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宇野浩二「枯木のある風景」」(2015/07/04 (土) 20:30:44) の最新版変更点

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 紀元節の朝、目をさますと、珍しい大雪がつもっていたので、大阪でこのくらいなら奈良へ行けば五ロぐらいは大丈夫だろうと思いたつと、島木新吉は、そこそこに床をはなれて、なれた写生旅行の仕度にかかった。家を出る時、島木は「四五日旅行する」と書いた浪華《なにわ》洋画研究所あての葉書を妻にわたしながら、「研究所には内証やで、」と云い残した。  浪華洋画研究所というのは、六年前、島木が、その頃、もっとも親しくしていた古泉《こいずみ》圭造と相談して創設したもので、二人だけでは手がたりないので、彼等の共通な友だちで、おなじ土地(大阪市内外)に在住する八田《やた》弥作と入井市造とを講師にたのみ、以来今日までつづいている大阪唯一の新画派の洋画研究所である。新画派というのは、この四人の画家が、この研究所が創設される前の年、同時に新興協会(反官学派画家の団体)の会員に推選されたという由来があるからである。  奈良につくと、島木は、わざと浪華洋画研究所の定宿をさけて、いつも一人で行く時に極《き》めてある宿屋にとまることにした。島木は、宿屋につくと、すぐ写生の仕度をして、勝手を知った春日《かすが》の森の方へ出かけた。雪は、望みどおり、大阪の二倍ぐらい積もっていたが、寒さは、というより、冷たさは、真に骨をさすようであった。島木は、宿を出しなに、女中が「外は寒おまっしゃろ、今日は二月堂の御水取りだすよって、」といったことを思い出した。 「御水取り、御水取り。」この言葉をあたかも寒さしのぎのまじないのように口ずさみながら、雪道をあるいている問も、彼の目は一時《いつとき》も油断なく左右の風景を物色することを忘れず、彼の心は絶えず物おもいに耽《ふけ》りつづけた。この貪欲《どんよく》な風景画家の目と文学者のような心を一身に持っていることは島木の長所でもあり短所でもあった。  町をはずれてしばらく行くと、彼の目が気にいった(あるいは何かの記憶のある)風景を見つけたらしく、突然、立ち止まった。それは高畠といって、むかし春日の神宮の邸《やしき》のあったところで、今は、道の片側だけに、その形見の土塀がとぎれとぎれにならび、その問にこれも廃園の形見の樹木が散在している。  が、これは島木が数年前に書いたことのある高畠の風景で、いま島木が目の前に見出した風景は、それらの点景がことごとく深い雪におおわれているために、これがあの高畠かと思われるほど、別の魅力で島木の目を引きつけた。  道のまん中に立ち止まった島木は、構図を極めるために、十分間ほど前後左右を四五歩ぐらいずつあるきまわっていたが、それが極まると、写生の仕度は五分とかからなかった。  仕度が出来あがると、島木はすぐ下書きをはじめた。一年の三分の一を写生旅行に費すといわれる程の勉強家だけに、その下書きの早さは熟練した職人のようであった。それを形容すると、目が目の前の風景から拾いあげる部分部分をすぐ手が受けとって筆を動かす、という風に見えた。そうして、目と手が高畠の雪景の下書きを書いている問、島木の心は古泉圭造のことを思いつづけていた。もっとも、島木が古泉のことを思い出したり考えたりするのはこの時だけでなく、島木は、この一二年来、誰のことよりも古泉のことを思い出すときが多かった。──  島木がはじめて古泉を見たのは、二十二三年前、中学を出て上京し、美術学校の入学試験を受ける準備に、一年間白馬会洋画研究所にはいっていた時のことであった。自分とおなじような大阪ぼんち風の書生がいつも教室の隅の方で黙黙と素描をやっていた、その素描が他のどの生徒より図抜けていた、殆んど誰とも話をしているのを見かけなかった、既に美術学校の日本画科にはいっていたのだが改めて洋画科にはいるために洋画の素描の稽古《けいこ》に来ている、──など、ことごとく一風かわっていたことで、言葉をかわす機会はなかったが、その時はじめて島木は古泉の存在を知ったのであった。  古泉は古泉で、島木と親しくなってから、つぎのような話をしたことがある。それを、古泉独得の大阪語に書くとあまり長くなるから、換言解釈して書くと、こういうのである。 「僕は昔からかなり毛ぎらいをしたもんで、美校(美術学校の意)にいた時分なども、かなり友人たちを毛ぎらいしたもんで、殊に自分が大阪もんだけに、大阪人を非常に嫌がったもんや。東京から夏休みに帰る時など、汽車が逢阪山のトンネル(山城《やましろ》と近江《おうみ》の境)を西へ抜けると、ぱッと世界があかるくなるのは愉快やが、わッと大阪弁が急に耳に押し寄せてくるのんが何よりもむッとする。考えてみると、それは自分が大阪のまん中で生まれた生粋の大阪人であるので、尚更にがにがしい気がするんかと思う。それやから、学校にいても、大阪から来てるやつとは殆んど言葉をまじえんことにしていた。それは、日本人が西洋に出かけると、日本人に出あうことを申し合わしたようにいやがるのと同じようなもんや。」  ざっとこういう意見を古泉が述べた時、島木は心から同感の言葉を放ったものである。──この時分から島木は古泉に親しみを覚えるようになった。  しかし、初めは、さきに述べたような訳で、島木が美術学校の洋画科にはいった時、古泉もおなじ科にはいって来たので、少しずつ口をきき合うようにはなったが、それでも長い美術学校在学ちゅうに島木と古泉との交際、というより、交渉はかぞえる程しかなかった。その一つの例をあげると、ある時、島木が古泉を誘って自分の下宿につれて行くと、古泉は、島木の部屋の入り口に立って、ちょっと部屋の中を見まわしただけで、すぐ帰ってしまったので、島木は後で考えた。──これは、自分の部屋があまりに狭過ぎる(四畳半)ためであろうか、画学生である自分の部屋に一つも絵がおいてないからであろうか、それとも古泉はやっぱり交際ぎらいの拗《す》ね者《もの》なのであろうか。