■第三次桂太郎内閣
内閣総理大臣: |
桂太郎 |
内務大臣: |
大浦兼武 |
外務大臣: |
桂太郎 |
大蔵大臣: |
若槻礼次郎 |
司法大臣: |
松室 致 |
文部大臣: |
柴田家門 |
農商務大臣: |
仲小路 廉 |
逓信大臣: |
後藤新平 |
陸軍大臣: |
木越安綱 |
海軍大臣: |
斎藤 実 |
内閣書記官長: |
江木 翼 |
法制局長官: |
一木喜徳郎 |
○明治天皇崩御と大正の幕開け
1912年7月20日に宮内省が天皇重篤と発表、30日に天皇崩御の報が東京に号外として駆け巡った。近代国家の君主として明治天皇の崩御は多くの人々に影響を与えた。乃木大将は妻とともに葬儀後に自殺、夏目漱石は明治の時代を追想した作品を発表。そして大正天皇が即位した。
天皇が変わっても政治は依然として日露戦争後の戦後運営に苦しんでいた。第二次西園寺内閣は累積した戦債を解消するために行財政整理に取り組んでいたが、陸軍がロシア軍の北満州方面での戦力拡充を理由に当時の田中義一軍務局長(後に首相)が練った「6個師団増設10ヵ年計画」を提出、しかし西園寺は財政を理由につっぱねた。しかし上原勇作陸相は「2個師団増設」を要求、議論は平行線をたどり、上原は帷幄上奏権で単独で辞職、陸相を新たに迎え入れることができず、西園寺内閣は辞職となった。陸軍が自らの力で倒閣に始めて成功したのである。市民は激しく憤った。この中で長州・陸軍閥の桂太郎に再び大命降下が下ったのであった。
○第一次護憲運動の高揚
第30帝国議会は1912年12月24日に召集、27日に開会した。運動の始まりは桂が政友会との連携をしなかったところから始まった。そして前首相:西園寺公望も桂からの協力要請を一蹴。政友会と国民党が結び、桂内閣倒閣を強く打ち出した。一方桂は政局の運営のために新党結成を企図したが議場の外に埋め尽くされた民衆、そして激昂する議員たちは白薔薇をつけ議会で激しく桂内閣を攻撃、尾崎行雄は「彼等は玉座を以て胸壁と為し、詔勅を以て弾丸に代へて、政敵を倒さんとするものではないか」と弾劾した。耐えかねた桂は議会を停止、議会を解散しようとしたが衆議院議長の大岡育造が辞職を桂に迫った、桂自身も胃がんに侵されており桂は内閣と投擲、事態収拾は次の内閣にゆだねられた。議会では所得税法改正案(減税)が審議され、営業法税改正案は不成立となった。
■第一次山本権兵衛内閣
内閣総理大臣: |
山本権兵衛 |
内務大臣: |
原 敬 |
外務大臣: |
牧野伸顕 |
大蔵大臣: |
高橋是清 |
司法大臣: |
松田正久⇒奥田義人 |
文部大臣: |
奥田義人⇒大岡育造 |
農商務大臣: |
山本達雄 |
逓信大臣: |
元田 肇 |
陸軍大臣: |
木越安綱⇒楠瀬幸彦 |
海軍大臣: |
斎藤 実 |
内閣書記官長: |
山之内一次 |
法制局長官: |
岡野敬次郎⇒倉富勇三郎 |
桂内閣の辞職を受けて、後継首班推薦のために元老達が召集された。山縣有朋、松方正義、桂太郎、そして山縣に呼ばれた西園寺公望である。当初山縣は西園寺に後継首班を依頼したが西園寺はこれを固辞した。結局、客観的な第三者として西園寺が後継首班を推薦することになり、薩摩派の山本権兵衛が首相となった。
○シーメンス事件
最終更新:2005年12月26日 00:40