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大下宇陀児「老婆三態」」(2017/01/15 (日) 18:29:10) の最新版変更点

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その一 老婆と水道  「おばあちゃん、おばあちゃんてば!」  ぐいぐいと肩を揺すられて、村井家の老婆はふっと眼を覚ました。七十五になる中風のお 婆さん、膝の上に本を開いて眼鏡を掛けたまま居眠っていた。  「おばあちゃん、あたちにめがねかちて」  孫娘の君ちゃんは、祖母の肩に両手を置いて言った。 「どうします、眼鏡などを──」 「あたちね、おはりしごとするの。いとがはりにとおらないのよう」 「ホ、ホ、ホ、ホ──」  老婆は笑まし気な声を立てた。右半身が中風でよくいうことを利かない。辛うじて歩けるが 使うのには左手が便利だ。左手を不器用に動かして眼鏡を外した。  「あらおばあちゃん、このめがねこわれてる?」  「どうしてなの」  「あたち、おめがいたいの。みえないわ」  鼻のとっ端へ老眼鏡をかけて、一生懸命糸を針のめどに通そうとする孫娘に、老婆はも一度 声を立てて笑った。 「ホ、ホ、ホ、ホ──」  と、そこへ村井夫人がすらりと現れた。美しいが稍険のある顔、どこかへ訪問にでも出る前 なのか、黒縮緬の紋付に革のオペラバッグ、艶やかな髪が波を打っている。  「まあ、君子さんは! お針なんぞ持つんじゃありません」  村井夫人は不機嫌である。君ちゃんの手から針と糸とを取り上げてしまった。  「おばあさん、気を注けて下さいよ。子供に針なんぞ持たせて危いじゃありませんか」  「いいえねえお前、君子があたしの眼鏡を貸して呉れっていうだろう、ホッホ、ホ、ホ──」  「いいえ、困ります。おばあさんはいつでも不注意なんです。おばあさんが針を出してやったのでしょう」  村井夫人はきっと言って、それでも娘のエプロンをちょっと直してやって、やがてその場か ら姿を消した。  午後二時、老婆は茶の間でうつらうつら、又居眠りを始めていた。  ゴトンという音で、半分落ちかかった顎をがくんと振って眼を開く。茶の間に続いた台所へ 午後の日が一杯にさし込んで、流し元にはお河童頭、孫娘の肩まで見えた。  「おばあちゃん、おばあちゃん!」  「はいはい、何んですえ君子さん」  「あたち、ねぎきってもいいわねえ」  「おやおや、今度はお料理なの。おいたをしてはいけませんよ」  「ううん、あたちねぎきんの」  葱を一本、左手に掴んだ君ちゃんは、俎の上にそれを載せて、仔細らしく小頚をひねる。 何んと思ったか、水道の栓を捩じった。  ピク、ピク、三和土が低いので水の音は高い。老婆は何故ともなく昔を憶い出した。あそこ の流し元に、自分も幾度坐ってお料理をしたことか。あの方はお総菜の六つかしい方だった。 お気に入らないと、黙ったままで箸を置きなすった。この家で、昔のままでいるのはお台所だ けだ。嫁もよくあそこだけ手を付けずに置いて呉れた  ふと気が付く。君ちゃんはどこから探し出したか踏台を持って来た。棚の下にそれを置いて よちよちと攀じ登った。棚の上の出刃がキラリと光る。老婆はあっ! と声を立てた。  右足を不自由に引き摺って、老婆は流し元へやっとこさ身を運んだ。  どたん!  君ちゃんが踏台から落ちるのと、すっと空を切って出刃が降るのと、そして老婆がばったり 倒れるのとが、狭い場所で同時に起った。  わーん、君ちゃんは声を限りに泣いた。  「おお、どれどれ」  老婆は言おうと思ったが囗が利けなかった。もがいて、起き上ろうとしたけれど出来なかっ た。  「あわ、あわ」そんな風に声を立てた。  仰向けに倒れたのが水道の下で、三和土にぺったり背を付けて、顔の上から水道の水が落ち た。  だだだだ、だだだだ、水は間断なく老婆の口へ落ちていた。 ×××  十五分後に村井夫人が帰宅した時、小さい君ちゃんはまだ泣いていた。母親の顔を見ると余計に泣いた。  「どうしたの君子さん! あ、あなたおててを切ったのね、あらまあひどい!」  折悪しく大きな子供達は皆学校に行っていた。女中の一人は外へ出て、一人は夫人がお伴に 連れて行った留守中の出来事。君ちゃんの小指は、根元からぶっつりと切れていたのだ。  