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大下宇陀児「石の下の記録」(2)」(2017/01/05 (木) 14:07:53) の最新版変更点

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群盗  その同じ晩1。  というのは、代議士藤井有太の留守宅へ、中正党代議士 の諸内達也が訪ねてきて、バヵバカしいほど大きな果物の 籠を、手土産としておいて行った晩に、不良少年有吉の仲 間は、午後八時キッカリ、省線池袋駅前のパチンコ屋でせ いぞろいした。  彼らは、その日四谷の麻雀クラブへあつまって打合せを すました。ちょうどそこへ友杉がやってきて、有吉だけを つれ去ったが、あとに五人の仲間がのこった。そうしてこ の五人で相談して、ともかく『あれ』を、思い立った今佼 のうちに、決行しようということになったのである。『あ れ』というのは、隠語で言えば、トントンとか、タタキと か、言うのであろう。強盗をやるということを、さすがに 彼らは、そのまま口へ出していうのが恐ろしく、こういう あいまいな代名詞で、間に合わしていたわけだった。それ に『あれ』は、もし飼か都合のよいことが起って、しない でもすむようなぐあいになるのだったら、やっぱり、しな い方がよいのだということを、めいめいが心のどこかで考 えていながら、しかし、もう今となってはしないですむわ けには行きそうもなかった。なぜかと言えば、仲間の一人                         そのえ でS大学専門部法科一年に籍をおく今年十九歳の少年園江 しん 新六というのが、ちゃんとアテをつけてきていたからであ               たかす よしお る。それはある銀行の支店長で高須由雄という人物が住ん でいる家だった。支店長は、地位を利用し行金を秘密に貸 しつけて獲た高額な利子を、数百万円も自分の懐中へ流し こんでいた。ところが、支店長の息子は、園江新六と同じ S大専門部の優等学生である。園江は、二度ほど支店長の 家へ遊びに行き、家の中の間取りをよくおぼえてきた。だ から、『あれ』をやる手はじめに、そこへ行ってみようと いうことになったのであった。  仲間のうちには、地方の官立病院長の息子の高橋勇とい う少年がいた。    てい  小西貞というのは神田の某書店の三男坊で、平川洋一郎 という画家の息子もいる。最年少が、十七歳で、しかし自                    なんじようまこと 分より四つも年上の女を情婦にもっている南条真という 子で、その母は、戦前に有名だったある政治家の妾だとい うことであった。  彼等は、学生風に見られないために、背広を着たり、わ ざと汚いカーキ色のズボンをはいたりして、また、人相を かくすための、色眼鏡や防寒マスクや頬冠りの風呂敷や、 つけ髯まで、用意してきたものがあった。目的の家へ行っ てからのめいめいの役割りもきめてある。計画は綿密で、 くろうと 玄人のタタキでも、これ以上にはやるまいというまでに考 えてあったー。  パチンコ屋を出るとすぐに、道路を横切り制服の巡査が 二人、ッカツカこっちへ来るのが見えたので、ドキンとし て五人は立ちすくみそうになったが、巡査は、何も知らず 五人のそばを通りすぎてしまった。  駅前の雑沓。  三角くじとデン助。焼そばや肉まんじゅうの屋台店。そ うしてひどく明るいくせに客が一人もいない果物の店。  彼らは、通行人の視線が、いじわるく自分の方へ向けら                  こわ れるように感じ、すると、顔の筋肉が硬ばり、ひどく不愉 快で、そのくせに歩きながら、わざとはしゃいで笑い声を 立てたり、水泳や野球の選手のことを話したりした。そし て、ようやく駅前の賑やかなところをはなれると、大通り から暗い横町へはいってしばらく行って、とつぜん、案内 役の園江新六が、 「おい、あの家だぞ」  低く押し殺した声でいったので、みんな、何かの宣告を 聞いたような気持で、そこに足をとめた。  それは、家庭菜園や草の生えた空地にとりかこまれた、 あまり大きくはないが、キチンとした平家建ての家であ る。支店長が不正な利得の一部分で作ったものだろう、ま だ新しくて、使った板や柱の材木の色が白く夜の空気の中 に浮いて見える。むし暑い晩なので、庭へ向いた座敷が、 障子をすっかり開け放ってある風だった。灯の明るみが外 へ流れ出し、ラジオをかけてあるらしい。庭木がまばらに 植えてあった。物置らしい小屋も一つ附属していた。彼ら は、だまってたたずんでそれを眺めて、思ったことは五人 ともに同じである。ああ、あの家へ自分たちが、麻雀をや るとか音楽の練習会をやるとかで、客として招かれたのだ ったら、どんなによいだろう。もう見ただけでたくさん だ。このまま帰ってしまいたい。いったいあの家へ、盗賊 になって押し入って、家人を縛ったり嚇したり、そうして 金を奪ってくるということが、ほんとうに可能なのであろ うか。イヤ、それは、現実に起り得ることであろうか。 「電燈がついているよ。まだ家の人が起きてんだね」  と、わかりきったことを、尻ごみした眼つきで、二十一 歳の情婦をもつ南条真がいったので、強がり屋の高橋勇 が、ニキビを爪でつぶしながら答えた。 「うん、まだ九時前だからな。しかし、早い方がいいん だ。帰る時に道で怪しまれずにすむよ。さア、やっちまお うじゃないか」 「でもなア、園江……」  と、主謀者格の画家の息子が、うしろから園江の肩を叩 いた。 「お前、家の人は、少いといったろう。それに間違いはな いだろうな」 「だいじょぶさ。おやじは、お妾こしらえて、お妾んと こへ泊るから、めったに家へは帰りっこない。だから、い るのは、病気で寝ているおふくろと、あとは息子と娘きり       まいくち さ。ヤヅパ(匕首)でおどかしや、それだけで気を失うよ うな連中だよ」 「非常ベルや電話や、そんなものはないんだろうな」 「電話はないよ。非常ベルは知らないが、きっとだいじよ うぶだと思うね。第一、起きてるとこへ行くんだから、ベ ルなんか、あったって鳴らさせないようにすればいい」 「それもそうか。じゃ、やっつけようぜ。みんな、顔をか くせ、バンタチ (見張)は、ゆだんなくやる。それから、 足がついてヤ。ハイようなものは、なるべく手をつけないこ とにしろ、コカスのに都合のいいものだけを選ぽうぜ。オ シン (現金)が一番いいよ。一人あたり、ヤリマン (一万 円)がとこあれば、ちょっと息がつけるからな」  その時でもまだ誰かが、いやになったから中止しようと 言い出したら、中止になったのかも知れず、しかし、思っ てもそれはロへ出せなかった。そうして五人は、息をつ め、足がガクガクする思いで、支店長の家へ近づいた。も う考えたってだめだった。これから何が起るにしても、そ の起ることを、できるだけ手ぎわよく終らせるということ に頭を使った方がいい。それに、こんなことは、自分たち がはじめてやるのではなかった。学生の集団強盗は、ほかに たくさんあった。そういう奴は、盗むだけじゃなくて、お 婆さんを殺したり、赤ん坊を蒲団まきにして窒息させた。 自分たちは、殺しだけはやるまい、という約束がしてあ る。またこの後同じことを重ねてやる場合でも、不正な富 だけを狙おうと申合せた。これは、りっぱなことではない か。政府の役人でも悪いことをしている。悪事が露見した 奴が運がないのだと言われる。ナニ、かまわない、やっつ けてしまえ……。  小西貞が、友人の与太もんから、ハジキを借りてきてい る。  それで、小西貞が、いちばん先きに玄関から入り、ハジ キをつきつけたら、ほかのものがどっとはいって、家人を        さるぐつわ 縛り上げ、口に猿轡をかませることにしてあった。 「いいか。ドジふむな、ブルカムだと、ふるえてしくじる ぞ。おちつけ!」  玄関前で、園江が注意し、平川洋一郎が、声を変えるた め、片手を筒形にして口にあて、 「こんばんは……高須さん……電報ですよ……高須さん… …」  と呶鳴った。  警察だの防犯協会だのから、こういう賊の手口について は、再三の注意がしてあるけれども、電報だと言われる と、やはり戸を開けて、顔を出さねばならぬようにできて いる日本の住宅だから、しかたがない。  家の中から「は!い」と女の声がした。  そうして、玄関の締りをはずし、園江の友人の、S大専 、門部模範生の高須行夫が顔を出したが、呼吸を一つしない うちに、その顔色が青くなってしまった。  黒い拳銃が胸につきつけられている。  顔をかくした男たちが、鋭く身がまえして暗がりのうち に立っている。 「君たちは、何をするのだ!」  と行夫は辛うじていったが、すぐに園江がそのうしろへ まわって、行夫の着ていたセイターを腰から逆にまくり上 げたので、行夫は腕がうこかなくなり、物を見ることもで きなくなった。  どうやら、予期した以上に、手ぎわよくいきそうであ る。  バンタチの南条だけを家の外にのこしておいて、四人は 靴のままズカズカと家へあがった。  みな大胆になり、頭が鋭く立ちはたらいた。         ゆうベ  ラジオが農村の夕をやっている。スイッチを切ろうかと 考えたが、手をかけただけでそれはよした。頭をお下げにし た少女が、茶の間と次の間の敷居の上で、読みかけの雑誌 を手にしたまま、恐怖の瞳をいっぱいにひらき、身うごき もできずこっちを見ている。電燈が明るすぎると五人は感 じた。しかし、ヤッパ (匕首)を出して見せて、ほとんど 気を失わんばかりになったその女の両腕を、ギリギリ巻き にしてしまった。  園江新六の偵察に、まちがいはない。  支店長の妻は、奥の部屋に病みおとろえて寝ていて、す べてを眼の前に見ながら、何もすることができなかった。 そして支店長は、今夜もやはり、家へ帰ってきていないの であった。 二 「まだ雨が降ってるのね。いつになったら止むのかしら」  女は、時間がきたので、服を着るために、ベッドを出た ところであった。純白の柔かい絹のシュミ!ズを、椅子の 背からとって手にもっただけで、窓のカーテンのすきまか ら、雨の降る街を見おろしている。街は、午後のラッシュ プワだった。ここらは会社の少ないところだったが、それ でも、人通りが多くなってきていた。男が、小さな、汚れ た緑色の女のアンブレラをさして、都電の停留所へ急いで 行く。若い女の事務員が、黄色く透きとおるレインコート を着て、水溜りをどっちがわへよけて越そうかと思案して いる。あぶない!満員のバスが走ってきた。河の中を行 くように、水しぶきをはねかけて通りすぎた。お向うの食 料品店の前で、晩のおそうざいを買って帰るらしい勤人 が、雨の中に立ちどまり、長いうち動かない。あぶらげ一 枚六円、鮭のすずこ五十匁百五円。多分、鯨のベーコンで も買うか、でなくば、思案しただけで、何も買わずに行く のであろう。 「ラジオ、聞かなかったのですか。雨は明日の朝まで降り づつくっていいましたよ」  ベッドの中にいて、女を眺めながら答えたのは笠原昇で ある。 「そう。そいじゃ、予報があたってるのね。よかったわ。 野球見に行かなくて」  そうして女は、まだ裸のまま、壁にかけた小さな鏡で自 分の顔をのぞき、そのあと、ふいにふりむいて笑いかけ た。 「帰るの、いやになっちゃった。まだ三十分は、だいじょ ぶだわ」  ぼんやり湿った光線の中で、女の肩や胸は白く輝いてい る。水にぬれたおっとせいのようだった。そして、シュミ ーズを手からはなし、笠原昇のそばへ来て、 「ねえ……」  といいながら、ドスンと身をなげつけてしまった。  女は、最近に笠原昇と知り合った、ある会社員の妻であ      や じまか つ こ る。名前は矢島加津子といった。どんなぐあいで笠原が誘 惑したのかわからない。しかし、昇が借りているこの部屋 へ、もう三回も通ってきた。年齢は、昇より二つか三っ上 であろう。野球が好きで、選手の名前は、大学リーグも職 業野球も都市対抗もみな知っている。ふしぎに、ダンスだ けが、まだおぼえたばかりであった。  ー1しばらくしてから、枕もとに投げだしてある銀の女 の腕時計を見ると、もう五時を指そうとしている。 「おそくなっちゃったわ……」  と女はいったが、とつぜん、探るような眼で昇の顔をの ぞいた。 「あたし、忘れていたことがあったわ」 「なんです」 「あなたのこと、知ってる人がいるのよ。その人、気をつ 融 けうっていったの」 「忠告ですか」 「そうね。ほんとは、やきもちかも知れないけれど……」  笠原昇は、たばこの煙を、細く長くうまそうに吐きだし た。 「忠告は、だれでも、したがるものですよ。忠告聞いて、 どう思ったんですか」 「どう思ったかって……」 「つまり、嬉しかったか、ありがたかったかというのです よ」 「ちがうわ。まるで嬉しくなんかありゃしない」 「じゃ、いいじゃないですか。ぼくは、人問は不安なんか あっちゃいけないっていうことを、いつも考えています。 それには、その時その時の行動を、常に肯定して行くんで すよ。不安を感じて生きてるんじゃつまらない。自分の欲 求に対してはよぶんな方向をふりむかないで、まっすぐに 歩いている。そうすると、世の中は愉快になります」 「わかったわ。だから、忠告が嬉しくなかったら、そんな 忠告を気にしないでいいっていうのだわね。