判断の付く場合(これを戦争危険と言い、乗組員の証言、同行船舶
乗組員の証言などで判断)は、保険が掛けてあっても、保険金ではなく、軍から補償金が支払わ
れます。

一方、単独行動中に行方不明になったとか、操舵員のミスで座礁したとか、衝突したなどと言った
場合は、保険会社が調査の上、海軍当局と協議し、潜水艦などに依るか否かと判断して、それが
敵の軍事行動による滅失の場合は、軍当局から補償金が、普通海上危難の場合は、保険会社から
保険金が支払われます。
これは徴用船舶、民間船舶でも同じでしたが、民間船舶の場合は軍が補償金を支払うケースは余り
ありませんでした(海軍の護衛下で船団航行中に喪われた場合がこれに相当する)。
また、海軍徴用船舶の場合は、普通海上危険によっても分損の場合の修繕費用は海軍が負担した
のに対し、陸軍徴用船舶の場合は、分損、全損とも普通海上危険では保険会社の支払いとなりました。

但し、軍の補償金は保険金額よりも一般的に低く、船主によっては普通海上危険にして貰おうと画策した
者もいたようです。
(155:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

沖縄戦の集団自決って本当にあったのですか?

一番有名なのは、渡嘉敷島の集団自決ですが、沖縄タイムスが編集した1950年の
「鉄の暴風」が最初に触れ、その後、それが子引き、孫引きで定着したのが始まりです。
曾野綾子がその辺を調べて、1973年に「ある神話の背景」という本を出しています。

さて、問題になるかならないかですが、例えば、渡嘉敷島の事例では、確かに集団自決
が行われています。
しかし、その集団自決は、軍の命令ではなく、村長や防衛隊員辺りから誰からともなく、
「自決命令」を聞いて、自決したものであったことが最近の研究で判明しています。

これが「軍の命令」となったのは、1955年頃、日本政府の援護法適用の際、「『軍の要請』
で戦闘に参加し、戦死した」形式を取らないと、補償の適用除外となってしまうことが判った
ため、生き残りの住民に島の長老が偽証するよう要請したと言う話です。

全部が全部この様な事例ではないと思いますが、一部にはこういう形で伝えられたものも
あります。
(230:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

戦中の軍人と宗教の関係を教えて下さい。

いくつか手掛かりになりそうなものをあげておきます。
まずは田中智学の創設した「国柱会」です。ここは日蓮宗系の宗教団体で
宮沢賢治が入信していたことで知られていますが、田中智学は国家主義的思想が強く、
石原莞爾に代表される陸軍内の強硬派の信仰を集め、多大な影響を与えています。
ちなみに田中智学は「八紘一宇」という造語の創作者であることで知られています。

次に、竹内巨麿の創設した「天津教」があります。
いわゆる「竹内文書」によってオカルトファンには有名ですが、最盛期には
荒木貞夫大将や真崎甚三郎大将といった錚々たる面々が信奉者として名を連ねています。
最終的に天津教は、天皇家の紋章である菊花紋を使ったという罪で不敬罪に問われ、
竹内巨麿は逮捕されましたが、終戦で不敬罪が消滅したことで無罪になっています。
その他に、治安維持法違反で検挙された大本教にも軍人のシンパは多かったとか。

この時期の新興宗教は、軍人を引き入れるのに熱心でした。
これは、教祖側が官憲の弾圧に対する抑止力として軍人の力を欲したことや、軍人の中に
国枠主義者が多く、教義的に受け入れやすかったことなどがありました。
(226:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

戦争「末期」ではないが、
大日本回教協会の初代会長は林銑十郎陸軍大将。
また、1938年、日本側の寄付によって建てられた東京モスクの落成式には
頭山満・松井岩根陸軍大将・山本英輔海軍大将が列席しておる。

もっとも彼らのイスラーム指向は宗教的なものというよりも、
当時、満州国にかなり存在した回教徒に対する対策的意味合いが強い。

そもそも林大将は皇道主義者であり、
現人神を信じる皇道主義と、
多神教を憎悪する(原理的な意味において)イスラームとは合い入れないものであるはずなのだが、
なぜか当時の(今も少なからずの)日本人はそういう矛盾を感じなかったらしい。