で、台所の流し元に、もうすっかり冷たくなっていた老婆については、村井夫人も村井氏も、老婆が孫娘に怪我をさせた申訳に、覚悟の自殺を遂げたものとしか信じられなかった訳である。  お葬式は翌々日に行われた。 その二 老婆とアンテナ  おいしは六十四である。田舎で生れて田舎で年を取った。つい去年までは稲扱のお手伝いを した程で、大変丈夫なお婆さんだ。指などは小若い百姓よりずっと節くれ立って太い位だ。  ある晩、総領夫婦と口争いをした。おいしの方に理がなくてたちまち言い負される。その 揚句、東京にいる二番息子の準平が恋いしくなって、どうしても東京へ行くと頑張り始めた。  「きく、お前が言い過ぎただ。おっ母様の前に于をついて謝って来い」  そういう声を襖越しに聞いて、おいしは余計我を張った。総領の嫁が叮寧に謝ったけれど諾 かなかった。  「なにね、わしは謝ってなど貰い度くはござんしねえ。おきくには理屈があるでな、わしが負 けたことにして置きますだ」  「ねえおっ母様、わしも言い過ぎたしきくだって悪い。きくにはわしが後でよく言い聞かせる で、もうそんなに大きな声をしねえでおくれや」  「大きいのは地声でござんす。悪かったらわしが謝りますだ。親に謝らせたらお前も気持がい いずら。準平のところへ行けばな、お前様達夫婦は気楽になれるで、まあ、そう止めずに置い とくんなんしよ」  「準平のところへは、また暇になったらわしが連れて行きます。おっ母様はまだ汽車に乗った ことはねえし、危いずらに」  「いんえ、わしだって一人で行けます。こんな家にはもう一時でも居ることは出来ましねえ」  おいしは、丁度準平から東京見物に出て来いという手紙の来ていた折でもあるし、いっそう 気が強くなってこう言いつのってしまった。  「そんねに言うなら明日にでも出かけるがいいだ。おきく、準平のところへ電報を打って来い。母、明日一番で立つ、こう打つのだ」  とうとう、総領息子も腹を立てて、こう言い捨てたまま奥の部屋に這入る。で、次の囗の朝 おいしは信玄袋を肩にして、汽車に乗り込んだのである。  汽車に乗ってしばらくすると、おいしは少し悲しくなった。初めての一人旅というばかりで なく、何だか途方もない失敗をした様な気がして来た。もう準平のところへ行きっきりに行っ ていようという気もあって、善光寺詣りの費用の積りで貯えてあった二百円も持ち出して、当 分要るだけの着物も持って来た。が、段々に淋しくなる。いっそ、次の駅から切符を買い換え て、家へすぐに帰ろうか、或る時はそうも思った位だが、総領の嫁の小憎いことを一生懸命憶 い出しては、その気弱さに打ち勝とうとした。  三十五銭の弁当を買った頃は、それでももう東京の方が近くなった。お弁当のお茶の残った のを、ちゃんと始末して信玄袋に入れてしまうと、何だか妙に気が落ち付く。準平のところへ とに角行って見た上で、それから帰ったっていいずら、そう思って窓から移り変る景色を眺め るだけの余裕が出来た。  そして、いよいよ東京へ着いて見ると、おいしはほっと安心してしまった。準平は昔ながら の愛くるしい靨を浮べて自分を迎えて呉れるし、寄席や浪花節もすぐ近所にあった。天丼とい う御飯は、見たことも聞いたこともない程おいしいものであった。汽車の中で、何故あんなに 気弱いことを考えたか、おいしは時々自分の心を可笑しく思った。  だが、おいしのこの喜びは長く続かなかった。十日、二十日一ヵ月の終りになるとおいしは 東京に飽き飽きしてしまった。何故と言って、準平が外出すると後はおいし一人きりである。 田舎と違って無駄話しに来て呉れる人もない。準平が帰るまで、じっとしているより他ないの であった。それに、もっと悪いことがある。おいしが準平に気を許せなくなったことだ。  「おっ母さん、今夜会社の人達が集って宴会をやるんですがね、お金を貸して呉れませんか。ええ、十円要るんです」  準平が最初にそう言った時は、十円の会費は少し過ぎると思っだけれど、持って来た二百円 のうちから快く出してやった。  「おっ母さん、今度県人会があるのですがね、五円ばかし貸して下さい。今月末には会社のボーナスが出ますし、おっ母さんにもお小使いを沢山あげますよ」  二度目にも、快く出してやった。  なんだかんだと言って、準平の手へおよそ五十円ほども渡してしまったが、月末になっても ボーナスはどうなったのか、準平は三日程家へ帰らなかった。  心配していると、四日目の朝になって準平は蒼い顔で帰って来た。  「おっ母さん済みません。ボーナスがあんまり少いのでやけを起してしまったのです。