「大下宇陀児「石の下の記録」(4)終」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

大下宇陀児「石の下の記録」(4)終」(2017/01/05 (木) 14:11:04) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

絶壁       一                へぎいサビよくろう  M県S海洋という町の温泉旅館碧玉楼へ、ある日の夕 方、二つの大型トランクを携帯した、男女二人つれの奇妙 な客がぎて泊った。  男は五十歳ぐらい、女はずっと若くて三十歳ぐらい ーo  彼等は、駅からまっすぐに自動車でやってきた。  しかし、その自動車からおりたばかりの時は、まことに みすぼらしい服装をしていて、男の方は、ところどころつ ぎ目のあたっている白麻のズボンに汚れきった開襟シャ ツ、古びたカンカン帽に軍隊靴といういでたちだったし、 女がまた、顔立ちだけは整っていながら、着ているワンピ ースの服が、仕立も柄合もひどくじみで不恰好で、その上 むきだしの足に、ズックの運動靴をはいているという有様 だったから、はじめ宿ではこの二人をすっかりと軽蔑し、 ほかに空いた部屋もあったのに、彼等を宿としては最下等 の一室に通したほどであったが、さてそれからしばらくす ると、女中が帳場の番頭にあわてた目つきで報告にきた。 「ねえ、あのお客さま、部屋を変えてあげた方がよくなく つて?」 「ふーん、どうしてだい」 「身なりはそまつね。だけど、持ってきたものが、とても 大したものばかりよ」 「へええ、持ってきたものって9」 「トランクが二つ、あるじゃないの。あたしが行ったら、 トランクの蓋をあけたところなの。そうしたら、服も靴も 帽子も、りっぱなものばかりが揃っているのよ。女の方 は、グイヤの指環出して指へはめたわ。そうしてね、山登 りしてきたから、汚い服を着てきたんだっていっていて よ。悪いこと言わない。部屋を変えた方がいいと思うな」  それではと番頭も気がついて、客に詫びを言いに行った り、特等の二階月の間に案内したり、急に滑稽なほどてい ねいな客あしらいに変ったのは、いかにもこの商売として はあたりまえのことだが、そうなってみると客の方は、男 も女も、すっかりとおちついてきて堂々として、そういう 上等の待遇には、ふだんから慣れっ子になっているという ところが見えてきたから、女中と番頭とは、 「ね、ごらんなさいよ。今日ばかりは、あたしの目の方が 高かったわね」 「うん、そうらしいな。着替えの浴衣まで、自分のを持っ てきている。どう見ても一流の紳士だね」  また話し合ったくらいである。  彼等は、東京からきたのだといった。ここの湯が胃病に 特効があると聞いてきた、それで当分のうち滞在するつも りだともいった。  宿帳の名前は、文房具商高畑義一、同人妻文江としてあ って、しかし、夫婦ではないのであろうし、またどう見て も商人らしいところはみじんもない。女は入浴したあと、 部屋の鏡台の前へ坐って、 「ああ、やっと、さっぽりしたわよ。こんな旅行って、も うこりこりだわ?。それに、景色だって、ちっともいい ところじゃないじゃないの。汽車は三等、おにぎりの弁 当。とんだ道行きしちゃったわね」  不平そうな口ぶりでいったが、だんだらしぼりの涼しげ な浴衣に、パッと目のさめるほどの赤い伊達巻をしめた姿 が、宿へついたばかりの時とは別人のように、あでやかに 見え、コケティッシュに見える。男の方も、同じく湯上りの 肥った躯を、ガッシリあぐらをかかせて葉巻をくわ、兄て、 暮れてきた海の遠くを眺める目つきが少なからず傲岸で、             つらだましい 精悍で、人を人とも思わぬ面魂に見えるのであった。  夕食に、彼等はビールをとりょせた。  男にまけず、女もかなりいける口で、ビールよりはハイ ボールかなんか飲みたいわ、などといったり、久しぶりで 三味線を弾きたいなどと言い出したが、酔いが廻るにつれ て、男の方ぱとくに目つきが淫蕩になり、もう女中がきて 次の部屋へ寝る支度をして行ったにもかかわらず、だしぬ けに女を抱きょせると、はげしくその場へねじ伏せてしま った。 「……いやだわ……無理よ。部屋が開けっぱなしじゃない の……それに、女中さんがくるかも知れなくてよ。:::あ あ。そんなことして、バカバカ! ……ああ・:・:」  女は身をもだ、兄て抵抗し、男を罵しるようにしながら、 しかし結局は、自分から進んで男の要求に応ずるようだっ た。  荒い呼吸をして、男は、縁がわの籐椅子へ行き、ドサリ と腰をおろした。 「へんねえ。あなたという人。今度はいつもとまるっきり 変ってるわよ」  しばらくして女がとつぜん言った。 「そうかい。どう変っている?」 「だって、そうじゃないの。万事が万事だわよ。あたしに わけも話さないで、こんな田舎の温泉へつれてきて、それ もあなた、一等のパスだって持ってるのに、汚いなりをし て三等できて、これから、何があるっていうのよ。あた し、怖いような気がしてきたわ」 「うん、怖いのは、おれも、怖いよ」 「え9」 「なに、お前を困らせるようなことは、せんつもりだ。だ から、お前がびくびくすることは少しもない。しかし、今 度という今度は、もしかするとわしの土壇場だからな」 「いやねえ。土壇場なんて。1わかった。じゃあなた、 やっぽり警察から疑われていたとおりね。藤井という代議 士を殺したの、あなただったのね」 「じょ、じょうだんいうなよ。わしは、そんなのじゃ、決 してないさ。仮にも諸内ともあろうものが、そんな殺伐で 野蛮なことは決してせん。藤井が殺された時、わしが大森 のお前の家にいたことは、ほかの誰よりもお前が知ってる だろう」 「そうね。それは、そう言われると、そのとおりだわ。だ けど、じゃ、ほかに何があるっていうのよ」 「つまりだな。明日になると、この宿へ、わしを訪ねてく る人物がある。こいつは、なかなかの悪党だよ。悪党でい て、見かけは寺の和尚か田舎の村長みたいな顔をしてい る。こいつに会って、話がこっちの希望するとおりのとこ ろへおちつけば、何も心配はないことになるし、でなかっ たら御破算さ。御破算も御破算、おれだけじゃなくて、天 卞の大政党の御破算だぞ。おれは、少なくとも代議士じゃ いられなくなるからな。とにかく、その悪党に、会ってみ なくちゃわからないが……」 「悪党って面白そうね。そういうの、あたし大好きさ」 「好きか好きでないか、会ってみてからわかる話さ。ー うん、しかし、お前がそいつを好いてくれたら、わしは都 合がいいよ」 「オヤオヤ、どうして?」 「というのは、おれが目をつぶって、がまんしなくちゃな らんかも知れない。老人のくせに女が好きなやつだ。一晩 ぐらい、お前が御機嫌をとらなくちゃならんかも知れん」 「あら、そいじゃ、あたしが、人身ごくうになるっていう わけ?」 「ふふ、まさか、本気でそれを言うんじゃないよ。お前 を、入には渡すものか。ただ、譬えれば、いや、成行きで は、そうした方がいいという場合も起るというだけの話 だよ。まア、政治の裏面ではね、そんなことがしょっちゅ うあるのさ。自分の娘を、人身ごくうにすることもある。 ひどいのは、女房を提供する。それがまた昔から、いちば ん手っとり早い方法だとされているのだ。世の中のこと を、真正面からだけで見ていたら、聖人君子ではいられる だろうが、しまいにゃ野たれ死にするかも知れんからな。 わしはしかし、少々やりすぎたかとも思っているよ。まっ たく、つまらない目にあった。政治的野心なんか持たない で、材木屋をやっていた方が、利口だったかと思うよ。ウ ハハハハ:::」  明日になれば会うという悪党は、まだ誰のことをいって いるのかわからない。  しかし、この会話を、誰でも聞いたらわかるだろう。男                    かこ は代議士の諸内達也だった。女は、大森に囲ってある妾 で、これは宿帳に記入したとおりの文江という名前の女で ある。旅行は、秘密の旅行だった。身分をかくし、名前を 変え、服装までもわざとみすぼらしくして、この温泉旅館 へきていたのだった。  九時少し過ぎ、男ー諸内代議士は、寝る前に汗を流し てくるといって、階下の浴場へ降りて行ったが、その浴場 は岩風呂になっていて、湯の落ち口の岩のかげに、色の黒 い、ボンヤリした目つきの、頭が少し禿げかけた痩せた男 が、ポチャポチャと湯の音を立てている。 「静かでいいですね、ここの温泉はl」とその薄禿げの 男から話しかけた。 「そうですね」  ぶっきらぼうに代議士はいっただけだが、 「前から御滞在ですか。私は、今日ここへ来たばかりです よ。まだ少し早いが、海岸の崖をおりると海水浴もできる し釣りも面白いそうですな。まア、私も四五日いてみよう と思っていますよ。崖といえば、あそこはまことに絶景で すね。あそこだけは、海がとても深いそうですし、上から 覗くと、頭がくらくらしてきます。最近に、浴客が一人、 飛込んで自殺して、顔もなにもめちゃくちゃになったとい うことですが……」  その男は、しきりに話しかけてきた。代議士は、いいか げんにそれにうけ答えをし、間もなくして女のところへ戻 ってきた時、ハタと横手をうつようにして、 「あ、そうだ。あの男だ!」  とひとり言をいった。  女が、すぐ聞きとがめた。 「あら、どうして? 何があの男なの」 「うん、いま、風呂場でわしに、うるさく話しかける男が あったのだよ。どこかで見たような顔だと思ったが、東京 からの汽車の中で、同じ箱に乗っていた男なのだ」 「そうオ。それで……」 「それでも何もないが……イヤ、待て。何もないことない んじゃないかな。あいつは、汽車の中では、おれのうしろ の通路の反対側の席にいたのだ。目つきが間がぬけてい て、そのくせ、おれが便所や洗面所へ立つ度に、じっとお れの方を見ていたような気がする。とちゅうの駅で、おれ はプラットフォームへおりてアイスクリームを買った。そ したら、あいつも、やはり、。フラットフォームを歩いてや がった。そして、その時こそは、たしかにおれの方を目ば たきもせずに見てやがったのだ。うん、こいつは、少し変 になったぞ。あいつのこと、注意しなくちゃいけない。い やなやつだ。とぼけて、おれに、海岸の絶壁のことなんか 話していたが……」  不安のかげりが、顔にういてきている。  しかし、代議士は、 「なアに、大丈夫だ。そんなはずはない。わしは、誰にも 知れぬように東京を出てきたのだから……」  強いてそういって、新しい葉巻を口にくわえた。       二  朝、おそくなってから、代議士は目をさました。  疲労を恢復すると、昨日にも増して傲岸な面構えにな      おうへい り、態度も横柄で、そのかわり、番頭を呼んでチップの札 束を、どさりと投げ出した。  入浴して、帰ってきて、女中を呼んだ。 「断わるのを忘れていたよ。わしを訪ねてくる人があるは ずだ。もしかすると、名前をまちがえて、わしのことを諸 内といってくるかも知れない。そういう人はまだ来ないか ね」 「はい、お見えにならないと思いますが」 「よろしい。では、来たら、すぐにここの部屋へ通してく れたまえ」  女中が、かしこまりましたといって引下ろうとすると、 「ああ、そうだった。ここの宿に、頭が薄っばげになっ た、痩せた男が、昨夜からきて泊ってるだろう。あの客 は、ここの馴染みかね」  と訊いたが、女中は、首をかしげて考えていて、ちょっ とわからないという顔つきをしている。 「風呂場で話しかけられたのだよ。なアに、なんでもない が、わしたちと同じ汽車で東京からきて、この宿へ泊った らしいのだ」 「さようでございますか。昨夜は、たしか、新しいお客さ まが四組いらっしやったと思います。でも、宿帳へ東京か らとお書きになりましたのは、こちらのお部屋だけでござ いますし、旦那さまが、いちばん早くお着きになったので ございますよ。あ、そうでした。頭の薄っぽげのお客さま というのは、松の間のお客さまのことでございましょうか 知ら?」 「うん、部屋は知らないが、色が黒くて、ボンヤリした目 つきをしているよ。女でもつれてきているのかね」 「いえ、男ばかり、お二人ですわ。会社員だっておっしゃ っていました。風呂場でお会いになったのは、そのうちの 年上の方のお客さまでございましょ。笑うと金歯が光って いて……」 「うん、そうそう、それだ」 「とても、冗談ばかしいっていて、面白い人ですよ。で も、何か、お気にさわったことでも・:…」 「イヤ、イヤ、何もないさ。もう、よろしい。サイダー を、氷といっしょに持ってきてもらいたいね」  疑念はまだあるが、聞いてみたいことをそのままにし て、あとは女に、 「ナイ、お前。海水着も持ってくるとよかったな。海は、 遠浅なところがあるそうだよ」  と話しかけている。  遅い新聞がきて、それをゆっくりと読んでいた。  昼食に、またビールを飲み、二人で散歩に出た。  その散歩から帰った時、約束のある人物が訪ねてきて、 逆に代議士を待ちかねていたのである。  その人物は、背の低い、髯の多い、鋭い目つきの、片腕 を繃帯で吊った老人だった。  二人で顔を合せたとたんに、 「やア……」  とどちらも言い、代議士が、 「どうしたね、腕を?」と聞いたが、簡単に、 「怪我をしたのさ。久しぶりだね。貴公が直接来てくれる とは有難いよ」  と答えただけであった。  代議士と老人とは、すぐに二階の部屋へ行った。  しゆこう  酒肴の支度を宿に言いつけようかと女が代議士に相談す ると、 「いや、そいつは、話がすんでからの方がよろしいて。奥 さんは、こりゃ、べっぴんだね。こんなべっぴんをつれて きて、わしに見せつけるのは、諸内君も罪つくりじゃな いか。アハハハ、あとで、そのことを相談せんといかんわ い。な、諸内君、そうじゃろう。わしは、死んだ人間に なって、世の中の蔭で暮しておる。君が、そうせいといっ たからだろう。パージでいるよりこの方が面白いという見 方もあるが、わしはわしで辛いこともあるのだよ。時に は、戦犯で処分された方があとくされがなくてよいと思う こともあるし、いっそ、また東京へ出現してやろうかと考 えることもあってな。アハ、アハ、アハハハ」  老人は腹をゆすって、皮肉に笑い出すのであった。  やがて代議士は、目くばせして、女に座をはずさせてし まった。  それから、代議士と老人とは、長いうち二人きりでその 部屋にいて、何か密談を交していた。  その時に、一度は代議士が、ひどく気にしていたはずで ありながら、いまはすっかりと思い出しもせずにいたの が、例の風呂場で話しかけてきた、ボンヤリした目つきの 男のことである。  女中がいったとおり、その男は、自分より年の若い、俊 敏なスポーツ選手のような軅をした男といっしょで、同じ 宿の松の問に泊っていた。  松の間は、次の間のついていない、床前はあるが、畳も 赤くやけていて、午後に西日が射しこむという部屋である。  代議士への来客があった際に、年長の頭の薄っぽげの男 は、ウカと油断していたのであろう。部屋のうちでも風通 しのいい窓のそばへ寝ころんで、宿の玄関への出入者を、 絶えず見張るようにしていながら、つい、とろとろとし て、午睡をしはじめ、折悪しく、また若い方の男も、これ は野天風呂があると聞いたから物好きで、その野天風呂へ 行っていたため、代議士への来客のことは、それから二時 間ほどもしてからやっと知った。女が、密談の席を遠のい て、一人きりで階下の娯楽室へきて、郷土細工土産品の陳 列棚をのぞいたり、つまらなそうにコリントゲームをやっ たりしている。その様子が少し変だと気がついたから、た くみに宿の女中にあたってみて、月の間へは、いつの間に か客が来ていると知ったのであった。 「ホイ、やりそくなったぞ。その客がどんな男だか、見て おいた方がよかったんだ! 六日のあやめ、十日の菊…… じゃない。十日のあやめ、六日の菊……わからん。どっち でもいい。それになっちゃ、たいへんだぞ」  年長の男が、おどけていって、すぐにまた真顔になって いる。 「よしきた。やっと少し面白くなった。橋本君。君は、見 張っていてくれたまえ。どこかへ二人が外出するようだっ たら、すぐあとをつけて行く。ぼくは、ちょっと偵察だ よ」 ・誹  そして、いそいで浴衣を服に着かえ、リュックから大ぶ りな双眼鏡を出して、宿の裏階段をおりて行ってしまっ た。  月の間では代議士と老人とが、まだ密談をつづけてい る。  三十分とたたぬうちに、松の間へは、偵察に出た男が戻 ってきた。 「大成功だよ」 「そうですか」 「あの部屋の中を、どこからもうまく覗けないんだ。幸い に向うの土産物屋の二階が、いい角度になっていると睨ん だ。しかたがないから、名刺を出して見せて頼んでね。そ のくもの巣だらけの物置場へ上げてもらったんだが、双眼 鏡があって大助かりだった。諸内代議士が会っているの は、誰だと思うね」 「さア……」 「持寄りの意見で会議をした時、いろいろの説が出たっけ ね。その一つに、元陸軍少将加東明は、中正党の秘密を握 っていて、そのために中正党のため殺されたんじゃない か、そうしてそれを藤井代議士が嗅ぎつけていたのだろう というのがあったほどだ。が、ともかくも、加東明と事件 とは関係があるという結論だったはずだね。貝原係長がそ   ちゆうしやく れに註 釈を加えて、もちろん関係はないじゃない。しか 」、藤井代議士殺しの直接犯人としては、やはりどうも諸 内代議士じゃ頷けない点があるのだから、その点でゴタク サを起さぬようにしろといっていただろう。まア、こいつ は、もっともだとぼくも思う。藤井代議士の殺人現場か ら、加東明の失踪事件を書いた新聞の切抜きがなくなって いるといっても、その切抜きだけを持ち去っても、新聞に 一旦出た以上、その事実はやはりあったことだと知られて いるから、もはやどうしようもないことで、従って、犯人 がその切抜きを盗むために、藤井代議士を殺しに来たなん てことは考えられない。そのほか、アリバイも、はじめに 洗ったとおり確かだった。常識的にも、中正党の幹部であ る諸内代議士が、自分から手を下して、まき割りの斧を振 ったものとは思われない。けっきょく、何かひどくモタモ タしていて、重大な関係はありながら、直接の犯人ではな さそうだと思われるし、一方で課長が、鋭く指摘していた じゃないか。これは、単純なノビ(窃盗)の品ぶれで、血 のついたトバ(着物)が出てきたために、思いもよらぬコ ロシ(殺人)のホシ(犯人)が出てくる場合に似たものかも 知れない。藤井代議士が殺されたのは大事件だ。しかし、 加東明の線から発展して、もっともっと大きな事件が摘発 されるかも知れないってね。ーどうも、課長の言葉は、 当っているよ。今、諸内代議士のところへ来ているのは、 元陸軍少将の加東明さ」 「えッ!」 「失踪している。生活苦で自殺したのだろう、と思わせて             かくしやく いる。ところがどうして、矍鑠として脂ぎっているんだ。 写真でいくども見ているから、双眼鏡でのぞくと、すぐに わかった。同時に、諸内代議士が変装して三等車でこの田 舎の温泉へなぜ来たかというわけもわかった。加東明に会 うためだったのだ。二人で、はげしい顔つきをして、いが み合いの口論をしている。どっちも一筋縄で行く人間じゃ ない。二人の話を、そばへ行って聞いていたら、とても面                      とくしんじゆつ 白いだろうと思うんだが、双眼鏡はありながら、読唇術を 習っておかなかったのば残念だよ」  若い方の、橋本と呼ばれた刑事が、もうだまっていられ なくなった顔つきだった。 「井口さん。しかし、もういいじゃないですか。どんなこ とを話しているにしろ、加東明がきているってのなら、こ れからすぐ踏んごんで、二人をしょびくことにしてしまっ たら」  といったが、警部補井口民二郎は、例の、ボンヤリした               なだ 目つきで、いきり立つ橋本刑事を宥めている。 「いいよいいよ。意気や甚だ壮とすべし。しかし、その時 期じゃないぜ」 「そうですか、どうしてですか」 「刑訴法が、昔のものとは違ってるんだ。つかまえたら、 こっちでまだ知らなかったことを、容疑者の口から、しゃ べらせるというわけには行かない。このために、人権は擁 護されるというが、同時に、善良な人間の安全も脅かされ ている。-うん、いや、不平をいっている場合じゃない さ。要するに、内偵をうんと進めておかなくちゃいけな い。第一が、諸内と加東とが、どういう利害関係で結びつ いているか、という点だ。そしてそれには、事実をつきと め、証拠を集積しておく。まア、ともかく動静を観望しよ う。大切なのは、加東明が、どこでどんな風にして暮して いるか、それを確かめておくことだな。1そうだ、それ には、君とぼくだけじめ、、手が足りない。君は、東京へ、電 報うってきてくれ。ここは国警だったかね。1だとする と、めんどうかも知れぬが頼んだらいいよ。電話をかけて もらった方が早いだろう。加東明を発見したと知らせて、 応援をたのむのだ。いいかい。うまくやれよ。ぼくは、一 風呂浴びて、お祝いに、ビール一本おごるからね」  そうして警部補は、愉快そうに、若い刑事の肩を叩くの であった。       三                        な  灯ともしごろ、海はうねりが高かったのに、風が凪いで しまったから、気温が急に高くなった。  どこかの団体客がきて、大広間いっぱい騒ぎまわり、流 行歌やおけさや戦時にはやったツンツンレロレロをわめき 立てている。  代議士と加東明とは、浴衣を着てあぐらをかいて、しか しまだ話の折合がつかないでいた。  夕食になり、今夜はビールと日本酒とがチャンポンで、 「な、ア、おい、諸内君。君の方に都合のいいことばかりい っていては困るじゃないか。悪くすると、君は、殺人の嫌 疑をうけるところだぜ。藤井代議士の話は、わしも田舎に いながら、新聞を読んで知っていた。わしが生き証人にな って出て、全面的に事実を証言するとしたら、中正党も何 もありゃしない。つまりわしが代って、藤非代議士のやり たいと思っていたことがやれるわけだよ。1一方でわし の失踪は、秘密を握っていたわしを、君たちが殺したのだ ともすることができるし、どっち道、ろくな事はないにき まっているだろう。まア、ゆっくり考えたまえ。わしも、       もうろく まだまだそう耄碌はしておらん。親からもらった名前を捨 て、赤の他人の引揚者になりすまして、君に送ってもらう けちな金でおとなしく田舎に引っこんではいるが、大義名 分のためとあれば、いつでも身を捨てて立つつもりだよ。 どうだい、今の政治はなっとらんね。線の太い、ガッシリ した人物がいなくなってしまったのかな。要するに、思い 切った手をうたなくちゃいかんよ。その手をうつ勇気がな いから、わしも中正党に、あいそをつかしているところ だ。魚心に水心ともいう。ここでまちがったことをするの だったら、天下にわしは公表するよ。その方が大義名分論 からは正しいとも言える。ウフ、ウフ、ウフフフ、まア、 結論は今夜に限るまい。ぼくと君とで、納得のいくまで話 すことだな。君の奥さんみたいなべっぴんを、その間わし   あつせん に、斡旋してくれても悪くはないぜ」                       うちわ  老人加東明は、いまは客のとりなしで横から団扇の風 を送っている女を、ジロジロ眺めて、言いたいほうだいの ことを言っているのであった。  さすがの諸内達也が、蛇の前の蛙のようなものであっ た。  国会では、痛烈な野次の名人であり、また蛮勇家として                   こうがんむ ち 知られているし、政治的裏面工作には、厚顔無恥であると ともに奇策縦横、ある場合になくてはならぬ人物とされて いて、しかも、この老廃将軍加東明の前では、額に怒りの 青筋を立て、唇を固く喰いしばり、時にわざと磊落な笑い 声を立て、ただ握りしめた膝のこぶしを、ブルブルとふる わせているだけであった。  加東明が、盃をチビチビとなめながら、顔をのぞいた。 「イヤ、しかし、酔いすぎたかな、久しぶりで、美人を見 たから、虫が起って困りよる。貴公、わしの言ったこと で、腹を立てているのじゃあるまいな」  代議士は、額の汗をふいていた。 「腹を立てはせんさ。君ぐらいの代物は、いつも扱いつけ ているよ。アハ、アハ、アハハハ……」 「そうか。よろしい。怒気心頭に発するというやつは、え てして間違いのもとだからな。怒るのは、けっきょく損に なるよ。どうだ、長いこと聞かなかった、君のお得意を一 つ聞かせろ。わしも、白頭山ぶしをやろう。そりゃ、テン ツルシャン:::」  立って踊ろうとして、腰がきまらずによろけると、女の 肩を抱くようにしてドタリと坐って、 「ああ、奥さん。逃げんでもよかろう。いっぺんでよろし い。キスして下さい。え、どうじゃ。わしは、諸内君と、 たった一つしか年はちがわんですよ」      から  うるさく絡みついてきた。  諸内代議士が、ピクリと眉をうこかした。  彼も今夜は、立てつづけにビールを六七本飲んでいる。  立ち上ると、加東明の繃帯で吊った腕をつかんだ。 「オッ! どうするのだ。諸内君……」 「どうもしやせん。ここじゃ、話がしにくいことがある。 君の喜ぶようにしてやりたい」 「『へえ……」 「ちょっと、海岸の方でも歩いて来よう。歩きながら話す から」  言いながら、女を見る目つきが、しかたがない、がまん しろ、といっているようである。加東明は、ニヤニヤしだ した。 「よろしい。大いによろしい、海岸へでもどこへでも行く よ」  といって、ようやく、女の肩から手をはなした。  真実酔っているらしく、加東明は足がフラフラしてい て、宿の階段を下りるのに、諸内代議士が、それを抱きさ さえねばならなかった。  宿の玄関へ出た。  女中と番頭が、 「あ、あぶない!」  と、よろけた加東明を、両側から抱きとめたのを、諸内 達也は、眼の底でキラリと眺めて、唇で笑った。 「威張っても、昔ほどじゃなくなったね。あれ位の酒で」  「イヤ、大丈夫。酔ってはおらんよ、ウム、いい気分だ。 君の友情を信頼する……」  加東明は、無意味なことをいって、そのとたんに、女中 のそろえた下駄の上へ、またペタンと尻餅をついた。  番頭が、気をもんで、代議士にいった。 「これじゃ、あぶないですよ。御散歩はお止めになって、 もうお休みになったら……」 「うん、心配せんでよろしい。わしがついているから」 「でも、お気をつけなすって。道が向うで、二つにわかれ ております。そこを右へ行くと崖の上へ出てしまいますか ら、左へいらっしゃらないといけませんよ」 「よしよし、わかった」  代議士は、大きくうなずいて、見送りに出た女の顔をふ りかえり、なに、安心していろ、と目くばせをしている。  外へ出ると、間もなく海鳴りの音が聞えだした。  少し歩き、代議士が、どういうつもりか、通行人に聞え るほどの大声で、 「オーイ、番頭さん、右だったな。左へ行くとだめだった んだな」  どなるようにくりかえして言い、しかし、もう宿からは 離れたので番頭の返事は聞えて来ない。代りに加東明が、 「右せんか左せんか、左派と右派との問題じゃよ。面白い。 話はわかっとる。あの女を、わしに一晩、貸してくれると いうんじゃろう。気に入った。酔いをさます必要がある。 君には、まことに相すまんな。わしのために女をつれてき てくれたとわかっているのだ。ええ女だ。掘出しものだな。 一晩だけでなく、わしのところへ置いて行ったら、まだま だ我輩、君のために、大いに役に立ってやるよ」  悦に入ってしゃべりだした。  星が輝いていて、月は見えないが、わりに明るい。  しかし、外へ出ても、風が死んでいて、空気が重く暑く のしかかってきた。  じきに、道が二つにわかれた。  海へ向って、石の記念碑のようなものが立てられてい た。 「うん、ここだな。番頭が左へ行くとあぶないといった ね」  代議士が、用心ぶかい口調で言い、加東明は、怪我をし ていない腕で代議士にぶら下がりながら、 「うむ、そうだったろう。どっちでもいい。ー今夜は愉    こぎゆう 快だ。故旧来りて燭をとりて遊ぶ、また楽しからずやだ」  とわめき、それからテンツルシャンと歌いだした。  右は、絶壁への道である。  はるかに足の下で、波が岸を打っていた。  自動車は通るのであろう。片側にコンクリートの低い車 止めが、ところどころ作ってあった。  生酔いの本性違わず、加東明が、 「オヤオヤ、道を間違ったな」  と言い、諸内代議士は、 「そうだ。間違ったのさ。間違いはどこにでもあるものさ。 ま、あそこへ腰かけよう。海の風に吹かれた方がいい」  平然たる顔で答えたが、その声には、かすかな顫えがま じっているようであった。 「どうだ、加東君。ここで一つ、話をハッキリときめてし まおうか」 「なんだい。女の話じゃないのか」 「いいや、それは、話をきめてからのことだ。急ぐことは ないだろう。どうせ君に提供するつもりで、ここまでやっ とつれてきたのだ」 「よかろう。それなら、話になる。やはり君はわかる男 さ」  ドシンと、代議士の肩を叩こうとして、上体がぐらりと ゆれたから、加東明は、コンクリの車止めにしがみつい た。 「あぶないな。どこか、よそへ行こう」  と、酔いがさめたようである。 「まア、しかし、聞いてくれ」  と代議士は、腰を上げずに、宿から手に持ったなりでき た葉巻を投げた。闇の海へ、吸われるように、葉巻はおち て行った。 「わしはね、これで大野心を持っているよ」 「そうだろうな。君は野心家さ。また、将来は大臣になる 器だ。おだてるのじゃないけれどね」 「ありがとう。そう見てくれれば感謝する。が、ともかく 困ってしまっている。藤井代議士を、甘く見て買収にかか ったのが失敗のもとだった。悪い時には悪いことが重なっ た。その藤井が殺された上に、買収費を盗んだやつがあ る。おかげで、買収工作が明るみに出てしまった。もちろ ん、警察で、わしを藤井殺しの犯人として疑うのは、とん だ薮睨みで平気だが、附随してこっちの痛い腹まで見抜か れそうになったのは閉口だ。ここを、事無くしてすませた ら、わしは大臣にしてもらう約束だし、でないと、わしの 大臣ぱおろか、政界のお歴々が芋蔓で引っぽられるという ことになるのだ。これは、個人的な利害でなくて、国家と しても損害だよ。内外に信を失う。今後の政治が、ますま すやりにくくなる。そこで君に、さっきからいっている通 りだ。意を決し断行してもらいたいというわけだ」 「いやだね」 「いやでも、やってもらいたいのだ。ほかの工作はやって ある。買収は、わしがどこまでも白を切るし、証拠は、い ざという時、完全に湮滅する手筈が整っている。心配なの は君のことだ。警察が、君の失踪事件を、また調査にかか りはじめた。君がつかまったら、もうどうにも方策がつか ない。そこで一方、君の希望するところへ、渡りをつけて やれるだろう。中共でも国府でも、お望み次第というわけ だ。そこへ行って君は大将軍になるだろう。りっぱな将軍 だ。引揚者の漢学者で田舎にくすぶっているよりは、まだ 一花咲かせる時期がくるのだよ。どうだ、これでもう、二 度とは言わない。最後の返事を聞こうじゃないか。否か応 か……」 「いやだi」 実にす早かった。返事をした曦諸内代議士の腕は・ぐ鞠 んと力をこめて加東明の胸をつき、加東明は、 「あッ!」  叫んだまま、クルリと足を上に向けて、車止めの外側 へ、転落したのであった。  近くで見ていても止めるひまがなかっただろう。  加東明は、絶壁へ呑まれてしまった。  そうして諸内代議士は、ぶるっと身をふるわして、車止 めをはなれ、じっと海鳴りに耳を傾けたが、すぐに気づい た風で、宿への道を駈け戻ろうとした。  その時、ふいに、ぬっと道の上へ出てきた二人の男があ った。  代議士はそれを、ただの通行人と思ったのにちがいな い。 「ああ、たいへんだ。友人が、酔っていて、海へ落ちてし まった!」  と、彼等に向って叫んだ。  しかし、その二人は、通行人ではない。たちまち代議士 の両腕を、鉄の機械のような力でしめあげてしまった。 「オイ、バカなことするな。わしは代議士だぞ!」 「知っていますよ。汽車の中から、もう知っていたので す、それに、御友人は、落ちたのじゃありませんね。あな たがつき落したのですね」 「えッ!」 「見ていましたよ。だしぬけで、びっくりしました。まさ か、そんなことをするとは思わなかったのです。ああ、そ う、あばれないで下さい。あばれると、手首を痛めるだけ でしょうね。ーイヤ、こちらも、後悔しています。風呂 場で、絶壁の自殺者の話をしたのがいけなかったのです な。ぼくらには、よくわからなかったのです。もしかした ら、あなたが自殺でも企てるのじゃないかと思い、一本釘 をさしたつもりでしてね」 「き、きみは、それでは……」 「そうですよ。気がつきませんでしたか。東京からごいっ しょしたんですよ。ともかく、諸内さん、ほかの点は別と しておいて、加東明殺害の現行犯として、あなたを逮捕し ますからね。あなたは代議士だから、これまでの苦心も、 並たいていじゃありませんでしたよ」  頭が薄っばげになった井口警部補は、おちついている。 しかし、ふりむいて橋本刑事に、 「加東明を死なせたくなかったな。うん、万一にも助かる かも知れん。今夜のうちに、死体捜査、または救助の方法 を立てるのだ。おれはこれから宿へ帰って、女の方をつか まえておく。いそがしいそ! 君は、もういっぺん、東京 へ電話だ。大体のことを知らせておけ。但し、絶対に外部 には秘密だということを念を押して断わっておけ。場合に ょると、事件は二課と協力しなくちゃならない。しかし、 外部へ洩れて諸内代議士が逮捕されたと知れたら、証拠書 類など、全部焼かれてしまうだろうからな。しっかりやる んだ。さア、急げ!」 火の出る口調で命令した。  諸内代議士は、うめき声を立てた。  そうして首を人形のようにガクリと垂れてしまった。 崩壊のはじまり 一 笠原昇は、今日午前中、久しぶりで学校へ出たが、午後 の講義はサボルことにしてあった。そうして校門の前でタ クシーを拾うと、すぐに銀座裏の喫茶店マロニエへかけつ けた。  腕時計を見ると、午後一時になろうとしている。 「予定どおりだ。十五分待たせた」  口のうちで呟いたが、彼は時間に対して非常に正確であ る。毎朝、洗顔をして歯ブラシを使う間に、その日の時間 表を頭の中でキチンとつくった。知識の修得に何時間、社 交事務思索にそれぞれ何時間、食事衛生健康のために何時 間、そして娯楽に何時間といったぐあいである。結果とし て、食事の時間と社交の時間が重なったり、娯楽が同時に 事務の一部になったりすると、時間はそれだけ節約された わけで、それを彼は、彼独特の言葉で、『時間の利子』また     じようよ は『生命剰余』と呼んでいたが、つまりそれは、そのよう にして余った時間は、時間の儲けだとも考えられるし、ま た反対に、生命のむだな延長だという意味でもあろう。彼 は人生を、肉体の成育充実のための二十年は別として、あ とはしかし、真にむだのない必要な時間というものが、十 年とはないのだと計算したことがあった。十年の時間を、 せいいっぽいに生かして使うと、人間の力で成し得る限界 まで達する。天才や偉人というものは、そのせいいっぽい の充実した時間が、若い時から老年まで続く人のことで、 平凡人は逆にその十年または十年以下をだらだらと五十年 も八十年もかかって充実するのだ、というのである。時間 は貴重であり、絶対に逆行せず、取返しのつかないもので あった。