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三好達治「萩原さんという人」」(2015/01/18 (日) 10:22:41) の最新版変更点

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 映画俳優のバスター・キートンというのはひと頃人気のあった喜劇俳優だ。近頃の若い人はもうご存じでないかもしれぬ。額が広く、眼玉がとび出て、長身痩驅《ちようしんそうく》、動作は何だかぎくしゃくしていてとん狂で無器用らしく、いつも孤独な風変りな淋しげな雰囲気を背負っている、一種品のいい人物だった。萩原さんの風つきは、どこかこのキートン君に似通った処があった。それはご本人も承認していられたし、またそれがいくらかお得意の様子で、よくその映画を見物に出かけられた後などそれをまた話題にもされた。先生にはあの俳優のして見せる演技のような、間抜けた節がいつもどこかにあって、妙にそれが子供っぽくて魅力があり、品がよかった。突拍子もない  著想《ちやくそう》は、あの人の随筆や感想の随所にちらばってのぞいている呼びかけだし、あの人の詩の不連続の連続のかげにもたしかに潜んでいる。先生には、著想の奇抜で読者の意表に出ようとするたくらみは、さほど悪どく意識的ではなかったけれども、それは肉体的に自然な性情として、何か諧謔《かいぎやく》の味をふくめて、ともするとそういう風に発露する傾向があった。萩原さんは、一面に於ていつも明るいユーモリストであった。気軽で辺幅におかまいなく、応対の動作挙止には天性の気品があったが、それにも無器用な味があって、  年齢相応の重厚味というよりは、子供っぽいところがあった。常にものを考える人、しんから考えごとの好きな思想家肌の人物には、ともするとそういう一面があるものだ。そんな若々しさ、世間の外で暮してきた何かあどけない特殊な年齢、そういうものが一見して萩原さんには感じられた。あの人に出会うと、こちらに一つの反応を覚えしめる、一種明るい光線に照らし出された時のような作用があった。それは微妙なさびのある幸福の感じに似ていた。それは一寸あの人の詩や文章からうけとる感じとも異っていた。暗くどぎつい、何か破壊的な意気ごみをもった、そういう一面は、あの人の人柄の、肉体に即した側では、必ずしも表面に露骨に現れてはいなかった。なるほど服装の好みなんかは、いくらかそういう風でもあったが、明るい茶色の帽子のかげには、いつも機嫌のいい、いくらか世間がまぶしそうな青年の瞳が澄んでいた。それは晩年も変りがなかった。萩原さんは、細くて華奢《きやしや》な指のそろった、なるほどその部分だけは器用そうな、神経質な手をもっていた。若い頃ギターを喜んだ器用な指さき、(しかし私が萩原さんを知ってから後、その楽器をさもつれづれな顔に奏でていられたのは一回きり  。)その指さきで、その代り私は幾度も手品を見せてもらった。晩年世田ヶ谷にいられた時分は、どこかの奇術|倶楽部《クラブ》に入会されて、いよいよ執心な風であったが、手品はそれよりずっと以前、まだ大森にいられた頃から、先生が得意の隠し芸だった。私が見せてもらったのは、トランプ遊びや玉かくし、それから何か二三種、まあその程度の簡単至極のものであったが、それでもご本人は子供のようにそれがお得意で、ひとりで練習などをしていられた。『詩の原理』や『虚妄の正義』を書かれた前後のことであるから、両書の内容などと考え合せて、或は読者の諸君には、いささか意外であるかもしれない。それはまあ、妙な取合せといえば、全くそれに違いない。けれども私の記憶でいうと、つまらぬ酒場か何かで、帽子を眼ぶかにして酒を飲んでいられた萩原さんよりも、風邪をひきこんだ退屈な臥床で、見物人もなしに、ひとり手品の稽古《けいこ》をしていられたあの人の姿の方が、一層真にあの人らしく淋しく孤独に感ぜられる。  指さきのはかない遊戯、無邪気な技術、罪のないそのさまざまな聯想《れんぞう》、そういうものがその人の気慰めとなっている見かけの上の他愛ない、その裏の退屈。それを見つめてみると何か絶望的な感じのする倦怠《けんたい》、なげやり。  墜落の危機感、踵《かかと》の裏の土がすべってゆくような没落の予感的実感。それは萩原さんの詩の中に充満しているモチーフで、それが時に不思議なことだが、積極的にあの人のポエジーの支柱となって表面に押し出してくる。その転機の攻勢的な情熱がつねにあの人を酔わしていた。  萩原さんは場末のあやしげな酒場が好きで、つまらぬ奴らの集っている決して上品でないその雰囲気で、実はご自身そんな周囲に不似合なのはいっこう意識にない如く、或はそんな半意識を反ってあざ笑っていられる風でかなり、泥酔に近い位、酩酊《めいてい》に耽《ふけ》っていられた。