さらに笑えるのは
日本イスラームのパイオニア有賀文八郎(民間人)の著した「日本イスラム教の道徳概要」では
「但し」「但し」「但し」の連発によりて
飲酒、豚食、喫煙を肯定してしまっておる。
これではイスラームではなく、
イスラーム神道と呼んだほうがよいかもしれぬ。w

戦前は日本と中東の距離が地理的にも精神的にも遠く、
お互いにファンタジーじみた「中東」理解、
ファンタジーじみた「日本」理解(例えば日露戦争礼賛がそれである)で
事足りたのであろう。

しかしこれほど情報化が発達した世界においては
もはやそのような牧歌的な関係は
望んでも得られぬであろう。残念なことに。
(226:イラン前国防相 ◆2ahDXUlKbw)

昭和20年の航空機生産計画は何を根拠に決められていたんでしょうか?

20年前半期の計画より後半期は随分少なくなってますが。
既に南方からの輸送路が絶たれ原料供給の見込みが立っていない状況で、
希望的な数値を出しても意味がありませんから、ボーキサイトの在庫がどれ
だけ、それから出来るジュラルミンの製造高がどれだけ、ならば、作ることが
出来る機体の数はこれだけ、特殊鋼はこれだけ在庫があるから、エンジンに
回せるのはどれだけ…と引き算の論理で行けば、幾ら盲でも近似値は出せる
わけですわな。

ついでに、これも海軍の例ですが、雷電用の火星エンジンは1944年中期の時点で
誉への一極集中のため生産中止が決定し、治工具は他ラインに流用されてしまい
ました。
しかし、1944年11月の中島飛行機武蔵製作所への空襲は、海軍当局を周章狼狽させ、
生産中止になった火星を100基を2ヶ月で生産して納入しろと言った訳で。
工場では出来ないと断ったのですが、「これが出来ないと日本は敗れる」と拝み倒され、
結局、生産簡易化を図って12月から供給出来るようになったと言う話もあります。

1944年末には航空機生産高の増加を政府が命令しながら、1945年2月には生産現場の
疎開(しかも生産を落とさずに)を命じるなど、終始一貫してない訳ですな。
(225:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本の軍用機の生産数のピークが、物資に相当困っているはずの1944年だったのは何故ですか?

生産力が分散して、今まで総花的に、やれ戦艦だ、やれ戦車だ、やれ大砲だ、と色々やってたのが、
1944年以降に航空主兵に転換して、何が何でも航空機を作れと言う話になったからです。

1943年3月に五大重点産業が指定され、航空機生産のため、産業再編成が行われます。
この時に、不要不急産業(繊維産業など)は軍需産業への転換を余儀なくされます。
1943年10月には軍需会社法が制定され、軍需会社に対する統制と特権措置が発動、11月に軍需省が
設けられ、その麾下に航空兵器総局が設置されて航空機増産体制が一元化、1944年1月に航空工業会
が発足、1942年に続き、航空機大増産指令が出され、超重点最優先の産業となります。

この時期に、機械工業力のピークを迎えた訳です。
(225:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
戦略爆撃調査団はこう述べています。

戦争中期には航空機生産に関しては、アルミニウムは潤沢な供給があった。
しかし44年に急激に引き上げられた航空機生産目標を達成しようとすれば、アルミの供給は需要を満たすことはできなかっただろう。

以上要約。
アメリカの潜水艦が輸送船攻撃を明確に打ち出したのが43年後半。功を奏すのが44年半ばごろからです。つまり、44年前半までは、
ある程度アルミの新規取得が可能でした。
43年のアルミのストックと44年前半のアルミで、44年の航空機生産を支えていましたが、景気が良かったのはあくまで前半の話。
後半になるにつれ、輸送船の被害が拡大。44年後半にはアルミの取得は前年の66%に低下、末には新規取得は事実上0となります。
こうして45年の航空機製造は寒いものになってしまいますが、44年はある程度のアルミの取得が可能だったことと、生産設備の
充実に伴って、航空機生産はピークを迎えたのでした。
で、あとは資材不足と空襲で生産設備が被害をうけ、下り坂を転がり落ちていく、と。
(225:784)

