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江戸川乱歩「木馬は回る」」(2016/02/07 (日) 18:38:01) の最新版変更点

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「ここはお国を何百里、離れて遠き満洲の……」  ガラガラ、ゴットン、ガラガラ、ゴットン、回転木馬はまわるのだ。  今年五十幾歳の格二郎《かくじろう》は、好きからなったラッパ吹きで、昔はそれでも、郷里の町の映画館の花形音楽師だったのが、やがてはやりだした管絃楽というものにけおとされて、 「ここはお国」や「風と波と」では、いっこう雇い手がなく、ついには、ひろめやの徒歩楽隊となり下がって、十幾年の長い年月《としつき》を、荒い浮世の波風に洗われながら、日にち毎日、道行く人の嘲笑《ちようしよう》の的となって、でも、好ぎなラッパが離されず、たとい離そうと思ったところで、ほかにたつきの道とてはなく、一つは好きの道、一つはしようことなしの、楽隊暮らしを続けているのだった。  それが、去年の末、ひろめやから差し向けられて、この木馬館へやって来たのが縁となり、今では賞雇いの形で、ガラガラ、ゴットン、ガラガラ、ゴットン、回る木馬のまん中の、一段高い台の上で、台には紅白の幔幕《まんまく》を張りめぐらし、彼らの頭の上からは、四方に万国旗がのびている、そのけばけばしい装飾台の上で、金モールの制服に、赤ラシャの楽隊幡、朝から晩まで、五分ごとに、監督さんの合図の笛がピリピリと鳴り響くごとに、「ここはお国の何百里、離れて遠き満洲の-…」と、彼の自慢のラッパをば、声はり上げて吹きならすのだ。  世の中には、妙な商売もあったものだな。一年三百六十五日、手あかで光った十三匹の木馬と、クッションのきかなくなった五台の自動車と、三台の三輪車と、背広服の監督さんと、二人の女切符切りと、それが、回り舞台のような板の台の上でうまずたゆまず回っている。すると、嬢っちゃんやぼっちゃんが、おとうさんやおかあさんの手を引っぱつて、おとなは自動車、子どもは木馬、赤ちゃんは三輪車、そして、五分間のピクニックをば、なんとまあ楽しそうに乗り回していることか。やぶ入りの小僧さん、学校帰りのわんぱく、中には色気ざかりの若い衆までが「ここはお国を何百里」と喜び勇んで、お馬の背中でおどるのだ。  すると、それを見ているラッパ吹きも、太鼓たたきも、よくもまあ、あんなぶっちょうづらがしていられたものだと、よそ目にはこっけいにさえ見えているのだけれど、彼らとしては、そうして思いきりほほをふくらしてラッパを吹きながら、バチを上げて太鼓をたたきながら、いつのまにやら、お客様といっしょになって、木馬の首を振るとおりに楽隊を合わせ、無我夢中でメリイ、メリイ、ゴー、ラウンドと、彼らの心も回るのだ。回れ回れ、時計の針のように、絶えまもなく、おまえが回っているあいだは、貧乏のことも、古い女房のことも、鼻たれ小僧の泣き声も、南京米《なんきんまい》のお弁当のことも、うめぼし一つのお楽のことも、いっさいがっさい忘れている。この世は楽しい木馬の世界だ。拓、うしてきょうも暮れるのだ。あすも、あさっても暮れるのだ。毎朝六時がうつと、長屋の共同水道で顔を洗って、ポンポンと、よく響く拍手で、今日様《こんにちさま》を礼拝して、ことし十二歳の、学校行きの姉娘が、まだ台所でごてごてしている時分に、格二郎は、古女房が作ってくれた弁当箱をさげて、いそいそと木馬館へ出勤する。姉娘がおこづかいをねだったり、かん持ちの六歳の弟むすこが泣きわめいたり、なんということだ、彼にはその下にまだ三歳の小せがれさえあって、それが古女房の背中で鼻をならしたり、そこへもってきて、当の古女房までが、頼母子講《たのもしこう》の月掛けが払えないといってはヒステリーを起こしたり、そういうもので満たされた、裏長屋の九尺二間をのがれて、木馬館の別天地へ出勤することは、彼にはどんなにか楽しいものであったのだ。そして、その上に、あの青いペンキ塗りの、バラック建ての木馬館には、「ここはお国の何百里」と日ねもす回る木馬のほかに、吹きなれたラッパのほかに、もう一つ、紬仮を慰めるものが待っていさえしたのである。  