ーー  彼等はおなじ年に学校を出たが、古泉は卒業するとすぐ大阪の生家にかえり、島木は、事情があって、二年ほどおくれて大阪の生家に帰った。その頃のある日、島木は町で友人に逢って古泉を訪問してみないかと誘われた。島木が学校時代の古泉を思い出して、あんな無口な偏窟者は訪問してもおもしろくないであろうと云うと、友人は答えて、それは全く反対で、無口どころか、散髪屋などに行くと、一時間でも無駄口をたたいて人を笑わしているくらいであるというので、島木は半信半疑で訪問する気になった。  その頃、古泉は寺町のある寺に間借りをして勉強していた。古泉はその寺の離れ座敷に大島絣《おおしまがすり》の着物をきてちょこなんと坐っていた、(洋行後は洋服にあらためたが。)床の間には奈良の風景をかいた日本画の掛け物がかけてあり、壁には、裸婦の油絵がかけてあり、自作の絵の刺繍《ししゆう》したのなどが張りつけてあって、何となしに、そこらが絵心でこもっているようで、以前の取りつきにくい気分とちがった感じがしたので、島木が、 「昔の君は素気《すげ》なくて、あれでは話にも何にもなれへなんだ、」というと、 「君、あれは神経衰弱というやつやったんや、」と古泉が答えたので、二人は一度に吹き出したものであった。  しかし、その時、島木は古泉の妙に落ちついた物のいいぶりから、これは只者でないという印象をうけた。それ以来、この只者でないという印象は島木の頭から消えなかった。  下書きが進んでゆくと、それにはある程度の絵の具を使っていたので、島木が意図した構図と色調がしだいに画布の上に浮かびあがって来たので、空想は古泉のことから寄り路して、ふと島木の心の目に、かつて見た雪景の油絵の中から、特に二つの絵がうかんだ。一つは外遊中に見たモネの雪景、他は四五年前の新興協会展覧会で見た古泉の雪景である。一と口にいうと、モネの雪景は色彩を特徴とし、古泉のは素描を特徴としている、いいかえると、モネのは雪の美しさをあらわし、古泉のはそれの冷たさをあらわしている。嘗《かつ》て島木も初期の頃はモネ流の絵を書いたが、その後の島木はなるべく単純な色彩で言わば南画風の情緒を油絵で現わそうと志している。したがって、今の島木はモネの雪景より古泉の雪景の方に心をひかれた。とはいえ、島木の画風と古泉の画風とは島木が風景画を得意とし古泉が人物画を得意とする程の相違があった。が、そのために、島木は古泉の人と芸術を認め、古泉は亦島木の人と芸術を認めた。  ふたたび島木の手は下書きをつづけ、ふたたび島木の心は古泉の回想にもどった。去年の十月末に古泉を訪問した時のことである。  島木は、昼すぎに家を出て、途中で研究所にちょっと寄り、それから阪神電車に乗った。天気がよかったので、古泉の家のある住吉の一つ手前の芦屋《あしや》で下りた。それから住吉の古泉の家まで小一里の道をあるいてみた。南はすぐ海で、北には六甲山が起伏し、その麓《ふもと》から海岸までかなりの斜面をなしている。その地勢は島木が嘗て旅行した南フランスのニイスあたりに似ているように思われた、小高い丘陵がつづく有り様、別荘の多いところ、自然が人工化されているところ、立派な国道が通じているところなど。しかし、残念なことには、あの南フランス一帯に茂っている墨のまじった淡緑色の橄欖《オリイブ》の林と赭土《あかつち》のかわりに、ここには、黒く堅い松林の連続と真白な砂地があり、あの古風な石造の家や別荘の積み重なりのかわりに、俗悪な文化住宅とバラック建ての住宅がある、いいかえると、南フランスには幾度かいても書き切れない豊富な画材がころがっているが、ここは到る所に画家を失望させる景色ばかりである。島木は、こういう風景の中にある画室にこもっている古泉が、裸婦や静物を数おおく書くのは尤《もつと》もだと思うとともに、ときどきこういう風景の中から人の意表に出る動機を見出だして絵にする古泉の特異な才能にあらためて敬意を感じた。  この時の訪問の目的は、心にかかりながら逢う(訪問する)機会のない友人に久しぶりで逢いたくなったのと、この二年ほど健康を害して引っこんでいるその友人の様子を見るためであった、が、どちらかというと、その様子を見るための方が主《おも》であった。というのは、島木が、一昨年《おととし》の秋訪問した時も、去年の春訪問した時も、古泉自身もひどく健康を害しているといい、島木の目にも、古泉の才能(芸術)や気力(精神)がますます冴えて行くように思われる反対に、その肉体が逢うたびごとに衰弱して行くように見えた、そうして、去年の秋も病気と称して、例年八月下旬におこなわれる新興協会の鑑査に上京するのも中止し、九月以来おなじ理由で研究所に一度も顔を出さない、  そういう点から推すと、いかにも重い病気らしく思えるけれど、島木には、それがどの程度のものか、あの古泉のことであるから、もしかすると仮病ではないかとまで臆測されたからである。  それにはこういう理由があった。ー-古泉がまだ大阪にいた頃は、彼等は住居《すまい》がわりに近かったのと馬が合ったので顔を合わす機会が多かった。彼も話し上手の方で巧まずして人を笑わす才能をもっていたが、古泉のは同じ話し上手でも一風かわっていた。島木のは普通の雄弁であったが、古泉のは吃りの雄弁というような味を持っていた。それで、島木は、ほかの友だちにはその雄弁を発揮することができたが、古泉に対するといつも聞き手になった。そういう島木を聞き手で満足させるほど古泉の話は怪しい諧謔《かいぎやく》を持っていた。しぜん、島木は古泉から聞いた話はどんな古いものでも覚えていた。その中に、『骨人』というのと『胃のサボタアジュ  一名、行路病者になりそこねた話』と云うのとがある。  その『骨人』の一部を換言解釈すると、こういうのである。 「急に冷気を覚える朝など、よく蜻蛉《やんま》が凍えて地べたに落ちてる事がある。僕はそれを見ると身につまされて憐れに思い、拾巴.て来て火鉢や手工で温《ぬく》めてやると、急に元気づいて一時は息を吹きかえすけど、何というても秋冷の気イにはかなわん、結局、死骸になってしまいよる。