軍事板初心者質問スレまとめ(FAQ)

降伏関連

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匿名ユーザー

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日本が最後の一兵まで戦う覚悟ならアメリカは日本を無条件降伏させることは不可能だったんですか?

最後の一人まで殺されちゃったら、誰が降伏するの?っていう突っ込みじゃだめかな。

冗談はさておき、ゲリラ戦をやるには通常
1.休養や訓練が可能な安全地帯
2.地元住民の支持
3.武器や弾薬、食料などを供給してくれる大国の支援
の三つが不可欠といわれます。

アフガンのムジャヒディンにとってはパキスタンが安全地帯にあたり
ソ連軍およびその傀儡政府への反発から、住民からの支持が得られ
かつアメリカや他のムスリム諸国による大規模な援助がありました。

終戦間際の日本軍じゃ、せいぜい住民の支持くらいしかないので、
到底ゲリラ戦の継続は不可能じゃないでしょうか?
(61:予備語学陸曹見習い)
ベトナム戦争をモデルケースとして考える事は可能でしょうか?
檜山 良昭という人の書いた「日本本土決戦」という本を読みましょう。

ほぼ、この本に書いてあるのと同じ展開になったはず。
(93:570)
ベトナム戦争時の中ソのような潤沢な支援をしてくれる国が無いし、
アメリカも政治的配慮なんてことはせず遠慮無しで来るので、
ベトナムを参考にするのは無理があると思われ。
(93:571)

原爆の投下があったかないかでオリンピック作戦の有無は変わったんでしょうか

アメリカ側の言い分(トルーマンの演説)では「オリンピック作戦を不要にするために原爆を投下した」とのこと
(76:534)

日本軍の兵士が降伏して捕虜になった事がバレた場合、その兵士の家族が社会的制裁を受けるって本当ですか?

対戦国の赤十字が日本赤十字に捕虜にしたというのを
通達して、その結果あーだこーだというのはあったらしいな。
真珠湾の酒巻少尉の場合もそういうパターンだと聞いたことがある。

何の本で読んだか思い出せないのでソースは出せない。ごめん
(85:216)
いわゆる「村八分」レベルの社会的制裁なら有りうると思うが、漏れは実状を
書いた資料は知らないでつ。
ただ、捕虜になった日本兵を尋問する際の最も効果的な脅し文句は
「白状しないとお前が捕虜になったことを日本へ知らせるけど、それで良いの?」
だったらしいでつ。
(文藝春秋「日本兵捕虜は何をしゃべったか」より)
(85:241)

ソビエトの満州侵攻の際、関東軍って居留民を助けることなく一番に逃げ出したと巷で言われていますが、信じていいのかな?

関東軍の各要塞守備隊は最後まで頑強に抗戦、赤軍を足止めする事に成功しています。

また、樺太及び千島諸島での抗戦が無ければ北海道は人民共和国になっていたでしょう。
(91:196)
まあ実際は南方戦線に戦力を抽出しちゃったおかげで、精強ソ連軍相手にしちゃ、ろくに戦える兵力が残ってなかったってのが正解。
残ってた連中は >>196 にもあるように、猛烈な抵抗を見せたのもいる。「虎頭要塞」あたりでぐぐってみてくれ。
もちろんとっとと逃げちゃったヤツもいたんだが…
(91:199)

アメリカに負けたのは、物資力や軍事力ではありません。皇国史観が、民主主義に負けたのです。

このような主張をしている人をがいるのですが彼の言う事は正しいのでしょうか?
そもそも皇国史観と民主主義が正面から対立する概念なのか?
(93:317)
史観というか、国家・国民のシステムでも効率の悪いものだったし、
それとは別に資源も軍事力も無かった。
それらは互いに連動し、影響を与え合うナマモノだから、
民主主義のみを取り出して勝敗の最大の理由にはできない。

例えば民主主義とはほど遠い旧ソビエトでも、
民主主義国家の代表を自称するアメリカと
半世紀にわたって軍事的均衡を維持できていました。

仮に戦前の日本が超良質の民主主義国家だったとしても
やっぱりアメリカ相手には勝てなかっただろうし。
(そういう国ならそもそもあんな無謀なことはしなかったでしょうけれど)
(93:318)
非常に価値観が絡むので、ここですべき質問ではないかもしれません。

ただ、よく旧軍と米軍の対比で言われているのは、
  • 旧軍は、兵站管理の観念が著しく欠如していた。
  • 行動にあたっての計画の前提になるべき、情報収集・分析を軽視していた
  • 戦闘においても精神主義と白兵突撃に偏重し、火力や科学的態度を軽視しすぎた
  • 精神主義偏重の傾向は、米軍のようにドクトリンを柔軟に変更・発展させるための学習的態度をスポイルした

…などということでしょう。
これらは、皇国史観と民主主義などという価値以前の問題でしょう。
軍事における科学的態度や合理性の欠如・不足が敗因だったと言えるのではないかと思われます。
まあ精神主義の偏重に皇国史観が影響を与えているとも言えるでしょうけれど…。
(93:319)

ポツダム宣言は無条件降伏ではなくて有条件降伏だったって本当でしょうか?

第13条にはっきり「無条件降伏」って書いてありますね。
(94:44)

太平洋戦争末期にソ連の捕虜になった日本人の中で、男はソ連の女兵士にレイプされたという話を聞いたのですが本当ですか?