堪忍し て下さい。その代りにね、おっ母さんがいつも留守の時は退屈だって仰有るから、ラジオを買 って来ましたよ」 「………」  おいしは呆れて返事が出来ない。 「これはアンテナってものです。レシーバーってものは後で買って来ます」  準平に、果たしてラジオのセットを全部買う意志があったかどうかは解らない。おいしの御 機嫌をとるために、田舎者にはちょっと珍らしく見える銀色の針金だけを買って来だのかも知 れない。とに角凖平は、そのギラギラ光るアンテナ用の針金を、壁の帽子掛へ投げる様に引掛 けて、再びぷいと外出してしまった。  おいしは泣きたくなった。もう準平を信じることは出来ない。このままでいると、いまに二 百円を皆取られてしまうだろう。田舎の家へは、あれだけ立派な口を利いても来たし、せめて 三月位は東京にいてから帰り度い。あああ、来るのじゃなかったによ、おいしはどうしていい か、途方に暮れた。  で、さしずめ残りの金を取られない算段をしようと思った。準平から言われれば、口の巧ま さに釣られてどうしても出してやることになる。隠して置いて、失くしてしまった。そう言う より他無いと思った。  どこに隠そうかと思って、あちこち探すうちに天井へ目を付けた。机をあそこまで持って行 って、天井板を一枚押し上げよう。あそこなら大丈夫だ。  机に乗ったが天井へは手が届かない。本箱から洋書を出して積み重ねた。やっとのことで新 聞紙に包んだ紙幣束を隠すと、天井板を元通りに直し、本の上から足を下ろそうとしたが、そ の途端である。洋書がつるっと滑っておいしは前へよろけた。  準平が帽子掛へ掛けて行った買ったままのアンテナ線、ぐるぐる大きな輪に巻いたのがどう したものか二本の釘に渡っていて、おいしはそこへ自分の頸を持って行ったのである。  バタバタ、バタバタ、おいしはしきりに〓《もが》いた。  田舎から兄が来た時に、おいしが家をどんな工合で出て来たかは解ったけれど、矢張り自殺 の理由はぼんやりしている。  「なあ準平、おっ母様は百五十円を失くしたのかも知れねえぞ。それで気を落したんずらい。俺ア、おっ母様を東京へ寄越すのじゃなかった」  「そうですね、そうでしょうよ」  準平はそう返事をして、涙をぽろぽろ濡している兄の顔を見ていた。      その三 老婆と鼠  七十という声を聞いて、源六婆さんはめっきり弱ってしまった。  その年のお彼岸には、それでもまだお寺詣りに行くことも出来たし、お萩を作って仏壇に供 えるだけの元気があった。  お盆になると、もうとてもそれが出来ない。お墓へ魂迎えに行くのがやっとのことで、お供 えものも碌に作らなかった。雨戸を閉めきりにして、寝ていた方が楽であった。  お婆さんのほんとの名はたきよというのだが、村の人達は誰もたきよ婆さんとは呼ばない。 源六婆さん、それで通っている。無論、源六というのはこのお婆さんの連合で、今から二十年 前に監獄で死んだ。死刑になる前の日に、どういう隙を見出したものか、自分で首を縊って死 んでしまった。で、それ以来、お婆さんは一人っきりで淋しく暮していた。  「源六がよ、あいつはまあ死ぬところで死んだってものだ。だが、源六婆さんもよ、どうせ碌 な死に態はしまいてなあ」  村の人達はどうかするとこんなことを言った。  お婆さん夫婦が、どれだけ惨虐な性質を持っていたか、また、その一生涯のうちにどれだけ の悪事をして来たか、それはわざとここには言わないが、源六が監獄で首を縊って死んだ時、 お婆さんもまた監獄にいた。源六のことを聞かされてしなびた唇をびくびくと動かせただけだ ったそうだが、とに角、その後二年してお婆さんは娑婆に出て来た。  「わしもな、年は取ったし、今迄の業がつくづく恐ろしくなった。村の人には憎まれたくれえ て。これからせいぜい仏いじりでもしますでな、お仲間にして置いておくれなよ」  海岸にあるその村へ、お婆さんは帰って来るとすぐにそう言った。逢う人には誰にでもそう 言って眼をしょぼつかせた。  事実、お婆さんはその積りだった。連合の源六爺さんのことにしても考えれば考えるほどあ あした死に態をするのが当り前だと思った。で、それだけにまた源六爺さんがいとおしく、朝 晩のお勤めも十分にして、せめて大叫喚地獄とやらへだけは行かせ度くないと念じていたも のだが自分が死んだら、いったい誰がお水を上げて呉れようぞ。生きてる間、そうだ、老いさ らばえた自分の息が続く間だけでも、後世を願って置かずばなるまい。