そうして今日は、女とマロニエで零時四十五分に 会う約束にしてあり、しかし自分は十五分遅れて行って、 女をいらいらさせてやろうという予定だった。女は、待た せた方がいい女と、待っていた方がいい女と二種類ある。 今日の女は、待たせるべき女だと考えたのであった。  女は、果して瞳に、喜悦の色を輝かせた。  可愛いいフロント・レースのついた純白のブラウスに、 水色のタイト・スカートがよく似合っている。しかし、待 っている十五分が、不安で泣きたいくらいだったのだろ う。そこへ、今日は学生服の笠原昇がきたのである。この 女は、二日前に笠原のつくった企業会社の社長秘書募集に 応募してきて、即座に採用と決定したのであった。その時 に、R市の資産家の娘で東京へ出て、伯母さんの家から語 学校へ通っているのだといった。働らきたくて、笠原の会 社へきたということであったが、一眼で笠原はこの女が、 自分の自由になるのだとわかってしまった。社長の女秘書 になるということは冒険である。その冒険への期待が、は じめから女の肌の下に燃えている。もしかしたら、もう処 女ではないかも知れず、しかしそうであっても、べつに困 ることはなかった。笠原は、金のことを、身体で結びつい た女に任せるのがいちばんだと知り、それには、教養もあ り利口そうであるこの女が適当だと考えたのであった。  女には、アイスクリームを食べさせ、笠原は、甘味の少 ないシャーベットをとった。  そのあとで、 「実はね、予定が少し狂ったのだよ」 「そうですか」 「ここで会う約束をした男が、関西旅行で来られないと電 話してよこした。それにぼくは食事前で、君に食事をつき あってもらうことにする。会計を、君に任せたいし、その 話を、誰にも聞かれないところで、君に説明しておきたい からね」  女を、神楽坂の待合へつれて行くつもりだった。そうい っておいて、反応を見ている。女は、おとなしくうなず き、笠原の言葉を聞く間、食べかけたアイスクリームの スプーンを、動かさずじっと手にもったままでいたが、指 が、こまかくふるえだしたようだった。爪にはマニキュア がしてなくて、きれいに剪りそろえてあった。指は、精巧 な大理石の彫刻のようで、手の甲の指のつけ根に、えく ぼに似た小さなへこみがついている。この指を五本そろえ て、ギュッと力を入れて締めつけられたら、と考えて笠原 の頭は、痺れるような快感にうずき、急にはげしい情慾が わいてきた。 「まだ、なにかーコーヒーは?」 「いいえ、もう……」 「じゃ、行こう。少し、銀座を歩いてから」  銀座が好きなのではなかった。慾望の達せられる時を延 ばして、更に慾望を刺激するのが楽しみだったのである。 歩いているうち、洋品店へはいった。そして、銀のブロー チを買って女に与えた。 「これから、いろいろの人に会うからね、美しくしていた 方がいいのだよ。君の服も、会社の伝票で作ってあげる。 社員の服装買うのも、事務所の備品買うのも、同じ借方勘 定にはいるようなやり方をぼくはやるのだから」  そっと耳へ囁いて、その時、肩を抱きよせるようにする と、女も少しこちらへ、身をすりょせてくるのが感じられ た。  世の中は、自分の思うがままになると考えられる。自信 に充ち、才能にあふれ、そして街を歩いている人間の顔 が、間抜けと低能ばかりに見えてきた。  神楽坂の待合今花は、笠原がある実業家の夫人につれら れて行って、それ以来顔馴染みになった待合である。行っ てみると、昼のことでほかに客はなく、しかし、風呂がわ いているのだという。何もかもが、あつらえ向きだった。 ここでも彼は、万能を信じた。恐れるものは何もない。こ れから、娯楽と衛生との時間を少しばかり費やす。そのあ とで、淀橋の事務所へ行って、高橋と平川との報告をう け、また彼等に指令をあたえる。企業は、組織や形態だけ ができても、資本をうんと掻き集める必要があった。出資 は、一口一万円から月一割の配当にする。そうしたら、学 生の父兄や、家作持ちの未亡人や、貯金をちびちびため た教員や官吏が高利貸しという悪名をこっちにおしかぶせ ておいて、その実一年で元金を、二倍以上にふやすことが できるのだから、喜び進んで出資する気になるだろう。学 生だけでやる事業だから、信用されることも請合いで、あ る程度まで出資者がふえてきたら、事業はもうゆるぎがな い。問題は、その最初の出資者である。それを平川と高橋 とに命じておいた。手はじめに、彼等の学友の家庭を訪問 させる。教授の家も結構である。そうして、銀行利子や郵 便貯金の利子と比較させ、ためしに一万円ぐらい出させて みる。月末ごとに、キチンと一割の利子を届けたら、半年 目に、出資を二倍にしたい、三倍にしたいと申込んでくる にちがいない。きっとうまく行くにきまっている。貸しっ け総額千万円となったら、利鞘が月に二百万円だから、ど んなぜいたくをしても使い切ることなんてできやしない。 いや、むだ使いするのでなくて、その二百万円も利子に利 子を生んで行くから、ついに会社の財産は、一億円、また はそれを突破するという時が来ないでもない。世界でもま だ類のない学生財閥というものが出現するではないか  女中が来て、お料理の出る前、お風呂にはいったらいか がです、とすすめた。 「そうだね。汗を流した方がサッパリするな。君はど う?.」  と女にきくと、 「いえ、あたし、けっこうですわ」  女中の視線を、避けるようにして女は答えている。  女中は、目くばせして笠原を、廊下へ呼びだした。 「どうなさるの。お食事だけでよろしい(ソ・」 「ちがうよ。気をきかしてくれなくっちゃ……」 「わかってますよ。じゃ、あちらのお部屋へ支度しておき ますから」 「たのむ。それから、寝具香水を忘れないようにしておい てね」                      よみがえ  ふいに、ある淫蕩な場面の追憶が、胸のうちに蘇って きた。彼をこの待合へつれてきた実業家夫人は、香水の匂 いがむせかえるほどの部屋へはいると、酔っていたせいも あるけれど、冬の寒い夜だったのに、身につけていたもの 全部を急に脱ぎすてて、ねえ、ダンスしましょうよ、と笠 原にからみついたことがあった。奇怪なダンスで、さすが の笠原でも、経験したことがないようなものだった。実業         どんらノん 家夫人は、大胆で貪婪で、いつまででも踊りつづけた。ダ ンスの得意なはずの笠原が、でくの棒のようにぶきっちょ になり、そのせまい部屋の中を、むやみやたらと引っばり 廻され、その間の強い刺戟のため、精神も体も狂人のよう に日叩奮し奴隷のように疲れ果てた。それでも実業家夫人 は、まだ笠原を許そうとせず、丸くて白い両腕の間へ挟み こんだ笠原の首を、昆虫を殺す子供と同じ残忍さで、ギュ ッと力いっぱい捻じ廻したり、ずっしり重量のある自分の 体を、そのまま笠原にもたせかけておいて、無理なアクロ バットのような姿勢をとったりしたが、それを笠原は思い 出したのであった。 「しかし、あの語学校の生徒の女秘書では、そんなでたら   ふ さ めは相応わしくない!」  笠原は頭をふり、その妄念を、汗といっしょに洗いおと すため、廊下へ出たついでに風呂場へ行ったが、ここでも 彼は、ひどく満足な気持であった。水泳が少しできるだけ で、とくべつなスポーツはやらないが、常にまことに健康 である。若さに十分恵まれている。ほかのアルバイト学生 ときたら、汗臭くて垢だらけによごれているか、でなかっ たら、ろくにうまいものも食べないから、皮膚もしなびて 痩せてしまって、レントゲンで肺がやられたとわかってい ながら、青い顔をしてノートにかじりつき、学校を卒業す る前に、体の方がだめになってしまいそうなのが、ざらに ある。ところが、笠原は違うのである。新鮮な血液が、い つも元気よく体内をかけめぐっていた。しなやかで弾力の ある皮膚は、新陳代謝の機能が盛んであり、内臓はよく食 物を消化し、頭脳は明敏に濃刺として活躍してくれた。自 分の人生は、アメリカで作った最大最新式の飛行機のよう に、これから悠々として、地上を睥睨しつつ、陽光を浴 び、光彩を放ち、どこかの新しい空へ飛んで行く気がす る。何がきても心配はない。どんなことでもたちまち明快 に処理してしまう。そして慾望は、科学的に可能なもので ある限り、いつでも即座に達し得るようになるのである。 そうだ、その幸福を、自分だけではない、他人にわけてや ることだって、できるだろう。それは、楽しいことかも知 れない。平川や高橋は、自分を神様のように思うだろう。 いや、平川や高橋より、さしずめ、今日の女である。あの 女は、まだ十分に、おれの力を知らないでいる。清潔で利 口そうで役に立ちそうな女だから、ほんとに可愛がっても よい。あの女に、第一の幸福をわけてやろうか知ら。抱い でキスしたら、そのあとで将来のことを話してみよう。あ の女は、おれのために、命を捨てても惜しくないと思うに ちがいないのだー。  彼は、つめたいシャワアで、石鹸の泡を気持よく流し た。  そして、女中の出しておいてくれた糊のきいた浴衣を着 で、もとの部屋へもどってきた。  しかし、こうして彼が自由気ままな空想をしながら入浴 している間に、実は同じこの待合へ、一人の新しい客がき でいたことを、彼はまったく知らなかったのである。  その男は、花模様を染めだしたアロハを着ていたから、 一見して街の与太者風だったが、顔は蒼白く細面で眼つき におちつきがあり、へんになにかヒヤリとする、つめたい 感じをあたえる男だった。  今花では、顔なじみのない客であるが、ズイとはいっ て、部屋は空いてるね、厄介になるよ、といったきり、も う靴をぬいでしまっていたから、女中が断わりたいと思い つつも気押された感じで、そのまま上げてしまったほどだ った。その時に、 「あとから、連れがくるのだよ。石川さんだ。知っている ね」  と、眼もとで笑って女中にいったが、石川などという名 前は、どこにでもあるのである。女中は、おなじみの客 を、あれかこれかと考えてみて、べつにハッキリした心当 りがないながら、では、そういう客がいたのであろうと思 ってしまったが、あとで思うと、男はただその場しのぎの 口実でそんなことをいったのである。  お通しものは、連れがきてからでいい、といった。そし て、茶をガブリと飲むと立ち上り、部屋の作りや庭を眺め         ふ しん て、なかなかいい普請だね、とお世辞のようなことを言 い、ふいに高く澄んだ口笛で流行歌の一節を鳴らしたが、 これはやはりあとで思うと、ちゃんとした目的があって鳴 らした口笛だったのである。  連れの『石川さん』は、なかなか来なかった。そうして この間に笠原は、相変らず何も気がつかなかった。  女が、 「いやー・よして……」  思いもよらず抵抗したのは、香水の匂いがする部屋へ行 ってから、襖をしめるかしめないかに笠原が、抱きよせて 接吻をしようとした時であった。  抵抗しても、笠原は、女を抱いた腕をゆるめなかった。  女がはげしくもがいたので、何かガチャンと金属性の音 がしたし、三尺の床の間がつくってある、その床柱まで二 人ともよろけて行ったが、ついに長いうち息をつめて唇を 重ねていると、次第に女の体からは力がぬけ、うっとりと 眼を閉じていると思ったから、 「ね、いいだろう。ぼくは、君の持っているもの、みんな 欲しくなったんだ。君は、素敵だよ。さア、……」  また唇を吸いながら、片手を女のスカートへまわした が、とたんに女は、 「あれえ! 誰か来てえ! だめよオ!」  スカートがピリッと音を立てて裂けるのもかまわず、笠 原の胸を飛びはなれ、咽喉いっぱいの鋭い悲鳴をあげたの であった。  笠原は、驚くというよりは、一瞬へんな気持がした。  この女が、こんなにも手ごわく彼を拒否するなんて、有 り得ぬことだった。どんな女でも、こういうことはなかっ た。口では、いやだといったり、誰か人が来るから困ると いったり、そのくせ、声は甘くやさしく囁くようで、その 声と言葉を聞くだけでも、感情が熱く快く昂奮するのに、 これは、まったく違った種類の声と言葉であった。男を侮 蔑し嫌忌し憎悪して、火事を見つけた時のように、ただけ たたましく叫ぶのである。なにか喰い違いが起っている。 しかもそれは、どうしてそうなったのかわからない。笠原 は、頭の中ヘポカンと穴があいたような感じで、狼狽し腹 立たしくなり、呆然として部屋の隅に立ちすくんだが、す るとその時、廊下からの襖がサッとあいた。  そうして、笠原とは一面識もない、あのアロハを着た男 が、 「フン、ここの部屋か……」  ひどくゆっくり言いながら、部屋のうちへはいってきて しまった。                  ちんにゅうしゃ  あまりに不意うちで、笠原は、この闖入者に対し自分の 身を守るだけの体勢を整える余裕がなかった。 「知っているぞ。こんなことをやるんじゃないかと思って いたんだ。お前は、色魔で学生高利貸しの笠原だろう。他 人の女を、貴様はおもちゃにしやがったなー」  その言葉といっしょに、顔へ火の出るような平手打ちが ピシャリときたから、肩が壁ヘドシンとぶつかり、はじめ てその時に、これは罠であったと気がついた。こっちは知 らなかったが、女の方では、予定してあったのにちがいな い。もしかすると、喫茶店マロニエから、この男は、もう あとをつけてきたのであろう。時期を待っていた。そうし て、のっぴきさせず、弁明のできない場面へ来て、笠原を ゆすろうとしているのである。 「おれはね、知っといてもらおうぜ。錨のテニイだよ」 「えッ!」 「文句をいってもはじまらないさ。小切手書くんだね。い やだってなら、書かたくてもいいが、アッサリ片づけてし 」 拶 ♂ まいたいからね」  錨のテニイというのは、不良学生の間で、猛獣のように 恐れられている男だった。この男に睨まれたら身動きもで ぎなくなる。もとは江田島の兵学校を卒業した男で、海軍 中尉だったというから、学生時代は秀才だったのだろう。 復員して、自暴自棄になり、すっかりと身を持ち崩した。 度胸があり教養があり、正確な発音で外人との会話が自由 である。だから、生えぬきの与太者でもテニイには一目お いている。女には、そういう男のヒモがついていたこと を、不覚にも笠原は全然気がつかないでいたのである。  どうにも、しかたがなかった。  笠原の智能も弁舌も、今度ばかりは無力だった。法律で ば、笠原の方に理があるのだろう。しかし、それは恥の上 .塗りをすることだった。それにテニイは、ある程度まで笠 原のやりかけた事業のことを知っている口ぶりだった。そ れへ割りこまれたら、ぜったいぜつめいである。学生財閥 の夢は、一気に消し飛んでしまうのである。  女がテニイのポケットからたばこを取って、うまそうに 煙を吐きだし、テニイはつめたく、笑って、 「みっともないね。スヵート、社長さんから買ってもらう んだね」  といった。  怒りが、全身をゆすぶる。  しかし、ついに笠原は、小切手を書かされてしまった。  金額は三万円だった。 「それ以上、ぼくは出せないよ。不服だったら、やぶいて しまってもいい。小切手でなくて、命のやりとりだってや ってみてもいいね」  その時になって、急に笠原はがむしゃらな勇気がわき、 真実テニイと決闘してもいいような気持になったが、テニ イはこっちより上手で、ニコリと眼もとを笑わせた。そし て、 「おっと、君が、強いのは知っているさ。だから、三万円 で手を引くぜ。ありがとう」  と流行のアクセントでいった。  笠原は、みじめである。  唇をふるわせ、しかし、それ以上には、何も言えなくな ってしまった。 二  平川洋一郎が、古着屋で買ったのだけれど、ともかく寸 法の合う白麻の背広を着て、ちょっと気取った姿勢で立ち どまり、ミネルバ企業倶楽部と書かれた新しい看板を見上 げてから、天井の低い事務所の中へはいると、 「オッ、帰ったね。tどうしたんだい、やに張りきった 顔をしているぜ。何かバクイことでもあったの?」  と、高橋勇が、デスクから顔をあげた。 「うん、面白いところへ行ってきたんだ」 「へえ……」 「出資者勧誘が、ぼくはあまり成績がよくない。社長が機 嫌が悪いから、いろいろ思案したんだが、ふっと思いつい たのが高須の家だよ」 「高須って? ……」 「君が忘れるはずはないだろう。池袋の銀行支店長の家 じゃないか」  そう言われて、高橋は、眼を丸くしている。それは強盗 にはいった家だった。今では思い出すのがいやなくらいで ある。五人の仲間だけの絶対の秘密で、それをしかし平川 が、なんと思って面白いところなどといっているのだろ う。彼は、ふりむいて、事務所のうちを見まわした。少年 給仕を一人やとい、煮炊きや掃除のための女が、きのうか ら通いでやってきている。話を聞かれたら、ぐあいが悪い と考えたのであった。 「びっくりしてるんだね」 「うん。じょうだんじゃないよ」 「じょうだんなもんか。ほんとに行ってきたんだよ。そし で大成功だよ。アハハハ」  平川は、笑いとばしてから、たばこに火をつけ、声を小 さくした。 「あの家はね、園江がアテをつけてきて手引きしたのだっ たろう。ぼくは、園江のことが、なんだかまだ気になって いてね」 「ああ、それは、ぼくも同じさ。こないだ藤井がきた。藤 井も、やに園江のこと気にしていたっけ。社長に、園江の こと訊いてたろう。どういうものか、みんなで園江のこ と、気にしてばかりいるんだからね」 「そうなんだ。二度目んのやりそくなってヤバクなって、 その時から園江はいなくなってしまった。そうして、いつ も頭の隅っこに、園江のことがからみついているみたいで へんなんだが、ぼくは、そうやって園江のこと考えてるう ちに、そうだ、あの池袋の高須っていう支店長は、銀行の 金の不正貸付で、ボロイ儲けをしているんだってこと、思 いだしたんだよ」 「ああ、そうか。そうだったね。それで、金があるだろう ってこと、園江が目をつけてきたんだよ。銀行の金で、こ の、ミネルバ倶楽部と同じことをやっていたんだ」 「わかったろう。だから、ぼく訪ねて行ってみたんだよ。 息子がいて、こいつは、園江と友だちだが、くそまじめな 奴だ。しかし、もしかしたら、園江のこと、知ってないか って、訪ねてみたんだ」 「うまい口実だね。怪しまれなかったかい」 「ぜんぜんだl」 「へえl」 「息子の行夫ってのはいなかったよ。怖かったのは、行夫 の妹のーそら、あの時にヤッパでおどして腕を縛りあげ たろう。あの妹がいやがって、ジロッとこっちの顔を見た 時だが、けっきょくあの晩の強盗ががぼくたちだなんてこ と考えるはずはありゃしないさ。ぼくは、行夫のおやじに 会ったよ。園江のことから話しはじめて、学生のバイト でミネルバ倶楽部をはじめたってこと話してやったのさ。 おやじ、すぐに膝を乗りだしてきたよ。ひどく学生に同情 したような口っぷりでね、ぼくを大いに激励するんだ。そ して、事業を助けてやろうと恩に着せて、さしずめ、二十 口分だけ出資するってことになったんだよ。どうだい、う まいだろう。あいつは、欲が深い。深いだけに、それにま た、自分でやってみて儲けた経験があるだけに、こういう 話にはすぐと乗ってくるのだ。まだ、三十口でも五十口で も、あのおやじからなら引出せるよ」  平川は、ますます張り切っている。  そして、社長笠原がやってくるのを、しきりに待ちわび る風であったが、その時、 「新聞の広告で見ましたが……」  といって、五十がらみの目の小さい商人ていの男がはい ってきた。  平川が応対すると、広告には、企業出資の相談に応ずる とあるが、自分は約束手形を出してあって、それをおとせ なくて困っている。一週間だけ金融してくれぬかという話 である。平川も高橋も、心の中でほくそ笑んだ。企業出資 はどうでもいい。金融が目的で、こういう客が目あてであ る。よろしい、と平川は快諾した。所番地を帳簿に記入 し、明日午前こちらから相談に出向くからといって帰して やった。  事業は順調に進むらしい。希望が、明るくわいてくるの であった。  おどろいたのは、しかし、それからしばらくして、待っ ていた笠原がやってきた時、笠原が、ひどく不機嫌だった ことである。  彼は、来るといきなり社長のデスクに、高橋が読みかけ の雑誌をのせておいたのに目をつけ、それをくしゃくしゃ にまるめて、床へ投げつけた。それから、ドシンと椅子へ 腰をおろすと、帳簿を引っぽりだしてあけて見て、記入が 乱雑で、なっていない、と小言をいった。  変だぞ、と平川も高橋も気がついた。  そして平川が、恐る恐る二十口分の出資者について報告 した。 「二十口は、つまり二十万円だね」 「そうだよ。やっと、そこまで説き伏せたんだ。今までの 出資では最大だよ」 「そうかも知れんね。しかし、平川君。このくらいのこと で、そう得意そうな手柄顔をしていたんじゃ困ると思う な」 「うん、そりゃ、なにも手柄顔するってのじゃないけれど …・:」 「二十万円は、フルに一ヵ月運転して六万円の儲けだか                    り ざや ら、出資者への一割を差引くと、四万円の利鞘だろう。と ころが、四万円じゃ、一ヵ月の自動車賃も出はしないぜ。 ぼくは、運転資金二百万円になってやっと息がつけるだろ うと思っているんだ。第一期目標を二百万円にして、その 次は一千万円が目標さ。最低一千万円まで行かなかった ら、人から悪口言われるこんな商売、やってみたっては じまらないじゃないか。二十口は、自慢になんかならない よ。相手は銀行家だろう、ぼくだったら、そんな個人から でなくて、銀行の金を借り出すように話を進めるよ。そ うすれば、こっちの利鞘は、うんと割がよくなるんだ。 まア、頭をもっと働かせるんだね。第一、二十万円の現金 を、見てからじゃなくちゃ、話にならんよ」  ムッとして平川は、笠原を殴りつけてやりたくなり、や っとそれでも、がまんしたくらいであった。  笠原自身、不愉快でたまらないのは、待合今花での失敗 が、彼の自負心をすっかりと傷つけていたからである。思 いだすと、また新しく口惜しさの念が燃えあがってきた。 いつもに似ず、ひどいドジをふんでしまった。女を、語学 校の女生徒だと信じこんでいたのからして間違いだった が、男の脅迫に対しても、ただ意気地なく屈服しただけ で、手も足も出せなかった。この不面目なぶざまな愚劣な 見苦しい醜態は、誰にも話せないことである。その上、ミ ネルバ倶楽部発足の第一歩で、こんなことが起ったのは、   わる 何か凶いことの起る前兆のような気がしないでもない。い や、前兆なんて、理論的には、あるはずのないものだろ う。が、そういう理論が、果して真実か否か、科学的に証 明する手段が完成しているのであろうか。                 からだじゆう  考えていると、彼は頭が痛くなり、躯中に汗がふきだ してくるようだった。  平川や高橋の顔を見るのもいやで、こじれた気持は、ど うにも動きがつかないのであった。  だしぬけに、彼のこの気持を転換させたのは、会社の前 へ、自動車がきてとまったからである。  笠原は、ドキッと胸をおどらして椅子を立った。  自動車から降りてきたのは、貴美子未亡人と友杉成人で ある。笠原には、友杉の姿が、はじめは目にはいらないく らいだった。未亡人は、今日は極めて簡単なディナー・ド レスで、顔が青く、眼が不安にまたたいている。しかし笠 原には、なにか光がそこへ歩いてくるように思えた。 「ああ、友杉さん。どうしたのですか」  と高橋がまっさきにいったので、友杉が答えた。 「有吉君のことですよ。有吉君、ここへ来ませんでした か」 「いえ……」  友杉の顔に、すぐ困ったという表情がわいた。笠原が、 未亡人をチラリと眺め、しかし視線を避けるようにして友 杉に訊いた。 「有吉君は、あの時っきり、来たことがありませんよ。何 か起ったんですか」 「有吉君が、家を飛び出したらしいのです」 「ほう」 「ここへ来たのかと思ったんです。二日ほど前に、平川君 たちもすすめたのだから、会社へ入って働きたいと言い出. しましたが、それにはぼくが不賛成だったのです。有吉君 は、じゃ、よしにするといっていましたが、今朝、珍らしく 学校へ行くといって出かけ、しかし、女中さんが部屋へ洗 濯物を探しに行ったら、書置きのようなものが残してある のを見つけたのです」  友杉は、とちゅうで、詳しく話してもいいのかどうか と、眼で未亡人に相談したが、未亡人は、自分で話しだし た。 「いえ、書置きだかどうだか、ハッキリしません。でも、 ノートを一枚やぶいて、そのまん中に、お母さん、友杉さ ん、ぼくが悪いのです。すみませんーて書いてあるの。 あたし、読んでいる手が、ブルブルふるえてきました。学 校へ電話をかけてみると、学校へは出席していないという し、それから友杉さんと相談して、ともかく有吉ちゃん は、笠原さんの会社へ、来てみたいような口ぶりだったと 思いだしたものですから……」  だのに、来て見ると有吉の影もない。不安が、急に黒く 大きくふくれあがったのであった。  高橋と平川とが、顔を見合わせ、 「変だね。スケじゃないかい。スケんとこへ行ったのかも 知れないよ」  と呟いたので、笠原がふりむいていった。 「スケってのは、女ということだね。たしか波木みはるっ ていう名前だろう」 「オヤオヤ、よく知っているんだな」 「知ってるさ。波木みはるなら、ぼくんとこへ金を借りに きたことがあるんだ。そうだ、友杉さん。それは平川君た ちが言うとおりですよ。波木っていう女のところへ行って みた方がいいんじゃないですか。ある会社の重役の娘で、 女学校の生徒です。ズベ公っていうんですよ。あの娘と有 吉君とのことは、誰だって知ってるくらい有名ですから ね。ーイヤ、そうだ、波木みはるの家へ行ったってだめ でしょうね。ほかで会うとこがあるんです。そこがいい。 そこへ行っているんですよ。平川君は、知らないのかね。 有吉君や波木みはるが泊ったりなんかする家だよ。京王電 車から、歩いてすぐのホテルだって聞いたが……」  ホテルの名前は、平川でなくて高橋が知っていて、水魚 荘というのだと教えた。そこで、有吉と麻雀うったことが あるというのである。 「友杉さん。どうするの。行ってみる?」 「行きましょう。心配ですよ」 「そうね。じゃ……」  未亡人も、行ってみる決心をし、すると笠原は、 「高橋君。君も行って案内した方がいいよ。ぼくもついて 行くから」  と、いっしょに自動車に乗ってしまった。  その時では、まだ不確かな予想であったけれど、間もな くして笠原の予想は、ピッタリ的中していたことがわかっ たのである。  有吉は、みはると共に、ホテル水魚荘へ行っていた。  しかも、多量のアドルムを服用し、すでに意識はなく、 こんこんとして眠っていた。そこへ未亡人がかけつけたの であった。 雷雨の午後 一  ホテル水魚荘は、駄菓子屋と荒物屋とにはさまれた露地 の入口に、『高級温泉ホテル』と書いた看板が立ててあっ たが、実はつれこみが専門の、まことに貧弱なホテルであ る。  その二階の、西日が窓いっぽいにさしこんでいて、シー ツのよごれた木製のダプルベッドをおいてあるが、ほかに はなんの飾りもなく、狭くて不潔で、歩くと床がギシギシ と鳴る粗末な一室1。そこに、藤井有吉と波木みはると は、二人ともに顔を正しく天井へ向け、しかしお互いの右 腕と左腕とを、ハンケチでしっかり結び合せて、深い死の 眠りに陥ちていたのであった。  枕もとのニスのはげた台の上に、空になった水さしとコ ップがあり、また、アドルム十錠入りの細長いガラス管 が、いく本となくちらばっている。どちらも顔が美しく見 え、苦悶の表情はなかった。唇を半ば開き、いびきの声を 立てている。健康そうないびき声で、ただその一呼吸が、 長過ぎる感じを与えるだけである。そうして、呼んでもゆ すぶっても、こんこんとして眠りつづけているのであっ た。 「いえ、気がついたのは、昼前の十時ごろにきて、それ'. きり、部屋を出てこないからです。いつも、そんなに長く いたことはありません。せいぜい、二時間でしょう。だの に、どうも変だと思ったから、ドアのぞとで声をかけて、 それから中へはいってみたんですが……」  ホテルの番頭が、係官の前で恐縮して、もみ手をしなが ら説明したが、そうやって気のついた時というのが、貴美 子未亡人と友杉とが、笠原と高橋とに案内されてホテルへ 来る、それよりは少しばかり前のことであったらしい。ホ テルでは、営業上のポロが出ることを恐れて狼狽した。 が、しかたがないから警察へ届けた。警察で来て見ると、 これぱ藤井代議士殺害事件に直接の関係があるのだと、す ぐにわかることがあったので、警視庁へも電話をかけて、 捜査課長や係長にも来てもらうことにしたが、その捜査課 の連中がやってきた直後に、これはまだ何も知らずに、未 亡人がそこへ駈けつけたという順序になるのであった。  未亡人の顔からは、たちまち血の気が引いてしまった。  笠原と高橋も、思いがけぬことでおどろいていたが、未 亡人は、もう彼等をふりむきもしない。友杉と二人だけ で、死の部屋まで通されると、彼女は、有吉とみはるとの ベッドのふちへ両手をつき、しばらくは唇をかみしめたま ま、じっと感情を制している風であったが、ついにこらえ きれず、 「有吉ちゃん! ……あなた……どうしてこんなことして しまったのよ! ねえ、有吉ちゃんてば……」 兮  咽喉をつきやぶるような声でいって、はげしく有吉の胸 をゆすり、またその手をぎゅっとにぎりしめたが、むろ ん、誰が何をしようとも有吉は意識がない。手のひらに、 病的な熱があるようであった。白い上品な額やこめかみの あたりに、こまかい汗の玉がういていた。そして、乾きを 訴えるかのように、かすかに音をさせて唾液を嚥みこんだ が、それっきり、またいびきをかきはじめるのであった。  大堀捜査課長が、廊下まできて、顔をのぞかせていた。  課長は、はじめ、警察からの知らせで未亡人がここへ来 たのかと思い、まもなく、そうではないとわかったが、そ のあと、波木みはるの両親へは、こちらから知らせてやる ようにと命令しておいた。未亡人のうしろから、何か話し かけたい顔で、じっとその場の様子を見まもっている。ふ りむいて見て、友杉がそれに気がついた。それから課長 が、おちついた眼つきで、部屋のうちへはいってきた。 「ああ、課長さんー」 「びっくりなすったでしょうな。無分別なことをやらかし たもんですよ」 「あたくし、もう、こんなことになっては……」 「いやいや、奥さんは、しっかりしていて下さらないと困 りますよ。それに、毒薬とはちがうし、発見がわりに早く てよかったと思いますね。死ぬとは限らないでしょう。病 院へつれて行って手当てをしてもらうのがいいです。1 実は、長い遺書が書いてありました。ベッドの上にありま してね」 「まア……」 「あとでお目にかけましょう。いろいろわかることがあり ます。が、助かるか助からないか、その手当てが第一です からね」  課長の言葉には、温い響きがこもっている。未亡人と友 杉との眼に、感謝の色がういて出た。そうして、ともかく 課長のすすめに従い、このあわれな、しかし無分別な少年 と少女とを、近くの花非という医院まで、運んで行くこと になった。  医師は瞳孔をしらべ心音を聞き、それからすぐに手当て にとりかかった。開業医としては、珍らしく無愛想で無P な青年医師だったが、することは、確実でキビキビしてい て、信頼のおける感じだった。ビタカンフルを打つ。カテ ーテルで胃洗滌をやる。リンゲルを注射する。サイフォン になったカテーテルから、不快な臭気の胃液が出てきた。 無意識のうちにも患者は苦しいのであろう、身をもだえ、 ゴム管を噛み切ろうとした。どうでしょう、助かる見こみ がありますか、と友杉ががまんできなくて途中で聞くと、 「わからないですよ。やるだけのことをやっとくのです。 問題は当人の体質ですね」  と医師は答えた。  みはるの両親、波木重助夫妻が、最初の手当てが終った 時にかけつけてきた。誰もこの夫妻には初対面であり、し かし、感じの悪い人たちではなかったので、何か助かるよ うな気がした。夫妻は、娘の不行跡を、まるっきり知らず にいたのだといった。多忙なため、眼が届かずにいたのだ と、自分たち自身が悪いことをしたかのように言いわけを し、そして細君が、声を立てて泣きだしてしまった。  医院の別室を借り、そこへ捜査課長が、はじめに波木夫 妻を呼んで、みはるの書いた遺書を渡してやった。  この遺書は、わりに簡単なものであり、みはるが両親に 対しての詫びの言葉である。生きていても、現在より楽し い時がくるのかどうかわからない。愛人とともに死ぬ方 が、わがままではあるが、自分の一番の倖せだと思った。 不孝なみはるを許して下さい。そしてパパとママとの幸福 を祈ります。パパとママ、みはるはとても好きだったけれ ど、みはるがいけない子だったから、すみません。どうか みはるを憎まないで下さい、と結んであった。  今度は、母親だけでなく、父親も泣いた。  そうして、この夫妻のあとへ、貴美子未亡人と友杉とが 呼び迎えられ、二人でいっしょに有吉の遺書を読むことが できた。  それは、鉛筆で書いたものである。  内容としては、未亡人と友杉への詫びのあとへ、園江新 六のことを、すっかり詳しく書いてあった。新六が、藤井 代議士を殺したのである。自分は、新六をつかまえるのが 自分の責任と思い、高橋や平川や笠原にも、それとなく新 六のことを尋ねてみたくらいだが、けっきょく、自分の力 ではどうにもならぬことだと知った。この上は、已むを得 ない。自分の死んだあとで、警察の力を借り、園江新六を 逮捕してもらいたい。そして新六がつかまったら、自分は 新六を、決して憎んでばかりいたのではないということを 告げて欲しい。新六は、鳩の街の女に夢中である。もしか したら、鳩の街で彼をつかまえることができるのではない か……という注意まで書きそえてあった。 「これだったら、死ぬまでのことはない。死ぬつもりにな る前に、園江新六のことを、我々に告げてくれた方がよか ったと思う。それに、友杉君も、もう気がついていたんで したね。この男のことについては」  と課長は、口惜しそうな顔でいった。 「そうです。何かある、と思っていました。有吉君は、ぼ くが警察と秘密に連絡をとって、いろいろ知らせたりなん かしたことには、気がついていないようでした。しかし、 ぼくとしては有吉君が園江新六を、しきりに気にしてい る、とはわかったのです。笠原のところへ行った時も、そ れを有吉君が、笠原にすぐ訊いていたのですから」 「そこで、どうですか友杉君。君は、園江よりも笠原とい う男が、気になってならないということを、前からいって いたでしょう。ところが、有吉君の遺書で見ると、園江新 六が犯人だとしてあるんだが、これについて何か意見 は?」 「前と、別に、変りません」 「ほう」 「というのは、園江新六も、犯人であり得るかも知れな い。しかし、ぼくの頭の中には、笠原昇の異常性格が、し ' っかり焼きつけられていますから、やはり彼を、疑ってみ ないではいられないという意味です。そのことは、もう数 回、申したことがあるのですが」 「そうでしたね。君の意見は、我々もかなり重く見てい る。だから、笠原について、事件当夜のアリバイなど、す っかり洗ってみたいと思ったんだが」 「それは、まだハッキリしていませんか」 「どうも不十分です。笠原という男は、なかなか頭が利く 男だから、こっちが下手な動き方をすると、すぐ気取られ るという心配があり、その点で捜査もやりにくいわけだ が、大体に於て事件当夜、笠原が下宿にいたということは 証言できても、深夜に外出したという証拠は上らずにいる 始末ですよ。間借りしている下宿のばあさんを第一に問題 にした。