東条英機暗殺計画について御教授ください

サイパン戦の不始末、マリアナ海域での戦況悪化、北九州爆撃と言った状況にも関わらず、
東条首相は、嶋田海相と共に、杉山陸軍参謀総長、永野海軍軍令部総長を元帥にして追い出し、
それぞれがその後任に就任し、一気に権力を掌握します。

その後、高松宮の軍令部からの転出、近衛側近の酒井中将の解任、岡田大将と瀬島大佐の関東軍
への転出、松永参謀本部戦争指導班長の中国戦線への転出、松前逓信院工務局長の二等兵として
の召集、創価学会関係者の弾圧、毎日新聞の新名記者の政権批判記事に対する弾圧と召集などしたい
放題の状況となっていきます。

事此処に至って、1944年6月22日の夜、神大佐は、小料理屋に元海軍中尉で、5.15事件で犬養毅を射殺
した三上卓を呼び出して会合を持ちます。
翌23日に、高木惣吉と、神大佐が会合を持ち、次の7条件を示します。

1. 秘密保持と民間人の犠牲者を出さないために、三上卓は勿論、民間人とは一切関係を持たない。
2. 計画の実行者は7名
3. 決行後の脱出は一式陸攻を用い、パイロットと共に7名が搭乗するために、決行人員は7名となる。
  決行後6名を脱出させ、現場には高木惣吉が残り、全責任を取る。
4. 決行日は火曜か金曜とする。これは、東条がその日10時にオープンカーに乗って行くからである。
5. 決行方法は自動車3台に7名が分乗して、東条首相のオープンカーに衝突させ自動車事故とする。
  失敗したときは射殺する。
  場所は海軍省手前の四つ角で、1台は海軍省に、大審院の壕側にもう1台、内務省に1台を配置し、
  見張を警視庁前に置いて、東条の乗ったオープンカーが見えたら合図し、四つ角にさしかかるところで、
  前と両方の進路から突入して襲撃する。
6. 決行者の脱出については、厚木基地司令の小園中佐が協力し、一式陸攻で決行者は台湾に脱出する。
7. 決行日は高木が決定し、決行日2日前に決行者に直接連絡する。

で、6月23日に東条首相はサイパン放棄を決め、24日、いよいよ臍を固めた高木惣吉は岡田大将を訪ね、
決行を打ち明けます。
岡田は之に反対しますが、高木の決意は固く、決行前に必ず連絡させることを約束させて帰します。
それから、岡田大将は、伏見宮元帥を訪ね、海軍内部の状況を報告し、伏見宮から天皇に上奏が行き、
嶋田更迭、東条辞職の布石が打たれたため、暗殺決行は中止となりました。
(195:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

手榴弾による自決は存在したんですか?

光人社の戦記物読むと、脱落兵の手榴弾自殺は頻繁にあったことがわかります。
(54:421

シンガポール攻略の際の山下中将の態度はどんなものだったんでしょうか。

パージバルが降伏に際して色々要求を出しごねたらしく
山下将軍が「イエスかノーかどちらなのか?」と返答したところを
マスコミが大げさに書いたのです。
(57:669)

旧日本軍におけるブービートラップ使用の実態はどうだったのでしょうか?

トラップの類は正規の記録には殆ど載らないので、戦記あたりから類推することが多くなりますが、
日本軍によるブービートラップの使用は、連合軍側の記録にはかなりよく見られます。
ただ、パンツァーファウストの様な簡易対戦車兵器は日本には無いですから、
自分が知る範囲では、もっぱら爆薬による物です。

日本軍の手榴弾は発火方式の都合で、このような使い方にはあまり向いていませんが、
爆弾や地雷を改造したものを使用したとの記述もあります。
ttp://www.pacificwrecks.com/provinces/png_alexishafen.html
捕獲した米英の手榴弾も、利用されたかもしれません(この部分は想像)。

アメリカ兵の戦利品コレクション癖に気付いた日本軍は、
彼らが喜ぶ日本刀や日の丸に、よくトラップを仕掛けたそうです。
友軍の死体に爆薬を仕掛けると言うのは、欧米人には理解し難い事だったようですが、
当時はキリスト教的道徳観のない日本軍の方が、米英兵よりもトラップの類を多く用いたというような話も聞きます。
(57:590)

