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大下宇陀児「偽悪病患者」」(2017/01/16 (月) 00:00:21) の最新版変更点

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  (妹より兄へ)  ××日付、佐治さんを接近させてはいけないというお手紙、本日拝見いたしました。  いつもどおり、いろんなことに気を配ってくださるお兄様だけれど、喬子、こんどのお手紙だ けはよくわかんない。佐治さんは、喬子が接近したのでもないし、接近させたんでもないの。お 兄様だって御承知のとおり、お兄様や漆戸と同期生だったんですって。アメリカから帰られると、 すぐ漆戸を訪ねていらっしゃって、漆戸は、病気で退屈で、話し相手が欲しいもんだから、佐治 さんが来てくださるのを、ずいぶん楽しみにしているんですわ。  そういえば思い出すけれど、漆戸が一度いいました。「佐治という男は、学校時代からちょっ と変わったところがあって、他人からずいぶん誤解されたものだが、芯は、気の弱い正直な男 さ」って。喬子、まだ佐治さんがどんなふうに変わっている人か知らないけれど、お兄様が何か きっと誤解しているんじゃないかしら。まアとにかく、お兄様のいうことは、これまでたいてい の場合、嘘だったことはないのだから、その意味で喬子、こんどのお手紙のこと、忘れないでい るつもりです。漆戸が、電諳をかけて呼んだりなどするのだから、佐治さんが、ここへ足踏みも しないようにするなんてこと、とてもできないけど。  漆戸の病気、ほんとうはあまりよくなくて、困っています。医者のいうのには、この冬を越せ るようだったら、見込みがいくらか出るんだそうです。一週間前に喀血して、近ごろは痩せ方も ひどい。この冬のうちに、夫と死に別れするなんてこと、考えただけでもゾッとしてしまう。それじゃ、喬子があんまりかわいそうすぎると思う。  お兄様のほうの御病気はどうなんですの。くれぐれも体をたいせつにしてネ。   (兄より妹へ)  三日ほど前、足試しのつもりで、宿の近くを四、五町歩いてみた。歩けたには歩けたが、無理 だったとみえて、あとの疼痛が激しく、今日やっと苦痛が薄らいできた。心配してくれたけれど、 僕の病気はだいたいこんな程度。気長にして、ここの温泉につかっていればいいのを、時々、焦 って足試しなどするのがいけないのだ。リウマチなんて、老人のかかる病気みたいで、気の利か ぬことおびただしいが、いずれしかし、治ることは治ると思うから、心配しないで欲しい。旦那 様の病気と兄貴の病気と、二つ心配してちゃ、君もたまらないじゃないか。  さて、佐治佐助の件。  私からの手紙がたいへん簡単すぎたため、君には私のいうことがよくのみ込めなかったらしい ね。無理もないことだ。佐治は、私にとっても友人だし、彼のことをあまり悪く言わずにおこう などと考えたのだが、どうもそれでは不徹底で、結局、私の知っていることや考えていることを、 ここで全部言っておかねばならないだろう。  佐治をなぜ接近させてはいけないか、その理由は、だいたい二つあるが、まず割りに小さな理 由のほうから言うと、それは彼が非常な美男子であるということだ。 彼の美男ぶりについては、君が彼を直接知っているし、詳しい説明をしなくてもいいが、大学 時代、彼についてはすでに、  「佐治を見た女は不幸だね」  という深い意味の言葉が、ある教授の口からさえ言われたものだった。  彼は牛込のほうにある某先輩の家に寄寓していて、一時そこから大学へ通ったことがあったが、 そのころ彼が通学するために乗る市内電車には、若い女がずいぶんたくさん乗ったものだそうだ。 女学生、交換手、そのほか職業婦人といった手合いが、自分たちの時間に遅れるのも構わず、あ るいはことさらに回り道をして、佐治の電車を待ち構えていたというのだ。まるで嘘のような話 だけれど、必ずしも嘘でない証拠には、某女学校で佐治に付け文をしたため退学された生徒が二 人まである。私たちより一時代前の学生たちは、女義太夫というものを一生懸命で追いかけたと いうし、現代の女学生はターキーで夢中だ。佐治については、ちょうどこんなような人気があっ たのだろう。表面慎み深い女でも、どうかするとひどく大胆に勇敢にまた露骨になることがある。 往年私は、映画で有名な速水張治郎の実演を某劇場へ見に行ったことがあるが、その時につくづ く女のすさまじさを見た。張治郎が花道を通ると、花道際にいた女たちが、身を乗り出し、手を 伸ばして、この美男で名高い俳優の足をなでようとするのだ。劇場がはねてからは、楽屋から宿 へ引揚げようとする張治郎のぐるりに、黄色い喚声をあげて女たちが押しかける。実にそれこそ は露骨であさましいくらいのものだったが、佐治も俳優になっていたら、さしずめ張治郎と同じ だったに違いない。お転婆な女学生たちの間では、彼のことが「バレちゃん」という綽名ですぐ わかるほどになっていたというが、それはなんでもバレンチノという映画俳優に似ていたからだ そうだ。  佐治が寄寓していた先輩の家では、その細君が、離別された。  政治家として知名なS代議士の令嬢は、どこで手に入れたか佐治の写真を持っていたことが発 見されたため、実業家M氏の令息との婚約が破れ、その結果がやがてS代議士の財政的破綻、政 治的失脚になったとも伝えられている。  さらに痛ましいのは、前にもちょっと述べた某教授の令嬢が、これは気の毒なくらいの醜女だ ったそうだが、佐治あてに非常に長い手紙を昼き、しかもその手紙を実際に佐治のところへ出す 勇気もなく、毎日持ち歩いているうちに、彼女はD英語塾というのの生徒だったそうで、その手 紙を朋友に見られたのを恥ずかしがり、カルモチン自殺を遂げてしまったことだ。  それでこそ、教授のいった言葉の意味がよくのみ込めるだろう。  佐治が、彼自身から女に働きかけたということをまだ聞かないのは、いささかなりとも彼の面 目を保つに足る。だから、正しい意味では、彼は女蕩しだとか色魔だとは呼べないのだが、不幸 にも彼は、女に対してそれだけの魅力を持った男だ。漆戸もそのことは知っていたはずなのに、 なぜ彼を接近させるか、私は不審でならない。漆戸には、君からこの手紙を見せてやってもらえ まいか。