ーだけど、 その人はあなたのことを、あれは白い鬼だからっていって たのよ」                   、 「そうですか。白い鬼i」  昇は、ふ!んと感心したような眼つきをしたが、すぐに その眼つきは、何かすばらしい冗談を思いついたような明 るい色に変った。 「白い鬼、というのじゃいけないな。ぼくだったら、もつ と別な表現をする」 「まア、どんな?」  こんじキリ 「金色の鬼っていうんです。ぼくは、金色の鬼って言われ るんだったら、喜びはしないが、感心してやってもいい」 「自分で自分のあだ名つけるのね。どういう意味なの、そ の金色の鬼っての」                       こんじぎやしや 「イヤ、平凡ですよ。ミイちゃんも知っている。金色夜叉 という小説がありましたね。貫一とお宮が出てくるでしよ う。あの小説と同じようなものです」 「まア、そう……」  返事はしたが女には、昇の言葉が何を説明したのか、ハ ッキリわからなかったのかも知れない。そうして二人の話 は、それでおしまいになってしまった。  その時、はしご段を上ってくる足音がしたからである。  足音は、この二階を昇に貸している家主のおかみさんだ った。おかみさんは、十分な部屋代を昇から貰う代りに、 万事によく気をくばってくれるおかみさんだった。 「笠原さん。学生さんが会いたいといってきましたよ、高 橋さんという方ですが」  と、部屋を開けずに、はしご段の上り口から声をかけ た。  昇は、女の眼をのぞき、女がうんとうなずくのを見て答 えた。          おば 「ああ、わかったよ小母さん。あと二十分ほど、そこらぶ らついてから来るようにって、いって下さい」  おかみさんは、はしご段を下りて行き、女は、足音が消え てから、もう一度はげしく昇の首に腕をまわしたが、もう 時間が過ぎている。昇はつめたく唇を合せただけだった。 女は泣き出しそうで、しかし、泣かずに身をはなした。そ れから、いそいで服を着はじめた。  借りている部屋は、学生に似合わずぜいたくで二つあ る。  女が立ち去ると、昇は、次の部屋にうつり、書棚から古 びたノートを引出して、頁をくった。一頁に一人ずつ、人 名が書いてあり、日附や金額を記入してある。計算尺で彼 は計算をはじめた。そしてそこへ、前の夜の五人組の一人 高橋勇が、雨に濡れた顔をハンケチでふきながら、はいっ てきた。  畳に椅子をおき、テーブルによりかかっている笠原の前 で、高橋勇は立ったまま、頬をふくらせ、眼の色をきつく し、喧嘩でもするような調子でいった。 「笠原君。金を返しに来たぜ」 「そうかい。よかったな。栃木の病院にいる君のおやじの 方へ催促しようかと思ってたところだ」  笠原は、ゆっくり笑って、さっきのノートの頁を見せ た。          えんたい 「五ヵ月になるよ。延滞だ。天引き利子のほかに、二千百 円の利子がつくんだ。合計七千と百円になるが、 いいか い」  高橋はノートを見なかった。その代り、笠原を鋭く睨 み、ポケットから一万円の紙幣を出した。 「ほう、金廻りがいいんだね。田舎の病院長さんから仕送 りが ったのかい」 「おやじは、何も知らないよ。バイトだ」 「オヤォヤ、そりゃ失敬した。何かよほどいいバイトが丶 ったんだね」  紙幣を受取り、ノ!トの終りに縫いつけてある厚紙の袋 から、笠原は借用証を出して渡したので、高橋はベリベ リッとその証文をやぶいてしまった。 「そう、きげんの悪い顔、するもんじゃないよ。誰でも借 金を返す時には、損したような気持がするものだ。しか し、じきに君は、次の金を借りに来るんだからね」 「何いってるんだ。誰がもう、君んとこなんかへ、金のこ と頼みに来るもんかい」  怒りが爆発した声で高橋がいったので、今度は笠原もび っくりした顔だった。  謎を解こうとするように考えてから、また笑い声になっ た。 「おどろいたな。 たいへんなけんまくじゃないか。 え え?」 「君の金、借りなくてもいいようになったんだっていって るのだよ」 「うん、わかってるさ。ホールへ行ったり、麻雀やったり、 女と遊ぶ金が、ぼくの手からでなくて入るようになった っていうんだね。結構だ。たいへん結構だ。が、そういう のだったら、ぼくにも教えてもらいたいな。そんなボロイ 金を手に入れるには、どうすればよいかってことをだよ」 「.ハイトだよ。。ハイトだって、さっきいったじゃないか」 「ああ、そうか。そうだったね。また失敬してしまった。 なるほど学生には、バイト以外にゃないはずだ。何かほか にあるかねえ」 「ないよ。君のやる学生高利貸し以外にはね」 「うんー」  笠原は、ひるんだような返事をしたが、実は少しもひる んでいない。高橋を軽蔑して眼尻を笑わせた。 「ぼくの高利貸しを非難したくば勝手にするさ。これは ね、やはり"、・ルバイトだよ。誰もやらないから、ぼくが始 めた。そうしたら、ほかの大学にも、ぼくの真似をする奴 ができたそうだよ。いいかい。ぼくはね、形のないものは 軽蔑するんだ。義理や人情、おていさいと習慣、神様や仏 様、成文にならない法律、こういうものはみんな軽蔑す る。ぼくの欲しいものは実際にあるものだけで、無意味な 偶像を持っちゃならないと思っている。ところで、現代は どういう時代だね。古い偶像はもちろん破壊された。バヵ な人間たちが、次の新しい偶像を探し出そうとしている が、こいつはなかなか見つかるまい。そうして、信頼すべ きものが、すべてなくなっちゃったんだ。正しい理論、す ぐれた才能、そういうものは信頼できるというだろう。と ころが、そんなものも役には立たない。第一、正しい理論 なんてものは、どこにもない。なぜかといえば、人間を支 配するものは、けっきょく、力以外の何物でもないからだ よ。すぐれた才能も、才能を生かすための力がなかった ら、才能なんてない方が気がきいている。力だ。実力だ。 実力だけが信頼できる。そうして実力の代表者として、今 のところ、金力ほど手っ取りばやくその効果を発揮するも           げんし のはないんだからね。原子の開裂で何百万度の高熱が出た り、都会が一瞬に消えてなくなったり、何十万人かの命が うばわれたりする。しかし、金は、同じことをやるんだ ぜ。徐々に確実にやるだけだ。その金を、できるだけたく さん持っていようというのは、間違ったことじゃないはず だ。1うん、バカに長くおしゃべりしてしまったが、君 たちが、金を欲しがるくせに金を軽蔑している。そういう 習慣を是正してやろうというんだよ。まアね、君たちも幸 いにして、いい、たんまりと謝礼の出るアルバイトを見つ けたんだったら、それを大切にすることだぜ。その。ハイト が、長続きさえしたら申し分がないよ」 「長続きするのだ。いつまででもやって行ける」 「おお、それじゃ、文句なしだよ。羨ましいって言っても いいよ」  「ぼくだけじゃない。みんなそうなったんだ。君の世話 にゃならなくてすむ。園江も小西も同じことだよ」  「へええ、園江も小西もねl」  笠原の瞳はキラリとうこいたようだった。彼は、首をか しげている。指でテーブルの上のほこりをこすった。それ から高橋の眼をのぞいた。 「ふしぎだなア、園江も、小西もってのは。それ、本当か ねえ」 「本当だよ」 「そうかい」  笠原の瞳は、再び謎を解こうとしている眼つきに変っ た。その視線を向けられると、高橋が我知らず顔をそむけ た。 「ねえ、亠咼橋君l」 「なんだい」 「ぼくはね、世の中が、なぜ急にそんなに甘くなったかと いうことを、ふしぎに思っているんだよ。園江や小西まで が、金には困らなくなったという、・てこんところがわから ない。あの二人は低能児だね。あいつらが、そんなに簡単 に、金に困らなくていられるんだったら、生活苦なんて言 葉は不必要になる。ことに、園江ときたら、ぼくがいつか 見たことのある刑務所脱走人にそっくりの顔をしているん だよ。あんなに無智で野蛮な顔はないね。あいつは、拳闘 家でもないくせに、鼻が曲ってついてるだろう。学生だか らいいが、でなかったら、人殺しと間違えられる顔なんだ よ。そのおかげに、あいつがいちばん女にもてない。下等 なパン助と青かんだ。鳩の街へばかり行っている。しかも その鳩の街ですら、あいつは女に嫌われどおしだ。ぼく は、あいつの曲った鼻を見ていると、なにか背筋のあたり が、ゾオッと寒くなることがあるんだよ。あいつは、先天 的犯罪者型をしているんだが、あいつまでが、金を儲けて いるのだとすると……うん……そうだったな、思い出した よ。川北か……イヤちがう。川北じゃない。川上だろう。 川上って子がいたそうだね。うん、ぼくは直接には知らな い子だ……話だけを聞いたんだ、その川上って子のことを ね」 「川上が、どうしたっていうのだい」 「イヤ、そりゃ、君の方が、詳しく知っているはずだと思 うがねえ。川上は、強盗やったって……」 「ちがうよ。チャリンコだ」 「ああ、そうか。チャリンコだ。電車の中の集団スリだ ね。ともかく、そのチャリンコで警察へつれて行かれたの だろう。それでぼくは思うんだよ」 「なんだ。何を思うっていうんだ!」 「怒っちゃいけない、怒ることは何もないはずじゃない か。ただ、ぼくはね、川上をぼくが知っていたら、チャリ ンコでバクられるなんて、そんなヘマはさせなかったと思 うんだ。せいぜいのところ、警・察へつれて行かれても、素 行不良で注意されてガリがノルくらいのものだろう。ぼく だったら、金で川上を困らせやしないぜ。ぼくは、金を君 たちが返さない時、君たちの家へ出かけて行く。そいか ら、善良な君たちのおやじやおふくろに、親切な注意をあ たえてやるんだ。君たちが、たいへんに今困っている。そ して、ほっとけば、かっぱらいだの、スリだの、強盗だ の、向う見ずのことをしそうだから、ぼくの金をたてかえ てやったのだと説明するのさ。事実もまたその通りだね。 ぼくが金を貸さなかったら、君たちは何をやらかすか、わ からないのだよ。ーところで、説明を聞いて君たちの家 では、びっくりしてありがたがって、ぼくに金を返してく れるが、つまり、おやじやおふくろってものは、自分の子 供が警察へつれて行かれるってことを、極端に嫌うものな んだね。素質が悪くても、表面的にポロを出しさえせね ば、それで安心している代りに、たとえば、親の知らない 金を子供が持ってるだけでも、親は不安になり心配なん だ。まア、君たちも、少なくともその点を知っていなく ちゃいけないね。金を、むやみに見せびらかしたら、それ だけでよけいな疑いを起させ、よけいな心配をかけるん だぜ。君だけじゃない。多ぜいそろって、園江までが金つ かいが荒いとなったら、世間じゃびっくりしてしまうさ。 悪いことは言わないよ。いいバイトを、人に怪しまれず、 うまく続けたまえ。そして、また困るようになったら、五 千円以内、いつでも貸してあげるからね」  高橋勇は、顔が土気色になっていた。  池袋の銀行支店長の家で、昨夜どんなことが起ったのか を、まさか笠原が知っていて言うのではないだろう。しか し、いい、たんまりした謝礼のとれるバイトなんて、実は どこにもないことが明らかだった。皮肉な言葉がガクンと こっちの顎にぶつかってくる思いがする。それに、この男 の頭の中には、まだどんな考えがつまっているのかわから ない。聞いたことやおぼえたことはいつまでも忘れなく て、しゃべる機械みたいに雄弁で、時計のぜんまいみたい に頭が正確にはたらく。恐ろしい男だ。ウカッなことを、 この男の前でしゃべってしまった。こいつを、昨夜小西が 借りてきたハジキで、殺してしまったらどうなるだろう……。 「忘れてた。時間がない。とにかく、これでもう、君に借 金はないんだよ」  と高橋勇は、さっきより目に見えて意気が錆沈していっ た。ほかに、もっとうまいことを言わなくてはだめだと感 じ、そのくせ、何も言葉が見つからなかったから、ひどく ヘマな別れのセリフになってしまった。そうして、ヘマな セリフだと思うといっしょに、ますます気持が泡を食っ て、もう一刻も早くここを逃げ出したくなった。 「オヤオヤ。帰るのかね」 「うん」  高橋の濡れた帽子が、肘かけ窓に投げ出してある。それ を笠原が取って渡した。 「もってけよ。忘れちゃだめだ」 「あ……」 「借金なくなって、いい気持だとぼくは思うんだがね、 ーええと、そうだな。園江も小西もっていうんなら、平 川もむろんいっしよだろうな。平川にゃ、三度目の金を貸 してある。なくさないうちに返済しろって、君から話して おいてくれよ」  笠原は、立ち上って、紙幣を棚の本の間へはさみなが ら、もう部屋を半分出かかった高橋の背中へ声をかけた。       ×       ×  特筆すべきことは、雨がまだますますはげしくなってい るこの晩に、五人の仲間は、平川が馴染みになっている下 谷の待合で、こうせいな宴会を開いたということである。  高橋は、笠原と別れてから、その宴会へ廻ったが、そこ では笠原のことを、何も話す気がしなかった。そして五人 のものは、飲めもせぬ酒やビールをガブガブと飲み、異国 の丘や泣くな小鳩や校歌をどなり、女とダンスをして、ヘ ドを吐いた。  十時頃、おどろいたのは、青い顔をして、もう一人の仲 間の藤井有吉がそこへやってきたことだった。  有吉は、坐るといきなり、酒を飲まされた。  若い芸妓がたいそう酔っていて、 「あら、このひと、可愛いい顔してるわ」  といって、そばへぺたりと膝をくっつけてきた。  ところが、有吉は、めいわくそうだった。 