木馬館では、入口に切符売り場がなくて、お客様は、かってに木馬に乗ればよいのだ。そして半分ほども木馬や自動車がふさがってしまうと、監督さんが笛を吹く、ドンガラガッガと木馬が回る。すると、二人の青い布の洋服みたいなものを着た女たちが、肩から車掌のようなカパンをさげて、お客様のあいだを回り歩き、お金と引き換えに、切符を切って渡すのだ。その女車掌の一方は、もう三十をだいぶ過ぎた、彼の仲間の太鼓たたきの女房で、おさんどんが洋服を着た格好なのだが、もう一方のは十八歳の小娘で、むろん木馬館へ雇われるほどの娘だから、とてもカフェの女給のように美しくはないけれど、でも女の十八といえぱ、やっぱり、どことなく人をひきつけるところがあるものだ。青い木綿《もめん》の洋服が、しっくりと身について、それの小皺《こじわ》の一つ一つにさえ豊かな肉体のうねりが、なまめかしく現われているのだし、青春の膚のかおりが、木綿を通してムッと男の鼻をくすぐるのだし、そして、きりょうはといえば、美しくはないけれど、どことなくいとしげで、時々は、おとなの客が切符を買いながら、からかってみることもあり、そんな場合には、娘のほうでも、ガクンガクンと首を振る木馬のたてがみに手をかけて、いくらかうれしそうに、からかわれていたのである。名はお冬といって、それが格二郎の、日ごと出勤を楽しくさせたところの、実をいえば最も主要な原因であったのだ。  年がひどく違っている上に、彼のほうにはチャンとした女房があり、三人の子どもまでできている。それを思えば「色恋」のさたはあまりに恥ずかしく、事実また、そのような感情からではなかったのかもしれないけれど、格二郎は、毎朝、わずらわしい家庭をのがれて、木馬館に出勤して、お冬の顔をひと目見ると、妙に気持ちがはればれしくなり、口をきき合えば、青年のように胸がおどって、年にも似合わず臆病になって、それゆえにいっそううれしく、もし彼女が欠勤でもすれば、どんなに意気込んでラッパを吹いても、何かこう気が抜けたようで、あのにぎやかな木馬館が、妙にうそ寒く、もの寂しく思われるのであった。  どちらかといえば、みすぼらしい、貧乏娘のお冬を、彼がそんなふうに思うようになったのは、一つはおのれの年齢を顧みて、そのみすぼらしいところが、かえって気安く、ふさわしく感じられもしたのであろうが、また一つには、偶然にも、彼とお冬とが同じ方角に家を持っていて、館がはねて帰る時にはいつも道連れになり、口をきき合う機会が多く、お冬のはうでも、なついて来れば、彼のほうでも、そんな小娘と仲をよくすることを、そう不自然に感じなくて済むというわけであった。 「じゃあ、またあしたね」  そして、ある四つ辻で別れる時には、お冬はきまったように、少し首をかしげて、多少甘ったるい口調で、このようにあいさつをしたのである。 「ああ、 あしたね」  すると、格二郎もちょっと子どもになって、あばよ、しばよ、というようなわけで、弁当箱をガチャガチャいわせて、手をふりながらあいさつするのだ。そして、お冬のうしろ姿を、それが決して美しいわけではないのだが、むしろあまりにみすほらしくさえあるのだが、ながめながめ、かすかに甘い気持ちになるのであった。  お冬の家の貧乏も、彼の家のと、大差のないことは、彼女が館から帰る時に、例の青木綿《あおもめん》の洋服をぬいで、着替えをする着物からでも、じゅうぶんに想像することができるのだし、また彼と道づれになって、露店の前などを通る時、彼女が目を光らせて、さも欲しそうにのぞいている装身具の顛を見ても、 「あれ、いいわねえ」などと、往来の町家《ちようか》の娘たちの身なりを羨望《せんぼう》することばを聞いても、かわいそうに彼女のお里《さと》はすぐに知れてしまうのであった。  だから、格二郎にとって、彼女の歓心を買うことは、彼の軽い財布《さいふ》をもってしても、ある程度まではさしてむずかしいわけでもないのだ。一本の花かんざし、一杯のおしるこ、そんなものにでも、,彼女はじゅうぶん、彼のために可憐《かれん》な笑顔《えがお》を見せてくれるのであった。 「これ、だめでしょ」彼女はある時、彼女の肩にかかっている流行おくれのショールを、指先で、もてあそびながら言ったものである。だから、むろんそれはもう寒くなりはじめたころなのだが、 「おととしのですもの、みっともないわね。