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火野葦平「岩下俊作「無法松の一生」解説」」(2016/12/11 (日) 23:09:39) の最新版変更点

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 最近、東寶のカラー・シネスコの大作「無法松の一生」が封切られる。私は、まだ見ていないが、前に、同じ稻垣浩監督、阪東妻三郎主演の映畫を見て感動したことがあり、今度の三船敏郎主演映畫はさらにすばらしいであろうと期待している。なぜなら、前のは戰爭中であつたため、主人公松五郎が、吉岡大尉の未亡人に對するひそやかな戀心──つまり、この作品では、もつとも大切な部分が、檢閲のきびしさのためボカされていたからである。逆にいえば、どんなに松五郎から惚れられていても、帝國軍人たる者の妻が、亡夫以外の男に、心を動かすことなど絶對にあり得ないという、非人間的、封建的道徳觀が強制的に押しつけられていたため、藝術からさえも遠ざけられる危險を持つていたといえよう。今は、その大切なテーマが自由に表現できるわけだから、前のよりは完璧であるにちがいないと思う。最近は、また、「無法松の一生」はラジオで連續放送され、浪花節にもなつた。芝居では、戰爭中も、苦樂座などで上演されたが、戰後も、文學座、中藝、新國劇などで、くりかえし舞臺にかけられている。つまり、この作品は、見方によつては、一種の古典みたいな存在になつたともいえるわけだが、その理由を考えてみると、結局、主人公松五郎の性格や言動、その庶民的な哀歡が、日本人の本來的な心情に強く訴えるものがあるからだと思われる。この作品には、なんの複雜なものも、むずかしさもない。單純で、明快だ。原作の中に、松五郎から可愛がられた吉岡大尉の息子が、大きくなつてから述懐するところがあるが、その節に、  「そして、孤獨の中に死んだ松五郎の、哀れな最期を思い浮かべたのである。──無知ではあつたが、ちよつとも淺間しい功利的な氣持のない濶逹な松五郎の性格──可哀想な小父さん──」  詐術と利己心のかたまりのような人間の多い中で、そういう純粹な松五郎の性格が光つたのである。無法者といわれた荒くれ男が胸の中に祕めた純情、はにかみ、無償の情熱と奉仕、それは、男性的といつた言葉がもつともよく當てはまる美しさで、作品の全篇を貫いているのである。この作品が長く人々に愛される理由も、祕密も、そこにあるにちがいない。  しかし、この作品と原作者岩下俊作との關係を考えてみると、ちよつと面白い文學上の問題が横たわつている。この小説は、鹿爪らしい解説を加えるまでもなく、讀めばそのままわかる作品なので、岩下とは親しい長い文學の友人である私は、この作品の成りたちと、周邊の諸問題について、この機會に、率直な感想を述べてみたいと思う。  私が、解読を映畫の話から書きだしたことに對して、多分、作家としての岩下俊作は、あまり気に入らないであろうと思う。私も小読と映畫とは別物と考えていて、映畫になるならぬで、その小説の價値が判定されるものでないことは、百も承知だ。むしろ、すぐ映畫になるような小説は、文學的價値に乏しいという考えかたも出來るくらいだから、映畫や、芝居や、ラジオや、浪花節になつたからといつて、原作の小説そのものの批判が左右されるものではない。そんなものにならなくたつて、岩下の小説は味わい深く面白い作品だから、後世になつても愛讀されるであろうが、この小説が岩下という一個の作家に持つている位置を考えると、さまざまの文學上のテーマが引きだされて來るのである。  先だつて、映畫の打ちあわせのため、關係者が集まつて歡談の宴を張つたとき、映畫會社の一人の社員が、「なんといつても、『無法松の一生』は、岩下先生の傑作で……」といいかけたところ、岩下が色を成して、「この小説だけじやない。他にもたくさん作品があるんだ」といつたので、座が白けはてたという。私はこの話を聞いて面白かつた。岩下には、他に「西域記」「文覺」「繩」「信號所と見張所」などをはじめ、多くの小説がある。しかし、それらの作品を知つている者は少く、岩下俊作といえば、すぐに「無法松の一生」が思いだされる始末だ。しかも、この作品は二十年も前に書かれたものであり、ほんとうの題は「富島松五郎傳」というのである。小山書店から刊行された單行本は、この題になつている。また、森本薫氏が脚色し、文學座で上演した芝居も「富島松五郎傳」となつていたが、近來は、すつかり「無法松の一生」で通つている。これは、前に、東寳で映畫にするとき、原題は地味すぎるからといつて改題したのが、ずつと傳わつて來ているわけだ。映畫にするときに、原題を變える例は多い。しかし、それはそのとぎの映畫ぎりで消えてしまうのがほとんどなのに、この作品は小説の題の方が變つてしまつた。絡戦直後、鱒書房からこの作品が出版されるとき、本屋の方が「無法松の一生」にしてもらいたいといつて來た。岩下がどうしようかというので、その方がよい、と私は贊成した。そのときだけでなく、もう、その題に變えた方がよい、ともいつた。これは映畫とは無關係に「富島松五郎傳」というような、政治家か經濟人の傳記みたいな、野暮な題より「無法松の一生」の方がずつとハツキリしているし、垢拔けもしていると思つたからである。