そうして君自身も、愛する漆戸のため、こういう危険性のある男を避けるがいいのだ。  君が、佐治を相手にして火遊びをする女だとは思わないけれど、用心に若くはなし、あえてこ の第一の理由を、あけすけに言っておく次第だ。  理由第二−-。  これは、君の旦那さんが「佐治は少し変わったところのある男だ」といったとかで、この言葉 に関連していると見てよい。どこが変わっているか、一口にいえば彼は変に悪党ぶる癖がある。 このことは、まア漆戸だとか私だとか、佐治ととりわけ親密だったものだけが知っているのだが、 彼は一種の偽悪病患者なのだ。学生時代、彼は毎試験期に、すこぶる巧妙なカンニングの方法を 案出した。そしてその方法を誇りがに皆の前で公表した。ところが彼自身はカンニングなんかし ないで、いつも最優秀の成績で試験をパスしているのだ。上野の図昼館の本を盗み出す方法とか、 電車へただ乗りする方法とか、時には釣り銭を詐取する方法とか、いろんなことを考え出したも のだが、これらの方法は、実に奇抜で巧妙でだれしもちょっと実行してみたくなるようなものば かりだった。彼はある時、友人の名前を利用して、その友人の国元から為替を送らせ、為替を横 取りする方法を案出したが、これはKという放蕩者の学生がすぐまねをし、しかし、ヘマをやっ たためにたちまちKはその筋の手で取り押さえられ、しかも学校からは退学処分に付されてしま った。  このことが、いち早く私たちの仲間に知れた時に、佐治は、  「馬鹿なやつさKは。あいつ、僕のでたらめにしゃべったことを、ほんとうにできることだと 思やがったんだね。ああいう低能児にかかっちゃかなわない。こっちで迷惑してしまう。僕は元 来頭の悪いやつが大きらいで、世の中の低能児なんてものは、むしろ一時に殺戮してしまったほ うが、世の中をどんなに愉快にするかしれないと思っているんだが、Kなどは、差しあたりその 被殺戮者の筆頭だね。あいつは、結局、順当に学校を卒業しても、決して出世する男じゃないよ。 いつかは、こんどと同じようなヘマをやって大失敗を重ねる男だ。要するに世の中じゃ、頭がよ くって、犯罪を巧みにやるようなやつ、悪いことをしても、それをだれにも知られないでいるや つが、いちばん手っ取り早く成功するんだからね。Kなんて、実に下らない存在さ。え? 何、あ れにもう少し同情してやれって? 冗談じゃない。いくら僕のしゃべったことに誘惑されたのだ からって、あんなやつに同情してやるほど、安価なセンチメソタリズムを僕なもっていないよ」  いかにも強がって言ったものだ。  あとで聞くと、佐治は、Kのつかまった時警察へ自ら出頭し、実はその為替横取り事件は、こ れこれで白分が案出した方法だと言い、それが実行できるかどうか、Kと賭けをしたのだという 嘘を言いこしらえて、そのほかKのために百方陳弁したそうだ。Kに対する佐治の友情で、係官 もひどく感激させられたというし、Kは涙を流して、自分がかえって佐治に迷惑をかけたことを 謝ったという。それのみか、佐治は、Kのすでに費消した金を、全部自分で弁償し、とにかくK を警察から救い出してさえいるのだ。  佐治が私たちに向かって言った強がりと、この実際の行為と、いずれが彼本来の面目であるか、 私は、いまだに決定することができぬような気がする。  美貌を利用して、女をだますことぐらい朝飯前だと言い、時には、数人の女を事実手玉にとっ ているがごとく見せかけて、一度もそれで尻尾を出したことがない。前言ったようにもろもろの 恋愛事件が、すべて女のほうから、片思いにすぎなかったということで鳧のついてしまったのは 不思議なくらいだ。  彼は、こうも言ったことがある。  「僕はね、どうも君たちから、法螺吹きだと思われているらしいよ。悪いことをするような顔 をして、いっこう悪いことはしやしない。だから、正真正銘の僕は、実に気の小さい男だと思わ れているらしい。だが、僕は、実のところ、ちっぽけな悪いことなんかやりたくないのだ。同じ やるなら、いまだかつて、人類のだれもが案出したことのないような悪事をたくらもうと思って いるのだ。いわば僕の一生涯は、その悪事のためにささげられるといってもいい。芸術家が一世 一代の大作品を作り出すように、科学老が生命を賭して、宇宙の一大神秘を解こうとするように、 僕は、前人未踏の境地に分け入って、悪の最高峰をきわめようというのだ。大きな悪事をする前 に、ちっぽけな悪事で、警察へ連れて行かれるなんてのははなはだ不名誉だ。だから僕は、目下 できるだけ謹慎して、時期の到来を待っているのさ」  当時の私は、佐治がいかにもうまいことを耆うので感心したものだ。ただ、今にして思えば、 佐治が、本音でこんなことをいったのか、それともおもしろ半分であったのか、その点が多少曖 昧にもなってくる。  偽悪病が、最後まで偽悪病であればよろしい。けれども、いずれの日にか、彼の偽悪が偽悪で なくなる時が来ないとは断言できない。その意味で私は、佐治を危険人物とみなすことに躊躇し ないのだ。大学を出てから彼は×省へ入って役人になり、こんど洋行してきたという。昔よりは ずっと大人になったし、学生時代のように、むやみと偽悪ぶりを発揮することもあるまいけれど、 それこそかえって、腹の底では、ほんとうに何かの悪事をたくらみ、その準備にとりかかってい るのだと考えることも不可能ではない。  なお彼の警戒すべき性格については、以上のほかいくらでも話があるように思うが、今日は疲 れたから、これで擱筆しよう。  僕の言うことは、わかってくれたろうね。  漆戸には、病気を、忍耐で征服しろといって伝えてくれたまえ。肺なんか、黴菌と忍耐との闘 争で、根気の強いほうが勝つもんだそうだよ。愛する妻のために、どんなことがあっても生き伸 びてくれなくちゃ困るわって言って、君から甘えてやるのも一つの手だね。  じゃ、さようなら。   (妹より兄へ)  お兄様の心配症なこと、喬子、漆戸と二人で大笑いしちゃいましたわ。こんどみたいなおもし ろい手紙は、あたし、今までにだれからももらったことがない。モチ、お兄様の気持ちはよくわ かるし、それについては、漆戸もどんなにかありがたがっているのだけれど、あたしがあの手紙 を見せると、お兄様のこと、被害妄想狂だそこれは—って漆戸が言うの。  偽悪病患者と被害妄想狂なんて、とても、絶好の取り組みねえ。  