ご承知の如く、そんな酒場にはどこにもつまらぬ女たちがいて、毎晩陽気に平凡なことにもはしゃいで見せ、安ものの音楽が騒がしい中で、蓮っ葉な口をきいてみせる。それが元来、萩原さんには、どういうものか、私どもに比べていうと、ずっとたいへん本質的に気に入っているらしい様子であった。考えてみると、そこには一種の哀愁があった。ごみごみとして乱雑な安っぽくて陽気な、そういう時間のそういう場所、そんな所へどこからか流れてきて働いている女たち、彼女たちの恋愛或は恋愛遊戯、そんなごたごたとした無秩序の賑《にぎ》やかな世界が、萩原さんにとって、一つの刺戟《しげき》であったというより、もう少し深く、何か意味の深い暗示であったに違いない。いつもそんな場所で、萩原さんはたいへん上機嫌に見える様子で、貧しげな女給などを相手に、つまらぬ話題にも素直に調子をあわしていられた。そんな場所柄の、女給相手の雑談などは、もちろんあの人はおかしい位|下手糞《へたくそ》だったが、それはいっこうお構いなしで、もちろんお酒も手伝って、不思議と興にのっていられた。お酒はむろん梯子《はしご》だったが、それでも終電の時問だけは、羽目をはずさずちゃんと憶えていられるような、几帳面《きちようめん》なふしもあった。    詩人の名誉、そんなものはもう僕には、無用の重荷だ。こんな僕の気持は、今の君には解るまい。けれども君にも、そのうち解る時が来るよ。僕がなぜ、あんな女達と楽しんで酒をのむか、僕が何を求めているか、君にはまだまだ解らないから……どうかすると理窟をいって、君なんかは憤慨するがね  ある晩月夜の寒い路上で、酔っ払った帰り途、萩原さんはそういわれた。その後私はつつしんで、萩原さんの酔態には、苦情を申さぬことにきめた。何しろあの頃、それは私にはどうもあの人には不似合に、不似合な以上に勿体なく、思えて仕方がなかったものだ。  萩原さんは、それをご自身もご承知のように、だらしのない酔っ払いだった。詩集『氷島」中の「珈琲店酔月」は、そっくりそのまま作者の酔態にあてはまる。『氷島』の時代は、とりわけ他に事情もあって先生の心境は荒涼としていた。言行にも作風にも、いささかやぶれかぶれの感が強く、颱風《たいふう》気味の時代であったが、それより以前、私がお眼にかかった最初の頃にも、やはりそういう傾きはすでに見られた。若い頃の萩原さんは、境遇に恵まれた幸福な青春を我れと自ら斬《き》り苛《さい》なむような暮し方をしていられたとか、これは室生さんから伝え聞いたところである。もしもそうなら、その傾向はいつの頃からはじまったものか、坊っちゃん育ちの先生の世に出られた、最初の第一歩からそれはそんな具合の方角にむかっていたのかもしれぬ。とにかく、私のお眼にかかった頃から以後その晩年まで、一貫して萩原さんは、夜分は半泥酔に酔っ払うのを、日課のようにしていられた。小田急電車のプラットフォームから顛落《てんらく》して、怪我をされたのも、晩年酔後の出来事だった。  けれども萩原さんは、仕事に夢中になるとがらりと様子が変って、夜分の晩酌くらいはつづいていたようだが、いっさい門外不出で、朝っぱらから机に噛りつきで、いっこう疲労の色もなくいつまでも熱心に書きつぎ書きつぎ仕事をつづけていられた。そんなことが一ヶ月の余、二ヶ月にも亘った。『詩の原理』の出来たのは全くそんな風の一気呵成《いつきかせい》の仕事ぶりの結果だった。私などがふとお訪ねすると、二階の手摺《てすり》から半身を現して、 「三好君、仕事がすまぬから、失礼……」  というような簡単なことをいわれてすぐに障子を閉めてしまわれた。私はその時暫く前栽《せんざい》で奥さんと無駄話なんかしていたが、先生のそういわれたのは、二階に上ってきて邪魔をしては困るよ、という意味の警告めいて聞えて甚だ恐縮した。 一うちには何だか書生さんを一人、二階においているような気持がするわ。ご飯よ、……って呼ぶと、はあい、だなんて、返事をするのよ。……でも、何だか、この頃、少し尊敬して上げたいような気持もするわ。」  卒直な奥さんは、諧謔《かいぎやく》まじりにそんなことをいっておられた。なるほど実感であったに違いない。『詩の原理』は通巻二度ばかり書き直されて出来上った。書き散らかされた原稿は、部屋中いっぱいに散乱していた。そんな中で、先生は一度こういわれた。 「純粋理性批判を書いたカントの苦心は、今度はしみじみ僕にも分った、ああ骨が折れた・:…」そういって溜ため息《いき》まじりに哄笑《こうしよう》された。諧謔と皮肉と上機嫌とで、明るく神経質に、ひとり悦に入っていられる様子であった。