「待ってくれ。君たちにぼく話があるんだ。平川さんと小 西君とこへ行ったけど、平川さんも小西君もいなかったか ら、きっとここだと思って来たんだよ。少し、ないしよで 話がある」  平川が、小西と相談した。  ヘドを吐いた南条が、縁側で座蒲団を枕にして倒れてい る。  女たちが、一時、部屋を去ることになった。そうして、 園江が、まだビールのびんを片手にもったまま、あぐらを かいた。 「ぼくはね、君たちのこと、心配したんだ。それでね、悪 いことしないうちにと思って、金をこしらえて来たんだ よ」  有吉がいいながら、持ってきた新聞包みをひろげると、 中から五万円の紙幣が現われた。 「これだけあれば、当分のうち、困らないだろう。タタキ なんか、あぶないと思うよ。よした方がいいと思ったか ら、持ってきたよ。これは、使ってしまってかまわないん だ。どこからも文句の来ない金だよ」  そういって有吉は、五人の顔を見わたしたが、みな黙っ て眼と眼を見合せている。  さいしよに、小西貞が、 「ぼくは……ぼくは……ほんとは反対したんだ! ……」 といって泣き出した。  それから、バヵヤロウ! とどなって、平川が料理の皿 をどこかへ投げつけた。バシーンと、皿が砕けて散った。  有吉は、その五万円がどういう金だか説明する。しか し、高橋勇が、 「わかった。わかった。ありがとう、しかしもう、遅かっ たんだ……」  また泣声でいって、有吉に抱きついてしまった。 ケ 山のクラブ       一    じっきう  ながよし れんが      つげ  1実休討死のとき、長慶は飯盛にて連歌せしに告きた る。すすきにまじる芦の一むらといふ句、人々つけわづら ひたりしに、その書をひらきて、とかくをいはずさしお き、古沼のあさきかたより野となりて、とつけ終りてさて、        つげ 実休討死なりと告きたれり、今日の連歌これにてやむべし とて、さて兵を出されしとなりi。 「いいなア、これは」  と、友杉成人は、思わず声に出していった。藤井家の玄 関からとっつきの、自分にあたえられている小さな部屋            じようざんきだん で、古本屋で見つけてきた常山紀談を読んでいたのであ る。彼は、三好長慶のうたった古沼の歌を、いくどか口の うちでくりかえしつつ、 「そうだったな。昔の武将には、いいものを持っていた人     さねとも がある。実朝が、歌人だった。謙信も、詩を詠んだl」  などと思いだしたが、すると、すぐにまた考えたのは、 有吉のことだった。有吉は、スポーッにも興味をもってい なかった。自分でも愉しいことを、探しあてられないで困 っているにちがいない。歌や詩をあたえたらどうであろ う。絵画や彫刻や、文学でもいい。こないだから気がつい ているのだが、何か夢中になれるものを探してやりたい。 そうすればあの少年も、不良ではなくなってくる。まだ残 っている純真な素質を、生かしてやればよいのだからな、 と考えつづけた。  昨夜は、雨が降っているのに有吉が、三時間だけ外出す る、きっと泊らずに帰るから、と友杉に断わりをいってお いて出かけたが、すると約束よりも三十分ほどおくれただ けで、 「友杉さん、帰ってきたですよ、ぼく……」  有吉は、雨にぬれていて、帰ると第一に友杉に顔を見せ たから、 「すてきだな有吉君。約束守るんだったら、ぼくは君に、 もう絶望じゃない!」  そういって友杉が、ほめてやったくらいだった。実はそ の有吉の外出が、二階の書斎へ、誰も手をつけぬことにし ておいてある、諸内代議士からの手土産のうち、五万円の さつ束を、有吉が盗みだして行ったのだとは、友杉もまだ 知らないでいる。いま、常山紀談から、芸術のことを思い ついた。困るのは友杉自身が、製薬化学の出身で、専門以 外にはあまり明るくないという気がすることで、しかしこ れからは有吉を相手に、俳句や歌の話などしようかと、肚 の中できめたのであったー。  有吉は、今日はめずらしく、学校へ行くのだといって、 朝早く家を出た。  邸内には、貴美子夫人と女中のふみやと友杉とがいるだ けである。主人の藤井代議士は、おとといの午前、会社へ 出たままで帰らないが、それは、代議士から電話があっ た。福島に、代議士が経営している炭坑があり、そこでス トライキがはじまりそうだった。解決のため、代議士は自 宅にも立ちよらず、福島へ赴いたのであった。  雨の翌日の庭が、染めるような青葉に巻きつつまれてい る。  友杉は、読書をやめ、庭へ出た。  それから、上衣やシャツをぬぎすて、ズボン一ッのはだ かになって、まき割りをはじめた。まき割りは、下男とし てやる仕事のうちでは、いちばんの楽しみであった。原始 的な単純な仕事だけれど、やったことのないものには、そ の味がわからない。重くて鋭い刃のついたまき割りの斧 を、まっすぐに頭上からふりおろすと、太いくぬぎや、松      かつぜん の丸太が、戞然と音を立てて割れて、新しい木の肌の匂い が鼻をうった。斧をふりおろす時、雑念が頭に入っている と、刃先きが横へそれたり、丸太が倒れたりしていけな い。それは剣道と同じようなものだった。心を澄まし、丸 太の頭だけを狙ってやると、斧の刃先きが、必らず思った ところヘストーンとおちた。見ているとつまらないこと で、しかし爽快な感じが起るのであった。  一時間ほどたった。  薪は、炊事と風呂場とで使うのが、たっぷり十日分はで ぎたと思った。  薪は納屋へはこんでおいて、井戸ばたで汗をふき、中庭 を通りぬけて自分の部屋へもどろうとすると、ギクリとし て足がとまった。  サンルームとここの家で呼んでいるガラス張りの洋室 で、レコードをかけ、貴美子夫人がダンスをしている。そ の相手が、いつの間にきたのか、笠原昇だった。笠原昇 は、今日は仕立のいい背広服を着ていた。もう学生ではな い。りっぱな青年紳士に見えた。そして、貴美子夫人の胸 を抱きよせるようにして、なにか特別なダンスの型を教え ているのであった。  友杉は、中庭から引きかえし、お勝手をまわって部屋へ もどった。  時計を見ると、午後三時に近いから、有吉がいつ帰ってく るかわからない。今日は気を新たにして学校へ行った。し かし、帰ると、笠原が来ていたのでは、せっかくの有吉の 気持が、またすっかりとこじれたものになるのであろう。  友杉は、少しのうち、机の前へ坐ったが、じきにまた机 をはなれた。そうして、サンルームへ行き、廊下に立って ドアをノックした。 「ああ、だアれ? おはいりなさい」  貴美子夫人の声がしたので、ドアをあけると、レコード はもうやんでいて、夫人が緑色のカウチに腰をおろし、笠 原が、その横の椅子で、外国雑誌の写真を見ている。 「お客さまなの?」  と夫人がいったが、友杉は首をふった。 「いえ、笠原君に話があるのですが……」 「あら、そうだったの。何よ?」 「笠原君と二人きりになりませんと……」  びっくりした眼つきで、夫人は、友杉と笠原との顔を見 くらべている。そうして、 「おどろいたわ。あたしに聞かせたくない話があるという おけね。たいへんだ」  からかうようにしていってから、しかしすぐと、明るい 微笑をうかべた。 「よくってよ。二人でここで話していらっしゃい。あたし は、お呼ばれしているところがあるの。服を更えなくちゃ ならないわ」  そういって、ヵウチから立ち上ってしまった。  夫人は、渋茶色のスカートに、ハイネックのこまかい縫 取りがあるブラウスを着ていて、部屋を横切って行くの が、花の動いて行く感じだった。友杉と笠原との間に、ど んな話があろうと、それは自分とは無関係だという顔つき である。うしろ手にサンルームのドアを閉めると、じきに 廊下で、「山岸さーん、山岸さーん……」と女中を呼び立 てる声がした。  その声に、耳を傾けるようにしてから笠原は、膝の上の 雑誌をひらいたまま、ゆっくりと視線を友杉に向けた。 「ぼくに、話があるっての、どういうことですか」  友杉は、立ったままで答えた。 「君の喜ぶ話じゃないですよ。問題は簡単だが、君の訪問 についてです」 「というと?」 「先週は、二回、君がこの家へ来た。今週はもう三回目で しよう。今後は、こういう訪問を、よしてもらいたいので す」 「ほう」  笠原は、雑誌を、閉じてしまっていた。  友杉の言葉が、あまりにも飾りがなくてハッキリしてい て、気を奪われたという形だった。 「わからんな。1すると、ぼくの訪問が、迷惑になると いうわけですか」 「そのとおりですよ。ほかに理由はないでしよう」 「しかし……迷惑だって……それは、なぜですか」 「そうですね。なぜかってことは、説明できないじゃない が、説明しない方がいいんじゃないですか。君を、必要以 上に傷つけたくないんですよ。要するところは、君がもう ここの家へ、来ないという決心をしてくれれば文句はな い。君に対して、そのことを、ぼくよりほかに、言い出す 人がいなかったものですからね」  笠原の顔を、かすかな痙蠻・が走った。  すぐに、なにか辛辣な言葉で言いかえしてやらねばなら なかったが、あいにくとそういう言葉が見つからなかっ た。今までに、二度か三度しか、口をきいたことのない男 である。訪問すると、玄関で取次ぎをする。それから、有 吉が、四谷の麻雀クラブへ行くことを、教えてやった。し かも、べつに身分のある男ではなく、単なる藤井家の居候 で、同時に書生であり、下男ですらあるはずの男だった。 だのに、こんな男は、今まで見たことがないのである。軽 蔑してやりたいと思うのに、軽蔑することができなくなっ でいた。ぬっと椅子の前へ立って、じつとこっちを見下ろ している眼つきが、しっかりしていてたじろがない。肚の ・中で思っていることを、思ったとおりにロへ出していっ で、不安もなければ後悔もないという風に見える。才智や 白先きだけでは、相手をしにくかった。眼に見えぬ圧力が のしかかってきた。悪くすると、こっちが、犬のように、 尾をまいて逃げるよりほかないのであった。 「不愉快だな、実にどうも……」 「そうでしよう。それは、わかる」 「こんなことを、だしぬけに言われるとは、ぼくは思わな かったですよ」 「だしぬけじゃないんです。ぼくの方では、こないだか ら、考えていたことですから」 「イヤ、1それに、ずいぶん無礼だと思う。ぼくはです ね、よその家で、こんな無礼なことを言われた記憶がな い。生れてから、これは、はじめてだ!」  ついに、腹が立ち、声が大きくなった。雑誌を丸めて棒 にしてしまった。この表情のおちついた男をなぐりつけて やるかどうするか、ともかくこの無礼を、甘んじてうけて いるのが業腹で、そのくせに、気ばかりあせって、顔が蒼 くなり、唇がふるえた。 「しかし……いったい、誰がぼくのことを、迷惑だってい づてるんですか。奥さんが、そういっておられたのです か」 「さア、どうですかね。べつに、誰もロへ出しては言わな かったですよ。ただ、さっきもお断わりしたでしよう。ぼ くが、はじめて言い出したのですから」 「ぼくには……イヤ、君が、それを言う権利があるという ことがわからない。聞いておきたいですね。どういう権利 ですか。君が、自分だけの考えで、勝手に来客の訪問を拒 絶する。そうして、ここの家への来客を、こんなにも不愉 快にさせるということは」 「さア、それはですね、権利の問題じゃない。義務の問題 でしよう」 「え?」 「わかりませんか。ぼくはこの家の主人じゃない。親戚で さえもありません。しかし義務をもっている。ぼくは、こ の家の、忠実な番犬だから:…・」 「ふうん。iじゃ、番犬だから、誰の足にでも咬みつく というわけですか」 「アッハハハ、そうかも知れませんね。まさか、咬みつ きゃしない。が、いやな奴だったら、腕の一本ぐらい、へ し折ることはあるでしよう。そういうことが起らないよう にしたいと、ぼくは思っている!」  友杉の顔が、笑ってはいたが、めんどう臭いという色に 変ってきていた。この美貌の大学生を、追い出すだけが番 犬の役目である。しかし、久しく柔道を使ったことがなか った。庭石へでも投げつけて、じっさいに腕を一本へし折 ってやったら、この男はどんな顔をするであろうか。  笠原の顔色は、みじめに見えた。  それから、その視線が、横へうこいた。  両手でふりかぶるのに適当な椅子がそばにあり、また電 蓄[のこちらに、真鍮の彫刻がついた、重量のある台ランプ がおいてあった。  友杉は、相手の行動を、退散するなり、なぐりかかって くるなり自由にさせてやるために、笠原のそばから少しは なれて、やはりおちついて笠原を見下ろしていたが、その 時ふいに邸内で物音がした。  廊下のとちゅうにある電話が鳴っているのだった。  聞いていると、ベルがいくどもいくども鳴っているの に、だれも電話口へ出るものがない。多分、女中のふみや は、貴美子夫人の外出の身支度で、手つだいをさせられて いるのであろう。友杉は、もういっぺん、笠原の方を眺め た。そうして、だまってサンルームを去り、電話口へ出 た。  ところが、その電話は、藤井産業の庶務課長からであ る。課長は、社長夫人に、至急知らせてほしいということ だった。会社からもすぐにお宅へ連絡に出向くが、実は、 藤井社長が、福島の炭坑で怪我をした。本社からも見舞い にかけつける。社長夫人も、行かれるのだったら、切符を 賀うことにする。ともかく、奥さんが御在宅だったら、電 話口へというのであった。  やがて、友杉の知らせで、貴美子夫人が電話に出たが、 すると話がすぐにきまってしまった。 