ばあさんの懇意にしている染物屋さんがあったか ら、刑事がこの染物屋さんに頼みこんで、事件当夜のこと をそれとなく尋ねさせてみた。すると、ばあさん、その晩 は、夜の九時頃に寝ちまって、あとのことは知らないとい う。そして、その九時に寝る時には、笠原が、たしかに 二階にいたというのだから、けっきょく、笠原がそのあと で外出したかどうかわからんということになってしまっ た。むろん、笠原の出す洗濯物も、クリーニング屋でしら べてみている。しかし、血痕のあったというものも出てこ ない」 「ぼくの方は、刑事でもなく、私立探偵でもありません。 だから、直接に捜査へ協力するわけにもいきませんし、よ けいなことを言い出して、お邪魔になりはしないかと思っ. て遠慮していました。笠原のことを、そうじゃないかと思 って課長さんに申上げるまでに、時間がたってしまったか ら、その間にもしほんとうにあの男が犯人だったとする と、証拠を湮滅する手段だってあったのでしょう。そうだ ったとしたら残念ですね。無証拠のまま、身柄を拘束して しらべるということは、絶対にできないことですか」 「できないし、こういう性質の犯罪では、しない方が賢明 です。つかまえておいて、あとで証拠不十分になったら、 取返しがつかない。それよりは、忍耐しつつも、容疑者を、    およ 自由に游がせておき、向うで気がつかないうちに、切札に なる証拠、絶体絶命というものを擱んだ方がいい。ーそ うだ、口の堅い友杉君だから、話しておこう。最初に、こ れは奥さんから、二階の書斎の窓について、お話があった のでしたね。あの諸内代議士が、今いったような忍耐で、 うまく成功した例ですよ」 「諸内さん……」 「そうです。あの男をずっと見張っていました。そうして 田舎で、思いがけぬことだったが、ほかの殺人事件の現行 犯としてつかまえましたよー.」  今までの行きがかりがあるから、この人たちには、知ら せるだけの義務がある。課長が、はじめて話したのは、諸 内代議士をM県S温泉で逮捕した件についてだった。藤井 代議士殺しとしての嫌疑も相当にあったが、それはどう癖、 ら見込みちがいで、その代り、加東明殺害の現行犯として つかまえることができた。身柄はすでに東京までつれてき てあり、これからあとは、政界醜事実の摘発ということに なる。加東明はS海岸の絶壁下から死体となって発見さ れ、生き証人を失ったのは残念だったが、彼が偽名をし引 揚者となって世に隠れ住んでいた居宅からは、政治に関す る多数の通信や書類が出てきたから、その面での取調べ は、もう順調に進むことであろう。波及するところは大き く深いものがあるが、捜査一課としての残る問題は、やは り藤井代議士殺しの犯人だった。むろん、早く片をつけね ばならず、しかし、功を急ぎ焦りすぎたら、失敗の恐れな しとしない。今が、捜査は特別な段階へきて、最も大切な ところだ……というのであった。  あまり口出しをせず、じっと聞いていた未亡人の顔が、 その時かすかに昂奮してきていた。  藤井代議士が、その潔癖な性格で企てた政界の浄化は、 生きているうちに目的を達しなかったが、諸内代議士の逮 捕で、ようやく意志が貫徹されることになった。これは、 せめてもの満足にちがいない。彼女は、ため息をついた。 そして、有吉の容態が気になるからといって部屋を出て行 き、あとでまた課長と友杉とは話しつづけた。 「これで、ともかくも諸内代議士は、事件と重要な関係は あるけれど、別の問題での中心人物になったというわけで               しようぎよ すね。方程式の項が、一つ完全に消去された感じですよ。 ぼくは、もともと笠原を考えたのが、数学のエリミネイ ションからでした。藤井家へ出入し、藤井家の事情を知っ ている者、という点で、その中から嫌疑の余地のないもの を消去して行く。そうすると、最後に笠原昇が残ったので す。ー今は笠原のほかに、有吉君が遺書の中で、園江を 犯人として指摘しているわけですが、どうですか課長さ ん、笠原と園江とでは、どっちがどっちだとお考えです か」 「さア、それは、まだ少し決定の時期には早いでしょう。 二人ともに、捜査の線へ浮かび出ている。しかし、面白く なったな、これは」 「何か、とくべつな手蔓を、つかむことができますか」 「今までは、ありていの話が、捜査は遅れていたというこ とになるでしょう。笠原についてでも、たとえば、ミネル バ倶楽部の創立資金の関係をしらべてみた。ところがあの 男は、学生のくせに、金を相当に貯えていて、事務所の設 備費ぐらいは、十分に賄うことができたらしい。そういう 事柄では、ポロがあったにしても、ポロを出さないだけの 準備をしている。だから、捜査は事実上行きづまりだし、 事件発生当時、藤井家の箪笥から洋服地が二着分盗み出さ れている。こいつからも、うまく行くと手蔓がつきそうで いて、しかし、その服地はどこへ品ぶれを廻してみても出 て来はしない。-が、友杉君。君は気がつかないのか なア。捜査は、今日から、面目を変えますよ。有吉君の書 いたものが、我々に重大なことを教えてくれた。期待して もらいたいと思うね」  ふいに、課長の言葉には、力がこもった。視線の底に、 ギラリと物凄く光るものがあるようである。友杉も、それ に応じて眼の色が鋭くなった。探るようにして課長を見 で、それからいった。 「ああ、課長さん。それは、わからないことはありません よ」 「そうかね」 「問題は、園江新六が犯人だとして有吉君に指摘されてい る。それよりは、園江が行方不明という点にあるのでしょ う」 「そう、そのとおり……」 つぼくは、さっきから頭の隅で、重大なことを思いだして いるのです。先き走りしまいと思って、わざとロへ出さず にいたのですが、ぼくは前に有吉君と二人で、笠原の事務 所へ行ってみました。その時のことは、報告してありまし たね。事務所の構造についてですよ」 「そう、それだよ君! 実はね、今日は刑事がミネルバ倶 楽部へ行っている。手形の金の件を口実にして、その実は 内偵が目的だった。ぼくの方は、有吉君のことでこっちへ くる前に、ちょうど、その刑事からの報告があって、しか しその時はそれほどの注意もひかなかったのが、あとで有 吉君の遺書で園江新六のことが詳しくわかったから、それ で刑事の報告を、ハッと思い出していたわけだ」  高橋や平川が、ミネルバ倶楽部へきた、あの五十がらみ の、眼の小さい商人ていの男を、警視庁の刑事だったと知 りたら、どんなに驚いたことだったろう。課長と友杉と は、意見がよく一致し、なお熱した口調で、あとを話しつ づけようとしたけれど、その時に、未亡人が、走るように してそこへ来た。 「友杉さん!」 「はl」 「有吉ちゃんが、助かりそうよ」 「おお、それは……」 「注射したの、そしたら、いたいッ! ていって叫んだの よ。お医者さまも、有望だっていってらっしゃる。でも、 娘さんの方は、まださっきのままで眠っていて……」  医師の注意したとおり、体質の相違が現われてきてい た。まだ時間が不足で、ハッキリしない。しかし、少なく とも有吉だけは、助かる見込みがついてきたのであった。  友杉も、未亡人といっしょに、有吉の顔を見に行った。  そのあとで、課長は、係長と二人になり、熱心に何か相 談しはじめた。 二  笠原昇は、二日間にわたり、憂鬱な時を過した。  有吉が自殺を企てた翌日は、午前と午後と二度も病院へ 見舞いに行き、有吉だけは助かって、波木みはるがついに 助からなかったことを知ったが、病院から帰る時の彼は、 いつもの傲慢な自信たっぷりの様子をまったく失い、しか も眼が血走っていて、いつものあの秀麗な顔が、別人のよ   とげとげ うに刺々しくザラついて見えるのであった。  話してくれるものがなかったから、彼は有吉の遺書につ いて、何一つ知るところがなかった。だから、単純に有吉 ほ、波木みはるとの愛の破滅から自殺を企てたのであろう と推察し、必要があれば、いつでもその詳しい事情は解ら せることができると考えたが、実は有吉のことは、どうで もよかった。長いうち貴美子未亡人の顔を見ないでいて、 この恵まれた機会で口を利くことができたが、すると、彼 が知っているほかの沢山の女の中で、やはりこの女だけ ぱ、とくべつな女だということを強く感じた。それは身が ふるえるほどで、この女が欲しくなり、どんな犠牲をはら ってもと思うくらいだった。苦しいのは、未亡人が、彼を よせつけないことである。福島炭坑の森の中の、たった一 ぺんのキスを、彼は忘れずにいたが、その時とは、態度が まるっきり変ってしまった。もうとうてい想いは達せられ そうもない。彼女は、正気に戻り、しかしまだ体力の回復 しない有吉のそばに、つききりで看病していて、笠原に は、笑顔一つ見せなかった。ダンスのことを、映画のこと を、話しかける余裕も見せない。そうして笠原は、不満と 侮蔑と怒りをおさえ、退去するよりほかしかたがないので あった。  ミネルバ倶楽部で、彼は、平川や高橋に、当りちらし た。  時々、反省してみて、これはいけない、自分は思慮を失 っている、待合今花での不愉快な事件以来、絶えず何か心 を荒しているものがある。それに敗けたらたいへんだぞ、 と気がつきながら、反省は長く続かなかった。そして、二 晩つづけて、べつの女と待合へ行って泊ってしまった。し かも、そういう女は、もうたくさんだという気がした。た だ慾望のために使用するのである。使用するだけの女な ら、ほかにいくらでもいるのだろう。そういう女では、ぜ ったい満足されぬものがある。それは精神か肉体かわから ない。魂というようなものであろうか。魂なんて、あるは ずがないと思ってきた。だのに、今はそれを考えている。 ヤキが廻ったというのであろうか。それとも、今までの自 分の人生観に、狂いがあったのであろうか。頭が混乱しそ うになった。めんどうな不明瞭なことを、忘れてしまうよ うな強烈な刺戟が欲しくなり、それから真夜中に、ガパと 女のそばを起きて出て、好きでもない酒を飲みだした。  三日目の午後、笠原は、最も気に入っている仕立の服を 着て、銀座へ来ていた。  雷雨のあとで、街は湿り、街路樹の葉が、まだ雫を垂ら し、雫がキラキラと光っていた。  その一本の街路樹のこちらで、笠原は十数分ものうち、 じっと向うの、縁と白とで壁や窓を塗りわけた小さな店を 見つめていたが、するとその店から、貴美子未亡人が出て きた。化粧品でも買いに来たのであろうか。笠原は、すぐ 近づいて行った。 「奥さん!」 「あら……」  何かに揺り落されたような、おどろきの眼で笠原を見て いる。一瞬、当惑してから、顔色がしっかりとおちついて きた。 「奥さんとお話がしたいのですよ。ぼくは、今日は、病院 の前へ行って、外出されるのを待っていました。不良少年 みたいに、銀座まであとをつけてきたのです」 「困った人ね」 「そう言われると思っていました。しかし、ほかには方法 がなかったのです。1有吉君は、もう大丈夫ですか」 「ありがと。今夜、退院させますの。だんだん、気持が静 かになって、もう心配ないつもりだわ。あなた、有吉ちゃ んのこと訊くつもりで、あたしのこと、追ってきたんです か」 「イヤ、違います。むろん、別な話ですよ。どこかへ、い つしょに行って下さると有難い。どうですか」 「いやよ、お断わりしますわ」 「そうですか。じゃ、歩きながらでも……」  未亡人は、腕時計をのぞいた。  そして、まっすぐに向うへ顔を向けたままで、笠原と並 んで歩きだした。 「ぼくはね、奥さん、福島の炭坑へ行った時のことを、千 べんも万べんも、思いだしているのですよ」  笠原が、まっさきにそれを言い出したが、未亡人は、動 揺しない表情だった。 「それは、あたしは、忘れたいと思っていることですわ。 過失には、責任がないでしょう。責任を感じさせる権利 も、笠原さんには、無いはずでしたわね」  とりつく島もないといった調子だった。笠原は、あせり の色を顔に現わし、しかし、哀願の声になっていた。 「それは奥さん、ひどいですよ」 「どうしてですの」 「権利とか責任とか、そんな冷たいものじゃないはずでし た。少なくともぼくは、奥さんに対してだけは、ぼくの真 実思っていることだけをいってるのです。そうだった。福 島でも、ぼくは告白しました。ほかの女との交渉があり、 でも、奥さんは別のもので、ぼくの生甲斐だってことをい ったんです。その時、ぼくは感情的で、夢中でそんなこと をしゃべったのかも知れません。しかし、あとで考えてみ            いつわ て、あれこそは、ぼくの佯りのない、本当の声だったとわ かったんです。お願いですよ、奥さん。ぼくは、奥さん次 第で、どんな人間にでもなる男だということが、あのの ち、ますますハッキリとわかってきています。ぼくは、救 われたいと思います。外見的に、イヤ、そうじゃない、ぼ く自身でも、ぼくの本質を誤認して、非人道的な、すべて を計算してからやる、変質者だと思いこむことがあり、こ れは、放っといたら、救いのないものになるようで、苦し くてたまらなくなるのですが、奥さんがいて下すったら、 きっとぼくは、今のぼくじゃなくなると思うんです」 「あたしに、あなたを救う力なんて、ないはずですよ」 「違います。あるのです。ー歩きながらじゃ、話せませ ん。が、ぼくは、生れてから今までに、今ほど本気でもの を言ったことがない気がしている。うそじゃありません。 しゃぺっているうちに、奥さんを、誤魔化すことができな くなってしまうんです。言葉が足りません。わかってもら えないのが苦しいです。ぼくを、可哀そうだと思って下さ い。もしかすると、ぼくは何か乱暴なことをしそうだけれ どー」 「乱暴なんて、怖いわ。……あなた、昂奮しすぎているの ね」 「そうです。昂奮しているのです。どうしてだか、自分で もわけがわからない気持がしています。ー正直に言いま しょう。ぼくは、女を口説くのだったら、自信があるつも りでした。名優のように、顔色を柔かくし、甘い言葉を、 あとからあとからと引出すことができます。はじめ、奥さ んにはダンスで接近し、それから、その名優ぶりを利用で ぎると考えたこともありました。ところが、実際は、だめ だったんです。福島の時もそうだったし、今はまたその倍 もそうなんです。わけもなく気が上ずっています。自分で 意識していて、訂正することができません。乱暴は、決し でしやしませんよ。その代りに、もっと長く話を聞いて下 さい。こんな散歩のような恰好じゃ、ぼくは物足らなく で、気が狂ってしまうでしょう。ぼくの知ってるところ で、静かに話を聞いていただきたいのです。どうです、だ あですか」  笠原は、熱烈だった。  自分で自分の口から出る言葉が、女を騙すためのもので あるか、それとも、真実感じたままをいっているのか、よ くわからないほどであり、そのくせに一方でば、もし女 が、土下座をしろとでもいうのだったら、すぐ土下座をす るのだろうと、どこかで自分をそっと冷たく観察している ものがあるのを意識し、これでは自分は崩壊するぞという ことを、チラリと頭の隅で考えた。  裏通りから、賑かな表通りへ出てしまっていた。  もう、どんな話も、できなくなっている。  笠原は、裏通りへもう一度引きかえそうとし、未亡人 は、腕時計をまたのぞいた。そうして、 「さっき、いったでしょ。今夜退院なの。これで失礼する わ」  それっきりで、人混みにまぎれこんでしまった。  そこに立ちつくして、未亡人の後姿を見送る笠原の瞳 が、打ちのめされた屈.辱から、次第に憤りの色に変ってき た。  今こそ、全精神が、笠原本然の主体に統合されたという 気がする。  女は、もう、諦めた。  諦めたが、何か、意地の悪い復讐をしたくなった。どん なことをするか、これから考えることができる。それは一 つの楽しみであるような気がしてぎた。 「そうだった。事業というものがあった。一億円の大会社 だ。世界に類のない学生財閥を作り上げるのだ!」  彼は夢から覚めたように気がつき、銀座を歩く人の顔 を、軽蔑して眺めた。それから、タクシーを呼びとめ、二 十分後に、淀橋のミネルバ企業倶楽部へもどってきた。  ところが、来て見ると事務所には、通いのばあさんと少 年とがいるだけで、机ががらんと空いている。ラジオが野 球の放送をやっているところだった。 「うるさいな。ラジオなんか、やめたまえ。ほかの人たち はどうしたんだい。君が一人きりか」  と、また腹が立ってきた。  少年は、壁のそばへ立ちすくんでいた。 「一人きりですよ。平川さんも高橋さんも、帰ってきませ ん。もう二時間ほど前に出かけたままで……」 「まるで、なっていないな。誰か一人は残っていなくちゃ ならないんだ。どこへ行ったんだい」 「わかりません。人が二人ほどきました。平川さんと高橋 さんとを、一人ずつ事務所のぞとへ呼びだして、ボソボソ 声で話していました。それから、いっしょに二人とも、出 て行ってしまったんです。なんだか高橋さんがあわてたよ うな顔をしていましたけれど」 「ふーん」  事務所への客であろうか、平川や高橋の友人であろう か、友人だとすると、麻雀でもやりに行ったのではあるま いか。笠原は、せっかく事業に専念するつもりになったの が、ふいに何か邪魔をされたみたいで、ひどく不愉快だっ た。平川も高橋も、帰ってきたら、こっぴどく叱りつけよ う、よろしい、あいつらは、首にしてしまってもかまわな いのだ、と考えた。  上衣をぬぎ、ネクタイをはずした。  それから椅子へ腰をかけてから、床へ作りつけた秘密の 箱の蓋を鍵でひらき、ノートを一冊取りだすと、会計に関 する特別な記入をしらべようとしたが、そのとたん、 「ごめん下さいl」  二人の見知らぬ男が、ぬっとはいってきてしまったの で、ノートは、いそいで元の場所へもどしてしまった。  二人の男は、どちらも中年の、しかし、一人が痩せてい て眼鏡をかけ、他の一人が、でっぷり肥っていて、ごくあ りふれた身なりの、何も特徴のない男たちである。べつに 警戒心もおこらなかった。用件を聞くと、小さな鉄工場を やっているが、職工の賃金不払いでストライキが起りかけ ている。役所の仕事を引受けているし、ほかにも、あと二 週間ほどで金になる仕事があるが、それまでストライキを おさえるために、どうしても十万円ほどの金を借りたい。 担保は、工場の建物でも設備でも、お望みのものにするか ら、という話であった。  笠原は、三日前の有吉自殺の事件があった日に、平川と 高橋とが手形をおとす金を借りにきた商人の件で、翌日そ の商人のところへ行ってみると、商人は居所が不明であっ て、ついに話がお流れになったことを思いだした。よし、 あいつらだから、そんな失敗をした。自分なら、ヘマなこ とはやらないそというつもりで、この相談に乗ることにし た。  しかしながら、話してみると、なかなかこれは思うよう にならなかった。  利子の天引きが困るという。また、十日に一割は高いか ら、月一割にはならぬかという。その上、二人とも関西弁 だったが、それがひどくゆっくりしたしゃべり方で、執拗 に喰い下り、有利な条件にしようとしていた。折合いがつ かず、いつまででも、同じところを堂々めぐりしている。 そのために、時間が長くかかってしまった。しかも二人と も、笠原を両側の椅子から挟みこむようにしていて、なん だか身動きもできぬような気がする。ついに笠原は、辛抱 がしきれなくなっていた。早く平川と高橋とが帰ってくれ ばよい。彼らに、このネチネチした男たちとの取引を、ま かせてしまいたいと考えはじめた。  が、この時に実際は、笠原の運命が、もう最悪な状態へ 陥ちこみかけていたのを、彼はまだ知らなかったのであ る。  下手な関西弁の二人の男は、警視庁から来ていた、秋 本、岡野という刑事だった。逮捕の前に、笠原が気がつい て、逃亡するとか、自殺するとか、そういうことをさせぬ ため、刑事が逮捕状に先行し、看視に来ていたのである。 むろん、高橋と平川がいなくなっていたのも、笠原が思っ たように簡単なことではない。彼等は、警視庁へ行ってい たのであった。 「オッ! また雨やぜ!」  と、鉄工場の経営者に化けた秋本という刑事が、事務所 のぞとを眺めていった。  晴れたはずの雷雨が、くりかえし黒い雲を運んできていた。 「こら、どむならんな。金策はつかんわ、ぐちょぬれには なるわ。ま、もすこし話をねっとこ。なア笠原さん。あん たかて男やろ。ズバッと男気出して、うちを助けるつもり になってくれんかいな」  と岡野刑事が応じた。  雨は、ポツリと大粒におちた。      はいぜん  そして、沛然たる豪雨になった。 低い天井と高い床       一  すね 脛に傷もつ脚とは、このことをいうのだろうと、平川洋 一郎と高橋勇とは、その時しみじみ思った。  だしぬけに、事務所へ刑事がきた。  そして、警視庁まで同行してもらえまいかと、まるで彼 らに相談しかけるような口調でいった。  その口調から判断すると、いやだ、といって強く拒絶す ることもできそうであり、しかし拒絶したら、あとがよけ いに悪くなることが、眼に見える気がした。すぐに彼ら は、池袋の強盗がばれたのだと、考えをきめたが、とたん に、脚の関節がガクガクと鳴りだし、傲然と平気な顔をし ていようとすると、それが却って泣顔になってしまいそう であった。  新聞に学生強盗の記事が出るのであろう。自分たちの一 生はこれで台なしになる。警察は、間抜けで古臭くて、自 分たちのやったことなんか、嗅ぎつけるはずはないと思っ たが、やはりどうもいけなかった。よかったのは、二度目 の強盗を、やりかけただけで失敗したことだった。だから つまり、あれは一度しかやらなかったということになる し、それも、銀行家が不正な手段で利得した金を奪ったの だから、そういう不正を懲らすためにやったのだといった ら、いくらかは罪が軽くなるだろう。そうだ、とった金 ぱ、共同募金やその他慈善事業に大部分を寄附してしまっ たと嘘をつこう。そうすれば、傷害や殺人をやったわけで はないし、同情されまいものでもない。場合によったら、 ろくに裁判もしないで執行猶予というぐあいにはならない だろうか。  慌しく、彼らの胸中には、そんな考えが往来し、しか し、もしかして青酸加里の錠剤でも持っていたら、それを すぐに飲んでしまったかも知れないほどの絶望状態で、と もかく警視庁までつれて行かれたのであった。  刑事は、途中で何も説明してくれなかった。  そして警視庁へつくと、貝原係長が直接彼らに会い、ま ずいきなりと、園江新六についての質問があった。係長 が、ハッキリといっている。園江新六を、警視庁の手で探 してみた。が、どうしても居所が判明しない。もしかした ら、君たちは知っているのじゃないか。イヤ、園江新六 は、君たちの親友だったのだろう。君たちがどこかへ、か くまっているのではないか、というのであった。  心の中で、平川も高橋も、園江のことを訊かれるようで は、いよいよだめだと観念した。新六は、きっと自分たち と別行動で、何かひどいことをやったのにちがいなく、そ のために警視庁から追いまわされているのであり、またそ のために、池袋の一件も、ばれたのであろう。まったく、 あいつは、低能だった。あんなやつを、仲間にしたのが失 敗だった。しかたがない。もう、白状してしまおう。改俊 の情をここで披瀝しておいた方が、有利になるにきまって いる。そうだ、真実自分たちは後悔しているのだと立証し なくてはいけない。泣くのがいい。涙を流しつつ白状した ら、少なくともこの金ぶちの眼鏡をかけた、学校の教授の ように温厚な顔つきをした警察官は、自分たちを憎むこと なく、同情しつつ調べを進めてくれることであろう。泣く のだ、泣くのだと、二人とも同じことを頭のすみで考え、 すると、もう涙は註文に応じて、こんこんとして眼の底か ら、流れだしてくるのであった。  貝原係長は、おどろいた眼で、二人を見ていた。  そのおどろきは、並たいていのものでない。呆気にとら れ、それから愕然として、なにか警察官としての自信を揺 り動かされるようなものだった。園江新六について訊ねた のは、もしかして園江が、彼らの手でどこかに匿まわれて いるとか、でなくても、最近に彼らが新六に会ったことで もあったとしたら、それだけでもう藤井代議士殺しについ て警視庁でつけた狙いは、根底から狂うことになるだろう し、そうなると最大の容疑者笠原昇に対しての逮捕状も、 出してもらえなくなるという立場に来ていたから、何より 先きに新六のことを訊いてみたのは当然であり、そうして その次に、なおもう一つ、重大な質問があったのに、ここ で平川と高橋とが、叱られた子供のように顔を歪め、涙を ボロボロこぼして泣きだそうとは、てんで予期せずにいた わけである。  係長は、この不良少年たちの問には、警視庁でもまだ知 らずにいた、何かの秘密があったのだぞと気がついて、だ とすれば、自分の言葉にも、十分注意せねばなるまいとい うような心構えになったが、するともうそのとたん、平川 と高橋とは、覚悟をきめて、彼等の改悛の情を、披瀝しは じめた。 「ぼくは、もっと早く、自首して出ようと思っていたので す。しかし、金ができたら、あの家へ返却しようと思って いたものですから……」  さきに、そういったのは高橋であり、つづけて平川も、 「あれは、園江が、ぼくらを誘ったのです。園江が手引き しました。銀行家で、不正なことをして金をためている。 懲らしめのため、やっつけようといったものですから……」  と、すすり泣きしながら、しゃべってしまった。  係長の口から、うなり声がもれた。  いっしょにいた配下の若い警部補と顔を見合せ、それか ら、 「よし。わかった。君たちのやったことを、全部話してみ たま、兄。かくしてもだめだからね」  と、それを知っていた顔つきで二人にいった。  軽率な早すぎた自白だったとは、平川も高橋もまだ気が つかない。それに、実際もうかくしてもだめなところへき ている。彼らは、池袋での犯行を、洗いざらい、しゃべら せられる羽目になった。つけ加えて、藤井有吉が五万円の 金を持ってきてくれたのは、彼らの犯行の直後であったこ とも、そのまま正直に自白してしまった。 「藤井は、親切で、いいやつです。その時の仲間にはなり ませんでしたが、ぼくらに悪いことをさせまいと思って、 果物籠の中の金を持ってきてくれたんです。小西が、藤井 の金を見て、オイオイ、泣き出しました。ぼくは、なぜだ ったか、腹が立って、やけっぱちみたいになったんですけ れど……」  と平川はいい、高橋は、 「その時に、一人だけニャニヤ笑っていて平気だったの は、園江新六です。あいつは、五万円ぽっち、どうにもな らない。もういっぺん同じことをやろうってことを、その 時にもういっていました。1しかし、ぼくらは、園江に は、あいそをつかしています。藤井のおやじが殺された頃 から、あいつはどこかへ行ってしまったし、あれからのち 園江が何をしたにしても、ぼくらとは完全に無関係です。 あいつをかくまっているなんて、とんでもないことです。 どこにいるのか、全然ぼくらは知らないのですから」  と、その点はとくにハッキリ区別してもらいたいつもり で、言葉に力を入れていうのであった。  捜査課長のもとへは来客があり、その客は、麻雀と将棋 と釣りの話をしはじめると、自分一人いつまでも面白がっ ていて切りがない。近いうちに、釣った鮎を持ってきて、 捜査課の連中全部にふるまおうと、あてにならぬ約束をし てから、やっと腰を上げて帰ったあとへ、係長が、緊張し て報告にきた。 「意外でしたよ。こっちじゃ知らなかったのに、自分で口 を割りましてね」 「ほう」 「園江のことを訊くと、いきなり二人が泣きだしました。 それから、園江といっしょで、池袋の高須という家へ、強 盗にはいったことがあると言いだしたのです」 「オヤォヤ、そいつはどうも……」 「こっちは、ドスンと、何かで殴られたような気がしまし た。が、しゃべるにまかせておいてみると、その事件は、 代議士殺しよりも少し前のことらしいのです。園江といっ しょでというのが、ほかにまだ、小西貞というのと南条真 というのがいるのでして、こいつらは、果物籠の金の件 で、いちおうは取調べてある連中です。1とにかく、五 人組の学生強盗で、これは池袋署が所轄だから、そっちと 連絡をとって、すぐ処置をとることができると思うんです が、問題はしかし、園江新六についてですから……」 「そうだ。それだよ。園江のことを、どういっている?」 「私も、気がもめてたまらなかったんですが、けっきょく のところ、思ったとおりでしたよ。園江には、ずっともう 会ったことがない、居所もわからん、それが藤井事件の起 る直前からというんです」 「直前とは、いつ9」 「それが日附をハッキリ記憶していない、といっていま す。しかし、園江に会いたいことがあって、平川と高橋と は、鳩の街へ園江を探しに行ったことがあるそうで、また その翌日に、藤井有吉のところへ園江のことを聞きに行く と、藤井有吉も園江のことは知らなかったから、それはそ のままにして、神田の紅中軒で麻雀をうったのだというこ とです」 「待て。紅中軒の麻雀というと、その晩だぞ、藤井代議士 が殺されたのはl」 「そうです。だから、重大です。つまり、代議士殺しの二 日ほど前から、園江は行方がわからなくなっているので す。どうでしょう課長。もうここらで十分じゃないです か。あなたが、その推理を組み立てた。友杉君も、同じ意 見でしたね。園江新六は、もう生きていないのですよ。そ の推理を立証すればいいわけでしょう。-代議士殺しの 直接の下手人は、やはり園江新六であったかも知れない。 しかし、今もう、園江が生きていないことだけは、確実だ と私も見ます。平川、高橋の強盗の一件は別にして、ここ であの猫を見せた方がいいと思うんですが……」  課長は、ボールペンのカップを、ぬいたりはめたりしな がら、ちょっとのうち思案した。そうして、 「よかろう。見せた結果で、逮捕状といっしょに、捜査差 押許可状もとっておいた方がいい。物件はミネルバ企業倶 楽部建物一式とやる。よしきた。学生強盗の顔を見に、ぼ くも行くよ」  元気な声でいって、椅子を立ち上ってしまった。  猫を見せる、というのは、局外者が聞いたら、わけのわ からぬことであり、まるでなにか、警察で使う特殊な用語 のようにも聞える。しかし、そういうものではなかった。 現実の猫である。そうしてその猫を警視庁は、捜査の最後 のきめ手として、とくべつに探しだしておいたのであっ た。  実は、刑事たちが、二日間にわたり、たいへんな苦心を した。  ミネルバ倶楽部の事務所、及び笠原昇が間借りしている 下宿の附近で、最近に飼猫がいなくなったという家を、残 るくまなく探して見たし、また一方で、笠原の知友関係 を、ダンスホールでも、キャバレーでも喫茶店でも、ひそ かに片っばしから聞きまわったが、するとある洋裁店の女 主人が、ポカリと捜査の線へ浮かび上って来た。その女 は、猫を可愛がって飼っていた。しかしその猫は、藤井事 件がおこってから二日ほどのち、姿が見えなくなってしま         としま った。女は、もう年増で、笠原にかなりの金を与えてい る。半年ほど前は、ほとんど毎夜のように、自宅の洋裁店 で会っていて、そののちは自然に笠原の足が遠のいていっ たのを、ふいに笠原の方からやってきた。そしてその時か ら、猫がいなくなったというのであった。猫が主眼だった が、それに女と笠原とが結びついたのでは、もう間違いな しということになった。それは三毛猫だというから、いく 匹もの三毛猫を借りあつめ、女に、どれが一番よく似てい るかを選ばせた上で、その猫を犬の箱に入れ、警視庁へは こんできておいたのである。  平川と高橋とは、留置所へぶちこまれることばかりを考 えていた。  来てから雷雨があり、そのあとの空の色が、窓のはし から青く見えた。あの空の下の空気は、もう自分たちのも のではないと感ずる。見せかけではない後悔の念が強く身 をかんだ。平川は高橋を、高橋は平川を、こんなやつと友 だちになったのがいけなかったのだと思って憎くなり、そ のくせに、手をにぎり、胸を抱き合って、声の限りに泣き たい気がしてきた。  しばらくいなかった係長が、課長といっしょで、うしろ に、猫の箱を刑事に持たせて戻ってきた時、その箱を、拷 問の道具かと思って恐ろしくなったが、すると、思いもよ らぬことを言われた。 「さて、お頼みがあるよ、君たちに」 「は……」 「この猫を見てくれたまえ」  薮から棒で、キョトンとして、係長や課長の顔を見上げ た。 「説明しなくちゃ、わからんのだろうね」 「ええ、わかりません」 「はじめに、友杉君から聞いたのだ。ええと、平川君だっ たろう、君が友杉君に話したということだ。ミネルバ倶楽 部の事務所の床が、コンクリートになっているね。ところ が、それは、猫の死体を、ぬりかためたもので、猫の死体 を、ちょっとでも動かさないようにして床を作ったから、 床が高すぎて、天井が低くなったということだった。その 話は、嘘じゃないのだろうね」 「そ、そうです。ーぼくと高橋とが、それは見たのです から」 「君たちのとこの笠原社長が、猫の死体を動かしちゃいけ ないという、迷信をもっていたのだったね」 「ええ……それも、そのとおりですが……」 「ところで、その猫は、君たちが、どこかで殺して持って 来たのかね」 「ちがいます。ぜんぜんです」 「というと?」 「ぼくらは、笠原君から、事業をやるから手伝えっていわ れました。そして、事務所へつれられて行ってみたら、バ ラックの床が、まだ土間になっていて、その土間のまん中 に、猫の死んだのがあったんです」 「よし。その時のことを、詳しく訊こう。土間の土は、固 くなっていたのかね」 「いえ。固くはありませんでした」 「掘りかえしたとか、穴を埋めたとかいう形跡は?」 「それは……わかりません。しかし、土の色は、新しかっ たと思います。そう言われれば、掘りかえしたのかも知れ ません」 「つまり、足で踏むと、ホカホカしていたというわけだ ね。そのホカホカした土の上に、猫が死んでいたー」 「そうです。そのとおりです。事務所に改築するので、そ の翌日、仕事師の親方が来ました。そしてコンクリートに するなら、土をさらった方がいいといったんですが、土を さらうと、猫を動かさなくちゃならないというので、その まま、コンクリートにしてしまいました。その時にも、ぼ くは見ていましたが、土の色は、まだ新しい色でした」 「では、それもよし。……もう一つだ。はじめに死んだ猫 を見つけたのは、君たちのうちの誰だったね」 「三人でいっしょです。社長とぼくと高橋とでバラックへ はいり、雨戸を一枚あけると、……ああ、そうでした、社 長がはじめに、あッといってびっくりしたのです」 「じゃ、社長が、第一に、猫に気がついたということにな るのだろう。その時の社長の態度や顔つきは9」 「目をまるくして、しばらくそこへ、つっ立ったままでし た」 「よほどひどくおどろいたわけだね。社長は、いつもそう いう風に、びっくりしたり顔色を変えたりすることがある のかね」 「さア、どうですか。大体は、ぼくらよりずっとおちつい ているし、最近は少し変ですが……そうです。その時のよ うに、社長が顔色を変えたなんてことは、ほかでは見たこ とがありません」  係長が、ふりむいて課長を見た。  課長は、満足な目つきをしている。 「じゃ、この猫を見てくれたまえ。死んだ猫に似ているか どうかだ。三毛猫だったということだね」  そう言われて平川と高橋とは、いっしょに箱の中をのぞ き、そうしてうなずいた。 「よく、わかりません。しかし、毛並みは同じですね。