歌手で元浪曲師の三波晴夫はソ連抑留時代に女性士官にケジラミの治療をする
からフンドシを下ろせっといわれてスッパダカになったらレイプされたそうです。
(108:48)

大戦後に日本国が賠償金を払った国を教えてください。

賠償金の一般的な定義、つまり戦勝国による敗戦国からの徴収、という意味であれば
サンフランシスコ条約によって連合国側は対日賠償請求権を放棄しており、
したがって払われた賠償金はありません。
(109:system)
極東委員会の主張は、GHQと違って「国民投票の実施」を要求したと聞きましたが、本当ですか?
憲法の制定については、「国民の自由意志を明確に表す方法による」と極東委員会は考えていました。

また、何故極東委員会の主張が無視されたのですか?
GHQと極東委員会の関係については、豊下楢彦『日本占領管理体制の成立』 岩波書店でも読んでください。
かなり詳しく述べられています。

あと、国会における第9条の論争は、日本国憲法案が衆議院に上程される時から既に起きていたというのは本当ですか?
憲法第九条に関する想定問答集を法制局が作成してることからして本当。

ポインタは面倒だから示さない。本気で勉強したいと思ってるんだったら
国立国会図書館のwebページにある「日本国憲法の誕生」読めばいい勉強になると思う。
(109:172)

第二次世界大戦での日本の降伏って、原爆投下とソ連対日参戦のどちらのほうが決め手になったのでしょうか?

間違いなくソ連参戦。
軍の一部ではソ連を仲介にして連合国との和平交渉を進める案があったから、
それが反故になったソ連参戦は日本の戦意を砕いた。
(111:26)
ちょっと調べればわかることですが、原爆の投下は日本首脳部の戦争指導に、
ほとんど影響を与えていません。

それに対して、ソ連の参戦は非常に大きな打撃を与えています。
理由は>>26氏の言うとおりです。ただ、軍の一部ではなくて、政府全体が、
ソ連を仲介とした和平交渉に一縷の望みをつないでいたわけですが。
(111:29)
原爆投下がほとんど政府の戦争指導に影響しなかったってのはどうかね?
たしかに1発目の後は「こんなの一回こっきりに決まってる」てんで
影響はあまり無かったかもしれんが、2発目の後は
「やばい、3発目、4発目の可能性がある。
次を東京に落とされたら国体の継続が(ry」ってのがあった。
(111:47)

山本五十六元帥は、戦犯訴追されたでしょうか。

されていません。
(116:798)


日本軍はマリアナ沖海戦で破れ,サイパン,テニアン,グァムが落ちた時点で何故,降伏し講和条約を結ぶような政策をとらなかったのですか?

ウェデマイヤー・レポート(ウェデマイヤー著「第2次大戦に勝者なし」)によれば
チャーチルとルーズベルトが無能だったから。
無条件降伏など要求しなかったら早期講和が可能だったはずであり、
ソ連の牽制にもなって冷戦そのものもなかったはずだとしている。
ナポレオン戦争と第一次世界大戦を比べても、民主主義は戦争には強いが、
戦争の理性的解決には不向きだとわかる。
激高した民衆がいかに困ったものかは日露戦役で経験ずみ。

講和と言うのは負けている側から切り出す場合、それ相応に不利な条件となるのは当然ですし
国民は未だ日本が勝っていると信じ込まされており
更にさほど大規模な戦闘を経験していない陸軍が講和を受け入れるとは考えられません。
「日本」と簡単に一言で言っても、意思決定に国内の複数の組織や人間の考えが絡んできて
単純に決定を下せるものではありません。

また米国側にしても、フィリピン等の植民地を押さえられた状態での講和を受け入れるのは困難でしょう。

その後の戦いの惨禍や犠牲が結局は空しかったという考え方は、全て戦後に生きる我々だからこそ可能なものであり
それを持って
「あの時戦いをやめていれば」
と軽々に考えるのは、後世に生きる我々の傲慢と言えるかも知れません。
(270:925-968)

日本はいつごろから降伏の検討はじめたの?

昭和20年4月くらいからはソ連経由での講和が模索されてるけど、
ソ連経由の講和が絡まない方法での降伏が検討されてるのは
昭和20年8月くらいから。

1945年2月に近衛文麿が天皇に降伏交渉を上奏。
しかし天皇は「もう一度戦果をあげてからでないと話は難しいと思う」と拒否。
(実際8月でさえクーデター騒ぎが起っているし・・宮城事件)

その後の半年のうちに、沖縄戦、各地の空襲、原爆投下があって、南方戦線でも多数の餓死が発生。
多くの日本の戦死者、とくに民間人犠牲者のほとんどはこの半年に集中して死んだ(- 人 -)
(降伏遅すぎスレ176-178)

太平洋戦争でどうしてアメリカは日本の希望通りの一億総玉砕をさせなかったんですか?

日本の希望通り
まずこれが間違い。
戦争末期の日本の上層部の意図は有条件降伏を勝ち得るまでの継戦派と
無条件降伏を呑んでも終戦にしたい講和派に分かれていた。
が、両派とも可能ならば有条件の方が望ましかったのはいうまでもない。
それが可能だったかどうかは別として。

一方、アメリカの上層部は政治的にも自由が利く無条件降伏を強いる方針で
ほぼ固まっていたといってよい。
アメリカにとってみれば日本の敗北は必至だったので、
わざわざ妥協してもメリットがなかった訳だ。
で、アメリカとしては勝ちが決まっている以上、
余計な消耗や政治的な負い目を背負いたくない。
民族浄化が目的の戦争だった訳でも無し、
もし日本が無条件降伏してくれる事になったなら
それ以上の戦いは無意味でしかないからな。

つまり一億玉砕とかいうのは国民を煽ってただけ?