あたし、あんなのを買うんだわ。ね、あれいいでしょ。あれがことしのはやりなのよ」彼女はそういって、ある洋品店の、ショーウインドウの中のりっぱなのではなくて、軒の下にさがっている、値の安いほうを指さしながら、「アーア、早く月給日が来ないかな」と、ため息をついたものである。  なるほど、これがことしの流行だな。格二郎ははじめてそれに気がついて、お冬の身にしては、さぞほしいことであろう。もし安いものなら財布をはたいて買ってやってもいい。そうすれば、仮女はまあ、どんな顔をして喜ぶだろう。と軒下へ近づいて、正札を見たのだが、金七円何十銭(今の三、四千円)というのに、とても彼の手に合わないことを悟ると、同時に、彼自身の十二歳の娘のことなどが思い出されて、今さらながら、この世が寂しくなるのであった。  そのころから、彼女は、ショールのことを口にせぬ日がないほどに、それを彼女自身のものにするのを、つまり月給を貰う日を待ちかねていたものだ。ところが、それにもかかわらず、さて月給日が来て、二十幾円かの袋を手にして、帰りみちで買うのかと思っていると、そうではなくて、彼女の収入は、一度全部母親に手渡さなければならないらしく、そのまま例の四つ辻で、彼と別れたのだが、それから、きょうは新しいショールをして来るか、あすはかけて来るかと、格一郎にしても、わがことのように待っていたのだけれど、いっこうその様子がなく、やがて半月ほどにもなるのに、妙なことには、彼女はその後少しもショールのことを口にしなくなり、あきらめ果てたかのように、例の流行おくれの品を肩にかけて、でも、しょっちゅう、つつましやかな笑顔《えがお》を忘れないで、木馬館への通勤を怠らぬのであった。  その可憐《かれん》な様子を見ると、格二郎は、彼自身の貧乏については、かつて抱いたこともない、ある憤りのごときものを感じぬわけにはいかなかった。わずか七円何十銭のおあしが、そうかといって、彼にもままにならぬことを思うと、いっそうむしゃくしゃしないではいられなかった。 「やけに、鳴らすね」  彼の隣りに席をしめた若い太鼓たたきが、ニヤニヤしながら彼の顔を見たほども、彼は、めちゃくちゃにラッパを吹いてみた。 「どうにでもなれ」というやけくそな気持ちだった。いつもはクラリネットに合わせて、それが節《ふし》を変えるまでは、同じ唱歌を吹いていたのだが、その規則を破って、彼のラッパのほうからドシドシ節を変えて行った。 「金毘羅舟々《こんびらふねふね》……おいてに帆かけて、しゅらしゅしゅら」  と彼は首をふりふり、吹き立てた。 「やっこさん、どうかしてるぜ」  ほかの三人の楽師たちが、思わず目を見合わて、この老ラッパ手の狂躁《きようそう》を、いぶかしがったほどである。  それは、ただ一枚のショールの問題にはとどまらなかった。日ごろのあらゆる憤怒《ふんね》が、ヒステリーの女房のこと、やくざな子どもたちのこと、貧乏のこと、老後の不安のこと、もはや帰らぬ青春のこと、それらが、金毘羅舟々《こんびらふねふね》の節まわしをもって、やけにラッパを鳴らすのであった。  そして、その晩もまた、公園をさまよう若者たちが「木馬館のラッパが、ばかによく響くではないか。あのラッパ吹きめ、きっとうれしいことでもあるんだよ」と笑いかわすほども、それゆえに、格二郎は、彼とお冬との嘆きをこめて、いやいや、そればかりではないのだ、この世のありとある嘆きの数々を一管のラッパに託して、公園のすみからすみまで響けとばかり、吹き鳴らしていたのである.  無神経の木馬どもは、相変らず時計の針のように、格二郎たちを心棒にして、絶え間もなく回っていた。それに乗るお客たちも、それを取りまく見物たちも、彼らもまた、あの胸の底には、数々の苦労をひそめているのであろうか。でも、うわべはさも楽しそうに、木馬といっしょに首をふり、楽隊の調子に合わせて足を踏み、「風と波とに送られて……」と、しばし浮世の波風を、忘れ果てたさまである。  だが、その晩は、このなんの変化もない、子どもと酔っぱらいのおとぎの国に、というよりは、老ラッパ手格二郎の心に、少しばかりの風波を、もたらすものがあったのである・  あれは、公園の雑踏が最高潮に達する、夜の八時から九時のあいだであったかしら。