昨日も佐治さんが見えたので、喬子、お兄様のことなんかむろん何も話しやしないけれど、佐 治さんを、ふいに、「バレちゃん」て呼んでやった。佐治さん、ひどくびっくりしてしまって、 顔を真っ赤にしているじゃないの。どこでそんなことを聞き込んだかって、一生懸命気にしてい て、おかしいったらない。漆戸と二人して、さんざんからかってやったんだけれど、あの人、漆 戸の言うとおり、ほんとうに気の小さな人ね。お兄様、何も心配することは要らないと思うわ。  漆戸と話している時、あの人、こんなことを言いました。  「ねえ漆戸君、僕はこのごろつくづく自分がだめになったと思うよ。昔は僕も、相当野心家で、 勉強もしたし、撥刺たる意気ももっていた。ところが、学生生活を終わって社会に実際出てみる と、すっかりもう僕はサラリーマンになり切ってしまって、いつもいつも考えていることは、早 くサラリーが上がればいいとか、上役の感情を損ねてはならないとか、役所で何か手柄をして長 官に認めてもらいたいとか、それに類した事柄ばかりだ。往年の大言壮語がきまり悪くなってく る。これではいけない、昔の意気や野望を盛り返せという叫びが、時として頭の隅から聞こえて きても、イヤイヤ、現在だって何も不幸ではない。同期の卒業生などに比べると、自分は出世が 早いほうだし、まず成功者のうちに入れそうだ。焦ってはならぬという考えが湧いてきてしまう。 —実にだめだね。僕は、もしかして僕を、昔の僕に復帰させようというのなら、結局のところ、 ここらですばらしい恋愛でもやって、昔の若さを再び燃え立たせにゃだめだろうと思っているよ。 正直にいって、僕は、女にもてはやされ過ぎた。女など、いつでも欲しい時に手に入れることが できると思って、かつて一度も心からの恋愛をしたことがない。僕が、手に入れようと思っても、 容易に僕を許してくれぬような女があれば、たぶん僕は、昔の僕にもどれるだろう」  あたし、この言葉こそ、佐治さんの本音だろうと思います。だれかあたしの知っている女のう ちから、佐治さんが恋をするにふさわしい人を見つけてあげたいくらい。  そういう恋人ができてしまえば、佐治さんは、もっと元気のいい人になるだろうし、かといっ て、まさか昔の偽悪病患者になどなりっこないわ。  今日、東京は初雪。  漆戸は、あの後、どうしてか妙に体のぐあいがいいらしく、この分なら、大丈夫だど自分でい っています。御安心ください。   (兄より妹へ)  被害妄想狂云々のお手紙、実にまいってしまった。  そう言われれば、なるほど僕は、被害妄想狂かもしれないと思うのは、こんどの君の手紙でも、 またまた余計に心配になってきたからだ。僕は佐治について、あまりしゃべり過ぎたのじゃない かしら。そうして、そのために、今まで君の心のうちで、何も知らず眠っていた佐治に対する好 奇心を、横っちょから掻き立ててしまったのではないかしら。  喬子。気をつけろ!!!  君は、佐治のために、恋人を探してやろうなんて言っている。これは、要らぬことだぞ。決し て決して、そんなお世話を焼くものじゃない。それはおまえが意識せずして、佐治に好奇心を抱 き始めた証拠だ。  異性が異性に対する好奇心は、危険な火遊びの第一歩だ。すでに、好奇心をもち始めた君に対 して、僕がこういうことを指摘するのは、いいことか悪いことか、僕には判断できない。手紙を 書きながら、躊躇しているのだけれど、とにかく、君はよろしくない。佐治を、悪党だと思って くれ。頼む。私は、心配だ。リウマチでなかったら、すぐにも東京へもどって、佐治に絶交を言 い渡し、おまえと佐治とこれ以上の接近を防ぎたいほどに思う。  漆戸あて、別に書信で、佐治を警戒するよう言ってやった。  被害妄想狂と嘲られてもいいから、要するに私は、漆戸とおまえとの幸福を祈る心で専一なのだ。   (妹より兄へ)  クリスマス、それから年の暮れ。  なんだか気持ちの落ち着かない時になってきました。毎年のことでめんどうくさい贈り物とか、 漆戸が、いつものとおり、クリスマスのお祝いを家でやれとか言うので、喬子、めちゃくちゃに 忙しく、お兄様への御返事、一週間近くも放ったらかしにしてしまった。堪忍してネ。  あたし、このごろになってつくづく思うのだけれど、お兄様、やっぱし偉いわね。お兄様の手 紙で、喬子は、自分の気持ちをかなりハッキリと解剖することができました。そして、お兄様の いわれたとおり、喬子が佐治さんに対して、確かにある種の好奇心を抱いていたことを発見し、 自分でびっくりしています。  あたし、いけない女なのでしょうか。  このごろのあたしは、佐治さんと直接視線をカチ合わせるのが恐ろしいように思うし、漆戸と 佐治さんとが何か話し合っているところへ、紅茶などを運んで行っても、変に不安なものを感じ てしまう。できるだけ不愛想に振る舞ってはいるつもりだけれど、それが心からの不愛想でない ことを、夫からも佐治さんからも、すでに看破されているような気がする。  漆戸が、あののち、日増しに元気になってくれたし、いつかは、あたしをもっと力強く護って くれそうなので、それを心頼みにもしています。そしてあたし、いろいろ考えたすえに、最賀さ んにお願いして、これから当分、同居していただくようにしました。  最賀さんは、お兄様も、二、三度会って御存じのはずね。漆戸の後輩で、今は漆戸のやってい る事業のパートナーです。無口な、ブッキラ棒な、怖いみたいな人だけれど、事業上の手腕はす ばらしいとかで、漆戸がすっかり信用しています。奥さんを去年亡くして、お淋しいようでもあ るし、ここの家に同居していれば、事業上便利でもあり、それに喬子としては、漆戸以外に、喬 子をじっと監視してくれる人が欲しい。それやこれやで、最賀さんに来ていただいたわけです。  自分で向分の心を信用できず、監視人を置くなんて、喬子もずいぶんおバカさんネ。  でも佐治さん、なんだか、ひどく恐ろしい人のように見え出してきたのだから仕方がない。あ たしもお兄様の被害妄想狂にかぶれちゃったのかしら。お兄様の御病気は、近ごろどうですの?  (兄より妹へ)  お手紙拝見。実にごんどは、とりとめのない手紙だったね。 私は、三度も四度も、こんどの君の手紙を読み返してみたのだが、どうも君の真意がよくわか らなくて困っているよ。  というのが、君の言うことは、変に不自然じゃないか。  