朝日新聞がね
(初心者スレ472)

日本のマスコミも政治家も軍部も天皇も
責任があるのは間違いないだろう
(軍事板FAQ作成本部2)

日本は天皇陛下の命の保障を条件に降伏したと聞いたけど、ポツダム宣言内に天皇の命の保障を行う旨の分が無い様なのですが、命の保障を条件に降伏ってのはうそですか?

ウソっていうか、そのへん複雑なんですよ。

日本側「天皇制は維持できるんならポツダム宣言を受領するよ」
連合国「天皇および政府の国家権限は連合国最高司令官にsubject toされるものとする」

日本・外務省「subject toは「制限の元におかれる」だよ。天皇制維持はOK、さあ調印しようぜ」
日本・陸軍省「subject toは「隷属する」だ!天皇制は維持できない!徹底抗戦だ!」

まあなんとかなったのですが、「天皇制の保証」があったのかなかったのかは微妙な所です。
外務省の絶妙な訳はともかく、subject toってのはわりと強い言い方ですので
「保証はされてはいなかった」というのが実際でしょう。

一応ダレスを通じて保証めいたものはあった。
ただ天皇を処分しようとする親中派がいたから、
完全にアメリカ内部がまとまってたわけではない。
グルーなんかが必死で頑張ってくれたおかげでなんとかなったけどね。
(162:357-358)

イタリアが第2次大戦の戦勝国として,日本が降伏の調印式をした戦艦「ミズーリ」の上に来てたって本当ですか?


 イタリアは戦勝国とは言えません..
 終戦直前にイタリア内でファシスト党政権を倒したことから,「敗戦」したのは「ファシスト・イタリア」であり,それを倒したイタリアは「戦勝国」だ,ということになってはいますが,ソ連に1億ドル,アルバニアに5000万ドル,エチオピアに2500万ドル,ギリシャに1億5000万ドル,ユーゴスラビアに1億2500万ドルの賠償金を支払い,全ての海外植民地を失い,トリエステは1953年まで連合国の占領下に置かれるなど,実質的には敗戦国扱いでした.
 「ミズーリ」の調印式に代表を送った連合国は,合衆国,中華民国,大英帝国,ソビエト連邦,オーストラリア連邦,カナダ連邦,フランス共和国,オランダ王国,ニュージーランド自治領の9カ国で,イタリア王国は含まれていません.

(永遠の青 ◆V9k1yZSe4M in 世界史板)

山下将軍が,連合国記者たちの圧倒的無罪予想に反して死刑になったのはなぜなのでしょうか?


 マッカーサーの個人的な復讐.
 彼が総督時代に貯めた個人資産が山ほどあるフィリピンで,最後の最後まで粘られたから,心中は穏やかでは無いだろう.
 マッカーサーとマッカーサー一族はフィリピンでマニラを中心に一大コンツェルンを築いていた.
 中心に親族が経営する高級ホテルと銀行があり,フィリピン経済の一角を占めていた.
 日本軍はフィリピンでのアメリカ権益を解体した.
 マッカーサーはこのせいで,合衆国での多数派工作に失敗しており,合衆国議会や大統領を経由させず,直接海軍に接近して自分の目標を通すというテクまで編み出している.

 後,自分がやったマニラへの無差別爆撃を彼に押し付ける為.
 他にも,海軍部隊が,将軍の出したマニラ無防備都市宣言に従わず居残ってやったマニラ防衛戦,果ては末端の兵士の残虐行為まで押し付けた.

 こう言う公私混同は,マッカーサーを知る者にとっては別段珍しくない.
 フィリピン上陸を格好良く写す為に上陸後に撮影させたり,その時の銅像を作ったりと,枚挙に暇が無い.
 故に下は一兵卒,上は大統領にまで嫌われた.

仮に東京裁判において当時の日本の国内法を適用するとしたら,A級戦犯として裁かれた人々は何らかの形で有罪の判決を受ける可能性はあったのでしょうか?

 例えば陸軍,海軍刑法などで有罪を宣告されることとなったんでしょうか?

 東京裁判とは違う日本の自主的な裁判で有罪の判決を受ける可能性はありました.

 日本側にはもともと自主裁判による戦犯処理の構想がありました.
 ポツダム宣言の第十条に戦争犯罪人の処罰が明記されていることや,ドイツのニュルンベルク裁判の開廷に関する情報などから日本でも同様の戦犯処理が行われるであろう事は予想されていました.

 45年9月11日に東條英機などが逮捕されるに至った後,9月13日には重光外相がマッカーサーに自主裁判の申し入れが行われましたが,マッカーサーはこれを拒否しています.
 その後も「バターン死の行進」の責任者であるとされた本間雅春中将の礼遇停止など,自主裁判を行う動きを見せますが,これらはすべて徒労に終わっています.

(名無し軍曹◆Sgt/Z4fqbE)

ドイツや日本の部隊が降伏の軍使を送ってきた時、ソ連兵は何故即座に撃ち殺したのでしょうか?

1)敵の降伏を認めないという、命令が下されていた。
2)政治将校がいたりして、教条的な戦闘に終始していた軍隊なので、
現場で対応する事が不可能なくらいに硬直した命令体系が、そうさせた。
3)下手にものを考えると、粛清される可能性が大きくなるから。

こんな感じでしょうか。
(25:26)

関東軍の話です。南方に移動する最中に終戦になったというのは本当ですか?

