軍事板初心者質問スレまとめ(FAQ)

近代以前

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匿名ユーザー

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タラス河畔の戦いについて教えてください。兵力、指揮官、大まかな流れ、その後の両国の関係など

751年、現在のキルギス共和国ジャンプールのタラス川付近で、中国の唐帝国軍と、
アッバース朝イスラム軍とが戦い、唐帝国が大敗した戦いです。

その発端は、唐帝国の節度使であった高仙芝が、石国(現在のウズベキスタン
タシュケント付近にあったトルコ人の国)に侵攻して国王を捕虜とし、大虐殺、略奪
を恣にして、国王は長安に送られ惨殺されました。

石国の王子は命からがら虎口を脱し、周辺諸国に唐帝国の横暴を訴え、それが
イスラムの中央(アッバース朝)に聞こえ、イスラームは軍を出したものです。

アッバース朝からは将軍ジヤード=イヴン=サリフが派遣され、周辺諸国の連合軍と
共に、高仙芝率いる唐軍と5日にわたって戦闘を行いました。
結果、5万人が殺害され、2万人が捕虜となったそうです。
ただ、この大敗にも拘らず、総指揮官高仙芝は、罰せられず逆に昇進したそうです。

戦いの経過ですが、中国側資料しかありませんが、チベット族と漢族の混成軍3万が
イスラームを攻め、700里に渡って追撃しましたが、タラス城付近で、イスラーム連合軍と戦火を交えました。
この時、唐軍に属していたカカルク族が反旗を翻して唐軍を攻めたため、挟み撃ちとなった唐軍は総崩れになったそうです。

結果的に中国のこの地域における覇権は失われ、中国商人に変わって、イスラームの商人がインド貿易を独占します。
また、紙の製法が伝わったのもこのころです。
(12:眠い人 ◆ikaJHtf2)

火縄銃とかの時代とかの火薬はどんなもので、どこで採掘?されたりしていたんですか?

天然の商業的硝石の産地はガンジス川渓谷及びチリで、中世にチリの資源が発見されるまでは
インドがヨーロッパに大量の硝石を供給していた
14世紀末頃からヨーロッパでの生産量が増加したが、16世紀まで硝石生産の明確な技術的記録は現存していない
16世紀末にドイツ人が著したマニュアルでは、
原料に酒飲みの尿、特にカラスムギを与えた馬の糞、生石灰(酸化カルシウム、すぐに湿気て消石灰つまり水酸化カルシウムになった)、
牡蠣の殻(炭酸カルシウム)を準備する
これらの原料を、煉瓦を敷き詰めた乾燥した環境の中に、一定の温度を保って保存する
少なくとも1年間、2週間毎に堆積物を引っくり返す
そうすると壁や床や天井に硝石がつくので、それを掃きとって集める

酒飲みの尿は通常の3倍のアンモニアを含むので、堆積物にとって必要なアンモニウムイオンを
余計にもたらすから
混合物を度々引っくり返すのは、微生物がより多く酸素にされされることになるため
この過程は1年かそれ以上かかるが、硝石の収率は近世以前の基準からすればかなり高かったと思われる

ただし、カリウム以外の硝酸塩(硝酸ナトリウム、硝酸カルシウム、硝酸マグネシウム)は吸湿性が高く、好ましくなかった
特に上記の方法は硝酸カルシウムを多く含むため、解決法として粗硝石を木灰で「精製」し、
カルシウムを炭酸カルシウムにして除去する方法が一般的となった

15世紀以降、カリウムの含有量が高くなって黒色火薬の品質は安定したが、それ以前は産地によってかなり幅があった
東アジア、南アジア、レヴァント産の硝石はカリウムが多くカルシウムが少なかったが、
ヨーロッパ、特に北ヨーロッパではカリウムが少なくカルシウムとマグネシウムが多く、
その低品質はヨーロッパ域内で生産することで得られる経済的利益を帳消しにする程だった

黒色火薬の歴史は粒化の歴史だが、これはまた別の話
(13:465)

オランダはなぜ大堤防を破壊する作戦を実行しなかったのでしょうか?

ルイ14世が攻め込んできた時に堤防を壊してフランス軍を撃破しています。
(27:名無し四等陸士)

「デレンダストカルターゴ」ってなんですか?

「カルタゴを滅ぼさねば」という意味です。
カルタゴはかつてポエニ戦争でローマに敗北し、莫大な賠償金を負いました。
しかし、半世紀にわたって着実に賠償金を支払い、奇跡的な経済復興を遂げたカルタゴを恐れた
ローマ元老員のカトオはカルタゴを滅ぼそうと画策し、演説の度に
「カルタゴは滅ぼさなくてはならない」と訴えたそうです。
そして第3次ポエニ戦争(BC146)でローマはカルタゴを殲滅しました。
(32:名無し軍曹)

アルキメデスの反射鏡の話は本当なのでしょうか?

古代ギリシアの巫女は松明に点火するのに鏡を使ってて
今でも観光客相手にデモンストレーションするそうな
シラクサの攻防戦でも鏡は使われてたが、それは船を燃やすためではなく
嫌がらせで使ってただけ
アルキメデスが設計したのは投石機と鉤付きのクレーン
ただしクレーンだって船を持ち上げるためなんかじゃなかった
(62:554)
当時の歴史家である、Polybius、Livy、Plutarchの誰もそのような
兵器の存在に言及せず、また、13世紀にオクスフォード、パリ
大学で歴史を教えたRoger Bacon(フランシス派の僧侶)も、アルキメデス
に関連してそのような兵器には言及していない。つまり歴史的に信頼
できる記録にはなく、後生になって作られた一種の神話であろう。

現実的にも、当時の技術で支持できる金属鏡の重量からは、せいぜい
数平方メートルの反射面しか確保できず(伝説にあるような主鏡と
4枚の副鏡を組み合わせても)、得られる熱量と当時の低い反射率、
空気の揺らぎ、さらに水上で常に動き続ける標的を考えると、一点に
発火するだけの熱量を集中しつづけることは計算するまでもなく不可能である。
(62:882)

亀甲船も鉄張大安宅船の実在を示す資料などは存在するのでしょうか?

亀甲船に関しては確か設計図が残されてたはずです(うる覚え)。
実物(復元船)はソウルの戦争記念館、慶州の独立記念館、海軍士官学校
にあったはず。

国内では佐賀県立名護屋城博物館に模型が展示されています。
また、当時の軍記にも描かれていますので、存在しないと言う方が眉唾です。

鉄張大安宅船についても、実物は存在しました。
鬼宿丸がそれで、後に日本丸と改称され、朝鮮の役でも旗艦に使われました。
その後は船倉に繋がれ、九鬼氏が関ヶ原で敗れて(親の方です)、三田に移封
された後に彼の地に封ぜられた内藤氏の代に、500石積み60梃櫓に改造されて
大龍丸と改称されました。
この船はかなり長命で、最終的に解体されたのは、1856年です。

ちなみに、現在でも船体の一部は伊勢大湊に現存しています。
資料としては、、「志州鳥羽船寸法」(賀多神社所蔵)などがあります。
(72:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

軍事評論家と言う職業(?)の人が現れたのは何時ごろですか?

