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早川孝太郎『猪・鹿・狸』「狸」」(2007/01/08 (月) 00:28:10) の最新版変更点

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狸<br> <br>    狸<br> 一 狸の怪<br> 二 狸の死に真似<br> 三 狸の穴<br> 四 虎挾みと狸<br> 五 狸を拾った話<br> 六 砂を振りかける<br> 七 狸と物識り<br> 八 狸の火<br> 九 呼ばる狸<br> 一〇 真っ黒い提灯<br> 一一 鍬に化けた狸<br> 一二 狸か川獺か<br> 一三 娘に化けた狸<br> 一四 狸の怪と若者<br> 一五 塔婆に生首<br> 一六 緋の衣を纏った狸<br> 一七 狸寄せの話<br> 一八 狸と印籠<br> 一九 古茶釜の話<br> 二〇 古い家と昔話<br> 二一 狸の最後<br> <br> <br> 一 狸の怪<br> <br>  狸という奴は、たしかにへんな奴だと、しじゅう狸をとっている男が話したことがあった。まだ五年とたたぬ新しい話である。村の池代《いけしろ》の山で穴を見つけて、仲間と二人で掘ったそうである。いよいよ奥まで掘ってしまって、枯れ葉を敷きつめた寝床まで掘りつめたが、狸の姿はさっぱり見えぬ。こんなはずはない、たしかにいるはずだが、宮こか抜け穴でもあるのじゃないかと、手の平でなで惹ようにして捜したが、抜け穴もなければ狸もおらぬ。それにもう一面の岩が出てしまって、これ以上掘ってゆく先もない。しかし深い横穴で、なかが暗くて仕かたがない、臘燭でも点《とも》してみたらと、わざわざ一人が里へ出て取ってきて、なかをくまなく捜したが、どうしてもおらなんだ。穴の口のようすでは、二匹や三匹は間違いないはずだが、それでは今日は穴の口に囲いをしておいて、明日も一度きてみようと囲いの支度にかかったところへ、ちょうど見物にきた男があった。そこでそれまでの経過を話してみたところ、その男のじうには、昔から狸は燻《いぶ》せば出るというから、ためしに燻したててみたらどんなものかという。なんだかあてにならぬようにも思ったが、ほかによい方法もないので、それに決めた。枯れ葉を掻き集めて、上にスギの青葉を載せて、煙をどんどん穴の奥へあおりこんでやった。いっぽう、抜け穴でもあって、煙の出る道でもあるかと、一人が見張っていた。するとものの二分間もたたぬのに、ひょっこり煙のなかから狸が飛び出してきたそうである。すぐ用意の刺《さ》す股《また》で押えつけてつかまえてしまったが、ただ、ふしぎでならぬのは、それまで狸がはたしてどこに隠れていたか、いくら考えてもわからぬというのである。<br>  同じ男の話であるが、その前、別の山で狸を掘ったときのことだそうである。およそ六分どおりも掘ったと思うじぶん、もう一匹飛び出してきた。すぐ持っている鍬でなぐりつけると、ころりと死んだそうである。そこで肢を縛って、傍らの木の枝に吊るしておいた。まだ二匹や三匹はたしかにいると、さらに穴を掘りにかかったそうである。そのとき穴を掘りながら傍らに吊るしてある狸を見ると、なんだか縄が切れそうで、あぶなっかしくて仕かたがない。そこで相手の男を顧みて縄を代えてくれというと、よしと答えてすぐ狸をおろして縄を解いたそうである。そのときかわりの縄を取ってくれというので一人が鍬の手を休めて、脇に置いてあった縄束を投げてやった。それを相手が手を伸べて受け止める、その瞬間だったそうである。縄を受け取るためひょいと手を伸ばした隙に、死んでいたはずの狸がむっくり起き上がるが否や、手の下をかいくぐって飛び出した。それっとあわてて追いかけたが、もうまに合わなんだという。狸はもういずこともなく逃げてしまった。なにしても、ほんのちょっとの隙で諦められなんだという。ずんぶんひどくなぐってたしかに死んだと思ったが、やはり嘘死にだった。