「わかりました。それじゃ、あたしも福島へ行きますわ。 1いいえ、こちらへ連絡に来なくてもいいでしよう。汽 車の時間が……そう、あと二時間で出るのね。間に合うよ うに出かけますわ。汽車の中で、話を聞きますからね。そ うですか、それほどの大怪我じゃないんだって……ええ、 結構よ。医師も、手配して、連れて行くようにして下さ い。万一のことがあるといけませんからね」  そうして、電話を切ったのであった。  ふみやが、奥さまの御旅行で、鞄をつめるやら、着更え を選ぶやら、てんてこ舞いになって、友杉を応援に頼ん だ。  笠原昇は、玄関へ出て靴をはいた。  それから、中庭へはいり、夫人の部屋の窓へ来た。       いとま 「奥さん。お暇しますよ」 「あら、そうだったわね。急にあたし、旅行することにな ったのよ」 「知っています。福島でしよう。iぼくも、福島へは、 行ったことがありません。それにお手つだいができるかも 知れませんね。いっしょにお伴してもいいでしょうか」 「いっしょにって、そうね……べつに、さしつかえはない わ。でも、二時間したら、汽車が出るのよ」 「大丈夫です。遅れないように行きます。じゃ、駅でお目 にかかりますからー」  彼は、靴音を高くして、立ち去った。  友杉は、あとで、笠原も夫人といっしよに行くのだとい                  さか うことを知った。そして友杉は、顔を逆なでされたみたい で、けっきょくあの男には敗北したのだと感じた。 二  福島県のN炭坑は、交通の不便な位置にあって、炭質も 硫黄が多く発熱量も少ないものとされて、 一時ほとんど廃 坑の状態にされたのを、藤井代議士が目をつけて買い取っ て以来、めきめきと盛りかえしてきた炭坑だった。近い将 来、炭坑に、コークス工場が付属する。タールから、副産 物ができるだろう。硫黄が、新しい方式で作られる。更に     い なわしろ 進んで、猪苗代の安い電力を使ったら、石炭液化もやれる かも知れない。藤井産業では、この炭坑に、大きな夢を抱 いていたのであった。  ストライキが起りかけたのは、やはり待遇改善の要求で あって、それを、労働組合の大きな動きにする前に、藤井 代議士がかけつけたのは、たいへん成功であった。紛争 は、代議士の熱意で解決された。会社側も、坑夫の側も、 十分に満足し合い納得し合って、前よりも愉快に仕事がで ぎるようになった。そうして、そのあとで、代議士は、坑 内を視察することになったが、すると、トロッコの運転手 がヘマをやった。代議士を、もう少しで、轢き殺してしま うところだったのである。  幸いにして、怪我が、軽くてすんだ。  腰をうたれ、脚を痛めた。が、命には別状なく、それ も、しばらく寝ていれば癒るという程度のものだった。  山に、会社のクラブができている。  坑道の、石炭殻で黒くなった入口を少しはなれた谷間 に、つい最近建てられたばかりだったが、社員の宿泊や集 会にあてられるので、設備がよくととのっているし、石炭 がふんだんにあるおかげで、冬は暖房が十分であり、夏 も、朝から入浴ができる。まるで、温泉のりっぱなホテル のようだった。代議士は、怪我をした直後、このクラブへ運 びこまれた。そうして、そこへ、東京からの社員と、医師 と、貴美子夫人と、笠原昇とがやってきたのであった。 「びっくりしたのよ、あたし。あなたが怪我したってだけ 聞いた時、ドスンと頭なぐられたみたいだったの、あと で、だんだんにおちついたけれどI」 「来て見て、わしが平気な顔しているから、がっかりした かな。なアに、君がくるほどのことじゃなかったんだ」 「いいえ、来てよかったと思うわ。それに、山の中のクラ ブ、とても気に入ったのよ。まるで、遊びに来ているみた い。あたしも、一度炭坑の中へ入ってみてよ」  代議士夫妻は、睦じく話し合った。  怪我をして寝ているために、ゆっくりとして、久しぶり の愛情を味う時ができたかのようであった。  三日ほどのうち、表面的には何事もなくて過ぎた。  代議士は、手当が行きとどいたせいであろう。打身の腫 れや痛みが急速に消えて行くようで、まだむろん、蒲団を           よ しいて寝てはいるが、凭りかかりさえあれば、もう半身起 して、しばらく話をしたり、食事をとったりすることがで きるほどになった。  四日目の夕方、思いもよらずやってきたのは、中正党代 議士諸内達也であった。  藤井有太の怪我を東京で聞いて、その見舞いに来たとい                     かんじよう うのが口実であるが、むろん、有太を中正党へ勧請するため の口説き落しが目的である。諸内達也が来たと聞くと、貴 美子夫人が、ウッカリして話さずにいた果物の籠の手土産 のことを思いだした。あれは、良人が会社へ出た留守のう ちのことだった。帰宅するまでと思って、二階の書斎へ、 誰にも手をつけさせぬようにして運ばせた。ところが、有 太は、自宅へ帰らずに炭坑へ来てしまったから、あれはあ の時のままになっている。夫人は、手土産の内容がどんな ものであったにしろ、あとで有太が、好きなように処置す るのだろうと考えた。そう深くは気にしないでいたわけだ った。  妻の話を聞いて、 「ふうん、そいつは、少し困ったぞ」  有太は、眉をしかめている。 「オヤ、いけなかったんですか、預っておいたの」 「うまくないよ、金が入っていちゃ、おだやかじゃない。 どのくらい入っていた?」 「しらべなかったの、だけど、現金で二十万や三十万、そ のくらいあるんじゃないかって考えたわ。とてもかさばっ た籠でしたから」 「うむ、現金だけじゃなく、小切手を入れとくということ もある。イヤ、少なくとも、百万以上だよ。このわしを、 買収するには、そう安くないはずだから」 「買収されるつもりですの」 「とんでもない! 百万が二百万、千万円積んでも動きは せん。が、籠を受取ってあるとすると、めんどうだぞ」 「受取りゃしません。諸内さんも、それはわかっていらつ しゃるはずですわ。あなたがどうおっしゃるか、とにかく 預るということにして……」 「イヤ、いかん。預ったというのが、先方じゃ、受取った ことにしてしまうさ。君にも似合わん、まずいことしてく れた」 「あたしが悪かったとおっしゃるの?」 「まア、そうだ! まるで、子供みたいに考えている。政 治家の妻としては、もっと深く考えていてくれなくちゃ ね」 「すみませんでした。あたし、政治家の妻には不向きでし たわね」 「え?」 「悪かったとおっしゃるから、謝まってるのよ。第一あな た、腹を立てた顔しているわ」  そうして、そこへもう諸内代議士が、クラブの女中に案 内されて、 「ヤア、どうしたい。怪我したっていうじゃないか」  さも豪放らしい笑い声とともに、その肥った、短い口髭 のある、うすあばたの顔をのぞかせたのであった。  藤井夫妻の、やや険悪になった会話は、自然にそこで打 ち切られた。  そうして、それから十分たった時に、貴美子夫人は、ク ラブの裏手につづく林の中へはいっていたー。  林は、濶葉樹や丈の低い潅木や、時々にょっきりとして 松や杉が生えている自然林で、空気がつめたく、日の光が もう薄れているので、奥がどこまでつづくかわからないほ ど深く見える。細い、手入れをしたことのない道を、夫人 は歩いていった。そして、大きな木の切株が三つほどある 草地へ出ると、ハンヶチを出して株の上へしき、腰をかけ た。  その場所へは、実はもう、二度も来たことがあった。  はじめは、笠原と散歩に出て、木の切株を見つけたから 休んだ。しかし、二度目は、今日の午前だった。やはり、 笠原といっしよに来たが、すると、笠原がとつぜん物狂わ しい態度になり、夫人への愛情を訴えた。その時の笠原 は、不思議にも子供のように幼稚に見え、夫人は、姉のよ うに冷静だった。そうして、それから数時問たって、彼女 は、また同じ場所へ来てしまったのであった。  あたりは静かで、草や木の葉の呼吸さえも聞えるほどで あったから、それからしばらくした時に、遠くから足音が 近づいてきたのは、その足音だけで誰だかということがわ かるほどのものだった。  足音は、貴美子夫人を見て、とまった。 「ああ、やはり、来てくれましたね!」  笠原が、喜びの声を上げて近づいてきた。 「ぼくは、あれから、三度もここへ来たのです。奥さん が、怒っているのかと思った。それから、イヤ、もう一 度、ここで会えると考え直したんです」 「あたしは、わからなくなったのよ。自然に足が向いてこ こへ来たわ」 「それでょかったんです。ぼくは安心しました。あのまま だったら、ぼくは何をするか知れなかったんです」  それは、本心からいったのかも知れない。また、こうい う言葉で、'女というものが、いつも我を忘れることをわき まえていて、技術的にいったのかも知れない。  とつぜん、貴美子夫人の唇に、微笑がうかんだようだっ た。 「ほんとはね、あたし、夫婦喧嘩しちゃったのよ」 「それは……ぼくのことについてですか」 「いいえ、ちがうの。お金の問題よ。お金って、不思議な ものね。男と女との問題と同じように不思議だわ。話して あげましょうか」  果物の籠の話が出てきた。  恋愛とは無関係なことであり、しかし、耳を傾けて、笠 原はその話を聞いていた。彼は、切株のそばの草へ腰をお ろした。そしてその肩へ、夫人の手がかかり、笠原は、ぎゅ つとそれを握りしめていた。林の中に残っていた日の光 は、もうすっかりと消えてしまい、夫人の顔だけが白く 浮いている。誰もこの二人の、邪魔をするものはなかっ た。 「あたしね、一人でここへきていたのは、いろんなこと、 考えてみるためだったの。妻と良人とのことも、わからな いことがたくさんにあるわ」 「奥さんは、今の結婚生活に、満足していないのですね」 「そうかも知れないし、そうでないかも知れないわ。で も、満足しない時は、あたしがきっと、慾張りすぎるから じゃないかと思っていたの。藤井は、ほんとうは、とても 善人だわ。あんな善人はないくらいよ。それでいて、あた しは、しょっちゅう、退屈していたのよ」 「退屈なんてことは、ぼくは、したくないですね、年より になってから、そういうことがあるでしよう。しかし、若 いうちは、毎時間毎分、充実して生きていたいですよ。退 屈を、ぼくは憎みますね」 「憎んだって、あるのだから、しかたがないわ。あなた は、ほんとに、退屈しないでいられて?」 「もちろんですよ。いつだって、ぼくはせいいっぱいの生 き方をしているんです。それに、奥さんを知ってからのぼ くは……」 「ああ、それは、なにも言わないで……」 「いいえ、言わせて下さい。ぼくは、正直に告白すると、 ほかの女たちと、いくどか交渉をもちました。ところが、 奥さんを見てから、ほかの女たちが、とても下らない女ば かりだったとわかったんです。急に眼がさめたようなもの でした。青春を、今まで無駄にしていたのだと気がつい て、それから世の中が美しく見えてきました。朝起きてか ら寝るまでのうち、一分も休まずに、奥さんのことを考え ています。苦しいけれど、ぼくが、ずっと充実された感じ でした。そのかわり、奥さんがここで、どこかへ行ってし まっていなくなったら、ぼくは気が狂うんじゃないかと思 いました。それくらいいっしょうけんめいで考えて、何か 大声で怒鳴りたくなったりしました。一方で、奥さんをぼ くが恋するのは、いけないことじゃないかと反省する。し かし、掴みたいものを擱まずにいるってのは、卑怯なんで す。ぼくは勇気が出てきました。怖いものはなくなり、ど んなものにでも、ぶつかって行ける気がしてきました。藤 井さんが怪我をしたという。しかし、それはそれでかまわ ない。炭坑へ奥さんについて行こうと考えたのは、そのた めだったのです。他人が見て、どんな風に思っても平気で した。生死の問題と同じです。それをしなければ死ぬとい う時、他人の思惑で遠慮して死んだら、そいつは馬鹿だと いうことになるでしょう。ぼくにとってはこの世に奥さん がいるということが、ぼくの生甲斐になってきてしまいま した。そうしてぼくは、ほかには何も欲しくはない。ただ 奥さんの……」  笠原の腕が、夫人の腰へまわった。  夫人の身体は、木の切株から、笠原の膝へ崩れおちた。 「だめ! いけないわ」 「いいえ、奥さん!」  そうして、唇が、はげしく重ね合わされ、二人の息が、 からみ合って喘いだ。  林の向うの炭坑の方から、とつぜん、音楽の響きが流れ てきた。  若い従業員たちのブラスバンドだった。今夜は、月に一 回の慰安会だった。映画があり、漫才があり、素人演芸が あった。ブラスバンドが、その開会を知らせているのだっ た。  貴美子夫人が、クラブへ戻ってきた時に、藤井代議士 は、待ちかねたという顔である。 「どこへ行っていたのだ」 「裏の林を、歩いていたのよ」 「そうか。探していたのだ。東京へ、明日の朝、帰ること にするよ」 「、ら、ー」 「腰骨んところが、まだ痛い。しかし、無理をしても帰ら にゃならん。諸内の奴と喧嘩したよ」 「政治の話、うまく行かなかったのね」 「追い帰してやったんだ。はじめから、交渉の余地はありゃ しなかった。1しかし、議会へ出ないかぎりはどうに もならない。東京へ行ってから、奴らをとっちめてやる。 帰る支度をしておくれ」  有太は、しきりに気負い立っている。  政治の醜状を曝露し、中正党を相手どっての大喧嘩をは じめようとしていた。