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久野 修慈(塩水港精糖株式会社会長・中央大学理事長 )
生年月日:昭和11年1月22日生まれ
血液型:A型
出身地:福井県
両親の職業:(父)旧制中学の校長 (母)主婦
出身大学:中央大学
座右の銘:「感謝の気持、率直、熱して戦う」
趣味:読書、スポーツ全般
※2008年1月インタビュー

学生時代について

 中央大学と早稲田大学両方に合格し、私は早稲田に行く気になっていたが、父の助言で多くの法律家を輩出している中央大学に入学した。そして、中央大学の代々木寮での生活が始まった。若い男が300人もいる寮で、とんでもないところだったね。6畳の狭いところに3人で暮らし、朝まで酒飲んで討論したり、田舎から米が送られてきた時なんかには、洗面器でソーセージと一緒に炊いて食べたりとみんな迫力があった。そんな寮生活で、私は2年間寮長をやっていた。大人数をまとめることはもちろんのこと、泥棒をやる奴や遊郭で借金する奴を厚生させたりと、人間としての強さやリーダーシップが身に付いた。授業の方はあまり真面目に出ていなかったね。みんな不良だったんだよ。でも、司法試験の勉強をしていたので、学部長と交渉し休館予定の図書館を年末から開けさせたこともあったね。

サークルやアルバイトについて

 サークルはやっていなかった。アルバイトは、アメリカ人の洗車をしていたね。他には、ちり紙を売っていた。

学生時代にやっておけば良かったこと

 別にない。俺の場合はないな。

卒業後から現在に至るまでの経緯

 大学卒業後は、中央大学法学部教授でもある吉田久先生の書生となり、司法試験の勉強をやりながら、先生の手伝いをした。先生は昭和17年の総裁選挙の際に、大政翼賛会をごり押しした「翼賛選挙事件」の裁判を担当していて、当時の東条首相ら郡部の圧力に屈することなく、裁判無効の判決を命がけで下したのである。そんな先生の下で2年間勉強をしたが、司法試験に受からず、母が就職してくれと言ってくるので就職することにした。私は、行儀が悪く、サラリーマンにはなれないと思ったんだよね。だから、魚屋である大洋漁業(現マルハ)というガラの悪い業界に入った。南極までクジラを捕りに行ったこともあるし、乱暴な世界であったので、人間としても大きくなれた。しかし、そこの会社は、同族会社であり多くの問題を抱えていた。私はオーナーの中部兼吉社長ら経営陣に噛みついた社員であったが、不思議なことに社長の相談役として招かれた白須次郎さんの秘書へと呼ばれた。白須さんはGHQの重役に向かって「敗戦国だが、奴隷ではない」と言い放った気概と迫力のある人である。私は子会社である横浜大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)運営会社、大洋球団の社長をやっていたこともあり、横浜スタジアム建設や球団の強化に携わったこともある。そして、90年に大洋漁業の子会社であった現在の塩水港精糖の社長に就任し、05年に同社の会長となった。この会社は台湾にあった会社で、あの新渡戸稲造が創立に加わっているとても古い砂糖会社である。他にも、数社の代表取締役、日本・キューバ経済懇話会の副会長、WTO・FTA対策農林水産経済連携懇話会代表、精糖工業会会長、中央大学学員会の会長等を兼任している。

トップまで登り詰めるには

 犠牲的精神の中で生まれたリーダーシップを発揮すること。

学生へのメッセージ

 「道近在」
人はプライドやへりくつで道を遠くに求めている。しかし、道は近くにあるんだよ。それには純粋性と率直性が必要。なるべく近くに道を求めていかなければねらない。

今後の夢

 本を書くこと。水上さんという有名な小説家から「小鳥遊」というペンネームを頂いた。庶民がゆうゆうと暮らせるような社会になるように、という意味が込められている。

人生とは何か

 戦いだな。
矛盾との戦い、権力との戦い、弱者のための戦い。
常に弱者のための戦いだな。

(本社にて)