僕は蜻蛉みたいに秋が来ても死骸にはなれへんけど、何《なん》やもう心の奥から冷気がこみあがって来て心細さ限りなしや。だから、秋から冬、冬から初夏まで、僕は寒い寒いと云いつづけて暮らす、寒うないのは真夏だけや。が、その真夏でさえ印度洋《イントよう》で風をひいた覚えがあるし、それから、毎年の八月の末の美術館の中でもそうや、無数の下手くそな絵工を鑑査してると、その中日《なかび》頃から、絵の食い過ぎと胃の中にたまってるパン屑《くず》が混合して、中毒をおこすとみえて下痢を催す。それで懐炉を腹にあてて、残暑の炎天を上野の山をあるく辛さは考えてもぞっとする、骨人の悲しみは冷気にも熱気にも負けるらしい。」  それから、『胃のサボタアジュ』とはこういうのである。 「病人というものは死なん程度で重く見てもらいたがるもんや、僕なども自分の胃を軽蔑《けいべつ》されたりすると、癪《しやく》にさわって、己《おれ》のンはそんなくだらんケチな胃病とはちがうと威張ってみたくなることがある。僕の胃病は、医者の説によると、胃のアトニイというもんで、胃の筋肉が無力になって、一種のサボタアジュを起こすのんやそうや。この胃のサボタアジュのひどい時はよく脳貧血をおこす。脳貧血ちゅうもんは所きらわず起こるもんやさかい厄介や。僕はこの脳貧血のお蔭で二度行路病者になって行き倒れたことがある。一度は東京の目白の田舎道で、夜の八時頃、急にフラフラとやって来て、賠い叢《くさむら》の中に倒れた。この時は気前のええ車屋さんに助けられたが、もう一つの奈良公園の時は困った,朝から胃の重たさを感じながら荒れ池の近くで写生していた。例によって昼飯などは思い出しもしない、その日は僕の一番きらいな薄曇りのじめじめした寒い日イで、午後三時頃かと思う、七ツ道具を片づけてある坂をば登りつめたところで、急に天地が大地震みたいにぐらぐらと廻転をはじめて、心臓が早鐘のように打ち出した。これはいかんと思う間もなく、僕は夢中で七ツ道具を投げ出して草原の上に倒れてしもた。そこで、ちょっと空を眺めて見た。この世の空かあの世の空かをたしかめよと思《おも》たらしい。すると、頭の上に馴染みの大きな杉の木が見えたのでまだ死んでいない事だけはわかったが、まだ少オし怪しい気がしたので、誰かいないかと思て、あたりを眺めると、半町ほど先きに道普請をしてる工夫がいたので、『僕は今死にかかってます、早よ来て下さい、」とニへん叫んでみたが、その男たちは、ちょっと此方を眺めただけで、道路を掘りつづけていよるので、僕はずいぶん水くさい奴等や、死ぬいうたら何にをおいても来べきもんやないかと思て、イライラして、もう一ぺん『早く来てくれ、死ぬ死ぬ、』とどなってやった。と、それが聞こえたかして、工夫の監督が何か指図すると、すぐ二人の男が走って来て、僕の止まっている宿屋の座敷までかつぎこんでくれよった。それで、その晩、そこの女中が僕の冷え切った手足を夜どおし自分の手工で温《ぬく》めてくれたんで、やっと正気にかえったという訳や。それ以来、僕は絵の道具をかついで坂道を登るのンが嫌いになった、僕が一人で風景写生に出るのが否《いや》になったんはその時以来らしい。」  島木はあるきつづけた。初めのうち島木は沿道の風景を南フランスにたとえたりして楽しんだが、それに飽きると、一停車場手前で下りたことを後悔した。西洋人の夫婦や恋い人たちが無遠慮に自動車を走らせているのも腹がたち、終には自分のあるいている広い立派な国道の単調さまで腹がたった。人は腹をたてると、何にも考えられなくなるものである。ところが、芦屋駅から三十分あまりあるいたところで、彼の腹だちを、突然、転換させる事件がおこった。  それは、右手の山がしだいに近づき、左手の海が少しずつ遠ざかったところ、道の行く手の左側に名物の酒倉が斜めにならんで見えるところで、ふと、右手の丘の上に、海を眺めながら立っている古泉圭造を発見したことである。殊に、島木と古泉との距離は、古泉が写生帳らしいものを持っているのが島木に見え、几帳面《きちようめん》な島木が土産物らしい包みをかかえているのが古泉に分かるくらいの近さであったので、彼等はほとんど同時に互いの姿を見出だした。が、古泉の方から先きに写生帳でまねいたので、島木の方から近づいて行った。 「どこイ行くんや。」「君んとこや。」「方角がおかしいやないか。」島木がその訳を答えてから、「君は、」と聞くと、岬ちょっとロ光浴をしに出かけたんや、」と古泉は、答えてから、「僕んとこなら、此方《こつち》の道の方が近い、」 と云って、ずんずんあるき出したので、島木もならんで歩き出した。この}ちょっと日光浴をしに出かけたんや、」という言葉が始まりで、この時の訪問は最初から最後まで島木が受身の形になった。  ならんであるき出してからしばらくの間は、両方とも話の切っ掛けがなかったので、だまっていたが、まず古泉が近頃の研究所の様子を聞くことから口をきった、「僕も近頃は休み勝ちやからよう知らんけど、相変らずや、」という島木の答えを受けて、古泉は彼一流の吃り調子でぼつぼつ始めた。──八田の弥ッちゃん(八田弥作のこと)は、足下《あしもと》の明るいうちに、何処その学校の先生になって、美学とか美術史とか洋画の技法とかを教えるのを専門にして、絵工の方は一年に一ぺんだけ新興協会に、それも一点か二点、それもせいぜい六号か八号ぐらいの小品を出す、ということにきめたら、ポロを出さずにすむと思うがな。また入市《いりいつ》ちゃん(入井市造のこと)は、一ばん善人で、深切で、研究所の生徒には一ばん懐かれているし、自分もあの仕事が好きらしいから、今でもそうやが、行く行くは研究所の仕事をすっかり任す事にしたらええ。そのかわり、入市ちゃんも、大望をおこさんと、これもせいぜい大阪市街風景を専門にした方が無事であると結論して、結局、自分たち(古泉自身と島木)は、}そのうち、研究所の顧問とでもいう『位Lをもろうて勝手に勉強した方が得や、」といった。  島木は、この説にはことごとく同感であったから、同感の返事をしておいたが、このくらいの説は古泉としては平凡だと思った。しかし、島木が驚かされたのは、古泉の家について、その画室の中に足を踏み入れてからであった。