関東軍は大戦勃発から徐々に南方へと抽出されています。
昭和19年以降は在満師団17個のうち10個が南方に転用されました。
故に、将校は中隊長一名の歩兵中隊とか砲兵連隊なのに砲はないと言う状況になりました。

此処にいたって、関東軍は守りに転じました。
年末には僅か精鋭4個師団のみ。
それも昭和20年3月には転出し、関東軍は根こそぎ動員を掛けざるを得なくなりました。
24個師団を作りましたが、それまでの精鋭を1として当時の戦力は8.5個分にしかならなくなっています。
(26:眠い人 ◆ikaJHtf2)
同様に大陸に派遣された戦車連隊も、戦車を南方に抽出され戦車のない
戦車連隊になり、所属兵員は海軍に配属されました。
機械に明るいだろうっていう理由で、学童疎開輸送船の機関部員になり
無事復員し、去年末他界なされました。
第17戦車連隊第3中隊で、戦友会は白梅会でした。形見分けで資料(戦後の
会報など)を頂きました。中にはシナで作戦別の戦死者数もありました。
まだ全部見てませんが、中国での記録は少ないようです。
オモシロイのはお袋ので、赤十字引き揚げ作戦の簡単な記録かな。
(26:一等自営業 ◆kawD31MU)

仮に昭和20年8月15日に停戦に至らなかったとしたら、何日後くらいに本土決戦になっていたのでしょうか?

米軍の本土上陸は9月下旬から10月に予定されておりました
(36:814)

終戦の日がお盆時期なのは偶然ですか?

お盆に重なったのは、偶然としか言い様がありません。
原爆投下のタイミングは、ソ連の対日参戦をけん制するものでしたし、ソ連の対日参戦
は、ナチスドイツの降伏と不可分だからです。
(38:111)

終戦になり米軍が降伏勧告に来たとき、降伏の交渉にあたった海軍部隊副官・中村虎彦中佐の対応ぶりに感服した米司令官は何に感服したのですか?

海兵同期の吉田俊雄氏が氏を激賞しており、光文社NF文庫の「指揮官たちの太平洋戦争」などの
著作にたびたび掲載されているので、それを読んでいただいたほうが早いと思います。
ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4769821344/qid=1043672271/sr=1-11/ref=sr_1_2_11/250-3012153-1122634

大雑把に言えば、武装解除を担当した米軍が守備隊に戦利品として日本国旗などを要求した際、
中村氏は米軍指揮官に要求の非礼さを説き、米軍が自分の非を認め、中佐の言に感服したというところでしょうか。
(62:174)

韓国が二次大戦終了後、戦勝国となったというのは本当ですか?

大韓民国の建国は1948年。それまでは半島は日本の領土。
(61:855)
亡命政府らしきものが、上海にあり(後に重慶に疎開)軍隊らしきものも存在していたらしいが
1945年に大韓民国の成立がなかったことでわかるように
泡沫組織だったらしい。
(61:859)
サンフランシスコ講和条約を調印した国は日本を含む46カ国です。
その中には大韓帝国もしくは大韓民国は含まれていません。
また、日本と韓国には日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約 (日韓基本条約)
が締結されており、戦争状態などではありません。
(61:868)

何で日本あんな屈辱的な条約を飲んだんですか?

理由はいろいろあるけれど、戦争は全滅するまでやるようなモンではない。
人間はケモノじゃないんだから理性で引き際を悟れる。それでもあれは遅すぎたかも知れんが。

ふつう、戦争で自軍の損害が総数の10%を超えたら、勝っていても手放しでは喜べない。
自軍被害が全体の15%を越えたらもう危険、20%を越えたらレッドゾーン。30%に達したら降伏すべき。
状況にもよるが、一応はそれくらいの感覚でいたほうがいいよ。ゲームじゃないんだし。
(66:78)

第二次大戦末期に、駆け込みで日本に宣戦布告してそのままの国って有るんでしょうか?

確かソ連(ロシア)とは講和条約が締結されていないはずです。
(68:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

「巣鴨の刑務所」とは一体なんですか?

巣鴨プリズンは東京裁判の際に戦犯の収容所となりました
あなたのおじいさんは、おそらくBC級戦犯だったのではないでしょうか?
ただ、憲兵隊員が戦犯に問われた例は極めて珍しいというか、私は実例を
知らないので違っているかもしれません
(75:600)

第二次世界大戦でアメリカが日本に原爆を落としたのは、日本の土地をロシアに取られないため?

原爆を落としたため、その後始末のため、日本はアメリカの支配下になった。
原爆投下には一般的に
  • ソ連を牽制するため
  • 日本本土での地上戦(本土決戦)を避けて日本を屈服させるため
  • 原子爆弾の実地実験
などを中心に、さまざまな理由付けが史家によって行われています。

ただ、
原爆を落としたことの後始末
という説は寡聞にして聞きません(「後始末」の指す意味も明確ではないですし)。

ネット上では一般的に受け入れられがたい説も跳梁していますので、
何でもネットに頼るより、素直に冷戦前後を扱った歴史書を
探すことをお薦めします。概説書から始めるのでも構わないので。
(91:90)
そうだね。原爆の投下と関わりなく半島の分割は決定されていた。
日本もそうなる恐れはあったが、当時既にその萌芽を見せていた
東西対立の結果、太平洋で主導権を握っていた西側陣営に属することになった。
というところでしょう。もう半年早ければ、ソ連の占領軍が
北海道に傀儡政権をでっち上げていたかも知れず。原爆投下云々よりも
日本が8月15日まで粘ったことが、統一された日本を保証した
といってもばちは当たらないでしょう。
(91:91)
日本政府は別に粘った訳じゃない。
和平工作でソ連を当てにしていたら、そのソ連に攻め込まれたので、
やむなくポツダム宣言を受け入れただけ。
当時の外交関係者のそれに関する本を読んでごらん。

