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菊池寛「伊勢」」(2005/12/30 (金) 17:25:41) の最新版変更点

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伊勢<br>  今は昔、延喜《えんぎみ》の帝《かど》(宇多天皇)の世のことである。一の御子《みこ》の袴の御着初の御祝を行わせられることになって、その御料に、新しい屏風《びようぶ》を調えられることになった。<br>  屏風は、金ぱくで張って、その上に十六枚の色紙形の紙をはりつけることになっていた。その紙の一つ/丶には、当時高名の画師が、手を別けて四季折々の絵を書いた。又、その讃には同じく高名の歌人達に読ませた和歌を配することになっていた。<br>  お祝の前日に、絵も歌もすっかり揃った。讃の筆者は、当時鵡赧遥(書道の事を云う.鷲讒|之《し》が板に書いた書がいくら削っても消えなかったと云う伝説から起った名前である)随一の名を博していた小野道風《おののとうふう》が当ることになっていた。<br>  が、道風がいよノ丶支度を調えて、各ヒの色紙に書くべき歌を配合して見ると、歌の方が一つ不足しているのを発見した。<br>  四枚折りの屏風の春の帖の中に、らんまんと桜花の咲き乱れた山路に、女車が一つ軋《きし》って行く風情を描いた絵がある。それに配すべき歌がないのである。<br>  その事は蔵人《くろうど》達は、もうとっくに気がついていたかも知れないが、あまり重大なことなので、いざと云う時迄、誰も口に出さないでいたのかも知れない。<br>  最初から、この絵に配する歌を作るべき注文を出さなかったのか、また注文を出すべき人が忘れたのか、今となっては責任を問うて見たところで、どうにもならない。とにかく、四枚折屏風で春夏秋冬各ヒ四枚ずつの色紙型の紙が貼られることになっているのだ。<br>  三枚|宛《ずつ》にすると、どうしても釣合がとれないし、その中の一枚だけでも歌がないとすると、お祝の屏風などには使えない片輪のものになってしまうのである。<br>  帝を初め奉り公卿達はハタと当惑してしまった。その上、歌を奉らせた五人の歌人と云うのは貫之《つらゆき》、躬恆《みつね》を初め、みなたいへんな遅作家で、即興などの出来る人ではないのである。<br>  お祝の前日になって、やっと道風が筆を取る段取になったのも、歌人達がもう一日もう一日と御|猶予《ゆうよ》を望んだためである。今更、今日中にもう一首などと、お使を立てて見たところで、五人が五人とも、御辞退をするのに定まっている。<br>  帝は、公卿達に「誰かいないか、内の女房の中にも、即席の歌が、よめるものが一人位は居りそうなものだが。」と、仰せられたが、貫之、躬恆などと並んで、歌をよもうなどと云う大それたことは、誰にとっても思い及ばぬことであった。<br>  帝も、人選に打ち困《こう》じておわしたが、やっと思い当られたように、<br> 「仕方がない。これは伊勢に頼む外はない。」と、仰せられた。<br>  伊勢|御息所《みやすどころ》と云うのは、大和守藤原忠房の娘で先帝の女御《にようご》であった。極めて、物の上手であり、宮中に居られたときは、才色 双絶の噂があった。たゞ先帝の亭子院《ていしのいん》が出家せられたと同時に、御息所も生家に引き込まれて、殆ど世の中と絶縁して暮して居られる。<br>  今度の御屏風の歌を頼まれなかったのも、それに対する遠慮でもあった。が、こう云う事態になって見ると、そうした遠慮もして居られない。二月以上もかゝった折角趣向の御屏風が、むだになるか役に立つかの境目である。<br>  帝は、少将伊衝をお召しになった。伊衝は容貌風姿宮中第一の美男で、才学も秀れている。唐詩では若くして名を得ていた。<br>  こう云う男を使にやれば、伊勢も無下《むげ》に辞退するのを恥ずかしいと思うだろうとの思召《おぼしめし》であったらしい。<br>  伊衝は、車を急がせて、御息所の家へ急いだ。五条に近い住居であった。