そこには、前に書いた製作、いま書きつつある製作、これから書こうと思う製作の下書きなどが、玩具箱を引っくりかえしたように、乱雑におきならべられてあった。しかし、島木をもっと驚かしたのは、その乱雑な中にいつもより何処かきちんとしたところがあ蛤、たのと、その一隅に古泉が洋行土産に持って帰ったフランス人形を書いた同じ大きさ(六号)の油絵が十点以上ならべられてあった事である。そこで、島木がその訳を聞くと、「これはみんな細君がとって来た注文品や、」と古泉は答えた。  そう云う古泉の顔に、ちらと悲しいというか味気ないというか、何ともいえぬ、痛ましい表情が現われたのを島木は見のがさなかった。  この『細君がとって来た注文品」という言葉は、数年前、ある他の友人から、古泉の妻が、甲斐性者というか、内助の功があるというか、古泉が展覧会に出品した絵とか興に乗ってかいた絵とかの買い主をみつけて来る、という話を聞いたことを島木に思い出させた。その友人は、また、古泉の細君が、以前は女流画家であって、古泉と恋愛結婚をしたこと(これは島木もその当時を知っていた)にまで溯《さかのぼ》って、だから、画家の古泉には都合のいいこともあるが都合のわるいこともあるといい、その都合のいいことの例は画のわかること(これは都合のわるいこともある)と社交家であることとで、中でもっとも都合のいいことは、どしどし自分で絵の買い手をみつけて来て、古泉を働かせることであるとも云った。  島木は、その話を聞いた時、羨《うらやま》しく思い、その後も、ときどきそれを思い出して羨しく思ったが、今、目の前にならべられてある、版で刷ったような十点以上の同じ絵を見ると、こんな職人のするような仕事を妻から強いられている古泉を痛ましく思い、そうして古泉の病気の本当の原因がこんな所にあるのかとも考えられた。しかし、又、こんな境遇にありながら、画技が、少しも衰えないばかりか、ますます冴えるばかりでなく、その十点以上のフランス人形に一点の駄作のないのにも驚かされた。  驚かされたのはそればかりでない、その乱雑さの中に、その年の新興協会の展覧会に出品された数点の油絵のほかに、その後に書かれたらしい油絵と素描が数点ならべられてあった事である。その中でもっとも島木の目を引いたのは、かなり大きな絵の下書きらしい二つの素描で、一つは古泉の得意な人物画で、他は古泉にはめずらしい風景画であった。  両方ともまだほんの下書きではあったが、さすがに島木の目はその二つの未完成の絵の特長を見のがさなかった。人物画の方は、古泉独得の鋭利な観察と適確な技法とはこれまでの古泉の絵に共通したものであるが、その構図は大胆不敵なものであった。これまでの古泉の人物画は、裸婦にしても、一般の人物にしても、一人の人物をさまざまの形にして、それを根は写実であるが、模様風に現したものであるが、今度のは裸婦と人物(自画像)とを一緒に取り入れている、  くわしくいうと、裸婦を前景(画面の下方)に横たわらせ、背景の中央にそれを写生する横むきの画家(自画像)と、その画家と同じ大きさくらいの画架を対立させ、その背景の左側と右側に煙突のついた暖炉半分と壁掛半分とを対立させ、なお前景の裸婦の下に支那寝台の上部をのぞかせている、  ざっとこういう古泉一流の模様風ではあるが、飽くまで写生に根を据えた構図であった。  島木は、その黒色ばかりで現された下書きに一種の悽惨《せいさん》さを感じて、側に古泉が腰かけているのをも忘れて、それに見とれた。  古泉も、島木がその下書きを見つめている恰好《かつこう》から、島木の思うところを察したらしく、その場の重苦しい気分をかえるつもりか、 「こ、これが出来あがったら、裸婦写生図という題をつけよと思うんやが、どやろ、ちょっと梅原流やけど、」と云った。 「裸婦写生図、ー ええ題やないか。」島木は、鸚鵡《おうむ》がえしに返答しただけで、今度はその『裸婦写生図臣とならべておいてある風景画に目をうつした。この方は、「裸婦写生図」よりずっと後、恐らく二三日前にかかったものらしく、下書きとしても三分の一ほどしか出来ていなかったが、それでも島木にはほぼ見当がついたので、 「こっちの風景は、何《なん》や見おぼえのあるような景色やな……」と島木がいうと、 「見おぼえがある筈や、一ぺん前に書いたことがあるし、風景というても、僕のことやから、手近なとこで問に合わし……」 「あ、そうか、四五年前の「夏の郊外』か……」  古泉は、返事のかわりにうなずいて、「あれは、もう売ってしもて、ないけれど、あんまりごてごてしてたさかい、今度はもっとあっさりしたとこを書こと思うね。さいわい、今は夏と違《ちご》て、花とか叢《くさむら》とかいう雑物《ぞうもつ》はあれへんし、もしあったかて、此方が冬の神さんになって、いらん雑物は此方で勝手に枯らしてしもて、書いたうと思てんね……」  古泉はここで一服した。が、これだけの言葉を、吃りながらでも、つづけていうのが苦しそうに見えた。古泉が吃るのは持ち前であるが、この二年ほど前から、もっと短かい言葉でも云いづらそうになったのを、島木は、気づいていたが、この訪問の時、それが一層ひどくなったのを感じた、といって、古泉一流の飄逸味《ひよういつみ》は少しも失われなかったが。古泉はつづけた。 「それで、今度の風景は、その雑物をみんな取って、こっちの絵工(「裸婦写生図」を指さしながら)の裸婦の横たわってる辺に、枯木の丸太を四五本横倒しにおいたうと思てんね。それだけで、後はまだ思案ちゅうや。……今までの、写実一点張りは、これで(再び『裸婦写生図」を指さして)当分打ち切りにして、これからは、芭蕉風に、写実と空想の混合酒《カクテエル》を試みてみよと思うんや。題して『枯木のある風景』というのはどうや。」 「ふうむ、」と島木は唸《うな》った。  島木はその晩ほとんど眠れなかった。その日、島木は、古泉の家の門を出た時から自分の家に帰るまでの問、「芭蕉風に、写実と空想の混合酒《カクテエル》を試みてみよと思うんや、」という言葉を何度口のなかでくりかえしたか知れなかった。