沖縄戦で、米軍に降伏する際に使用したと思われるビラ(旗?)について知りたいのですが

大戦末期は、白旗を振ったり、手を頭の上に乗せるだけでは、米軍、英軍は信用しなかったそうです。
日本軍の、白旗を振って投降をする振りをして攻撃するという手法を取った為だそうです。
後、投降しようとした兵士は、反対する兵士に殺されたりしたそうです。そういった戦死は、戦った戦死では無く、軍旗違反による処刑なので非常に不名誉で死後も近
隣の住民から冷たい待遇をされたりしたので、投降を試みる者も少なかったとの事です。

大抵は白旗を振るか、武器を敵前に投げ込み自分たちはその場に残り一人ずつ投降すると言う手法を取ったらしい。

↓こんな感じに
  ↓戦車や機銃
. . ○○ 
↓米兵士↓
○○○○○○

○.  .    .○←投降する兵士が通過間際に危険が無いか確認する役。射殺できるように機銃などで武装している。

.   . ●←投降する日本兵
(58:871)

ゼロアワーって軍部が期待したほどの成果があったのでしょうか?

「ゼロアワー」って東京ローズがアナウンスしてた番組のことですかね?
もともと厭戦気分を煽ることを目的とした放送なのに、厭戦気分を煽るどころか米兵にも
日本人にも大人気で全然軍の意図と違った番組になったみたいですね。
詳しくは「東京ローズ」ドウス昌代 著(文藝春秋社)を読まれるのが宜しいかと。
(60:名無し軍曹)

戦中の食糧不足に関して教えて下さい。

大井篤氏の海上護衛戦・文庫版第八章-30 空腹・降伏より転載

戦前から、日本内地は食料所要量(国民一人当たり2165カロリー平均として)の約八割を国内生産でまかなうことができただけで、
残りの二割の分は海外からの輸入に依存していた。
ところが戦時中の船舶の損失によって輸入食料は減少の一途をたどった。
(ここで表、一部のみ書く。食料輸入量14・4~15・3:2793→18・4~19・3:1871→19・4~20・3:1188 以上1000kg単位)
この輸入減を国内生産の増加によってまかなうなどという事は、もちろん、出来るはずも無い。
戦争中の食糧生産量は次のB表(省略)の通りで、昭和十九年までは、大きな減少もないが、増加もなかった。
(中略)
輸入減によって減らされる部分は、食料の生産者で無い都会地の住民に多くかぶってくる。
日本の食料統制はドイツやイギリスに比べると拙劣だったから、それが闇を刺激し、それからそれへと悪循環を生んだ。
(中略)
われわれの記憶に新しいように、食糧事情は昭和十八年の夏には相当既に悪化していた。
翌十九年には闇が深刻化してきた。
十九年の全国食糧消費から計算すると、国民一人一日当たりのカロリー摂取量は1900平均に落ちていた

以上p431-432

七月上旬の閣議で、主食の一割減配が議論された。
食料輸入の前途は真っ暗どころか、壁に突き当たった格好だ。
オガクズやモミガラで粉食をつくって食べねばならぬところまで来ている
p419-420
(205:933)

  • 戦後の混乱期は食料不足に苦しんだが,当時は食料を生産する農村のほうが
 都市に比べて食料の入手に恵まれており,栄養水準は上位にあった.
  • 終戦直後は食料生産の低下や外地からの引揚げ等による人口増により,全国
 的に飢餓と栄養失調が蔓延し,極めて深刻な食料不足になった.
ttp://www.f4.dion.ne.jp/~eisan/koushuueiyou.htm

公衆栄養学という学問で教えている「歴史」ね。
(205:ふみ)

うちの母方は大阪近郊で空襲に遭い、焼け出されたのだが、経営していた会社からの
支援があったので、路頭に迷うことが無かった。

ちなみに、当時の西宮は阪急から北についてはほぼ農業地帯だったので、食料は十分
にありました。
但し、うちの曾祖父は、贅沢三昧が祟り、配給では食っていけなくなったので、結核を患い、
敗戦の翌年には亡くなっています。