お婆さんは出来るだけ、 現世の悪業を薄くしたいと思っていた。  お婆さんがその積りになったけれど、村の人達は相手にしなかった。  「源六婆アめ、何をぶつぶつ言ってるんだろ」  「お経だとよ。仏心が出たのだとよ」  「なにを鬼婆め。年をとったからいい様なものの、あれでまだ何をするか知れやしねえぞ」  村の人達は誰一人お婆さんを信じるものはなかった。  駐在所の巡査からの言葉もあって、村の人はお婆さんを追い立てなかったし、畑を売った金 がいくらか手に有っだのでお婆さんはたった一人きりでも、まず、食うには困らずにいた。  で、七十になってその年の夏、お婆さんはひどく弱り込んで来た。どうせもう、村の人に 交際って貰おうということは諦めていたけれど、源六爺さんのお墓参りは続ける積りだったの が、今はそれも出来ない。お向いにある米屋へ、米を買いに行くのがやっとこさで一週間位ぶ っ続けに、寝通したこともあった。  寝る日の方が多くなった頃、お婆さんはふと大きな慰めを見出した。壁の穴や、押入れの隅 から、ちょろちょろ、ちょろちょろと出て来る鼠である。鼠とお友達になろう。お婆さんはそ う決心した。  鼠はなかなか人に馴れなかった。追わないものだから、段々図々しくはなって来るけれど、 お婆さんがちょっと身を動かすと、パアッと逃げ散る。お婆さんが眠ったふりをしていると、 大胆な奴が枕元へ来る。時によると皺だらけの顔の上まで昇って来る。それでも眼を覚ますと たちまち逃げた。  だが、一週間経ち十日経つうちに、鼠共はお婆さんを次第に信頼して来た様に見えた。ほん とに信頼したのか、それとも見くびったのか、それは誰にだって解らないけれど、とに角、鼠 はお婆さんを怖がらなくなった。寝床で、お婆さんがもぞりっと身を動かすと、鼠はきょろっ として、首を振るけれど、たった二尺程走っただけでこちらへ向き直る。おどけて鬚を掻いて 見せる奴もいた。  お婆さんが喜んで、枕元へ集まる五六匹の鼠のために、切ない身体を動かしては何かと餌を 集めて置くと、鼠の数は段々に増した。五匹が十匹となり二十匹となる。生んだのか集まった のか、一月程のうちにお婆さんの家は鼠で真黒になってしまった。  村の人達は何も知らなかった。相変らずお婆さんのところへは誰一人お客さんが来ない。  「雨戸がもう長い事閉まってるが、なに、まだ生きてはいるよ」  「生きてるのなんのって、昨日は米屋へ餅米を買いに来たそうだ。息をせいせい切らしてはい たがな、なんでも三日目に二升ずつ買ってくとよ」  「ほう、鬼婆め、まだえらい元気だな」  村の人は憎々しげにこんな噂をし合っていた。  八月十日の朝、源六婆さんは、ひどく身体のだるいのに気が付いた。  嘔き気があって熱がある。頭が痛いな、そう思っているうちはまだよかった。恐ろしく暑い 日で蝉がじんじん鳴いている。お婆さんはありったけの布団を出して見だけれど、それでもひ っきりなしにがたがた慄えた。顔の前の鼠が無暗に大きく見える。猫の様に膨大な一匹がキュ ーッと言って自分の額に飛びかかって来る。お婆さんはそれを追い払うことも出来なかった。  夢とも現ともなく、お婆さんは薄暗い部屋の中をのだ打ち廻って苦しんだのを覚えている。 身体中に腫物が一面に出来て、それをボリボリ、ボリボリ引掻いたのを覚えている。  そして、  「ああ、夜になったぞ」  そう思ったのを最後として、それっきりすべてが不明瞭になってしまった。  翌日の朝まで生きていたのか、それともその夜の中に息を引取ったのか、それは最後まで解 決出来なかったことである。 × × ×  源六婆さんが、米を買いに来ないというので、まず米屋の亭主が騒ぎ出しか。外から雨戸に 耳を押し付けると、確かに何かの音はする。それでもどこか様子が変である。亭主は思い切っ て中に這入って見た。  「あ!」  亭主はのけ反るばかりに驚いて、蒼い顔をして巡査駐在所に駈け込んだ。巡査、お医者さん、 そして消防隊の組長、皆んながどやどやと源六婆さんの家に乗り込む。  鼠、布団、肉、骨、歯莖、そして掌骨!  人々は、わっ! と言って一散に逃げ出した。  そして話はまだあるのだ。  村の人々は、たった三人だけを残して、皆ペストで死んでしまった。             (一九二七年八、九月号)

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