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内藤湖南「香の木所に就て」」(2005/11/04 (金) 01:12:34) の最新版変更点

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香の木所に就て<br>  我邦で香に関した著述は随分古くからあつて、香字抄又は香薬抄といふ書は続群書類従にも載つてゐる。尤もこれらの書には種々異本もあるが、私の見たのは 香字抄は平家時代かと思はれる古写本(猪熊信男氏蔵)、香薬抄は私の所蔵する元和の奥書のある写本と、それに続群書類従本とであるが、この香薬抄は有名な 醍醐の勝賢、成賢両僧正の奥書があつて、しかも勝賢の奥書には永万元年に写したと記してあるから、これ以前に出来たらしく、その書中には支那の宋初の開宝 年間に重定した本草、ならびに大中祥符元年に出来た重修広韻なども引用してあるので、恐らく院政時代を上ることはなからうと思ふ。続類従本には惟宗俊通の 撰としてあるやうである。俊通は白河天皇の承暦中高麗へ遣されようかといふ議のあつた名医である。ともかく香に関しては余程良い記録である。その頃の香に 関する考へは、仏事あるひは衣類に焚きしめる必要などから出て来てゐるから、その種類も沈香とか白檀とかには限らないで、蘭その他の香草、麝香などのやう な動物性の種類をも含んでゐる。その時分にはまだ聞香即ち香道といふやうなことが起らなかつたので、――聞香の法が起つてからは、専ら南洋の香木に限つ て、それを研究もし、又賞翫もするやうになつて来たが、――香字抄、香薬抄時代の香に関する智識は随分広汎で、漢籍仏書などにも渉つてゐるけれども、直接 に香の産地のことに就て注意し、産地によつて香の種類を鑑別することなどは、まだ起つてゐなかつたと思ふ。<br>  聞香のことが行はれるやうになつたのは、何時の頃からであるか。徳川の中世に香に関する多くの著述をした大枝流芳の記すところでは、南北朝時代の佐々木 道誉を以て元祖とするやうに云ひ、降つて東山将軍義政も之を好んだ。志野流の香道の祖宗信は足利将軍義澄時代の人といはれるが、この宗信の頃から香道が本 式に定まつたらしいのである。志野宗信の筆記といふものに拠ると、その以前に既に支那へ渡つた僧侶によつて香を取寄せたことが書いてあるが、その頃香の産 地について明確な智識を有つてゐたか否かはよく解らない。然るに、その後信長時代に建部隆勝といふ人の天正初年の筆記があつて、それに拠ると香の産地のこ とを明かに記してある。即ち香の産地として、伽羅《キアラ》、新伽羅《シンキヤラ》、羅国《ラコク》、真那班《マナバン》、真那賀《マナカ》、以上を名香 の木所というてゐる。その後徳川の初期に米川常伯といふ人があり、その頃から六国の香といふことが云ひ出されて来た。それは今挙げた伽羅、羅国、真那班、 真那賀の外に佐尊羅《サソラ》、寸門多羅《スモタラ》を加へて六国としたのである。この時分から漸次香の産地に就て注意が向けられて来て、大体は右の六国 からして各々特殊の香が産する者といふことに極めて居たらしい。しかしそれに就ては多少議論があつたらしく、大枝流芳の云ふところでは、米川氏以前は六国 の香とは云はなかつた、さうして<br> 前に挙げた四国の他に赤栴檀《シヤクセンダン》があることは見えてゐるけれども、六国といふことは頗る不確だ、実際その香を聞いて見るに佐尊羅と寸門多羅 とは一種の香である、六種共に別箇の香ならば六国と称しても可いけれども、六国の内に同じ木が出た処があるといふことでは、六国の名によつて確には弁じが たいとある。<br>  それに就て、この六国の地名が果して何ういふ地方であるかといふことまで大枝氏は考へたが、同氏の著香道千代の秋といふ書には、羅国《ラコク》、満剌加 《マナカ》、蘇門答刺《スモタラ》、伽羅《キヤラ》の四国はもろこしの書に侍る。