そうして、自分の妻のことは、まだ 何も気がつかずにいるのであった。  しかしながら、東京へ帰ってから、どんなことが起る か、それは貴美子夫人ですら、ぜんぜん予想がつかなかっ たのであろう。東京へ藤井代議士がもどってから、新しい 事件が起った。  それは、殺人事件であった。 鳩 の 街 一  空の色は、すきとおって晴れていたが、ラジオの予報が あった。昼すぎから風がはげしくなり、十米の風速をうけ た街路樹の葉が、緑色の大きな包みもののようになって、 起き上ったり寝たり、身もだえしている。  電燈が、まだ明るい街につきはじめ、窓わくを黄色くぬ った、重量感のある新型.ハスが走ってきた。 「H町……お降りの方はございませんか。H町……」  風をひいて咽喉へ湿布をまいた女車掌が、腰でうまく身 体のバランスをとりながら叫ぶと、平川洋一郎が高橋勇を 肘でこづいた。 「オイ、降りよう」 「え?」 「降りるんだよ。ここでi」 「ちがうじゃないか。まだだぜ」 「いいんだ、降りるんだよ!」  高橋勇は、わけがわからぬといった顔で、平川の眼をの ぞき、しかし、立ち上った。そうして、少しよろけなが ら、平川といっしよに。ハスを降りた。 「どうしたんだね、こんなところで?」 「いやだったんだよ。変な奴がのっていたよ。じろじろ と、ぼくや君の顔ばかり見ている。向うがわの席の、すり 切れた鞄をもっていたやつだ。もしかして、刑事じゃない かと思ったからね」  しかし、その刑事に似た男を乗せたバスは、べつに異変 もなく走り去った。平川が、それをじつと見送ってから、 アハハハと笑いだしたが、笑う顔は、醜く歪んでいて、唇 がビクビクとけいれんしているようだった。  高橋が、たばこを口にくわえたが、風のために、いくど やってみてもライターが消えた。腹を立て、パチパチと火 花をとばし、しまいにはたばこを噛んですてて、靴で踏み つぶそうとしたとたん、土ほこりといっしょの風が、その 白いほそいたばこを、道の向うのはしまで、吹きはらって 行ってしまった。  何もかも思うようにならず、気持が灰色だった。 「夕刊にゃ、ぼくらのこと、もう出ていないぜ。まア、こ のままですむと、うまいぐあいだが……」  ふいに、平川がいって、ポケットから新聞を出したの で、高橋はうけとってそれをひろげようとしたが、やはり 風が強くて、読むこともできない。 「朝刊も、そう大きく書いてはなかったから、いいあんば いさ。しかし、失敗だったね。あんなことになろうとは思 わなかった」 「池袋の時のように、知っている家にしなかったのが失敗 のもとだよ。はじめから、危険なような気がしていた。そ れを、南条がだいじようぶだっていったからね。あいつ、 まるでまだ子供だったのに……」 「南条もそうだし、小西だって、学校の帽子をかぶって行 ったからいけないよ。徽章だけは、ぼくが取らせたんだ」 「新聞に、学生風の集団強盗って出ているので、ギョクン としたよ。まア、それでも、ぼくたちだということは、ま さかまだわかっちゃいないと思うんだが・:…」 「心配だぜ。警察じゃ、手配つけるまで、詳しいことを新 聞に書かせないのかも知れない。ぼくたち、まさかと思っ ているうちにズキが廻ったりなんかしたものなら。1と にかく、園江にゃ困ったね。逃げる時、反対の方角へ逃げ やがった。ぼくは、うしろ姿だけ見たから、声かけようか と思ったけれど、かけられなかった。あいつ、泡喰ってい たから、つかまったかも知れないよ」 「いやだなア。園江がつかまって口を割ったら、ぼくらだ って、つかまっちゃうよ」 「形勢を見て、場合によったら、自首した方がいいかも知 れないね」 「うん、自首するか、高飛びするかだよ。とにかく、園江 のこと、確かめてからだ。これから行って、園江がいた ら、安心だものね」  今までに、もういくどとなく、くりかえして話し合った ことばかりである。その時、停留所へ、お婆さんと商人風 の男が二人きたから、平川が高橋に目くばせをして話をや めたが、二人とも、不安で眼がおちくぼんでいる。彼等 は、池袋での「あれ」を、もうよした方がいいと知ってい ながら、また昨夜ある家へ強盗にはいった。そして騒がれ て、一物をも得ずに逃走した。しかし、今朝になって見る と、新聞には記事が出ているし、心配でたまらなくなった から、例の四谷の麻雀クラブへ集合したが、園江新六だけ がやってこない。みんなで、園江はどうしたのかと話し合 った。園江も、そう問抜な奴じゃないはずだから、うまく 逃げたろう、という者もある。イヤ、あの時は、近所の人 たちも出て来て騒いだから、逃げられなかったかも知れな い、という考えもわいた。それから、小西貞が、中野で家 具店をやっている園江の家まで、様子を見に行ってきた が、どうやら家へも帰ってきていないらしいとわかった。 なにかどす黒いいやな気持が、むくむくと、彼らの胸の中 へふくれてきた。麻雀をやりかけたが、面白くもおかしく もなかった。鼻が曲ってついていて、笠原昇から、犯罪者型 だと罵られた園江の顔を思いうかべ、その顔が、ヤアといっ て入ってきたら、どんなにいいだろうかと考えたが、待っ ても待っても、その顔は現われない。彼らは、相談した。 そして、そうだ、園江は鳩の街へ入りびたりだ、こっちの 心配も知らないで、女と寝ているだろう、鳩の街へ行って みようということになって、平川と高橋とが、バスに乗っ て出かけたわけである。 「オイ、地下鉄にしようか。浅草まで行って、それから乗 りかえるといいよ」  と高橋がいったが、平川は賛成しない。 「地下鉄は、ぼくは好きじゃないな。だが、どうしてだ い、地下鉄なんて?」 「うん、ただ、そう言ってみただけだよ。バスだと、笠原 の下宿のそばを通るね」 「そうか。そうだったな。あいつは、いやな奴だよ。おれ は、借金をまだ返さない」  頭から、 一瞬だけ、園江のことがぬけた。  そうして、そこヘバスが来た。  さっきのより、ひどくこんでいて、天井のチュウブにつ かまっているのがやっとである。二人とも話はできなかっ た。学生が一人、図面や数字のたくさんに書きこんである ノートを、赤鉛筆でアンダラインをしながら、読んでい る。平川は顔をそむけて、そのまじめな学生を見ないよう にしていた。 二  鳩の街は、隅田川の向うの、低く湿った土地にあった。 昔はーというのは、戦争の前には、少しはなれた玉の井 がその場所だったが、今はここへきて商売をはじめた。女 たらが、洋装だったり、お振袖だったり、時には女学生の ようにセイラi服を着たりして、会社員や職工や、老人や 青年がくるのを待っている。世間には女が有りあまってい て、男の相手がない女がたくさんいるのに、ここでは女 が、一晩に十人もの男を相手にする。大胆で色っぽくて勇 敢だった。そして中には、白痴に近い女がいる代りに、英 語をべらべらしゃべることのできる女がいた。  鳩の街へはいる前に、 「腹がへったね」 「うんi」  平川と高橋は、屋台店の焼そばを食べた。ひどい匂いが して、ロへ入れると、胸がゲッとむかつくほどだったが、 鳩の街では金がいるかも知れない。だから、ほかのことで は、倹約をしなければならなかった。がまんして、のみこ んだ。ようやく腹ができた。  ふと気になったのは、平川は背広だが、高橋は学生服を 着てきたことで、昨夜の学生風の集団強盗について、もし かしたら刑事たちが、ここらで眼を光らしているかも知れ ず、だとすると、危険がひしひしと身にせまる思いがする のであった。見れば学生服も、高橋だけではない、ほかに も二三人そこらをうろついているのがあったから、ナニ、 かまうものか、平ちゃらな顔でいた方がいいと、度胸をき めることができた。 「わりに淋しいもんだね」 「宵の口だからだよ。それに、風がやめば、もっと人が出 てくるさ。平川君は、あんまりここは好きじゃないってい ったね」 「うん、芸妓の方が、ぼくは好きだよ。ここはまるで、怖 いみたいだね。さきに、どっちへ行く?」 「そうだな。ぼくの知っている方へ行こう。そこにいなか ったら、君が行った家だ」  高橋も平川も、園江の案内でここへ来た経験があるが、 高橋はつい十日ほど前にきたばかりで、その時に、園江の    なじみ 新しい馴染の女を紹介された。痩せているし、口が狐のよ うにとんがっていて、小母さんみたいに年をとった女だっ たが、園江には、その女が気に入っている風だった。高橋 に話したところによると、女が園江に、あまりはげしく来 ない方がいい、学校のことも勉強して、お小づかいのあま りで、月に一度か二度来るようにしろ。そうすれば、うん と可愛がってやるから、と言ったそうである。同じこと を、真実の母や妹に言われても、嬉しくはない。しかし園 江は、ひどく喜んで得意になっていた。いるとすれば、そ の女のところへ来ているにちがいないという見込みだっ た。  家の名は、おぼえがない。  小さい道を三つ曲って、入口の柱を、青と赤とのペンキ で塗りわげた家がそれだった。  まっすぐに、二人はその家へ行ったが、たちまち失望し た。  狐の口をした女が、肌襦袢一つでお化粧をしているとこ ろだったが、園江はあの時っきり来ないのだといった。 「どうしたのよ。あの子、いなくちゃ、困ることがある の」 「うん、用があるんだよ。ほんとに来なかった?」 「来ないわよ。うそじゃないの。1それよっか、遊んで 行かない?」 「あいつがいないんじゃ:…・」 「かまわないじゃないの。あたし、学生さんなら、誰でも 好きよ。二人でいっしょでもいいわ。ねえ、とてもいいこ と、してあげるからさー.」  痩せていると思ったが、肌襦袢から、丸い乳の玉がふく らんで見えている。  高橋も平川も、血が鳴ってきた。園江を探しにきた目的 を忘れそうになった。それから逃げ出した。  平川が、高橋より前に、園江と行った家は、おしるこ屋 みたいに作ってある。しかし、園江はそこにもいなかっ た。第一、園江をおぼえてもいない風だった。平川を相手 にした女も、いなくなっている。そうして、やはり遊んで 行けとすすめられた。 「困っちゃったなあ。おれ、心配になってきたよ」  平川が、歩きながらいったが、顔はそれほど心配そうで なかった。女に、手をにぎられたり、むりやりに抱きつか れたりして、気分が変ってしまった。心配にはちがいない が、急にはどうにもしかたのないことだった。あとで、ゆ っくりと考えた方がいいと思った。  いつの間にか、風がおさまってきていた。  高橋がいったように、人が多くなり、賑やかになった。 し ふん 脂粉や汗や食べものやの雑然たる匂いがする。女の笑い声 が聞えた。不思議に酔っぱらいはいなかった。果物を売る お婆さんがいる。りんごを買って、立ったまま、丸かじり にしている男がいた。赤い縞のアロハを着た男がきて何か 話しかけた。 「じょうだん言うなよ。おれは知らんよ」 「客の靴を持って逃げやがったんだ。君が出たすぐあと で、靴のないことがわかった」 「でもおれじわ、ねえさ。その証拠にゃ、何も持ってやしな い」 「それはそうだがね。まアいい、いっしょに来てくれ」  すぐに人だかりがして、面白そうに眺めている。まだり んごをかじりながら、けっきょくその男は、アロハの男と いっしょに、角を曲って姿を消した。  夜だのに、空気が熱くなり、汗が出た。  入浴して、ベタつく身体を洗ったら、きっといい気持だ ろうと思い、しかし、そんなことでは、おちつけないとも 思った。二人ともに、金をいまいくら持っているかと考え た。その金はどっちみち、長く身についている金ではなか った。昨夜の強盗が成功していたら、そんな金はなんでも ないもので、そう思うと、ヘマをしたのが、口惜しくなっ た。園江がつかまらずにいてくれるといい。そうすれば、 多分自分たちも大丈夫だろう。今度こそ、うまくやって、 もっと上等なところへ行くこともできるようになる。池袋 の銀行支店長のような家を、早く見つけなくちゃいけな い、などと考えた。  ついに、二人がはいった家は、とても汚くて小さい家 で、仕切りの唐紙など、ぼろぼろに破れていた。そうし て、二人ともに、不愉快になって外へ出ると、病気のこと が気になったり、また、さっきよりも園江のことが大きく 不安になってきた。 「もう、何時かねえ。ぼくは時計をグニヤ (質屋)へ持っ て行ったんだ」  高橋が、一刻も早く、この街を立ち去りたいというよう に、急ぎ足で歩きながら、急にふりむいて平川に訊いた が、平川は、 「うん、ぼくも、時計、忘れてきたよ」  てれくさい顔で答えて、それから、別なことを言いだし た。 「しかしぼくら、学校の方も、当分は休まない方がいい ね」 「そりゃ、そうだな。ノートがブランクばかりだから、試 験の夢を見ることがあるよ」 「試験はどうだっていいけどね、休んでいると、警察なん かで調べられた時に、ぐあいが悪いよ。そういや、藤井は、 このごろ学校へ行っているってね」 「まじめになったんだ。じきに、またグレはじめるだろう けどね。1あいつは、ここへ来たことがないんだよ。一 度つれてきてやろうか」 「うん、そいつは……よした方がいい。藤井にゃ、スケ(娘〉 がついている。可愛いい女だ。むりに、こんなヵイヤ(私 娼窟)へつれてくることないよ」  そうして、五六歩行ってから、ふいに平川が思いだし た。 「ああ、そうだった。園江のことは、藤井に聞いてみた ら、わかるんじゃないかな9」 「ふうん、どうしてだい?」 「藤非は、金を持ってきてくれたろう。