それから、当分の問、『芭蕉風」云々といって島木の顔を見た古泉の目を島木はしばしば思い出した。それを夢に見たくらいであった。  しかし、不思議なことには、その目は、島木が古泉とよく往来した頃の、あの聡明《そうめい》な澄んだ目でなく、この二年ほど前からしだいに極度の睡眠不足か神経衰弱ででもあるように、しょぼしょぼまたたく目であった。しかし、又、一そう不思議なことには、古泉自身健康を害したといい出したその二年ほど前から、古泉の製作の数がいよいよふえ、その出来栄えがますます冴えて来たことであった。それで、いつとなしに、島木はそのしょぼしょぼした目まで油断がならないそと思うようになった。そうして、それまでは、その剽軽《ひようきん》な言葉から推して、ただ剽軽な性格の人と思っていたが、いつとなしにそれも油断のならない人だと思うようになった。  島木が古泉の『芭蕉風』云々の言葉を気に病んだのは、島木がその年の秋に発表した「秋晴れの古塔』という絵が、その主題の古塔を主として、その近くにある学校の屋根やコンクリイトの塀など──つまり、古泉流にいうと、雑物──を勝手に削ってしまったもので、島木自身でその『芭蕉風」を志したものであるからである。もっとも、風景画に自信のある島木は、芭蕉風は芭蕉風でも、自分のと古泉のとは画風がちがうと信じてはいたが、少なくとも、古泉が、風景画を書くのに、以前の写実一点張りを捨てて、『写実と空想の混合酒《カクテエル》」を試みるというのを聞くと、油断はならないそというほどの刺激にはなった。  その証拠に、島木は、古泉を訪問した翌日、そのころ古い塔や堂に興味を持っていたので、法隆寺から奈良への写生旅行に出がけた。その旅行の仕度をしながら、島木は「古泉は妻の刺激で仕事をし、俺は古泉の刺激で仕事をする、」と、癖の、独り言をいいいい、それで自分をはげました。その時は、まず法隆寺で夢殿《ゆめどの》を書き、奈良では興福寺の南円堂を書いたのであるが、気のせいか、その時かいた夢殿も南円堂もわりに自信のある作が出来た、殊に『夢殿』は島木がこれまで書いた作のなかでもっとも気に入りの一つになったぐらいである。そうして、この『夢殿」を思い出すと、島木は古泉の『芭蕉風』という言葉を思い出した。というのは、島木は、その『夢殿」を書きながら、一これを建築物として書くより、伝統的な聯想《れんそう》が自然に浮ぶようなものにしよう、」と思うと、『芭蕉風」と独り言が出、「これは実景を見たのより絵の方がのんびり見えるように、建物の線はなるべく略し、塊《マス》として現した方が重みが出るであろう、」と考えると、また『芭蕉風』と独り言が出、「昔の長閑《のどか》な、何処となしにゆったりした、太古の音楽でも聞こえて来るような感じを持たせたい、」と思うと、『芭蕉風』と口ずさむという風だったからである。-  今、島木は、高畠の雪景の下書きをしながら、回想がここまで来た時、また『夢殿」と『芭蕉風」を思い出して、「古泉のが『芭蕉風」で自分のも『芭蕉風」とすると、風景画としては、少なくとも自分の方が「芭蕉風」はずっと前から試み──というより、今では自分のものにしているつもりだ、」とまでは考えたが、ふと今さき思い出したモネの『雪景』と古泉の「雪景』のことをもう一度思い出すと、彼は心のなかで赤面した。それは、四五年前に古泉が書いた「雪景」は、今、その構図や色彩を思い出してみると、その簡潔な構図の取り方といい、その枯淡な色彩といい、小品のわりに大きく見えたことといい、(芭蕉の俳句のことはよく知らないが、)芭蕉よりも見方や感じ方が新しいだけに、芭蕉以上の芸術ではないかと考えられたからである。  島木は考えつづけた。古泉の『雪景」をその冷たさと寂しさをあらわしている点でかりに芭蕉の俳句とすると、モネの『雪景」もその美しさと静かさをあらわしている点で芭蕉でない他の俳人(モネに比較できる適当な俳人の名を知らないが)の俳句と匹敵するにちがいない、すると、古泉の絵が「芭蕉風」とすれば、彼自身の絵もやはりモネに比較される『何某風』と考えねばならぬことになる。そう考えると、古泉は、去年島木が訪問した時、「これからは、芭蕉風に写実と空想の混合酒《カクテエル》を試みてみよ、」などといったが、四五年前にあの『雪景』を書いた時に、既にその『芭蕉周」を試みていたのかも知れない、いや、きっとそうだ、でないと、あんなに突然「裸婦の横たわっている辺に枯木の丸入を四五本横倒しにおいたうと思てんね、」といったり、「後《あと》はまだ思案ちゅうや、」などという落ちついた口がきける筈がない。そう考えると、幽後はまだ思案ちゅうや」などいうのも眉唾物で、実はもうすっかり構図の腹案が出来ていたのかも知れない、いや、確かにそうだ、でなければ、あんなにしゃあしゃあと「題して『枯木のある風景」というのはどうや、」などといえる筈がない。── 「やっぱり彼奴は只者やない、」と独り言をいいながら、島木は、いつか昼近くなったので、一とまず下書きをやめて、写生道具を片づけはじめた。  その翌日の午前十時頃、八田と入井は、十分ぐらいのちがいで浪華洋画研究所に出て来た。彼等が一服しながら窓の外の雪景色をながめて、この雪を写生に奈良へ行こうと相談しているところへ、小使が『四五日旅行する」とだけ書いた島木の葉書を持って来た。  それを見ると、行く先きを云わぬことといい、あの大雪をおかして一人で出かけたことといい、岬如何にも島木新吉流やなア、」と苦笑しながら云い合ったが、彼等も、昼過ぎに、その日来あわしていた生徒たちの中から有志の者を七八人つれて、三日の予定で奈良に出かけた。そうして、彼等は島木が避けた浪華洋画研究所の定宿に止まることにした。そうして、その日とその翌日と、連れて来た生徒たちを二た組にわけて、一と組は八田につれられて公園の方へ、他の組は入井に連れられて町の方へ、写生に出かけたので、彼等も島木が奈良に来ていることを知らず、島木も彼等の来ていることを知らなかった。もっとも、生徒をつれていなくても、八田や入井の写生は長くてせいぜい二三日であったが、島木は短かくて一ご二日であった。こういう点でも、八田と入井が似ていて、島木と古泉とが似ていた。