もしソ連の侵攻が遅れていたら、第3の原爆投弾もありえただろうし、
九州上陸作戦ないし関東上陸作戦が行われていた可能性もある。
(91:95)
ちなみにソ連軍は日本が無条件降伏したあとも平気で侵攻を続けている。
不凍港目当てに北海道を狙っていたからね
北海道に赤旗が立たなかったのは占守島で大失敗したから
(91:100)

太平洋戦争中期に日本の軍部は絶対国防圏を定めたわけですが、あ号作戦でマリアナで完敗し、サイパンを奪取されて絶対国防圏は崩れたわけですから、

なぜこの時点で大本営は敗戦を認めなかったのでしょうか?
絶対国防圏ってのは、ひょっとしてただのお題目にすぎなかったと?
まあ、お題目、建前といってしまえばそれまでなんですが…。
とは言え、東條内閣の倒閣運動に繋がっているわけですから、
決して政治的な衝撃は小さくありませんでした。
(同時期のインパール戦の敗北と合わせてになりますが)

海軍も空母を失って大敗勢の上、
ようやく飛び立てるくらいにまで育てた、
空母艦載機の搭乗員に壊滅的ダメージを受けました。

実際のところ、もはや敗戦を認めてもおかしくはない状況です。

実際、東條内閣の倒閣によって成立した小磯内閣は、
ソ連およびスイスを和平の仲介を打診し始めます。

しかしながら、少なくとも英米は1943年のカイロ宣言で、
枢軸国の無条件降伏まで戦争を継続するという路線で一致していました。
そして、ソ連はソ連で、日本の和平仲介の要請をのらりくらりの態度でいなし、
その一方で、対独戦の貫徹を期しています。
そして、よほど対独戦の状況が悪くもならない限り、基本的には反枢軸の態度は、
揺るぎがなかったでしょう。

すなわち、絶対国防圏を突破されたことで敗勢を認めて、和平したい…
しかし、各国は、もうそんなことは認めない…
そういう外交条件、戦略条件となっていたわけです。
(95:173)

なんで東京裁判では陸軍に重く海軍に軽かったのでしょうか?

陸・海以前に東京裁判は戦争責任を追求したモノだから。
実際は戦争責任つーか見せしめ的要素が強いことは今日もよく知られていますが。
(99:331)
戦争責任は別に戦った当事者だから罰するというようなものではないから。
海軍が米国の主な相手だから海軍を主に罰する、なんて無意味な事はしない。
処罰された人の役職、果たした役割で見るように。
(99:339)
アメリカは「シビリアンコントロール」を重視していますが
それを根底から覆す「統帥権」の徹底排除のため陸軍に
比重を置いたものと本で読んだ事があるなぁ
(99:342)
有罪の判定を受けた訴因別に調べれば役職が低い被告の極刑の理由もわかる。

ちなみに開戦時の軍令部総長、永野修身は裁判中に病死しているのでセーフだとは限らない。
(99:348)

シベリアに強制連行された日本兵は日中戦争で徴兵された人も連れて行かれたんですか?

いらっしゃると思います。そういった方々は、一度除隊後再召集・再々召集を受けて
戦地に送られた人です。
兵士は除隊後予備役に編入されましたが、これは即召集が可能であり再召集・再々召集を
受けた方は多くいました。

徴兵された日本人の学歴はどうなのですか?
ピンきりです。尋常小学校しか出ていない人もいれば、学徒出陣で出征した一兵卒の大学生もいますし。
最も、当時の日本では中学以上に進学するものはそう多くいませんでしたが。
陸軍では中学校以上を卒業しているものには可能な限り幹部候補生の試験を受けさせて
士官や下士官への道を開いていました。

10代20代なのですか?
徴兵は満20歳からです。ただし昭和18年から満19歳に繰り下げになりました。
パイロットや戦車兵など専門教育が必要な部隊には18~19歳の兵士もいました。
再召集・再々召集を受けた方には30代の方も多く、末期(昭和18年以降)には45歳までは
徴兵が可能だったため、(当時として)かなりの年配の方もいたようです。
(105:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
ソ連軍が満州に侵攻した時点で関東軍に属し、かつ捕虜または投降した軍人が抑留された。
戦前及び中期までは関東軍は帝国陸軍でも精鋭部隊だったが、南方の戦況の悪化に伴ってどんどん兵員を引き抜かれた。
さらに末期には本土決戦に備えさらに兵力が引き抜かれたため、
現地に入植していた日本人から徴兵する状態になっており、戦力は大幅に減少していた。
たとえば司馬遼太郎(本名福田定一)が将校として勤めていた戦車部隊も、末期に日本に呼び戻されている。
このため侵攻直前まで民間人だったのに、徴兵されたばかりにシベリア抑留の憂き目に会った日本人も多い。
(105:509)

1946年の極東委員会について質問です。

各国が日本国憲法を策定する際、極東委員会の主張は、GHQと違って「国民投票の実施」を要求したと聞きましたが、本当ですか?
また、何故極東委員会の主張が無視されたのですか?
当時の日本を実行支配していたのは米軍のGHQで、極東委員会は単なる勧告機関に過ぎないので
マッカーサーが眉を逆立てると何を言っても無視される無力な存在に過ぎません
またマッカーサーは朝鮮戦争で失態を犯すまでは米大統領のトルーマンですら取り扱いに困るほど
絶対的権威を得ていたまさに「現人神」的存在だったのです
(109:166)


アメリカは原爆を落とす前に忠告をほのめかすようなことはなかったのですか?