<br>  庭の木立、いみじく木暗くて、前栽《せんざい》の風情も美しい。庭には苔が青み渡っている。伊衝は、車から下りると、中門の所に立って下人をやって帝のお使として来たと云わせた。<br>  若い侍が出て来て、寝殿の方へ案内した。<br>  寝殿のすだれを撥《かか》げてはいったが、母屋の方のすだれは下している。が、すだれ近くに高麗《こうらい》べりの畳を敷いて、その上に唐錦のしとねを 敷いてある。これが、客の座である。客は、こゝに坐ってすだれこしに母屋の中にいる女主人と対談するわけである。伊衝がしとねの端に坐ると、すだれの中か ら、空《そら》だきの香が、ふくいくとして、身にしむように匂って来る。中には、清げな女房が二、三人いるらしく、すだれこしに美しい面影が、ちらちら見 えて来るのである。伊衝も、すだれこしに多くの女性から見られるのは、気恥ずかしいと思いはしたが思い切ってすだれ近く寄り、用件を話した。躬恆も貫之も 折あしく外出している。その外には、思いあたる歌人はないから、ぜひにと砂仰せである、と伝えた。<br>  すると、御息所は、いたく驚いた風情で、「これは御無理とも云うべき事である。前|以《も》って仰せられても、躬恆や貫之などのようには詠《よ》めない。まして、こう、にわかに詠めるわけはない。」と、傍の侍女達に、云っている声がほのかに聞えて来た。<br>  その気配や言葉つきが、美しく上品で、世にはこんな女性もあるのかと、感に堪えていると、すだれの下から十二、三の童《わらべ》が、いざり出て来て銚子 と盞《さかずき》とを持って来て、酒をすゝめるのである。沢山は困ると辞退したが、いく度もいく度も酒をついでくれる。またすだれこしに、美しい蒔絵の硯 《すずり》の箱のふたに、きれいな薄様《うすよう》の紙を敷いてその上に菓子を盛って、さし出してくれる。尤も、この時代の菓子と云うのは、文字通り、く だものの事である。<br>  現在の菓子が、くだものに変ったのは、室町の末期以後である。しばらく飲んで盞を置くと、またすだれの下から新しい盞を差し出すので、また飲んでいるほどに伊衝の白皙《はくせき》の顔は赤らんでいよく美しさがますので、女房達はすだれこしに見とれている容子であった。<br>  伊衝に酒をすゝめたのは、作歌のための時間を得るためであったのであろう。やがて、紫の薄様に歌を書いて、それを同じ色の薄様に包んで、女の衣裳と一しょに、すだれの下からさし出した。この衣裳は、使者伊衝に対する贈物なのである。伊衝は「思いがけぬ贈物である。」<br> と、礼を云って立ち上ったが、女房は物のかげから、伊衝の後姿の、いみじくようちょう《、、、、、》たる<br> をいつ迄も見送っていた。<br>  内裏では、まだかと云うので、人を出して見させたほどであった。やっと、けいひつ《、丶、、》の声(前駆の声である。勅使だからであろう)がして殿上口 《てんじようぐち》(清涼殿に上る入口)に近づいたので、御前に侍る公卿殿上人達は返事いかにとかたずを飲んでいたし、道風はたった一枚残った色紙の前で 筆をうるおして待っている始末である。伊衝少将は、伊勢御息所からの贈物を傍へおくと、お文ばかりを持って、御前にさし上げた。帝が、これを御覧《ごろ う》ずると筆蹟も見事で道風が書いたのと少しも劣らない位である。そして歌は、<br> 散り散らず聞かまほしけれ故里の<br>    花見て帰る人もあらなむ<br> <br>  と云うのであった。帝は、これを見て、めでたがり給うこと限りがなかった。そして、御前に侍《さむら》う人々に、これ見よとてお渡しになった。声の美し い公卿が読み上げると、人々は皆、いみじがること限りがなかった。度々詠み上げた後に、道風が筆を取って、書きつけたのである。<br>  (散ったかまだ散らないか花の消息を訊きたいものだ、あの名所の花を見て帰る人があればよいのに。)<br>  と云う意味だ。故里は、こゝでは故郷の意味ではなく、由緒ある土地とか、曽遊の地とか、云う意味だ。即興の歌として、古来これほどの秀逸はあるまい。小 式部内侍の(まだふみも見ず天の橋立)などは、これに比べると、はるかに劣っている。尤も、所要時間は、小式部の方が少いが。<br> <br>