軍事や戦史について分析、解説を執筆、発言する仕事、
と考えればギリシア・ローマ時代からいらっしゃいます。
ルネッサンス時代にも何人もいたようです。
今日的な意味では、18~19世紀、フリードリヒ大王の時代に学問が流行し、
軍事思想家が数多く現れて以降、現在に至るまで、
常に存在しているといえるでしょう。
(75:553)

太閤の朝鮮出兵時、李舜臣と九鬼水軍の直接交戦した事ってあったんでしょうか?

九鬼嘉隆率いる水軍は、緒戦に於いて朝鮮水軍と戦っています。

1592年7月8日に安骨(あご)浦において決戦に挑み、充分に敵を引き付け、一斉に
石火箭を浴びせ、逃げ惑う敵の船に越賀隼人と浜島豊後が乗り込み、大船2艘を
奪いました。
また、越賀隼人の部下・宇仁屋善七が一番乗り、次いで西岡平作、これに続いて
九鬼主膳が敵船に乗り移った。
宇仁屋は耳に箭二本をうけ、西岡は右足に鎧通しを突き刺されるが怯まず奮戦。
この戦で韓人四官等六名を生捕る。
更に、味方をおおいに苦しめた亀甲船を早船にて待ち受け、縄を亀甲船にひっかけ
飛び乗っては奪い取る戦法で戦果を挙げる。

しかし、全体的には戦局は不利で(一説には加藤嘉明が嘉隆の指揮に服さなかった
ことが起因したともいう)、最終的に文禄の役は敗戦に終わった。
(72:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

フリードリッヒは大男だけを集めて、ポツダマー・ギガンテス部隊を作ったそうですが自己満足以外に何の意味があったんだろう?

相手がびびる
らしい
(82:190)
蛇足ですが、巨人兵部隊を作ったのは父王のフリードリヒ・ヴィルヘルム1世です。
フリードリヒ大王は即位後の1740年、父の趣味で作られたこの部隊を解隊しています。
(82:207)

ジャンヌダルクの軍事的才能について質問

1、本当に軍事の才能の有る子だった
2、唯のマスコットだった(才能のある参謀が居た)
3、みんなが萌えたから
どれでしょうか?
多分集団心理による効果が大きかったのでは?
(105:817)
4 他の連中が、政治的理由から目一杯利用した

なんてのもあるかも。
2の補佐者については、ジル・ド・レでググると面白いかも。
(105:818)
最も妥当性が高いのは2
(105:821)
1:軍事の才能にも色々あるが、彼女は部隊を指揮したこともないし、
作戦立案に関与してもいない。
戦闘中は常に戦闘で旗を振り回していただけで。
残念ながら彼女が軍事の才能を示したことはなく、
贔屓目に見ても未知数としか言いようがない。

2:恐らくこれが最も可能性が高い。
ただし、参謀団が彼女を支えたというより、
アルマニャック党が彼女を操っていたと考えたほうが正しいだろう。
(105:824)
1.について。
残っている裁判記録等を見る限り、ジャンヌは
「固定観念に捕われず物事の本質を見抜く」ずば抜けた能力を、持っているように思う。
賢いというか、信じられないくらい純朴なんだな。
そういうことがプラスに働いて、というのは、ヒョットしたらあったかもしれん。

824
当時の兵士の周囲にいた女性のほとんどは売春婦としての役割を担っていた。
ジャンヌがそのようなことをしていたかどうか、については、実は懐疑的だ。
彼女が男装をしていたのは有名だし、裁判記録にもそれらしい事を追求されたという話を聞かない。
何より、裁判にかけられた彼女は、処女かどうかを確かめられたのだ。
(不可能ではないにしろ、あの時代に処女のまま売春婦ができたとは、とても思えないのだが..)
後世、ジャンヌの名誉回復裁判で、ジャンヌの共をした兵士が、
「最初は仲間と示し合わせて、如何わしい事をしようと考えていたが、
彼女を見るとそんな気が無くなった。」と証言している。
名誉回復裁判での証言なのでさっ引いて考えるべきかもしれないが、
そう言う事が実際に起こったのかもしれない、と、考えていけない理由は無い。
兵士たちは、戦場で旗を振り回す、年端も行かぬ「聖女」に萌えたのだろう。
(105:846)

1200年代のチンギスハンの時代、モンゴル軍は大幅に迂回して敵の都市を四方から挟み撃ちにしたと聞きましたが

なぜ迷うことなく正確にたどり着くことができたのでしょうか?
都市があれば四方八方に道路が延びてるよ
(111:623)
モンゴル軍は、戦争の前に商人や旅行者を装った密偵を外国に送り込んで
道路の地図を作ったり、城塞都市などの構造を詳しく調べておりました。
蛮勇な騎馬民族と言うだけでは、あれだけの勝利は得られません。
(111:637)
それにモンゴル軍は必ず十分な時間を与えて降伏勧告をしてるしね。
無抵抗で開城した都市は何もされてない。改宗さえ強制されてないね。
(111:638)
それは有りえないな。
日本の大弓は上下非対称という構造上の問題や素材の貧弱さから、
威力でも命中精度でも元軍のものに劣っていたはず。
(111:646)
上下非対称だとダメなの?上下非対称でも矢を打ち出すエネルギーのバランスとか角度がよければいいんじゃない?
効率が悪そうだが。
(111:648)
手首への負担を減らす為の工夫
それ自体は長所であり、問題点と言う事には異議あり
(111:651)
弓矢に関しては当時の弓は230cmくらいの大きさで射程が
元軍のよりも長かったって書いてあります。
(111:652)
背の低い日本人が>652にあるように長大な弓を運用するためやむなく
上下に非対称な構造にしたと読んだことがあります。
それゆえ和弓は洋弓より運用が難しいとも。
(111:663)
上が長く、下が短い形の特徴は、もともと材料となる植物の密度が、
根に近い方と上の方では違うことをカバーするために生まれた。

が、合成弓を使うようになっても、日本人はその形を無意味に伝統墨守した。

その証拠に、江戸時代になり、三十三間堂の通し矢を競技的にするようになり、
このとき、はじめて矢を飛ばすためには素材・形状への見直しが必要だと気づいている。

日本弓の特徴=欠点を利点か工夫のように云うのは、すべて後世のへりくつ。

弓に植物性の材料だけでなく、骨やスジをつかうモンゴル系の弓は
遠矢のばあい、数百メートルとぶ。

元の侵略について書く日本人の多くは、ろくに元の装備について知らずに、
形状から想像して書いているものが多いとか。
(111:664)

中世の戦争について三つの質問があります

  • 騎士、騎兵って相手に突撃するらしいですが、その突撃のとき相手とどの部分が接触するんですか?
馬の足ですか?それとも武器ですか?
足が触れたって攻撃にならないでしょ。武器です。騎兵槍。ランス。

  • 馬に矢が当たるとどうなるんですか?
それと甲冑を着た兵士にロングボウの矢が20mぐらいの距離から当たるとその兵士は即死ですか?
刺されば怪我をするか、悪くすれば死ぬでしょう<馬
長弓は強力な武器ですが、武器というのは「○○メートルの距離で命中したら殺せる」
というようなデジタルな代物ではございません。
腕や足に刺されば即死するはずはないですし、命中の角度が悪ければ甲冑で
弾かれてしまうこともあったでしょう。そもそも、一口に「甲冑」とか「長弓」と言っても
千差万別です。射手や撃たれる側の体力にも大きく依存します。
自分がナイフで刺された状態を想像してみて下さい。
(116:500)
  • 色々な状況が想定されます。ランス(馬上槍)で刺される兵もいれば、
 馬に踏みつぶされる兵士もいるでしょう。