さそら、まなばんの二国いまだ考ず。万国図中にある仙労冷祖をさそらと し、馬拿莫大巴をまなばんと梵語にては通ずるよし云ども、未だたしかなる書におひて考ず。追て考しるすべし。云々<br> とある。この書は享保十七年に書かれたものらしいが、更に享保十九年の著述香道奥のしをりには、また新伽羅は後に渡りし伽羅なるべし。別に新伽羅と云もの ありといふ説は大に悪しゝ。伽羅、羅斛《ラコク》、満剌加《マナカ》、真蛮《マナパン》はともに南方海外の国の名也。後世|蘇門答剌《スモタラ》、差咀羅 《サソラ》の二種の香をまして六国と名付、その余又|太泥《ダニ》といふ香あり。むかしは六国の名目なき事千代の秋に考のせり。もろこしの書に出る考証は 増補の香志にのせ侍る。千代の秋にも載る如く、仙労冷祖をサソラなりといふ人あれども誤なるべし。長崎西川氏の書(華夷通商考を云)にも蘇門答刺国を仙労 冷祖島と云とあれば、スモダラと同国なり。サソラは南蛮の中迦摩縷波国の南方、室利差咀羅国あり。是やサソラなるべし。太泥も国の名なるべく、六国と云名 目は当流にはなし。木所と云なり。木所を聞わくる事、香道の専要なり。云々<br>  この大枝氏は斯ういふ風に香の産地について種々研究的に考へるやうになつて来たのであるが、その云ふところには多少の誤がある。それは先づ第一に伽羅を 国名のやうにいふのは謬であつて、伽羅は全く香木の名である。大枝氏は、その著述の附録として香志を出版している。同書は漢学の造詣ある人に依頼して書い てもらつたものらしく、巌信といふ編者の名まで記してあるが、この香志は享保頃の人の著述としては、よく支那の諸書を渉猟したものであつて、その引用した 書目を一覧するに、香木のことに関してだけでも、明の倪朱謨の本艸彙言、田芸衝の留青日札、陳継儒の偃曝談余、費信の星槎勝覧、馬歓の瀛涯勝覧、屠隆の考 槃余事、陳懋仁の泉南雑志、黄衷の海語、方以智の通雅及び物理小識、張燮の東西洋考、李時珍の本艸綱目、黄一正の事物紺珠、それから更に溯つて、唐の馮贄 の南部煙花記、宋の洪芻の香譜等にも及んでゐる。殊に明代に南洋地方を実際に見聞した正確な記事の書、たとへば星槎勝覧、瀛涯勝覧、海語等に注意した点に 於ては、支那で香に関する著述中最も有名である明の周嘉胄の香乗や、清の王訴の青煙録などに比べても、寧ろ勝つてゐると思はれるが、それにかゝはらず大枝 氏の香の智識には充分に香志の記事を咀嚼し得なかつた点もあるやうに考へられる。香志には伽羅は即ち棋楠香又は加藍香又は奇楠香と同じことであるとして、 畢竟香木の名に漢字の宛て方が異なるだけのものであるのに、これを国名と考へたのは大なる謬である。また西川求林斎の説に従つて蘇門答刺を仙労冷祖と考へ たり、又はサソラを室利差咀羅国とし、マナバンを馬拿莫大巴としたのは皆謬である。<br>  大体この香の木所の地名の中で明かに知れてゐるものは羅斛、満剌加の二つである。羅斛は今日の暹羅国の一部分であつて、支那の元代に出来た島夷志略には 羅斛を載せて、その記事の中に「此地産二羅斛香一、香味極清遠、亜二於沈香一」とある。藤田剣峰博士の島夷志略校注に依れば、ゲリニー氏并にヒルト氏、ロ ツクヒル氏等は、この地を今の|■南《メナン》河流域のロフリの地だとして、それが西暦一三四九年に暹国と合併して暹羅国となつたのだと云つてゐる。満剌 加は今のマラツカの港のあるところで、これは説明を要しないが、蘇門答刺も現今のスマトラの島である。伽羅の産地は安南地方の占城を主としてゐることは既 に香志にも見えてゐる通りである。それから六国の中ではないけれども大枝氏は太泥《ダニ》のことも云つてゐるが、これも、ゲリニー氏に依れば北スマトラの バタニ河の海口にある地方を指すのであることは明かに解つてゐる。