佐治に、君は好奇心をもっていると言って、正直に告白しているようだが、そのくせ、ではな ぜ佐治を遠ざけないのだ。佐治を恐れながら、彼の出入りを相変わらず許していたのじゃなんに もならない。  君は、何か嘘を言っているね。  嘘ではない、ほんとの手紙を待っている。  今日はこれだけ—。   (兄より妹へ)  どうしたのだ喬子!  前の手紙を出してから今日で一週間になる。その間にクリスマスも過ぎてしまったが、おまえ は、まだ私へ返事をくれないね。  君が、嘘をいっていると書いてやったのが気に障ったのか? 気に障ろうがどうしようが、君 からの前の手紙は、やっぱり嘘だらけだと思う。  もう一度訊くが、君は、ほんとうに佐治をどう思っている? 佐治を、もう君が、好奇心どこ ろじゃない、愛し始めたのではないかと思って、私は気懸かりでならない。それに、君から何も 言ってよこしてくれないのは、君を中心にして、漆戸と佐治との間に、何か恐ろしいことが起こ りつつあるためではないかという邪推まで起こってくる始末だ。それが、単なる被害妄想であっ てくれたら、どんなに私はうれしいか。  君の気持ちを、正直に言えないようだったら、偽悪病患者佐治佐助の最近の動静だけでも知ら せてくれ。そうすれば僕は、かなりいろいろのことを判断できるだろう。私は、実は感冒にやら れて、少しまたリウマチを悪くしてしまった。東京へもどって、直接君や漆戸や、その周囲に気 を配ってやれないのが残念だと思う。  折返し、御返事を待つ。   (兄より妹へ)  謹賀新年。  今日でまた一週間になるよ。  正月早々、変なことは言いたくない。  賀状ぐらい、くれてもよくはないか。   (兄より妹へ)  去年の暮れからかけて、私はスタンダールの小説「赤と黒」を読んだ。そしてこの中の主人公 ジュリアンが、少なからず佐治佐助に似ていることを発見した。ジュリアンは、非常に美青年で、 頭脳の明晰な男で、しかも野心家だ。美しいレナール夫人は、ジュリアンを避けよう避けようと 心がけつつ、ついにジュリアンと姦通する。また、侯爵令嬢ラ・モール嬢は、身分の卑しいジュ リアンを一生懸命軽蔑しようとして、しかも妊娠し、彼を世界でいちばん偉い男のように尊敬し、 愛してしまう。最後にジュリアンは、おのれの立身出世せんとするやさきを、レナール夫人の中 傷によって妨げられ、レナール夫人をピストルで殺害する。殺害は、単にレナール夫人を傷つけ たのみであったがジュリアンは死刑に処せられるという筋のもので、私は、今偶然にこんな小説 を読んだことを、何かの暗合、もしくは不吉な前兆でありはしないかと恐れている。  願わくば、君が、レナール夫人であってくれぬように。そして佐治が、ジュリアンとなってく れぬように。  今日は正月四日。昨日も一昨日も、そして今日一日、私はおまえからの便りを待って、結局待 ちぼけを食わされてしまった。漆戸からさえ、なんとも言ってよこさぬのはどうしたことか。こ こで例のごとく、僕一流の想像をめぐらしてみると、君は、僕から漆戸あてに出した書信を、す べて横取りしてはいないか。僕の言葉を漆戸に聞かせたら、漆戸は、君の佐治に対する気持ちを 知って、佐治を遠ざける。それが恐ろしいものだから、君は、僕と彼との間を遮断して、漆戸を 瞞着しているのだ。  愛する妹よ。  まだ時期は遅過ぎはしない。         .  詳しいことを知らせてくれ。 (妹より兄へ) ウルシド、シンダ、サジ、ケイサツヘツレテユカレタ、コチラヘコラレヌカ。 (兄より妹へ) ユカレヌ、イサイ、フミニテシラセ、シンブン、オクレ。   (妹より兄へ)  親切な、そして恐ろしいお兄様。  お兄様は、とうとう、悲劇の結末を言いあててしまいましたわね。電報でお知らせしたように、 漆戸は死にました。いえ、殺されました。何事についても、めったに間違ったことをおっしゃら ぬお兄様だったけれど、こんどの正確さだけは恨みに思います。こんなにまで、言いあててくだ さらなくともよかったのに。  昨日まで、私は、何がなんだか、悪夢の中にいるような気持ちで過ごしてきました。もう、す べてがあまり突然で、眼の前に見ることが、どれも信じられなかったのです。漆戸が死んだこと も、遺骸を火葬揚へ持って行って、その代わりに、骨壷をもらってきたことも、皆、まだほんと うではないような気がしています。泣いても悔んでも、漆戸は生き帰ってはくれません。それで 私は、やっと現実の中の出来事だと意識させられ、悲嘆や慚愧や懊悩やの深い深い谷底へ、一気 に蹴落とされたようになってしまうのですが。  お兄様に、どこからお話を始めたらいいかとてもまだ筋道立ったことは書けませぬけれど、事 件前後のあらましだけを報告させてください。  お兄様が偶然の暗合ということをおっしゃったけれど、全くそれは偶然過ぎるほどの暗合で、 あれは、ちょうどお兄様が、かわいそうなレナール夫人やジュリアンのことを書いた手紙をくだ すった、その晩のことでしたの。ここでついでに申しますけれど、お兄様の手紙は、半分まで、 私の恐ろしい秘密を看破していらっしゃり、しかしあとの半分は、少々お兄様の心配が度を過ぎ たような格好になっておりました。今こそ隠さずに申しますけれど、喬子は実際に、レナール夫 人になりかけていました。佐治さんに好奇心を抱き始めた、と申した時は、すでに佐治さんをひ そかに愛していましたし、そのため、お兄様への御返事を差し上げるのが、なんとしても嘘らし く、しどろもどろに、不徹底なものになり、それを鋭くお兄様から指摘されたものですから、す っかりともう、お便りを出せなくなったのでした。ただしかし、喬子は闘っていました。最賀さ んに同居していただいたということも嘘ではないのです。佐治さんを、陰では悪魔だと思い、で きるだけ軽蔑したり憎んだりしようとし、でも困ったのは、佐治さんから、すでに求愛の態度に 出られたことでした。喬子は、この誘惑をしりぞけるのに、血みどろで闘ったつもりです。つい に漆戸にも、去年のクリスマスの晩告白しましたら、漆戸は、意外にも、このことを半ば以上予 期していたのだと申し、だから私の告白を非常に喜んでくれました。なぜ予期しながら、黙って 見ていたか、夫の気持ちこそ、私には不可解しごくなものですけれど、とにかく漆戸は私を叱り ませんでした。