金ではあいつは困 らないんだ。笠原のようなことはやらないし、藤井のとこ ろへ金を借りに行こうかって、園江のやつ、相談しかけた ことがあったぜ。昨夜、ぼくらと別れて逃げて、それから 藤井のところへ行ったかも知れないね」 「ああ、そうか、そういえば、そうだったね。園江は、ぼ くにも藤井のこと話したよ。藤井は、二階の書斎に、果物 籠に入れてその金があるってこと言ってたから、園江は、 藤井の家じゃなかったら、盗みに行くんだがなアって言や がった。。ハヵ言え、そんなことしちゃ、藤井がかあいそう だよって、ぼくがいってやったが、ほんとうだ、藤井に園 江のこと聞いてみた方が、早いかも知れないね」  少し、希望がわいてきた。  それに、園江が藤井のところへ行かなかったにしても、 その話のついでで、有吉から金を借りる話をもち出すこと もできる。 「これから、すぐ行こうか」 「いや、明日にしよう。今夜は疲れたよ」  そうして二人は、やっといくらか元気づいた顔になっ て、鳩の街をあとにした。 果 物 籠 一 「あなた!」  ドアをノックしないで、貴美子夫人がはいってきた。  はいるとすぐに、蠅が一匹、良人の枕もとの水差しにと まっているのを見つけたから、手で蠅を追いはらって、つ いでに、ベッドの毛布のはしをぴんとのばし、それから、 そばの椅子へ腰をおろして、うちわの風を、仰向きに寝て いる良人の顔へ送った。 「あついんでしょう。窓をあけといた方がよかなくっ て?」 「うん、さっき友杉がきた時しめてもらったんだ。あとで あけてもらおう」 「ええ、いいわ。それから、お腹はまだおすきにならな い?」 「も少したってからがいいね。キャビアのパン、うまかっ たよ」 「いいえ、今度は、もっとおいしいものつくるわよ。みん な、あたしが味付けしてるんですの。台所へあたしがはい ってやるから、山岸さん、びっくりしていてよ」 「ほう」  藤井有太は、妻の顔を下から見上げて、やはりふみやと 同じようにびっくりした顔つきになり、しかし、満足そう な微笑をうかべた。福島の炭坑から帰ってきて、もう数日 たっている。藤井代議士は二階の書斎にそなえつけのベッ ドへ、寝たきりになっているのであった。彼は、炭坑のク ラブで、諸内代議士と口論した。すぐに東京へ帰って中正 党攻撃の火ぶたを切ると意気込んだが、帰りの汽車がいけ なかったらしい。帰宅すると、腰から脊骨へかけてのはげ しい疼痛が襲った。帰った日に、それでも書斎へ上って何 か調べものをしようとして、がまんができなくなり倒れて から、そのままベッドを、はなれられなくなったのであっ た。  ふしぎだったのは、福島から帰ってくると、貴美子夫人 がまるで人が変ったようになったことである。  夫人は、実にまめまめしく、身うごきもできずにいる良 人の世話をやきはじめた。医師の指図で、疼痛部へ薬を塗 り湿布をする。新聞を良人に読んで聞かせる。電燈のシェイ ドが汚れていると気がついてすぐに新しいのに取りかえさ せた。窓へ草花の鉢をおいた。ベッドに香水をまいた。部 屋の換気や日光に気を配った。そうして、夜は、ベッドに 並んで籐の寝椅子をはこぼせて、その上へ夫人が寝る。そ んなにしないでもいい、疲れるからと有太がいうと、だい じょぶ、心配しないでよ、そばに寝た方が、あたしが安心 なのだから、と夫人は答えた。  こういう変化は、どこから起ったのか、ほかには誰も理 解するものがなく、しかし、有太だけが、わずかにわかっ ていたかも知れなかった。あの夜夫人が、とつぜんに、泣 きだした。そして有太を困らせた。 「どうしたのだ。え?」 「泣きたいのよ。泣いてみたかったのよ」 「君が泣くなんて、まごついてしまうよ。わけがわからな い。わしが、なにか、悪いことしたのか」 「ええ、そう。あなたがいけないの。あなたが卑怯だから l」 「どういうことかな。もっと、ハッキリいってくれ。卑怯 だなんてことは、ないつもりだ。ただわしは、君とは少し 年が違っている。そのことを、時々思ってみるのだが ……」 「それよ。それだわ。そんなことを、あなたは考えてい る。だから、しよっちゅう、だめなのよ。あたしが、ダン スへ行ったり、男の友達つれてきたり、それをあなたは、 だまって見て知らん顔しているのね。それは、あたしを、 ほんとうに愛していることにはならないんだわ」 「待て。それは君-1」 「いいえ、いいえ、どんな弁解するか、知っててよ。だけ ど、あなたがそういう風にしてあたしをほっとくのは、あ    いじ たしを苛めるのと同じことだわ。そのくせに、自分じや、 卑怯な苛め方をしているんだってこと、気がっかない。そ れとも、実は、苛めてやろうっていうつもりでいるんで しょうか」 「バカ言え。そんなに陰険な人問にわしが見えるのかね」 「そうだったわね。それは、あたしの間違いだったかも知 れなくてよ。だけど、そうだわ。1たとえば、政治のこ とだったら、あなたはまるで夢中になってしまうわね。事 業でも政治でも、それにかかったらほかのことを、みんな 忘れてしまうでしょ。福島から帰ってらしてから、身体が きかない。そうして、諸内さんに使いを出して……いくど                   ゆうぜい も使いを出して、それでも諸内さんが、遊説に行ったのだ のなんだのといって、なかなか顔を見せないから、あなた、 じれてじれて、じれぬいて、病人車を呼んでこい、こっち から押しかけるなんていうでしょう。あたし、その気持が わかんないじゃないの。だけど、それだけにあたしのこ と、夢中になったことはなかったわね。いつでも寛大で冷 静だわ。この書斎のベッドで寝ていらっしゃる。病人に は、下の日本間の方がいいのに、書斎のベッドに、むりに 寝ていて……」 「ちがうよ。ひがんじゃいけないよ。わしは、ここの方 が、寝ているのに静かだから、好きなのだ。梯子だんの上 り下りが、たいへんだろうとは思うけれど:…・」 「嘘おっしゃい。そうじゃないのよ。あたしが、男の友だ ちつれてきて騒ぐから、それを見たくなくて、書斎へ寝た のよ。だけど、そんなことは、一事が万事で、つまらない ことだわ。たいせつなのは、あなたが、煮え切らないで、 あたしをただ見ているっていうことなのよ。これじゃ、あ たしが、いつか何かの穴の中へおっこっちゃっても、あな たは上から覗いて見て、顔色も変えないかも知れないわ。 穴がまっ黒な口をあけて待っていても、あたしはずんずん と、その穴のふちへ歩いて行ってしまう。それでいいんで しょうか。女ってもの、どんなに利口だからって、芯は弱 くて小さくてバヵなんだわ。利口ぶっているうちに、すっ かりとくたびれてきてしまうの。ほんとに赤んぼになっ ちゃいたい。それを、あなたっていう人、少しもわからな いでいらっしゃるのだから……」  有太は、全身に甘味な情熱がわくのを感じ、この妻は、 死んだ先妻の節子とは、べつな愛し方をせねばならぬのだ と諒解した。身体のきかないのが口惜しかった。そうし て、たいへん満足な気持で、それからの日を過してきたの である。  貴美子夫人の変り方については、むろん、有太だけでは なく、邸内のものが、誰も気がついていただろう。  有太への見舞客がたくさんにきたが、そのほかで夫人を 訪ねてきた客は、全部、玄関で断わりを言われた。奥様は お目にかかれません、といって追い返す。笠原昇が、二度、 やってきた。しかし、これも簡単に面会を拒絶された。一 度は電話をかけてきて、その取次に友杉が出た。友杉は、 笠原の声だとわかっただけでガチャリと電話を切り、受話 器をはずしっぱなしにしてしまったー。 「そうだったな、忘れていたが、会社から電話がかからな かったかね」 「ええと、どういうお話?」 「硬化油工場の敷地の問題だよ」 「ああ、あれね。気になるのでしたら、あたしから会社へ 聞きましょうか」 「そうしてくれ。金が足りないかと思う。そうしたら、銀 行へわしから話をしなくちゃならない」 「わかりましたわ。じゃ、ー」  夫人は立ち上った。  そして階下へ降りてきたが、その時、玄関に客があっ た。  客は、有太が待ちあぐねていた諸内達也代議士であっ た。 二 「いくども使いをくれたそうだね。イヤ、失敬したよ。遊 説で関西へ行っていたんだ。それに、福島じゃ、喧嘩別れ したからね、アハハハ」  有太が、寝たままだから書斎へ通され、諸内代議士は、 例の豪放な笑いを爆発させた。 「しかし、君の方から会いたいというのは、心境の変化が あったというわけだろうね。そう思って、ぼくはやって来 たぜ。今日は、院内で代議士会さ。総裁が、君のことをぼ くに訊いた。御心配御無用、万事はわが方寸にありと答え てきた。どうだい、もうこの辺で、ぼくの顔立ててくれよ」 劉 『うむ、立ててあげたいとは思うんだがね、ぼくは寝てい て、いろいろと考えたんだよ。そうして、実は、とんでも ないことを思い出してしまった。それを君に話したくて ね」 「ふうん、どういうことだね」 「まア、あわてなくてもいいだろう。それは、非常に重大 なことで、しかも、ぼくの考えとちがっていたら、まこと につまらないことだったということになるのだ。ぼくとし ては、重大になってもらいたくない。ぼくの杞憂ですんで くれたらありがたいと思う。それが政界の威信を、より以 上傷つけることになったらたいへんだからね」  有太は、相手の眼をまっすぐに見て云ったが、その時 に、ふみやが茶をはこんできた。諸内代議士は、有太の意 味ありげな言葉で、いやな顔つきだった。そして、ガブリ と茶を飲み、むりに眼を笑わせていた。 「イヤハヤ、顔を合せるとたんに、爆弾的言辞を弄するか ら、どうも君にゃ、話がしにくくなるんだよ。重大だの、 つまらないだのって、どういうことだね。ま、ハッキリそ いつを言いたまえよ」 「言ってもいいさ。しかし、そこのテーブルに、紙ばさみ があるだろう?」  眼で知らせたテーブルを、諸内代議士がふりむくと、 「それだ、表紙の青いやつだ。その中に、新聞の切抜がは さんである。それを読んでみてくれたまえ。ーイヤ、ち がう。小さいんだよ。うむ、ぼくの書いた感想文やなんか のうしろだ……」  有太が、自分で手を、出しそうにしていっている。  切抜を、諸内代議士は、やっと見つけ、それを紙ばさみ から抜きとった。老眼で、眼鏡がないと、読むことができ ない。ハンケチで、ゆっくりと玉をふいた。 「それはね、寝ていてふっと思い出したから、古新聞を書 生に探させ、切抜にしたのだ。どうだね、ぼくがそれを切 抜かせたということで、なにかドキッとするようなことは ないかね。ないとすれば、さっきもいったが、ぼくもあり がたい。単なる杞憂であってもらいたいのだ」  有太は、ベッドから話しかけたが、諸内代議士は、返事 もせずに、切抜を読み、そうして、ジロリと有太を見かえ した。  その切抜の記事は、ある男が不思議な家出をしたという ことを知らせたものである。男は大して有名ではなく、し かし、追放になったもと将官級の軍人だった。そうして、 家出後の消息がわからない。どうやら神経衰弱の気味があ ったようだし、生活が苦しく借金もできていたなどと書い      かとうあぎら てあった。加東明という名前である。  相手の表情を見つめようとして、有太の眼つきがきつく なり、諸内代議士は、それをまた十分に意識して、わざと おちつきはらっているように見えた。切抜を、二度もくり かえして読み、それから銀製の葉巻ケースをひっぽりだし た。 「イヤ、どうも、これはね……」 「おどろいたろ」 「うん、べつに、おどろきはしないさ。……むしろ、変だ と思うよ」 「というと、その記事では、何も心当りがないというわけ かい」 「そのとおりだ。これはこれだけのものじゃないか。元陸 軍少将加東明が、敗戦日本で生活苦に陥ちた。そして行方 不明になったというだけのことだろう。いったい君はこの 人物を知っているのかね」 「知らないこともないよ。軍人だったが、政治が好きな男 だね。追放にならなかったら、選挙で名乗りをあげたにち がいないのだ。ことに中正党とは、浅からぬ因縁があった はずだろう。ちがうかね」 「大ちがいさ。因縁などは、少しもない。第一、追放なん だから、政治運動とは絶縁されていたんじゃないかい。ど うも、わからんね。この男の行方不明が、なぜそんなに君 の心配する重大事なんだか1誰か君に、そういう意味の ことを、話した人間でもいたというわけかい」 「イヤ、べつに、そんな人間がいるのじゃないよ。この記 事に目をつけたのは、今のところぼくだけだ。新聞を探し て切抜をつくった書生も、意味はよくわからなかったと思 う。しかし、ほんとうにどうだ。加東明の失踪事件は、君 及び君の属する中正党と、なにも関係がないということ を、誰の前でも断言できるか」 「できるよ、もちろん!」  事もなげに答えて諸内代議士は、うすい笑いを頬にきざ んだ。 「君、よしたら、どうだい。バカなことで、時間をつぶし たってしかたがない。ねえ、お互いに、肚と肚とで行こう じゃないか。子供の喧嘩じゃないのだよ。この切抜は、せ っかく君が見つけたもので、君が重大な意味があると考え たものだから、記念としてぼくが貰って行こう。但し、も ちろん、重大でもなんでもありはせんが、要するところ、         けいこう 君はあまりに直情径行の士であり過ぎるということになら なければ幸いだ。角をためて牛を殺すの譬えもある。そこ を考えてもらいたいよ」  ここらで妥協しようといっているのである。