──  その翌日、つまり、おなじ奈良に島木が来てから三日目、八田と入井が来てから二日目の午後八時頃のことである。  八田と入井は、前の日もそうであったが、その日も六時頃に夕飯をすますと、置《お》き火燵《ごたつ》をはさんで、彼等の専門である美術談にふけった。美術談といっても、この頃、(あるいはこの半年あるいはそれ以上、)彼等の話題にのぼるのは、九分九厘まで、彼等の同業であり親友(これは彼等の方で親友と信じているが相手の方はそう思っているかどうか分からない)であるところの、古泉圭造の人とその芸術についてであった。 「古泉君の絵は、大正十二年あたりから、」 と八田は東京七分大阪三分の言葉でつづけた、「本筋にはいって来たと僕は思うんだ。それは初期の絵もすぐれてはいるが、大体的にいうと、洋行後一年ぐらいの作まではまだ幾らかぎこちないとこ──つまり、えげつないとこがあると思う。それについてこんな話がある。四五年前のことや、ある日、古泉君と一緒に研究所を出て心斎橋筋を散歩した時のことや、文房堂のかどを通りかかると、陳列窓《シヨウインドウ》のなかに古泉の旧作らしい六号ぐらいの裸体画が飾ってあった。それを見ると、古泉は僕の方をちょっと見て、『あいつはいかんな、』と云うたかと思うと、つかつかと店の中にはいって行って、店員に『あれはいかん、引っ込めとくなはれ、代りのんよこしますさかい、』と云ったことがある。これが僕のいう初期の作品、つまり、大正七八年から二一二年の間の作品が、後年古泉にも気に入らなんだ一つの例やと思うんだ。その外にも、まだもっとひどいのは、僕の知ってる人で古泉君の古い絵を持っている人が、名を云うたら君も知ってる人や、  ある人から古泉君は自分の古い作品を見つけると何《なん》とか彼《か》とか苦情をつけて破ってしまうという話を聞いてから、古泉君が訪問して来ると、あわてて自分の持っている額をはずしてから、部屋に通したという話だ。この二つの例だけでも、古泉君が初期の作を嫌がった点で、僕と同意見だということが分かるやろう。」 「君は、じき、初期の作、初期の作、いうけど、」と入井は大阪七分東京三分の言葉で応じた、「初期の作には、なるほど、君のいう通り、えげつないとこはあるが、えげつないとこ即ち古泉君の特徴やないか。が、まア、古泉圭造論は後まわしにして、あのG賞になった出世作の『一家族』にしても、K賞になった『ある娘の像」にしてもヤ、あの二つの絵工に使われている青と赭《あかつち》の配色は、十年後の今日《こんにち》の作にまでずっと一貫してるやないか、もっとも、洋行後の作には黒と灰色がずいぶん使われるようになったが。……一貫してるというと、あの二つの最初の傑作、殊に『ある娘の像」の背景《バツク》に使われてる、骨董趣味《こつとうしゆみ》かて、異国情緒主義《エキゾティシズム》かて、その後十年間の作品にずっと一貫してるやないか、」と、ふだん無口の入井は、酒をのむと、ふだん雄弁の八田と牛角《こかく》になった、「さあ、これから、古泉圭造論や。八田君、はじめてあの「一家族」が出たとき、何とかいう批評家が、芸術味がうすい、」と書きよったのを読んで、古泉君が『芸術なんてくそくらえ、」と云うたのを覚えてるやろ。あの気概だぞ、あの時分は情緒的な風雅なもんがもてた時やさかい、ああいう技術《テクニツク》百パアセント乃絵工が貶《くさ》されたんや。……しかし、考えてみると、古泉ちゆうやつはえらいやつやな。とうとあの技術《テクニツク》で押しきってしもうたやないか、それどこか、今となってみると、あの得意の技術《テクニツク》が、奥義、免許皆伝の域に達したとこがあるやないか。……」 「それに……」入井は盛んにつづけた。「去年、一昨年《おととし》、先一昨年《さきおととし》あたりからの古泉圭造の作品を見い、あの素晴らしい裸婦の連作裸婦の絵工だけでも、わずかこの二三年のあいだに書いた油絵、素描、それから得意のガラス絵だけで  合わして十点以上あるやろ。そのほかに、雪の風景、郊外の風景、卓上の蔬菜《そさい》、卓上の牡丹《ぼたん》、  みんな合わすと、十五六点あるやろ。そん中で、一点でも駄作があるか。駄作どこか、あの腕の冴えを見い、まるで名刀の冴えがあるやないか、凄いとこがあるやないか。おい、八田、今の日本の画壇、いや、世界の画壇に、あんなごまかしのない絵工を書ける絵かきが一人でもあるか。また、日本の女の裸体をあんなにいろいろに生かして書いた絵かきが一人でもあるか、又、裸体画をあんなに上手に亜剌比亜模様《アラベスク》風に表現した者が一人でもあるか。おい、八田、あったら、いうてみい。……」 「入井君、」八田は、入井がしゃべり疲れた頃を見はからって、「入井君、君も、酒を飲ますと、なかなか名批評家、  名論家になるな。今の君の説には僕も殆んど同感だよ。殊に、凄い、という説には大賛成や。まったく、『卓上の蔬菜』にしても『卓上の牡丹」にしても、あの蔬菜や牡丹の色の調子は古泉君独得の渋い地味な色やのに、その渋い地味な蔬菜や花があの殆んど黒一色の背景から浮き立つように見えるとこに、何ともいえん凄い美がある。そのことで思い出すのは、ある時、僕が古泉君に『君の絵には一種の妖気《ようき》があるな、」というと、『そや、そや、』と直ぐ同感したことがあった。妖気、というと、入井君、君は古泉君が去年の十二月中頃の作で、冬枯の風景を書いた三十号ぐらいの油絵を見たことがあるか。」 [僕は去年の夏行たきりやから知らん。」 「そんなら、今、君がいった『郊外の風景』を覚えてるやろ、あの構図を。」 「ぼんやり覚えてうけビ、構図といわれると、ちょっと……」 「そら、画面の下半分が夏の野原で、近景にカンナの花壇があって、左手に叢《くさむら》があって、その向こうに森のはずれが見えて、右手に西洋館の一部がちょっと覗いていて、野原の向こうのちょうど地平になるとこに、バラック建ての平家と、それと同じ高さに見えツ、9遠い丘があって、その家の前に電信柱が二本立っていて、下に道があることを現してあって、画面の上三分の一に夏らしい紅味《あかみ》がかった空が見える……」 「君は実に覚えのええ男やなア。」 