やってるよ
日本向けの放送や宣伝工作ビラで、近く戦争の行方を決定づける新兵器を投入するって
繰り返し警告してて、日本側にも新兵器とは原爆ではないかと推測した人も少なからずいた
でも、当時の日本じゃいつどこに核を投下されるか完全にわかっていてもどうしようもなかったさ
(367:812)

宮城事件ですが、当時の憲兵隊はいったい何をやっていたんでしょうか?

森師団長・白石中佐殺害した畑中少佐は、クーデター沈静後も昼に自決するまで皇居周辺でビラまきなどをしていたようですが。
事件参加者達もとくにお咎めが無いようですが、首相官邸を襲撃しようとした国民神風隊のある学生は警察に逮捕されて
実刑判決服役したらしいですが・・・軍人はOKで民間人はダメだったんですかね
陸軍省は基本的に終戦時の違法行為はすべて不問に付す方向で動いていたようです。
したがって、海軍や民間人と比べて訴追者がほとんどいないという結果になっています。

国民新風隊を率いた佐々木武雄大尉は右翼団体との繋がりがあったためかねがね警戒されていましたが、
鈴木首相宅襲撃の後はいったんは憲兵隊に出頭したものの、原部隊での監視が妥当として
返された後に逃亡しています。
ところが民間人グループは警視庁に引き渡されてしまい、裁かれて実刑判決をうけて服役しました。
佐々木大尉は憲兵隊や警察に追われたものの逃亡に成功、放火の時効まで逃げ切って
後に大山量士を名乗り、 「亜細亜友の会」の理事長を務めています。
(358:567 名前:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

終戦時に近衛師団と厚木航空隊で反乱が起きたのは有名ですが、ほかに大規模な部隊で反乱・決起行動を行った例というのはあるのでしょうか?

有名なところでは、佐々木武雄大尉が率いた「国民新風隊」がありますね。
横浜警備隊の隊長だった佐々木予備大尉は、終戦の動きを聞いて首相官邸を襲う計画を立てましたが、
彼の上官はかねてから彼の不審な動きを警戒していたために、彼の部下はほとんど
その計画に賛同せず、やむを得ずわずかな兵と、勤労動員に来ていた学生その他の民間人と共に
首相官邸と鈴木首相私邸に重油をまき放火、鈴木邸が全焼しています。

その後彼らはいったんは憲兵隊に出頭したものの、原部隊での監視が妥当として返された後に逃亡しています。
ところが民間人グループは警視庁に引き渡されてしまい、裁かれて実刑判決をうけて服役しました。
佐々木大尉は憲兵隊や警察に追われたものの逃亡に成功、放火の時効まで逃げ切って
後に大山量士を名乗り、 「亜細亜友の会」の理事長を務めています。
(525:911:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

比較的組織的な例としては、茨城県水戸の教導航空通信師団の例があります。
陸軍航空通信学校を部隊風の編制に切り替えた師団で、
そのうちの教導通信第二隊の学生100人が、16日夜に師団司令部などを襲撃し将校若干を殺傷。
翌17日に中隊長の一人(少佐)が指導して、学生400人を集めて武装させ1個大隊を編成。
水戸駅で列車をハイジャック、東京へ向かって上野駅手前で下車し、上野公園を占拠しました。

その後、近衛師団の決起組などと連絡を取ろうとし、廃帝・皇太子即位なんて檄を飛ばしたり。
どうも突発的行動だったようで、近衛師団がとっくに鎮圧されていたことを知らなかったようです。
かえって近衛師団決起騒ぎの関係者である石原参謀が説得に派遣されてきています。

航空本部の説得も受け、恭順派が多数になるのですが、
一部に強硬派が残っており、石原参謀を射殺。
その射殺犯は恭順派によりその場で斬殺。残る強硬派も自決して、反乱部隊は水戸へ帰還しました。

その後、大隊を指揮した少佐はじめ反乱に関与した幹部3人は、自決勧告を受けて自決。
中心人物が全員死亡するという悲惨な結末になり、今でも事件の詳細は不明です。
なお、師団長は、玉音放送直後に不穏な空気の部隊を捨てて単身上京してしまっており、
司令部襲撃の際の難は逃れていますが、重謹慎15日の懲罰処分を受けています。
(525:981:◆yoOjLET6cE)

よく「原爆投下が無くても海上封鎖を続ければその内日本は降伏した」と言われますが、そうなったら大量の餓死者が出るんじゃないんですか?

餓死者数の推計まであるかはわからんが、
まとまった研究では、アメリカの戦略爆撃調査団がまとめたものがある。
大井篤が資料にしてるのも主にこれ。

終戦前6月頃に日本の内閣がまとめた「国力の現状」って資料もあるようで、
ある程度は参考になると思う。

あとは農林水産関係の統計データからの研究もあるかもしれないが、知らぬ。
ちなみに、1945年の作況指数は、
統計上のマジックもあるのかも知れんが、67というとんでもない数字になってる。
(598:920)

日本の軍部や政治家は、「本土決戦」をどのように捉えていたのでしょうか?