たゞ大枝氏も明瞭にはわからず、今日猶ほ疑問とすべきは差咀羅、真那班の両地である。差 咀羅については仙労冷祖が即ちその地だとしてあるが、この仙労冷祖といふのは利瑪竇(マテオ・リツチ)の万国図に拠れば今日のマタガスカル島であつて、艾 儒略(ジユリウス・アレニ)の職方外紀には聖老楞佐《セントローレンゾ》と記してあるのである。勿論サソラとは別の地であるらしいが、西川求林斎がスモタ ラを仙労冷祖と云つたのも亦誤である。大枝氏は差咀羅を迦摩縷波国の南方室利差咀羅であらうと云つたが、この地名は玄弉三蔵の西域記にあるので、カンニン ガム氏に依れば、これはガンジス河の流域地方にある国らしいけれども、真の名は室利差■《0》羅(Sri-kshatra or Srikshetra)であつて室利差咀《0》羅ではない。<br>  余はそれらについて考へてみたのであるが、印度のデカン州のプーナ地方にサスバル(Sasvar)サスバード(Sasvad)サツサル(Sassar) サツソール(Sassoor)などゝ云はれてゐる土地があつて、ビマ河の盆地であるといふことが、ビヾアン・ド・サンマルタンの世界新地名辞書に出てゐ る。この地はボンベイに近い印度西部にあるらしいので、或はそれかとも考へられる。しかし又一方から考へると南洋地方で香木の産地として最も有名である栴 檀の島、即ちサンダルウツド、アイランドと称せられる地方のことが、この木所の中に記されてゐないのは不思議に思はれる。この栴檀の島は今日では香木を久 しい間濫伐した結果、海岸には殆ど樹木がなくなつて、その地名にも当らない状態にあると、同じ地名辞書に出て居るけれども、三四百年前までは豊富な香木の 産地であつたのである。それで、サソラは或は同島のことではないかと思はれるけれども、サソラに似た地名としては、その島の西北に突出してゐる岬角がサツ サ(Sassa)と呼ばれるだけで、他に確にそれらしい地名が見えないから何とも確定しがたいのである。兎も角この二つの土地はサソラとして考へ得られる ものである。<br>  今一つの未解決の地名である真那班については、これも或はそれかと考へられる土地が二つある。一つは印度のマラバールであつて、ブワレの歴史地理辞書に よればマラバールは土語ではマラヤバとも云ひ、葡萄牙のヴアスコ・ダ・ガマが世界一周の航海をした時、最初に征服した印度の地方が即ちその地である。此処 は昔から胡椒を産する国といふ意味でマレといふ言葉が出来たのであるが、ともかく紀元六世紀の頃から希臘人の著述にも知られて居る。或は又中世に専ら東西 洋の交通に従つた阿拉比亜人の言語からマラバルといふ言葉が発生してゐるとも云はれ、阿拉比亜人のイブン、バツータの地理書にもムレーバル (Mouleibar)といふ名で記され、又マルコ・ポロの紀行にもメリバルと書かれてゐる土地であるから、多分この地が真那班であらうと思はれる。然し また一方から考へると、スマトラの島中に旧港といふところがあつて、その本名はパレムバン(Palembang)と呼ぶことは島夷志略や瀛涯勝覧(この書 には■淋邦とあり、即ち諸蕃志の巴林馮である)その他の古い地誌にも見えてゐるのであるから、或はそれではないかとも考へられる。大枝氏が馬拿莫大巴を真 那班と云たゞらうといふ説を挙げたのは甚だ不確なことであつて、モノンタバといふのは前の利瑪竇の万国図并に職方外紀などによると、阿弗利加の南部地方で あるが、香木の産地だといふことも聞えてゐない処である。<br> <br>  さてこれらの地方が香木を産したことは、前にのべた羅斛の外に、星槎勝覧の占城の条に<br> 棋楠香在二一山所一レ産。酋長差レ人禁レ民不レ得二採取一。犯者断二其手一。<br> とあり、島夷志略にも占城の産物に茄藍木あり、瀛涯勝覧には伽南香とある。