それどころか、佐治さんを相変わらず出入りさせ、お兄様に対しては、私同様、 何も言ってやろうとはしなかったようです。事態は、悪くなるのが当然でしょう。告白をしての ち、私は、夫が、一種の残忍性をもって、あたしを監視しているのだと思い出し、すると、反抗 的に佐治さんと親しいように見せかけたくなり、一方では、やっぱり誘惑に乗るまいとして苦し みました。お兄様が、半分だけ、心配の度をお過ごしになっていると申したのは、それでも喬子 が、レナール夫人に、まだなり切らずにいたことでございます。それだけは信じてください。心 のうちはどうあろうとも、形の上で、まだ喬子は、漆戸に言いわけのできぬところまでは行って いませんでした。喬子は、辛くも最後の一線を死守しました。そうして、こういうような状態の もとに、前言った晩がまいったのでした。  その晩—。  折り悪しく家の中には、喬子と漆戸と女中のお竹というのと三人だけだったのです。最賀さん は三日ほどの旅行中で、竹や以外の女中や書生は、七日正月の終わりの日でもあり、私が暇を与 えて遊びに出しましたので、ちょうど八時半ごろだったでしょう。  私は、漆戸の翌日の分の薬を、お竹に言いつけて医者のところまで取りにやり、そのあと、ち ょっと夫の病室へ行きました。それからしばらくすると、台所のほうへ竹やの帰ってきた気配が しましたが、私は、ふと、よそへ、電話をかける用事のあったことを思い出し、夫の部屋を出て、 お兄様も知っていらっしゃる、お納戸の横手の電話のところまでまいりますと、その時家の中の 電燈が一時に消えてしまいました。  発電所の停電だろうか、それとも、引っ込み線のヒューズでも飛んだのかなど思いながら、じ きに点くと思いましたし、私は塗りこめられたほど真っ暗な中で、そのまま電話をかけにかかっ て、しかしそれが、幾度も幾度も話し中だったり混線していたりで、かなり長い時間かかりまし た。長いといっても、むろん十分ぐらいのものだったでしょうが、その間電燈は点きませんし、 女中の竹やが、あいにくと一か月ほど前東京へ出て来たばかりの田舎者で、マッチを探したり蝋 燭を出したり、家の中の勝手にも不案内で、そんなことにたいそう手間取りました。電話口にい た私は、暗さは暗し、電話での話は通じませんし、いい加減でじれったくなって、いつものキャ ンキャン声でどなり散らしたすえ、受話器をかけてしまおうとしたとたん、家の中のどこかで、 ピシーリ! というような、激しい銃声を聞いたのでございました。  まだ台所でマゴマゴしていた竹やは、あとで言うのに、私が電話をかけていて、ふいに倒れる とか何かにぶつかるとか、けがでもしたのではないかと思ったそうですが、はじめ私も、そのす さまじい銃声が、あまり突然でもありましたし、どこで起こったのか、すぐには見当のつきかね る気持ちでした。  竹やが、やっとこさ蝋燭をともして、念のため、廊下の隅っこにあった引っ込み線のスイッチ を照らしてみますと、どうしてでしょう、その蓋が開いています。これはあとで思うと、だれか が、家の中を暗くする目的で、スイッチを切ったものでしょうが、その時は、ただ、だれがこん なことをしたのかというぐらいで、別に深いことも考えようとはせず、竹やに踏み台やら脚立や らを持ってこさせ、女ばかりだから、たいへん骨を折ってスイッチを元へもどし、さて明るくな ったところで、夫の部屋へ行ってみますと、それはもう、私の口からは申せぬほどのむごたらし いありさまでした。  漆戸は、ベッドへ、仰向けに寝たまま、頭をピストルで撃ち貫かれて絶命していたのでござい ます。  私が電話をかけに行ったあの時までは、確かに何事もなかったのに、それも、近ごろは病気か ら来る熱もぐっと下がって、この分なら春先には起きられるかもしれぬなどと、うれしそうに話 していた漆戸だったのに、もう夫は、一口も物を言ってくれません。悲しい亡骸になってしまい ました。  それからあとのことは、私から申すまでもなく、いっしょにお送りした、東京の新聞で御覧に なってくださいませ。  警察の人たちがまいってから、最初は、凶器のピストルが問題になりましたけれど、そのピス トルは、夫のベッドの枕元にある小机の引き出しへ、いつも入れておいたものでございます。ピ ストルは、中庭の山茶花の根元に、一発だけ弾がなくなって落ちていたのを、一人の刑事がじき と発見したのですが、一方では、部屋の中庭に向いた窓が開いていましたし、裏木戸の潜りも、 簡単に開けられるようになっていました。結局、何者かが、夫の枕元にあったピストルで夫を殺 害して、窓から中庭へ逃げ出し、ピストルを山茶花の根元へ捨て去ったものだろうということに なりました。電燈を消したのは、私が、電話のところにいましたし、そこから、また竹やのいた 台所のあたりからも、中庭のほうを、見ようと思えば見えないこともなく、犯人は、そういう場 合をあらかじめ考慮して、電燈を消してから、夫の部屋へ忍び入ったのであろうという推定です。  盗難の形跡はありません。  犯人は、だれかということになり、この家へ出入りする者を調べ始めると、佐治さんが、じきに 疑われるようになりました。どこのだれがそんなことを警察の耳へ入れたのか、佐治さんと私と のひそやかな恋愛問題が、ちゃんともう知れていて、そのうえ悪いことには、事件の起こった当 夜八時半ごろ、佐治さんは、この東京のどこにいたのか、ハツキリしたことが申せませんでした。 警察で当夜の行動を尋ねられると、はじめ佐治さんは、その時刻に、上野公園の科学博物館前の ベンチにいたのだと申し立てたそうで、しかしそれが、私との逢引のためだったと苦しい弁明を したとのことです。午後八時半に、そこのべンチで私とひそかに会おうということを、私と約束 してあり、じっとそこで私を待っていたというのですが、それについては、私も警察からいろい ろ訊かれて、もとより、そんな約束をした覚えはありませんし、私がそれを否定しますと、佐治 さんはたいへんに怒って、私のことをひどい嘘つきだと言ってののしりましたけれど、いかに愛 を感じ始めた人のためであっても、私、そんなふしだらな約束をしたとは、どうしても申せませ ん。ありのままに、それこそ佐治さんの言い懸かりだということを明らかにしましたので、結局 あの人のアリバイは、成り立たぬようになりました。