とにかくただひたすら抵抗して、「大日本帝國」が一日でも1秒でも長く続けばいいと思っていたのか
莫大な損害を与えて、講和する時にすこしでも条件をよくする為の材料にしようと思っていたのか?
それと、関東地方が制圧されたら、長野の松代もそんなに安全な所ではないと思うのですが、大本営はまた疎開したのでしょうか?
「大日本帝國」が一日でも1秒でも長く続けばいいと思っていた人、
講和の際、国体=天皇の地位の保証を得るため、連合国軍に損害を与えたかった人、
とりあえずなんか前動続行の人など、色々居たかと思われます。
これらの合計が講和を考えていた人よりも多かった、という感じかと。

また1945年6月までに
  • 軍令を司る方面軍司令部
  • 軍政を司る軍管区司令部
  • 行政を司る地方総監府
がそれぞれ設置されまして、中央からの命令が途絶した後も抗戦を継続できるように
なっていましたので、よしんば大本営はなくてもどうにかなったかも知れませんです。
(324:541)
前段については後者です。
全世界の中で日本だけが戦っている、しかも、本土で米軍は大損害を与えられている
と言う状態を作ることによって、米国の中の人たちに厭戦気分を蔓延させ(実際、硫黄島
の戦いや沖縄戦でそうなりかけた)、講和に持って行こうとしています。
勿論、国体は護持するというのが絶対条件です。

後者は、最後は建前上、一億玉砕ですから、この地が事実上最後の抵抗線になった
可能性があります。
但し、玉座自体はほかにも日光に皇太子がおりますので、更に抵抗を行う可能性は
あるかもしれません。

ただ、首都より地方の方が厭戦気分が強いのでその辺がどう作用するかわかりませんが。
(324:眠い人@出張先 ◆gQikaJHtf2)

連合国と講和の可能性はあったの?

ミッドウェー海戦で勝利してたら・・とか
アメリカの主張はハルノートであり、ミッドウェー後には新造艦が大挙して完成する

ミッドウエーに上陸すると兵站が維持できんのですわ。
あとミッドウェー占領ぐらいで講和しようとするなら、
講和条件はハルノートかそれ以上の譲歩が必要になりますです。

1943年11月の段階でカイロ宣言がでていますから、それ以降の講和は無理だと思います。

カイロ宣言の内容

「右の同盟国(引用者註:米・英・中)の目的は、日本国から、1914年の第一次世界戦争の開始以後において
日本国が奪取し又は占領した太平洋における一切の島しょを剥奪すること、並びに満州、台湾及び澎湖島のような
日本国が清国人から盗取した一切の地域を中華民国に返還することにある。
日本国はまた、暴力及び貪欲により日本国が略取した他の一切の地域から駆逐されなければならない。
前記の三大国は、朝鮮の人民の奴隸状態に留意し、朝鮮を自由かつ独立のものにする決意を有する。 」
(317:316-323)

バーンズ回答は「国体の保障」に暗黙の了解をしていたの?

「日本国民が自由に表明する意思」という表現で、「国体の保障」をしているの?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%84%E3%83%80%E3%83%A0%E5%AE%A3%E8%A8%80
天皇免訴が決まったのは、終戦後のことでそもそもバーンズ回答が曖昧すぎると
御前会議でも再度問い合わせろという意見があったんだよ。
御前会議のメンバーも免訴も国体の維持も何の保障もないことは理解して
決をとったから、同数になり、天皇の決断に繋がってるんだよ。
さらにいうと戦後、GHQは検閲を行って、日本国民の自由な意見の発表を
制限してたわけだし、何の保障にもなってないよ。
(650:746)

サイパン戦で負けたあとに、高松宮が「陛下、もう勝ち目は100%無いから講和を」と言ったのに、昭和天皇が「もう一度大戦果を挙げてからでないと難しい」と言ったの本当ですか?

ソースは?

原爆投下されなければ、日本は降伏する気になりませんでしたか?

本土決戦のために設置されていた広島の第二総軍司令部が一瞬にして壊滅したことに
より、ある種の諦めに似たムードが形成されたのは事実です。
仁科研の調査により原子爆弾と判明した時点で陸軍は爆撃されたら白いシーツやレイン
コートを着用すれば熱線によるやけどは防止できると発表し、原爆は1発だけだろうから
怖れるるに足らずとの見解でしたが、長崎に2発目が投下され陸軍の強気ムードも一気に
瓦解しました。陸軍大臣であった阿南大将も降伏条件について話し合うことが可能になった
(652:639)

耐え難きを耐え忍び難きを忍び…って玉音放送の一部だよね?

「終戦の詔書」というのが正しい。

俗に言う「玉音放送」というのは、
「天皇陛下による大日本帝國臣民への終戦の詔書」
をラジオで放送したもの、ということ。

本来は天皇陛下が肉声で語ったものを放送することを「玉音放送」
と言うのであって、この「終戦の詔書」だけが「玉音放送」ではない。
(295:82)

ソ連は北海道に侵攻するつもりだったの?

保阪正康氏の本土決戦に関する著作を読めばわかることですが、
ソ連の太平洋艦隊とウラジオストクに待機している200機の爆撃機が
1945年9月に北海道侵攻することは「決定事項」でした。

それを止めさせたのがトルーマン大統領による「原爆落とすぞ」という最後通告でそ。
(666:763)

先の大戦で日本が降伏せず、本土決戦を行っていたらいつまでもちましたか?