星槎勝覧の暹羅の条には島夷志略の羅斛香の文をそのまゝ引いて居る。満刺加には瀛涯勝覧に<br>  厥産黄連香、烏木、打魔香。此香乃樹脂堕レ地成。遇レ火即然。国人以当レ燈及塗レ舟。水不レ能レ入。云々<br> といひ、星槎勝覧には満刺加の条に香の記事はないが、其の接境の九洲山に沈香、黄熟香を産すとあり、明の<br>  永楽七年正使大監鄭和等差二官兵一入レ山採レ香。得下径有二八九尺一。長八九丈者六株上。香味清遠。黒花細紋。山人張レ目吐レ舌。言我天朝之兵威如レ神。<br> とあり、満剌加は海口なれば其附近の産物を輸出したものであらう。マラバル地方では星槎勝覧に古里国の事を載せて居る。イブン、バツータの書にもマラバルの要口は加里屈であるといつて居ることを、藤田博士は島夷志略の下里、即ち明代の古里の条に注して居る。<br>  其有二珊瑚、珍珠、乳香、木香、金箔之類一。皆由二別国一而来。<br> と星槎勝覧に書いてあるから、此地は貿易港として香木の輸出をもしたのであらう。又パレンバン即ち旧港、又は三仏斉に就ては、島夷志略には<br>  地産二黄熟香、金顔香一。<br> といひ、藤田博士は諸蕃志を引て、<br>  金顔香正出二真臘一。大食次レ之。所謂三仏斉有二此香一者。特自二大食一販運至二三仏斉一。而商人又自二三仏斉一転販入二中国一耳。瀛涯勝覧作二金銀香一。<br> といひ、金顔、金銀はともにカマヤン又はカマナンといふスマトラ、ボルネオ地方の産物の対音であるといつて居る。瀛涯勝覧には又黄連、降真、沈水香をも産 すると書いてあり、星槎勝覧にはその外に黄熟香、速香を産すると書いてある。蘇門答剌は島夷志略に須文答剌と書いて、降真香を産することをいつて居る。<br>  又西川求林斎の華夷通商考には、奇楠《キヤラ》沈香等を交阯《カウチ》、占城《チヤンパ》の土産として挙げ、奇楠には注して<br>  深山ニテ、枯木自然ニ朽テ、洪水ニ流レテ谷水ノ辺ニアルヲ山民拾ヒ取ル者ヲ上好トス。其余ハ生木ヲ伐テ、土中ニ埋メテ数年ヲ経テ取テ朽腐ノ所ヲ去テ心ヲ用ユ。木ノ葉ハ日本ノネスミモチト云木ニ似タリトゾ。<br> といひ、沈香には<br>  奇楠ニ同キ木ナリ。<br> と注して居る。暹羅の土産には白檀を挙げ、ソモンダラ【蘇門塔刺、或はスマダラ、サマダラ】の土産には沈香を挙げ、母羅伽《モラカ》【満刺加とも或は麻六 甲とも云】マルバアルは国名を挙げて居るが、其土産に香の事が載つて居ない。尤も西川氏の書は宝永年間の著であるから、此頃長崎では已に海外の地名物産に 就て、前よりはその智識が精確になつた為に、反つて前の如く四国又は六国で概括した南洋智識はあてはまりにくゝなつたのかも知れない。<br>  以上の如く香の産地については大体今日では推定は出来るが、香道を起した人達が果して何時頃からこの産地の地名を知つたかといふことが、今日吾々にとつ て興味ある問題である。大枝氏は六国といふことは米川氏以後のことであると云つてゐるが、果してさうだとして、蘇門答剌、サソラは南蛮船の盛んに往来した 織豊時代から徳川の初期までに初めて聞き知つた地名であるとしても、<br> それ以前からある羅斛や真那賀、真那班などの地名は建部隆勝が天正元年の筆記に既に見えてゐるのであるから、少くともそれより数十年前から知れてゐたもの に相違ない。何故ならば、その三国から出る香木及び伽羅の西種については、既に香道の人々は充分な経験を持ち、それを基礎として種々な名称で現れて来る香 の原料を聞き別るまで進歩してゐたのであるから、決して一朝一夕の経験ではないことが知られる。殊に面白いのは昔から伝来の香の名目は、今日から考へると 極めて難解のものであつて、例へば法隆寺に伝来したからと云ふので太子といふ名をつけるとか、有名な東大寺の黄熟香を蘭奢待と名づけ、その文字の中に東大 寺の三字を隠したり、また九州の法隆寺から大内氏がたづね出したといふので法華といふ名がついたりしてゐるやうな風で、その来歴を聞かなければ、如何なる 種類の香木かといふことは殆ど弁別することが出来ない。