後、清沢洌の暗黒日記(3巻P.164~東京大空襲の件)
「甥の笠原貞夫は出征しており、その妻が三人の子供を抱えて焼け出されたのは先にも書いたが、
 修司が区役所に行くと、「縁故疎開の外はどうにもならぬ」と一向に受け付けない。
 貰ったのが、五日分の食料切符と汽車無賃乗車券のみである。
 仕方がないから丸ビルの地下室に連れてきて、信州に送るという。
 布団二枚を自転車に積んで連れてきた。
 国家の羅災者救助というのは、五日分の米と醤油だけだ。」

これが東京の状況。
神戸や大阪も同様だったかと思います。
後、流言・投書の太平洋戦争の第五章辺り興味深いですよ。
野坂は飢えがひどくて犬殺して食ったらしいけどな。同じ神戸でもえらい違いだな
そりゃ、技能を持ってたり、資本や工場を持ってたりする人々と、それが無い人々との生活の差は戦時下には
結構ありますが、一概には言えんでしょう。

例えば、父方の曾祖父は医者でしたから、開業医として近隣の農家の人々を診ていました。
なので、その御礼というか、薬代代わりに食料を得ることも可能ですし、元居た会社から、部下や世話をした
人が南方からの土産品として、バナナとか甘味料を持ってきてくれ、それを近隣の農家に分けて、代わりに
食料を補填してましたし。
母方の方は会社が重要会社だったので、その辺から手を回して、配給だけは途切れさせなかったですし。

それらが無い、または無くなった人々は大変な生活になっているのではないか、と思いますよ。

例によって蛇足ですが、戦略爆撃調査団の調査で、「個人的に戦争継続を望まなかった理由」の中に、「消費物資欠乏のため」
を言う回答選択肢があります。

この回答では、大規模な爆撃で高度に破壊された大都市の住民の場合、14%の人がその選択肢を選択しています。
同じように破壊された中小都市ではこの比率は11%、軽度に破壊された中小都市で9%、意外に、東京が8%と低く、
小規模爆撃があったか、爆撃を受けなかった都市では13%、田園共同体で19%、都市疎開者では14%となっています。

このアンケートを見る限り、東京の住民は消費物資の欠乏に苦しめられてた感じではなかったりします。
東京は首都であり、交通の結節点であり、統制経済の中心であることから、意外に物資の集積が行われたのではないか、
と言う話もあります。

一方で、田園共同体、即ち、田舎の方では物資を都会に供出したことで、相当物資不足に苦しんだと言う話もあります。
例えば、子供に対する加配はなく、学校給食もないので、子供一人当たりの配給量は一日当たり米一合ほど東京より少なく、
油、酒の配給は東京の1/3、魚、海苔、豆腐の配給はなく、況や、薪炭の配給もないと言う話もあったりします。
(205:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

戦時中の労働者の給料はどれぐらいだったんでしょう?

20歳未満の航空機産業従事者で、男性は平均時給26.1銭、女性は22.7銭。
30歳以上となると、男性が50銭以上、女性は33.7銭。
ちなみに厚生省が定めた最低時間割賃金は、航空機産業で20歳未満の第三級労務者(非熟練工)で、男性13.3銭、女性10.6銭。
ただ、固定給部分が低く抑えられ、加給部分が大きいから格差は更に拡大。
男性なら加給率200%も珍しくない。

ちなみに、挺身隊員の場合は、給与ではなく謝金とされ、最初の三ヶ月は8時間労働で日給0.75円~1.15円だった。
(しょうもない知識を披露するスレ10:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

戦時中の日本は金属回収をやってたそうですが、どんな金属が回収されたの?

金属回収で、エレベータの鉄の籠まで供出したりしたのは結構有名。
他に、金の供出、銀製品の回収、白金回収もやっていた。
このほか、木炭を包んだ俵、それを縛った紐、棕櫚の皮も回収の対象。
茶殻は馬糧にする運動も行われている。

更に、1944年末以降、綿製品、特に布団類の回収と言うのも行われている。
これは、綿火薬の原料にするためだったりする。
1945年からはアルミ貨の回収も進んだり。

  • 金属製品家庭等回収実施要領(長野県の場合)
回収の対象…官庁、公共団体、一般家庭及び非指定施設の保有するアルミニウム(アルマイトを含む)製品、
鉄鋼製品、銅製品、鉛製品、アンチモン製品、錫製品など全金属製品に付き廃品は不要、
不急品代替容易なるものを主とするも、現用品も極力圧縮回収す。