  • 無線機を持つ現代の軍隊と違い、指揮官の意志を即座に伝える
 方法が無かったので、集団としての力を発揮するには陣形を保つしかなかった。
 部隊がバラバラになれば、陣形を保った相手に殲滅されるしかない。

  • 鎧の厚さや矢の当たる角度で結果は変わります。
 後の土佐藩主、 山内一豊は近江の戦場で、近距離から顔面に矢を受けましたが、
 頬の裂傷と歯の折損だけで済んでいます。

 ⊃-----<<<<

 こーいうタイプの鏃だったらしい。
(116:501)
先日、ディスカバリーチャンネルでアジャンクールの特集がありました。
この頃、甲冑の材質が進歩して長弓では容易に貫通できなかったようです。

この番組によれば、勝敗を決したのは、両軍の陣形にあったようですね。
平坦部分がだんだん狭くなってくる場所に布陣したイングランド軍に、フランス軍の
大軍が殺到したためかえって混乱してしまったことを主な敗因としていました。
フランス軍には圧死者もでたであろうと推測していました。
 こーいうタイプの鏃だったらしい。
(116:506)
陣形には、戦意の低い兵士をむりやり戦わせる効果もあった。
歩兵の密集陣では、前後左右が詰まっていてひとりで逃げ出したりはできないし、
最前列に新兵を置いて、後ろにベテランを置くことも多かったらしい。
戦術的なことに関しては、カンネーの戦いでぐぐっていろいろ調べるといい。
紀元前3世紀の戦いだが、火砲登場以前の戦争における陣形の
重要さを知るには向いているのではないかと思う。
ヨーロッパやアメリカの士官学校ではいまでも教えてると言われている。
それと、質問からはちょっとずれるが、このスレはかなりオススメ
https://hobby3.5ch.net/test/read.cgi/army/1072478395/
(116:509)
騎兵って剣を持った騎兵もいると思うんですが、そのような騎兵はどうやって突撃するんですか?
剣を鞘に収めて、槍をもって突撃すればいい。
(116:577)
騎兵にとって剣は拳銃のようなもので、最後の武器に近い扱い。
騎兵の基本武器は槍です。
(116:578)
それと、馬に鎧がなかった時代は矢が当たっただけで馬が暴れだしたりしたのでしょうか?
暴れる場合が多いでしょう

何故もっと早く鎧を着けなかったんですか?
馬が疲れるからです。移動速度も遅くなります。

ま、当たらなければどうということは無いです。
(116:587)
それだけの予算や工業力が無かったということです。それに機動力も落ちますし。
(116:589)

ジャンヌ・ダルクは実際に部隊を指揮して戦ったのでしょうか?

ジャンヌダルクは部隊を指揮できるような教育・訓練を受けていません
あくまでも信仰心に支えられて戦っただけの女性のようです。
100年戦争で圧倒されていたフランス人と、信仰の女性ジャンヌダルクが巧く噛み合い
イングランド軍を圧倒したという、戦争で稀にある偶然といったところでしょうか。
(118:301)
あんまり関係ないですが…
ジャンヌ・ダルクは指揮はしていませんが、自ら前線に出て
兵の指揮高揚に大いに貢献しました。なお、兜は一切着けなかったそうです。
実際に部隊を指揮したのは配下の指揮官達で、この中に後に別方面で有名になる
青髭ことジル・ド・レーがいたりします。
(118:321)
※中傷は削除

機械式時計が発明される前の戦場では、時間をどのようにして計っていたのでしょう?

うろ覚えだが、お宝鑑定団(TV)で日露戦争に従軍してたおじいさんが
戦場用日時計を出品してたような気がする
手のひらサイズのやつ
(121:248)
時計が発明される前ったって何十万年もあるんだがな。
近世まで人類は正確な時間の観念はなかった。
だから戦争にしたって、「日が中天に昇るころに攻めよう」
くらいのいい加減さだった。
(121:250)
もう実質回答済みだと思うが
機械式時計が普及するまでは時間の感覚そのものが
現代と違うわけで、時計を携行しないのが普通。
砂時計や水時計なんて使うはずもなく、
太陽でおおよその時間を把握すればそれで十分だった。
『時計の社会史』(中公新書)とか『時間の歴史』(大月書店)とか
時間、時計と社会の関係を書いた本は多いので、
そちらを先に読んだほうがいいのでは。
そうでないと的外れな疑問を繰り返すことになる。
(121:254)
古い戦争は不得手ですが、ローマ帝国あたりの戦史を読んでいても、時計を見て戦争していたような
記述はありませんね。命令系統は肉声だけ、せいぜいのろしやたいまつの合図ぐらいで、基本的には
見通し線内に展開した部隊を動かすだけですから、時間を元にした協調行動などは不要だったと
いうことでしょう。仮に二軍に分けてそれぞれが時計をにらんだとしても、当時の時計には精度も
信頼性もなかったでしょうから、そのような機械に戦争の行方をかけることは誰もしなかったと思います。

太陽の位置なり、明るさなり、腹具合なりを見て、指揮官が合戦開始を合図し、それが声やら角笛やら
たいまつを振るやらして伝達されて全軍(あるいは各軍)が動くということだったのだと思います。
(121:system)
ここは軍板なので軍事的な観点で述べると、そこまで正確なタイミングで
行動する必要もなかった。「あの霧が晴れたら突撃」とか「夜明けとともに
攻撃だ」で十分だった。大将がすべての戦場を把握することもできたから
「とつげきー!」と叫べばそれでもよかった。
(121:258)


近代以前の軍事について、詳しいサイトはありませんか?

(355:785,784)

百年戦争の頃の普通の弓兵って矢を何本くらい持ったの?

矢って高かったって聞いたんだけど、かといって少なくて足りないんじゃ洒落にならないだろうし

http://en.wikipedia.org/wiki/English_longbow
"A typical military longbow archer would be provided with between 60 and 72 arrows at the time of battle,"
「平均的な射手は一度の会戦で60~72発の矢を放った」
とあるので一人当たりそれだけの矢は持っていたか確保されていたということになる。
ただしcitation needed(出展不明)となっており、これが間違っていないかどうかはわからない。
他にも"An experienced military longbowman was expected to shoot twenty aimed shots per minute."などとやたら景気のいい数字が挙げられてるので割り引いて読んだほうがいいかも。
(480:83)

中世ヨーロッパで建造された有名な城と、その中で最も堅固を誇った城を教えてください


有名なところではカーフィリー、シャトー・ガイヤールなどではないかと思う。

でも、城は要するに手間かける軍隊に長いこと取り巻かれちゃうと落ちちゃうものだし、
城の中に入ってる軍隊や住民なんかも関係するから堅固っていう定義は難しい。

あと、中世ってのの定義次第ですが、コンスタンティノープルなんかも堅固だし、
アルビジョワ十字軍に攻められた南フランスにも堅い城とか城郭都市が沢山ある。
(480:470)

後、十字軍の城については欧州の人らが中近東に渡って建築したということを
考えると欧州の城とは密接な関係にあるのは事実。

たとえばイングランドのエドワード1世などは中東に行った経験があり、
その後ウェールズに多くの城を築いている。
(480:471)

物理的に難攻不落な城や要塞など存在しないからな。
歴史的に一度も落ちてない要塞より、
陥落したことのある要塞のほうが堅牢である場合は往々にある。

主観になるが中世に作られた中で物理的に最も落ちがたいという意味では
要塞ではシャトー・ディフが最高だろうと思う。
城壁を攻める十分な兵力の揚陸も困難だからな。
アレクサンドロスのティロス攻略の比ではない。

城郭都市で最も本格的なのはカルカソンヌではなかろうか。
高台の上にあり、東側には広い堀。
合計46の塔に内外二重の城壁で、門一つが独立した要塞といえるほど堅牢なつくり。
(480:472)

昔の騎兵はランスチャージと呼ばれる攻撃を馬と鎧と槍を用いて行ってたと聞いたのですが、彼等は塹壕戦が一般的になったあとは何をしてたんですか

それとラクダでもランスチャージみたいな攻撃は行われたんでしょうか?