しかも逍遙院三条実隆の伝来といふ御家の香といふものが六十余種もあり、佐々木道誉が所持した香が 百七十七種もあつて、非常に繁雑を極めたものであるが、それらの香を皆聞き別けて、前に述べた伽羅、羅国、真那賀、真那班の四種に分類することまで経験を 有つてゐた。このことは建部氏の筆記に詳しく書いてゐるが、建部氏の頃は勿論南蛮人が頻繁に渡来した時でもあるけれども、それより以前二百年前から伝来の 香を、その産地の地名で分類するといふことは、その時代に新に来た香によつて、逆に伝来の香を鑑別したとばかりは考へられない。或は足利時代に於ける直接 の交通は、足利将軍を始め大内、天竜寺などの船、その他倭寇などの密貿易等の結果から齎し来たとしても、間接にはそれらの渡航者が南洋地方の香木の産地の 名を聞き知つて之を伝へたのが、香道の人々に正確な智識を与へた基礎になつたかも知れないと思ふ。それで支那では元・明の交代の頃即ち我が南北朝時代、香 道に於ては佐々木道誉の頃からして、支那で島夷志略などの著述によつて得た智識を、既に間接に我国に於て之を得てゐたかも知れない。<br>  かやうに考へると我国に於て、南洋に関する智識を最も早く輸入したのが、即ち香道の関係からであるといふことになり、かゝる産物の関係を以て遠方の外国 を知るといふことは古来東西共に別に珍らしいことでなく、例へば絹の産地として古代希臘人は夙く支那を知り、印度も亦支那の蜀の地方との間に早くから貿易 を行つてゐたもので、漢の武帝が張騫を中央亜細亜に遣はした際、同地に於て蜀の産物が印度に行つてゐることを知つた例もある。況や我邦のやうに間接にして も海路の交通が夙くから開けてゐる国は、香木の如き貿易品から遠方の国を知ることはあり得べきことで、また最も興味あることゝ言はねばならぬ。それで前に も述べたやうに、香字抄に現れた時代の香料は、正倉院の黄熟香、全浅香、その他南洋の産物とは解つてゐたが、重にそれらは仏教に関する交通から伝来したの で、産地鑑別の詮索もなかつた処が、更に第二の時代として聞香の行はれる頃になつては、宗教的でなく、文化生活の上から香木によつて海外の地名を知つたと いふことは、そこに時代の変化も現れ、また我国民の文化生活の材料に関する欲求も表はれていて、殊に面白いと思ふのである。<br>  附記 余が右の小篇を起草しつゝある際、偶々大阪商船会社の高橋悌之助君の来訪ありたれば、同君が余の航欧旅行に際し、新嘉坡に在りて、余の為に沈香の 購求に助力せられたる関係上、この小篇の企図を語りたるに、同君も大に興味を感ぜられ、数日の後余に左の手簡を寄せられたり。因て附記して以て参考に供ふ ることゝせり。<br> <br> 拝復昨今低気圧相亜いて現はれ誠に欝陶敷御座候。<br>  偖而例のサソラの件に関し、乍延引左に愚見(文字通りの)申述候条、若し幾分にても御参考ともならば幸甚に御座候。小生の考にては、サソラはセシユル群 島(Seychelles islands)より転訛したるものと存候。然らばサソラは果してセシユルより転訛したるものと断定を下し得るや、其点新村博士等の御研究に譲るも、小生 職業上の智識より按ずるに十五、六、七世紀の頃の支那人がアラビア人の航海者を水先案内として南洋を経て蘭貢古倫母を訪れ、ソマリ沿岸Madadoxo一 帯より更に南下してZangibar<br> Mombasa モサンビク等東阿沿海に到りし驚くべき事績は先日御教示に預りたる所なるが、今日東阿一帯に住居する商人は白人以外にはアラビア系の回教徒と孟買回教徒の 子孫(例へばザンジバルのサルタンの如き)にして、彼等は経済的には勿論、政治的にも相当勢力を有し、彼等の祖先はアラビア人の方は紅海を横断してソマリ 