回収物件…鉄鋼、銅、鉛、アンチモン、錫などにして従来の回収物件の残存物件全部。
アルミニウム製品は、戦時家庭生活の維持に必要なる最低量の器具を除き、全部供出。

 アルミニウムに関する供出物件
全量回収 → 喫煙用器具、文房具、化粧用品、花器、電灯笠、茶器、置物他装飾品、
玩具、箸、箸箱、帽子掛、押板、蹴板、階段滑止め、ローソク立、盆、コップ、其の他廃品類
仕様を極力圧縮して供出 → 鍋釜類、湯沸、弁当箱、水筒、其の他厨房用品

 対価(但し献納を妨げず)
   アルミニウム → 1貫(3.75kg)に付15円
   鉄        → 同 2円
   銅及び銅合金 → 同 20円
   鉛、アンチモン → 同 20円
   錫及び錫合金 → 同 50円

こうして回収された金属製品だったが、その対価の支払いは、戦力増強用の貯金に回され、
各人の手に渡ることがなかった。
(しょうもない知識を披露するスレ10:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

本土決戦のために弓矢を装備した部隊があったそうですが。

1945年の末期的症状の日本。

西部軍は本土上陸を想定した場合、待ち伏せ襲撃、夜間襲撃、破壊活動を行うために700~800名の兵士からなる、
70~80のゲリラ戦部隊を確保していた。
既に民間の防衛団に対し、200本の弓、800本の矢を引渡し、更に800本の矢を司令部にて保管していた。

その威力を確かめるべく、1945年8月10日、連合国側兵士8人の処刑の際、1人に対して矢を15本用いたが、
失敗し、結局、袈裟懸けした後、斬首をせざるを得なかった。
なお、本土上陸に対抗するため、弓矢を用いるほかに、一般人を装って空手で敵軍兵士に攻撃を加えると言う
ことも考えられ、この処刑の際に、2名に対して1人は6名が空手で、残りの1人は10名が空手で攻撃を掛けたが、
これにも失敗して、結局2人とも斬首せざるを得なかった。
(しょうもない知識を披露するスレ11:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

戦時経済について知りたいです。

財政と戦争の観点から太平洋戦争を論んじた本てあるの?
日本が戦争で勝っていても国債と軍票の払い戻しで超インフレは免れず、国は潰れていただろうと思うんだけど。
昭和財政史がありますけど、お手軽なのは、多田井喜生氏の著書でしょう。
東洋経済新報社から1997年に出版された、「大陸に渡った円の興亡」、PHP新書で2002年に
出版された、「朝鮮銀行-ある円通貨圏の興亡」なんか、その辺の事を分かり易く記しています。

軍票は占領地域に於ける軍人軍属の棒給以外に、現地人への一時的な支払いに充てる為に使用されたので、
占領が一定期間に及ぶと回収されます。

例えば、満州では、満州中央銀行券、華北では、日華事変当初は朝鮮銀行券、後には河北銀行券を経て、
中国連合準備銀行券、華南では軍票から中央儲備銀行券、フィリピン、インドネシア、マラヤ、北ボルネオでは、
軍票から南方開発金庫券、インドシナでは、印度支那銀行券ピアストル貨、タイでは、泰国銀行バーツ貨と
なっています。
軍票がほぼずっと使用されていたのは、華中地域で、最初は日銀券が使われ、以降は軍票が使用されました。

占領区域では、各地域毎の独立会計として、日本の財政とは切り離され、財政の自立を図っています。
租税は占領前を基準に課税し、不足分は南方開発金庫からの借り入れと、臨時軍事費からの補給金に拠って
補填されています。

これに加えて、現地での作戦費用に関しても、日本の財政に直接影響を与えないようになっています。

例えば、南方開発金庫は、営業資金を臨時軍事費特別会計から借り入れますが、それは各地域の現地通貨表示の
軍票で借り入れ、これを資源開発事業や現地日本側銀行を通じて貸し付け、企業は軍に納品したものを軍票で受取、
南方開発金庫に返済、南方開発金庫は、これを臨時軍事費特別会計の借り入れ返済に充てていました。