そのころは、木馬を取りまく見物も、大げさにいえば黒山のようで、そんな時にかぎって、なま酔いの職人などが、木馬の上で妙な格好をして見せて、見物のあいだになだれのような笑い声が起こるのだが、そのどよめきをかぎ分けて、決してなま酔いではないひとりの若者が、ちょうど止まった木馬台の上ヘヒョイと飛びのったものである。  たとい、その若者の顔が少しばかり青ざめていようと、そぶりがそわそわしていようと、雑踏の中で、だれ気づく者もなかったが、ただひとり、装飾台の上の格二郎だけは、若者の乗った木馬がちょらど彼の目の前にあったのと、乗るがいなや、待ちかねたように、お冬がそこへ駆けつけて、切物を切ったのとで、つまり半ばねたみ心から、若者の一挙一動を、ラッパを吹きながら、正面をきった、その眼界の及ぶかぎり、いわば見張っていたのである。どうしたわけか、切符を切ってもう用事は済んだはずなのに、お冬は若者のそばから立ち去らず、そのすぐ前の自動車のもたれに手をかけて、思わせぶりにからだをくねらせて、じっとしているのが、彼にしては、いっそう気にかかりもしたのであろうか。  が、その彼の見張りが、決してむだでなかったことには、やがて木馬が二回りもしないあいだに、木馬の上で、妙な格好で片方の手を懐中に入れていた若者が、その手をスルスルと抜き出して、目は何食わぬ顔で、外のほうを見ながら、前に立っているお冬の洋服の、おしりのポヶットへ、何か白いものを、それが格二郎には、たしかに封筒だと思われたのだが、手早くおし込んで、元の姿勢に帰ると、ホッと安心のため息をもらしたように見えたのだ。 「付文《つけぶみ》かな」  ハッと息をのんで、ラッパを休んで、格二郎の目は、お冬のおしりへ、そこのポケットから封筒らしいものの端が、糸のように見えているのだが、それにくぎづけされた形であった。もし彼が、以前のように冷静であったなら、その若者の、顔はきれいだが、いやに落ちつきのない目の光りだとか、異様にそわそわした様子だとか、それからまた、見物の群集にまじって、若者のほうを意味ありげににらんでいる顔なじみの刑事などに気づいたでもあろうけれど、彼の心はもっとほかの物で満たされていたものだから、それどころではなく、ただもうねたましさと、いい知れぬ寂しさで、胸がいっぱいなのだ。だから、若者のつもりでは、刑事の眼をくらまそうとして、さも平気らしく、そばのお冬に声をかけてみたり、はては、からかったりしているのが、格二郎にはいっそう腹立たしくて、悲しくて、それにまた、あのお冬め、いい気になって、いくらかうれしそうにさえして、からかわれている様子はない。ああ、おれは、どこに取柄《とりえ》があってあんな恥知らずの、貧乏娘と仲よしになったのだろう。ばかめ、ばかめ、おまえは、あのスベタめに、もしできれば、七円何十銭のショールを、買ってやろうとさえしたではないか。ええ、どいつもこいつも、くたばってしまえ。 「赤い夕日に照らされて、友は野末の石の下」  そして、彼のラッパはますます威勢よく、ますます快活に鳴り渡るのである。  さて、しばらくして、ふと見ると、もう若者はどこへ行ったか影もなく、お冬はほかの客のそばに立って、なにげなく、彼女の勤めの切符切りにいそしんでいる。そして、そのおしりのポヶットには、やっぱり糸のような封筒の端が見えているのだ。彼女は付文《つけぶみ》されたことなど少しも知らないでいるらしい。それを見ると、格二郎はまたしても、未練がましく、そうなると、やっぱりむじゃきに見える彼女の様子がいとしくて、あのきれいな若者と競争をして、打ち勝つ自信などは毛頭ないのだけれど、できることなら、せめて一日でも二日でも、彼女とのあいだがらを、今までどおり、まじりけのないものにしておきたいと思うのである。  もしお冬が付文《つけぶみ》を読んだなら、そこには、どうせ歯の浮くような殺し文句が並べてあるのだろうが、世闇間知らずの彼女にしては、おそらく生まれてはじめての恋文であろうし、それに相手があの若者であってみれば、(その時分ほかに若い男のお客なぞはなく、ほとんど子どもと女ばかりだったので、付文の主はたちどころにわかるはずだ)どんなにか胸をおどらせて、甘い気持ちになることであろう。それからは、さだめし物思いがちになって、彼とも以前のようには口をきいてもくれなかろう。