沿岸に出で、南下してケニヤ、ウガンダ地方に植民せしものにして、孟買地方の商入はマルデープ群島よりミニユイ、ソコトラ而てセシユルを経て東阿沿岸に赴 きたるものと解すべく、古くより印度東阿間はセシユル群島を経由するRouteあり、現に英印汽船のメールも孟買・東阿間に於てセシユルに定期寄港する事 になり居り、先年大阪商船が東阿定期線を開航する迄は、東阿行の日本綿布・雑貨の如きも、全部一旦孟買に仕向られ、同地商人の手により、更に前記英印汽船 のメール便により、東阿に再輸出せられ居りし有様に御座候。斯くの如く帆船時代より寄港され居りしと想像せらるゝセシユル島、しかも古倫母より東阿への水 路さへ明記し居りし当時の支那人乃至アラビアの航船者が、セシユルの存在を知らざりしものとせば、却て不思議の感あるべく候。従て邦人一部有識者間に、セ シユルがサソラと転訛して伝はりたりしに非ずやと想像を下すも、亦小生としては理由のある点に御座候。<br>  仍てSeychellesに関する何か文献をと探し候へども、(実は御返事の遅延せしもそれが為なるが)相憎小生の満足し得る程度のものを手にする能は ず、僅に一九二八年のSeychelles政庁発行に係るThe Seychelles Handbook 一冊のみにして、之とても白人の来往、開拓、植民、占領等に関する記事のみにして、印度人、アラビア人等の航海に関するものは後に記すが如き粗雑なるもの よりなく、失望仕候。<br>  該書籍によれば、セシユル島は一五〇五年即ちVasco da Gama の喜望峰迂回に先つ事七年、葡萄牙の航海者Pedro de Mascaregnasの発見に係り、Viscomte. Herault de Seychelles を記念するため、Seychelles島と命名するとあり。然れどもセシユル子爵と此群島との間に、何等統治上其他の関連ありし事を聞かず。或は同島は古 来よりセシユル或は之に近き発音を有する名称を附せられ居りしを、欧人一流のコジツケにてSeychelles 子爵云々と称するに非ざるか、一考を要する所なりと考へらる。猶該 Handbook に<br> よれば、欧人の住む以前は印度洋海賊の根拠地にして彼等の子孫今猶島内に在住すとあり。然れども海賊云云の記事は、印度人、アラビア人の航海者・貿易業者 を指したるものにあらざるか。蓋し御承知の通り、昔時航海者と海賊とは実に一歩の違ひのみ、或は海賊と良民との二重生活を送りしもの甚だ多かりしは、歴史 に徴して明かなり。産物としては Phosphate Guano を特に挙げ得る外、熱帯地共通の産物なるコ丶ア・肉桂・其他の香味料なり。<br>  前記乏しき材料により考察するに、セシユル島は欧人来航以前より近似の名称を有し、当時の航海者・貿易業者が、印度東阿通商の仲継港として、東阿より香 料香味(特にザンジバルは丁子の主産地として名高く、世界産額の約九七%を供給する由)を此のセシユル島を経由又は積換地として、印度、更に支那方面に輸 出し、遂に我国の一部人士の間にサソラとして伝へられたるに非ざるかと考へらるゝ所に御座候(下略)昭和四年九月二十九日<br> (昭和四年十一月徳雲創刊号)<br> <br> 続記<br>  香の品名に関して北畠玄慧法印の作と称する遊学往来(続群書類従本)に<br>  抑所承名香折節随見来候伽羅木妬茄藍忠春容宇治鳥羽山陰奥山初時雨葉山深山松風富士峰朷利羅漢木橘花梯擲花伊勢海疎竹寒草老梅梅花梯薫遠水蓼蓼花山蓼糸 薄野菊山菊朝霞薄霞薄雲武蔵野異波茶莞合香竜涎白檀薫陸香八煎紫雲等乏少之至随不少其憚候献之将又新渡名香者未聞其名相尋故実之仁従是委可申候<br> とあり、又同人作とも虎関禅師作とも称せらるゝ異制庭訓往来(群書類従本)にも<br>  本朝天平年中従百済国始貢献之自厥巳降代≧御門翫之家≧豪奢賞之其名雖多伽藍木妬伽羅宇治鳥羽山陰以之為甲科也此外葉山深山奥山富士峰武蔵野梅花菊花橘花野菊水蓼愉春格薄雲薄霧薄霞薄露女郎花及胃皮茶烟竜涎白檀薫陸八精等各争其美馳其誉云々<br> とあり。