それにしても吊るしてある縄が気になったのが、そもそも怪しかったとふしぎがっていた。<br>  死に真似か気絶か、狸にはよくあることだそうでおる。<br> <br> 二 狸の死に真似<br> <br>  よくいう狸寝入りは、ほんとの狸にはまだ聞いたことがなかった。しかし死に真似をする話のほうは、狩人に聞いても確かにあるというている。はやい話が山で貍を追いかけて、ドンと一発食わしとぎ、ころりとみごとに引っくり返ったときなどは、なかなか油断がでぎぬそうである。猟犬に追いかけられたとぎでも、イヌが追いついて一噛み当たったと思うと、もうぐたりと参ることがある。そんなときにかぎって隙をうかがっているので、イヌでもうっかり逃がすことがあるという。しかし老巧なイヌは、やはりそれをよく知っていて、けっして油断をしないともいうた。<br>  鳳来寺村峰の、音なんとかいう狩人だと聞いた。あるとき、分垂《ぶんたれ》の山から追い出した狸を、田のなかへ追いこんで、猟犬を向けると、すぐくわえてきたそうである。その狸を家へ持ってきて、土間へころがしておくと、イヌが傍らにすわって番をしていたそうである。すると、そのときちょっとの間背戸へ用足しに出て帰ってみると、イヌが門口で狸と噛み合っている。見る見るイヌがくわえて振り殺してしまったそうであるが、もしもそのときイヌがいなかったら、逃がしてしまったろうという。<br>  また同じ村のある男は、撃ってきた狸を土間に置いて、炉辺にすわって、飯を食っていた。すると戸の外に繋いであるイヌがしきりにほえたてるので、格子《こうし》の間からのぞいてみると、死んでいたはずの狸が、そっと頭を持ち上げている。こいつ嘘死にだなと思って、エヘンと一つ咳払いをすると、あわてて、またぞろ、ぐたりとしてしまう。そしてしばらくたってあたりがまたすこし静かになると、狸がそっと細目をあけてようすをうかがっている。エヘンとまた一つやると、あわてて目を閉じてしまったという。<br>  また滝川の某の狩人は、椎平《しいだいら》の山で、狸が山のたわを逃げるところを撃つと、飛び上がってころりところがったそうである。それを家へ持って帰って半日ほど土間の天井へ吊るしておいてから、おろして皮を剥《は》ぎにかかった。そして背中を半分剥ぎかけたとき、急になにか用事がでぎて、狸をそこへ置いたまま隣の部屋へいった。するとその狸が、背中を半分剥がれたままでのそのそ這《は》って背戸口から外へ逃げ出した。そこへおりよく家内のものがきて、大騒ぎをやって、捕えたことがあったという。<br>  ネズミなどにはよくあった。長押《なげし》の上を走るところを、箒で払うと、バタリと落ちてくる。尻尾の先をつまみ上げて、表の端まで持ち出して、そこに置くか置かぬ間に、ちょろちょろと逃げてしまった。これなどは、いちじ気絶していたといえばいえるが、背中を半分剥がれてから、はじめて正気づいたとしてはへんなわけだ。そういって、それまで死に真似していたとすると、えらい辛抱強いことである。<br>  しかしいずれにしても、いかにも狸らしいやりかたではあった。<br> <br> 三 狸の穴<br> <br>  狸の穴に注意している者は、山の外観を一わたり見粍だけで、そこに穴があるかどうかがすぐわかるという。多く雑木山の、あまり深くない、峰からすこしくだったあたりが、狸のすく所だという。貉の穴などもそうであるが、狸の穴には、かならず沢谷の水のある所へ向けて、細い道が出来ている。朝晩定めて通うわけでもあるまいが、きれいにたたき土のようになっていた。しっぽの掃木でなでて通るなどともいうた。穴には水を求める道があるいっぽう、便所がある。狸の溜め糞というほどで、穴から数間離れた位置に、一個所におびただしく積んである。ときおり位置をかえるらしく、古い糞の跡が、そっちこっちにあることもあった。はたしているか否かは、この糞のようすからも判別したのであるが、ときによって、二日三日ぐらい留守にすることもあるというから、糞が新しいだけでは狸の有無はまだ決められない。