第一次世界大戦のときは
戦線後方で大突破が出来たら投入されるのを待っていました。

第二次世界大戦のときは
難地形や開放翼で機動して敵後方に回り込んだり、ゲリラ警備をしたりと
活躍しています。

また、騎兵とはちょっと離れるのですが、補給関係では馬車を使っています。
(480:883)

昔の騎兵はランスチャージと呼ばれる攻撃を馬と鎧と槍を用いて行ってたと聞いたのですが
ソレは騎兵っていうより騎士の時代の話だよ。17世紀には廃れてしまう。で、塹壕戦
が一般的になる20世紀までの300年間は機動力を生かして「偵察、後方攪乱、追撃」な
んかを主任務とするようになった。乗馬で機動して戦闘は下馬を主とする竜騎兵が作られ、
ソレをサーベル持って追い掛け回す軽騎兵とかの時代になる。

 戦線が膠着する塹壕戦の時代になると、そういう用途でも使いづらいので斥候、伝令程
度の用法が主になり、戦車やトラックが戦場に登場するようになると、「乗車騎兵」って
形になって機甲化していく。
(480:884)

ちなみに19世紀初頭のナポレオンの時代でも騎兵突撃はやってます。

有名なのがワーテルローでのネイ元帥が率いた突撃。イギリスの方陣
目掛けて突撃しました。

ランスチャージではなくて、胸に鎧をまとった胸甲騎兵がサーベルを使って
突撃したのです。
(480:885)

ヨーロッパでは騎士と呼ばれる職業軍人が馬に乗って槍を持って突撃してたらしいけどそれって今でもある?

バイクのってアサルトライフルもって突撃とか・・・それとラクダとかゾウとかでも行われたの?
馬はヘリに変わり、槍は突撃銃に変わり、現代に至っています
(481:405)

バイク乗って(ry という方はまぁいませんが、かつての騎士的な役割は対戦車ヘリになるかと
(481:410)

ラクダ騎兵はいた。
小回りがきかないのと、気性が荒いので、馬より扱いにくかったけどな。
戦象もいたが、これは扱いがラクダ以上に難しいく、象そのものがパワーで乗ってる人が主体とは言い難い。
(481:411)

騎士っていうのは「身分」ね。
君の言っているものは「騎兵」と呼ぶのが正確。

現在では実戦で馬に乗り槍を振るうことはない。
「騎兵」は、儀礼用の部隊を除けば装甲車やヘリコプターを装備する部隊に
変わり、「騎兵」という部隊名や兵科は一応今でも残っている。

中東の国には「ラクダ騎兵」があったし、古代には象に鎧を着せて背中に
ゴンドラを載せてそこに兵士が乗る「戦象」というものが存在していた。
(481:414)

戦術(戦う方法)は時代によって変化していきます。
現代に刀や槍を持った武士が自衛隊にいないのと同様に
騎士は中世の終わりと共に、その役目を他に渡しました。

騎士と似ているものに「騎兵」があります。
というより騎士は騎兵の形態の一つなのですが。
騎兵は武器を銃に変えて20世紀まで残りました。
さらに馬をヘリに変えていまでも「騎兵」と名乗っている部隊があります。

ラクダや象も「騎士」ではありませんが、戦争に使われています。
象部隊はカルタゴやインドが有名、ラクダ部隊はセレコウス朝シリアや
パルミュラなどが有名です。
(481:418)

モンゴル軍が城塞等を攻める時のやり方って?

まず都市を包囲します。
で、軍勢に臨戦態勢を取らせながら、一方で使者を送り開城勧告を何度も
行ないます。
この際、「あそこの都市は開城勧告を蹴ったから皆殺しにしてやった…」的な
はったりをモンゴル人達は咬まします。
それに震え上がって、開城すればめっけもんです。
しかし、交渉を拒否すれば、政権を内部から崩壊させようとします。
最終的に都市を破壊するのは、余程の時だけです。
(121:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

モンゴル軍の騎馬隊の1日あたりの移動距離は70~100kmだそうですが、馬に乗っている割にはなんかあまり速くないような気がします

戦国時代の歩兵の軍勢の1日あたりの移動距離は20~25kmだそうですが。

モンゴルで10年に1回ぐらい、馬を2時間全力で走らせる競技をやるが、ゴールの直後に参加した馬のほぼ全部が体温上昇で死ぬ
生き残った馬は全力疾走しなかったとみなされ失格、殺される
(501:474)

馬な全力走行である駈歩を長時間持続できません。
通常移動に用いる常歩で5~6km/h、少し早めの速歩でも10~15km/hです。

また軍隊の移動は、単独移動より時間が掛かります。
小学生の運動会の入退場を思い浮かべてみてください。
先頭集団が出発してから最後尾が出発するまで大きな時間差が生じることが理解できると思います。
騎兵は隊列が長くなり、大軍であれば数十キロという隊列になることもあります。

馬草(馬の餌)は現地調達が基本ですが、数万という馬に牧草を与えるためには
広大な空間に散り、喰わせ、再度集めるという時間が必要になります。
騎兵隊の規模が一定以上になると、補給負担は飛躍的に増大します。

これらを考慮すれば「1日70~100km」は、さすが馬を知り尽くした騎馬民族、
と思わせるに十分かと思います。
(501:476)

ローマ時代の軍船であるガレー船は、奴隷が劣悪な環境で休みなしで櫂を漕いでいたそうですが、人間がそんな何時間も休憩なしでこげるもんなんですか?

ガレー船も、通常航海で順風のときは、帆走するのが普通です。
風が無いときには、数直の交代制で櫂走しました。したがって、まったくの休みなしではありません。
また、急用でないときは、無理して櫂走せずに風待ちすることも多かったようです。
この点、ヴェネツィアのガレー船は、風待ちせずに走ることで速度面で優位だったと聞きます。
(ヴェネツィア船では漕ぎ手が奴隷ではなくて士気の高い市民だったからできたとも)
戦闘時には帆は使用せずに、櫂走で航行しました。
速力が必要な場合には、漕ぎ手全員参加で漕ぐことになります。
(501:511)

肝心の耐久時間ですが、巡航時(3ノット)の数直交代では1直2~3時間程度、
全員参加での力漕(5ノット)が続くのはやはり2時間程度だったようです。
戦闘時などで最高速力(7ノット)を維持できるのは、15分が限界といいます。
(501:520)

塩野七生氏の「ロードス島攻防記」という小説を読んだのですが、トルコ軍は被害を出しすぎだと思うのですが?