伊勢<br>  今は昔、延喜《えんぎ》の帝《みかど》(宇多天皇)の世のことである。一の御子《みこ》の袴の御着初の御祝を行わせられることになって、その御料に、新しい屏風《びようぶ》を調えられることになった。<br>  屏風は、金ぱくで張って、その上に十六枚の色紙形の紙をはりつけることになっていた。その紙の一つ/丶には、当時高名の画師が、手を別けて四季折々の絵を書いた。又、その讃には同じく高名の歌人達に読ませた和歌を配することになっていた。<br>  お祝の前日に、絵も歌もすっかり揃った。讃の筆者は、当時鵡赧遥(書道の事を云う.鷲讒|之《し》が板に書いた書がいくら削っても消えなかったと云う伝説から起った名前である)随一の名を博していた小野道風《おののとうふう》が当ることになっていた。<br>  が、道風がいよノ丶支度を調えて、各ヒの色紙に書くべき歌を配合して見ると、歌の方が一つ不足しているのを発見した。<br>  四枚折りの屏風の春の帖の中に、らんまんと桜花の咲き乱れた山路に、女車が一つ軋《きし》って行く風情を描いた絵がある。それに配すべき歌がないのである。<br>  その事は蔵人《くろうど》達は、もうとっくに気がついていたかも知れないが、あまり重大なことなので、いざと云う時迄、誰も口に出さないでいたのかも知れない。<br>  最初から、この絵に配する歌を作るべき注文を出さなかったのか、また注文を出すべき人が忘れたのか、今となっては責任を問うて見たところで、どうにもならない。とにかく、四枚折屏風で春夏秋冬各ヒ四枚ずつの色紙型の紙が貼られることになっているのだ。<br>  三枚|宛《ずつ》にすると、どうしても釣合がとれないし、その中の一枚だけでも歌がないとすると、お祝の屏風などには使えない片輪のものになってしまうのである。<br>  帝を初め奉り公卿達はハタと当惑してしまった。その上、歌を奉らせた五人の歌人と云うのは貫之《つらゆき》、躬恆《みつね》を初め、みなたいへんな遅作家で、即興などの出来る人ではないのである。<br>  お祝の前日になって、やっと道風が筆を取る段取になったのも、歌人達がもう一日もう一日と御|猶予《ゆうよ》を望んだためである。今更、今日中にもう一首などと、お使を立てて見たところで、五人が五人とも、御辞退をするのに定まっている。<br>  帝は、公卿達に「誰かいないか、内の女房の中にも、即席の歌が、よめるものが一人位は居りそうなものだが。」と、仰せられたが、貫之、躬恆などと並んで、歌をよもうなどと云う大それたことは、誰にとっても思い及ばぬことであった。<br>  帝も、人選に打ち困《こう》じておわしたが、やっと思い当られたように、<br> 「仕方がない。これは伊勢に頼む外はない。」と、仰せられた。<br>   伊勢|御息所《みやすどころ》と云うのは、大和守藤原忠房の娘で先帝の女御《にようご》であった。極めて、物の上手であり、宮中に居られたときは、才色双 絶の噂があった。たゞ先帝の亭子院《ていしのいん》が出家せられたと同時に、御息所も生家に引き込まれて、殆ど世の中と絶縁して暮して居られる。<br>  今度の御屏風の歌を頼まれなかったのも、それに対する遠慮でもあった。が、こう云う事態になって見ると、そうした遠慮もして居られない。二月以上もかゝった折角趣向の御屏風が、むだになるか役に立つかの境目である。<br>  帝は、少将伊衝をお召しになった。伊衝は容貌風姿宮中第一の美男で、才学も秀れている。唐詩では若くして名を得ていた。<br>  こう云う男を使にやれば、伊勢も無下《むげ》に辞退するのを恥ずかしいと思うだろうとの思召《おぼしめし》であったらしい。<br>  伊衝は、車を急がせて、御息所の家へ急いだ。五条に近い住居であった。<br>  庭の木立、いみじく木暗くて、前栽《せんざい》の風情も美しい。庭には苔が青み渡っている。伊衝は、車から下りると、中門の所に立って下人をやって帝のお使として来たと云わせた。<br>  若い侍が出て来て、寝殿の方へ案内した。