頭 のところに、黒と茶色の輪があって、その輪のぐあいは、 そっくりだと思いますが」  それ以上は求めても無理であろう。そうしてこれまでわ かったら、洋裁店主の猫が、あのコンクリートの床の下の 猫だと、断定してもよいだろう。  課長が、ポケットのたばこを出して、平川と高橋とにあ たえた。  そして、配下のものは、すぐに次の行動をおこした。 二 雨がやまない。 雷雨が、どうやら梅雨性のじとじとした降り方に変って しまった。  そうして、笠原昇は、へたな関西弁でしゃべる鉄工場経 営者たちを、もうすっかりもてあましていた。  事業は発足したばかりで、だから、がまんをしたいとは 思うけれど、いつもこんな煮え切らぬ人物ばかりを相手に するのだときまっていたら、まったくやりきれぬと思うほ どである。総額十万円の金融で、すったもんだの末に、二 人のうちの一人が、笠原の持ちだした条件へ、ともかく歩 みよりを見せたかと思うと、他の一人が分別臭い顔で文旬 を言いだし、文句があると、話がまたふりだしへ戻ってし まうという状態で、いつまでたってもヶリがつかない。し かも、雨を口実にして、二人とも、悠々と腰をすえている のであった。 「どうでしょう。もう妥協の余地は、残っていないと思う んですが」 「さよか。そうなると、ほかで金策はつかんよって困るさ かいに……」 「しかたがありませんね。それに、ぼくは用事もありま す。これ以上、まとまらない話をつづけているわけにも行 きません」 「オヤオヤ、帰れちゅうんかいな。ひどいあいそつかし や。そんな短気なことを言わんかて、ま、もう少し、こっ ちのいうこと、聞いてもらわんと……」 「いや、もう、十分に聞きましたよ。金策ができないと、 賃金不払いでストライキが起るという話でしょう。それに ついて、ぼくが責任をもつことはありませんね。雨も、さ っきほどじゃありません。タクシーを呼んで来させましょ うか」 「オットット……待っとくなはれ。タクシーなんて呼んで もろうたら、また散財やであかんわ。なア社長さん、あん たわしらが、あんまりゴテゴテゆうとるから、あいそつか してしもうたんのんとちがうか。こら、えらいこっちが 悪かったわ。ゴテつかせたくてゴテついたんやない。よっ しゃ。もうゴテつかぬ話にしてしまお。金づまりの世の中 やから、天引利子も、かめへん。といちの利子はぎょうさ んやが、これも背に腹はかえられんさかい、キチンと払っ て見せまっせ」 「そうですか。そういくのなら、いいと思いますが」 「そうやろ。担保もしっかりしている、損はかけん。が、 どうやろ、それだったら、十万円ばかりでなくて、もっと たくさん貸してもらえんやろか」 「たくさんて、どのくらいですか」 「ざっと、百万や。二百万なら、なおのことこっちは助か るが:…」  できぬ相談だとわかっていての、無理難題を持ちだされ た気がする。でっぷりした方の男の眼尻に、皺がより、人 を馬鹿にしたような薄笑いが浮かんだ。聡明なはずの笠原 が、まだこの二人の正体を、わからずにいた。ただ腹が立 ってきて、待てよ、これは金を借りにきたのではない。も しかすると、なにかゆすりにきたのかも知れないと、はじ めて警戒心がわいてきただけであった。  ゆすりとすれば、事業のことでか、女のことでか、わか らないのがもどかしかったが、なにくそ、今度はもう待合 今花でのようなヘマなことはやらない、うまく胸のすくよ うな、背負い投げを喰わせてやるぞ、と腹のうちで叫んだ とたん、今花での女はキスだけで、それ以上には一歩も進 められなかったことを思いだしたから、ふいにその連想 で、貴美子未亡人の顔が、目の先きにちらついてきた。あ の女も、やはりキスだけはした。森の中の、たそがれ時で あった。たしかにその時の自分は、倖せであった。白く柔 かく美しい、ばらの匂いがする雲の中へでも巻き包まれた ようで、女の肉体のことすら考えず、野心も消え、安心し きって、それ以上には何も望むものがないようであった。 あの女には、それだけの値打ちがあったのである。銀座で は、女に復讐をしてやりたくなったが、やはり、諦められ ぬ女である。なぜ自分を、あんなにも冷淡にとりあつかう のか。ああ、それは、もしかすると、ほかにあの女の愛を 奪った男があるのかも知れない。その男は誰だ。諸内とい う代議士か。いや、あんなやつを愛するはずはないが。と すると、友杉か。友杉という男は、へんなやつだ。あいつ だけは、藤井家の書生で家庭教師で下男で、しかし、おち ついた、しっかりした目つきをしている。そうしてあいつ は、いつも藤井家に起臥しているのだ……。 「どうや、社長さん9」 「え……」 「ズバッと、百万円貸してんか」  肥った男の眼が、また不可解に笑っている。そうしてこ の時、雨を冒して三台の自動車が、凄いスピードで走って くると、ピタリと事務所の前へとまった。  鉄工場の経営者に化けていた二人の刑事が、自動車を見 てホッとした顔になり、笠原も何事かと思って腰をうかし かけると、左右からその腕を、二人の刑事が、パッとつか んでおさえつけてしまった。 「あッ、何をする!」  叫んで、ふりはなそうとしたが、椅子へひきすえられ、 肩まで刑事の手がかかった。 「バカな! 乱暴するのか、君たちは……」  いった時、肥った刑事が、 「警視庁の車だよ。おちついていたまえ。-ー1おお、課長 もやってきたよ」  と、はじめて関西弁でなくいって、相棒の刑事に、目く ばせしている。  なるほど、前の二台の車から、捜査課長がまっさきにと びだした。そして係長と数名の私服や拳銃を持った巡査が おり、つづいて三台目から、ツルハシやタガネやカジヤや ハンマーをたずさえた、仕事師の一団がおりてきた。  係長が、事務所のうちをのぞき、先発の二人の刑事が、 笠原をがっきと抱きすくめているのを見て、それでよし、 という表情になり、それから、天井が低くてせまい事務所 のうちが、たちまち人でいっぽいになってしまった。  笠原の頭のてっぺんから足へかけて、なにか氷のような ものが、ずーんと駈けぬけ、そのくせに、怒りと恥とが、 血を逆流させた。しかも、それを見せてはならない。息を匆 つめ、平静を装い、すると、ものをしゃべろうとする口や          こわ 舌が、化石のように硬ばった。 「はなしてくれたまえ! こんなバカなことはない。いっ たい、警察が……」 「人権蹂躙だっていうんだろう。さア、こいつだよ」  係長が、自分でたいせつにして持ってきた書類を、笠原 の椅子の前へきて、デスクを隔て、及び腰になって、開い て見せている。それは、一通が、意外な逮捕状だった。園 江新六殺害被疑事件につき、笠原昇を逮捕すると書いてあ る。他の一通は、同事件に関し、ミネルバ企業倶楽部建物 を、差押え捜索するという許可状であった。 「……9」  笠原の眼が、毒々しい光にあふれて、係長の顔を見上げ た。 「わからんかね、これだけじゃ……」 「わかりません」 「園江新六を知っていないとは、いえないだろう。S大法 科専門部一年、鼻が曲がっていて美少年じゃない。君に、 度々、金を借りたことがある」 「そうです。知っています」 「この男は、藤井代議士が殺される二日前から行方不明 だ。それ以来、誰もこの男を見たものがない。両親のとこ ろへも帰らず、馴染みの女のところへも行かないし、平 川、高橋、南条、小西、みんな会っていない。ところでし かし、そうやって行方不明になる前に、園江が会ったとく べつな人間が一人ある。それは代議士の息子の有吉君だ よ」 「   」 「違例だが、君を納得させるために、みんな話しておくこ とにしようね。いいかい、今いったとおりだよ。すっかり 洗ってあることだが、有吉君以外に、園江新六と会った人 間ーイヤ、そういっては適切でない。有吉君のほかに、 彼が行方不明だと信ぜられている間に、誰かが彼と会って いるはずだということを、警察では考えた。その人間は、 多分この世の中で、いちばんおしまいに、園江新六と会っ たのだ。それが誰だか知ってるかね」 「知りません……そんな、つまらないことをなぜ、ぼくが 知っている必要があるのですか」 「ああ、そう。多分君は、そう言うだろうと思っていたん だよ。が、園江は有吉君に会って別れる時、君にとっては まことに都合の悪いことをいったわけさ。つまり、笠原さ んのところへ行って、金を借りようってことをいったんだ ね。これは、有吉君が自殺するつもりで書いた遺書のうち からわかったんだ。そうして、こうなってみると、園江 は、行方不明になってからか、またはその直前、君を訪ね たのだろうということが推測できる。つまり、この世で最 後に園江と会った人物は、君だったと考えても不思議じゃ ないよ。それから、ほかにもう一つ有吉君は、お父さんが 殺されてしまったあとで、園江がどこにいるかということ を、ひどく気にしだしたのだよ。そしてこの事務所へ、友 杉君と二人でやってきた時、君に向って、園江が君を訪ね て来なかったかと訊いたはずだね。それは、どうだい、お ぼえているだろう」 「おぼえて……います……」 「有吉君も、その点だけは、警察と同じようなことを、す ぐに考えたわけだ。しかも警察のわれわれとしては、君の 次に、園江と会った人間は、恐らく一人もあるまいと思っ ている」 「待って下さい! ……ぼくは、有吉君にそれを訊かれた 時、園江なんか来やしなかったと答えたはずですよ!」 「そうだ。君はそう答えている。が、その時の君の顔色は、 ひどく緊張していたということだね。それは、もうわかっ ているのだ。そうして、君のその答えが、真実であったか 嘘であったかーつまり、園江が君に会ったか会わなかっ たか、それは、じきにもう決定することができるのだよ」 「   」 「警察ぱ、目くらじゃないつもりさ。いろいろの方面で調 査したよ。その中に、藤井代議士殺害より二日前の夜、君 と園江らしい二人の人物が 自動車に乗ったのを目撃した という証言すらないじゃない。ーいいね。もう納得した ろうな。事実上は、君がもう一つの恐るべき犯罪に関係し ていると、こっちじゃ睨んでいる。とりあえず、逮捕状 は、園江新六殺害被疑事件だけになっているが……」  係長の言葉が、脳髄へうちこむ弾丸のようであった。  さすがの笠原が、唇を血の出るほどに噛んで、もう何も 言えなくなっている。係長は、笠原がそこにいては邪魔だ から、畳のある部屋の方へ、つれて行けと命令した。そう して、仕事師の親方をふりむいて、 「さア、やってくれ。早いとこ、頼むよ」  と、いせいよくいった。  まず、書類が全部押収された。  次に、椅子やデスクを、すみへ寄せて積みあげて、それ からかしらたちが、事務所の床をこわしはじめた。  笠原が、わめくかあばれるか、抵抗すると思ったが、彼                    と はだまって見ている。顔色が、青く美しぺ砥ぎすまされた ようで、一度、手を自由にしてくれと訴えたが、それは許 されず、刑事が、水をコップで飲ませてやると、それっき り何も言わなかった。  かしらのツルヅパシで、コンクリートの破片がとび散っ た。  セメントが、あまり上質のものでないと見えて、わりに たやすく床が崩されて行く。 「ああ、それだ! 傷をつけないように持ちだすのだ!」  係官の一人が、大声に叫んだのは、コンクリにぬりこめ られた猫の死体が出たからであった。係長が、 「ウム、もう、腐ってるだろう。できるだけ形を崩さないよ うにして、ブリキ板の上へうつしとけ。そうして、その下 の土を掘るんだ。気をつけろ。オイ、写真、たのむよー.」  かしらをかきわけて首を前へ出し、しきりにどなりちら している。  土は、わずかに五寸ほど掘った。                  ふとん  すると、はじめに現われたのは、蒲団か毛布のような ものであったが、手のひらで、ていねいに土をはらって見 ると、それは、うすい茶色に目立たぬ程度の青い縞がはい った洋服地であることがわかった。そうしてその洋服地 は、長々と横にひろげられ、はしの方が、まだ崩してない コンクリートの下までのびているのであった。 「品ぶれで、出て来なかったはずだよ。これは、藤井家の 箪笥から盗み出された服地にちがいない。おどろいたな。 こいつまで土の中に埋めてあるとは思わなかったよ」  係長が、低い声でいったが、ほかの係官たちは、はやる 心を押ししずめようとして、息苦しそうな顔つきをしてい る。  かしらが、呼ばれた。  コンクリートを、タガネでこわして、また少し穴のふち をひろげ、係長が、さすがに今度は息づまる声でいった。 「さア、よし。もう一枚、写真だ。それから、この服地 を、はいで見ろ!」  背の高い刑事の一人が気がついて、電燈のコードを長く のばし、人々の肩越しに、光の穴の中までさし向けた。そ うして他の刑事が、静かに服地をはぎとって行ったが、す るとその下に横たわっている人間の死体が、脚から胴、 腕、肩、そして顔という順序で見えてきた。  その死体は、園江新六であった。 短い尺度計の告白 一 『今私は、一八七五年フランス政府で招請したメ1トル条 約の会議のことを考えている。この条約でメートル国際原 器が、トレスカの考案にもとづき、X字形の断面をもつ、 白金とイリジウムとの合金製のものに決定された。その原 器は、重さが、たしか三・二五キログラムあった。そし て、摂氏一五度で、正しく一〇〇センチメートルの長さを 示した。私は、この原器が、もし狂っていたら、というこ とを思ってみる。その場合は、地球上の尺度計が全部狂っ てしまうのである。幸いにして原器は狂っていなかったか ら、それを基準にして作った他の尺度計も、摂氏一五度で 正しく一〇〇センチメートルであることが可能になった。 そうして、もしかして九九・九九センチの尺度計が作られ たとすると、それは不正な尺度計であることが、たやすく 看破され得ることになったのである。  しかし、この不正な短い尺度計を、正しい尺度計だと思 いこむ者もあるであろう。しかも私は、そういう尺度計を 使っていたのである。イヤ、私自身、その尺度計であっ て、正しい原器と比較することさえ忘れていたのだといっ てもよい。短い尺度計は、測量を常に誤まっていたが、自 分では誤まっていないつもりであった。そうして、今の破 滅を招いたのである。測量が、理論的には正しいと見えて も、実はまことに不正確であったのは、尺度計の例ではな く、次のような場合にも似ているだろう。  ある博物館で案内人が説明した。 "このミイラは五千七年たったものですよ" 〃ほう、なるほど。しかし、五千七年というのは、どうし てそんなに正確にわかっているのですか" 〃なアに、あなた。私がこの博物館へ任命された時、この ミイラは五千年前のものだと聞いたんですよ。ところが、 私はそれ以来もう七年間、案内人をつとめていますから ね"  この案内人に、五千七年が無意味な数字であることを、 ハッキリ呑みこませるように説明するのは、かなり困難で あるに違いない。彼にとって、七年という数字は、大切な 数字だった。そうして五千プラス七、答えの五千七年は、 どんな大学の教授でも、同じように計算するものと考え た。これは合理的である。合理主義は、こうして頑固に案 内人の頭を支配している。私も、案内人に似ていた。短い 尺度計にあわせて正しければ、それこそ合理的であると考 えたのである』  笠原昇は、警視庁の留置所で、手記を書くことを許され たが、その手記の冒頭で、以上のように書いている。  彼の身体をしらべると、ズボンのバンドにとくべつな仕 掛がしてあって、そこに青酸加里の粉末が収められていた が、もし、園江の死体が掘りだされた時、身体の自由を拘 束されていなかったら、すきを見て毒薬をロへ投げ入れる つもりだった、と彼はいっている。  変装した二人の刑事が、先発してミネルバ倶楽部へ行っ ていたのは、まことに機宜を得た処置だったと言えるだろ                ゆだ う。死ぬことさえ、自分の意志に委ねられなくなったのだ と知った時に、彼も、もはやすべての結末が来たことを覚 ったらしい。  その後の係官の訊問に対しては、彼は進んで全部をうち あけた。逮捕状の方は、園江新六殺害の一件だけになって いる。しかし、藤井家の盗難品が、新六の死体といっしょ に発見されていたから、もう言い逃れはきかず、藤井代議 士を殺したのもやはり自分であると、ハッキリ自白したの であった。  殺人の動機を訊ねられた時に、 「いえ、ぼくは、動機とは、言いたくない気がします。そ れは、ぼくには、冷静な理論だったのです。今は疑問が湧 いてきています。しかし、その時には、そうするのが最も 合理的であるとぼくは考えたのですから」  と彼はいったが、その理論や、殺人の手段などについて は、彼の手記が詳しく説明している。  手記は、次の如きものであった。       ×       ×      ×  さて私は、世間の人が1教育家や評論家や、人格者と 呼ばれる人たちが、私のことをいろいろと批判する中で、 紬人ぐらいば、私を羨ましがる人だってあるだろうと思っ ている。           たいはいてぎ  私の思想や行動が、頽廃的であり不潔でありエゴイズム であり、ことに殺人者だから、甚だしく反社会的だという 非難は、当然おこるにちがいなく、しかし私への共鳴共感 者だって、必らずしも無いとは限るまい。私は、自分の欲 するものに対して、勇敢に突進した。世間には、この勇敢 さを欠くために、実は私と同じことをしたいと思いつつ、 それができないでいる人がかなりに多い。その人たちは、 腹の中の考えは不逞でも、表面的な行動は常識的で円満で 社会性があるから、いちおう善人として認められている。 細く長く生きるためには、まったくそれは賢明なやり方で あり、私の方が、馬鹿だったということになるだろう。 が、私は、そう思われても口惜しくはなく、なるほど君た ちの方が賢明だよと、その小さな善人たちを、慰さめてや るだけの寛容さを持つつもりである。そうして彼らは、私 を悪しざまに罵り軽蔑し、しかも内心では、あいつはうま くやりやがった、最後に手錠をはめられ、絞首台へ送られ るようにさえならなかったら、おれもあいつと同じことを やりたかった、と考えているにちがいないのである。  小善人諸君!  諸君は幸いにして、よい尺度計を持っている。その尺度 計をたいせつにしたまえ。まちがった尺度計を使ったら、 たちまちにして諸君も地獄行きだ。著名な人物では、ヒト ラーが、狂った尺度計を持っていた。東条がまたそうだっ た。ところが諸君は、もちろんヒトラーだけのことはでき やしない。いや、私だけのことすら、できないだろう、そ うして、ただの一つでもその欲望を達しないうちに、地獄 行きの急行列車に乗ってしまう。なぜなら、狂った尺度計 は、それを使うことだけが、かなり困難だ。智能と技倆と が必要だ。その上に、智能と技倆とが、断然優れていたに しても、けっきょく狂った尺度計は、正しい測量をしない から、破滅が来てしまうのである。  私が、どんなにして、智能と技倆とを応用したか、その ことを書いてみよう。  それは、藤井家の事件より二日前の夜、九時すぎだっ た。  私は、ある女との抱擁で、ひどくくたびれていた。女 は、私の先輩にあたる某官庁の役人の細君であり、肉感的 に私を誘惑するものがあったから、二度目にその家を訪問 した時、私は苦もなくその女を征服したのであったが、征 服してみると、思ったよりつまらない女で、私はがっかり してしまった。そうして私は、下宿へ帰ってきたのであ る。  ところが、下宿の前までくると、暗がりから、とつぜん 園江新六が出て来た。彼は、私を訪ねてきて、しかし、中 へははいらず、暗がりに身をかくすようにして、私の帰り を待っていたのである。私がなぜこんな夜遅くに来たのか と訊くと、もじもじしていて、なかなかわけを話さない。 それから、ついに警察から追われているので、どこかへか くまってくれといって頼むのであった。  気まぐれな興味が私のうちにわいてきた。  そしてこの不細工な顔の、野犬のような男に、いっぺん は恩を施しておいても、悪くはないと考えた。ただ、私の 下宿の部屋でこの男といっしょに寝るのは、いかにも殺風 景でやりきれぬ気がしたから、淀橋に、高利貸しの会社を はじめるつもりで借りてあったバラックがあったことを思 いだし、そこへ、自動車で彼をつれて行ったのである。  まだ手入れをしてないバラックで、彼は不服そうであっ たが、平川や高橋たちと、その夜の宵の口に強盗をやろう として失敗し、ちりちりばらばらに逃げたという話をし た。そして、私に、金を貸してくれといったり、そのあと で、彼にとっては致命的な失言をした。藤井有吉の家に、 かんたんに盗み出せる金がある。有吉が友だちでなかった ら、その金を盗み出すのだが……というのである。その時 に彼はその金が、百万円以上あるのだといった。あとでわ かったが実際は十五万円であり、それを彼は、ことさらに 大げさにいっただけのことであろう。私は、真実百万円だ と思いこみ、すると私の血の中に住む金色の鬼が、何か私 に囁くようであり、そうしてついに新しい一つの考えが、 とつぜんそこへ生れてきてしまった。  その金のことを、私は、福島の炭坑の森の中で、貴美子 夫人から少しばかり聞きかじっている。だから、一方では 受取るまいとし、一方では無理に押しつけようとする秘密 の金で、どこへ消えてなくなってもかまわない。まことに もてあまされた金だと知っている。私は、もったいない、 それを自分が、使ってやろうと考えた。そうして、園江の 話だと、盗み出すのは、そう困難でないようであるが、実 際はかなり困難だろうと思い、そう思うといっしょに、そ     こくふく の困難を克服するための工夫が、頭の中へ泉のように湧い てきた。  金は、藤井家の二階の書斎に、ブックケースへ入れてか くしてある。  が、その部屋には、藤井代議士が寝ているし、貴美子夫 人がつきそっている。  そうだ、代議士は殺してしまえ。金を奪い、それから貴 美子夫人をも、自分のものにしてしまおう、と決心したの であった。  断わっておくが、私の貴美子夫人に対する愛情こそは、 私の今までの生涯で、いちばん真剣なものだった。その時 もそうだったし、あとでも常にそうだった。彼女が私のも のになっていたら、私の人生観は更正され、私はもっと平 凡であるとともに、世間から賞讃される人間になり得たか も知れない。彼女の迷惑になることだから、これ以上深く 私は説明をしまい。が、彼女を欲しかったことは事実であ る。そうして、藤井代議士がなかったら、私は彼女の愛情 を自分に向けさせることも、不可能ではないという気がし た。結論として、代議士を殺すことは、一石二鳥だと思っ たのである。  むろん、私にも、反省がないではなかった。  盗みをし、人殺しをする。  これは、悪事である。  私は、それを百も承知、二百もがってんというところ で、ことに、そういう悪事こそは、私自身にとっても甚だ 危険であるとわかっていたのであったが、その時に私に は、例の短い尺度計が作用しだしたのである。藤井代議士 は、清廉潔白の好人物だが、死んだところで、世界がそれ ほどの損失をしたということにはならない。金は、私が有 用に使う。そして、私の人生は、貴美子夫人を獲て、ます ます充実される。何よりも私は、私の欲望を達成するため に、手段があり方法があるのだったら、躊躇や遠慮をして いるのこそ、私の人生への反逆であると考えた。理論が構 成されたのである。私は、勇気が出てきた。これを実行す るのには、一連の危険を冒さねばならず、そのことが、却 って私を激励するようであった。綿密に考え、大胆に実行 し、見事に私はやってのけようと決心した。これは、危険 を冒して猛獣狩りをする心理に似ている。それにまた戦争 というものがある。戦争では、いかにして最も効果的に     さつりく 敵を多く殺戮するかということばかり研究している。一人 や二人の殺人がなんであろうか。私は、身ぶるいし、頭の 中が爽快になり、すぐその場で、実行に着手したのであ る。  第一に、私は、園江新六を殺すことにきめてしまった。  この男は愚劣であるから、私の仕事の協力者たるの価値 はなく、しかも、のちに、藤井家で・事件がおこった際に、 私がそれをやったのだと感づいたり、それを世間へ言いふ らす危険が多分にある。彼が私に教唆しているからだ。私 は、この危険を未然に防止するには、殺すのがいちばんだ と考えた。ことに、彼のような醜悪な男こそ、生きている 値打ちはないのである。私は、どうだ、酒でも飲むか、と 彼に訊いた。彼は、こんなバラックで、寝具もなくて寝ら れやしない。酒は有難いね、といった。私は、すぐに街へ 出て、ポケットゥィスキーを買い、ついでにまだ起きてい る古道具屋があったのを幸い、ショベルを一ちょう、買っ てきた。ショベルを見て、園江は、オヤオヤそれは何に使 うのだと聞くから、ウム、これは地べたを掘って、世の中 で役に立たない廃品を埋めるのだよと答えたが、彼にはそ の意味がわからなかったらしい。ウィスキーには、口ぶた の、アルミのコップがついていた。そしてその底に、青酸 加里がこびりついていた。彼はゴクリと飲んだ。そうして たちまち死んでしまった。  私は、土間を掘りはじめた。困ったのは、腕力が足りな いから、思うように深く掘れなかったことである。  しかたがない、ともかく、死体をかくすだけにして、あ とでまた工夫しようと考えた。いいか、そのうちに、もっ とうまくやりなおすよ、今はそれでがまんしていろ、と私 がおどけて死体に言うと、死体は蝋燭の焔の下でだまって 私を眺めていた。  私は、いそいで、次の仕事にとりかかったのである。 二  藤井代議士の殺害については、その詳細の手順を、ここ に書く必要はないだろうが、私がここで最も苦心したの は、貴美子夫人を、いっしょに傷つけてはならないという ことだった。不幸にして夫人は、代議士のそばにつききり でいる。どうにかして夫人を、そばにいないようにする必 要があった。  そのため、園江殺害から二日間、私は工夫をこらした。 私は夜になると、下宿の小母さんには、睡眠剤をあたえて 眠らせてから外出し、藤井邸の附近を徘徊しては、乗ずる 隙もあらばと狙っていた。  ついに二日目の夜、私にとっては最も不気味な存在の友 杉君が外出したので、とりあえず尾行してみると、神田の 紅中軒へ、有吉君を迎えに行ったのだとわかった。私は、 麻雀となったゐ、有吉君がなかなか家へ戻らないことを知 っている。紅中軒の硝子戸の外から覗いていると、友杉君 がじっとその麻雀を見物しているから、そうだ、今夜だ、 今夜が与えられた機会であると悟った。そこで、藤井邸の                    おび 近くへとってかえし、電話で貴美子夫人を誘きだし、つづ いて、女中のふみやをも同じ口実で、外出させてしまった のである。今や、邸内には藤井代議士が、一人きりでいる ことになった。私は、度々藤井邸を訪れたことがあり、勝 手は明るい。友杉君がまき割りに使う斧が、納屋にあるこ とを知っていたから、その斧を持ちだした。斧など使わず 何かもっと目新しい科学的な殺人方法がないものかとも思 ってみたが、犯行が野蛮であり原始的であれば、それだけ 私への疑いは避けられるのだと考えなおした。まったく、 私にとって、斧で人間の頭をぶち割るなどということは、 たいへんに似合わしくないやり方である。それは、園江な どなら、やることかも知れない。そうだ、うまく行くと、 園江は行方不明ということになり、嫌疑は彼にかかるだろ う。よし、斧でやれ! と私は心のうちで叫んだのであっ た。  挿込錠のこわれた窓からはいってから、二分の後に、身 動きのできない藤井代議士は、血みどろになって死んでし まった。  私は、日本史略のブックケースから、金がたった十五万 円しか出てこなかったので、ナヤとびっくりしながらも、 さすがに、ほかの場所を探すだけの心の余裕をもたなかっ                  しよい た。じきに階下へ降り、その時、盗賊の所為と見せかけ て、警察の捜査をまどわすのも一策だと気がついたから、 納戸へ行き、洋服地を盗みだしたが、そのあとは、台所へ はいって、手や顔へとびついた血を洗い、そうして、藤井 邸の玄関から、逃げ出したのである。  うまく、私は、下宿へ戻った。一つだけ、ひどく危険だ ったのは、藤井邸を出てから間もなく、紅中軒から帰って きた有吉君と友杉君とに、あぶなく顔を見られそうになっ たことである。彼等は、坂を上ってきた。私は、坂を下ろ うとしていた。そのままですれちがいになったら、私は顔 を見られたかも知れない。私は、話し声で、彼らだと気が ついた。そうして道を変えて逃げてしまったのである。  その翌日からーー。  私が、警察の捜査を、どんなに注意深い眼で見守ってい たかは、誰でも推察できることだろう。嫌疑が、私には向 けられず、はじめに諸内代議士が怪しまれたことは、私を いくぶんか安心させ、しかし、いつまでも安心してはいら れなかった。仕事は、まだし残してある。それを片づけて しまわねばならない。その仕事とは、園江の死体をもっと 安全にかくしてしまうということだった。  ある日私は、淀橋のバラックへ赴いた。そして、また ショベルをふるい、死体をなお深く地中へ埋めの、ちに、こ の上をコンクリートの床にしたら、それこそ完全であろう と考えた。ところが、土を掘りのけてみて、私はすっかり へぎえぎ 辟易したというのが、すでに時間がたっている。気候が悪 い。死体は腐敗しかけていたのである。私は、嘔吐をもよ おした。それでもがまんしてやりかけたが、深く掘るため に死体を抱き上げようとすると、おどろくほどそれは重か った。そして手を放すと、土がザラザラ崩れおち、穴は前 よりも浅くなってしまった。私は、洋服地を死体にかぶ せ、っかれきってため息をついたが、実はすでにこの時私 の計画には、狂いが生じたと感じたのである。すべて、綿 密に計画したつもりだった。また、その時までは、何も支 障がおこらなかった。だのに、あの低能の園江の死体が、 私を裏切ろうとしているのである。私は、ありていにいっ て、狼狽した。そうして、狼狽したら駄目だぞと、我と我 が心を叱咤しつつ、次の最善の手段を工夫した。ともか く、コンクリートの床を、この死体の上へ築くことは、絶 対に必要である。が、このままだったら、土方がきた時、 死体を発見される恐れが強い。死体を発見させず、コンク リートで上を塗りかためさせるには、どうすればよいか。 私は、百の考えを、頭の中でくりかえした。そうしてつい に、解決をつけた。  私は、その夜のうちに、ある女を訪ねた。  洋裁店の女主人で、私に学資を貢ぎ、私をえらい学者に 仕込むという、無邪気な夢を描いていた女である。  女に会い、帰る時、私は猫を盗んできてしまった。なか なか困難だったが、けっきょく猫を、女に気づかせず、盗 んでくることに成功した。そして猫を、青酸加里で殺そう としたが、動物は、不思議なものである。毒薬入りの魚 を、くわえたかと思うと首をふってふりおとし、なかなか 食べない。ついに、首へ紐をかけて天井へつるし、そして ナイフで横腹をえぐって殺した。その猫を、死体にかぶせ た土の上に置いて、ひとまず、バラックを引き上げたので ある。  私は、いつ誰があのバラックへはいり、猫の下の廃品を 発見するかも知れぬ、という恐れで、一日も早く、コンク リートの床を完成しようとあせったが、ついに、平川と高 橋とを利用することに成功した。少なくとも成功したつも りだった。彼らに、気前を見せ、心服させ、バラックへつ れて行った。猫を、私は、非常にびっくりして発見し、           ねつぞう それから、猫の迷信を捏造し、猫の位置を、一寸でも動か せずに、コンクリートの床を築くのが、それほどひどく不 自然ではないという体裁を作り上げてしまった。私は、迷 信の話をするのが、いかにもふさわしくない感じで、気お くれがし、吹きだしたくなり、それでも、うまく彼らはだ まされた。その翌日に、もうコンクリートは築かれた。工 事の請負人が、土間の土をさらった方がいいという。が、 それは猫の迷信で一蹴した。その結果、死体も洋服地も猫 も、完全にコンクリートの下へかくされ、さてしかし、床 が高すぎて天井が低い、まことにぶざまな事務所ができあ がったというわけである。  ぶざまであっても、平川や高橋はそれが猫の迷信のせい だと思ってしまっている。他人から聞かれても、そう説明 するにちがいないのであった。私は、ホッとした。ホッと するとともに、いよいよ貴美子夫人に対しての工作を進め ようとし、それには、有吉君を手なずけるのが、何より効 果的だと思ったから、平川と高橋とに命じて、有吉君を、、、 ネルバ企業倶楽部へ呼びょせた。  ところが、これは、思いもよらぬ私の失敗だったのであ る。  有吉君といっしょに、友杉君が来てしまった。  しかもこの時に有吉君が園江のことを私に訊いた。園江 が私を訪ねたことは誰も知る者がないと思っていただけ に、私は愕然としたのである。ことに友杉君が、口には出 さず、鋭い眼で、私の一挙一動を見守っている。私は、顔 色を変えまいとするのに骨が折れた。ともかく、園江には 最近会わぬと返事したが、早くその話題を他へ転じたいと あせった。友杉君が、事務所のうちをじろじろ眺めてい る。床の高さを気にしているにちがいなかった。そうし て、その時は、それ以上に格別なこともなく、友杉君と有 吉君とが帰ったので、私はどうやらこれで、危機は脱した                きよごう のだろうと考えたが、それは私の倨傲な自負心が、私を欺 いただけのことである。或はまた、尺度計の狂いが、ここ でも作用したのである。警視庁へ来てから、係官の話で、 私にはわかった。友杉君は、有吉君に園江のことを訊かれ た私の狼狽を、敏活に見てとっていた。また、果して、床 と天井との釣合いに、不審の目を向けて帰った。捜査課へ 来て、彼はその印象を語ったのだそうである。捜査課で は、事務所の構造を視察に来た。そして、ついに、猫が洋 裁店の猫であることを捜索しだした。もう、いけない。か くしてミネルバ倶楽部へは、あの三台の自動車が来てしま -ったのである。  私のたてた計画は、まことに綿密であるつもりだった が、その実たいへんに粗雑なものだった之いうことが、今 にして私にもよくわかる。そうしてその粗雑さは、単にこ の犯罪についてだけでなく、私の思想や行動や、その全部 を支配していたのではなかったろうか。  私は常に思った。すべては合理的であらねばならぬ。そ して現実をしっかりと把握し、それに即応してのみ生きる ことが、私の生命への最も合理的な努力であると。  しかしながら、その現実の把握が、すでに私の場合で は、甚だしく粗暴であったのかも知れない。そうだ、世    うそいつわ の中の、嘘佯りのないとことんの現実なんて、そう簡単に 見極めてしまうことはできないのに、私はそれができたの だと、思い上っていたのである。けっきょく私は、単なる 空想家にすぎなかった。空想こそは、無制限に自由で楽し くて、しかし、実在するものとの間には、ハッキリした区 別をつけておかねばならなかった。私は、その区別を見失 い、しかも悪魔的な空想に溺れてしまっていたのである。  短い尺度計ー。  尺度計は、現実への測量過失を犯した。  この尺度計は、折って捨てた方がいいと、私は今ハッキ リ思っているー。       ×       ×       ×  笠原昇は、この手記のほかに、二通の手紙を書いている。  一通は貴美子未亡人あてで、他の一通は友杉成人あてで あったが、どちらも、ひどく簡単で、私は生れてはじめて の祈りをささげる。それはあなたの幸福を祈るのである、 という、文句までほとんど同じものであった。 (おわり)