そんな時の萩原さんは、どこまでも無邪気で元気がよく、機智もまた縦横で、対していてこちらの心もつい浮きたつのを覚える位、まず申分なくあの人らしい世界の頂点に立っていられた。 「萩原はあれで、どこから出すのか眼あてもない原稿を、五百枚も七百枚も、二た月もかかって書き直し書き直し夢中なんだから、とても俺なんかにはまねは出来んよ。」  後に室生さんはそういって嘆じていられた。それはその後第一書房から上梓《じようし》された『詩の原理』の原稿が、まだ萩原さんの手もとにあって、その出版所を方々あたって見ていられた、その時分のことであった。これもなるほど、室生さんのいわれる通り、萩原さんらしいやり方だった。  いつも萩原さんは、小さな手帳を一冊、懐中にもっていられた。そうして短い鉛筆で、散歩の途中ででもどこででも、思いつかれた感想や詩の一行を、こまめにそれに書きこまれた。手帳はまっ黒によごれていて、隅から隅まで、何だか無暗《むやみ》に書きこまれていた。あの気まぐれななげやりな人に、そんな丹念な一面もあって、それが不思議に調和していた。とにかくあの人は、絶えず何かを考えている、何のためということもなしに、何かを考えつづけている、一箇独自な思想家だった。読書の方は、さほど熱心という方でなく、秩序だった勉強などは、性来不得手でてんで問題にされなかった。それでも気に入った書物となると(たとえばニーチェの訳書など、)これはまたあの人独自の読み方で、幾度もくりかえし熱心にいつも読んでいられた。それは幾年にも亘った様子で、根気のほども察せられたが、それよりも、その読み方にはいつも一種の気力があって、折にふれ洩《も》らされる感想にも、眼光紙背に徹した人の、非凡な共感から湧いて出る、卒直なそうして意外な閃《ひら》めきがつねにあって、私など幾度か耳を欹《そば》だてたものだ。    二ーチェ、この人こそ、僕は崇拝している……  それを先生は、どんな言葉でいわれたか。先生がそれをいわれる時には、先生はどこかそこらの近くで二iチェに出会って来られたような、特殊な感じが伴っていた。蕪村の場合もそうだった。『郷愁の詩人与謝蕪村」という書は、幾らか欠陥の多い著書だが、それにも拘《かかわ》らずあの書の取柄は、前人未踏の蕪村観を強く明晰《めいせき》にうち出しているその一点で、永く後人に重んぜられるに違いない、と私はそう信じている。  さて先ほどの手帳だが、『詩の原理』の後に出た『虚妄の正義」は、全くあの手帳の産物だった。あの時分はまた、あの短い感想やアフォリズムに、打こんで熱心に没入しきっていられたようだ。    1+1=2  仲人の数学  というようなのは、なかなか気に入っていられたようだ。警抜な著想《ちやくそう》と諧謔と、人生批評の皮肉とは、あの人の茶目っ気な一面におあつらえ向きの玩具でもあった。そこでは屡々《しばしば》あの人の奇術や手品が功を奏して、それが著者を随分乗気にもしていたようだ。萩原さんの警抜な一面にも、私はもとより賛成だが、それよりも私はむしろ、一気呵成に、どこまでも筆がのびのびして、その上情感の一貫した、あの人の長大な散文に、実は一層敬服する。たとえば「芥川龍之介君の死」あの文章は、一晩にして書き上げられて、天明にして出来上ったと聞く。理路と情感と、意のゆくところ筆・のしたがう、あの溢《あふ》れるような流露感は、萩原さんの人物を眺めていると、まったく二重に納得のゆく、一つの奇蹟だ。それは又あの人の詩の近代性の、まさにその裏側だ。散文を書かして見ると、詩人の値うちは大体分る、そういう定理の証明だ。  晩年の詩集の『氷島』は、しかし萩原さんの詩集としては、ずいぶん不出来な方だろうと、私は思う。私はそのことを、一度文章に綴って、憚《はばか》らず卑見をのべた。今日もその考えだが、これは萩原さんには、甚だお気に入らなかったようだ。萩原さんは、いずれかというと寛容なたちで、偏癖はなしとしないがいっぱし頭脳も理性的だし、私意にこだわる方ではないのに、私の買った不機嫌は、しばらくの間つづいたようだ。私が『氷島』に不満なのは、それ以前のあの人の詩集に払っている、私の敬意の手前の言で、その意は文中にものべておいたが、どうやら卑見のその点は、萩原さんのお耳に入らなかったようだ。私が前後に通じて、ただ一度、萩原さんに呈した苦言は、かくして先生に斥《しりそ》けられた。それは唯一つ私の淋しい思出だ。先生にしたって、誰しもそうであるように自分自身に関しては、つねに必ずしも明哲だった訳ではない。私は今も片意地に、そう思っている。それも今となっては、なつかしい思出だけれども。

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