そこで、今度、この角川文庫版も、この題になるわけだが、實をいうと、岩下俊作は、この作品が評判になつて、映畫、芝居、ラジオ、浪花節と、引つぱり凧になるのが、うれしいかどうかわからないのである。悪い氣持ではないであろうが、作家としては、脾肉の歎にとらわれているにちがいない。たくさんの代表作があつて、その一つである「無法松の一生」がもてはやされるのならよいが、あたかも、岩下にはこの小説ひとつしかないように思われるのが腹立たしいのである。そこで、映畫打ち合せ會のとき、思わず、日ごろからの感懐が露出したものにちがいない。いつしよに酒を飮むと、よく「もう松という言葉を聞いてもいやだ。松の木を見るのも癪にさわる」という。私はそこに岩下の作家としての苦衷とともに、誇りと、変えぬ創作意慾と情熱とを見て、微笑ましく思う。現在、岩下は、八幡製鐵所安全課の係長をしているが、もはや、製鐵所勤めも三十年以上になる。文學の勉強はそのサラリーマソ生活の間になされ「無法松の一生」も、その間に書かれたものである。  人間の一生の方角を決定する運命の瞬間というものがある。岩下もたしかに、その運命に飜弄された。昭和十三年二月、私が「糞尿譚」で芥川賞をもらつた直後、奮起した仲間たちが大擧して『改造』の懸賞小説に應募した。翌年四月、發表されてみると、一等當選は小倉龍男の「海兵群像」、佳作入選として、劉寒吉の「人間競爭」、原田種夫の「風塵」、矢野朗の「肉體の秋」、それに、岩下俊作の「富島松五郎傳」がならんでいた。これらの作品は『九州文學』に次々に發表された。そして、どの作品も、芥川賞、直木賞の候補になつた。「富島松五郎傳」は、芥川、直木兩賞の委員間で問題にされ、次の囘のときにまで取りあげられたが、殘念ながら當選しなかつた。堤千代の「小指」と爭い、委員の投票數は多かつたにもかかわらず、菊池寛氏が「堤女史は大病で寢ているそうだから、そういう人にやつたらいいじやないか」といわれたために「小指」に決定したという。もし、そのとき、直木賞になつていたら、岩下俊作はきつとサラリーマン生活をやめて、上京していただろう。さすれば、それからは作家として文壇生活をしたに相違なく、蓮命の瞬間は岩下を飜弄して幸しなかつたといえるのである。この殘念さは、いいようがない。  八幡製鐵にとつても有能な社員らしいが、私たち文學仲間は、みんな、岩下が作家として立つことを望んでいた。しかし、直木賞にならなかつたため、フンギリをつけ損ね、現在にいたつているのである。にもかかわらず、もはや、堤千代の「小指」などという作品は忘れられたのに「無法松の一生」は、一種の古典的樣相を呈して、多くの人々に愛されつづけているのである。  私は、岩下が、「無法松の一生」だけしかないように思われるのを怒る氣持はわかるが、歎くなといいたい。一作によつて、世界文學に名をとどめている作家の例は少くないのである。たとえば「ドン・キホーテ」のセルバンテス、「ロビンソン・クルーソー漂流記」のダニエル・デッフォのように。むろん、セルバンテスには他に小説、戯曲の類がたくさんあり、新聞記者であつたヂッフォには、著作集が二百卷もある。しかし、彼等の名は一つの作品によつてのみ不朽だ。「無法松の一生」ほど、日本人に迎えられた作品があるだろうか。この作品の主人公富島松五郎は、誰からも愛される。快哉を叫ばれ、涙を注がれる。モデルには俊作の亡父の面影が織りこまれているらしいが、さすれば、松五郎は岩下俊作の血と魂の中から生まれた人物ともいえる。それがこんなに愛されるのは、瞑してよいのである。というのは、むろん「無法松の一生」だけでよいという意味ではない。他によい作品がいくつもあるし、これからも書くだろう。近く、八幡製鐵を停年でやめれば、上京して、作家生活に打ちこみたいともいつている。きつと「無法松の一生」以上の作品も生まれるであろうが、この作品がこれほどに愛されているということは、岩下の恥ではないのである。松の木を見てもいやになつたりする要はないのである。  この作品によつて、小倉の祗園太鼓が有名になつた。しかし、小倉の太鼓祗園は日本三大祗園の一つとされて、古くから傳わつていたもので、岩下はそれに獨特の潤色を加えたわけである。松五郎が太鼓を打ち鳴らすところは、作品中の壓卷ではあるが「蛙打ち」「流れ打ち」「勇み駒」「暴れ打ち」などは、すべて、岩下の創作である。正式には、一つの山車に二つの太鼓をつけ、表をカン(高音)裏をドロ(鈍音)で、兩面打ちするだけだ。裏は件奏の役目をする。打ち方には、五ツ手があり「ドドンガ、ドン」「ドン、ドン、ドドン」「ドン、ドン、ドドン、ドン」「ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドドン」の四つの基本打ちに、各町内でそれぞれの工夫をするが、打ち方に特別の名稱はない。「チヤンガラ」というスリ鉦に合わせて打つ。停止打ち、進行打ちの若干の差はある。これを「蛙打ち」「流れ打ち」などと名づけたのは、文學的扮飾にすぎない。しかし、うまい命名だ。芝居でも、映畫でも、ここがクライマックスになつている。  ともあれ、岩下俊作の「無法松の一生」に喝采して、解読にならぬ解説のペンを置く。 昭和三十三年四月十八日、九州若松にて 火野葦平

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