韓国軍は1964年にMIM-23「HAWK」中距離SAM、続いて1965年にMIM-14「ナイキ」長距離SAMをアメリカから導入して本格的防空体制を整えたが、北朝鮮軍が多数保有するヘリコプターや低速機に対処できる自走式近距離SAMの整備が必要と考えられていた。そこで外国製兵器に依存する現状からの脱却するために、近距離SAMを国内開発する事が1983年に決定された。海外のローランド(独・仏)やADATS(スイス)などの導入も検討されたが、地対地ミサイル「玄武」や対艦ミサイル「海龍」などのミサイル開発の経験を活かせば、近SAMの国内開発も行え得ると判断されたのである。国産近SAMの開発にはADD(Agency for Defense Development:国防科学研究所)の朴博士(陸士22期)の主導で国内外13社が参加した。主開発契約社は大宇重工で、SAMシステムは三星電子社(現三星タレス社)がフランスのトムソンCSF社(現タレス社)の協力を受けて開発した。本格的開発が始まったのは1989年7月からで、1997年に終了した。1999年に韓国陸軍はKSAM 48輌を3億3,000万ユーロで発注し、2003年に第2期として69輌を4億7,000万ユーロで発注している。第2期分は2009年までに軍に引き渡される予定。初期の国産化率は64%だったという。ミサイル1発の価格は2億8,000万ウォン。ミサイルの生産は慶尚北道亀尾市にあるNEX1社第2工場で行なわれている。同工場の生産管理課長によれば、ミサイル1発の生産にだいたい1ヵ月半かかるという。今のところ第20機械化歩兵師団の防空大隊に配備が確認されているほか、主に首都防衛司令部の部隊に配備が行われているようだ。2002年に行われた日韓開催のワールドカップにKSAMは早速出動し、ソウルの防空体制を補完した。
国産近SAM「KSAM」は先行して開発が進められていたK30 30mm自走機関砲「飛虎」とともに、ガン・ミサイル・コンプレックスを形成する事が計画された。また対空ミサイルとしてだけでなく対戦車ミサイルとしても使用できるようにと考えられていた(その後SAM専用とされた)。当初KSAMは装軌車体に光学式追尾装置と4発のミサイルを搭載する予定だったが、陸軍はミサイル8発の搭載を要求して譲らなかった。要求が通らないなら近距離防空は携行SAMで充分とまで言う陸軍に押される形で、結局KSAMにはミサイル8発が搭載される事になったが、開発側は小柄な車体に8発ものミサイルを搭載するのに頭を悩ませた。この問題はミサイルを小型軽量化する事で解決する事とされたが、それにはシーカー部分をどう処理するか(どういう誘導方式にするか)が重要な鍵だった。計画では発射されたあとUTDC(Up-To Data Command:間欠指令)で目標方向に向かい赤外線画像シーカーで空中でロックオンするLOAL(Lock-On After Launch:発射後ロックオン)と、目標が極近距離の場合は地上でロックオンしてから発射するLOBL(Lock-On Before Launch:発射前ロックオン)を併用する誘導方式が検討されていた。しかし開発陣はこの方式を諦めざるを得なかった。首振り角の大きな赤外線シーカーを搭載するにはミサイルそのものを大きくしなければならず、そうすると車体に8発搭載する事ができなくなるためだ(自衛隊が使用している同じ誘導方式の81式短SAMは4発装備)。結局KSAMの誘導方式はCLOS(Command to Line Of Sight:指令照準線一致)とする事が1987年に決定された。
FCS(Fire Control System:火器管制装置)はそれまでのミサイル開発・生産の経験を活かし、国内開発する事が可能と判断された。しかしレーダーによる目標の探知・追跡システムは海外の技術を自らのものにしてから国産化する事が必要だった。そこで韓国は海外16社に仕様要求書を送り、1987年末までに5社から回答を得た。その中からトムソンCSF社とスウェーデンのエリクソン社が最終選考に残り、最終的に三星電子社と繋がりが深く格安の技術移転料を提案したトムソン社が選ばれた。三星電子社は120億ウォンを投じ、トムソン社からの技術提供を受けて捜索レーダーと追跡レーダーを完成させた。構成部品の国産化率は初期で64%だったという。