絶壁       一                へきぎよくろう  M県S海洋という町の温泉旅館碧玉楼へ、ある日の夕 方、二つの大型トランクを携帯した、男女二人つれの奇妙 な客がぎて泊った。  男は五十歳ぐらい、女はずっと若くて三十歳ぐらい ー。  彼等は、駅からまっすぐに自動車でやってきた。  しかし、その自動車からおりたばかりの時は、まことに みすぼらしい服装をしていて、男の方は、ところどころつ ぎ目のあたっている白麻のズボンに汚れきった開襟シャ ツ、古びたカンカン帽に軍隊靴といういでたちだったし、 女がまた、顔立ちだけは整っていながら、着ているワンピ ースの服が、仕立も柄合もひどくじみで不恰好で、その上 むきだしの足に、ズックの運動靴をはいているという有様 だったから、はじめ宿ではこの二人をすっかりと軽蔑し、 ほかに空いた部屋もあったのに、彼等を宿としては最下等 の一室に通したほどであったが、さてそれからしばらくす ると、女中が帳場の番頭にあわてた目つきで報告にきた。 「ねえ、あのお客さま、部屋を変えてあげた方がよくなく つて?」 「ふーん、どうしてだい」 「身なりはそまつね。だけど、持ってきたものが、とても 大したものばかりよ」 「へええ、持ってきたものって9」 「トランクが二つ、あるじゃないの。あたしが行ったら、 トランクの蓋をあけたところなの。そうしたら、服も靴も 帽子も、りっぱなものばかりが揃っているのよ。女の方 は、グイヤの指環出して指へはめたわ。そうしてね、山登 りしてきたから、汚い服を着てきたんだっていっていて よ。悪いこと言わない。部屋を変えた方がいいと思うな」  それではと番頭も気がついて、客に詫びを言いに行った り、特等の二階月の間に案内したり、急に滑稽なほどてい ねいな客あしらいに変ったのは、いかにもこの商売として はあたりまえのことだが、そうなってみると客の方は、男 も女も、すっかりとおちついてきて堂々として、そういう 上等の待遇には、ふだんから慣れっ子になっているという ところが見えてきたから、女中と番頭とは、 「ね、ごらんなさいよ。今日ばかりは、あたしの目の方が 高かったわね」 「うん、そうらしいな。着替えの浴衣まで、自分のを持っ てきている。どう見ても一流の紳士だね」  また話し合ったくらいである。  彼等は、東京からきたのだといった。ここの湯が胃病に 特効があると聞いてきた、それで当分のうち滞在するつも りだともいった。  宿帳の名前は、文房具商高畑義一、同人妻文江としてあ って、しかし、夫婦ではないのであろうし、またどう見て も商人らしいところはみじんもない。女は入浴したあと、 部屋の鏡台の前へ坐って、 「ああ、やっと、さっぽりしたわよ。こんな旅行って、も うこりこりだわ?。それに、景色だって、ちっともいい ところじゃないじゃないの。汽車は三等、おにぎりの弁 当。とんだ道行きしちゃったわね」  不平そうな口ぶりでいったが、だんだらしぼりの涼しげ な浴衣に、パッと目のさめるほどの赤い伊達巻をしめた姿 が、宿へついたばかりの時とは別人のように、あでやかに 見え、コケティッシュに見える。男の方も、同じく湯上りの 肥った躯を、ガッシリあぐらをかかせて葉巻をくわ、兄て、 暮れてきた海の遠くを眺める目つきが少なからず傲岸で、             つらだましい 精悍で、人を人とも思わぬ面魂に見えるのであった。  夕食に、彼等はビールをとりょせた。  男にまけず、女もかなりいける口で、ビールよりはハイ ボールかなんか飲みたいわ、などといったり、久しぶりで 三味線を弾きたいなどと言い出したが、酔いが廻るにつれ て、男の方ぱとくに目つきが淫蕩になり、もう女中がきて 次の部屋へ寝る支度をして行ったにもかかわらず、だしぬ けに女を抱きょせると、はげしくその場へねじ伏せてしま った。 「……いやだわ……無理よ。部屋が開けっぱなしじゃない の……それに、女中さんがくるかも知れなくてよ。:::あ あ。そんなことして、バカバカ! ……ああ・:・:」  女は身をもだ、兄て抵抗し、男を罵しるようにしながら、 しかし結局は、自分から進んで男の要求に応ずるようだっ た。  荒い呼吸をして、男は、縁がわの籐椅子へ行き、ドサリ と腰をおろした。 「へんねえ。あなたという人。今度はいつもとまるっきり 変ってるわよ」  しばらくして女がとつぜん言った。 「そうかい。どう変っている?」 「だって、そうじゃないの。万事が万事だわよ。あたしに わけも話さないで、こんな田舎の温泉へつれてきて、それ もあなた、一等のパスだって持ってるのに、汚いなりをし て三等できて、これから、何があるっていうのよ。あた し、怖いような気がしてきたわ」 「うん、怖いのは、おれも、怖いよ」 「え9」 「なに、お前を困らせるようなことは、せんつもりだ。だ から、お前がびくびくすることは少しもない。しかし、今 度という今度は、もしかするとわしの土壇場だからな」 「いやねえ。土壇場なんて。1わかった。じゃあなた、 やっぽり警察から疑われていたとおりね。藤井という代議 士を殺したの、あなただったのね」 「じょ、じょうだんいうなよ。わしは、そんなのじゃ、決 してないさ。仮にも諸内ともあろうものが、そんな殺伐で 野蛮なことは決してせん。藤井が殺された時、わしが大森 のお前の家にいたことは、ほかの誰よりもお前が知ってる だろう」 「そうね。それは、そう言われると、そのとおりだわ。だ けど、じゃ、ほかに何があるっていうのよ」 「つまりだな。明日になると、この宿へ、わしを訪ねてく る人物がある。こいつは、なかなかの悪党だよ。悪党でい て、見かけは寺の和尚か田舎の村長みたいな顔をしてい る。こいつに会って、話がこっちの希望するとおりのとこ ろへおちつけば、何も心配はないことになるし、でなかっ たら御破算さ。御破算も御破算、おれだけじゃなくて、天 卞の大政党の御破算だぞ。おれは、少なくとも代議士じゃ いられなくなるからな。とにかく、その悪党に、会ってみ なくちゃわからないが……」 「悪党って面白そうね。そういうの、あたし大好きさ」 「好きか好きでないか、会ってみてからわかる話さ。ー うん、しかし、お前がそいつを好いてくれたら、わしは都 合がいいよ」 「オヤオヤ、どうして?」 「というのは、おれが目をつぶって、がまんしなくちゃな らんかも知れない。老人のくせに女が好きなやつだ。一晩 ぐらい、お前が御機嫌をとらなくちゃならんかも知れん」 「あら、そいじゃ、あたしが、人身ごくうになるっていう わけ?」 「ふふ、まさか、本気でそれを言うんじゃないよ。お前 を、入には渡すものか。ただ、譬えれば、いや、成行きで は、そうした方がいいという場合も起るというだけの話 だよ。まア、政治の裏面ではね、そんなことがしょっちゅ うあるのさ。自分の娘を、人身ごくうにすることもある。 ひどいのは、女房を提供する。それがまた昔から、いちば ん手っとり早い方法だとされているのだ。世の中のこと を、真正面からだけで見ていたら、聖人君子ではいられる だろうが、しまいにゃ野たれ死にするかも知れんからな。 わしはしかし、少々やりすぎたかとも思っているよ。まっ たく、つまらない目にあった。政治的野心なんか持たない で、材木屋をやっていた方が、利口だったかと思うよ。ウ ハハハハ:::」  明日になれば会うという悪党は、まだ誰のことをいって いるのかわからない。  しかし、この会話を、誰でも聞いたらわかるだろう。男                    かこ は代議士の諸内達也だった。女は、大森に囲ってある妾 で、これは宿帳に記入したとおりの文江という名前の女で ある。旅行は、秘密の旅行だった。身分をかくし、名前を 変え、服装までもわざとみすぼらしくして、この温泉旅館 へきていたのだった。  九時少し過ぎ、男ー諸内代議士は、寝る前に汗を流し てくるといって、階下の浴場へ降りて行ったが、その浴場 は岩風呂になっていて、湯の落ち口の岩のかげに、色の黒 い、ボンヤリした目つきの、頭が少し禿げかけた痩せた男 が、ポチャポチャと湯の音を立てている。 「静かでいいですね、ここの温泉はl」とその薄禿げの 男から話しかけた。 「そうですね」  ぶっきらぼうに代議士はいっただけだが、 「前から御滞在ですか。私は、今日ここへ来たばかりです よ。まだ少し早いが、海岸の崖をおりると海水浴もできる し釣りも面白いそうですな。まア、私も四五日いてみよう と思っていますよ。崖といえば、あそこはまことに絶景で すね。あそこだけは、海がとても深いそうですし、上から 覗くと、頭がくらくらしてきます。最近に、浴客が一人、 飛込んで自殺して、顔もなにもめちゃくちゃになったとい うことですが……」  その男は、しきりに話しかけてきた。代議士は、いいか げんにそれにうけ答えをし、間もなくして女のところへ戻 ってきた時、ハタと横手をうつようにして、 「あ、そうだ。あの男だ!」  とひとり言をいった。  女が、すぐ聞きとがめた。 「あら、どうして? 何があの男なの」 「うん、いま、風呂場でわしに、うるさく話しかける男が あったのだよ。どこかで見たような顔だと思ったが、東京 からの汽車の中で、同じ箱に乗っていた男なのだ」 「そうオ。それで……」 「それでも何もないが……イヤ、待て。何もないことない んじゃないかな。あいつは、汽車の中では、おれのうしろ の通路の反対側の席にいたのだ。目つきが間がぬけてい て、そのくせ、おれが便所や洗面所へ立つ度に、じっとお れの方を見ていたような気がする。とちゅうの駅で、おれ はプラットフォームへおりてアイスクリームを買った。そ したら、あいつも、やはり、。フラットフォームを歩いてや がった。そして、その時こそは、たしかにおれの方を目ば たきもせずに見てやがったのだ。うん、こいつは、少し変 になったぞ。あいつのこと、注意しなくちゃいけない。い やなやつだ。とぼけて、おれに、海岸の絶壁のことなんか 話していたが……」  不安のかげりが、顔にういてきている。  しかし、代議士は、 「なアに、大丈夫だ。そんなはずはない。わしは、誰にも 知れぬように東京を出てきたのだから……」  強いてそういって、新しい葉巻を口にくわえた。       二  朝、おそくなってから、代議士は目をさました。  疲労を恢復すると、昨日にも増して傲岸な面構えにな      おうへい り、態度も横柄で、そのかわり、番頭を呼んでチップの札 束を、どさりと投げ出した。  入浴して、帰ってきて、女中を呼んだ。 「断わるのを忘れていたよ。わしを訪ねてくる人があるは ずだ。もしかすると、名前をまちがえて、わしのことを諸 内といってくるかも知れない。そういう人はまだ来ないか ね」 「はい、お見えにならないと思いますが」 「よろしい。では、来たら、すぐにここの部屋へ通してく れたまえ」  女中が、かしこまりましたといって引下ろうとすると、 「ああ、そうだった。ここの宿に、頭が薄っばげになっ た、痩せた男が、昨夜からきて泊ってるだろう。あの客 は、ここの馴染みかね」  と訊いたが、女中は、首をかしげて考えていて、ちょっ とわからないという顔つきをしている。 「風呂場で話しかけられたのだよ。なアに、なんでもない が、わしたちと同じ汽車で東京からきて、この宿へ泊った らしいのだ」 「さようでございますか。昨夜は、たしか、新しいお客さ まが四組いらっしやったと思います。でも、宿帳へ東京か らとお書きになりましたのは、こちらのお部屋だけでござ いますし、旦那さまが、いちばん早くお着きになったので ございますよ。あ、そうでした。頭の薄っぽげのお客さま というのは、松の間のお客さまのことでございましょうか 知ら?」 「うん、部屋は知らないが、色が黒くて、ボンヤリした目 つきをしているよ。女でもつれてきているのかね」 「いえ、男ばかり、お二人ですわ。会社員だっておっしゃ っていました。風呂場でお会いになったのは、そのうちの 年上の方のお客さまでございましょ。笑うと金歯が光って いて……」 「うん、そうそう、それだ」 「とても、冗談ばかしいっていて、面白い人ですよ。で も、何か、お気にさわったことでも・:…」 「イヤ、イヤ、何もないさ。もう、よろしい。サイダー を、氷といっしょに持ってきてもらいたいね」  疑念はまだあるが、聞いてみたいことをそのままにし て、あとは女に、 「ナイ、お前。海水着も持ってくるとよかったな。海は、 遠浅なところがあるそうだよ」  と話しかけている。  遅い新聞がきて、それをゆっくりと読んでいた。  昼食に、またビールを飲み、二人で散歩に出た。  その散歩から帰った時、約束のある人物が訪ねてきて、 逆に代議士を待ちかねていたのである。  その人物は、背の低い、髯の多い、鋭い目つきの、片腕 を繃帯で吊った老人だった。  二人で顔を合せたとたんに、 「やア……」  とどちらも言い、代議士が、 「どうしたね、腕を?」と聞いたが、簡単に、 「怪我をしたのさ。久しぶりだね。貴公が直接来てくれる とは有難いよ」  と答えただけであった。  代議士と老人とは、すぐに二階の部屋へ行った。  しゆこう  酒肴の支度を宿に言いつけようかと女が代議士に相談す ると、 「いや、そいつは、話がすんでからの方がよろしいて。奥 さんは、こりゃ、べっぴんだね。こんなべっぴんをつれて きて、わしに見せつけるのは、諸内君も罪つくりじゃな いか。アハハハ、あとで、そのことを相談せんといかんわ い。な、諸内君、そうじゃろう。わしは、死んだ人間に なって、世の中の蔭で暮しておる。君が、そうせいといっ たからだろう。パージでいるよりこの方が面白いという見 方もあるが、わしはわしで辛いこともあるのだよ。時に は、戦犯で処分された方があとくされがなくてよいと思う こともあるし、いっそ、また東京へ出現してやろうかと考 えることもあってな。アハ、アハ、アハハハ」  老人は腹をゆすって、皮肉に笑い出すのであった。  やがて代議士は、目くばせして、女に座をはずさせてし まった。  それから、代議士と老人とは、長いうち二人きりでその 部屋にいて、何か密談を交していた。  その時に、一度は代議士が、ひどく気にしていたはずで ありながら、いまはすっかりと思い出しもせずにいたの が、例の風呂場で話しかけてきた、ボンヤリした目つきの 男のことである。  女中がいったとおり、その男は、自分より年の若い、俊 敏なスポーツ選手のような軅をした男といっしょで、同じ 宿の松の問に泊っていた。  松の間は、次の間のついていない、床前はあるが、畳も 赤くやけていて、午後に西日が射しこむという部屋である。  代議士への来客があった際に、年長の頭の薄っぽげの男 は、ウカと油断していたのであろう。部屋のうちでも風通 しのいい窓のそばへ寝ころんで、宿の玄関への出入者を、 絶えず見張るようにしていながら、つい、とろとろとし て、午睡をしはじめ、折悪しく、また若い方の男も、これ は野天風呂があると聞いたから物好きで、その野天風呂へ 行っていたため、代議士への来客のことは、それから二時 間ほどもしてからやっと知った。女が、密談の席を遠のい て、一人きりで階下の娯楽室へきて、郷土細工土産品の陳 列棚をのぞいたり、つまらなそうにコリントゲームをやっ たりしている。その様子が少し変だと気がついたから、た くみに宿の女中にあたってみて、月の間へは、いつの間に か客が来ていると知ったのであった。 「ホイ、やりそくなったぞ。その客がどんな男だか、見て おいた方がよかったんだ! 六日のあやめ、十日の菊…… じゃない。十日のあやめ、六日の菊……わからん。どっち でもいい。それになっちゃ、たいへんだぞ」  年長の男が、おどけていって、すぐにまた真顔になって いる。 「よしきた。やっと少し面白くなった。橋本君。君は、見 張っていてくれたまえ。どこかへ二人が外出するようだっ たら、すぐあとをつけて行く。ぼくは、ちょっと偵察だ よ」 ・誹  そして、いそいで浴衣を服に着かえ、リュックから大ぶ りな双眼鏡を出して、宿の裏階段をおりて行ってしまっ た。  月の間では代議士と老人とが、まだ密談をつづけてい る。  三十分とたたぬうちに、松の間へは、偵察に出た男が戻 ってきた。 「大成功だよ」 「そうですか」 「あの部屋の中を、どこからもうまく覗けないんだ。幸い に向うの土産物屋の二階が、いい角度になっていると睨ん だ。しかたがないから、名刺を出して見せて頼んでね。そ のくもの巣だらけの物置場へ上げてもらったんだが、双眼 鏡があって大助かりだった。諸内代議士が会っているの は、誰だと思うね」 「さア……」 「持寄りの意見で会議をした時、いろいろの説が出たっけ ね。その一つに、元陸軍少将加東明は、中正党の秘密を握 っていて、そのために中正党のため殺されたんじゃない か、そうしてそれを藤井代議士が嗅ぎつけていたのだろう というのがあったほどだ。が、ともかくも、加東明と事件 とは関係があるという結論だったはずだね。貝原係長がそ   ちゆうしやく れに註 釈を加えて、もちろん関係はないじゃない。しか 」、藤井代議士殺しの直接犯人としては、やはりどうも諸 内代議士じゃ頷けない点があるのだから、その点でゴタク サを起さぬようにしろといっていただろう。まア、こいつ は、もっともだとぼくも思う。藤井代議士の殺人現場か ら、加東明の失踪事件を書いた新聞の切抜きがなくなって いるといっても、その切抜きだけを持ち去っても、新聞に 一旦出た以上、その事実はやはりあったことだと知られて いるから、もはやどうしようもないことで、従って、犯人 がその切抜きを盗むために、藤井代議士を殺しに来たなん てことは考えられない。そのほか、アリバイも、はじめに 洗ったとおり確かだった。常識的にも、中正党の幹部であ る諸内代議士が、自分から手を下して、まき割りの斧を振 ったものとは思われない。けっきょく、何かひどくモタモ タしていて、重大な関係はありながら、直接の犯人ではな さそうだと思われるし、一方で課長が、鋭く指摘していた じゃないか。これは、単純なノビ(窃盗)の品ぶれで、血 のついたトバ(着物)が出てきたために、思いもよらぬコ ロシ(殺人)のホシ(犯人)が出てくる場合に似たものかも 知れない。藤井代議士が殺されたのは大事件だ。しかし、 加東明の線から発展して、もっともっと大きな事件が摘発 されるかも知れないってね。ーどうも、課長の言葉は、 当っているよ。今、諸内代議士のところへ来ているのは、 元陸軍少将の加東明さ」 「えッ!」 「失踪している。生活苦で自殺したのだろう、と思わせて             かくしやく いる。ところがどうして、矍鑠として脂ぎっているんだ。 写真でいくども見ているから、双眼鏡でのぞくと、すぐに わかった。同時に、諸内代議士が変装して三等車でこの田 舎の温泉へなぜ来たかというわけもわかった。加東明に会 うためだったのだ。二人で、はげしい顔つきをして、いが み合いの口論をしている。どっちも一筋縄で行く人間じゃ ない。二人の話を、そばへ行って聞いていたら、とても面                      とくしんじゆつ 白いだろうと思うんだが、双眼鏡はありながら、読唇術を 習っておかなかったのば残念だよ」  若い方の、橋本と呼ばれた刑事が、もうだまっていられ なくなった顔つきだった。 「井口さん。しかし、もういいじゃないですか。どんなこ とを話しているにしろ、加東明がきているってのなら、こ れからすぐ踏んごんで、二人をしょびくことにしてしまっ たら」  といったが、警部補井口民二郎は、例の、ボンヤリした               なだ 目つきで、いきり立つ橋本刑事を宥めている。 「いいよいいよ。意気や甚だ壮とすべし。しかし、その時 期じゃないぜ」 「そうですか、どうしてですか」 「刑訴法が、昔のものとは違ってるんだ。つかまえたら、 こっちでまだ知らなかったことを、容疑者の口から、しゃ べらせるというわけには行かない。このために、人権は擁 護されるというが、同時に、善良な人間の安全も脅かされ ている。-うん、いや、不平をいっている場合じゃない さ。要するに、内偵をうんと進めておかなくちゃいけな い。第一が、諸内と加東とが、どういう利害関係で結びつ いているか、という点だ。そしてそれには、事実をつきと め、証拠を集積しておく。まア、ともかく動静を観望しよ う。大切なのは、加東明が、どこでどんな風にして暮して いるか、それを確かめておくことだな。1そうだ、それ には、君とぼくだけじめ、、手が足りない。君は、東京へ、電 報うってきてくれ。ここは国警だったかね。1だとする と、めんどうかも知れぬが頼んだらいいよ。電話をかけて もらった方が早いだろう。加東明を発見したと知らせて、 応援をたのむのだ。いいかい。うまくやれよ。ぼくは、一 風呂浴びて、お祝いに、ビール一本おごるからね」  そうして警部補は、愉快そうに、若い刑事の肩を叩くの であった。       三                        な  灯ともしごろ、海はうねりが高かったのに、風が凪いで しまったから、気温が急に高くなった。  どこかの団体客がきて、大広間いっぱい騒ぎまわり、流 行歌やおけさや戦時にはやったツンツンレロレロをわめき 立てている。  代議士と加東明とは、浴衣を着てあぐらをかいて、しか しまだ話の折合がつかないでいた。  夕食になり、今夜はビールと日本酒とがチャンポンで、 「な、ア、おい、諸内君。君の方に都合のいいことばかりい っていては困るじゃないか。悪くすると、君は、殺人の嫌 疑をうけるところだぜ。藤井代議士の話は、わしも田舎に いながら、新聞を読んで知っていた。わしが生き証人にな って出て、全面的に事実を証言するとしたら、中正党も何 もありゃしない。つまりわしが代って、藤非代議士のやり たいと思っていたことがやれるわけだよ。1一方でわし の失踪は、秘密を握っていたわしを、君たちが殺したのだ ともすることができるし、どっち道、ろくな事はないにき まっているだろう。まア、ゆっくり考えたまえ。わしも、       もうろく まだまだそう耄碌はしておらん。親からもらった名前を捨 て、赤の他人の引揚者になりすまして、君に送ってもらう けちな金でおとなしく田舎に引っこんではいるが、大義名 分のためとあれば、いつでも身を捨てて立つつもりだよ。 どうだい、今の政治はなっとらんね。線の太い、ガッシリ した人物がいなくなってしまったのかな。要するに、思い 切った手をうたなくちゃいかんよ。その手をうつ勇気がな いから、わしも中正党に、あいそをつかしているところ だ。魚心に水心ともいう。ここでまちがったことをするの だったら、天下にわしは公表するよ。その方が大義名分論 からは正しいとも言える。ウフ、ウフ、ウフフフ、まア、 結論は今夜に限るまい。ぼくと君とで、納得のいくまで話 すことだな。君の奥さんみたいなべっぴんを、その間わし   あつせん に、斡旋してくれても悪くはないぜ」                       うちわ  老人加東明は、いまは客のとりなしで横から団扇の風 を送っている女を、ジロジロ眺めて、言いたいほうだいの ことを言っているのであった。  さすがの諸内達也が、蛇の前の蛙のようなものであっ た。  国会では、痛烈な野次の名人であり、また蛮勇家として                   こうがんむ ち 知られているし、政治的裏面工作には、厚顔無恥であると ともに奇策縦横、ある場合になくてはならぬ人物とされて いて、しかも、この老廃将軍加東明の前では、額に怒りの 青筋を立て、唇を固く喰いしばり、時にわざと磊落な笑い 声を立て、ただ握りしめた膝のこぶしを、ブルブルとふる わせているだけであった。  加東明が、盃をチビチビとなめながら、顔をのぞいた。 「イヤ、しかし、酔いすぎたかな、久しぶりで、美人を見 たから、虫が起って困りよる。貴公、わしの言ったこと で、腹を立てているのじゃあるまいな」  代議士は、額の汗をふいていた。 「腹を立てはせんさ。君ぐらいの代物は、いつも扱いつけ ているよ。アハ、アハ、アハハハ……」 「そうか。よろしい。怒気心頭に発するというやつは、え てして間違いのもとだからな。怒るのは、けっきょく損に なるよ。どうだ、長いこと聞かなかった、君のお得意を一 つ聞かせろ。わしも、白頭山ぶしをやろう。そりゃ、テン ツルシャン:::」  立って踊ろうとして、腰がきまらずによろけると、女の 肩を抱くようにしてドタリと坐って、 「ああ、奥さん。逃げんでもよかろう。いっぺんでよろし い。キスして下さい。え、どうじゃ。わしは、諸内君と、 たった一つしか年はちがわんですよ」      から  うるさく絡みついてきた。  諸内代議士が、ピクリと眉をうこかした。  彼も今夜は、立てつづけにビールを六七本飲んでいる。  立ち上ると、加東明の繃帯で吊った腕をつかんだ。 「オッ! どうするのだ。諸内君……」 「どうもしやせん。ここじゃ、話がしにくいことがある。 君の喜ぶようにしてやりたい」 「『へえ……」 「ちょっと、海岸の方でも歩いて来よう。歩きながら話す から」  言いながら、女を見る目つきが、しかたがない、がまん しろ、といっているようである。加東明は、ニヤニヤしだ した。 「よろしい。大いによろしい、海岸へでもどこへでも行く よ」  といって、ようやく、女の肩から手をはなした。  真実酔っているらしく、加東明は足がフラフラしてい て、宿の階段を下りるのに、諸内代議士が、それを抱きさ さえねばならなかった。  宿の玄関へ出た。  女中と番頭が、 「あ、あぶない!」  と、よろけた加東明を、両側から抱きとめたのを、諸内 達也は、眼の底でキラリと眺めて、唇で笑った。 「威張っても、昔ほどじゃなくなったね。あれ位の酒で」  「イヤ、大丈夫。酔ってはおらんよ、ウム、いい気分だ。 君の友情を信頼する……」  加東明は、無意味なことをいって、そのとたんに、女中 のそろえた下駄の上へ、またペタンと尻餅をついた。  番頭が、気をもんで、代議士にいった。 「これじゃ、あぶないですよ。御散歩はお止めになって、 もうお休みになったら……」 「うん、心配せんでよろしい。わしがついているから」 「でも、お気をつけなすって。道が向うで、二つにわかれ ております。そこを右へ行くと崖の上へ出てしまいますか ら、左へいらっしゃらないといけませんよ」 「よしよし、わかった」  代議士は、大きくうなずいて、見送りに出た女の顔をふ りかえり、なに、安心していろ、と目くばせをしている。  外へ出ると、間もなく海鳴りの音が聞えだした。  少し歩き、代議士が、どういうつもりか、通行人に聞え るほどの大声で、 「オーイ、番頭さん、右だったな。左へ行くとだめだった んだな」  どなるようにくりかえして言い、しかし、もう宿からは 離れたので番頭の返事は聞えて来ない。代りに加東明が、 「右せんか左せんか、左派と右派との問題じゃよ。面白い。 話はわかっとる。あの女を、わしに一晩、貸してくれると いうんじゃろう。気に入った。酔いをさます必要がある。 君には、まことに相すまんな。わしのために女をつれてき てくれたとわかっているのだ。ええ女だ。掘出しものだな。 一晩だけでなく、わしのところへ置いて行ったら、まだま だ我輩、君のために、大いに役に立ってやるよ」  悦に入ってしゃべりだした。  星が輝いていて、月は見えないが、わりに明るい。  しかし、外へ出ても、風が死んでいて、空気が重く暑く のしかかってきた。  じきに、道が二つにわかれた。  海へ向って、石の記念碑のようなものが立てられてい た。 「うん、ここだな。番頭が左へ行くとあぶないといった ね」  代議士が、用心ぶかい口調で言い、加東明は、怪我をし ていない腕で代議士にぶら下がりながら、 「うむ、そうだったろう。どっちでもいい。ー今夜は愉    こぎゆう 快だ。故旧来りて燭をとりて遊ぶ、また楽しからずやだ」  とわめき、それからテンツルシャンと歌いだした。  右は、絶壁への道である。  はるかに足の下で、波が岸を打っていた。  自動車は通るのであろう。片側にコンクリートの低い車 止めが、ところどころ作ってあった。  生酔いの本性違わず、加東明が、 「オヤオヤ、道を間違ったな」  と言い、諸内代議士は、 「そうだ。間違ったのさ。間違いはどこにでもあるものさ。 ま、あそこへ腰かけよう。海の風に吹かれた方がいい」  平然たる顔で答えたが、その声には、かすかな顫えがま じっているようであった。 「どうだ、加東君。ここで一つ、話をハッキリときめてし まおうか」 「なんだい。女の話じゃないのか」 「いいや、それは、話をきめてからのことだ。急ぐことは ないだろう。どうせ君に提供するつもりで、ここまでやっ とつれてきたのだ」 「よかろう。それなら、話になる。やはり君はわかる男 さ」  ドシンと、代議士の肩を叩こうとして、上体がぐらりと ゆれたから、加東明は、コンクリの車止めにしがみつい た。 「あぶないな。どこか、よそへ行こう」  と、酔いがさめたようである。 「まア、しかし、聞いてくれ」  と代議士は、腰を上げずに、宿から手に持ったなりでき た葉巻を投げた。闇の海へ、吸われるように、葉巻はおち て行った。 「わしはね、これで大野心を持っているよ」 「そうだろうな。君は野心家さ。また、将来は大臣になる 器だ。おだてるのじゃないけれどね」 「ありがとう。そう見てくれれば感謝する。が、ともかく 困ってしまっている。藤井代議士を、甘く見て買収にかか ったのが失敗のもとだった。悪い時には悪いことが重なっ た。その藤井が殺された上に、買収費を盗んだやつがあ る。おかげで、買収工作が明るみに出てしまった。もちろ ん、警察で、わしを藤井殺しの犯人として疑うのは、とん だ薮睨みで平気だが、附随してこっちの痛い腹まで見抜か れそうになったのは閉口だ。ここを、事無くしてすませた ら、わしは大臣にしてもらう約束だし、でないと、わしの 大臣ぱおろか、政界のお歴々が芋蔓で引っぽられるという ことになるのだ。これは、個人的な利害でなくて、国家と しても損害だよ。内外に信を失う。今後の政治が、ますま すやりにくくなる。そこで君に、さっきからいっている通 りだ。意を決し断行してもらいたいというわけだ」 「いやだね」 「いやでも、やってもらいたいのだ。ほかの工作はやって ある。買収は、わしがどこまでも白を切るし、証拠は、い ざという時、完全に湮滅する手筈が整っている。心配なの は君のことだ。警察が、君の失踪事件を、また調査にかか りはじめた。君がつかまったら、もうどうにも方策がつか ない。そこで一方、君の希望するところへ、渡りをつけて やれるだろう。中共でも国府でも、お望み次第というわけ だ。そこへ行って君は大将軍になるだろう。りっぱな将軍 だ。引揚者の漢学者で田舎にくすぶっているよりは、まだ 一花咲かせる時期がくるのだよ。どうだ、これでもう、二 度とは言わない。最後の返事を聞こうじゃないか。否か応 か……」 「いやだi」 実にす早かった。返事をした曦諸内代議士の腕は・ぐ鞠 んと力をこめて加東明の胸をつき、加東明は、 「あッ!」  叫んだまま、クルリと足を上に向けて、車止めの外側 へ、転落したのであった。  近くで見ていても止めるひまがなかっただろう。  加東明は、絶壁へ呑まれてしまった。  そうして諸内代議士は、ぶるっと身をふるわして、車止 めをはなれ、じっと海鳴りに耳を傾けたが、すぐに気づい た風で、宿への道を駈け戻ろうとした。  その時、ふいに、ぬっと道の上へ出てきた二人の男があ った。  代議士はそれを、ただの通行人と思ったのにちがいな い。 「ああ、たいへんだ。友人が、酔っていて、海へ落ちてし まった!」  と、彼等に向って叫んだ。  しかし、その二人は、通行人ではない。たちまち代議士 の両腕を、鉄の機械のような力でしめあげてしまった。 「オイ、バカなことするな。わしは代議士だぞ!」 「知っていますよ。汽車の中から、もう知っていたので す、それに、御友人は、落ちたのじゃありませんね。あな たがつき落したのですね」 「えッ!」 「見ていましたよ。だしぬけで、びっくりしました。まさ か、そんなことをするとは思わなかったのです。ああ、そ う、あばれないで下さい。あばれると、手首を痛めるだけ でしょうね。ーイヤ、こちらも、後悔しています。風呂 場で、絶壁の自殺者の話をしたのがいけなかったのです な。ぼくらには、よくわからなかったのです。もしかした ら、あなたが自殺でも企てるのじゃないかと思い、一本釘 をさしたつもりでしてね」 「き、きみは、それでは……」 「そうですよ。気がつきませんでしたか。東京からごいっ しょしたんですよ。ともかく、諸内さん、ほかの点は別と しておいて、加東明殺害の現行犯として、あなたを逮捕し ますからね。あなたは代議士だから、これまでの苦心も、 並たいていじゃありませんでしたよ」  頭が薄っばげになった井口警部補は、おちついている。 しかし、ふりむいて橋本刑事に、 「加東明を死なせたくなかったな。うん、万一にも助かる かも知れん。今夜のうちに、死体捜査、または救助の方法 を立てるのだ。おれはこれから宿へ帰って、女の方をつか まえておく。いそがしいそ! 君は、もういっぺん、東京 へ電話だ。大体のことを知らせておけ。但し、絶対に外部 には秘密だということを念を押して断わっておけ。場合に ょると、事件は二課と協力しなくちゃならない。しかし、 外部へ洩れて諸内代議士が逮捕されたと知れたら、証拠書 類など、全部焼かれてしまうだろうからな。しっかりやる んだ。さア、急げ!」 火の出る口調で命令した。  諸内代議士は、うめき声を立てた。  そうして首を人形のようにガクリと垂れてしまった。 崩壊のはじまり 一 笠原昇は、今日午前中、久しぶりで学校へ出たが、午後 の講義はサボルことにしてあった。そうして校門の前でタ クシーを拾うと、すぐに銀座裏の喫茶店マロニエへかけつ けた。  腕時計を見ると、午後一時になろうとしている。 「予定どおりだ。十五分待たせた」  口のうちで呟いたが、彼は時間に対して非常に正確であ る。毎朝、洗顔をして歯ブラシを使う間に、その日の時間 表を頭の中でキチンとつくった。知識の修得に何時間、社 交事務思索にそれぞれ何時間、食事衛生健康のために何時 間、そして娯楽に何時間といったぐあいである。結果とし て、食事の時間と社交の時間が重なったり、娯楽が同時に 事務の一部になったりすると、時間はそれだけ節約された わけで、それを彼は、彼独特の言葉で、『時間の利子』また     じようよ は『生命剰余』と呼んでいたが、つまりそれは、そのよう にして余った時間は、時間の儲けだとも考えられるし、ま た反対に、生命のむだな延長だという意味でもあろう。彼 は人生を、肉体の成育充実のための二十年は別として、あ とはしかし、真にむだのない必要な時間というものが、十 年とはないのだと計算したことがあった。十年の時間を、 せいいっぽいに生かして使うと、人間の力で成し得る限界 まで達する。天才や偉人というものは、そのせいいっぽい の充実した時間が、若い時から老年まで続く人のことで、 平凡人は逆にその十年または十年以下をだらだらと五十年 も八十年もかかって充実するのだ、というのである。時間 は貴重であり、絶対に逆行せず、取返しのつかないもので あった。そうして今日は、女とマロニエで零時四十五分に 会う約束にしてあり、しかし自分は十五分遅れて行って、 女をいらいらさせてやろうという予定だった。女は、待た せた方がいい女と、待っていた方がいい女と二種類ある。 今日の女は、待たせるべき女だと考えたのであった。  