「君は実地を知ってる筈や、」と八田はつづけた、「住吉の古泉君の家《うち》のじき側に明き地の野原があるだろ。「郊外の風景』はあそこの景色を古泉好みの模様風に変えたもんやが、根柢《こんてい》が写実だからごまかされるんだよ。ところが、今度の冬枯の風景を書いた三十号ぐらいの絵というのは、『郊外の風景」の三倍ぐらいの大きさであるのに、あの『郊外の風景」とおなじ場所を書いたものらしいんだが、余程よく見ないと、まったく別の場所かと思われるほど、感じも、構図も、違うんだ。第一、今度のんは模様風なとこがちっともない。といって、『郊外の風景』は夏の景色やから、明かるい生《な》まの色をいくらか使い、今度のんは冬の景色やから灰色の渋い色を使う、というような違いでなく、文学的の言葉でいうと、写実と象徴との違いなんだ。だから、僕には、古泉君は、この絵あたりから一転機を劃《かく》するんやないかとも感じたが。……とにかく、そんな抽象的な理窟は別として、僕は、その絵を見た時、頭から水を浴びせられたような、ぞオッとした感じがした。それは、もう、凄いとか、妖気とか、いうことを通りこして、正に『鬼気人にせまる』という感じがしたなア……」 「それだけでは、やっぱり抽象的で、君にだけわかっても、僕にはさっぱりわからんさかい、あの『郊外の風景」と今度の絵工のちがいを、感じでなしに、君の目で見たちがいを説明してほしいな。」 「よし、……」八田はちょっと目を閉じてから話し出した、嵎今度のんは、画面の下半分がまるで枯野の明き地、前の絵の花壇のあったとこに、大きな枯木の丸太が五六本、のさばるように、横倒しに転がっているんや。つまり、その枯木の丸太だけが、近景、つまり画面の下の四分の一ぐらいを占めているんや。何んのことはない『枯木の丸太の図』というような感じや。つまり、この異形な枯木の丸太が古泉君の絵心をそそった動機らしい。その証拠に、枯木の丸太のないとこは赤土と枯草だけの明き地の野原で、あと画面の上半分は冬らしい冷たい色の空が占めていて、その空と枯野の間、つまり地平線は、あのバラック建ての平家と低い丘とで仕切られていて、あの平家の前の往来と思えるとこには、二本の電信柱のかわりに、この絵では、ばかに大きな、これ亦、異形な高圧線の鉄骨の電柱が立っていて、それが冬空を二分している。  そうや、この空だけはやっぱり古泉一流の模様風になっていた。  ところが、その電柱の上の方と下の方とに五六本ずつの電線が張られ、それが単調な冬空に横縞の模様の役をつとめ、その冬空は冷たい青と白と茶褐色の染め模様の役をつとめている。   が、これは、僕のような専門家のいうことで、入井君、いま僕の云うたことを、目をつぶって、構図にして考えて見たまえ、それだけでも十分妖気がさ迷うている感じが浮かぶやろ。……ところが、その上の方の電線の一番上の線に、黒い烏のようなもんが、ちょこりんと止まっているんや、入井君、それを何やと思う。……」 「枯枝に烏のとまり……」 「ちがう、そんな生まやさしいもんやない。僕も初めは、ちょっと烏かと思ったんだが、君、それが、人間やないか。僕が「鬼気人にせまる』感じがしたというたのが、今度こそわかるやろ、又、僕が写実から象徴に……」 「ちょっと待った……」入井がさえぎった。 「しかし、君、あの古泉君の家のそばの明き地には、普通の電信柱はあるけれど、高圧線なんてあれへんやないか。よし又あったにしてもや、高圧線の電線に人がとまったら、人は死んでしまうやないか、象徴か空想か知らんけど、そんな……」  その時、廊下にあわただしい足音がしたと思うと、女中が襖《ふすま》をあけて二通の電報をおいて行った。手近にいた八田がそれを受けとって、自分に宛てたのと入井に宛てたのをわけた。二人はほとんど同時にその封を切った。おのおの自分の家《うち》から打ったもので、その日の午後四時に古泉が死んだという知らせであった。ちょっとの間、二人とも言葉が出なかった。やがて、彼等は、今までの饒舌《じようぜつ》の反対に、二た言三言、簡単な言葉をかわして、そこそこに出発の仕度にかかった。それでも、つれて来た生徒たちの始末を宿の主人に頼んだり、宿賃の勘定をすましたり、して、彼等が宿を出たのは八時を二十分ほどまわっていたので、四十分の電車に間に合うように、停車場まで半分駈け足でいそいだ。道がかちかちに凍っていたのでときどき滑りそうになった。  寒い日ではあり、時間が遅かったので、待合室には五六人の乗客しかいなかったので、半分駈け足でそこに飛びこむと、彼等は、思いがけなく、隅のベンチに腰かけて本を読んでいる島木を見出だした。島木の方でも、彼等の駈けつけて来た足音で、これも思いがけなく、八田と入井を発見した。が、彼等は互いにこの不意の出逢いを驚いたり催かめたりする余裕を持たなかったし、確かめなくても互いにその理由は推最することが出来たし、それに彼等が双方から「や、」呻や、」と声をかけ合った時、改札がはじまった。  電車の中は彼等三人きりであったので、入井は、一時さめた酔いが戻ったらしく、すぐ腰かけの上に横になって、眠ってしまった。寝ころんでいる入井から少し離れたところに、島木と八田はならんで腰かけた。彼等は、突然のようでもありそうでないようにも思われる友人の死について、二た言三言、驚きと悲しみと悔やみの言葉をかわしてから、しばらく沈黙をつづけていたが、やがて八田が口を切った。 「君も知ってるだろうが、先一昨年《さきおととし》の秋あたり、古泉君がもう一ぺん洋行したいとか、一二年東京で暮したいとかいってたことがあるやろ。」  島木は、ほかの考え事をしていたので、少しおくれて、「ふん、」とうなずいた。 「入井君は、あれを、」と八田はつづけた、 「たんに古泉君の気まぐれやというけど、僕は、前に洋行した時、半年足らずで帰って来たくらい西洋ぎらいの古泉君が、再度の洋行を思い立ったのは、あくまで芸術の更新を志す現われやと思うんだ。また、東京移転の意味は、長いあいだ浸っていた阪神の空気に飽いたのと、今までのじめじめした家庭の空気を、東京風にさっぱりさしたくなったのと、もう一つは、やっぱり一ばん好きな芸道の精神のためやと思うんだ。」 