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佐藤春夫訳「徒然草」百三十七」(2015/02/17 (火) 00:29:34) の最新版変更点

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 花は満開を月は明澄なのをばかり賞すべきものではあるまい。雨に対して月にあこがれたり、家に引き籠っていて気のつかぬうちに春が過ぎてしまっていたなども情趣に富んだものである。もう咲くばかりになっていた梢だの、散り凋《しお》れた庭などこそ見どころが多いのである。歌の詞書きにも「花見に行ったらもう散り果てていたので」とか「差つかえがあって見にゆけないで」などと記してあるのは、花を見てというのに決して劣ろうや。花が散り、月が入るのを名残り惜しく思うのは尤もなことであるが、無風流な人に限って、あの枝もこの枝も散ってしまった。もう見る値打ちもないなどと言いたがるものである。すべてなんにつけ初めと終りとが趣の多いものである。男女の情にしてもただ逢うばかりが恋愛の趣味ではあるまい。逢えないで苦しんだことを思ってみたり、心変りをしたのを歎いたり、永い夜をひとりで恋い明かしたり、遠い空に愛慕の思いを馳《は》せたり、わびしい住居に昔日の情を追慕するなどが、真の恋愛を知る人というものであろう。満月の晴れ渡ったのを千里の果てまで飽かず賞したのよりはもう夜が明けそうになってから出たのが、一そう色あざやかに青みがかって、深山の杉の梢頭に現われて木の間の影や時雨のした雲の奥に見えたのなどが、この上なく感じの深いものである。椎や樫などの湿っているような葉の上にきらきらと照っているのを見たりすると、身に染む思いがして趣を知る友がいたならばなあと、山棲みの身のふと都が恋しく思われて来る。そもそも月や花は、そんなに目ばかりで見るものではない。春景色は家のなかから出ないだっても、月影は臥床《ふしど》にいて感じているのが、深みのある風情《ふぜい》であろう。上品な人は無性に愛好する態度ではない。楽しむ様子にも程がある。片田舎の人に限ってしつっこく極端に喜ぶ。花の下に押し寄せてわき目もふらずに凝視して、酒は呑む、連歌はする、果ては見るだけで満足せずに、大きな枝などを心無くへし折る。清水には手足を突き入れてみるし、雪にはおりて行って踏みつけるなど、何ごとも静かに鑑賞することができない。こんな輩《やから》が賀茂のお祭を見ている様子はじつに奇観であった。「見るものはまだまだ大分聞がある。それまで棧敷に用もない」と言って奥のほうの家で酒を呑んだり、物を食べたり、囲碁や双六などをして遊び、棧敷には番入を見張につけていたから「お通りですよ」と知らされた時に面々は肝《きも》をつぶさんばかりにわれ勝.ちに棧敷へ争い上って、落っこちそうになるまで簾から身を乗り出し、押合いながらも何もかも見落すまいと注視して、「ああだ、こうだ」と、一々批評して、行列が過ぎてしまう・・」、「また来るまで」と言っておりて行った。ただ行列だけを見ようというのであろう。都の人の堂々たる方は、眠っていて、よくも御覧にはならない。若い下端の人などは見物をよそに御用勤めに働いて、後のほうにお供をしている者は不体裁にのび上って見るようなこともせず、無理に見ようとする人もない。葵を掛け列べた町がなんとなく優雅なのに、夜の明け放れもせぬうちから、人に知られないように路ばたに寄せている車の奥ゆかしいのを、どなたのはあれかこれかなどと想像してみていると、牛飼や下郎などの見知り越しの者が雑っていて、車の主がおのずと見当がついて来る。あるものは風雅に、あるものは華麗に、さまざまに装うて行き交うさまは見ていて飽くこともない、日の暮れかかる時分には立ち並んでいた車も、隙間なく立っていた人々もどこへ行ってしまったものやら、追々と群集もまばらになって車などの騒がしさもやんでしまうと、簾や畳など取払われて目の前が淋しそうになって行くのは、無常な人の世の出来事などにくらべて思い当るのが哀愁をもよおす。こんな大路を見たのこそは祭を見たことにもなるのである。棧敷の前を往来する人に顔見知りが多いので気がついた。世間の人の数というものもそうは多いのでもない。これらの人がみな失せるであろう。我身としても死なねばならないに定っている、浸後にとしたところで間もなく自分の順番が来ることであろう。大きな器《うつわ》に水を入れて小さな孔をあけたと仮定して、滴《したた》ることは少しではあるが、休む間なく漏れて行くから程なくすっかり無くなってしまうわけでしょう。都の中に多数にいる人の、死なないという日は決してない。一日に一人二人ぐらいとは限ってもいまいに。鳥部野、舟岡山、その他のいやな野山に弔《とむらい》を送る数のたくさんある日はあるけれど、今日は葬式を一つも出さないという日というのはない。それ故棺桶を売る者は作ったのを店においておく隙もない。年若なもの、強健な者の区別もなく、不意に来るのが死期である。今日まで死をのがれて来ているのが、ありがたい不思議である。暫時も悠然たる気持でおられようか。まま子立《こだて》という遊戯を、双六の石で配置しておくと、取られるのはどの石ともわからないけれど、数えあてて一つを取ると、その外のは取られないですむと思っていると、度々数えて、あれこれと抜き取って行くうちに、どれ一つも取られないでいるというのはないと同じような次第である。兵士の出征するのは、死に直面するのを承知の上で、家をも身をも忘れている。遁世者の草の庵では、悠然と泉石を楽しんで兵乱殺生をよそにしていると思うのは甚だ浅薄なものである。平和な山奥だとて無常という敵は先を争って攻め寄せないではない。死に直面している点は身を軍陣においているのと同然である。

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