女は、果して瞳に、喜悦の色を輝かせた。  可愛いいフロント・レースのついた純白のブラウスに、 水色のタイト・スカートがよく似合っている。しかし、待 っている十五分が、不安で泣きたいくらいだったのだろ う。そこへ、今日は学生服の笠原昇がきたのである。この 女は、二日前に笠原のつくった企業会社の社長秘書募集に 応募してきて、即座に採用と決定したのであった。その時 に、R市の資産家の娘で東京へ出て、伯母さんの家から語 学校へ通っているのだといった。働らきたくて、笠原の会 社へきたということであったが、一眼で笠原はこの女が、 自分の自由になるのだとわかってしまった。社長の女秘書 になるということは冒険である。その冒険への期待が、は じめから女の肌の下に燃えている。もしかしたら、もう処 女ではないかも知れず、しかしそうであっても、べつに困 ることはなかった。笠原は、金のことを、身体で結びつい た女に任せるのがいちばんだと知り、それには、教養もあ り利口そうであるこの女が適当だと考えたのであった。  女には、アイスクリームを食べさせ、笠原は、甘味の少 ないシャーベットをとった。  そのあとで、 「実はね、予定が少し狂ったのだよ」 「そうですか」 「ここで会う約束をした男が、関西旅行で来られないと電 話してよこした。それにぼくは食事前で、君に食事をつき あってもらうことにする。会計を、君に任せたいし、その 話を、誰にも聞かれないところで、君に説明しておきたい からね」  女を、神楽坂の待合へつれて行くつもりだった。そうい っておいて、反応を見ている。女は、おとなしくうなず き、笠原の言葉を聞く間、食べかけたアイスクリームの スプーンを、動かさずじっと手にもったままでいたが、指 が、こまかくふるえだしたようだった。爪にはマニキュア がしてなくて、きれいに剪りそろえてあった。指は、精巧 な大理石の彫刻のようで、手の甲の指のつけ根に、えく ぼに似た小さなへこみがついている。この指を五本そろえ て、ギュッと力を入れて締めつけられたら、と考えて笠原 の頭は、痺れるような快感にうずき、急にはげしい情慾が わいてきた。 「まだ、なにかーコーヒーは?」 「いいえ、もう……」 「じゃ、行こう。少し、銀座を歩いてから」  銀座が好きなのではなかった。慾望の達せられる時を延 ばして、更に慾望を刺激するのが楽しみだったのである。 歩いているうち、洋品店へはいった。そして、銀のブロー チを買って女に与えた。 「これから、いろいろの人に会うからね、美しくしていた 方がいいのだよ。君の服も、会社の伝票で作ってあげる。 社員の服装買うのも、事務所の備品買うのも、同じ借方勘 定にはいるようなやり方をぼくはやるのだから」  そっと耳へ囁いて、その時、肩を抱きよせるようにする と、女も少しこちらへ、身をすりょせてくるのが感じられ た。  世の中は、自分の思うがままになると考えられる。自信 に充ち、才能にあふれ、そして街を歩いている人間の顔 が、間抜けと低能ばかりに見えてきた。  神楽坂の待合今花は、笠原がある実業家の夫人につれら れて行って、それ以来顔馴染みになった待合である。行っ てみると、昼のことでほかに客はなく、しかし、風呂がわ いているのだという。何もかもが、あつらえ向きだった。 ここでも彼は、万能を信じた。恐れるものは何もない。こ れから、娯楽と衛生との時間を少しばかり費やす。そのあ とで、淀橋の事務所へ行って、高橋と平川との報告をう け、また彼等に指令をあたえる。企業は、組織や形態だけ ができても、資本をうんと掻き集める必要があった。出資 は、一口一万円から月一割の配当にする。そうしたら、学 生の父兄や、家作持ちの未亡人や、貯金をちびちびため た教員や官吏が高利貸しという悪名をこっちにおしかぶせ ておいて、その実一年で元金を、二倍以上にふやすことが できるのだから、喜び進んで出資する気になるだろう。学 生だけでやる事業だから、信用されることも請合いで、あ る程度まで出資者がふえてきたら、事業はもうゆるぎがな い。問題は、その最初の出資者である。それを平川と高橋 とに命じておいた。手はじめに、彼等の学友の家庭を訪問 させる。教授の家も結構である。そうして、銀行利子や郵 便貯金の利子と比較させ、ためしに一万円ぐらい出させて みる。月末ごとに、キチンと一割の利子を届けたら、半年 目に、出資を二倍にしたい、三倍にしたいと申込んでくる にちがいない。きっとうまく行くにきまっている。貸しっ け総額千万円となったら、利鞘が月に二百万円だから、ど んなぜいたくをしても使い切ることなんてできやしない。 いや、むだ使いするのでなくて、その二百万円も利子に利 子を生んで行くから、ついに会社の財産は、一億円、また はそれを突破するという時が来ないでもない。世界でもま だ類のない学生財閥というものが出現するではないか  女中が来て、お料理の出る前、お風呂にはいったらいか がです、とすすめた。 「そうだね。汗を流した方がサッパリするな。君はど う?.」  と女にきくと、 「いえ、あたし、けっこうですわ」  女中の視線を、避けるようにして女は答えている。  女中は、目くばせして笠原を、廊下へ呼びだした。 「どうなさるの。お食事だけでよろしい(ソ・」 「ちがうよ。気をきかしてくれなくっちゃ……」 「わかってますよ。じゃ、あちらのお部屋へ支度しておき ますから」 「たのむ。それから、寝具香水を忘れないようにしておい てね」                      よみがえ  ふいに、ある淫蕩な場面の追憶が、胸のうちに蘇って きた。彼をこの待合へつれてきた実業家夫人は、香水の匂 いがむせかえるほどの部屋へはいると、酔っていたせいも あるけれど、冬の寒い夜だったのに、身につけていたもの 全部を急に脱ぎすてて、ねえ、ダンスしましょうよ、と笠 原にからみついたことがあった。奇怪なダンスで、さすが の笠原でも、経験したことがないようなものだった。実業         どんらノん 家夫人は、大胆で貪婪で、いつまででも踊りつづけた。ダ ンスの得意なはずの笠原が、でくの棒のようにぶきっちょ になり、そのせまい部屋の中を、むやみやたらと引っばり 廻され、その間の強い刺戟のため、精神も体も狂人のよう に日叩奮し奴隷のように疲れ果てた。それでも実業家夫人 は、まだ笠原を許そうとせず、丸くて白い両腕の間へ挟み こんだ笠原の首を、昆虫を殺す子供と同じ残忍さで、ギュ ッと力いっぱい捻じ廻したり、ずっしり重量のある自分の 体を、そのまま笠原にもたせかけておいて、無理なアクロ バットのような姿勢をとったりしたが、それを笠原は思い 出したのであった。 「しかし、あの語学校の生徒の女秘書では、そんなでたら   ふ さ めは相応わしくない!」  笠原は頭をふり、その妄念を、汗といっしょに洗いおと すため、廊下へ出たついでに風呂場へ行ったが、ここでも 彼は、ひどく満足な気持であった。水泳が少しできるだけ で、とくべつなスポーツはやらないが、常にまことに健康 である。若さに十分恵まれている。ほかのアルバイト学生 ときたら、汗臭くて垢だらけによごれているか、でなかっ たら、ろくにうまいものも食べないから、皮膚もしなびて 痩せてしまって、レントゲンで肺がやられたとわかってい ながら、青い顔をしてノートにかじりつき、学校を卒業す る前に、体の方がだめになってしまいそうなのが、ざらに ある。ところが、笠原は違うのである。新鮮な血液が、い つも元気よく体内をかけめぐっていた。しなやかで弾力の ある皮膚は、新陳代謝の機能が盛んであり、内臓はよく食 物を消化し、頭脳は明敏に濃刺として活躍してくれた。自 分の人生は、アメリカで作った最大最新式の飛行機のよう に、これから悠々として、地上を睥睨しつつ、陽光を浴 び、光彩を放ち、どこかの新しい空へ飛んで行く気がす る。何がきても心配はない。どんなことでもたちまち明快 に処理してしまう。そして慾望は、科学的に可能なもので ある限り、いつでも即座に達し得るようになるのである。 そうだ、その幸福を、自分だけではない、他人にわけてや ることだって、できるだろう。それは、楽しいことかも知 れない。平川や高橋は、自分を神様のように思うだろう。 いや、平川や高橋より、さしずめ、今日の女である。あの 女は、まだ十分に、おれの力を知らないでいる。清潔で利 口そうで役に立ちそうな女だから、ほんとに可愛がっても よい。あの女に、第一の幸福をわけてやろうか知ら。抱い でキスしたら、そのあとで将来のことを話してみよう。あ の女は、おれのために、命を捨てても惜しくないと思うに ちがいないのだー。  彼は、つめたいシャワアで、石鹸の泡を気持よく流し た。  そして、女中の出しておいてくれた糊のきいた浴衣を着 で、もとの部屋へもどってきた。  しかし、こうして彼が自由気ままな空想をしながら入浴 している間に、実は同じこの待合へ、一人の新しい客がき でいたことを、彼はまったく知らなかったのである。  その男は、花模様を染めだしたアロハを着ていたから、 一見して街の与太者風だったが、顔は蒼白く細面で眼つき におちつきがあり、へんになにかヒヤリとする、つめたい 感じをあたえる男だった。  今花では、顔なじみのない客であるが、ズイとはいっ て、部屋は空いてるね、厄介になるよ、といったきり、も う靴をぬいでしまっていたから、女中が断わりたいと思い つつも気押された感じで、そのまま上げてしまったほどだ った。その時に、 「あとから、連れがくるのだよ。石川さんだ。知っている ね」  と、眼もとで笑って女中にいったが、石川などという名 前は、どこにでもあるのである。女中は、おなじみの客 を、あれかこれかと考えてみて、べつにハッキリした心当 りがないながら、では、そういう客がいたのであろうと思 ってしまったが、あとで思うと、男はただその場しのぎの 口実でそんなことをいったのである。  お通しものは、連れがきてからでいい、といった。そし て、茶をガブリと飲むと立ち上り、部屋の作りや庭を眺め         ふ しん て、なかなかいい普請だね、とお世辞のようなことを言 い、ふいに高く澄んだ口笛で流行歌の一節を鳴らしたが、 これはやはりあとで思うと、ちゃんとした目的があって鳴 らした口笛だったのである。  連れの『石川さん』は、なかなか来なかった。そうして この間に笠原は、相変らず何も気がつかなかった。  女が、 「いやー・よして……」  思いもよらず抵抗したのは、香水の匂いがする部屋へ行 ってから、襖をしめるかしめないかに笠原が、抱きよせて 接吻をしようとした時であった。  抵抗しても、笠原は、女を抱いた腕をゆるめなかった。  女がはげしくもがいたので、何かガチャンと金属性の音 がしたし、三尺の床の間がつくってある、その床柱まで二 人ともよろけて行ったが、ついに長いうち息をつめて唇を 重ねていると、次第に女の体からは力がぬけ、うっとりと 眼を閉じていると思ったから、 「ね、いいだろう。ぼくは、君の持っているもの、みんな 欲しくなったんだ。君は、素敵だよ。さア、……」  また唇を吸いながら、片手を女のスカートへまわした が、とたんに女は、 「あれえ! 誰か来てえ! だめよオ!」  スカートがピリッと音を立てて裂けるのもかまわず、笠 原の胸を飛びはなれ、咽喉いっぱいの鋭い悲鳴をあげたの であった。  笠原は、驚くというよりは、一瞬へんな気持がした。  この女が、こんなにも手ごわく彼を拒否するなんて、有 り得ぬことだった。どんな女でも、こういうことはなかっ た。口では、いやだといったり、誰か人が来るから困ると いったり、そのくせ、声は甘くやさしく囁くようで、その 声と言葉を聞くだけでも、感情が熱く快く昂奮するのに、 これは、まったく違った種類の声と言葉であった。男を侮 蔑し嫌忌し憎悪して、火事を見つけた時のように、ただけ たたましく叫ぶのである。なにか喰い違いが起っている。 しかもそれは、どうしてそうなったのかわからない。笠原 は、頭の中ヘポカンと穴があいたような感じで、狼狽し腹 立たしくなり、呆然として部屋の隅に立ちすくんだが、す るとその時、廊下からの襖がサッとあいた。  そうして、笠原とは一面識もない、あのアロハを着た男 が、 「フン、ここの部屋か……」  ひどくゆっくり言いながら、部屋のうちへはいってきて しまった。                  ちんにゅうしゃ  あまりに不意うちで、笠原は、この闖入者に対し自分の 身を守るだけの体勢を整える余裕がなかった。 「知っているぞ。こんなことをやるんじゃないかと思って いたんだ。お前は、色魔で学生高利貸しの笠原だろう。他 人の女を、貴様はおもちゃにしやがったなー」  その言葉といっしょに、顔へ火の出るような平手打ちが ピシャリときたから、肩が壁ヘドシンとぶつかり、はじめ てその時に、これは罠であったと気がついた。こっちは知 らなかったが、女の方では、予定してあったのにちがいな い。もしかすると、喫茶店マロニエから、この男は、もう あとをつけてきたのであろう。時期を待っていた。そうし て、のっぴきさせず、弁明のできない場面へ来て、笠原を ゆすろうとしているのである。 「おれはね、知っといてもらおうぜ。錨のテニイだよ」 「えッ!」 「文句をいってもはじまらないさ。小切手書くんだね。い やだってなら、書かたくてもいいが、アッサリ片づけてし 」 拶 ♂ まいたいからね」  錨のテニイというのは、不良学生の間で、猛獣のように 恐れられている男だった。この男に睨まれたら身動きもで ぎなくなる。もとは江田島の兵学校を卒業した男で、海軍 中尉だったというから、学生時代は秀才だったのだろう。 復員して、自暴自棄になり、すっかりと身を持ち崩した。 度胸があり教養があり、正確な発音で外人との会話が自由 である。だから、生えぬきの与太者でもテニイには一目お いている。女には、そういう男のヒモがついていたこと を、不覚にも笠原は全然気がつかないでいたのである。  どうにも、しかたがなかった。  笠原の智能も弁舌も、今度ばかりは無力だった。法律で ば、笠原の方に理があるのだろう。しかし、それは恥の上 .塗りをすることだった。それにテニイは、ある程度まで笠 原のやりかけた事業のことを知っている口ぶりだった。そ れへ割りこまれたら、ぜったいぜつめいである。学生財閥 の夢は、一気に消し飛んでしまうのである。  女がテニイのポケットからたばこを取って、うまそうに 煙を吐きだし、テニイはつめたく、笑って、 「みっともないね。スヵート、社長さんから買ってもらう んだね」  といった。  怒りが、全身をゆすぶる。  しかし、ついに笠原は、小切手を書かされてしまった。  金額は三万円だった。 「それ以上、ぼくは出せないよ。不服だったら、やぶいて しまってもいい。小切手でなくて、命のやりとりだってや ってみてもいいね」  その時になって、急に笠原はがむしゃらな勇気がわき、 真実テニイと決闘してもいいような気持になったが、テニ イはこっちより上手で、ニコリと眼もとを笑わせた。そし て、 「おっと、君が、強いのは知っているさ。だから、三万円 で手を引くぜ。ありがとう」  と流行のアクセントでいった。  笠原は、みじめである。  唇をふるわせ、しかし、それ以上には、何も言えなくな ってしまった。 二  平川洋一郎が、古着屋で買ったのだけれど、ともかく寸 法の合う白麻の背広を着て、ちょっと気取った姿勢で立ち どまり、ミネルバ企業倶楽部と書かれた新しい看板を見上 げてから、天井の低い事務所の中へはいると、 「オッ、帰ったね。tどうしたんだい、やに張りきった 顔をしているぜ。何かバクイことでもあったの?」  と、高橋勇が、デスクから顔をあげた。 「うん、面白いところへ行ってきたんだ」 「へえ……」 「出資者勧誘が、ぼくはあまり成績がよくない。社長が機 嫌が悪いから、いろいろ思案したんだが、ふっと思いつい たのが高須の家だよ」 「高須って? ……」 「君が忘れるはずはないだろう。池袋の銀行支店長の家 じゃないか」  そう言われて、高橋は、眼を丸くしている。それは強盗 にはいった家だった。今では思い出すのがいやなくらいで ある。五人の仲間だけの絶対の秘密で、それをしかし平川 が、なんと思って面白いところなどといっているのだろ う。彼は、ふりむいて、事務所のうちを見まわした。少年 給仕を一人やとい、煮炊きや掃除のための女が、きのうか ら通いでやってきている。話を聞かれたら、ぐあいが悪い と考えたのであった。 「びっくりしてるんだね」 「うん。じょうだんじゃないよ」 「じょうだんなもんか。ほんとに行ってきたんだよ。そし で大成功だよ。アハハハ」  平川は、笑いとばしてから、たばこに火をつけ、声を小 さくした。 「あの家はね、園江がアテをつけてきて手引きしたのだっ たろう。ぼくは、園江のことが、なんだかまだ気になって いてね」 「ああ、それは、ぼくも同じさ。こないだ藤井がきた。藤 井も、やに園江のこと気にしていたっけ。社長に、園江の こと訊いてたろう。どういうものか、みんなで園江のこ と、気にしてばかりいるんだからね」 「そうなんだ。二度目んのやりそくなってヤバクなって、 その時から園江はいなくなってしまった。そうして、いつ も頭の隅っこに、園江のことがからみついているみたいで へんなんだが、ぼくは、そうやって園江のこと考えてるう ちに、そうだ、あの池袋の高須っていう支店長は、銀行の 金の不正貸付で、ボロイ儲けをしているんだってこと、思 いだしたんだよ」 「ああ、そうか。そうだったね。それで、金があるだろう ってこと、園江が目をつけてきたんだよ。銀行の金で、こ の、ミネルバ倶楽部と同じことをやっていたんだ」 「わかったろう。だから、ぼく訪ねて行ってみたんだよ。 息子がいて、こいつは、園江と友だちだが、くそまじめな 奴だ。しかし、もしかしたら、園江のこと、知ってないか って、訪ねてみたんだ」 「うまい口実だね。怪しまれなかったかい」 「ぜんぜんだl」 「へえl」 「息子の行夫ってのはいなかったよ。怖かったのは、行夫 の妹のーそら、あの時にヤッパでおどして腕を縛りあげ たろう。あの妹がいやがって、ジロッとこっちの顔を見た 時だが、けっきょくあの晩の強盗ががぼくたちだなんてこ と考えるはずはありゃしないさ。ぼくは、行夫のおやじに 会ったよ。園江のことから話しはじめて、学生のバイト でミネルバ倶楽部をはじめたってこと話してやったのさ。 おやじ、すぐに膝を乗りだしてきたよ。ひどく学生に同情 したような口っぷりでね、ぼくを大いに激励するんだ。そ して、事業を助けてやろうと恩に着せて、さしずめ、二十 口分だけ出資するってことになったんだよ。どうだい、う まいだろう。あいつは、欲が深い。深いだけに、それにま た、自分でやってみて儲けた経験があるだけに、こういう 話にはすぐと乗ってくるのだ。まだ、三十口でも五十口で も、あのおやじからなら引出せるよ」  平川は、ますます張り切っている。  そして、社長笠原がやってくるのを、しきりに待ちわび る風であったが、その時、 「新聞の広告で見ましたが……」  といって、五十がらみの目の小さい商人ていの男がはい ってきた。  平川が応対すると、広告には、企業出資の相談に応ずる とあるが、自分は約束手形を出してあって、それをおとせ なくて困っている。一週間だけ金融してくれぬかという話 である。平川も高橋も、心の中でほくそ笑んだ。企業出資 はどうでもいい。金融が目的で、こういう客が目あてであ る。よろしい、と平川は快諾した。所番地を帳簿に記入 し、明日午前こちらから相談に出向くからといって帰して やった。  事業は順調に進むらしい。希望が、明るくわいてくるの であった。  おどろいたのは、しかし、それからしばらくして、待っ ていた笠原がやってきた時、笠原が、ひどく不機嫌だった ことである。  彼は、来るといきなり社長のデスクに、高橋が読みかけ の雑誌をのせておいたのに目をつけ、それをくしゃくしゃ にまるめて、床へ投げつけた。それから、ドシンと椅子へ 腰をおろすと、帳簿を引っぽりだしてあけて見て、記入が 乱雑で、なっていない、と小言をいった。  変だぞ、と平川も高橋も気がついた。  そして平川が、恐る恐る二十口分の出資者について報告 した。 「二十口は、つまり二十万円だね」 「そうだよ。やっと、そこまで説き伏せたんだ。今までの 出資では最大だよ」 「そうかも知れんね。しかし、平川君。このくらいのこと で、そう得意そうな手柄顔をしていたんじゃ困ると思う な」 「うん、そりゃ、なにも手柄顔するってのじゃないけれど …・:」 「二十万円は、フルに一ヵ月運転して六万円の儲けだか                    り ざや ら、出資者への一割を差引くと、四万円の利鞘だろう。と ころが、四万円じゃ、一ヵ月の自動車賃も出はしないぜ。 ぼくは、運転資金二百万円になってやっと息がつけるだろ うと思っているんだ。第一期目標を二百万円にして、その 次は一千万円が目標さ。最低一千万円まで行かなかった ら、人から悪口言われるこんな商売、やってみたっては じまらないじゃないか。二十口は、自慢になんかならない よ。相手は銀行家だろう、ぼくだったら、そんな個人から でなくて、銀行の金を借り出すように話を進めるよ。そ うすれば、こっちの利鞘は、うんと割がよくなるんだ。 まア、頭をもっと働かせるんだね。第一、二十万円の現金 を、見てからじゃなくちゃ、話にならんよ」  ムッとして平川は、笠原を殴りつけてやりたくなり、や っとそれでも、がまんしたくらいであった。  笠原自身、不愉快でたまらないのは、待合今花での失敗 が、彼の自負心をすっかりと傷つけていたからである。思 いだすと、また新しく口惜しさの念が燃えあがってきた。 いつもに似ず、ひどいドジをふんでしまった。女を、語学 校の女生徒だと信じこんでいたのからして間違いだった が、男の脅迫に対しても、ただ意気地なく屈服しただけ で、手も足も出せなかった。この不面目なぶざまな愚劣な 見苦しい醜態は、誰にも話せないことである。その上、ミ ネルバ倶楽部発足の第一歩で、こんなことが起ったのは、   わる 何か凶いことの起る前兆のような気がしないでもない。い や、前兆なんて、理論的には、あるはずのないものだろ う。が、そういう理論が、果して真実か否か、科学的に証 明する手段が完成しているのであろうか。                 からだじゆう  考えていると、彼は頭が痛くなり、躯中に汗がふきだ してくるようだった。  平川や高橋の顔を見るのもいやで、こじれた気持は、ど うにも動きがつかないのであった。  だしぬけに、彼のこの気持を転換させたのは、会社の前 へ、自動車がきてとまったからである。  笠原は、ドキッと胸をおどらして椅子を立った。  自動車から降りてきたのは、貴美子未亡人と友杉成人で ある。笠原には、友杉の姿が、はじめは目にはいらないく らいだった。未亡人は、今日は極めて簡単なディナー・ド レスで、顔が青く、眼が不安にまたたいている。しかし笠 原には、なにか光がそこへ歩いてくるように思えた。 「ああ、友杉さん。どうしたのですか」  と高橋がまっさきにいったので、友杉が答えた。 「有吉君のことですよ。有吉君、ここへ来ませんでした か」 「いえ……」  友杉の顔に、すぐ困ったという表情がわいた。笠原が、 未亡人をチラリと眺め、しかし視線を避けるようにして友 杉に訊いた。 「有吉君は、あの時っきり、来たことがありませんよ。何 か起ったんですか」 「有吉君が、家を飛び出したらしいのです」 「ほう」 「ここへ来たのかと思ったんです。二日ほど前に、平川君 たちもすすめたのだから、会社へ入って働きたいと言い出. しましたが、それにはぼくが不賛成だったのです。有吉君 は、じゃ、よしにするといっていましたが、今朝、珍らしく 学校へ行くといって出かけ、しかし、女中さんが部屋へ洗 濯物を探しに行ったら、書置きのようなものが残してある のを見つけたのです」  友杉は、とちゅうで、詳しく話してもいいのかどうか と、眼で未亡人に相談したが、未亡人は、自分で話しだし た。 「いえ、書置きだかどうだか、ハッキリしません。でも、 ノートを一枚やぶいて、そのまん中に、お母さん、友杉さ ん、ぼくが悪いのです。すみませんーて書いてあるの。 あたし、読んでいる手が、ブルブルふるえてきました。学 校へ電話をかけてみると、学校へは出席していないという し、それから友杉さんと相談して、ともかく有吉ちゃん は、笠原さんの会社へ、来てみたいような口ぶりだったと 思いだしたものですから……」  だのに、来て見ると有吉の影もない。不安が、急に黒く 大きくふくれあがったのであった。  高橋と平川とが、顔を見合わせ、 「変だね。スケじゃないかい。スケんとこへ行ったのかも 知れないよ」  と呟いたので、笠原がふりむいていった。 「スケってのは、女ということだね。たしか波木みはるっ ていう名前だろう」 「オヤオヤ、よく知っているんだな」 「知ってるさ。波木みはるなら、ぼくんとこへ金を借りに きたことがあるんだ。そうだ、友杉さん。それは平川君た ちが言うとおりですよ。波木っていう女のところへ行って みた方がいいんじゃないですか。ある会社の重役の娘で、 女学校の生徒です。ズベ公っていうんですよ。あの娘と有 吉君とのことは、誰だって知ってるくらい有名ですから ね。ーイヤ、そうだ、波木みはるの家へ行ったってだめ でしょうね。ほかで会うとこがあるんです。そこがいい。 そこへ行っているんですよ。平川君は、知らないのかね。 有吉君や波木みはるが泊ったりなんかする家だよ。京王電 車から、歩いてすぐのホテルだって聞いたが……」  ホテルの名前は、平川でなくて高橋が知っていて、水魚 荘というのだと教えた。そこで、有吉と麻雀うったことが あるというのである。 「友杉さん。どうするの。行ってみる?」 「行きましょう。心配ですよ」 「そうね。じゃ……」  未亡人も、行ってみる決心をし、すると笠原は、 「高橋君。君も行って案内した方がいいよ。ぼくもついて 行くから」  と、いっしょに自動車に乗ってしまった。  その時では、まだ不確かな予想であったけれど、間もな くして笠原の予想は、ピッタリ的中していたことがわかっ たのである。  有吉は、みはると共に、ホテル水魚荘へ行っていた。  しかも、多量のアドルムを服用し、すでに意識はなく、 こんこんとして眠っていた。そこへ未亡人がかけつけたの であった。 雷雨の午後 一  ホテル水魚荘は、駄菓子屋と荒物屋とにはさまれた露地 の入口に、『高級温泉ホテル』と書いた看板が立ててあっ たが、実はつれこみが専門の、まことに貧弱なホテルであ る。  その二階の、西日が窓いっぽいにさしこんでいて、シー ツのよごれた木製のダプルベッドをおいてあるが、ほかに はなんの飾りもなく、狭くて不潔で、歩くと床がギシギシ と鳴る粗末な一室1。そこに、藤井有吉と波木みはると は、二人ともに顔を正しく天井へ向け、しかしお互いの右 腕と左腕とを、ハンケチでしっかり結び合せて、深い死の 眠りに陥ちていたのであった。  枕もとのニスのはげた台の上に、空になった水さしとコ ップがあり、また、アドルム十錠入りの細長いガラス管 が、いく本となくちらばっている。どちらも顔が美しく見 え、苦悶の表情はなかった。唇を半ば開き、いびきの声を 立てている。健康そうないびき声で、ただその一呼吸が、 長過ぎる感じを与えるだけである。そうして、呼んでもゆ すぶっても、こんこんとして眠りつづけているのであっ た。 「いえ、気がついたのは、昼前の十時ごろにきて、それ'. きり、部屋を出てこないからです。いつも、そんなに長く いたことはありません。せいぜい、二時間でしょう。だの に、どうも変だと思ったから、ドアのぞとで声をかけて、 それから中へはいってみたんですが……」  ホテルの番頭が、係官の前で恐縮して、もみ手をしなが ら説明したが、そうやって気のついた時というのが、貴美 子未亡人と友杉とが、笠原と高橋とに案内されてホテルへ 来る、それよりは少しばかり前のことであったらしい。ホ テルでは、営業上のポロが出ることを恐れて狼狽した。 が、しかたがないから警察へ届けた。警察で来て見ると、 これぱ藤井代議士殺害事件に直接の関係があるのだと、す ぐにわかることがあったので、警視庁へも電話をかけて、 捜査課長や係長にも来てもらうことにしたが、その捜査課 の連中がやってきた直後に、これはまだ何も知らずに、未 亡人がそこへ駈けつけたという順序になるのであった。  未亡人の顔からは、たちまち血の気が引いてしまった。  笠原と高橋も、思いがけぬことでおどろいていたが、未 亡人は、もう彼等をふりむきもしない。友杉と二人だけ で、死の部屋まで通されると、彼女は、有吉とみはるとの ベッドのふちへ両手をつき、しばらくは唇をかみしめたま ま、じっと感情を制している風であったが、ついにこらえ きれず、 「有吉ちゃん! ……あなた……どうしてこんなことして しまったのよ! ねえ、有吉ちゃんてば……」 兮  咽喉をつきやぶるような声でいって、はげしく有吉の胸 をゆすり、またその手をぎゅっとにぎりしめたが、むろ ん、誰が何をしようとも有吉は意識がない。手のひらに、 病的な熱があるようであった。白い上品な額やこめかみの あたりに、こまかい汗の玉がういていた。そして、乾きを 訴えるかのように、かすかに音をさせて唾液を嚥みこんだ が、それっきり、またいびきをかきはじめるのであった。  大堀捜査課長が、廊下まできて、顔をのぞかせていた。  課長は、はじめ、警察からの知らせで未亡人がここへ来 たのかと思い、まもなく、そうではないとわかったが、そ のあと、波木みはるの両親へは、こちらから知らせてやる ようにと命令しておいた。未亡人のうしろから、何か話し かけたい顔で、じっとその場の様子を見まもっている。ふ りむいて見て、友杉がそれに気がついた。それから課長 が、おちついた眼つきで、部屋のうちへはいってきた。 「ああ、課長さんー」 「びっくりなすったでしょうな。無分別なことをやらかし たもんですよ」 「あたくし、もう、こんなことになっては……」 「いやいや、奥さんは、しっかりしていて下さらないと困 りますよ。それに、毒薬とはちがうし、発見がわりに早く てよかったと思いますね。死ぬとは限らないでしょう。病 院へつれて行って手当てをしてもらうのがいいです。1 実は、長い遺書が書いてありました。ベッドの上にありま してね」 「まア……」 「あとでお目にかけましょう。いろいろわかることがあり ます。が、助かるか助からないか、その手当てが第一です からね」  課長の言葉には、温い響きがこもっている。未亡人と友 杉との眼に、感謝の色がういて出た。そうして、ともかく 課長のすすめに従い、このあわれな、しかし無分別な少年 と少女とを、近くの花非という医院まで、運んで行くこと になった。  医師は瞳孔をしらべ心音を聞き、それからすぐに手当て にとりかかった。開業医としては、珍らしく無愛想で無P な青年医師だったが、することは、確実でキビキビしてい て、信頼のおける感じだった。ビタカンフルを打つ。カテ ーテルで胃洗滌をやる。リンゲルを注射する。サイフォン になったカテーテルから、不快な臭気の胃液が出てきた。 無意識のうちにも患者は苦しいのであろう、身をもだえ、 ゴム管を噛み切ろうとした。どうでしょう、助かる見こみ がありますか、と友杉ががまんできなくて途中で聞くと、 「わからないですよ。やるだけのことをやっとくのです。 問題は当人の体質ですね」  と医師は答えた。  みはるの両親、波木重助夫妻が、最初の手当てが終った 時にかけつけてきた。誰もこの夫妻には初対面であり、し かし、感じの悪い人たちではなかったので、何か助かるよ うな気がした。夫妻は、娘の不行跡を、まるっきり知らず にいたのだといった。多忙なため、眼が届かずにいたのだ と、自分たち自身が悪いことをしたかのように言いわけを し、そして細君が、声を立てて泣きだしてしまった。  医院の別室を借り、そこへ捜査課長が、はじめに波木夫 妻を呼んで、みはるの書いた遺書を渡してやった。  この遺書は、わりに簡単なものであり、みはるが両親に 対しての詫びの言葉である。生きていても、現在より楽し い時がくるのかどうかわからない。愛人とともに死ぬ方 が、わがままではあるが、自分の一番の倖せだと思った。 不孝なみはるを許して下さい。そしてパパとママとの幸福 を祈ります。パパとママ、みはるはとても好きだったけれ ど、みはるがいけない子だったから、すみません。どうか みはるを憎まないで下さい、と結んであった。  今度は、母親だけでなく、父親も泣いた。  そうして、この夫妻のあとへ、貴美子未亡人と友杉とが 呼び迎えられ、二人でいっしょに有吉の遺書を読むことが できた。  それは、鉛筆で書いたものである。  内容としては、未亡人と友杉への詫びのあとへ、園江新 六のことを、すっかり詳しく書いてあった。新六が、藤井 代議士を殺したのである。自分は、新六をつかまえるのが 自分の責任と思い、高橋や平川や笠原にも、それとなく新 六のことを尋ねてみたくらいだが、けっきょく、自分の力 ではどうにもならぬことだと知った。この上は、已むを得 ない。自分の死んだあとで、警察の力を借り、園江新六を 逮捕してもらいたい。そして新六がつかまったら、自分は 新六を、決して憎んでばかりいたのではないということを 告げて欲しい。新六は、鳩の街の女に夢中である。もしか したら、鳩の街で彼をつかまえることができるのではない か……という注意まで書きそえてあった。 「これだったら、死ぬまでのことはない。死ぬつもりにな る前に、園江新六のことを、我々に告げてくれた方がよか ったと思う。それに、友杉君も、もう気がついていたんで したね。この男のことについては」  と課長は、口惜しそうな顔でいった。 「そうです。何かある、と思っていました。有吉君は、ぼ くが警察と秘密に連絡をとって、いろいろ知らせたりなん かしたことには、気がついていないようでした。しかし、 ぼくとしては有吉君が園江新六を、しきりに気にしてい る、とはわかったのです。笠原のところへ行った時も、そ れを有吉君が、笠原にすぐ訊いていたのですから」 「そこで、どうですか友杉君。君は、園江よりも笠原とい う男が、気になってならないということを、前からいって いたでしょう。ところが、有吉君の遺書で見ると、園江新 六が犯人だとしてあるんだが、これについて何か意見 は?」 「前と、別に、変りません」 「ほう」 「というのは、園江新六も、犯人であり得るかも知れな い。しかし、ぼくの頭の中には、笠原昇の異常性格が、し ' っかり焼きつけられていますから、やはり彼を、疑ってみ ないではいられないという意味です。そのことは、もう数 回、申したことがあるのですが」 「そうでしたね。君の意見は、我々もかなり重く見てい る。だから、笠原について、事件当夜のアリバイなど、す っかり洗ってみたいと思ったんだが」 「それは、まだハッキリしていませんか」 「どうも不十分です。笠原という男は、なかなか頭が利く 男だから、こっちが下手な動き方をすると、すぐ気取られ るという心配があり、その点で捜査もやりにくいわけだ が、大体に於て事件当夜、笠原が下宿にいたということは 証言できても、深夜に外出したという証拠は上らずにいる 始末ですよ。間借りしている下宿のばあさんを第一に問題 にした。ばあさんの懇意にしている染物屋さんがあったか ら、刑事がこの染物屋さんに頼みこんで、事件当夜のこと をそれとなく尋ねさせてみた。すると、ばあさん、その晩 は、夜の九時頃に寝ちまって、あとのことは知らないとい う。