できるだけ秘密の逢引を遂げるため、人に 姿を見せぬようにしていたのだという弁解だったそうですが、科学博物館の前で佐治さんを見た ということを、だれ一人、申し出るものもありません。私も、お兄様に前申したとおり、佐治さ んを特別な関心をもってながめていましたし、それは私の、悔いても悔いても悔い切れぬ過ちで した。佐治さんは、求愛に私が報いぬのは、夫があり、しかも、近ごろだんだん夫の病気が快方 に向かっている、そのためだと考え、そのあげくが漆戸を殺す気になったのではなかったでしょ うか。そうして、あまりにも早くその罪が発覚しかけると、偽のアリバイを申し立てて、そのア リバイを、私の好意ある偽の証言で、有効に役立てようとしたのではなかったでしょうが。真実 私が、夫よりも佐治さんを愛していたら、佐治さんを救うため、上野公園で密会の約束をしたと 言い、しかし事情があって時間に遅れたため、佐治さんを公園のベンチで待ちぼけにしたと申し 立てることができたかもしれません。そうなれば、事情は変わってきます。佐治さんは、アリバ イのあるおかげで、ずっと有利になります。不幸にも佐治さんは、私の愛を測り損なったのです。 私は苦しみもだえて、しかし、そのように「好意ある偽の証言」をするまで佐治さんを愛してい なかったことを、今、ハッキリ知りました。そして、せめてそれが、漆戸へのお詫びだと思って います。  佐治さんが偽悪病患者で、いつかは、最もすばらしい犯罪をたくらんでみせると公言していた というお話や、ジュリアンが、やっぱりピストルで、レナール夫人を撃ったというお話を、私は、 いまさらながら思い出しています。  昔から、まちがったことをおっしゃらぬお兄様。そして、実に怖いお兄様。  今の哀れな喬子を慰めてください。 (兄より妹へ)  かわいそうに。  普通の人生ではめったに出くわさぬような悲劇の渦中にあって、心身共に疲れているだろうに、 よくこんどの詳しい手紙を書いてくれた。おかげで、だいたいのみ込むことができたわけだ。  私に言わせれば、私のリウマチが祟ったのだ。私が、東京にいたら、こんなことを、決して起 こらせはしなかったのに。  さてしかし、君からの手紙で、だいたいのみ込めたとはいうものの、生まれつき、何事もいい 加減では放ったらかしにできない、しかも、人一倍穿鑿好きなところのある、兄の因果な性格を 許しておくれ。僕は、君の手紙やら新聞記事やらで、二つ三つ、なお、尋ねたいことがある。そ れは、佐治もまた私の旧友であり、彼が漆戸殺しを、まだ否認し続けているらしいから、どうで も彼の犯行だというならば、彼あてに、潔く、自白を勧告してやりたいためでもあるのだが。訊 きたいことは箇条書きにする。  (一)犯人は、電燈を消しておいてピストルを発射している。ものをねらうのに、暗黒をこと さら選ぶのは常識に反するようだ。当局の人は、これをなんと解釈しているのだろうか。  (二)君の手紙だと、犯人は、君が漆戸の部屋を出て電話をかけに行こうとした時、電燈を消 したことになっている。暗がりの中で、君の電話は、幾度も話し中で、かけ直しをしたらしい。 それらの事柄にまちがいはないか。  (三)漆戸家の中庭の様子を、私は、案外ハッキリ記憶せぬが、ピストルの落ちていたという 山茶花は、漆戸の病室から東南へ六、七間行った、花壇の右の端に植えてあったと思う。それに 違いはないか。  (四)最賀君は、私も相識の間柄だ。三日ほどの旅行中だったというが、その旅行先はどこだったか。  以上、大至急御返事を待つ。   (妹より兄へ)  お手紙拝見いたしました。  ちっとも喬子のこと、慰めてもくださらず、箇条書きのお尋ね、お兄様もずいぶんだと思いま した。私からの手紙の書き方がいけなかったのでしょうか。それとも、佐治さんに対する私の不 心得を、お兄様、怒っていらっしゃるのでしょうか。  では、喬子も、箇条書きにして御返事差し上げますわ。  (一)漆戸は、傷口の様子から判断して、非常に近距離から、射殺されたことがわかっている ようです。ベツドに寝ているのだし、しょっちゅう、病気見舞になど来ている人だったら、暗が りでも、漆戸の頭がどこにあるかわかるだろうし、また、侵入した時、声でもかけて、聞きなれ た声だということを知らせて安心させ、そのうえでベッドへ近づいたら、十分、ねらい撃ちでき るだろうという、当局の人の話でした。  (二)電燈の消えた時のこと、そのとおりです。まちがいありません。繰り返して申すと、竹 やは台所で、蝋燭を探してい、私は、電話でいじれっぼくなっていた時、暗がりの中で、だしぬ けにピストルの音がしたのです。  (三)山茶花も、お兄様のおっしゃるとおりです。  (四)最賀さんは、名古屋へ旅行中でした。何か、最賀さんに、お疑いがあるのでしょうか。ほんとうを申すと、私も、もしかしたら、あの人ではないかということを考えてみたこともあり まづ。最賀さんは、審業上、漆戸と利害関係が深いのですし、ひょっとしたら、私たちの知らな いことで、漆戸との間が、円滑でないようになっていたかもしれません。けれどもあの人は、事 件の翌日の夕方東京へもどって、たいへんびっくりしていました。名古屋にいたというアリバイ も確実だし、目下、どうにも疑えません。犯人が、佐治さんでなく、最賀さんだということにな ったら、私、何がなし、ホッとできるように思います。そうなれば、少なくともこんどの事件は、 私と佐治さんとの忌まわしい恋愛問題が原因ではなかったということになり、肩の重荷がいくら かでも減りますもの。  今日は頭が重たいし、以上の御返事だけで堪忍してください。  もし、お兄様の力で、最賀さんが犯人だということを発見してくだすったら、喬子、ほんとう に感謝します。名古屋へ行ったと見せかげて、実は行かなかったというようなことでもあるので しょうか。それについて、お兄様の観察を、近いうちに聞かしてくださいネ。今、喬子の気持ち を救うものは、おそらく、それのみでしょう。お兄様からのお手紙がどんなに力頼みとなるか、 お兄様の想像以上です。  では、これでー。   (妹より兄へ)  冬の雨というものは、底知れず侘びしいものですわね。喬子、このごろは、ひどい泣き虫にな ってしまいました。夫の部屋へ行ってみると、ガランとして淋しい。「あなた!」と呼んでみる。 小さな小さな声で呼んでみる。そうして、だれも答えてはくれない。