表情が、図 太くなってきている。そうして、うまそうに、葉巻をくゆ らすのであった。  藤井代議士は、天井を見たまま、しばらくのうち、だま っていた。  そして、枕もとのベルのスイッチを、三度押した。  呼りんは、階下へ通じている。一度押せば友杉で、二度 がふみや、三度が貴美子夫人ときめてあった。じきに足音 がして、夫人が顔を現わした。 「ごめんあそばせ。あたくしをお呼びになりましたのね」 「うむ。そこにある果物籠だよ。それを、諸内さんに、持 って帰っていただこうと思う。ーイヤ、諸内君。こいつ はね、受けとれないよ。福島では、君の方から、引取りに くるという話になっていた。だから待っていたが来てくれ ない。物が物で、使いに持たせてやったにしても、間違い が起ったり、君が留守で、うやむやに受けとられたんじゃ 困るから、気にしながらここへ置いたのだ。今日はぜひと も持って帰ってもらうぜ。1こっちは、手をつけず、中 を調べても見ず、家内が君から、むりやりに預けられた時 のままにしてあるよ。ねえ、お前、そうだったね」 「それにちがいございませんの。この果物籠のおかげで、 主人からあたくし、とっても叱られてしまったんですよ。 預かったのが、受取ったことにされるんですって。さア、 どうぞ諸内さん。あなた、そんなあたくしまで困らせるよ うなこと、なさるはずがございませんわね」  えん然と唇をほころばして、首をかしげるようにして言 われたので、諸内代議士は、思わず「やアどうも!」と頭 をかいた。それから、ためらったが、けっきょく、 「そうだね。まア、君がそれほどまでに言うんだから、こ いつはぼくの敗けにしておくか。よし、逆戻りにするよ。 なアに、また筋を変えて、誰かをよこすかも知れんがね」  そういって、等分に有太夫妻の顔を見くらべ、額の汗 を、ハンケチでふいた。  書斎の片がわの壁に、タイル張りの小さなマントルピー スがあり、その上に問題の果物籠がのせてある。  諸内代議士は有太に背中を見せてそこへ近づいたが、包 装紙にちょっと手をふれて、 「しかし、籠の方はがまんしてもらうぜ。中身のかんじん なとこだけ、持って行く。イヤ、かんじんでない、ほんと の果物だってはいっているんだが、あの時のままほっとい たんじゃ、腐ってしまっているだろうね」  言いながら、包装紙をめくって中をのぞいたが、とたん に顔色が動揺した。  彼は、ゴソゴソと、籠の中をかきまわしていた。一度、 ふりむいて藤井代議士の顔を見つめ、また籠の中をしらべ 直してから、今度はアハハハと笑いだした。 「藤井君。よせよ、じょうだんは……」 「え、何がだい。何がじょうだんだね」 「ふざけるのも、ほどほどにするんだな。ぼくは、本気に していたぜ。イヤ、敬服した。完全に降参だ。君にして、 かかる肚芸ありとは、不肖諸内も知らなかったね。アハ、 アハ、アハハハ……よろしい。これは大いによろしい。籠 が、こんなものじゃ、気に入らなかったのはもっともだ。 百万円以上とぼくが主張したのに、総務がケチで、まア瀬 踏みに、二十万円にしてみうって言ったんだよ。むろん、 二十万ぐらいで、藤井君ともあろうものが、目をつぶって 通すとは思わなかったさ。わかったよ。早速ぼくが帰って 相談する。君が満足するだけの処置をとるよ!」  有太夫妻には、意味がわからなかった。 「オヤオヤ、どうしたんだね諸内君。何を君はいっている のだね」 「とは、また、ひどく白ばっくれたものじゃないか。え え? 藤井君」 「困ったな。白ばっくれてなんか、いやしないぜ。誤解は この際、めいわくだよ」 「へええ、誤解かね、これが。金は、一万円のさつ束を二 十個入れといた。そいつを、君はとっておいてね」 「待て……というと、金がそこにないのか」 「ありゃせんよ。梨とレモンが腐っているだけだね」 「それは、オイ、ほんとうか?」 「おどろいたな。まだそんなことをいってるのかい。影も ないじゃないか」 「えッ!」  夫婦はいっしょに、声をあげた。 前兆  果物籠の中の金は、ついに、盗まれたのだとわかった。  有太夫妻は炭坑のクラブで、果物籠を預かったことにつ いて口争いをしたが、まさかそれが盗まれようとまでは思 っていなかった。性質のよくない金である。預かっただけ でもいけなかったのに、盗まれて紛失したのでは、事態が ますます悪くなるかも知れない。すでに諸内代議士は、そ れを皮肉に誤解して、有太が金を取っておいて、なおそれ 以上の金を要求しているのだろうといったくらいである。 そういう誤解がおこるのも、むしろ当然だった。ここでよ ほど賢明な処置をとらないと、藤井有太の政治的生命、ま た社会的信用が、この一角からして崩れかけてくるという ことも、十分に有り得るー。 「こんなことになるなんて、あたし、思ってもみませんで したわ」 「ぼくも、意外だよ。君が、そのまま手をつけずに置いて あるといったから、そうだと思っていた。包み紙のぐあい が変になっているとかなんとか、掃除の時にでも、気がつ かなかったのかねえ」 「お掃除は、山岸さんがしたり、あたしがしたりです。そ う言えば、ハタキをかける時、包み紙のはしっこのところ が、少し凹んじゃったような気がしたことはあるんですけ ど、でも、盗まれるなんて……」 「受取るべき筋合の金じゃない。そっくりそのまま返すつ もりでいたから、注意が散漫になっていたのだね。いった い、預かってから幾日になる」 「炭坑のストライキで、あなたが福島へお立ちになったあ の晩からですわ」 「というと、もう、十日の余になるだろう。十日どころ じゃない。二週間を越しているかも知れない。その間、ず っとここにほったらかしておいたんじゃ、盗む気がありさ えしたら、盗めるわけだよ。家の者は、籠の中に金が入っ ていることを知っているね」 「ええ……それは、知っていると思いますわ  ですけ ど、家の者でなくって、外からだって……」 「それは、そうだね。この室は、戸締りがよくない。窓の 挿込錠が壊れている。バルコニーからでも上ってくると、 らくに忍びこむことができるからね」  有太夫妻が話すのを、そばで聞いていた諸内達也は、な るほどという顔でうなずいたり、立ち上って、その壊れて いるという窓の挿込錠のぐあいをみていたりしたが、しま いに、ニヤニヤ笑って有太の顔をのぞいた。 「イヤ、藤井君。もう、いいじゃないか、金の話は」 「いいことないよ。盗まれたのは、こっちの不注意だっ た。これは、ぼくの方で責任を持たなくちゃなるまい」 「へえ。責任を持つって、どういうことになるのだね」 「君が無理押しつけに果物籠を置いて行ったから、こっち はそれで、とんだ迷惑を蒙ったようなものだ。1誰か金 を盗んだものがある。それはゆっくり調べてみることにす るが、調べてみて、わかったにしろ、わからないにしろ、 金だけは君に返すつもりだ」 「そうかね。返すってのなら、返してもらっても悪くはな いさ。しかし盗まれた金が出てこないと、君の損害になる んじゃないかい。どうせ、領収書の必要のない金だったの だ。無理に返さなくてもいいのだよ」 「イヤ、返す。ぜったいにこれは返さなくちゃならん。金 は…・.・こっちじゃ、内容を調べてもみなかった。一万円の 束で二十個あったというのは、たしかだね」 「たしかだとも、諸内達也、そんなことで吹っかけを言や せんよ」 「よし、わかった。金額は、君の言うとおりだと信じてお こう。小切手でもよければ、すぐ書くが……」 「待った、小切手は困るよ。現金にしてもらいたいね」 「よろしい。それも承知した。現金では、今すぐというわ けにいかない。しかし、今度はこっちから届けるからね」  性質が潔癖だから有太は、盗まれたにしろ盗まれないに しろ、金は返すのだといって頑張ったが、その押問答のあ とで、また有太が言い出したのは、元陸軍少将加東明とい う人物の失踪事件についてである。  金は、災難とあきらめて、自分の金を出しても返す代 り、加東明についてはなお疑念がある、それを調査するの だと有太は言い、諸内代議士は、フン、加東のことなど、 べつに関係はないだろう。それよりも、やはり中正党への 入党を再考してもらいたい。それだと、もう何も問題はな くなるのだから、と喰い下って話を元へ戻そうとしたが、 けっきょく二人の話は、同じところをぐるぐる廻っている だけで、ケリがつかない。  彼等は、時々皮肉な冗談をとばし、大きな声を立てて笑 った。  しかし、しまいにこの二人の代議士の間には、何か目に 見、兄ぬ険悪なものが、もやもやと立ちこめてくるかに感じ られた。  そうして諸内代議士は、 「うん、忘れていた。今日は土建業者の会合があってね。 ナニ、顔を出しさえすればすむのだが、これでともかくお 暇するよ。ああ、奥さん、どうも長時間、おじゃまでし た」  そういって急に帰って行ってしまった。  諸内代議士を、玄関まで送りだしてから、二階へ戻った 貴美子夫人は、ベッドの上で天井を睨むようにしたまま黙 りこんでいる良人のそばの椅子に腰を下ろし、疲れたよう なため息をついた。 「ねえ、あなた。……あたしがやっぱりおバカさんだって こと、やっとよくわかったわよ。あんなもの、大したもの じゃないと思って預かったのが、間違いのもとだったわ ね」 「そうだね。預からない方がよかっただけは確かだろう。 しかし、できてしまったことは、しかたがない。それに、盗 まれさえしなけりゃ、よかったんだ。盗まれたのは、君だ けじゃない、わしも不注意だったのだからね」 「そういって下さると、ありがたいわよ。あたし、あなた が気の毒で、諸内さんの顔を見ていると、腹が立って、腹 が立って、たまらなかったの」 「あの男と話をしたら、べつになんでもないことでも、腹 を立てたくなることがよくあるのだ。慣れているから、わ しはおどろきはせん。そうしてね、実はわしは、君が思っ てくれるほどに気の毒でもないよ」 「ま、そうですか。どうしてですの」 「あいつと話していて、ある確信が胸の中へわいて来た。 あいつを、ガンとやっつけてやる手段を考えだした。これ ほ重大なことでね、非常に慎重にやらなきゃならんことだ が、ともかく切札を一つ発見したのだから、もうぜったい にわしは、あいつや、あいつの仲間たちに敗けることはな いと思う。矢でも鉄砲で本持ってこいでね。その点、わし は、気の青どころじゃない、たいへん愉快だと思ってい る。1もっとも、ただ一つだけ困るのは、金が盗まれた ことでね」 「とんだ損害でしたわね」 「イヤイヤ、損害のこと、いってるんじゃないのだよ。な アに、二十万や三十万、べつに大した金じゃないんだが、 盗んだのが誰かということを調べにゃならん。それが、わ しはいやなのだよ」 「と、おっしゃると……あなたも、あたしと、同じこと考 えていらっしゃるんじゃないか知ら」 「ふーん。君は、どう考えている?」 「言いたくないのだけれど、盗んだのは、家の中の者じゃ ないかっていうこと……」 「そうか。そう思うか」 「さっき、諸内さんの前で、あなたが、家の者は金のこと 知っているかとお訊きになったでしょ。あたし、果物籠を 諸内さんが、むりに押しつけておいて行った時のこと思い だしたわ。その時、玄関には友杉さんと山岸さんとがいた だけで、有吉ちゃんはいませんでした。だから、正確に言 えば有吉ちゃんは、お金のことを知らないはずで、でも、 その後にあなたやあたしが、福島へ行ったりなんかしたか ら、このお部屋へはいつでも自由に入ることができたはず ですわね。あたし、有吉ちゃんのことを考えると、口がき けなくなったんです。家の者だけじゃない、外からだって 盗みに入ることができるって言ったのは、諸内さんの手前 だけ、わざとそう言っといたのよ。むろん戸締りが壊れて いるのも、ほんとうですけどね」 「わかった。ありがとう。君の考えと、わしの考えとはま ったく同じだよ。1金を盗むようなやつはほかにはいな いのだ。友杉も山岸さんも、まことに正直で信頼のおける 人間だ。有吉だけが、時計を持出したり写真機を売ってし まったりする。わしは、知っているつもりなのだ。呼びつ げて小言をいったこともいくどかある。しかし、叱ると、 .逃げてしまって近づかない。実に困ったやつだね。金は、 有吉が盗んだのにちがいないよ」  深い苦悩が有太の表情に浮んだ。  夫人もそれを、慰さめる言葉がないようであった。 判どうするのがいいかね。有吉を呼んで叱ってみるか ……」 「ええ、それはね……」  夫人は、考えてから、答えた。 「有吉ちゃんのことは、あなたにも、あたしにも、責任が あるような気がしてならないのよ。あたしだったら、有吉 ちゃんを叱るなんてことできません。あなたにしても、叱 うたら反抗するばかりね」 「というと、黙ってほっとけというのかい」 「ほっとくんじゃなくて、叱るかわりに、もっともっと可 愛がってあげたらいいと思うわ」 「うむ」 「お金のことは、友杉さんからでも話してもらって、二十 万円を、まだみんな使ったんじゃないでしょうし、返せる だけは返させることにしたらよろしいわ。友杉さんなら、 有吉ちゃんがすっかり敬服してるんですから、きっとうま くやってくれますわ」  賢明な考えだった。  有太は、なるほどとうなずいた。そうして、眼の先きが 明るくなったような顔をした。 二 「まるで、バカづきだね。ひょっとこのたきびだよ」 「なんとでもいうがいいや。も少し、お時間を拝借しよ う。十本、つんでみせるからね」 「まだ上るつもりだから、やりきれない。