此の二書は大体に於て同時代の作であるらしく、其中に含まれて居る香の名も、大かたは同じことである。即ち伽羅木、鯉伽妬茄藍、鰓妬宇治、鳥羽、 山陰、奥山、葉山、深山、富士峰、橘花、埖橘梅花、水蓼、薄霞、薄雲、武蔵野、竜涎、白檀、薫陸等は全く一致し、又遊学往来の忠春容蕗は異制庭訓の偸春格 なるべく、遊学の異波は異制庭訓の胃皮なるべく、遊学の茶苑は異制庭訓の茶烟なるべく、遊学の八煎は異制庭訓の八精なるべしと思はれる。こゝに注意すべき は伽羅木、妬茄藍【これは宋の洪芻の香譜に釈氏会要を引て出して居る多伽羅香此云根香とあるのであらう】竜涎、白檀、薫陸等は香の原料の名であつて、其他 の我邦でつけた雅名と異なることであるが、中にも竜涎以下の三種は、香字抄、香薬抄以来、已に載せられてあるもので、恐らく異波又は胃皮とあるのも、香字 抄、香薬抄の襃衣香俗云衣比とあるのであらう。そこで香料名としては、此の遊学往来、異制庭訓の時代に、始めて伽羅類が従来の香料外に頭を出して来たので あるといふことを最も注意せねばならぬ。然るに一条禅閣兼良の撰ぜる尺素往来(翠書類従本)には、香に関して<br>  名香之品々者宇治薬殿山陰沼水無名名越林鐘初秋神楽逍遙手枕中白端黒早梅疎柳岸桃江桂苅萱菖蒲艾忍富士根香粉風蘭麝袋伽羅木等縦雖兜楼婆畢力伽及海岸之 六銖淮仙之百和不可勝於此候御所持之分不論新旧可頒賜之候合香者起従仏在世而三国一同用之候殊好色之家是号熏物深秘其方歟沈香丁子貝香薫陸白檀麝香以上六 種者毎方擣篌和合加簷唐而名梅花加欝金而名花橘加甘松而名荷葉加奮香而名菊花加零陵而名侍従加乳香而名黒方皆是発栴檀沈水之気吐麝臍竜涎之熏者也<br> とあるが、これは新札往来(続羣書類従本)に見えて居る所の<br> 新渡名香可拝領候庭梅岸松香粉風初秋神楽新無名蓬菖蒲林鐘鴨鳴夏箕川河淀此等者既不珍候近頃三吉野逍遙沼水等賞翫之由聞候可申請候中比山陰疎柳六月名越清水一二三禰文字五文字蘭奢待伽羅木薬殿御枕端黒思【忍カ】手枕江桂紅阿之船等宇治方香者当世之嫌物候歟<br> とあるのと香名大方は一致し、即ち宇治、薬殿、山陰、沼水、無名、蘭縦勲舫名越、林鐘、初秋、神楽、逍遙、手枕、端黒、疎柳、江桂、菖蒲、忍、艾(蓬)、 香粉風、蘭奢待、伽羅木等は両方に共通に出て居るが、之を遊学往来、異制庭訓往来に対比すると、僅かに宇治、山陰、富士峯、花橘、伽羅木の五種が一致する のみである。合香の方で沈香、丁子、薫陸、白檀、麝香、簷唐、欝金、甘松、霍香、零陵、乳香は香字抄、香薬抄.以来の名目であるが、其の貝香といふのは恐 らくは香字抄、香薬抄の甲香のことであらう。【甲香は即ち流螺又蠡のことで螺属なりとあるからである】こゝで注目を惹くのは、香の原料として伽羅木の外に 蘭奢待があらはれて来たことである。此は東山義政が勅許を得て、正倉院の黄熟香を截ったことから、其の名が世にひろまつたのであらうと思はれる。<br>  以上の資料から結論されることは、香料特に合香の材料としては、香字抄、香薬抄の時代から知られて居る沈香、丁字、薫陸、白檀、麝香、簷糖、欝金、甘 松、奮香、零陵、乳香等は後醍醐朝より室町中葉以後までも、猶ほ用ひられて居るが、こゝに新たに重要な位置を占めて来たのが、伽羅木であることで、その後 醍醐朝、即ち北畠玄慧、虎関禅師の頃は支那では元の中世に当り、恰かも島夷志略に始めて茄藍木の記述が現はれた時である。明の周嘉冑も香乗に<br>  奇藍香上古無レ聞。近入二中国一。<br> といへる如く、其の世にもてはやさるゝは元の中世からであるのに、其時已に我邦にても賞翫して居る。