<br>  穴は、入口からすこしはいった所が、もっとも狭いそうである。それからはだんだん奥へ進むに従って広くなって、最後に枯れ葉や枯れ草を深く敷きつめた所がある。ここが寝床で、大きい穴になると、畳二畳敷きぐらいは珍しくなかった。あるいはまた穴の模様によって、寝床の奥に、さらにいちだん高い所が設けてあるのもある。これは湿気の多いときの用意という。雨の激しく降ったあとなどは、寝床にいちめん水が溜まっていることもあった。そうしたときのために、必要だったのである。<br>  狸の穴狩りは、口元から縦にだんだん掘っていって、なかから飛び出してくるところを、あらかじめ用意した木の刺す股で押えるのである。しかしイヌがおれば、なかへはいってくわえ出してくる。この場合には、大きなイヌはだめである。しかし一つの穴に二匹も三匹もいるときは、イヌも容易にくわえ出すわけにはゆかぬそうである。<br>  狸の穴では、一つ穴に一匹ということはめったにない。たいてい二匹以上いる。多いのになると、六つ七つぐらいまでいた話がある。それが貉になると、よりよけいいるそうである。まみっとおというて、貉は一つの穴に十いるものだなどともいうた。<br>  狸は冬至十日前に穴へはいって、八十八夜すぎに穴から出るという。その期間なら間違いなく穴にいたのである。しかし穴狩りなどする者は、入口にカヤの葉など挿しておいて、その靡きぶりで、はたしているか否かを知ることもあった。<br>  以前は狸の穴を見つけしだいに、一日二日を費やしても掘ってしまった。岩などを利用した堅固な穴でも、ダイナマイトなどで砕いてとってしまう。それでたちまち少なくなって、近年では、一年にたった二つしかとらなんだなどと、村の狸掘りの名人がこぼしていたものである。<br>  自分の家の近くの藪に、昔からあるという貉の穴があった。車も通ったほどの街道の脇で、まさかもういなかろうなどとすましていたが、近所の者の話では、夕方などそこを通ると、ときおり見ることがあるという。狸ならよいが貉では、タケの根を分けて難儀しても合わんでなどと、狸掘りたちがいうていたから、あるいはそんなことからいまもまだいるかもしれぬ。<br> <br> 四 虎挟みと狸<br> <br>  狸を虎挾《とらばさ》みでとった時代は、もう三十年も前に通りすぎていた。あてもない山へなにほどかけておいても、自体いなくなったものが、やってきて掛かりようはなかった。それよりもあとをたずねて出かけてゆけば、間違いがなかったのである。ひところカンシャク玉というのを噛ませてとったこともあったが、警察がやかましくて、すぐだめになった。<br>  でも虎挾みでとったころには、おもしろいようにとれたことがあったそうだ。背戸の山へ三つ掛けて、それがみんなはずれていたこともあった。皮を剥いで軒に吊るすか吊るさぬ間に、もう皮買いがきて買っていった。皮の値もいまから思うとそのころは、嘘のように安かったが、それでもあくせく百姓などして働くより割りがよかったと、北山御料林下の街道端に、茶店を出していた爺さんは語っていた。そのころは、前の畑もたった一枚しかつくらなんだ。あとは全部のばこ(草生)にしてあったものだ。それが狸やキツネがだんだん少なくなるにつれて、すこしずつひろげていって、十年このかたは、ムギも毎年何俵とかとった。五、六年前から、田もつくって、去年は米が六俵もとれたというていた。<br>  しかし盛んに虎挾みを使った当時は、とるにもとったが、いっぽうずいぶんばかな真似をして、とんだつまらぬ目をみたこともあったという。みごとな狸が掛かって、後肢だけ挾まれて、ぴょんぴょん跳《は》ねているのを、みすみす逃がしたことがあった。いま思うとずいぶん、ばかげたわけだが、そのとき、つい妙な気が出て、せっかく生きていたものを、すぐ撲殺しては興がないから、一つ苦しむところを見物してやれと、腰からタバコ入れを出して、傍らにすわってゆうゆうタバコを喫《の》み始めた。