1522年、ロードス島の要塞に立てこもる5000人が20万人のトルコ軍と戦い、
トルコ軍は数万の死者を出したとあるのですが、これは史実ですか?
いくら戦争は防御側のほうが有利だとしてもトルコ軍は被害を出しすぎだと思うのですが?

読んだのなら分かると思うが、ロードス島の要塞は当時有数の要塞建築家がアドバイスした堅固な要塞だ。
それを攻めるとなれば、そのくらいの死者は出る。
トルコ側もあの手この手で攻めており、このままいけば落城は免れない状態までいっていた。
(503:188)

ロードス島遠征は1522年に実際に行われました。
元々この地域は『オスマンの内海』こと地中海の喉に突き刺さった小骨のようなものだったので、
何度も攻略部隊を送っているけど失敗してる。

それどころか逆に島を守るセント=ヨハネ騎士団は船を駆ってオスマン帝国の貿易路で
海賊まがいの行為をするなど士気旺盛。まさに難攻不落な要塞島だった。

スレイマン1世が攻略する事になるんだけど、この時はヴァチカン法王庁は援助拒否、フランスは対ハプスブルグのため動けず、
強力な海軍力を持つヴェネチアは貿易の関係でオスマンと中立条約を結んでしまった。
つまり援軍の可能性のない八方塞がり。こういう時宗教的情熱を持つ軍隊は超強い。獅子奮迅の活躍をするもんだ。

そしてこれも大きいが、どうやら島を攻めたスレイマン1世はあんまりやる気がなかったらしい。
5ヶ月の戦闘のすえに最終的に講和したけど、周りの重臣達は大反対した。もう少しで勝てるのになぜ!?と。
講和の内容もかなーり騎士団及び島民にやさしい。具体的にみると・・・

1:離島希望者はオスマン海軍が責任を持って移動させる
2:離島を望まないものは残留してもOK。イスラム教にのっとり信教の自由は必ず認めるよ
3:残留した者も戦災を受けて生活は苦しいだろう。5年間税金を免除するよ
4:この島でデブシルメ(オスマン帝国の官吏・軍人候補のため子供を強制徴募する制度)はしませんよ

と、はっきりいって大甘もいい所。こりゃ大臣達は猛反対するわな。
これらから、スレイマン1世は初めっから島の攻略にやる気がなかったと考えられている。

被害が大きくなったのもこれ騎士団の獅子奮迅の活躍とこれが関係している物と思われる
(503:195,世界史板住民)

クロスボウは威力が強く鎧を貫くためにキリスト教徒に対して使うなと言われていた時代があったと聞いたのですが

銃でも似たようなことはあったんでしょうか?
クロスボウが当時問題になったのは、威力そのものに加えて
生産が容易で、(長弓に比べれば遥かに)取り扱いが容易と言うこと。
つまり、被支配階級に領主・騎士階級に対抗できる武器になりかねなかったということ。
そのために、支配階級から教皇庁への働きかけで
「キリスト教徒相手には使っちゃだめよ」という変な布告が発生した。
(といっても、13~14世紀にもなれば普通にヨーロッパ内での戦争で使ってるんだが)

一方、銃は大量生産・運用にそれなりの財力と労働基盤が必要になるため、
それほど問題視されなかったように見える。
(359:300)

日本以外の国でも明治頃に脚気とか食い物関係で悩まされた事はあるのでしょうか?

旅順で包囲されたロシア軍は野菜不足で壊血病が蔓延した。
モヤシの存在を知っていれば、備蓄食糧の大豆を利用出来たのだが、
欧州にはそもそも大豆自体が存在しないのでそんな発想は生まれようもなかった。
(359:328)
むしろその時代で食い物関係に悩まなかった軍隊は少ない。
特にその時代は、軍隊の巨大化に対して貧弱な補給技術しかなかった
(自動車が兵站に活躍するのはもうちょっと後の話。鉄道は活用されはじめたが、難点は非常に多かった)
ため、何処の軍隊も戦争やると飢える飢える。
(359:329)

銃を持ってるのに剣も持ってる画像があるのですが、なぜですか?

http://www1.neweb.ne.jp/wb/kaname/dord/arms/I1.jpg
銃剣にしては長いように思えるし槍にしては短いし
他にも腰に色々ぶらさげてますが何なんでしょうか
再装填に時間が掛かるから剣も必要。
腰にぶら下げてるのは、火縄、火薬入れ。
(516:407)
腰のは火縄や黒色火薬の筒。発射速度の遅い火縄銃なので、懐に飛び込まれたら殺られるので剣も持ってる。
ちなみにまだ銃剣は発明されてない。
(516:408)

何で塹壕は銃が発達するまで発達しなかったんですか?

銃より射程がある武器なんてずっと前からあったと思うんですが、盾で充分だったということでしょうか
中世の攻城戦では攻める側が塹壕で守る側の城や城市を取り巻いた。
守る側は城壁の上という高い位置から攻撃できるので、それから兵を守るには塹壕を掘るのが手っ取り早かったから。
この頃にはもうジグザグに塹壕を掘るようになっている。
外側の塹壕から援護しながら城に向かって塹壕を掘り進めて行き、城壁に近づいたら持ち込んだ攻城兵器や火薬で城壁を
破壊して内部に突入するという戦法だった。
ナポレオン時代のような、広い土地で優位な位置を取るために運動しながらの戦いでは塹壕を掘るメリットはあまりない。
しかしライフル銃が使われ兵の死傷率が飛躍的に高まった南北戦争では塹壕にこもっての防御が行われている。

竪堀というのが中世日本というか戦国期の日本の山城には頻繁に登場する。
これは遮断の機能のみならず、兵員の通行路や物資の搬入路ともなったと考えられている。
通路としては敵の視線に触れずに曲輪の間を移動できたり、逆襲用に兵を潜ませ待機させておくなどがありえる。
当時は航空偵察というものが無かったし、まして人工衛星も無かったから縄張りの詳細などは実際に見るか
絵図や見聞による情報を総合するほかないわけでそれなりに有効だったはず。
(526:199,205)

第三次ポエニ戦争でカルタゴが滅ぼされたのはなぜですか?

もともと、カルタゴとローマの中間にある緩衝地帯のシチリア島のシラクサなどの政変があり、
そこへ介入するハメになった両国の争いだったのが、ポエニ戦争。

ところが、第2次ポエニ戦争はローマおよびイタリア諸邦の解体を狙ったハンニバルが、
イタリア半島に攻め込み、戦術的には多大な戦果を挙げ、ローマ(市)も危ういという状況まで追い込まれた。
だが、結局、戦局は逆転されて、ローマに優位な講和となった。
特にローマの覇権を前提として、勝手な軍備拡張や隣国との紛争を禁じられた。

これで、ローマは地中海の覇権国家と成り上がり、カルタゴは一貿易国家へと転落した。
とは言っても、ローマ国内にはカルタゴを危険視する連中も多かった。
(逆に覇権国家として、そのシステム内に収まり続けるならカルタゴは存続されるべきと考える連中もいた)

で、カルタゴ自身が軽率なことに、隣国ヌミディアとの紛争で、ローマとの講和条件を無視し、
勝手に傭兵を雇い、ヌミディアに攻め込んでしまった。
ローマは一時調停しようとしたが、調停案の中に、現状のカルタゴ市を破却し、
内陸へ移住を求める条項がカルタゴへの懲罰として盛り込まれた。
カルタゴは、これを拒否。ローマへ武力で抵抗する構えを見せたため、
第3次ポエニ戦争となり、カルタゴは数年にわたる籠城の後、完璧に破壊された。
(528:100)

イギリスの長弓が世界的に見てあまり普及しなかったのは何故?