ああ、そうだ、いっそのこと、おりを見て、彼女があの付文を読まない先に、そっとポケットから引き抜いて、破り捨ててしまおうかしら。むろん、そのような姑息《こそく》な手段で、若い男女のあいだを裂ぎえようとも思わぬけれど、でも、たった今宵《こよい》ひとよさでも、これをなごりに、元のままの清い彼女とことばをかわしておきたかった。  それから、やがて十時ごろでもあったろうか。映画館がひけたかして、ひとしきり館の前の人通りがにぎやかになったあとは、一時にひっそりとしてしまって、見物たちも、公園生え抜きのチンピラどものほかは、たいてい帰ってしまい、お客さまも二、三人来たかと思うと、あとがとだえるようになった。そうなると、館員たちは帰りを急いで、中には、そっと板囲いの中の洗面所へ、帰りじたくの手を洗いにはいったりするのである。格二郎も、お客のすきを見て、楽隊台を降りて、別に手を洗うつもりはなかったけれど、お冬の姿が見えぬので、もしや洗面所ではないかと、その板囲いの中にはいってみた。すると、偶然にも、ちょうどお冬が洗面台に向こうむさになって、いっしょうけんめい顔を洗っている。そのムックリとふくらんだおしりのところに、さいぜんの付文《つけぶみ》が半分ばかりもはみ出して、今にも落ちそうに見えるのだ。格二郎は、最初からその気で来たのではなかったけれど、それを見ると、ふと抜き取る心になって、 「お冬坊、手まわしがいいね」  といいながら、なにげなく彼女のうしろに近寄り、手早く封筒を引き抜くと、自分のポケットへ落とし込んだ。 「あら、びっくりしたわ。ああ、おじさんなの、あたしゃまた、だれかと思った」  すると彼女は、何か彼がいたずらでもしたのではないかと気をまわして、おしりをなで回しながら、ぬれた顔をふり向けるのであった。 「まあ、たんと、おめかしをするがいい」  彼はそう言い捨てて、板囲いを出ると、その隣りの機械場のすみに隠れて、抜き取った封筒を開いてみた。と、今それをポケットから出す時に、ふと気がついたのだが、手紙にしてはなんだか少し重味が違うように思われるのだ。で、急いで封筒の表を見たが、あて名は、妙なことにはお冬ではなくて、四角な文字で、むずかしい男名まえがしるされ、裏はと見ると、どうしてこれが恋文なものか、活版刷りでどこかの会社の名まえが、所番地、電話番号までも、こまごまと印刷されてあるのだった。そして、中味は、手の切れるような十円札が、ふるえる指先で勘定してみると、ちょうど十枚、ほかでもない、それは何人《なんびと》かの月給袋なのである。  一瞬間、夢でも見ているのか、何かとんでもないまちがいをしでかした感じで、ハッとうろたえたけれど、よくよく考えてみれば、いちずに付文だと思い込んだのが彼の誤りで、さっきの若者は、たぶんスリででもあったのか。そして、刑事ににらまれて、逃げ場に困り、のんきそうに木馬に乗ってごまかそうとしたのだけれど、まだ不安なので、スリ取ったこの月給袋を、ちょうど前にいたお冬のポケットにそっと入れておいたものに相違ない、ということがわかって来た。すると、その次ぎの瞬間には、彼はなんだか大もうけをしたような気持ちになって来るのであった。名まえが書いてあるのだから、スラれた人はわかっているけれど、どうせ当人はあきらめているだろうし、スリのほうにしても、自分のからだのあぶないことだから、まさか、あれはおれのだといって、取り返しに来ることもなかろう。もし来たところで、知らぬといえば、なんの証拠もないことだ。それに、本人のお冬は、実際少しも知らないのだから、結局うやむやに終ってしまうのは知れている。とすると、この金はおれの自由に使ってもいいわけだな。  だが、それでは今日《こんにち》さまに済むまいそ。かってな言いわけをつけてみたところで、結局はぬすぴとのうわまえをはねることだ。今日さまは見通しだ。どうしてそのまま済むものか。だがおまえは、そうしてお人よしにビクビクしていたばっかりに、きょうが日まで、このみじめなありさまを続けているのではないか。天から授かったこのお金を、むざむざ捨てることがあるものか。済む済まぬは第二として、これだけの金があれば、あのかわいそうな、いじらしいお冬のために、  思う存分の買物がしてやれるのだ。