そのとき挾まれている肢の肉がもう破れてしまって、なかから真っ白いすじがはみ出していた。もうそのすじだけで、挾みの鉄に引っ掛かっているあぶないところだった狸がもがいてあばれるたびに、すこしずつ伸びるのがわかった。それでもまさか逃げようとは思わなんだという。手まえがいくらあばれても、もはや逃げられぬそよと、のんきに毒づいたものだという。そのうち狸がいちだんとひどくあばれたと思うと、ブスリと音がして、どんどん逃げてしまった。あまりばかばかしくて、つい声も出なんだという。すじを引っ断《き》ってしまったのである。<br>  あとの挾みをさげて、しぶしぶ帰ってきたそうであるが、後になってその話を狩人の一人にすると、おれも狸ではそんな目にあったと、同じようなことを語ったそうである。してみると狸には、ままあることだったのである。<br> <br> 五 狸を拾った話<br> <br>  山のなかで狸を拾ったからとて、かくべつ珍しい出来事でもなかったが、じつは狸一つとゐにも容易でなくなったころだけに、話の種にもなったのである。あるとき村の某の男が、朝早く山田ヘムギ播きにゆくと、途中の田圃のなかに、狸が一匹まごまごしている。いまごろ狸のいるはずがないがと、しばらく立ち止まってみていた、が、紛れもない狸なので、すぐ引っ捕えて撲殺してしまった。見ると目から目を撃ち抜かれた、盲目狸だったそ、うである。近所で狸を撃ちもらしたという話も聞かなん、だから、よほど遠い所からでも迷ってきたものだろうという。話はただそれだけであったが、じつはそれと同じ道を、一足さきに通っている男があったのである。拾った男とは隣同士で上と下の屋敷であったが、どうしたわ.けかひどく仲が悪うて、おたがいになんとか悪口の一つもいわねば、気のすまぬ間がらであった。しかもそれが家ばかりではなく、田圃も隣合っていたのである。<br>  それで拾った男は、その狸を担《かつ》いでそのまま田圃へいったが、自分の田へはいかないで、さきにきた隣の男のそばへいった。そうして出しぬけにいうたそうである。道を歩くにもすこしは気をつけて歩けと、拾った狸を手に吊るして見せながらどなったという。いかに田がかわいくても、朝も暗いうちから起きて、わきめもふらずにくるから、こんな福が落ちていても拾うこともできまいと、そういうたそうである。<br>  あんな無法を吐《は》く奴にあってはかなわぬと、拾わぬほうの男がひそかに語ったものだった。いかにも論外の無法にちがいなかったが、田舎にはまだこうした気持の人がいたのである。極端に昔ふうの、、狩人にでもあるような、特別な気性から考えると、祭日にも隠れて働きたいほど、朝から晩まで仕事に熱中して、すこしずつでも家産をふやしてゆく男の態度が、けなるいなどという気持でなしに、度しがたいばか者のようにもみえたのである。まったく狸一匹が、米一俵近い値にもなった年だったから、福運ともなんともいいようはなかった。せっかく先に通っても拾えないような者は、ばか者にちがいなかったのである。<br>  話がまた狸へもどるが、狸はときおり人家の軒などへ、手負いになって迷ってくることがあったそうだ。ある家で朝早く戸をあけると、表の端に狸が一匹、よちよち歩いている。見るとイヌにでも噛まれたか、からだじゅう血だらけにして、人が近づいても逃げる力もなかったそうである。さすがにその家では殺しかねて、せっかくの福を近所の若い衆に譲ってしまったという。<br> <br> 六 砂を振りかける<br> <br>  狸は人をおどすときに、しっぽで人の頭をなでたり、後ろから砂を振りかけるというた。鳳来寺道中の、追分の出離れの分垂《ぶんだれ》橋の袂を通ると、狸がしっぽで頭をなでるともっぱらいうた。それがあるいは事実であったかとこのごろになって思うことがある。橋の袂に赤マツが五、六本立っていて、なかに一本道の上へ幹が差し出したのがあった。もう三十年も前であるが、村の某の狩人が、暮れがた通りかかると、イヌが上を向いてしきりにほえたてたそうである。