100年戦争であんなに活躍したのに。
弓は射手を育成するのにとんでもない手間と時間が掛かる。
そして、長弓兵はあくまでも守勢、支援の兵科。
手の内がばれるとその真価を発揮できない。
その脆さはお互いの手の内を知る身内同士の戦争である薔薇戦争で露見した。
因みに軍事的なインパクトは100年戦争の長弓よりも、フス戦争のワゴンブルク戦術の方が大きい。
(541:857)

昔の武士や、西洋の騎士はどうやって弓を引いていたのでしょうか

素手では引けないと思うのですが、現代と同じようにカケを使っていたのでしょうか。
それとも篭手の親指がカケのように弦がひっかかるように出来ていたのでしょうか。
まず日本の武士と西洋の騎士では弓の扱いが全く違います
日本の武士はそもそもが騎馬武者、つまり弓騎兵であり弓馬の道を修めることが武士の本懐でした。
一方、西洋の騎士は弓を扱えず、もっぱら歩兵に任せていました。
むしろ弓は下賤な身分の者が使うもとされ、騎士は重装で突撃することを本懐としていたのです。
この辺りは騎馬民族の軽騎兵を経験したアジアの民と違うところです。

さて質問に戻ります。弓を修める武士はユカケの機能を持つ手袋(小手)を使っていましたが、
騎馬や刀を使った近接戦闘を同時にこなす必要がありますので親指の弦が当たる部分を若干厚くした程度の物です。
現在の弓道で使用されるようなユカケになったのは江戸時代の話です。
(544:モッティ ◆uSDglizB3o)

17世紀の私掠船や武装商船などといった「正規の戦闘艦」以外を改装して用いた船は、どのような装備で、どのように戦ったのでしょうか。

私掠船は拿捕目的かな、と思うので曳航も可能な大型の船で接舷戦闘かな、とは思いますが
武装商船が予想もつきません。護衛のみを考えて大砲なんかで戦ったのでしょうか?
武装商船というか、近代海軍になって商船と軍艦が峻別される以前は、
外航商船は海賊や私掠船から自衛するために、多少の大砲を積んで武装してるのが普通。
自衛目的だから積極的に接舷はしないだろうけど、接舷に備えた小火器・刀剣も持ってる。
船体はただの商船。

私掠船も船体はただの商船。
ただ、積極的に襲撃するために、普通の商船より大砲が多かったり、戦闘員が多かったりするだけ。
曳航は特別の船でなくてもできるし、乗っ取って操縦する方法もある。

付け加えると、17世紀頃はそもそも船の構造からして商船と軍艦との境界が
判然としていなかった。当時は大航海時代の後期に登場した「ガレオン」と呼ばれる
形式の帆船が更に発達しながら用途別に分化していく直前といった頃で、有名どころだと
英蘭戦争当時のオランダ海軍ミヒール・デ・ロイテル提督が座上した戦列艦「フリースランド」は
オランダ東インド会社の商船「プリンス・ウィレム」の同型船(もっとも「プリンス・ウィレム」も
英蘭戦争ではオランダ艦隊旗艦として活躍しているが)だったりする。
(544:325,327)

16~17世紀のヴェネツィアの戦闘艦艇ってのはジーベック含むガレー系一本で純粋な帆船は無かったんでしょうか?

純粋な戦闘用の艦艇ではガレー船が主力となります。あとはガレアス船でしょうか
帆船は純粋な戦闘艦艇ではありませんが、
大型の帆船であればいわば海上要塞と化すため戦闘能力という意味では十分に戦闘用の艦艇に対抗できました

しかしこれは17世紀初頭まで
そのころになりますと大砲の威力向上によりガレー船の機動船より大砲の火力が優越してきます
そのためヴェネツィアはオランダ・イギリスの借り上げ船舶を参考にし
1667年には最初の戦列艦が竣工します。以降ヴェネツィアの主力は戦列艦となり50年間でおよそ70隻の戦列艦を竣工させています
ちなみに戦列艦のタイプはイギリス式です
(561:563)

モンゴル帝国の騎馬隊は、1日に70から100キロメートルを移動して戦闘したとのことですが、現代の陸上部隊でも補給を考えるとこの距離の移動は困難ですよね?

モンゴル帝国軍の場合、モンゴル民族のみで構成された騎馬部隊は、
まんま遊牧民集団なので、食料・皮革の原材料となる羊とともに移動する。
つまり羊の餌となる草地さえあれば、戦闘部隊に生存には困らない程度の兵站機能は常に至近距離に存在することになるので、心配がほとんどない。
遊牧民の集団を定住者的な国家と対比させて、「戦争機械」と称する現代思想家もいるほど。

もっとも、中国、中東、ロシアの諸地域を帝国に内包した段階では、
非遊牧民の歩兵、騎兵も多数動員され、遠征の場合、それらの兵糧は現地調達で賄う外なかった。

まあ、モンゴル帝国だけではないけれど、古今東西、どの時代においても、現地調達、即敵地における略奪とは限らない。
食料の類いは普通は金出して買う。
金出しても売らなきゃ、脅迫して強制的に徴用。
物理的に抵抗するなら、本格的に略奪……というステップがあるのが普通。
まあ、大昔の非遊牧民の軍隊にも、随伴ないし後送の輸送部隊がないわけではなかった。
ただ、あまりにも輸送能力が低く、スピードもなく…
というわけで、ほとんど全部を現地調達に頼らざるを得ないというわけ。
(564:946)

ヨーロッパでは何で土塁や石垣の防壁の発達が遅れたんでしょうか?

石積みの城壁より投石器に対して防御力が高いのなら作られていてもおかしくなかったと思うのですが。
ヴォーバン式の城郭のような防壁ってのは作るのに金が掛かる。
事実、要塞建築で財政が傾いてフランス革命の一因になってるし。
ヨーロッパじゃ総構えの城郭都市が基本だから、都市丸ごと包む防塁+堀ってのはなおのこと金が掛かる。
日本だって総構えの江戸城や名古屋城は天下普請の一大事業だっただろ。
中世とか生産力の弱かった頃じゃポンポン作れないよ。

それと、中世の城(都市)の城壁ってのは防御施設であると同時に防犯施設なんだ。
壁向こうのド貧民と中の富裕層、支配者層をを分けて不逞の輩が入り込まないようにする為の。
防御力重視で低く、厚く作ると犯罪者が侵入しやすくなってしまう。
パリの城壁の発達の歴史とか見てるとその辺がよく分かる。
だから、城壁には厚み以外にも高さも必要となる。
最終的には市街拡張の邪魔だから20世紀には大抵の都市で撤去されて、環状線の道路とかになってる。
(573:191)

カルタゴのハンニバル将軍はアフリカから連れてきた象でアルピス山脈を越えてローマに攻め入ったそうですが、象って雪山を踏破できるの?