いつか見たショーウインドウの高いほうのショールや、あの子の好きな臙脂色《えんじいろ》の半襟《はんえり》や、ヘヤピンや、それから帯だって、着物だって、儉約をすればひととおりは買いそろえることができるのだ。  そうして、お冬の喜ぶ顔を見て、真から感謝をされて、いっしょにご飯でもたべたら……ああ、今おれには、ただ決心さえすれば、それがなんなくできるのだ。ああ、どうしよう、どうしよう。  と、格二郎は、その月給袋を胸のポケット深く納めて、その辺をうろうろと行ったり来たりするのであった。  「あら、いやなおじさん。こんなところで何まごまごしているのよ」  それがたとい安おしろいにもせよ、のびがわるくて顔がまだらに見えるにもせよ、ともかく、お冬がけしょうをして、洗面所から出て来たのを見ると、そして、彼にしては胸の奥をくすぐられるようなその声を聞くと、ハッと妙な気になって、夢のように、彼はとんでもないことを口走りたのである。 「おお、お冬坊、きょうは帰りに、あのショールを買ってやるぞ。おれは、ちゃんと、そのお金用意して来ているのだ。どうだ。驚いたか」  だが、それを言ってしまうと、ほかのだれにも聞こえぬほどの小声ではあったものの、思わずハッとして、口をふたしたい気持ちだった。 「あら、そうお、どうもありがとう」  ところが、可憐《かれん》なお冬坊は、ほかの娘だったら、なんとか冗談口の一つもきいて、からかいつらをしようものを、すぐ真《ま》に受けて真からうれしそうに、少しはにかんで、小腰をかがめさえしたものだ。となると、格二郎も今さらあとへは引かれぬわけである。  「いいとも、館がはねたら、いつもの店で、おまえのすきなのを買ってやるよ」  でも、格二郎は、さもうきうきと、そんなことを請け合いながらも、一つには、いい年をしたじいさんが、こうして、十八の小娘に夢中になっているかと思うと、消えてしまいたいほど恥ずかしく、ひとことものを言ったあとでは、なんとも形容のできぬ、胸のわるくなるような、はかないような、寂しいような、へんてこな気持ちに襲われるのと、もう一つはその恥ずかしい快楽を、自分の金でもあることか、どろぼうのわけまえをはねた、不正の金によって得ようとしているあさましさ、みじめさが、じっとしていられぬほどに心を責め、お冬のいとしい姿の向こうには、古女房のヒステリイづら、十二をかしらに三人の子どもたちのおもかげ、そんなものが、頭の中をマンジトモエとかけめぐって、もはや物事を判断する気力もなく、ままよ、なるようになれとばかり、彼は突如として、大声に叫びだすのであった。 「機械場のおとっつあん、一つ景気よく馬を回しておくんなさい。おれあ一度こいつに乗ってみたくなった。お冬坊、手がすいているなら、おまえも乗んな。そっちのおばさん、いや失敬、お梅さんも、乗んなさい。やア、楽隊屋さん、ひとつラッパ拔きでやっつけてもらおうかね」 「ばかばかしい。およしよ。それよか、もう早く片づけて帰ることにしようじゃないか」   お梅という年増《としま》の切符切りが、ぶっちょうづらをして応じた。 「いや、なに、きょうはちっとばかり、心うれしいことがあるんだよ。やア、皆さん、あとで噌杯ずつおごりますよ。どうです、ひとつ回してくれませんか」 「ヒヤヒヤ、よかろう。おとっつあん、一まわし回してやんな。監督さん、合図の笛を願いますぜ」  太鼓たたきが、お調子にのってどなった。 「ラッパさん、きょうはどうかしているね。だが、あまり騒がないように頼みますぜ」  監督さんが苦笑いをした。  で結局、木馬は回りだしたものだ。 「さア、一回り、それから、きょうはおれがおごりだよ。お冬坊も、お梅さんも、監督さんも、木馬に乗った、乗った」  酔っぱらいのようになった格二郎の前を、背景の、山や川や海や、木立ちや、洋館の遠見なぞが、ちょうど汽車の窓から見るように、うしろへ、うしろへと走り過ぎた。 「バンザーイ」  たまらなくなって、格二郎は木馬の上で両手をひろげると、万歳を連呼した。ラッパ抜きの変妙な楽隊が、それに和して鳴り響いた。 「ここはお国を何百里、離れて遠き満洲の……」  そして、 ガラガラ、ゴットン、ガラガラ、ゴットン、回転木馬は回るのだ。          (『探偵趣味』大正十五年十月号)

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