大枝流芳は京極道誉について左の如く述べて居る。<br>  道誉姓佐々木、名高氏、号二京極佐渡判官一、応安年中に卒す。乱世に生れながら風雅を楽しみ香を嗜む、往古は薫物を用ひしに、此入道専一木の沈水奇南を<br> 用ひ賞翫しさま/\名をもて命ぜしは此人より起れり、香道の開祖とも云べし。<br> 即ち香道の起源は、香字抄、香薬抄時代の薫物合香としての応用的賞翫より、道誉によりて聞香時代に転入し、こゝに香の本質賞翫となつたのであるが、これは 実に新たに発見された最上の香料、伽羅木の出現によるのである。此の如く伽羅木の出現は、支那にも日本にも同時に香の賞翫に関して変化を与へたのは、面白 い共通現象であると共に、日本人の香木に関する智識が支那の再輸出に頼つたものでなくして、原産地から直接に得たものであらうといふ想定も下されるのは、 支那に於て一も用ひられなかつた伽羅木の字面の上からも著しい。一条禅閤の時代は即ち東山義政が香道に執心した時で、黄熟香が其の珍奇の故を以て、香とし ての最上品伽羅木と並称せられた時であるが、続いて新札往来は其の奥書に天文十五年とあるので、天文六年に卒した逍遙院三条実隆や、志野宗信の時代を代表 すべき、香の記録といつてもよい。此時に香道は其の開け始めてから已に二百余年を閲したので、香品の盛衰の沿革が回顧ざれて居る。香道の確立したのも此頃 で、前の遊学往来にも、後の新札往来にも、新渡名香といつてある処から、又已に其の原産地をいくらか聞知つて居つたかとも考へられる。<br> <br>  そこで上の四書に出て居る香名を、大枝氏が逍遙院三条実隆伝来の古書と称する雪月花集の香名に対照するに、其御家の香と称する六十六種、並に名香目録 【これも御家にある所といふ】百三十種の中には、遊学往来、異制庭訓往来に出て居る者、僅かに山陰、薄雲、水蓼、松風の四種で、しかも山陰は後の尺素往来 にも出て居るが、尺素往来、新札往来に出て居る者は、神楽、山陰、早梅、疎柳、林鐘、刈萱、名越、端黒、蘭奢待、逍遙、三吉野、花橘、荷葉、庭梅、初秋、 手枕の十六種に及んで居る。これは兼良より実隆に至る時代の間の香名の記録として、往来物に出て居る者と香道家の所伝とほゞ一致して居ることを示すもの で、その玄慧、虎関の時代の香名がだん/\滅びつゝあるのを看取される。但し雪月花集に京極道誉所持と題せる百七十七種の内、遊学往来、異制庭訓往来に出 て居る者が寒草、老梅、深山、鳥羽、松風、女郎花、伽藍木、宇治の八種に過ぎないのに、尺素、新札二往来に出て居る者が、名越、忍、無名、河淀、六月、早 梅、夏箕川、岸松、伽藍木、三吉野、蘭奢待、一文字の十二種に及んで居るのは、解し難いことである。思ふにこの道誉所持香目といふものは後人の竄入が多 く、道誉の原目のまゝでないのであらうといふことは、その中に東山義政が寛正六年に截り取る以前には世に出つる筈のない蘭奢待まで入つて居ることによって も知られる。<br> <br>  更に四種の往来に出たる香の木所を建部隆勝がいかに聞き分けたるかを検するに<br> 伽羅之分<br> 老梅遊学 薄雲異制庭訓 山陰 黷罅 庭訓 東大寺<br> (蘭奢待) 逍遙 三吉野新札<br> 新伽羅之分<br> 富士異制庭訓 武蔵野異制庭訓<br> 羅国《らこく》之分<br> 菖蒲尺素<br> 真那班《まなばん》之分<br> 松風遊学 早梅尺素<br> 真那賀《まなか》之分<br> 盧欄《はなたちばな》<br> となつて居る。比較的距離の近い占城の産たる伽羅が、他の産木よりも多種輸入されて居るといふことから、原産地に関する智識を後醍醐朝頃から天文年間に南蛮の交通始まる以前に於て、已に多少有して居ったかも知れぬと考へてよくはあるまいか。<br> <br>

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