http://www.livius.org/ha-hd/hannibal/alps.html
ローマの歴史家リヴィウスの記述に基づくハンニバルの行程
ここを読めば分かるとおり、アルプス越えの道はあったし象が通れないところは歩兵が道を開いた。
それでも山岳民族の襲撃や地すべり、降雪などで象も含めてハンニバルの軍勢はアルプスを越えるだけで大損害を蒙っている。

ちなみにユリウス・カエサルの家名「カエサル」はフェニキア語の「象」という説がある。
先祖がポエニ戦争に参戦して北アフリカに行き、そこで見た象の大きさと強さに感銘を受けて家名にしたといわれているそうだ。
(336:730)

古代ローマでは、歩兵は投槍と短剣を持って、まず槍を投げてから剣で戦ってましたよね。何故弓ではなく投槍を使ったのでしょうか?

http://www.soldiers-russia.com/kolobob/roman_legionary_with_pillum_rm02.htm
ローマ歩兵は盾を持つので弓は使わない。
どこの国でも普通は遠距離から攻撃する弓兵と白兵戦を行う歩兵は分けて編制する。
ローマの投槍(ピッルム)は盾に突き刺さって使用できないようにするための武器。
そのために槍の穂先をわざと細くして、当たると曲がって抜けにくくなるようになっている。
そうやって敵が盾を手放して身を守れなくなったところで突撃して剣で攻撃するというのがセオリー。
長槍を持った敵には後方に控えている長槍を持った部隊で対応できる。
(592:372)

三国志で張飛や関羽など一騎当千といわれる武将たちは、実際に戦場の最前線で戦いながら指揮していたのでしょうか?

いくら一騎当千といえども、戦場では目立つし、弓で一斉射撃をくらえばかなり危なそうなのですが
そうしないと兵がついてこない。
あと当然ながら無線機のない時代なので、指揮官も前線に出なければ
戦況が把握できず、部隊指揮が出来ない。
(329:)

昔の竜騎兵の役割はどんなものだったの?

時代、地域ごとに変遷はあるが、17世紀頃の初期の竜騎兵の任務は偵察や拠点確保だった。
全軍に先んじて戦場の地形を観察するとか、戦場近辺の重要な橋を占拠しておくとか。
要するに歩兵では時間が掛かり過ぎるが、騎兵にやらせるほどの任務でもないという場合に竜騎兵が使われた。

つまるところ、初期の竜騎兵は雑用係、戦場の穴埋め役のようなものだったんだろう。
であるから騎兵と協同して戦闘を行うというケースはあまりなかったんじゃないかな。
もっとも、ナポレオン戦争ごろにはほとんど普通の騎兵と同じように使われてたけれど。
(322:476)

竜騎兵は騎兵が下馬して歩兵戦闘を行うようになってできた兵科なのでしょうか?

それとも歩兵が乗馬してできた兵科なのでしょうか?
 当初は乗馬歩兵として発達したが、19世紀に騎兵化した。もっとも、国によって事情
は違って、フランスでは長銃装備の騎兵として猟騎兵(軽騎兵)や騎銃兵(重騎兵)が
成立したので、乗馬歩兵としての役割が多く残ったし、プロイセンでは逆に殆どが重騎
兵化した。
(322:600)

ローマ帝国は、戦争のときの兵站はどうしたんですか?

現地調達に決まってるだろ。
兵站が遥かにローマより発達した現代の軍隊だって食料は基本現地調達なのに。
まあ、場合によって現地で商人から買い付けるか、現地住民から徴発するか、略奪するかの違いはあるだろうが。

近代以前の軍隊は食糧は現地調達が基本。
(616:246,247)

中世~近世の西洋における会戦で、傭兵と貴族の関係はどういうものだったのでしょう。

傭兵の戦場での指揮は、あくまで傭兵隊長や、その部下が行うのですか?
傭兵は文字通り雇い主との契約にのみ忠実。
王が雇った傭兵隊は、王が任じた将軍が指揮する(傭兵隊長が将軍になることもある)
貴族は王との主従契約により軍役につく。自分で兵を率いることもあれば御用金を貢ぐことも。
奇妙かもしれないが複数の王に仕える貴族もいて、双方に軍用金を貢ぐこともある。
長年英王がノルマンディー公として仏王の家臣だったこともあるように、
契約社会が元になっている欧州の封建制は、日本より複雑なので詳しくは世界史板で。

中世フランスの場合、イスラム勢力の侵攻が落ち着き
バナレット騎士が貴族化し国内での紛争や小規模な小競り合いが多くなった時代だと
貴族は親衛兵やサージェント傭兵などを主体とした私有軍を持つ
また、封土の領民はその土地の城や橋などの修理を義務とし、防衛義務も持つ。
傭兵は金銭で契約する、攻城用の投石機を扱う傭兵は民兵の隊長よりも給料を多くもらっていたらしい。

王や上位の伯爵・公爵は、封土の臣下に対し40日間の動員を行うことができた
それに対し臣下はあくまでも最低限の私有軍しか動員せず、40日経ったらさっさと帰還したという。

死亡率については、重装のメールホウバークなどを装備した重騎兵だと
殺してしまってはその家族や一族を巻き込んだ復讐劇になりかねないので回避されることが多く
軍馬ですら殺害すると非常に厄介なことになったという。
(316:879,880)

投石器と言えばヨーロッパですが中国では投石器は発達しなかったの?

有名なところでは、王朝の元をたてるモンゴル軍が使った回回砲がある。

wikipediaのトレビュシェットの項目のところでも触れられているのだが
書籍だと杉山正明(京都大学教授)の一般向け著作で出てきます。

モンゴル軍が多種多様な民族からなり、回教徒の攻城技術者を重用していたことを
示す史実として触れられています。

なんでも、襄陽を攻撃するとき、濠がわりの大河越しに大石をこの器械で
放り投げたといいます。

具体的には、左右の釣り合いが著しく不均等な天秤で、軽い方の皿に紐を吊り下げて
先に網を結びます。この網に石を入れて、逆側の皿に大きな重しを載せてやると
勢い良く石が飛び出します。これを大規模にやるとトレビュシェットとなります。

動画はhttp://www.youtube.com/watch?v=tMqYl7cFDJsあたりが良いと思われます。
(639:511)

「マラトンの故事」で勝利の報を告げるために全力疾走して絶命した兵士ですが、彼はなぜそんなに急いでいたのですか?

マラトンの戦いで、アテナイを中心とするギリシア軍は
上陸してきたペルシャ軍を海に追い落とすことに成功した。
しかしペルシャの船団はその時点では殲滅できておらず
マラトンを脱出した兵を載せて海上を航行して
アテナイに上陸し攻撃を加える高い可能性があった。

そのため、詳しい状況をアテナイに大至急知らせて
軍隊の移動と受け入れ態勢やアテナイの防備を固める必要があった。

彼がその任務に見事に成功したことで
ギリシア軍はペルシャの船団より先にアテナイに帰り着き
ペルシャの船団がアテナイに到着前に防備を固め
兵を損なうことなく、ペルシャ軍の上陸を阻止することができた。

連絡や凱旋して軍のアテナイへの帰還が遅れると、
アテナイはペルシャ軍に占領されていたか、本国での激戦になり
国力を大きく損ねた可能性がある。
(685:561)

中世の騎兵を突撃を防ぐ長槍って乱戦では長すぎて使えなさそうなのですが、長槍を持った兵士って、他にも武器を持っていることが多かったんですか?