<br>   寝殿のすだれを撥《かか》げてはいったが、母屋の方のすだれは下している。が、すだれ近くに高麗《こうらい》べりの畳を敷いて、その上に唐錦のしとねを敷 いてある。これが、客の座である。客は、こゝに坐ってすだれこしに母屋の中にいる女主人と対談するわけである。伊衝がしとねの端に坐ると、すだれの中か ら、空《そら》だきの香が、ふくいくとして、身にしむように匂って来る。中には、清げな女房が二、三人いるらしく、すだれこしに美しい面影が、ちらちら見 えて来るのである。伊衝も、すだれこしに多くの女性から見られるのは、気恥ずかしいと思いはしたが思い切ってすだれ近く寄り、用件を話した。躬恆も貫之も 折あしく外出している。その外には、思いあたる歌人はないから、ぜひにと砂仰せである、と伝えた。<br>  すると、御息所は、いたく驚いた風情で、「これは御無理とも云うべき事である。前|以《も》って仰せられても、躬恆や貫之などのようには詠《よ》めない。まして、こう、にわかに詠めるわけはない。」と、傍の侍女達に、云っている声がほのかに聞えて来た。<br>   その気配や言葉つきが、美しく上品で、世にはこんな女性もあるのかと、感に堪えていると、すだれの下から十二、三の童《わらべ》が、いざり出て来て銚子と 盞《さかずき》とを持って来て、酒をすゝめるのである。沢山は困ると辞退したが、いく度もいく度も酒をついでくれる。またすだれこしに、美しい蒔絵の硯 《すずり》の箱のふたに、きれいな薄様《うすよう》の紙を敷いてその上に菓子を盛って、さし出してくれる。尤も、この時代の菓子と云うのは、文字通り、く だものの事である。<br>  現在の菓子が、くだものに変ったのは、室町の末期以後である。しばらく飲んで盞を置くと、またすだれの下から新しい盞を差し出すので、また飲んでいるほどに伊衝の白皙《はくせき》の顔は赤らんでいよく美しさがますので、女房達はすだれこしに見とれている容子であった。<br>  伊衝に酒をすゝめたのは、作歌のための時間を得るためであったのであろう。やがて、紫の薄様に歌を書いて、それを同じ色の薄様に包んで、女の衣裳と一しょに、すだれの下からさし出した。この衣裳は、使者伊衝に対する贈物なのである。伊衝は「思いがけぬ贈物である。」<br> と、礼を云って立ち上ったが、女房は物のかげから、伊衝の後姿の、いみじくようちょう《、、、、、》たる<br> をいつ迄も見送っていた。<br>   内裏では、まだかと云うので、人を出して見させたほどであった。やっと、けいひつ《、丶、、》の声(前駆の声である。勅使だからであろう)がして殿上口 《てんじようぐち》(清涼殿に上る入口)に近づいたので、御前に侍る公卿殿上人達は返事いかにとかたずを飲んでいたし、道風はたった一枚残った色紙の前で 筆をうるおして待っている始末である。伊衝少将は、伊勢御息所からの贈物を傍へおくと、お文ばかりを持って、御前にさし上げた。帝が、これを御覧《ごろ う》ずると筆蹟も見事で道風が書いたのと少しも劣らない位である。そして歌は、<br> 散り散らず聞かまほしけれ故里の<br>    花見て帰る人もあらなむ<br> <br>   と云うのであった。帝は、これを見て、めでたがり給うこと限りがなかった。そして、御前に侍《さむら》う人々に、これ見よとてお渡しになった。声の美しい 公卿が読み上げると、人々は皆、いみじがること限りがなかった。度々詠み上げた後に、道風が筆を取って、書きつけたのである。<br>  (散ったかまだ散らないか花の消息を訊きたいものだ、あの名所の花を見て帰る人があればよいのに。)<br>   と云う意味だ。故里は、こゝでは故郷の意味ではなく、由緒ある土地とか、曽遊の地とか、云う意味だ。即興の歌として、古来これほどの秀逸はあるまい。小式 部内侍の(まだふみも見ず天の橋立)などは、これに比べると、はるかに劣っている。尤も、所要時間は、小式部の方が少いが。<br> <br>

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