三万点のトップ じゃないか」 「満貫、もういっぺん、やるんだよ。そら、いうことを聞 いて、六と出ろ!」  有吉は、すっかりと、いいきげんだった。  シャイッをふると、言った目の六にはならなかったが、             パイ 四と六との十が出たから、牌のとりどころは、思ったとお   ナンチヤ            レンチヨアン りの南家からで、やはり連荘が、できそうであった。  相手は、高橋と平川と、もう一人がどこかの会社員で、 場所は神田の紅中軒という麻雀クラブだったが、うしろに は友杉成人がついていて、有吉の麻雀を見ながら、勝負の 終るのを、じっと待っているのであるー。  実はこの日有吉は、いつものように学校へ行ったが、す ると高橋勇と平川洋一郎とが、牛込の有吉の家へ行くのは 気が引けたのか、学校の門のところへ来て、有吉を待ち伏 せしていたのであった。平川も高橋も、強盗で失敗したこ とは有吉に話さない。しかし、園江新六が、もしかしたら 有吉に会いに来たのではなかったかと訊いた。有吉は、考 えてみて、ウン、園江は四日ほど前に、金を貸せといって 来たことは来たが、都合が悪くてだめだと断わると、もう それっきり来ないよ、と答えたから、四日ほど前というの なら、強盗を失敗してからのことではないのだとわかり、 高橋と平川とは、いささかがっかりしたような顔つきにな ったが、さてそのあとは、久しぶりに麻雀でもやろうかと いうことになって、有吉はつい誘惑に敗けて、クラブへ来 てしまったというわけである。友杉の方は、有太夫妻に二 階へ呼ばれた。そうして、有吉のことを頼まれた。ところ が、この日に限って有吉が、待てども待てども家へ帰って 来ない。夜になってから彼は、思いついて四谷の麻雀クラ ブへ行ってみたが、そこには例の五人の仲間のうちの南条 真が一人きりいて、有吉の行きつけのクラブだったら、神 田にも一軒あるのだということを教えてくれた。ようやく 紅中軒を探しあてて来てみると、うれしや有吉はそこにい でくれたが、すぐに帰るという気にはなれないらしい。腕 力でつれ戻すということも面白くなく、時間がついに十二 時を過ぎそうになった。では、これが最後のあと一荘だけ ということになって、有吉がすばらしく勝ちはじめたか   レンチヨアン ら、連 荘がもう七回もつづいてしまったのであった。  八回目の有吉の連荘t。  有吉は、ピンホーのリーチ、ツモで上ったから、また三 千点以上をかせいだ。 「オイ、もういいかげんにしろよ。いくら勝ったらいいん だい」  高橋が、面白くない顔でいったが、 「勝てる時に勝っとくんだよ。五万点かせいだら、ドロン ゲームにしてもいいや」  と、平気である。平川も、                         テノホウ 「勝つのはいいが、勝ち過ぎるのは、気味が悪いぜ。天和 やって、帰りに電車で轢かれて死んだやつがある。藤井が 十回連荘したら、何かきっとよくないことが起るね。さ ア、チョムポでもして、落ちてしまえよ」  とからかったが、 「ううん、だいじょぶさ。iそう、リーチだ。ツモロン!」  と叫んで、また九回目を上ってしまった。  友杉成人は、がまんして、待っている。  有吉は、宣言どおり、十回の連荘をやり、十一回目、 シイチヤ 西家の闇テンをうちこんだ。そしてその次に、やっと勝負 が終った。  千符が百円の賭けで、それにウマがついていたから、最 後の回の有吉の勝ちは四千円に近く、しかし、高橋は赤い 顔をして、今夜はコテンバアにのされた、この次までノリ にしてくれといったので、いいともいいとも、ナニ、都合 のいい時に返してくれ、と有吉はえらそうに笑って答えて いるのであった。  もう、たいへんに遅い。省線電車も、多分なくなってい るだろうという時刻だった。  高橋と平川とは、どうする、困ったね、徹夜して麻雀う った方がいいが、有吉が帰るのじゃ、クラブのマスター入 れてやるよりほかないね。でも、マスターは、ノリになる と承知しない。服でも靴でも置いて行かせるからいやだな アと話し合い、けっきょく古本屋の小西貞が近くにいる、 そこへ行って泊らせてもらおうということになった。 「有吉君は、帰ろうね」 「ええ、もう、勝ち飽きたから」 「よかったですよ。牛込まで、そう遠くはない。歩いて行 きましょう」  そうして友杉は、有吉に逃げられぬように用心して、九 段から市ケ谷への電車通りを歩きだした。 「ずいぶん、待たせちゃって、すみませんでした。1友 杉さんは、ぼくの麻雀見ていて、びっくりしなかったです か」 「そうだな。びっくりしたですよ。とてもついていた。そ れに有吉君は、強引だから……」 「ぼくの強引なのは有名なんですよ。テンパイしたら、お ちないんです。だから、とてもでっかいやつ、ぶちこんじ まう代りには、みんながぼくをブルカムで……怖がるって いうことですよ。怖がって、向うでおちてしまうし、ぼく                       チイトイツ はカンがいいから勝つんですね。さっきの連荘の七対子、    パア ぼくは八ピンがいいってこと、チラッと頭の中で思ったか ら、わざとブリテンの八ピンで待ってツモっちゃった。い つか、ほんとに友杉さんとやりましょうね」 「やりましょう。ぼくだって、カンがいいし強引だから、 有吉君に敗けやしない」 「どうだかな。ぼくをのせるようだったら、ぼくが感心し てあげるけどな……」  友杉が、いやな顔もせず、黙って見ていてやったから、 有吉は気を許して友杉に、麻雀のことばかり話しかけてく る。競馬や賭博では、大人でもそれはあることである。勝 負のスリルを回想し、ほかは何も考えず、夢中になってい るのであった。  友杉は、果物籠のことを話しだすのに、当惑していた。 まだ何も言わないでいたから、帰宅の遅れたのを心配して きてくれたのだとばかり思っている。だのに、金を盗んだ のかどうかと、問いつめねばならない。場合によったら、痛 い目を見せねばならぬこともあるだろう。有太夫妻に期待 されただけのことが、できるかどうかわからない。罪を裁 くのではなかった。恥かしめてもよくなかった。そうして 有吉に、こちらからではなく向うから、進んで金のことを 話してもらいたい気持だった。  九段の電車の曲り角へ来ると、巡査が二人を呼びとめ て、こんなに遅くにどうしたのかと訊いた。  径しいものではない、知人のところで話しこんでいた、 自分たちは代議士藤井有太の家の者であると答えてそこを 通りすぎた。  そして、そのあとでようやく友杉は、今日家へ、諸内代 議士が来て、果物籠の中の金がなくなっているのがわかっ たと話しはじめた。二十万円あったのだという。しかし、 盗まれたので、有吉の父親は不利な立場に追いこまれた。                   せつ 清廉潔白を以て誇りとする藤井代議士の、節を買い取ろう とする金を、そのまま着服したのであろうとまで言われ た。これは、どうだろう、有吉君に責任はないのであろう かと問いつめた。 「いいかね、有吉君、誤解しちゃだめだよ。君のお父さん は、金を盗まれたので、腹を立てているのじゃ決してない ですよ。腹を立てるどころか、こんな風になったのは、お 父さん自身、責任があるのじゃないかと考えている。そう して、有吉君がやったことだとしても、有吉君を叱ること はできないのだといっておられる。君は、そういうお父さ んを気の毒だと思ってあげなくちゃいけないのじゃないか ねえ。1良いとか悪いとか、それをきめようというので もない。善悪の判断は、有吉君が自分でできることですか らね。ぼくとしては、お父さんから頼まれたのを、あまり 嬉しくないお役目だと思ったが、しかし、ぼくが頼まれて よかったと考えて、引受けてきた。というのは、ぼくが有 吉君を、ぼくに向ってまで嘘をつく人間だと思っていない からなんです。ぼく自身も、何かほんとのことを話すのに は、ほかの誰より、有吉君がいちばん話しやすい気がす る。それはぼくの喜びなんだ。かくさずに、何でも話すこ とのできる友人を持つことは倖せだからね。そうじゃない か有吉君。そうして、むろんぼくは、君を信頼していてい いのだろうね」  金を盗んだことを白状させる方便としてではなく、友杉 は、真実それを感じていて、そのとおりにいったのであ る。心配したのは有吉が、金のことだから嘘をついて、盗 みはしなかったと言張る場合で、そうなったら、もう絶望 だと恐れていたが、幸いにして有吉は、一つずつ友杉の しゃべる言葉を胸の奥で噛みしめて聞いているようであっ た。  富士見町をぬけ、市ケ谷の駅の前へ出て、それから、牛 込の高台への坂へかかった。  坂を上りきると、間もなく藤井家である。  その時、ふいに、へんなことが起った。  頭の上の方で足音がして、誰かが坂を下りてきたようで                     さと ある。友杉は、有吉に、まだいろいろと説き諭すようにし て話しつづけていた。その声で、坂を上って行く二人に気 づいたのであろう。足音の主は、急に向うへ引き返し、坂 を急ぎ足で上って行った。そうして、しまいにバタバタ と、走るような足音になり、それっきりどこかへ行ってし まった。  何か不安を感じさせるような出来事でもあるし、また、 それほど大したことでもないという気がするー。  二人は、立ちどまって、今の足音が消え去るのを聞いた が、べつにそのことについては口を利かず、また坂を上っ て行った。  そうして、坂を上りきったところで有吉は、友杉が待ち 設けていたとおりに、金は彼が盗んだのだとハッキリ言っ た。  友杉は、嬉しくなり、また道の上で立ちどまると、前へ 廻って有吉を、しっかりと両腕でつかみよせていた。 「ああ、よかったよ、有吉君。ぼくは助かったような気が するよ」 「そうですか。心配かけて、すみませんでした。ぼくは、 友杉さんになら、しゃべることができるんですよ。ーほ んとはぼくはあの金は、ぼくが持出して使っても、そんな にめんどうなことが起る金だとは思わなかったんです。政 治家なんて、収賄だとか買収だとか、しよっちゅうやって いるんでしよう」 「そう。それはあるね。しかし、まじめな政治家だってい るんですよ。君のお父さんみたいな人もね」 「そうだな、お父さんは、政治家としたら、まじめな人の 方でしようね。1だけど、あの時は、ぼくの友達が、金 がなくて困っていたものだから」 「友達に金をやったのですか。金は、二十万円だったとい うんですよ」 「ぼくは、ゆっくり数えなかった。だから、二十万か三十 万の間だと思っていました。そのうち、五万円だσ、友達 のとこへ持って行ってやって、あとは一文も便わないんだ けど……」 「と、いうと、あと、十五万円は残ってますね。それは、 どこにおいてあるんですか」 「お父さんの書斎ですよ」 「え?」 「ぼくは、全部盗み出してきても、あとで金がなくなった のだとわかった時に、どうせぼくに疑いがかかるだろう し、疑いがかかったとなったら、ぼくの勉強部屋なんかへ かくしておいても、きっと見つけられてしまうと思ったか ら、果物籠からは持ち出したけれど、やっぱしお父さんの 書斎のうちへ、そっとかくしておいたんですよ」 「そうだったのですか、イヤ、こりゃおどろいたなア。お 父さんの書斎から、あとでまた持ち出すつもりだったのだ ね」 「まア、そんなところですね。持ち出したかったんだけれ ど、福島から帰ってきてお父さんが、書斎へ寝ることにな ったから、すっかりだめになっちゃったんです。園江って やつが、金を借りに来て、それもそんなわけだから、貸し てやることができませんでした。1でも、今になってみ ると、よかったですね。書斎へかくしたから、まだ十五万 円、ちゃんとそのままであるんですよ」  その書斎の金のかくし場所は、書棚の一番下の隅に、上 下二巻の『日本史略』という書籍がある。箱入りの厚い本 で、本の中身は有吉が、実はもう三ヵ月ほど前にぬいて取 って古本屋へ売ってしまったのを、父親の有太が、まだ少 しも気づかずにいる風だったから、箱だけが背をこちらへ 向けてちゃんと立ててあって、その箱の中へ、紙幣の束を 二つに分けて入れておいたのだと、さすがに有吉は、やや 気まり悪げな笑い声を立てていうのであった。  ついに友杉は、ここでは、少々おかしくなってきてい た。  金が、どこへも行きはしない。やはりめの書斎のうちに あるのを、誰も知らないでいたのでめる。  五万円だけ減ったのはしかたがない。わかっていたら、 五万円だけ足して、その場で諸内代議士につき返してやる こともできたのであろう。  が、これでともかくも、有太夫妻から引受けたむつかし い役目は、無事にすましたと思うと気もゆるんで、 「しかし、お父さんたちに話したら、お父さんだって、笑 いだすにぎまっていますよ。本の箱にかくしとくなんて、 うまいこと考えたからね、有吉君も:::」  友杉は、わざとふざけていって有吉の背中を、ドシンと どやしつけたくらいである。  その時は、あと数分とたたぬうち、いかなることが起る かを、友杉も、有吉も、まったく予期しないでいたので あった。  彼等は、やがて、家のすぐ近くまで行ったが、すると、 ほとんどいっしょに、誰かが向うからきた。  靴の音が軽く、小刻みだった。  そうして 門燈の明るみで、それは貴美子夫人だとわか った。 (つづく)

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