質問主が何時代を想定しているのかで違ってきますが、
中世イギリスやフランスなら長槍兵は接近戦を行いません。
生きた馬防柵のようなものです。
長槍兵が敵の騎兵の行動を抑制し、味方の騎兵が突入する隙を作るのが仕事でした。

スイス兵は中世からルネサンスにかけて「アレバルド」をつかっていました。
これは斧と槍が組み合わさった物で騎兵の突入を防ぎ、接近戦にも使える物でした。
ただしスイス兵は飛び道具を軽視したため、スペイン式の編制(後述)が広まると不利に陥りました。
小銃が普及するとアレバルドに代わり、長槍と銃を装備するようになりました。

ランツクネヒトはドイツ皇帝がスイス兵をまねて作った傭兵隊ですが、
装備は長槍が全体の1/3、アレバルド1/3、飛び道具1/3というものでした。
カッツバルゲル(喧嘩剣)は隊列の前方数列のみが装備し、専門の兵士が扱いました。給料も良かったようです。

1500年代に入るとスペイン兵は長槍兵と銃兵の組み合わせを考えました。
のちにテルシオと呼ばれるものです。実は当初は長槍兵が接近戦に弱いので銃兵がそれを補っていました。
当時の小銃の有効射程は短いですからね。
その後主客逆転し、槍ぶすまで敵の突撃をくい止め、銃兵の射撃で撃破するようになります。

つまりどの時代も長槍兵の隙を埋めるための部隊や装備があり、ルネサンス以降は専門分化が
進みました。そして最終的には小銃プラス銃剣に落ち着くわけです。

日本語ではいい文献がなかなか無いですから、英語が読めるのでしたら洋書をamazonなどで買うといいと思います。
militaryとかinfantry、medieval,renaissanceなどをキーワードに検索するといろいろヒットすると思いますよ。
(144:742)

中世の戦場では槍専門の槍歩兵はけっこうメジャーだったらしいですが、剣歩兵やメイス歩兵というのはほとんどいないのでしょうか?

槍がメジャーですよ。剣歩兵もいますね。しかし主力は槍でした。

1422年、当時のスイス傭兵達は独自のパイク戦術の中で、前面にハルベルトとバスタードソードを持った兵士で統合した部隊を配置し、ベリーンウェーナにおける戦いで勝利しています。
パイクとは長槍の一種で、ハルベルトというのも槍の一種です。

また、ドイツの30年戦争で傭兵達はカッツバルケルという剣を好んで携行しています。
メイスなどの打撃系武器も、割とポピュラーでした。欧州での登場は13、14世紀のことです。
歩兵達が用いる打撃武器は強力で訓練も少なくて済み、1302年に起きたブルーニュという町の一揆で、一揆を起こした側が使用し、鎮圧に来たフランス騎士達を皆殺しにしました。
ある試算によれば、この時、兵士一人で、フランス軍の騎士二人を倒した計算になるそうです。ある程度は誇張でしょうが、打撃武器が強力なのは事実でしょう。
打撃武器はこの後、パイクとそれに続く火器の登場により歩兵の間では廃れていきます。
しかし、騎士の間では使われ続け、16世紀まで使用さえされています。
(151:563)

攻城戦ですが、漫画とかで見ると「完全に包囲してる」とか書いておきながら、包囲中に簡単に外交使節を他国に送ったりしてます

一体、あの頃の攻城戦はどんなものだったんですか?
包囲、といっても城の外周をぐるりと取り巻くようなことはしない。
せいぜいで、城門前に各部隊を配して、交通を遮断。
部隊間の間をせいぜい哨戒するというのが普通。

強襲する場合も、城門からそんなに離れた場所を攻めるわけじゃない。
城門を乗り越えるための攻城装備や衝車、投石器といった城壁の破壊兵器を駆使して、
城内に何とか兵の一団を送り込み、城門を中から奪取して開け、
本隊を呼び込むというのが普通の攻め方。

まあ、特殊な攻め方としてはトンネルを掘って、中に兵を送り込もうとしたり、
城壁をそこへ落とし込もうとしたり……あとは水攻めに火攻め……

それと、中世までの中国や欧州、中東で、「城」といった場合、
たいていは、「都城」であって、都市一個を丸ごと囲ったもの。
現存する日本の城だって、ほとんどは天守閣だけが残っているせいで、
ちっぽけに思えるが、実は城下町の中心市街地のほとんどを丸抱えで囲っていた。

そういった都城をぐるりと、本当の意味で水も漏らさぬように囲い込むのは、
中世までの兵隊の動員規模を考えれば、かなり困難。
まあ、城(都市)の規模にもよるけどね。
(213:593)

何故日本では大砲の活躍が幕末までまたなければならなかったのでしょうか?

大阪の陣では使ってるし
原城でも外国船に撃たせたり使ってはしてるんだが…
大砲装備前提の城ってあるのかね、狭間とか鉄砲は前提なんだが

抱え筒で良しとしたのかよくわからん

江戸時代は大型船の建造禁止してるし金もなくなるし発展の仕様がない
(俺初質スレ50505:883)
一応火砲の使用が広まり威力が知られてきた戦国末期から江戸初期にかけては
大砲への防御を意識した城造りをするか防御をあきらめた城にするか別れ始めてはいるけどなあ

あとは江戸時代になって銃や火砲は大分制限されたからかな
(俺初質スレ50505:884)
戦国期は硝石の殆どをタイや中国からの輸入に頼っていたので、
鉄炮に比べ一度に大量に火薬を消費する大砲の運用は、
大大名や大友など直接海外貿易をしていた西国の一部大名を除き、
火薬供給の点で難しかったということもあるわな。
(俺初質スレ50505:885)
江戸時代は平和外交の時代で末期まで戦争は無かったから、砲を進化させる動機も経済的合理性もない
(俺初質スレ50505:889)
いやまあわけのわからんものはあるんだけどな
どうやって使ったんよというレベルの
http://paomaru.dousetsu.com/file/03_buki_013.html

ついでに原城攻防で大口径砲使おうと思ったけど、味方がちかすぎて危ないから辞めたそうな
最前線の距離が敵と約6.4mだそうな
目検討でいい加減とか仮に見栄を張ってるとしても近すぎるだろというw
(俺初質スレ50505:890)
日本においては、大砲の運用は据置が主流で
西洋などではすでに野戦砲、軽量化した大砲に車輪をつけたタイプが
実用化されていたそうですね。
日本ではそのタイプは考慮されてないみたいで、江戸期においても見向きもされなかったみたいなのが不思議です。
日本は馬の体格が小さくて力が弱く、しかも山がちで小川が多くて木橋が主流だったために
西洋式の野戦砲が実用化できませんでした。
日本の馬格の問題は日露戦争まで影響を及ぼす大問題だったのです。
(俺初質スレ50505:891)
江戸時代に大砲使うような野戦って、幕末までなかったもん
必要だったのはお台場に据える海岸砲
日本人が大阪城で遠距離砲撃交えた塹壕戦をやった、30年後
ネイズビーの英国人はロングボウとパイクで合戦してたぞ
(俺初質スレ50505:893)


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