もう暮れがたではあるし、そのまま通りすぎようとしたが、あまりほえかたが激しいので、上を仰ぐと、その横ざまになった幹の上に、狸が上っていたそうである。すぐ撃ち殺してさげてきたが、思いがけぬことだったと語っていた。<br>  八名郡大野から遠江へ抜ける途中の、須山の四十四曲がりの坂へは狸が出て通る人に砂を振りかけるというた。それで夜ぶんなどめったに通る者もなかったそうである。あるとき大野の者が、須山から日を暮らしてぎて四十四曲がりにかかると、後ろからすこしずつ砂を振りかけるものがある。初めはさほど気にもせなんだが、だんだん気味悪くなって、足を速めるとなお盛んにかける。果ては恐ろしくなってどんどん駆け出すと、駆ければ駆けるほどますます盛んになる。夢中で坂を駆けくずれてきて、途中の人家へ飛びこんだそうであるが、後になって考えると、自分の穿いていた草履が跳ねる砂だったと、果ては大笑いしたそうである。しかしこんな話は別として、四十四曲がりのある個所では、現に小石混じりの砂を振りかけられた者も、大野町にあったという。また某の修験者は、そこで狸に化かされて、一晩中山をうろついて、須山の村で借りた提灯は骨ばかりになり、自分の着物もほとんどめちゃめちゃに引き裂いて、からだじゅうをいばら掻きにして、朝になって帰ったことがあったという。修験者を化かすほどの狸なら、砂をかけるくらいは、朝飯まえの仕事だったかもしれぬのである。<br> <br> 七 狸と物識り<br> <br>  貉《まみ》の皮を狸と間違えて買った話がある。えらい山のなかなどで、よくある手だというた。板に張って吊るしてあるのを、なにも知らぬ町育ちの行商人などが、なんの皮だ、なるほどこりゃ狸だねなどと、お愛想のつもりでいうと、ああ狸だがいくらかにならぬかいなどと、空とぼけている。なんだこの爺、狸の相場を知らぬのかと、ついむらむらと欲が出て、狸でその値なら安いものだ、いかにもこんな山のなかでは、世間の相場は知るまいなどと一人ぎめして、あわてて金を払ってかついできた。おまえ貉の皮を買うかいなどと、途中で話しかけられて、ぎょっとしたという。貉では狸の皮の十分の一にもならなんだのである。どこから買ってきた、ああまたあいつに欺されたかなどと笑われて、泣き出す者もあったそうである。それでもまだ諦めきれないで、狩人という狩人の家へ、いちいち寄って聞いたそうである。いくらでもいいから、そこらに置いて売っておくれと、投げ出してゆく者もあったという。<br>  貉と狸とは見た目ですぐわかったのであるが、それは狩人の話で、素人には容易にわからなんだという。そうかというて狩人でも、わからぬ場合もまたあった。<br>  狸だ貉だとさんざん争ったすえに、村の物識りの所へかつぎこんだ話がある。その物識りというのが盲目だった。座敷に寝ていてそういうたそうである。肢にあかぎへれがあるかやと、そう聞かれてみたらいかにも肢の裏にあかぎれがあった。そんなら狸だぞよと、寝ていて見分けたなどというた。そのへんな物識りは、十七の年に目を患って、二十歳のときには皆目見えなんだそうである。それでいて村のことならなんでも知らぬことはなかった。目が見えなくても山の地境や地形まで、ふしぎなほどよく知っていた。どこの山にどんな石のあることまで知っていた。あの人が目が見えたらと、惜しまぬ者はなかったという。それでいて晩年はことに気の毒だったそうである。女房に死に別れてから、後添えを迎えたが、その女との問に娘が一人あった。まもなくその女房は恐ろしい癩病が出て、村でつくった山のなかの小屋で死んだそうである。その後娘が十三の年に、罪業障滅のためとあって、連れだって回国に出たそうである。四国八十八個所から、奥州の塩釜まで回ったという。最後に村へ帰ったときは、江戸の雉子橋御門のなかの長屋で、会えぬと思った従弟に会ってきたというて、ひどく喜んでいたそうであるが、それからまもなく死んだという。その娘も癩病の母をもったために、かわいそうな身の上だった。