仮想戦記よりややマシな程度だが、米軍がやった本土決戦のシミュがいくつか翻訳されている
まぁもっとも楽観的な、いや米軍からみれば悲観的か、結果でも日本は1947年まで持たない
そして北海道、東北、北関東辺りまでソ連に占領されているという推測が多いから
米ソ代理戦争は朝鮮半島でなくて、日本が舞台になるだろうな
(292:163)

日本政府がソ連に米英との講和の仲介を働きかけていたのは諜報機関が無能だったから?

「諜報機関が無能」ではありませんでした。

スウェーデン駐在陸軍武官がソ連参戦の情報を報告しています。
陸軍内部で握りつぶされて、鈴木総理には届かなかったようですが。

「小野寺電報」とは終戦間際、小野寺信帝国陸軍武官が任地スウェーデンからヤルタ協定によりドイツ降伏三ヶ月後、
ソ連が対日参戦に参加するとの密約の内容をポーランド亡命政府の情報網から入手し陸軍参謀本部に送った秘密電報である。
あのルーズベルトの天皇宛親電を握りつぶした瀬島龍三氏もこの電報の行方を、そして誰が握りつぶしたかを知らないと語り、永遠の眠りに着かれた。
小野寺電の中にはしばしば国運を左右するものがあり、軍事機密扱いとなって握りつぶされた可能性があると元陸軍の方は語っているらしいが」

(671:霞ヶ浦の住人 ◆1qAMMeUK0I*一部修正)

玉音放送の後も戦おうという人たちはいなかったんですか?

終戦の終戦詔書(所謂玉音放送)を阻止して戦争継続を図ろうとした人たちはいた。
陸軍の一部中堅幹部が起こしたもので、終戦前夜(8月14日夜)、近衛師団長森越中将を
殺害して偽命令を出し、近衛師団を出動させて15日未明、皇居を占拠するとともに、別動
隊がNHKや鈴木貫太郎首相官邸・私邸及などを襲撃。
NHKにある詔書の録音レコードを奪い、ラジオ放送を阻止しようとしたが、目的のレコード
を発見できないままに夜が明けてしまい、鎮圧。首謀者らは自殺して終わった。
(286:777)

市町村レベルでは「終戦の詔勅」はどの時点で、どの程度の関係者に事前に通達されていたのですか?

「流言・投書の太平洋戦争」と言う本をご一読ください。
基本的には、前日のラジオ放送で、「重大放送」が有ると言うことは国民に知らしめられていました。
また、当日朝のニュースでは、天皇陛下が直々にマイクの前に立つと言うことを知らせています。

また、政府はポツダム宣言受諾決定の直後から敗戦後の治安と秩序維持のため、取締まり方針を策定し、
8月14日には、その最終方針を全国に通達しています。
そこには、「廟議決定の方針を曲解し又は異議を唱え、或いはこれに矛盾するが如きもの」、「政府の態度、
方針、時局を誹謗するが如きもの妄りに既往の戦争責任者の追求」等の言動が抑圧対象となり、右翼、左翼
関係者、朝鮮人に対する視察を強化するよう求めています。

更に新聞社に対しても、新聞の配達は玉音放送の後に行うように厳重に指導されていました。

ちなみに、空襲を受けた地域とそうでない地域では、国民の時局の受け止め方に温度差が非常に
あり、地方の代議士などでは、政府の弱腰を批判する発言をしています。
確か、米国戦略爆撃調査団の世論調査では、日本国民の25%が、戦争には勝つと考えていたそうです。
(168:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

太平洋戦争末期、戦略爆撃の後に行われたB-29の機雷散布が実質日本にとどめを刺したと聞きました。

この機雷散布の被害についてはあまり聞かないのですが、どういった状況だったのでしょうか?
出先なので具体的な数値は出せませんが、
「飢餓作戦」「スターベーション作戦」でぐぐってみてください。
関門海峡は繰り返し敷設され、いくら掃海しても間に合わない状態でした。
瀬戸内海全体でも被害が出てますし
佐世保・舞鶴も封鎖されています。
博多・仙崎・敦賀・七尾・伏木・新潟・酒田・船川など、
日本海の主要港が主な標的で、八戸が最後に掃海完了となりました。
(174:鷂 ◆53cmjHPmWw)

外地で一番遅くまで、旧軍の組織を維持していた部隊(いわば最後の旧軍)はどこ?

支那派遣軍や南方軍等の日本軍の主要な軍は、大抵9月中には降伏している
外地の主要な軍として最後に降伏したのは10/25の台湾だが、連絡が行き届かない末端の小島なら、降伏を知らずにいるかもしれん
(俺初質スレ2049:542)

復員するまで外地にいた部隊は、武装解除されてもずっと旧軍のままの組織、命令系統でいたの?

指揮官が降伏に同意すれば、当然その指揮官は指揮権を喪失する
つまり降伏時点で全員が降伏相手の捕虜になるから、もう日本軍としての命令系統は存在しない
降伏相手の指示に従うだけだ
(俺初質スレ2049:558)

中央政府の意向を無視して日中戦争を引き起こして戦線を拡大しまくった関東軍が、なんであんなにもあっさりと終戦と停戦を受け入れたの?

1945年時点での関東軍は、ソ連参戦の場合は満州国の3/4は放棄して朝鮮国境付近で
持久という方針であったから。大本営もソ連軍侵入で早々に作戦目的を「皇土朝鮮の保衛」に
切り替えている。
(俺初質スレ50505:984)



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