中国地域でもこれは同じで、日本銀行から、正金銀行を経由して臨時特別費特別会計が支出されると、
朝鮮銀行東京支店に送金されます。
引き替えに、朝鮮銀行東京支店は、同額の国債を日銀から購入します。
これで、収支は相償い、朝鮮銀行東京支店は、北京支店にこの日銀から支出された軍事費を送金します。
朝鮮銀行北京支店には、中国連合準備銀行名義の預金口座があり、送金を受けた金額を、預金口座に貸記します。
中国連合準備銀行にも、朝鮮銀行名義の預金口座があり、送金額と同額を預金口座に貸記します。
これで、現金が動くことなく、いわば架空預金の遣り取り(預け合い契約)となっていました。
でもって、現地軍は、中国連合準備銀行にある、朝鮮銀行の預金口座から、連銀券で支払いを受ける、と。

つまり、円は全然発行されず、連銀券だけが無闇に発行されるという仕組みです。
これと同じ契約は、横浜正金銀行と中央儲備銀行との間、朝鮮銀行と正金銀行との間に結ばれており、
中国地域のインフレ進行は加速された訳です。

敗戦間際の1945年、外資金庫が設立されます。

これは、大蔵省次官を理事長、主計局長、外資局長、日銀、正金、鮮銀、南発の代表者を理事として、
本店を大蔵省外資局内に置き、代理店を正金銀行上海支店、張家口支店内、朝鮮銀行北京支店内、
南方開発金庫各支店内に置いた上、本店業務は大蔵省外資局が行いました。
これは、実態のない帳簿上の金融機関で、臨時軍事費特別会計中の物件費支払いの際、予算金額
では、現地がインフレの為に到底間に合わないので、予算の10~30倍、最終的には130倍近くに上る
差額を価格調整金の名目で、支払う為に、作られた金融機関です。

Bubble崩壊後のRSECですっけ、そんな香具師の嚆矢でつね。
この金額決済は、例によって、預け合いで最終的に5,000億円を決済しました。
これらの清算は最終的に、正金銀行が、天津相場を基準にして、上海に持っていた金塊約50トンを売り抜け
て、日本側の債務を全て弁済したことにしています。
これで、戦後の大陸のインフレをモロに被らなくて済んだ訳です。
要は高い時に借りた金を、安くなって現地通貨が紙くずと化しつつある時に返済した、と言う訳です。

ちなみに、日本人の認識では、「我が国に皇室のおわします限り、幾ら紙幣を増発してもインフレにならぬ」
とか、「公債の発行は無限に出来る」と言う「皇国国債観」、と言うのが罷り通っていたり。
無茶苦茶で御座いますわな。
(軍票スレ:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

石油不足に対して日本はどんな代替燃料を使用していたの?

J・B・コーヘン著「戦時戦後の日本経済」より引用。
「大豆油、落花生油、椰子油、及びひまし油が産業用に使用された。
 メタノール、エタノール及びアセトンがガソリンに代用された。
 ブタノールはイソオクタン原料としても使われ、また直接ガソリンに混用された。
 潤滑油は各種の植物油又は脂肪から造られた。
 民間の馬鈴薯、砂糖、酒等のストックはアルコール燃料として引き上げられた。
 生ゴムから油を採ることも行われた。

 絶望的になった海軍は夢想的な松根油計画に着手した。
 『二百の松根は一機を一時間飛ばすことが出来る』というスローガンの下に全国民を
 松根堀に駆り出した。
 約34,000の釜や蒸留器や小さな蒸留装置が準備され、各一日3~4ガロンの粗油を
 出すように計画された。
 これに要する労力は驚くべきものであった。
 松根油1ガロンの生産に2.5日の労力が要った。
 この計画の絶頂では一日当たり12,000バレルの粗油を予定していたから、一日当たり
 125万人を要するはずであった。
 1945年6月には、松根粗油の月産は70,000バレルに達していたが、精製上の難点は解決
 されていなかった。

 終戦時までに航空機用の予定で生産されたガソリンは3,000バレルに過ぎず、それも実際
 に飛行機に実用した形跡は無かった。

 合衆国陸軍が試験的にジープで使ってみると、数日にしてエンジンが止まって使い物に
 ならなくなった。」

毛沢東の村営溶鉱炉を我々は笑えんです。
(泣ける話@軍事板第4章::眠い人 ◆ikaJHtf2)

南雲がミッドウエーでは大敗したものの、南太平洋沖海戦では勝利したのに、その後左遷のようにサイパンに送られたのはどうしてですか?