そして、その九時に寝る時には、笠原が、たしかに 二階にいたというのだから、けっきょく、笠原がそのあと で外出したかどうかわからんということになってしまっ た。むろん、笠原の出す洗濯物も、クリーニング屋でしら べてみている。しかし、血痕のあったというものも出てこ ない」 「ぼくの方は、刑事でもなく、私立探偵でもありません。 だから、直接に捜査へ協力するわけにもいきませんし、よ けいなことを言い出して、お邪魔になりはしないかと思っ. て遠慮していました。笠原のことを、そうじゃないかと思 って課長さんに申上げるまでに、時間がたってしまったか ら、その間にもしほんとうにあの男が犯人だったとする と、証拠を湮滅する手段だってあったのでしょう。そうだ ったとしたら残念ですね。無証拠のまま、身柄を拘束して しらべるということは、絶対にできないことですか」 「できないし、こういう性質の犯罪では、しない方が賢明 です。つかまえておいて、あとで証拠不十分になったら、 取返しがつかない。それよりは、忍耐しつつも、容疑者を、    およ 自由に游がせておき、向うで気がつかないうちに、切札に なる証拠、絶体絶命というものを擱んだ方がいい。ーそ うだ、口の堅い友杉君だから、話しておこう。最初に、こ れは奥さんから、二階の書斎の窓について、お話があった のでしたね。あの諸内代議士が、今いったような忍耐で、 うまく成功した例ですよ」 「諸内さん……」 「そうです。あの男をずっと見張っていました。そうして 田舎で、思いがけぬことだったが、ほかの殺人事件の現行 犯としてつかまえましたよー.」  今までの行きがかりがあるから、この人たちには、知ら せるだけの義務がある。課長が、はじめて話したのは、諸 内代議士をM県S温泉で逮捕した件についてだった。藤井 代議士殺しとしての嫌疑も相当にあったが、それはどう癖、 ら見込みちがいで、その代り、加東明殺害の現行犯として つかまえることができた。身柄はすでに東京までつれてき てあり、これからあとは、政界醜事実の摘発ということに なる。加東明はS海岸の絶壁下から死体となって発見さ れ、生き証人を失ったのは残念だったが、彼が偽名をし引 揚者となって世に隠れ住んでいた居宅からは、政治に関す る多数の通信や書類が出てきたから、その面での取調べ は、もう順調に進むことであろう。波及するところは大き く深いものがあるが、捜査一課としての残る問題は、やは り藤井代議士殺しの犯人だった。むろん、早く片をつけね ばならず、しかし、功を急ぎ焦りすぎたら、失敗の恐れな しとしない。今が、捜査は特別な段階へきて、最も大切な ところだ……というのであった。  あまり口出しをせず、じっと聞いていた未亡人の顔が、 その時かすかに昂奮してきていた。  藤井代議士が、その潔癖な性格で企てた政界の浄化は、 生きているうちに目的を達しなかったが、諸内代議士の逮 捕で、ようやく意志が貫徹されることになった。これは、 せめてもの満足にちがいない。彼女は、ため息をついた。 そして、有吉の容態が気になるからといって部屋を出て行 き、あとでまた課長と友杉とは話しつづけた。 「これで、ともかくも諸内代議士は、事件と重要な関係は あるけれど、別の問題での中心人物になったというわけで               しようぎよ すね。方程式の項が、一つ完全に消去された感じですよ。 ぼくは、もともと笠原を考えたのが、数学のエリミネイ ションからでした。藤井家へ出入し、藤井家の事情を知っ ている者、という点で、その中から嫌疑の余地のないもの を消去して行く。そうすると、最後に笠原昇が残ったので す。ー今は笠原のほかに、有吉君が遺書の中で、園江を 犯人として指摘しているわけですが、どうですか課長さ ん、笠原と園江とでは、どっちがどっちだとお考えです か」 「さア、それは、まだ少し決定の時期には早いでしょう。 二人ともに、捜査の線へ浮かび出ている。しかし、面白く なったな、これは」 「何か、とくべつな手蔓を、つかむことができますか」 「今までは、ありていの話が、捜査は遅れていたというこ とになるでしょう。笠原についてでも、たとえば、ミネル バ倶楽部の創立資金の関係をしらべてみた。ところがあの 男は、学生のくせに、金を相当に貯えていて、事務所の設 備費ぐらいは、十分に賄うことができたらしい。そういう 事柄では、ポロがあったにしても、ポロを出さないだけの 準備をしている。だから、捜査は事実上行きづまりだし、 事件発生当時、藤井家の箪笥から洋服地が二着分盗み出さ れている。こいつからも、うまく行くと手蔓がつきそうで いて、しかし、その服地はどこへ品ぶれを廻してみても出 て来はしない。-が、友杉君。君は気がつかないのか なア。捜査は、今日から、面目を変えますよ。有吉君の書 いたものが、我々に重大なことを教えてくれた。期待して もらいたいと思うね」  ふいに、課長の言葉には、力がこもった。視線の底に、 ギラリと物凄く光るものがあるようである。友杉も、それ に応じて眼の色が鋭くなった。探るようにして課長を見 で、それからいった。 「ああ、課長さん。それは、わからないことはありません よ」 「そうかね」 「問題は、園江新六が犯人だとして有吉君に指摘されてい る。それよりは、園江が行方不明という点にあるのでしょ う」 「そう、そのとおり……」 つぼくは、さっきから頭の隅で、重大なことを思いだして いるのです。先き走りしまいと思って、わざとロへ出さず にいたのですが、ぼくは前に有吉君と二人で、笠原の事務 所へ行ってみました。その時のことは、報告してありまし たね。事務所の構造についてですよ」 「そう、それだよ君! 実はね、今日は刑事がミネルバ倶 楽部へ行っている。手形の金の件を口実にして、その実は 内偵が目的だった。ぼくの方は、有吉君のことでこっちへ くる前に、ちょうど、その刑事からの報告があって、しか しその時はそれほどの注意もひかなかったのが、あとで有 吉君の遺書で園江新六のことが詳しくわかったから、それ で刑事の報告を、ハッと思い出していたわけだ」  高橋や平川が、ミネルバ倶楽部へきた、あの五十がらみ の、眼の小さい商人ていの男を、警視庁の刑事だったと知 りたら、どんなに驚いたことだったろう。課長と友杉と は、意見がよく一致し、なお熱した口調で、あとを話しつ づけようとしたけれど、その時に、未亡人が、走るように してそこへ来た。 「友杉さん!」 「はl」 「有吉ちゃんが、助かりそうよ」 「おお、それは……」 「注射したの、そしたら、いたいッ! ていって叫んだの よ。お医者さまも、有望だっていってらっしゃる。でも、 娘さんの方は、まださっきのままで眠っていて……」  医師の注意したとおり、体質の相違が現われてきてい た。まだ時間が不足で、ハッキリしない。しかし、少なく とも有吉だけは、助かる見込みがついてきたのであった。  友杉も、未亡人といっしょに、有吉の顔を見に行った。  そのあとで、課長は、係長と二人になり、熱心に何か相 談しはじめた。 二  笠原昇は、二日間にわたり、憂鬱な時を過した。  有吉が自殺を企てた翌日は、午前と午後と二度も病院へ 見舞いに行き、有吉だけは助かって、波木みはるがついに 助からなかったことを知ったが、病院から帰る時の彼は、 いつもの傲慢な自信たっぷりの様子をまったく失い、しか も眼が血走っていて、いつものあの秀麗な顔が、別人のよ   とげとげ うに刺々しくザラついて見えるのであった。  話してくれるものがなかったから、彼は有吉の遺書につ いて、何一つ知るところがなかった。だから、単純に有吉 ほ、波木みはるとの愛の破滅から自殺を企てたのであろう と推察し、必要があれば、いつでもその詳しい事情は解ら せることができると考えたが、実は有吉のことは、どうで もよかった。長いうち貴美子未亡人の顔を見ないでいて、 この恵まれた機会で口を利くことができたが、すると、彼 が知っているほかの沢山の女の中で、やはりこの女だけ ぱ、とくべつな女だということを強く感じた。それは身が ふるえるほどで、この女が欲しくなり、どんな犠牲をはら ってもと思うくらいだった。苦しいのは、未亡人が、彼を よせつけないことである。福島炭坑の森の中の、たった一 ぺんのキスを、彼は忘れずにいたが、その時とは、態度が まるっきり変ってしまった。もうとうてい想いは達せられ そうもない。彼女は、正気に戻り、しかしまだ体力の回復 しない有吉のそばに、つききりで看病していて、笠原に は、笑顔一つ見せなかった。ダンスのことを、映画のこと を、話しかける余裕も見せない。そうして笠原は、不満と 侮蔑と怒りをおさえ、退去するよりほかしかたがないので あった。  ミネルバ倶楽部で、彼は、平川や高橋に、当りちらし た。  時々、反省してみて、これはいけない、自分は思慮を失 っている、待合今花での不愉快な事件以来、絶えず何か心 を荒しているものがある。それに敗けたらたいへんだぞ、 と気がつきながら、反省は長く続かなかった。そして、二 晩つづけて、べつの女と待合へ行って泊ってしまった。し かも、そういう女は、もうたくさんだという気がした。た だ慾望のために使用するのである。使用するだけの女な ら、ほかにいくらでもいるのだろう。そういう女では、ぜ ったい満足されぬものがある。それは精神か肉体かわから ない。魂というようなものであろうか。魂なんて、あるは ずがないと思ってきた。だのに、今はそれを考えている。 ヤキが廻ったというのであろうか。それとも、今までの自 分の人生観に、狂いがあったのであろうか。頭が混乱しそ うになった。めんどうな不明瞭なことを、忘れてしまうよ うな強烈な刺戟が欲しくなり、それから真夜中に、ガパと 女のそばを起きて出て、好きでもない酒を飲みだした。  三日目の午後、笠原は、最も気に入っている仕立の服を 着て、銀座へ来ていた。  雷雨のあとで、街は湿り、街路樹の葉が、まだ雫を垂ら し、雫がキラキラと光っていた。  その一本の街路樹のこちらで、笠原は十数分ものうち、 じっと向うの、縁と白とで壁や窓を塗りわけた小さな店を 見つめていたが、するとその店から、貴美子未亡人が出て きた。化粧品でも買いに来たのであろうか。笠原は、すぐ 近づいて行った。 「奥さん!」 「あら……」  何かに揺り落されたような、おどろきの眼で笠原を見て いる。一瞬、当惑してから、顔色がしっかりとおちついて きた。 「奥さんとお話がしたいのですよ。ぼくは、今日は、病院 の前へ行って、外出されるのを待っていました。不良少年 みたいに、銀座まであとをつけてきたのです」 「困った人ね」 「そう言われると思っていました。しかし、ほかには方法 がなかったのです。1有吉君は、もう大丈夫ですか」 「ありがと。今夜、退院させますの。だんだん、気持が静 かになって、もう心配ないつもりだわ。あなた、有吉ちゃ んのこと訊くつもりで、あたしのこと、追ってきたんです か」 「イヤ、違います。むろん、別な話ですよ。どこかへ、い つしょに行って下さると有難い。どうですか」 「いやよ、お断わりしますわ」 「そうですか。じゃ、歩きながらでも……」  未亡人は、腕時計をのぞいた。  そして、まっすぐに向うへ顔を向けたままで、笠原と並 んで歩きだした。 「ぼくはね、奥さん、福島の炭坑へ行った時のことを、千 べんも万べんも、思いだしているのですよ」  笠原が、まっさきにそれを言い出したが、未亡人は、動 揺しない表情だった。 「それは、あたしは、忘れたいと思っていることですわ。 過失には、責任がないでしょう。責任を感じさせる権利 も、笠原さんには、無いはずでしたわね」  とりつく島もないといった調子だった。笠原は、あせり の色を顔に現わし、しかし、哀願の声になっていた。 「それは奥さん、ひどいですよ」 「どうしてですの」 「権利とか責任とか、そんな冷たいものじゃないはずでし た。少なくともぼくは、奥さんに対してだけは、ぼくの真 実思っていることだけをいってるのです。そうだった。福 島でも、ぼくは告白しました。ほかの女との交渉があり、 でも、奥さんは別のもので、ぼくの生甲斐だってことをい ったんです。その時、ぼくは感情的で、夢中でそんなこと をしゃべったのかも知れません。しかし、あとで考えてみ            いつわ て、あれこそは、ぼくの佯りのない、本当の声だったとわ かったんです。お願いですよ、奥さん。ぼくは、奥さん次 第で、どんな人間にでもなる男だということが、あのの ち、ますますハッキリとわかってきています。ぼくは、救 われたいと思います。外見的に、イヤ、そうじゃない、ぼ く自身でも、ぼくの本質を誤認して、非人道的な、すべて を計算してからやる、変質者だと思いこむことがあり、こ れは、放っといたら、救いのないものになるようで、苦し くてたまらなくなるのですが、奥さんがいて下すったら、 きっとぼくは、今のぼくじゃなくなると思うんです」 「あたしに、あなたを救う力なんて、ないはずですよ」 「違います。あるのです。ー歩きながらじゃ、話せませ ん。が、ぼくは、生れてから今までに、今ほど本気でもの を言ったことがない気がしている。うそじゃありません。 しゃぺっているうちに、奥さんを、誤魔化すことができな くなってしまうんです。言葉が足りません。わかってもら えないのが苦しいです。ぼくを、可哀そうだと思って下さ い。もしかすると、ぼくは何か乱暴なことをしそうだけれ どー」 「乱暴なんて、怖いわ。……あなた、昂奮しすぎているの ね」 「そうです。昂奮しているのです。どうしてだか、自分で もわけがわからない気持がしています。ー正直に言いま しょう。ぼくは、女を口説くのだったら、自信があるつも りでした。名優のように、顔色を柔かくし、甘い言葉を、 あとからあとからと引出すことができます。はじめ、奥さ んにはダンスで接近し、それから、その名優ぶりを利用で ぎると考えたこともありました。ところが、実際は、だめ だったんです。福島の時もそうだったし、今はまたその倍 もそうなんです。わけもなく気が上ずっています。自分で 意識していて、訂正することができません。乱暴は、決し でしやしませんよ。その代りに、もっと長く話を聞いて下 さい。こんな散歩のような恰好じゃ、ぼくは物足らなく で、気が狂ってしまうでしょう。ぼくの知ってるところ で、静かに話を聞いていただきたいのです。どうです、だ あですか」  笠原は、熱烈だった。  自分で自分の口から出る言葉が、女を騙すためのもので あるか、それとも、真実感じたままをいっているのか、よ くわからないほどであり、そのくせに一方でば、もし女 が、土下座をしろとでもいうのだったら、すぐ土下座をす るのだろうと、どこかで自分をそっと冷たく観察している ものがあるのを意識し、これでは自分は崩壊するぞという ことを、チラリと頭の隅で考えた。  裏通りから、賑かな表通りへ出てしまっていた。  もう、どんな話も、できなくなっている。  笠原は、裏通りへもう一度引きかえそうとし、未亡人 は、腕時計をまたのぞいた。そうして、 「さっき、いったでしょ。今夜退院なの。これで失礼する わ」  それっきりで、人混みにまぎれこんでしまった。  そこに立ちつくして、未亡人の後姿を見送る笠原の瞳 が、打ちのめされた屈.辱から、次第に憤りの色に変ってき た。  今こそ、全精神が、笠原本然の主体に統合されたという 気がする。  女は、もう、諦めた。  諦めたが、何か、意地の悪い復讐をしたくなった。どん なことをするか、これから考えることができる。それは一 つの楽しみであるような気がしてぎた。 「そうだった。事業というものがあった。一億円の大会社 だ。世界に類のない学生財閥を作り上げるのだ!」  彼は夢から覚めたように気がつき、銀座を歩く人の顔 を、軽蔑して眺めた。それから、タクシーを呼びとめ、二 十分後に、淀橋のミネルバ企業倶楽部へもどってきた。  ところが、来て見ると事務所には、通いのばあさんと少 年とがいるだけで、机ががらんと空いている。ラジオが野 球の放送をやっているところだった。 「うるさいな。ラジオなんか、やめたまえ。ほかの人たち はどうしたんだい。君が一人きりか」  と、また腹が立ってきた。  少年は、壁のそばへ立ちすくんでいた。 「一人きりですよ。平川さんも高橋さんも、帰ってきませ ん。もう二時間ほど前に出かけたままで……」 「まるで、なっていないな。誰か一人は残っていなくちゃ ならないんだ。どこへ行ったんだい」 「わかりません。人が二人ほどきました。平川さんと高橋 さんとを、一人ずつ事務所のぞとへ呼びだして、ボソボソ 声で話していました。それから、いっしょに二人とも、出 て行ってしまったんです。なんだか高橋さんがあわてたよ うな顔をしていましたけれど」 「ふーん」  事務所への客であろうか、平川や高橋の友人であろう か、友人だとすると、麻雀でもやりに行ったのではあるま いか。笠原は、せっかく事業に専念するつもりになったの が、ふいに何か邪魔をされたみたいで、ひどく不愉快だっ た。平川も高橋も、帰ってきたら、こっぴどく叱りつけよ う、よろしい、あいつらは、首にしてしまってもかまわな いのだ、と考えた。  上衣をぬぎ、ネクタイをはずした。  それから椅子へ腰をかけてから、床へ作りつけた秘密の 箱の蓋を鍵でひらき、ノートを一冊取りだすと、会計に関 する特別な記入をしらべようとしたが、そのとたん、 「ごめん下さいl」  二人の見知らぬ男が、ぬっとはいってきてしまったの で、ノートは、いそいで元の場所へもどしてしまった。  二人の男は、どちらも中年の、しかし、一人が痩せてい て眼鏡をかけ、他の一人が、でっぷり肥っていて、ごくあ りふれた身なりの、何も特徴のない男たちである。べつに 警戒心もおこらなかった。用件を聞くと、小さな鉄工場を やっているが、職工の賃金不払いでストライキが起りかけ ている。役所の仕事を引受けているし、ほかにも、あと二 週間ほどで金になる仕事があるが、それまでストライキを おさえるために、どうしても十万円ほどの金を借りたい。 担保は、工場の建物でも設備でも、お望みのものにするか ら、という話であった。  笠原は、三日前の有吉自殺の事件があった日に、平川と 高橋とが手形をおとす金を借りにきた商人の件で、翌日そ の商人のところへ行ってみると、商人は居所が不明であっ て、ついに話がお流れになったことを思いだした。よし、 あいつらだから、そんな失敗をした。自分なら、ヘマなこ とはやらないそというつもりで、この相談に乗ることにし た。  しかしながら、話してみると、なかなかこれは思うよう にならなかった。  利子の天引きが困るという。また、十日に一割は高いか ら、月一割にはならぬかという。その上、二人とも関西弁 だったが、それがひどくゆっくりしたしゃべり方で、執拗 に喰い下り、有利な条件にしようとしていた。折合いがつ かず、いつまででも、同じところを堂々めぐりしている。 そのために、時間が長くかかってしまった。しかも二人と も、笠原を両側の椅子から挟みこむようにしていて、なん だか身動きもできぬような気がする。ついに笠原は、辛抱 がしきれなくなっていた。早く平川と高橋とが帰ってくれ ばよい。彼らに、このネチネチした男たちとの取引を、ま かせてしまいたいと考えはじめた。  が、この時に実際は、笠原の運命が、もう最悪な状態へ 陥ちこみかけていたのを、彼はまだ知らなかったのであ る。  下手な関西弁の二人の男は、警視庁から来ていた、秋 本、岡野という刑事だった。逮捕の前に、笠原が気がつい て、逃亡するとか、自殺するとか、そういうことをさせぬ ため、刑事が逮捕状に先行し、看視に来ていたのである。 むろん、高橋と平川がいなくなっていたのも、笠原が思っ たように簡単なことではない。彼等は、警視庁へ行ってい たのであった。 「オッ! また雨やぜ!」  と、鉄工場の経営者に化けた秋本という刑事が、事務所 のぞとを眺めていった。  晴れたはずの雷雨が、くりかえし黒い雲を運んできていた。 「こら、どむならんな。金策はつかんわ、ぐちょぬれには なるわ。ま、もすこし話をねっとこ。なア笠原さん。あん たかて男やろ。ズバッと男気出して、うちを助けるつもり になってくれんかいな」  と岡野刑事が応じた。  雨は、ポツリと大粒におちた。      はいぜん  そして、沛然たる豪雨になった。 低い天井と高い床       一  すね 脛に傷もつ脚とは、このことをいうのだろうと、平川洋 一郎と高橋勇とは、その時しみじみ思った。  だしぬけに、事務所へ刑事がきた。  そして、警視庁まで同行してもらえまいかと、まるで彼 らに相談しかけるような口調でいった。  その口調から判断すると、いやだ、といって強く拒絶す ることもできそうであり、しかし拒絶したら、あとがよけ いに悪くなることが、眼に見える気がした。すぐに彼ら は、池袋の強盗がばれたのだと、考えをきめたが、とたん に、脚の関節がガクガクと鳴りだし、傲然と平気な顔をし ていようとすると、それが却って泣顔になってしまいそう であった。  新聞に学生強盗の記事が出るのであろう。自分たちの一 生はこれで台なしになる。警察は、間抜けで古臭くて、自 分たちのやったことなんか、嗅ぎつけるはずはないと思っ たが、やはりどうもいけなかった。よかったのは、二度目 の強盗を、やりかけただけで失敗したことだった。だから つまり、あれは一度しかやらなかったということになる し、それも、銀行家が不正な手段で利得した金を奪ったの だから、そういう不正を懲らすためにやったのだといった ら、いくらかは罪が軽くなるだろう。そうだ、とった金 ぱ、共同募金やその他慈善事業に大部分を寄附してしまっ たと嘘をつこう。そうすれば、傷害や殺人をやったわけで はないし、同情されまいものでもない。場合によったら、 ろくに裁判もしないで執行猶予というぐあいにはならない だろうか。  慌しく、彼らの胸中には、そんな考えが往来し、しか し、もしかして青酸加里の錠剤でも持っていたら、それを すぐに飲んでしまったかも知れないほどの絶望状態で、と もかく警視庁までつれて行かれたのであった。  刑事は、途中で何も説明してくれなかった。  そして警視庁へつくと、貝原係長が直接彼らに会い、ま ずいきなりと、園江新六についての質問があった。係長 が、ハッキリといっている。園江新六を、警視庁の手で探 してみた。が、どうしても居所が判明しない。もしかした ら、君たちは知っているのじゃないか。イヤ、園江新六 は、君たちの親友だったのだろう。君たちがどこかへ、か くまっているのではないか、というのであった。  心の中で、平川も高橋も、園江のことを訊かれるようで は、いよいよだめだと観念した。新六は、きっと自分たち と別行動で、何かひどいことをやったのにちがいなく、そ のために警視庁から追いまわされているのであり、またそ のために、池袋の一件も、ばれたのであろう。まったく、 あいつは、低能だった。あんなやつを、仲間にしたのが失 敗だった。しかたがない。もう、白状してしまおう。改俊 の情をここで披瀝しておいた方が、有利になるにきまって いる。そうだ、真実自分たちは後悔しているのだと立証し なくてはいけない。泣くのがいい。涙を流しつつ白状した ら、少なくともこの金ぶちの眼鏡をかけた、学校の教授の ように温厚な顔つきをした警察官は、自分たちを憎むこと なく、同情しつつ調べを進めてくれることであろう。泣く のだ、泣くのだと、二人とも同じことを頭のすみで考え、 すると、もう涙は註文に応じて、こんこんとして眼の底か ら、流れだしてくるのであった。  貝原係長は、おどろいた眼で、二人を見ていた。  そのおどろきは、並たいていのものでない。呆気にとら れ、それから愕然として、なにか警察官としての自信を揺 り動かされるようなものだった。園江新六について訊ねた のは、もしかして園江が、彼らの手でどこかに匿まわれて いるとか、でなくても、最近に彼らが新六に会ったことで もあったとしたら、それだけでもう藤井代議士殺しについ て警視庁でつけた狙いは、根底から狂うことになるだろう し、そうなると最大の容疑者笠原昇に対しての逮捕状も、 出してもらえなくなるという立場に来ていたから、何より 先きに新六のことを訊いてみたのは当然であり、そうして その次に、なおもう一つ、重大な質問があったのに、ここ で平川と高橋とが、叱られた子供のように顔を歪め、涙を ボロボロこぼして泣きだそうとは、てんで予期せずにいた わけである。  係長は、この不良少年たちの問には、警視庁でもまだ知 らずにいた、何かの秘密があったのだぞと気がついて、だ とすれば、自分の言葉にも、十分注意せねばなるまいとい うような心構えになったが、するともうそのとたん、平川 と高橋とは、覚悟をきめて、彼等の改悛の情を、披瀝しは じめた。 「ぼくは、もっと早く、自首して出ようと思っていたので す。しかし、金ができたら、あの家へ返却しようと思って いたものですから……」  さきに、そういったのは高橋であり、つづけて平川も、 「あれは、園江が、ぼくらを誘ったのです。園江が手引き しました。銀行家で、不正なことをして金をためている。 懲らしめのため、やっつけようといったものですから……」  と、すすり泣きしながら、しゃべってしまった。  係長の口から、うなり声がもれた。  いっしょにいた配下の若い警部補と顔を見合せ、それか ら、 「よし。わかった。君たちのやったことを、全部話してみ たま、兄。かくしてもだめだからね」  と、それを知っていた顔つきで二人にいった。  軽率な早すぎた自白だったとは、平川も高橋もまだ気が つかない。それに、実際もうかくしてもだめなところへき ている。彼らは、池袋での犯行を、洗いざらい、しゃべら せられる羽目になった。つけ加えて、藤井有吉が五万円の 金を持ってきてくれたのは、彼らの犯行の直後であったこ とも、そのまま正直に自白してしまった。 「藤井は、親切で、いいやつです。その時の仲間にはなり ませんでしたが、ぼくらに悪いことをさせまいと思って、 果物籠の中の金を持ってきてくれたんです。小西が、藤井 の金を見て、オイオイ、泣き出しました。ぼくは、なぜだ ったか、腹が立って、やけっぱちみたいになったんですけ れど……」  と平川はいい、高橋は、 「その時に、一人だけニャニヤ笑っていて平気だったの は、園江新六です。あいつは、五万円ぽっち、どうにもな らない。もういっぺん同じことをやろうってことを、その 時にもういっていました。1しかし、ぼくらは、園江に は、あいそをつかしています。藤井のおやじが殺された頃 から、あいつはどこかへ行ってしまったし、あれからのち 園江が何をしたにしても、ぼくらとは完全に無関係です。 あいつをかくまっているなんて、とんでもないことです。 どこにいるのか、全然ぼくらは知らないのですから」  と、その点はとくにハッキリ区別してもらいたいつもり で、言葉に力を入れていうのであった。  捜査課長のもとへは来客があり、その客は、麻雀と将棋 と釣りの話をしはじめると、自分一人いつまでも面白がっ ていて切りがない。近いうちに、釣った鮎を持ってきて、 捜査課の連中全部にふるまおうと、あてにならぬ約束をし てから、やっと腰を上げて帰ったあとへ、係長が、緊張し て報告にきた。 「意外でしたよ。こっちじゃ知らなかったのに、自分で口 を割りましてね」 「ほう」 「園江のことを訊くと、いきなり二人が泣きだしました。 それから、園江といっしょで、池袋の高須という家へ、強 盗にはいったことがあると言いだしたのです」 「オヤォヤ、そいつはどうも……」 「こっちは、ドスンと、何かで殴られたような気がしまし た。が、しゃべるにまかせておいてみると、その事件は、 代議士殺しよりも少し前のことらしいのです。園江といっ しょでというのが、ほかにまだ、小西貞というのと南条真 というのがいるのでして、こいつらは、果物籠の金の件 で、いちおうは取調べてある連中です。1とにかく、五 人組の学生強盗で、これは池袋署が所轄だから、そっちと 連絡をとって、すぐ処置をとることができると思うんです が、問題はしかし、園江新六についてですから……」 「そうだ。それだよ。園江のことを、どういっている?」 「私も、気がもめてたまらなかったんですが、けっきょく のところ、思ったとおりでしたよ。園江には、ずっともう 会ったことがない、居所もわからん、それが藤井事件の起 る直前からというんです」 「直前とは、いつ9」 「それが日附をハッキリ記憶していない、といっていま す。しかし、園江に会いたいことがあって、平川と高橋と は、鳩の街へ園江を探しに行ったことがあるそうで、また その翌日に、藤井有吉のところへ園江のことを聞きに行く と、藤井有吉も園江のことは知らなかったから、それはそ のままにして、神田の紅中軒で麻雀をうったのだというこ とです」 「待て。紅中軒の麻雀というと、その晩だぞ、藤井代議士 が殺されたのはl」 「そうです。だから、重大です。つまり、代議士殺しの二 日ほど前から、園江は行方がわからなくなっているので す。どうでしょう課長。もうここらで十分じゃないです か。あなたが、その推理を組み立てた。友杉君も、同じ意 見でしたね。園江新六は、もう生きていないのですよ。そ の推理を立証すればいいわけでしょう。-代議士殺しの 直接の下手人は、やはり園江新六であったかも知れない。 しかし、今もう、園江が生きていないことだけは、確実だ と私も見ます。平川、高橋の強盗の一件は別にして、ここ であの猫を見せた方がいいと思うんですが……」  課長は、ボールペンのカップを、ぬいたりはめたりしな がら、ちょっとのうち思案した。そうして、 「よかろう。見せた結果で、逮捕状といっしょに、捜査差 押許可状もとっておいた方がいい。物件はミネルバ企業倶 楽部建物一式とやる。よしきた。学生強盗の顔を見に、ぼ くも行くよ」  元気な声でいって、椅子を立ち上ってしまった。  猫を見せる、というのは、局外者が聞いたら、わけのわ からぬことであり、まるでなにか、警察で使う特殊な用語 のようにも聞える。しかし、そういうものではなかった。 現実の猫である。そうしてその猫を警視庁は、捜査の最後 のきめ手として、とくべつに探しだしておいたのであっ た。  実は、刑事たちが、二日間にわたり、たいへんな苦心を した。  ミネルバ倶楽部の事務所、及び笠原昇が間借りしている 下宿の附近で、最近に飼猫がいなくなったという家を、残 るくまなく探して見たし、また一方で、笠原の知友関係 を、ダンスホールでも、キャバレーでも喫茶店でも、ひそ かに片っばしから聞きまわったが、するとある洋裁店の女 主人が、ポカリと捜査の線へ浮かび上って来た。その女 は、猫を可愛がって飼っていた。しかしその猫は、藤井事 件がおこってから二日ほどのち、姿が見えなくなってしま         としま った。女は、もう年増で、笠原にかなりの金を与えてい る。半年ほど前は、ほとんど毎夜のように、自宅の洋裁店 で会っていて、そののちは自然に笠原の足が遠のいていっ たのを、ふいに笠原の方からやってきた。そしてその時か ら、猫がいなくなったというのであった。猫が主眼だった が、それに女と笠原とが結びついたのでは、もう間違いな しということになった。それは三毛猫だというから、いく 匹もの三毛猫を借りあつめ、女に、どれが一番よく似てい るかを選ばせた上で、その猫を犬の箱に入れ、警視庁へは こんできておいたのである。  平川と高橋とは、留置所へぶちこまれることばかりを考 えていた。  来てから雷雨があり、そのあとの空の色が、窓のはし から青く見えた。あの空の下の空気は、もう自分たちのも のではないと感ずる。見せかけではない後悔の念が強く身 をかんだ。平川は高橋を、高橋は平川を、こんなやつと友 だちになったのがいけなかったのだと思って憎くなり、そ のくせに、手をにぎり、胸を抱き合って、声の限りに泣き たい気がしてきた。  しばらくいなかった係長が、課長といっしょで、うしろ に、猫の箱を刑事に持たせて戻ってきた時、その箱を、拷 問の道具かと思って恐ろしくなったが、すると、思いもよ らぬことを言われた。 「さて、お頼みがあるよ、君たちに」 「は……」 「この猫を見てくれたまえ」  薮から棒で、キョトンとして、係長や課長の顔を見上げ た。 「説明しなくちゃ、わからんのだろうね」 「ええ、わかりません」 「はじめに、友杉君から聞いたのだ。ええと、平川君だっ たろう、君が友杉君に話したということだ。ミネルバ倶楽 部の事務所の床が、コンクリートになっているね。ところ が、それは、猫の死体を、ぬりかためたもので、猫の死体 を、ちょっとでも動かさないようにして床を作ったから、 床が高すぎて、天井が低くなったということだった。その 話は、嘘じゃないのだろうね」 「そ、そうです。ーぼくと高橋とが、それは見たのです から」 「君たちのとこの笠原社長が、猫の死体を動かしちゃいけ ないという、迷信をもっていたのだったね」 「ええ……それも、そのとおりですが……」 「ところで、その猫は、君たちが、どこかで殺して持って 来たのかね」 「ちがいます。ぜんぜんです」 「というと?」 「ぼくらは、笠原君から、事業をやるから手伝えっていわ れました。そして、事務所へつれられて行ってみたら、バ ラックの床が、まだ土間になっていて、その土間のまん中 に、猫の死んだのがあったんです」 「よし。その時のことを、詳しく訊こう。土間の土は、固 くなっていたのかね」 「いえ。固くはありませんでした」 「掘りかえしたとか、穴を埋めたとかいう形跡は?」 「それは……わかりません。しかし、土の色は、新しかっ たと思います。そう言われれば、掘りかえしたのかも知れ ません」 「つまり、足で踏むと、ホカホカしていたというわけだ ね。そのホカホカした土の上に、猫が死んでいたー」 「そうです。そのとおりです。事務所に改築するので、そ の翌日、仕事師の親方が来ました。そしてコンクリートに するなら、土をさらった方がいいといったんですが、土を さらうと、猫を動かさなくちゃならないというので、その まま、コンクリートにしてしまいました。その時にも、ぼ くは見ていましたが、土の色は、まだ新しい色でした」 「では、それもよし。……もう一つだ。はじめに死んだ猫 を見つけたのは、君たちのうちの誰だったね」 「三人でいっしょです。社長とぼくと高橋とでバラックへ はいり、雨戸を一枚あけると、……ああ、そうでした、社 長がはじめに、あッといってびっくりしたのです」 「じゃ、社長が、第一に、猫に気がついたということにな るのだろう。その時の社長の態度や顔つきは9」 「目をまるくして、しばらくそこへ、つっ立ったままでし た」 「よほどひどくおどろいたわけだね。社長は、いつもそう いう風に、びっくりしたり顔色を変えたりすることがある のかね」 「さア、どうですか。大体は、ぼくらよりずっとおちつい ているし、最近は少し変ですが……そうです。その時のよ うに、社長が顔色を変えたなんてことは、ほかでは見たこ とがありません」  係長が、ふりむいて課長を見た。  課長は、満足な目つきをしている。 「じゃ、この猫を見てくれたまえ。死んだ猫に似ているか どうかだ。三毛猫だったということだね」  そう言われて平川と高橋とは、いっしょに箱の中をのぞ き、そうしてうなずいた。 「よく、わかりません。しかし、毛並みは同じですね。頭 のところに、黒と茶色の輪があって、その輪のぐあいは、 そっくりだと思いますが」  それ以上は求めても無理であろう。そうしてこれまでわ かったら、洋裁店主の猫が、あのコンクリートの床の下の 猫だと、断定してもよいだろう。  課長が、ポケットのたばこを出して、平川と高橋とにあ たえた。  