でも喬子、じっと耳を澄ま して、漆戸の返事を待っていて、そのうちに、声を立てて泣かずにはいられなくなってしまうの です。  事件のあった直後は、それでも気が張っていました。  弔いも、済ませました。  そしてそのあとは、めったにだれも訪ねてこない。墓のような静けさです。静けさを掻き乱さ れたくはない。このしーんとした家の中で漆戸のことだけを思い出していたい。でも、たまらな く淋しくなってくるのですもの。  最賀さんも、漆戸がいなくなった家に、いつまでもいられないと言って、四谷のほうのアパー トへ移ってしまい、佐治さんは、むろん、まいりません。  漆戸には、遠い親戚が、それも、数えるほどしかなかったので、その人たちもあまり見えず、 また見えたにしたところで、それは漆戸家の財産目あて、何かうまい形見分けにでもありつこう という考えばかりで。  そうした人々のあさましさを見ると、喬子、もう、死にたくなります。  お兄様は、どうしてお便りをくださらないのでしょう。お兄様が、私のただ一人の力頼みなの に、あれからもう一週間、喬子は、世界じゅうにポツンと一人きりでいます。  お体のぐあいでも悪いのでしょうか。  お使り、くださいましネ。   (妹より兄へ)  昨日、新聞で見ると、お兄様の行っていらっしゃる温泉場の付近がたいへんな雪で、汽車など 不通になったと出ていました。  まさかとは思うけれど、お変わりはないのでしょうね。また五日も喬子は、ボンヤリと漆戸の ことやお兄様のことばかり、考えて過ごしたのですもの。この前の手紙で言い落としましたけれ ど、佐治さんについてはその後、まだ取り調べが終わらないそうです。佐治さんの特異な性格な どのことも、警察では、だんだん明らかになった様子で、だれかやっぱり佐治さんやお兄様と同 じ学校を出た方が佐治さんを一種の悪魔主義の男だと言ったとかで、偽悪病患者というのと言葉 は違いますけれど心証はますます悪くなっていくようです。  佐治さんが犯人でないとなれば、少なくとも喬子は、たいへん気が楽になると思った、あの希 望は、ついにだめなのでしょうか。  地下に眠っている漆戸を呼び起こして、犯人はだれかと尋ねることができたら、どんなにいい でしょう。漆戸に指差されたら、いかに強情な鉄面皮な犯人でも地に平伏するよりほかないでし ょうもの。ーでも、そんなことを考えるのは恐ろしい。それは、漆戸の霊に対する冒涜ですわ。  それはそれとして、最賀さんの件はどうなりました?  お兄様だったら、あるいは、最賀さんが名古屋へ行ったというアリバイを打ち破ることがでぎ るのではないかと思って、喬子、まだその期待を捨てていません。  どうぞ、御返事ください。   (兄より妹へ)  愛する妹よー。  ほとんど二週間、私はおまえに御無沙汰をしてしまった。淋しいという手紙、それから、最賀 君のことを知らせてくれという手紙、二通とも、確かに読んではいるのだが、ついでにここで言 っておこう、その二通の手紙は、常のおまえにも似ず、なんとたどたどしい文章だったろう。漆 戸を喪った悲しみが、そんなにもおまえの胸を鋭くえぐったのか。それとも、何かも一つの邪魔 物が、絶えずおまえの胸を掻き乱していて、それが、隠そうとすれば隠そうとするだけ、おまえ のいう言葉、文字、文章の上に現われてきたのか。  妹よー。  おまえは、哀れな女だ。おまえは、たとえどんなことがあろうとも、兄としての私が、どこま でもおまえを愛し憐れんでいるのだということを、よく知っていて欲しい。そして、これから私 の書く手紙を、できるだけ冷静に読んで欲しい。実をいえば、私のこの手紙は、ずいぶん書きに くい手紙だった。幾度か筆をとりかけては躊躇し、しかし結局書こうと決心した手紙だ。まず、 何から言おう。おまえの手紙にもあったのだし、乞いに任せて最賀君のことからでも話していこ うか。  最賀君が犯人だったらどんなにうれしかろうとおまえは言ったね。なんとそれは、巧妙なおま えの言い回し方だったろう。私の調査によると、最賀君は、事件発生当時、事実名古屋に滞在し ていたのだ。そして毫末といえども犯人たるの証跡はないのだ。彼の犯人ならざることを、だれ よりも明瞭に知っていたのは、おまえではなかったか。おまえは、私がいかに最賀君を疑ったと ころで、おしまいには彼の無罪を立証するにすぎぬことを知ってい、それなればこそ、ことさら に彼を疑わしく言い、それに応じての私の返事で、私がこんどの事件について、どれだけの真相 をつかみつつあるか、ひそかに嗅ぎつけようとしたのではないか。私からの便りを欲しがったの も、実は私の調査がどの方向へ進行したか、そっと打診するためだったと私は見る。憐れにもお まえの胸のうちは、不安の念でいっぱいだ。いじらしくもおまえは、この兄をこそ最も恐るべき 敵だと知り、全力を尽くして兄への闘いを挑んだ。前々から準備して、佐治佐助と恋愛の交渉が あるがごとく無きがごとく見せかけたのも、畢竟するに、兄を欺こうとするのが大部分の目的だ った。兄は、実際、しばらくのうち欺かれた。兄だけではなく、佐治佐助も、また欺かれただろ う。彼が、上野公園でおまえと密会する約束をしたのは、必ずしも嘘ではない。約束だけは確か にあったのだ。ただおまえが、その約束を履行せず、のちに佐治が、午後八時半東京のどこにい たか、アリバイを立証しえざるよう、彼をして、人通りの最も少ない上野公園へ、一人だけ行か しめたのだ。二人がひそかに取り交わした約束で、その約束に対する証人のないのを幸いに、お まえは、あとで大胆にも、この約束をしなかったと公言している。言い懸かりにされてしまった 佐治の怒りは推察するに余りあるものだ。なぜおまえはこんなことをしたか。それは、根気よく 丹念にずっと前から計画し、佐治を巧みに操縦しておいて、万一の場合、彼一人に嫌疑をかけさ せる目的があったからだ。彼の、特異な性格、偽悪病患者であることが、実に都合がよい。彼こ そは、寃罪をこうむらせるに、最も適切な男だったのだ。  私は、遠隔の地にいるが、最初におまえから事件の内容を知らせてきた時、なんともいえず不 思議なことを発見した。それはおまえが、暗がりで、電話をかけたということだ。折り返し、そ れにまちがいはないかと訊いてやると、まちがいはないという返事だった。だが、賢い妹よ。考 えてごらん。ここでおまえは、いわゆる犯人の愚挙、常識では、どうしてそんなバカなことをし たかと驚くほどの失策をしている。