機動部隊の後で第1艦隊司令長官やら、呉鎮守府長官やらを経て、南雲がまた前線に出たいと希望
方面艦隊司令長官として、サイパンに赴任する訳で
陸軍で言えば方面軍司令官に相当するし、別に左遷ではないぞ
軍艦の艦長が連隊長相当、戦隊司令官が旅団長、艦隊司令長官が師団長か軍司令官と考えれば
(俺初質スレ2049:728)
古賀が遭難して、後任に豊田が決まった時に、豊田は自分より適任がいると
暗に南雲を推薦してるので、この時点で南雲がGF司令長官になった可能性もあった
山本が32期で古賀が34期、南雲は36期だからね
豊田は古賀より先輩の33期なのに、古賀の後任になったから、そこが不満だったのかも
(俺初質スレ2049:729)

石原莞爾が太平洋戦争の指揮をとっていれば、戦局は少しはマシになっていたんでしょうか?

支那事変が発生した時に現地軍へやめろと言いに行ったら、あんたと同じ事やっただけだよとバカにされてるくらいだから、
どう考えても抑えられないだろ。
(俺初質スレ2049:999)

ガダルカナルって、バナナとかヤシの実とかの人が食べれる植物は自生していなかったんでしょうか?

現地人の畑じゃないとうまい具合にはない。
野生種を見つけたとしてもとても部隊の需要は満たせない
戦闘中に探してる余裕もない
ジャングルってのは緑の砂漠っていわれるぐらいで
食べれる植物はそんなにない
(俺初質スレ2050:モッティ ◆uSDglizB3o)
俺も南方のことはよく知らんけど現にあれだけ餓死者を出してるってことは無いんだろ多分
ただガ島みたいに戦争しながらやるのは無理だが、後期のラバウルみたいに連合軍から放置されてた島では芋の栽培とかしてたらしいが
(俺初質スレ2050:225)
あるにはあるがそういうものはものすごい高い木の上にあったりしそもそもほとんどの日本人は
熱帯の植物のどれが食べられるのかわからないし食べられるものを見つけられない
また熱帯の植物は有毒のものが多く知識なしでは危険だ
台湾の原住民の高砂族出身の兵隊はそういう知識があったから見つけられたが
彼らはごく少数しかいなかった
(俺初質スレ2050:228)
マジレスすると数万人いる兵に対して、自生してる分だけでは供給量が足りず、数日で食い尽くしてしまう
つまり供給量に対して人口密度が高すぎる
数十人なら賄えても、数万人は賄えなかったから飢えた
村自体数十人の集落しかなく、数万人分の食糧提供はできない
(俺初質スレ2050:234)

太平洋戦争の時、戦況に関する緘口令とかあったんですか?

当然あるし、それどころか、どこへ行ってきたか家族に言うのも禁止されてた。
(俺初質スレ2050:279)

太平洋戦争で日本はアメリカと早期講和は可能だったのですか?

ほとんど無理だと思うが、アメリカ次第だな
「早期」講和って事は日本軍が攻めまくって、ハワイはもちろん米本土が脅かされるくらいでないと無理だろう
むしろ早期講和でなく、ベトナムみたいに10年以上粘って、それでも勝敗が見えないような、泥沼状態の方が講和に繋がるかもしれないな
できる限り出血を強いて、50万とか100万単位の戦死者を出せばあるいは
それが日本にできるかは疑問だけど
(俺初質スレ436:880)
最近、ハワイなんざ無理に攻め込まず、フィリピンだけ占領して持久体制に持ち込めば
米内部で勝手にフィリピン奪還に米兵士の生命を消費する意義があるかという議論が
起きて早期講和につながったんじゃないかと想像してる
(俺初質スレ436:881)
結局ルーズベルトが大統領な限り無理、あいつの人種差別観は20世紀最悪レベル
ぶっちゃけヒトラー以下
(俺初質スレ436:885)



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