「家庭の空気を東京風にさっぱりさしたいというのは同感やな、」と島木は相変らずほかの考え事をしていたが、古泉の家庭という言葉はいくらか島木の注意をひいた。しかし、島木のは家庭というようなしかつめらしい考え方でなかった。その時、島木は、いつか、ある友人からきいた「自分で絵の買い手を見つけて来て古泉を働かせる」妻、夫の古泉に職人のするような仕事を強いる妻、  そういう妻が、良妻であるか悪妻であるか、というようなことを考えていたのであった。  島木をそんな風に考えさせたもとは、さきほど停車場の待合室で読んでいた本(古泉の随筆集)の中のつぎの文句であった。 <blockquote>  今のところ、何といっても、私の思う存分の勝手気儘《かつてきまま》を遠慮なく振舞い得る場所はただ一枚の画架の上の仕事だけである。ここでは万事をあきらめる必要がない。私の欲望のありたけをつくすことがゆるされている。画家というものがどんな辛い目に逢っても、悪縁のごとく絵をあきらめ得ないのも無理のないことかも知れない。 </blockquote>  なる程、この文句を読んだ後では、八田の説が耳にはいる筈がない。島木はこの文句をくりかえし読んだ。古泉を知っている人、古泉とつき合った人は、大てい、古泉を、剽軽《ユウモア》の人、機智の人、巧みな漫談家である、と思う。島木自身も、長い間、そういう人のように思いつづけた。しかし、島木は、去年の秋あるいは一昨年あたりから、あの飄逸《ひよういつ》は仮面ではないかと疑い出した。島木が一ばん初めにそれを疑い出したのは、古泉自身が悪縁と感じるほど打ちこんでいるところの古泉の絵に、古泉の談話や文章に充ちている剽軽や皮肉がほとんどあらわれていないことに気がついた時からである。そう疑い出してから、古泉の言行に気をつけてみると、古泉が、その仮面を、世間に出てかむっているばかりでなく、家庭にいてもかむっているらしい、と島木に思われることがたびたびあった。それ以来、島木は、ときどき、古泉を遠く離れて思い出すごとに、古泉はあの面のために窒息しはしないか、と心配した、(それは本当にそうなったのだ、)例えばあの嫁を脅かすために鬼の面をかむった老婆が、その面が自分の顔にくッついて、悶死《もんし》したという伝説のように。-  島木があまり考えこんでしまったので、八田は、つまらなくなったのか、眠くなったのか、突然、胛僕も寝よ、失敬するぜ、」と云って、入井の向い側の腰かけに寝ころんでしまった。  そこで、島木は気楽に自分の考えをすすめた。  家庭というと、島木は、古泉が大阪にいた頃はときどき往復したので、その様子をほぼ知っているが、それは、八田が云うように、そんなじめじめしたものではなかった。それどころか、古泉の妻はかなり明かるいてきぱきした性格であったから、絵三昧《えざんまい》にはいっている古泉は、家庭ばかりでなく、一切の俗事を妻にまかしきりにしたので、むしろ明かるい家庭であった。ところが、この任しきりの度があまりすぎたので、古泉をもっともわるい意味の『父さん坊ちゃん」にしてしまったのではないであろうか。例えば、彼等が一しょに出て買い物をしても妻がその支払いをし、電車に乗っても妻が切符を買うことなどである。それが終に「さあ、お父さんこれこれの絵をお書きなさい、」甲あの絵は私が何とかしますから、」という状態まで進んだのではないであろうか、と島木は推量というより断定した。そういう事情を推量あるいは断定するようになってからは、あんな大胆な、あんな秀抜な、あんな鋭敏な、あんな独得な、頭脳と才能の所有者が、家庭にあっては『父さん坊ちゃん」の仮面をかむり、(まだ剽軽の方は救われる、)この二三年の間自から好んで、家庭に缶詰になって、(如何にその家庭に缶詰になっている二三年の間に、)「画架の上の仕事だけ」に「思う存分の勝手気儘を遠慮なく振舞」って、二三年の何倍かの素晴しい仕事(作品)を残したとはいえ、終《つい》に死んだ、  それを漫画のような云い方をすると、頭ばかりが大きくなって、それを支える肉体が、頭が大きくなればなるほど、終にしだいしだいに瘠《や》せ細《ほそ》って行って、終に大きな頭と大きな手だけが残って、その肉体がすーッと幽霊のように消えてしまった、  ということを考えると、島木は、ただ暗澹《あんたん》たる気持ちになって、涙さえ出なかった。  三入が住吉の古泉の家に着いたのは十時頃であった。  遺骸は、故人がもっとも愛した明かるい温かい画室の中に、故人がもっとも愛した支那寝台の上に、安置され、その枕元には、故人が愛したフランス人形が飾られた。生前自ら『骨人」と称し、又『永久に身長五尺一寸五分体重十貫五百匁」と自讃した小さな肉体が、仏となって、大きな支那寝台に安置された姿は、物体《もつたい》をつけていうと、伝え聞く一寸八分の仏像のごとく、尊く見えた。画室の中に、所狭きまでに、置き、また掛けならべられてあるところの、その大きな魂と小さな肉体を与えられた人間が生前つくったところの、数多《あまた》の製作は、その形の大なると小なるとに拘《かか》わらず、ことごとく大きく見えた。  その中で、あらゆる弔問者  殊に島木新吉  の目をひいたのは、故人の遺骸の安置されている寝台の上に、壁に掛けられた黒いリボンを飾られた故人の絶筆の一つである三十号の油絵『枯木のある風景」と、その下に、画架に掛けられた黒いリボンを飾られた、これも故人の絶筆の一つである、未完成のままに残された、三十号の油画の下書きの『裸婦写生図」であった。(素人には分からなかったが、あまり大作を書かなかった故人が過去十年の画生活のあいだに三十号以上の大きな絵は数えるほどしかなかったので、この二つの絵はその点でも専門家を驚かした。)  島木新吉は、亡友の遺骸に黙疇《もくとう》してから、ずいぶん長い間、その二つの絵を、見くらべ、見つめた。  島木は、しかし、『枯木のある風景』にも異常な敬意をはらったが、「裸婦写生図』の方により多くの敬意をはらった。

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