漆戸家は、赤坂にある。そして赤坂管内にあるおまえの家の 電話は暗がりでは、通話ができぬようになっている。いわんやして、話中だったり混線したりし て、幾度もかけ直すことなど絶対にできない。その電話は自動交換式だ。文字盤がついていて、 文字盤を読んで回さねばならない。交換手に電話番号を告げるわけにいかない。だのに、暗がり で、それも塗りこめられたほど真っ暗だったと断わっている。そこで、おまえは、どんなふうに して電話をかけたのだ。  私は、嘘を発見すると、この嘘がなんのためであるか推理にかかった。  おもうにおまえは、ピストルが発射された時、夫の部屋にいなかったことを証明するため、電 話をかけるふりをしていたのだろう。いい塩梅に、竹やが、電話を聞いていた。そして証人にな ってくれた。きわめて近距離から発射されたピストルだが、その時おまえは、電話口にいたとい うのだから、当然、嫌疑からは免れてしまう。事実、当局では、そのことだけで、全くもうおま えを嫌疑の埒外に置いた。ところが犯人は、ぜひとも、電話をかけていたということを知らせた いと思った余りに、不思議なほどの忘れ物をした。いつも使っている文字盤に気付かなかった。 あとで、どこへかけたか訊かれたり、かけた先を調べられた時、実際は電話がかからなかったと 知れては困るので、いい加減に、話し中と混線とを持ち出し、キャンキャン声でどなりちらした と言っている。けれども一方では、電話をかけているふりも必要だったし、また、暗いことも必 要だったので、つい、文字盤を無視してしまったのだ。  次に、では、暗さがなぜ必要だったか。  それは、二つの理由からだ。  一つは、暗いことによって、犯人の逃げる姿がだれにも見えなかったという、弁明をするため だったに違いない。庭には常夜燈が一つあり、夫の部屋からも明るみが流れ出している。この明 るみの中を、事実犯人が逃げ出したとすれば、ちょうど台所にいた竹やが、その姿を見たはずで あるかもしれない。ところが、暗ければ、そのために見えなかったとも言えるのだ。要するに暗 さは、人の姿を隠しもするし、同時に、もともと存在しなかった姿が、暗さのため見えなかった ということにもしてしまうのだ。  暗さについて第二の理由。犯人は、その暗さの中で、ピストルを発射しているが、それは、ど こで発射されたものだったろう。ここで順序正しくいうと、犯人が漆戸を射殺したのは電燈の消 える前のことだ。犯人は、その夜田舎者の女中だけを残して、ほかの者に暇を与えて遊びに出し た。そして八時半竹やを医者のところへやり、竹やの留守のうちに、最も恐るべき夫殺しの罪は 行なわれたのだ。犯人は、かねて綿密に考慮した計画に従い、夫の部屋へ行き、おそらくは前も って盗み出しておいたピストルを、毛布か布団類似のもので包んで音のなるべく辺りへ響かぬよ う注意し、何か冗談を言いながら、夫の前額部に銃口を押し当てて、夫が、何をするか理解せぬ うちにすばやく引き金を引いた。それから、部屋の窓を半ば開けて、犯人がそこから逃げ去った 体裁を作り、ついで竹やの医者から帰ったのを見計らい、廊下へ走り出して、身軽に窓框へ乗り、 電燈引っ込み線のスイッチを切った。次いで、お納戸横手の電話口におけるお芝居にとりかかっ たが、この時までに、なお一つ、なすべきことがあった。  それは、夫の部屋で発射した一発の弾を、ピストルと同時に盗み出しておいた別の弾で、補充 しておくことだったのだ。  弾の補充されたピストルは、まだ、手に持っている。彼女は、電話口で高声にしゃべりつつ、 その途中で、電話口からわずかに身を離し、そこの小窓から、庭へ向けて、轟然とピストルを発 射したのだ。その音は、台所にいた竹やに聞こえ、しかし、そんなところで発射されたとはだれ にも知られなかった。発射された弾は、そこの柔らかい地面へ、深く潜ってしまったに違いない。 犯人は、そのあとで、ピストルを中庭へ向かって投げ捨てたが、これは山茶花の根元に落ち、そ の山茶花が、お納戸の近くの小窓からも、確かに見える位置に植えてあることを、私は、犯人へ 問い合わせて、ちゃんと確かめてあるのだ。犯人は、暗さを利用して、ピストルを、そこから庭 へ投げたことを、やっぱりだれにも見せぬよう心がけた。これで、暗さの必要だった、二つの理 由がわかったであろう。  兄に似て聡明過ぎるほどの妹よ。憫然なおまえは、それが罅の入った聡明さだということに気 づかなかったのだね。  兄は、ようやくにして、語るべきことを不十分ながら語りえた感じだ。兄は、匕首に刺し貫か るる思いをして、わが妹が、殺人者たることを指摘せねばならぬ破目におちたのだ。呪われてあ れ。  私は、おまえの手紙の嘘を発見すると、ただちに在京の某友人を煩わして、旬日にわたり、お まえの行動を監視せしめた。そして知りえたのは、おまえが、最賀と二人、ひそかに大森の待合 へ、すでに事件前から事件後へかけて、十数回出入りしているという事実だった。おまえの言葉 を借りるならば、地下に眠る漆戸が、額の傷口から垂れる血を満面に浴びて、犯人の名前を指摘 する時、真っ先にひれ伏すべき者が、なんとおまえ自身だったではないか。  おまえの愛人は、佐治でなくて、最賀だったのだ。おそらくは、最賀を同居せしめたのも、彼 との悦楽にふけるためだったろう。そしてそれは、間もなく夫漆戸の看破するところとなり、も はや猶予できずに、この戦慄すべき犯罪に着手したものだったろう。夫から、離婚せられざるう ちならば、妻は、夫の遺産を継ぐことができる。時期を待って、おまえは、最賀と結婚するつも りだったかもしれないね。  兄は、逝ける友、漆戸のために、妹の罪をあばき、すでにこの手紙がおまえの手へ届いた時、 おまえのもとへは、同行を求むる刑事たちが赴く手はずになっている。お納戸の近くの庭から、 ピストルの弾も掘り出されるだろう。無慈悲な兄ではあるが、この兄をどうか許してくれ。佐治 は、やっぱり、偽悪病患者でしかなかった。彼を見殺しにはできぬ立場だ。  兄は、美しく聡明な妹のため、今日が日までを、どんなに慰められてきたことがあったかしれ ない。兄は、おまえを愛している。では、さようなら、哀れな喬子よー。

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