そして、配下のものは、すぐに次の行動をおこした。 二 雨がやまない。 雷雨が、どうやら梅雨性のじとじとした降り方に変って しまった。  そうして、笠原昇は、へたな関西弁でしゃべる鉄工場経 営者たちを、もうすっかりもてあましていた。  事業は発足したばかりで、だから、がまんをしたいとは 思うけれど、いつもこんな煮え切らぬ人物ばかりを相手に するのだときまっていたら、まったくやりきれぬと思うほ どである。総額十万円の金融で、すったもんだの末に、二 人のうちの一人が、笠原の持ちだした条件へ、ともかく歩 みよりを見せたかと思うと、他の一人が分別臭い顔で文旬 を言いだし、文句があると、話がまたふりだしへ戻ってし まうという状態で、いつまでたってもヶリがつかない。し かも、雨を口実にして、二人とも、悠々と腰をすえている のであった。 「どうでしょう。もう妥協の余地は、残っていないと思う んですが」 「さよか。そうなると、ほかで金策はつかんよって困るさ かいに……」 「しかたがありませんね。それに、ぼくは用事もありま す。これ以上、まとまらない話をつづけているわけにも行 きません」 「オヤオヤ、帰れちゅうんかいな。ひどいあいそつかし や。そんな短気なことを言わんかて、ま、もう少し、こっ ちのいうこと、聞いてもらわんと……」 「いや、もう、十分に聞きましたよ。金策ができないと、 賃金不払いでストライキが起るという話でしょう。それに ついて、ぼくが責任をもつことはありませんね。雨も、さ っきほどじゃありません。タクシーを呼んで来させましょ うか」 「オットット……待っとくなはれ。タクシーなんて呼んで もろうたら、また散財やであかんわ。なア社長さん、あん たわしらが、あんまりゴテゴテゆうとるから、あいそつか してしもうたんのんとちがうか。こら、えらいこっちが 悪かったわ。ゴテつかせたくてゴテついたんやない。よっ しゃ。もうゴテつかぬ話にしてしまお。金づまりの世の中 やから、天引利子も、かめへん。といちの利子はぎょうさ んやが、これも背に腹はかえられんさかい、キチンと払っ て見せまっせ」 「そうですか。そういくのなら、いいと思いますが」 「そうやろ。担保もしっかりしている、損はかけん。が、 どうやろ、それだったら、十万円ばかりでなくて、もっと たくさん貸してもらえんやろか」 「たくさんて、どのくらいですか」 「ざっと、百万や。二百万なら、なおのことこっちは助か るが:…」  できぬ相談だとわかっていての、無理難題を持ちだされ た気がする。でっぷりした方の男の眼尻に、皺がより、人 を馬鹿にしたような薄笑いが浮かんだ。聡明なはずの笠原 が、まだこの二人の正体を、わからずにいた。ただ腹が立 ってきて、待てよ、これは金を借りにきたのではない。も しかすると、なにかゆすりにきたのかも知れないと、はじ めて警戒心がわいてきただけであった。  ゆすりとすれば、事業のことでか、女のことでか、わか らないのがもどかしかったが、なにくそ、今度はもう待合 今花でのようなヘマなことはやらない、うまく胸のすくよ うな、背負い投げを喰わせてやるぞ、と腹のうちで叫んだ とたん、今花での女はキスだけで、それ以上には一歩も進 められなかったことを思いだしたから、ふいにその連想 で、貴美子未亡人の顔が、目の先きにちらついてきた。あ の女も、やはりキスだけはした。森の中の、たそがれ時で あった。たしかにその時の自分は、倖せであった。白く柔 かく美しい、ばらの匂いがする雲の中へでも巻き包まれた ようで、女の肉体のことすら考えず、野心も消え、安心し きって、それ以上には何も望むものがないようであった。 あの女には、それだけの値打ちがあったのである。銀座で は、女に復讐をしてやりたくなったが、やはり、諦められ ぬ女である。なぜ自分を、あんなにも冷淡にとりあつかう のか。ああ、それは、もしかすると、ほかにあの女の愛を 奪った男があるのかも知れない。その男は誰だ。諸内とい う代議士か。いや、あんなやつを愛するはずはないが。と すると、友杉か。友杉という男は、へんなやつだ。あいつ だけは、藤井家の書生で家庭教師で下男で、しかし、おち ついた、しっかりした目つきをしている。そうしてあいつ は、いつも藤井家に起臥しているのだ……。 「どうや、社長さん9」 「え……」 「ズバッと、百万円貸してんか」  肥った男の眼が、また不可解に笑っている。そうしてこ の時、雨を冒して三台の自動車が、凄いスピードで走って くると、ピタリと事務所の前へとまった。  鉄工場の経営者に化けていた二人の刑事が、自動車を見 てホッとした顔になり、笠原も何事かと思って腰をうかし かけると、左右からその腕を、二人の刑事が、パッとつか んでおさえつけてしまった。 「あッ、何をする!」  叫んで、ふりはなそうとしたが、椅子へひきすえられ、 肩まで刑事の手がかかった。 「バカな! 乱暴するのか、君たちは……」  いった時、肥った刑事が、 「警視庁の車だよ。おちついていたまえ。-ー1おお、課長 もやってきたよ」  と、はじめて関西弁でなくいって、相棒の刑事に、目く ばせしている。  なるほど、前の二台の車から、捜査課長がまっさきにと びだした。そして係長と数名の私服や拳銃を持った巡査が おり、つづいて三台目から、ツルハシやタガネやカジヤや ハンマーをたずさえた、仕事師の一団がおりてきた。  係長が、事務所のうちをのぞき、先発の二人の刑事が、 笠原をがっきと抱きすくめているのを見て、それでよし、 という表情になり、それから、天井が低くてせまい事務所 のうちが、たちまち人でいっぽいになってしまった。  笠原の頭のてっぺんから足へかけて、なにか氷のような ものが、ずーんと駈けぬけ、そのくせに、怒りと恥とが、 血を逆流させた。しかも、それを見せてはならない。息を匆 つめ、平静を装い、すると、ものをしゃべろうとする口や          こわ 舌が、化石のように硬ばった。 「はなしてくれたまえ! こんなバカなことはない。いっ たい、警察が……」 「人権蹂躙だっていうんだろう。さア、こいつだよ」  係長が、自分でたいせつにして持ってきた書類を、笠原 の椅子の前へきて、デスクを隔て、及び腰になって、開い て見せている。それは、一通が、意外な逮捕状だった。園 江新六殺害被疑事件につき、笠原昇を逮捕すると書いてあ る。他の一通は、同事件に関し、ミネルバ企業倶楽部建物 を、差押え捜索するという許可状であった。 「……9」  笠原の眼が、毒々しい光にあふれて、係長の顔を見上げ た。 「わからんかね、これだけじゃ……」 「わかりません」 「園江新六を知っていないとは、いえないだろう。S大法 科専門部一年、鼻が曲がっていて美少年じゃない。君に、 度々、金を借りたことがある」 「そうです。知っています」 「この男は、藤井代議士が殺される二日前から行方不明 だ。それ以来、誰もこの男を見たものがない。両親のとこ ろへも帰らず、馴染みの女のところへも行かないし、平 川、高橋、南条、小西、みんな会っていない。ところでし かし、そうやって行方不明になる前に、園江が会ったとく べつな人間が一人ある。それは代議士の息子の有吉君だ よ」 「   」 「違例だが、君を納得させるために、みんな話しておくこ とにしようね。いいかい、今いったとおりだよ。すっかり 洗ってあることだが、有吉君以外に、園江新六と会った人 間ーイヤ、そういっては適切でない。有吉君のほかに、 彼が行方不明だと信ぜられている間に、誰かが彼と会って いるはずだということを、警察では考えた。その人間は、 多分この世の中で、いちばんおしまいに、園江新六と会っ たのだ。それが誰だか知ってるかね」 「知りません……そんな、つまらないことをなぜ、ぼくが 知っている必要があるのですか」 「ああ、そう。多分君は、そう言うだろうと思っていたん だよ。が、園江は有吉君に会って別れる時、君にとっては まことに都合の悪いことをいったわけさ。つまり、笠原さ んのところへ行って、金を借りようってことをいったんだ ね。これは、有吉君が自殺するつもりで書いた遺書のうち からわかったんだ。そうして、こうなってみると、園江 は、行方不明になってからか、またはその直前、君を訪ね たのだろうということが推測できる。つまり、この世で最 後に園江と会った人物は、君だったと考えても不思議じゃ ないよ。それから、ほかにもう一つ有吉君は、お父さんが 殺されてしまったあとで、園江がどこにいるかということ を、ひどく気にしだしたのだよ。そしてこの事務所へ、友 杉君と二人でやってきた時、君に向って、園江が君を訪ね て来なかったかと訊いたはずだね。それは、どうだい、お ぼえているだろう」 「おぼえて……います……」 「有吉君も、その点だけは、警察と同じようなことを、す ぐに考えたわけだ。しかも警察のわれわれとしては、君の 次に、園江と会った人間は、恐らく一人もあるまいと思っ ている」 「待って下さい! ……ぼくは、有吉君にそれを訊かれた 時、園江なんか来やしなかったと答えたはずですよ!」 「そうだ。君はそう答えている。が、その時の君の顔色は、 ひどく緊張していたということだね。それは、もうわかっ ているのだ。そうして、君のその答えが、真実であったか 嘘であったかーつまり、園江が君に会ったか会わなかっ たか、それは、じきにもう決定することができるのだよ」 「   」 「警察ぱ、目くらじゃないつもりさ。いろいろの方面で調 査したよ。その中に、藤井代議士殺害より二日前の夜、君 と園江らしい二人の人物が 自動車に乗ったのを目撃した という証言すらないじゃない。ーいいね。もう納得した ろうな。事実上は、君がもう一つの恐るべき犯罪に関係し ていると、こっちじゃ睨んでいる。とりあえず、逮捕状 は、園江新六殺害被疑事件だけになっているが……」  係長の言葉が、脳髄へうちこむ弾丸のようであった。  さすがの笠原が、唇を血の出るほどに噛んで、もう何も 言えなくなっている。係長は、笠原がそこにいては邪魔だ から、畳のある部屋の方へ、つれて行けと命令した。そう して、仕事師の親方をふりむいて、 「さア、やってくれ。早いとこ、頼むよ」  と、いせいよくいった。  まず、書類が全部押収された。  次に、椅子やデスクを、すみへ寄せて積みあげて、それ からかしらたちが、事務所の床をこわしはじめた。  笠原が、わめくかあばれるか、抵抗すると思ったが、彼                    と はだまって見ている。顔色が、青く美しぺ砥ぎすまされた ようで、一度、手を自由にしてくれと訴えたが、それは許 されず、刑事が、水をコップで飲ませてやると、それっき り何も言わなかった。  かしらのツルヅパシで、コンクリートの破片がとび散っ た。  セメントが、あまり上質のものでないと見えて、わりに たやすく床が崩されて行く。 「ああ、それだ! 傷をつけないように持ちだすのだ!」  係官の一人が、大声に叫んだのは、コンクリにぬりこめ られた猫の死体が出たからであった。係長が、 「ウム、もう、腐ってるだろう。できるだけ形を崩さないよ うにして、ブリキ板の上へうつしとけ。そうして、その下 の土を掘るんだ。気をつけろ。オイ、写真、たのむよー.」  かしらをかきわけて首を前へ出し、しきりにどなりちら している。  土は、わずかに五寸ほど掘った。                  ふとん  すると、はじめに現われたのは、蒲団か毛布のような ものであったが、手のひらで、ていねいに土をはらって見 ると、それは、うすい茶色に目立たぬ程度の青い縞がはい った洋服地であることがわかった。そうしてその洋服地 は、長々と横にひろげられ、はしの方が、まだ崩してない コンクリートの下までのびているのであった。 「品ぶれで、出て来なかったはずだよ。これは、藤井家の 箪笥から盗み出された服地にちがいない。おどろいたな。 こいつまで土の中に埋めてあるとは思わなかったよ」  係長が、低い声でいったが、ほかの係官たちは、はやる 心を押ししずめようとして、息苦しそうな顔つきをしてい る。  かしらが、呼ばれた。  コンクリートを、タガネでこわして、また少し穴のふち をひろげ、係長が、さすがに今度は息づまる声でいった。 「さア、よし。もう一枚、写真だ。それから、この服地 を、はいで見ろ!」  背の高い刑事の一人が気がついて、電燈のコードを長く のばし、人々の肩越しに、光の穴の中までさし向けた。そ うして他の刑事が、静かに服地をはぎとって行ったが、す るとその下に横たわっている人間の死体が、脚から胴、 腕、肩、そして顔という順序で見えてきた。  その死体は、園江新六であった。 短い尺度計の告白 一 『今私は、一八七五年フランス政府で招請したメ1トル条 約の会議のことを考えている。この条約でメートル国際原 器が、トレスカの考案にもとづき、X字形の断面をもつ、 白金とイリジウムとの合金製のものに決定された。その原 器は、重さが、たしか三・二五キログラムあった。そし て、摂氏一五度で、正しく一〇〇センチメートルの長さを 示した。私は、この原器が、もし狂っていたら、というこ とを思ってみる。その場合は、地球上の尺度計が全部狂っ てしまうのである。幸いにして原器は狂っていなかったか ら、それを基準にして作った他の尺度計も、摂氏一五度で 正しく一〇〇センチメートルであることが可能になった。 そうして、もしかして九九・九九センチの尺度計が作られ たとすると、それは不正な尺度計であることが、たやすく 看破され得ることになったのである。  しかし、この不正な短い尺度計を、正しい尺度計だと思 いこむ者もあるであろう。しかも私は、そういう尺度計を 使っていたのである。イヤ、私自身、その尺度計であっ て、正しい原器と比較することさえ忘れていたのだといっ てもよい。短い尺度計は、測量を常に誤まっていたが、自 分では誤まっていないつもりであった。そうして、今の破 滅を招いたのである。測量が、理論的には正しいと見えて も、実はまことに不正確であったのは、尺度計の例ではな く、次のような場合にも似ているだろう。  ある博物館で案内人が説明した。 "このミイラは五千七年たったものですよ" 〃ほう、なるほど。しかし、五千七年というのは、どうし てそんなに正確にわかっているのですか" 〃なアに、あなた。私がこの博物館へ任命された時、この ミイラは五千年前のものだと聞いたんですよ。ところが、 私はそれ以来もう七年間、案内人をつとめていますから ね"  この案内人に、五千七年が無意味な数字であることを、 ハッキリ呑みこませるように説明するのは、かなり困難で あるに違いない。彼にとって、七年という数字は、大切な 数字だった。そうして五千プラス七、答えの五千七年は、 どんな大学の教授でも、同じように計算するものと考え た。これは合理的である。合理主義は、こうして頑固に案 内人の頭を支配している。私も、案内人に似ていた。短い 尺度計にあわせて正しければ、それこそ合理的であると考 えたのである』  笠原昇は、警視庁の留置所で、手記を書くことを許され たが、その手記の冒頭で、以上のように書いている。  彼の身体をしらべると、ズボンのバンドにとくべつな仕 掛がしてあって、そこに青酸加里の粉末が収められていた が、もし、園江の死体が掘りだされた時、身体の自由を拘 束されていなかったら、すきを見て毒薬をロへ投げ入れる つもりだった、と彼はいっている。  変装した二人の刑事が、先発してミネルバ倶楽部へ行っ ていたのは、まことに機宜を得た処置だったと言えるだろ                ゆだ う。死ぬことさえ、自分の意志に委ねられなくなったのだ と知った時に、彼も、もはやすべての結末が来たことを覚 ったらしい。  その後の係官の訊問に対しては、彼は進んで全部をうち あけた。逮捕状の方は、園江新六殺害の一件だけになって いる。しかし、藤井家の盗難品が、新六の死体といっしょ に発見されていたから、もう言い逃れはきかず、藤井代議 士を殺したのもやはり自分であると、ハッキリ自白したの であった。  殺人の動機を訊ねられた時に、 「いえ、ぼくは、動機とは、言いたくない気がします。そ れは、ぼくには、冷静な理論だったのです。今は疑問が湧 いてきています。しかし、その時には、そうするのが最も 合理的であるとぼくは考えたのですから」  と彼はいったが、その理論や、殺人の手段などについて は、彼の手記が詳しく説明している。  手記は、次の如きものであった。       ×       ×      ×  さて私は、世間の人が1教育家や評論家や、人格者と 呼ばれる人たちが、私のことをいろいろと批判する中で、 紬人ぐらいば、私を羨ましがる人だってあるだろうと思っ ている。           たいはいてぎ  私の思想や行動が、頽廃的であり不潔でありエゴイズム であり、ことに殺人者だから、甚だしく反社会的だという 非難は、当然おこるにちがいなく、しかし私への共鳴共感 者だって、必らずしも無いとは限るまい。私は、自分の欲 するものに対して、勇敢に突進した。世間には、この勇敢 さを欠くために、実は私と同じことをしたいと思いつつ、 それができないでいる人がかなりに多い。その人たちは、 腹の中の考えは不逞でも、表面的な行動は常識的で円満で 社会性があるから、いちおう善人として認められている。 細く長く生きるためには、まったくそれは賢明なやり方で あり、私の方が、馬鹿だったということになるだろう。 が、私は、そう思われても口惜しくはなく、なるほど君た ちの方が賢明だよと、その小さな善人たちを、慰さめてや るだけの寛容さを持つつもりである。そうして彼らは、私 を悪しざまに罵り軽蔑し、しかも内心では、あいつはうま くやりやがった、最後に手錠をはめられ、絞首台へ送られ るようにさえならなかったら、おれもあいつと同じことを やりたかった、と考えているにちがいないのである。  小善人諸君!  諸君は幸いにして、よい尺度計を持っている。その尺度 計をたいせつにしたまえ。まちがった尺度計を使ったら、 たちまちにして諸君も地獄行きだ。著名な人物では、ヒト ラーが、狂った尺度計を持っていた。東条がまたそうだっ た。ところが諸君は、もちろんヒトラーだけのことはでき やしない。いや、私だけのことすら、できないだろう、そ うして、ただの一つでもその欲望を達しないうちに、地獄 行きの急行列車に乗ってしまう。なぜなら、狂った尺度計 は、それを使うことだけが、かなり困難だ。智能と技倆と が必要だ。その上に、智能と技倆とが、断然優れていたに しても、けっきょく狂った尺度計は、正しい測量をしない から、破滅が来てしまうのである。  私が、どんなにして、智能と技倆とを応用したか、その ことを書いてみよう。  それは、藤井家の事件より二日前の夜、九時すぎだっ た。  私は、ある女との抱擁で、ひどくくたびれていた。女 は、私の先輩にあたる某官庁の役人の細君であり、肉感的 に私を誘惑するものがあったから、二度目にその家を訪問 した時、私は苦もなくその女を征服したのであったが、征 服してみると、思ったよりつまらない女で、私はがっかり してしまった。そうして私は、下宿へ帰ってきたのであ る。  ところが、下宿の前までくると、暗がりから、とつぜん 園江新六が出て来た。彼は、私を訪ねてきて、しかし、中 へははいらず、暗がりに身をかくすようにして、私の帰り を待っていたのである。私がなぜこんな夜遅くに来たのか と訊くと、もじもじしていて、なかなかわけを話さない。 それから、ついに警察から追われているので、どこかへか くまってくれといって頼むのであった。  気まぐれな興味が私のうちにわいてきた。  そしてこの不細工な顔の、野犬のような男に、いっぺん は恩を施しておいても、悪くはないと考えた。ただ、私の 下宿の部屋でこの男といっしょに寝るのは、いかにも殺風 景でやりきれぬ気がしたから、淀橋に、高利貸しの会社を はじめるつもりで借りてあったバラックがあったことを思 いだし、そこへ、自動車で彼をつれて行ったのである。  まだ手入れをしてないバラックで、彼は不服そうであっ たが、平川や高橋たちと、その夜の宵の口に強盗をやろう として失敗し、ちりちりばらばらに逃げたという話をし た。そして、私に、金を貸してくれといったり、そのあと で、彼にとっては致命的な失言をした。藤井有吉の家に、 かんたんに盗み出せる金がある。有吉が友だちでなかった ら、その金を盗み出すのだが……というのである。その時 に彼はその金が、百万円以上あるのだといった。あとでわ かったが実際は十五万円であり、それを彼は、ことさらに 大げさにいっただけのことであろう。私は、真実百万円だ と思いこみ、すると私の血の中に住む金色の鬼が、何か私 に囁くようであり、そうしてついに新しい一つの考えが、 とつぜんそこへ生れてきてしまった。  その金のことを、私は、福島の炭坑の森の中で、貴美子 夫人から少しばかり聞きかじっている。だから、一方では 受取るまいとし、一方では無理に押しつけようとする秘密 の金で、どこへ消えてなくなってもかまわない。まことに もてあまされた金だと知っている。私は、もったいない、 それを自分が、使ってやろうと考えた。そうして、園江の 話だと、盗み出すのは、そう困難でないようであるが、実 際はかなり困難だろうと思い、そう思うといっしょに、そ     こくふく の困難を克服するための工夫が、頭の中へ泉のように湧い てきた。  金は、藤井家の二階の書斎に、ブックケースへ入れてか くしてある。  が、その部屋には、藤井代議士が寝ているし、貴美子夫 人がつきそっている。  そうだ、代議士は殺してしまえ。金を奪い、それから貴 美子夫人をも、自分のものにしてしまおう、と決心したの であった。  断わっておくが、私の貴美子夫人に対する愛情こそは、 私の今までの生涯で、いちばん真剣なものだった。その時 もそうだったし、あとでも常にそうだった。彼女が私のも のになっていたら、私の人生観は更正され、私はもっと平 凡であるとともに、世間から賞讃される人間になり得たか も知れない。彼女の迷惑になることだから、これ以上深く 私は説明をしまい。が、彼女を欲しかったことは事実であ る。そうして、藤井代議士がなかったら、私は彼女の愛情 を自分に向けさせることも、不可能ではないという気がし た。結論として、代議士を殺すことは、一石二鳥だと思っ たのである。  むろん、私にも、反省がないではなかった。  盗みをし、人殺しをする。  これは、悪事である。  私は、それを百も承知、二百もがってんというところ で、ことに、そういう悪事こそは、私自身にとっても甚だ 危険であるとわかっていたのであったが、その時に私に は、例の短い尺度計が作用しだしたのである。藤井代議士 は、清廉潔白の好人物だが、死んだところで、世界がそれ ほどの損失をしたということにはならない。金は、私が有 用に使う。そして、私の人生は、貴美子夫人を獲て、ます ます充実される。何よりも私は、私の欲望を達成するため に、手段があり方法があるのだったら、躊躇や遠慮をして いるのこそ、私の人生への反逆であると考えた。理論が構 成されたのである。私は、勇気が出てきた。これを実行す るのには、一連の危険を冒さねばならず、そのことが、却 って私を激励するようであった。綿密に考え、大胆に実行 し、見事に私はやってのけようと決心した。これは、危険 を冒して猛獣狩りをする心理に似ている。それにまた戦争 というものがある。戦争では、いかにして最も効果的に     さつりく 敵を多く殺戮するかということばかり研究している。一人 や二人の殺人がなんであろうか。私は、身ぶるいし、頭の 中が爽快になり、すぐその場で、実行に着手したのであ る。  第一に、私は、園江新六を殺すことにきめてしまった。  この男は愚劣であるから、私の仕事の協力者たるの価値 はなく、しかも、のちに、藤井家で・事件がおこった際に、 私がそれをやったのだと感づいたり、それを世間へ言いふ らす危険が多分にある。彼が私に教唆しているからだ。私 は、この危険を未然に防止するには、殺すのがいちばんだ と考えた。ことに、彼のような醜悪な男こそ、生きている 値打ちはないのである。私は、どうだ、酒でも飲むか、と 彼に訊いた。彼は、こんなバラックで、寝具もなくて寝ら れやしない。酒は有難いね、といった。私は、すぐに街へ 出て、ポケットゥィスキーを買い、ついでにまだ起きてい る古道具屋があったのを幸い、ショベルを一ちょう、買っ てきた。ショベルを見て、園江は、オヤオヤそれは何に使 うのだと聞くから、ウム、これは地べたを掘って、世の中 で役に立たない廃品を埋めるのだよと答えたが、彼にはそ の意味がわからなかったらしい。ウィスキーには、口ぶた の、アルミのコップがついていた。そしてその底に、青酸 加里がこびりついていた。彼はゴクリと飲んだ。そうして たちまち死んでしまった。  私は、土間を掘りはじめた。困ったのは、腕力が足りな いから、思うように深く掘れなかったことである。  しかたがない、ともかく、死体をかくすだけにして、あ とでまた工夫しようと考えた。いいか、そのうちに、もっ とうまくやりなおすよ、今はそれでがまんしていろ、と私 がおどけて死体に言うと、死体は蝋燭の焔の下でだまって 私を眺めていた。  私は、いそいで、次の仕事にとりかかったのである。 二  藤井代議士の殺害については、その詳細の手順を、ここ に書く必要はないだろうが、私がここで最も苦心したの は、貴美子夫人を、いっしょに傷つけてはならないという ことだった。不幸にして夫人は、代議士のそばにつききり でいる。どうにかして夫人を、そばにいないようにする必 要があった。  そのため、園江殺害から二日間、私は工夫をこらした。 私は夜になると、下宿の小母さんには、睡眠剤をあたえて 眠らせてから外出し、藤井邸の附近を徘徊しては、乗ずる 隙もあらばと狙っていた。  ついに二日目の夜、私にとっては最も不気味な存在の友 杉君が外出したので、とりあえず尾行してみると、神田の 紅中軒へ、有吉君を迎えに行ったのだとわかった。私は、 麻雀となったゐ、有吉君がなかなか家へ戻らないことを知 っている。紅中軒の硝子戸の外から覗いていると、友杉君 がじっとその麻雀を見物しているから、そうだ、今夜だ、 今夜が与えられた機会であると悟った。そこで、藤井邸の                    おび 近くへとってかえし、電話で貴美子夫人を誘きだし、つづ いて、女中のふみやをも同じ口実で、外出させてしまった のである。今や、邸内には藤井代議士が、一人きりでいる ことになった。私は、度々藤井邸を訪れたことがあり、勝 手は明るい。友杉君がまき割りに使う斧が、納屋にあるこ とを知っていたから、その斧を持ちだした。斧など使わず 何かもっと目新しい科学的な殺人方法がないものかとも思 ってみたが、犯行が野蛮であり原始的であれば、それだけ 私への疑いは避けられるのだと考えなおした。まったく、 私にとって、斧で人間の頭をぶち割るなどということは、 たいへんに似合わしくないやり方である。それは、園江な どなら、やることかも知れない。そうだ、うまく行くと、 園江は行方不明ということになり、嫌疑は彼にかかるだろ う。よし、斧でやれ! と私は心のうちで叫んだのであっ た。  挿込錠のこわれた窓からはいってから、二分の後に、身 動きのできない藤井代議士は、血みどろになって死んでし まった。  私は、日本史略のブックケースから、金がたった十五万 円しか出てこなかったので、ナヤとびっくりしながらも、 さすがに、ほかの場所を探すだけの心の余裕をもたなかっ                  しよい た。じきに階下へ降り、その時、盗賊の所為と見せかけ て、警察の捜査をまどわすのも一策だと気がついたから、 納戸へ行き、洋服地を盗みだしたが、そのあとは、台所へ はいって、手や顔へとびついた血を洗い、そうして、藤井 邸の玄関から、逃げ出したのである。  うまく、私は、下宿へ戻った。一つだけ、ひどく危険だ ったのは、藤井邸を出てから間もなく、紅中軒から帰って きた有吉君と友杉君とに、あぶなく顔を見られそうになっ たことである。彼等は、坂を上ってきた。私は、坂を下ろ うとしていた。そのままですれちがいになったら、私は顔 を見られたかも知れない。私は、話し声で、彼らだと気が ついた。そうして道を変えて逃げてしまったのである。  その翌日からーー。  私が、警察の捜査を、どんなに注意深い眼で見守ってい たかは、誰でも推察できることだろう。嫌疑が、私には向 けられず、はじめに諸内代議士が怪しまれたことは、私を いくぶんか安心させ、しかし、いつまでも安心してはいら れなかった。仕事は、まだし残してある。それを片づけて しまわねばならない。その仕事とは、園江の死体をもっと 安全にかくしてしまうということだった。  ある日私は、淀橋のバラックへ赴いた。そして、また ショベルをふるい、死体をなお深く地中へ埋めの、ちに、こ の上をコンクリートの床にしたら、それこそ完全であろう と考えた。ところが、土を掘りのけてみて、私はすっかり へぎえぎ 辟易したというのが、すでに時間がたっている。気候が悪 い。死体は腐敗しかけていたのである。私は、嘔吐をもよ おした。それでもがまんしてやりかけたが、深く掘るため に死体を抱き上げようとすると、おどろくほどそれは重か った。そして手を放すと、土がザラザラ崩れおち、穴は前 よりも浅くなってしまった。私は、洋服地を死体にかぶ せ、っかれきってため息をついたが、実はすでにこの時私 の計画には、狂いが生じたと感じたのである。すべて、綿 密に計画したつもりだった。また、その時までは、何も支 障がおこらなかった。だのに、あの低能の園江の死体が、 私を裏切ろうとしているのである。私は、ありていにいっ て、狼狽した。そうして、狼狽したら駄目だぞと、我と我 が心を叱咤しつつ、次の最善の手段を工夫した。ともか く、コンクリートの床を、この死体の上へ築くことは、絶 対に必要である。が、このままだったら、土方がきた時、 死体を発見される恐れが強い。死体を発見させず、コンク リートで上を塗りかためさせるには、どうすればよいか。 私は、百の考えを、頭の中でくりかえした。そうしてつい に、解決をつけた。  私は、その夜のうちに、ある女を訪ねた。  洋裁店の女主人で、私に学資を貢ぎ、私をえらい学者に 仕込むという、無邪気な夢を描いていた女である。  女に会い、帰る時、私は猫を盗んできてしまった。なか なか困難だったが、けっきょく猫を、女に気づかせず、盗 んでくることに成功した。そして猫を、青酸加里で殺そう としたが、動物は、不思議なものである。毒薬入りの魚 を、くわえたかと思うと首をふってふりおとし、なかなか 食べない。ついに、首へ紐をかけて天井へつるし、そして ナイフで横腹をえぐって殺した。その猫を、死体にかぶせ た土の上に置いて、ひとまず、バラックを引き上げたので ある。  私は、いつ誰があのバラックへはいり、猫の下の廃品を 発見するかも知れぬ、という恐れで、一日も早く、コンク リートの床を完成しようとあせったが、ついに、平川と高 橋とを利用することに成功した。少なくとも成功したつも りだった。彼らに、気前を見せ、心服させ、バラックへつ れて行った。猫を、私は、非常にびっくりして発見し、           ねつぞう それから、猫の迷信を捏造し、猫の位置を、一寸でも動か せずに、コンクリートの床を築くのが、それほどひどく不 自然ではないという体裁を作り上げてしまった。私は、迷 信の話をするのが、いかにもふさわしくない感じで、気お くれがし、吹きだしたくなり、それでも、うまく彼らはだ まされた。その翌日に、もうコンクリートは築かれた。工 事の請負人が、土間の土をさらった方がいいという。が、 それは猫の迷信で一蹴した。その結果、死体も洋服地も猫 も、完全にコンクリートの下へかくされ、さてしかし、床 が高すぎて天井が低い、まことにぶざまな事務所ができあ がったというわけである。  ぶざまであっても、平川や高橋はそれが猫の迷信のせい だと思ってしまっている。他人から聞かれても、そう説明 するにちがいないのであった。私は、ホッとした。ホッと するとともに、いよいよ貴美子夫人に対しての工作を進め ようとし、それには、有吉君を手なずけるのが、何より効 果的だと思ったから、平川と高橋とに命じて、有吉君を、、、 ネルバ企業倶楽部へ呼びょせた。  ところが、これは、思いもよらぬ私の失敗だったのであ る。  有吉君といっしょに、友杉君が来てしまった。  しかもこの時に有吉君が園江のことを私に訊いた。園江 が私を訪ねたことは誰も知る者がないと思っていただけ に、私は愕然としたのである。ことに友杉君が、口には出 さず、鋭い眼で、私の一挙一動を見守っている。私は、顔 色を変えまいとするのに骨が折れた。ともかく、園江には 最近会わぬと返事したが、早くその話題を他へ転じたいと あせった。友杉君が、事務所のうちをじろじろ眺めてい る。床の高さを気にしているにちがいなかった。そうし て、その時は、それ以上に格別なこともなく、友杉君と有 吉君とが帰ったので、私はどうやらこれで、危機は脱した                きよごう のだろうと考えたが、それは私の倨傲な自負心が、私を欺 いただけのことである。或はまた、尺度計の狂いが、ここ でも作用したのである。警視庁へ来てから、係官の話で、 私にはわかった。友杉君は、有吉君に園江のことを訊かれ た私の狼狽を、敏活に見てとっていた。また、果して、床 と天井との釣合いに、不審の目を向けて帰った。捜査課へ 来て、彼はその印象を語ったのだそうである。捜査課で は、事務所の構造を視察に来た。そして、ついに、猫が洋 裁店の猫であることを捜索しだした。もう、いけない。か くしてミネルバ倶楽部へは、あの三台の自動車が来てしま -ったのである。  私のたてた計画は、まことに綿密であるつもりだった が、その実たいへんに粗雑なものだった之いうことが、今 にして私にもよくわかる。そうしてその粗雑さは、単にこ の犯罪についてだけでなく、私の思想や行動や、その全部 を支配していたのではなかったろうか。  私は常に思った。すべては合理的であらねばならぬ。そ して現実をしっかりと把握し、それに即応してのみ生きる ことが、私の生命への最も合理的な努力であると。  しかしながら、その現実の把握が、すでに私の場合で は、甚だしく粗暴であったのかも知れない。そうだ、世    うそいつわ の中の、嘘佯りのないとことんの現実なんて、そう簡単に 見極めてしまうことはできないのに、私はそれができたの だと、思い上っていたのである。けっきょく私は、単なる 空想家にすぎなかった。空想こそは、無制限に自由で楽し くて、しかし、実在するものとの間には、ハッキリした区 別をつけておかねばならなかった。私は、その区別を見失 い、しかも悪魔的な空想に溺れてしまっていたのである。  短い尺度計ー。  尺度計は、現実への測量過失を犯した。  この尺度計は、折って捨てた方がいいと、私は今ハッキ リ思っているー。       ×       ×       ×  笠原昇は、この手記のほかに、二通の手紙を書いている。  一通は貴美子未亡人あてで、他の一通は友杉成人あてで あったが、どちらも、ひどく簡単で、私は生れてはじめて の祈りをささげる。それはあなたの幸福を祈るのである、 という、文句までほとんど同じものであった。 (おわり)

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示:
記事メニュー
目安箱バナー