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佐藤春夫訳「徒然草」百八」(2015/02/16 (月) 00:11:01) の最新版変更点

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 寸陰を惜しむ人は無い。これは悟り切っての上でのことか。馬鹿で気がつかないのであろうか。馬鹿で懈怠《けたい》の人のために言いたいが、一銭は軽いがこれを積み上げれば貧民を富豪にさせる。それ故金を志す商人が一銭を惜しむ心は切実である。一刹那は自覚せぬほどの小時間ではあるが、これが運行しつづけて休む時がないから命を終る時期が迅速に来る。それ故道を志す道人は漠然と概念的に月日を惜しむべきではない。ただ現実に即して、現在の一念、一瞬時がむなしく過ぎ去ることを惜しむべきである。万一誰かが来て我らの命が明日はかならず失われるであろうと予告したとすれば、今日の暮れてしまうまで、何事を力とし、何事に身を委ねるか。我らの生きている今日の一日は、死を予告された日と相違はあるまい。一日のうちに飲食、便通、睡眠、談話、歩行、などの止むを得ないことのために多くの時間を消失している。その余の時間とては、いくらもないのに、無益なことを為し、無益なことを言い.無益なことを考えて、時を推移せしめるばかりでなく、一日を消費し、一月にわたり、ついに一生を送る。しごく愚なことである。  謝霊運は法華経の訳者ではあったけれども、心は日常、自然の吟咏に没頭していたから、恵遠《えおん》の浄業修行の仲間・入りは許可しなかった。心に光陰を惜しんで修行する念がなかったならば、その人は死人にひとしい。光陰を惜しむのはなんのためかというに、自分の内心に無益の思慮をなくし、.その身がつまらぬ世上の俗事に関与せぬようにし、それで満足する人は満足するのがいいし、修業をしようとする人はますます労力して修業せよというのである。

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