ひどく親思いの娘だったというが、十三の年から回国をしどおして、どうした事情であったか、十七の年に美濃の岩村で、雪のなかに凍えていたという。それが回国の姿であったそうだ。助けられて家へは帰って死んだとの話だが、もう百年近くも前のことである。<br> <br> 八 狸の火<br> <br>  狸がやはり火をともすという。青いともまた赤い色をしているともいって、ぎまっていないようである。しかし一方には、狸の火は赤く、キツネの火は青く、天狗の火は赤くて輝きがあるなどと、もっともらしく語る者もあった。山の陰にはいっても、木立の下へ隠れても、同じように見えていたという者もある。<br>  長篠の医王寺から、横山のほうへ向かって、山を越してきて、長篠の本街道へ出る辻のあたりは、よく狸が出ておどす所と聞いたが、またそこで火を点《とも》すともいうた。<br>  山路をだらだら下ってきて、本街道の辻へ出ると、前が寒峡川の広い谷で、谷のかなたに、大海や出沢の村の灯がちらちら見える。さらに行く手には横山の村の火も見えた。狸やキツネの火でなくとも、寂しい感じのしたものである。またときとすると、遠くの雁望山《かんぼうやま》のあたりへも、ちらちら見えることがあった。自分が小学校を卒業する年には、夜学に通って毎夜その道を通ったもので、坂を下ってきて向こうの火を見たとき、はっとしたことはある。そうかというて一度もそれらしく思うものを見たことはなかった。<br>  あるいはまた、ちょうどそのあたりから、怪しい人影が、あとや先についてくることがある。こっちが止まれば向こうも止まり、急げば急いで、村の入口まできて消えるなどともいうた。現にそうした経験をした者が、自分の聞いただけでも何人かあった。某の男が遇ったときは、村の入口の橋までくると、どんどん脇へそれて、川のなかへはいってしまったというた。<br>  自分が子どものころだった。そこで怪しい者に会ったという男が、夜中に大戸をたたいたことがある。近所の村の物持ちの主人だった。なんでもそこへかかったころから、前に立って影のように歩いている者があった。村の入口へきてもなかなか姿を消さないで、ついにお宅の前まできたという。これからまた山を越して帰る気になれぬから、どうか泊めてもらいたいというていた。それもやはり狸の悪戯《わるさ》という。<br>  あるいはまた、そうした場合、狸ならば最後に姿を隠すとき、えらい音をさせて消えるからわかるともいう。<br> <br> 九 呼ばる狸<br>    <br>  正月|薪《もや》刈りなどにいって、山の上で一人働いていると、どこともなくホイと呼ぶ声がするそうである。雨にでもなりそうな、とろんとした暖かい日などに多かった。また女が一人でいたりすると、きまって呼ぶという。ホーイと、そう思うせいか、なんだか出ない声をむりに絞り出すようにも聞こえるという。<br>  こちらが鉈でタンタンと木を切ると、向こうも同じような音をさせる。ザーッと木を倒すと、やはりさせた。明るい、日がかんかん照っているときだという。誰だと呼んでみても返事がなくて、しばらくするとまたホイと呼ぶ。気味が悪くなって帰ってきたなどというた。そうかと思うと、一人で炭など焼いていると、間近い山の陰などから、笛の音や太鼓で、いかにもにぎやかに囃《はや》したてて近づいてくる。いま一息で、あの曲がり角を出るかなどと思うと、ふいと消えてしまったりする。みんな狸の悪戯だというている。<br>  狸は人を呼びかけて、それをきっかけに、だんだん呼び交わして、相手が負けたら食おうという。それで夜中うっかり返事はできない、返事をしたが最後どこまでもやらねばならぬという。夜中に一人でいるときに、つい騙されて返事をしたばっかりに、自在の茶釜を飲み干してもたらなんだなどというた。長篠村吉村の寺屋敷の裏の家では、家内三人でかわるがわる返事して、やっと負けずにすんだ。あるいは返事のかわりに木魚をたたいて夜を明かしたが、朝見たら軒下に恐ろしい古狸が、腹を上にして死んでいた話もあった。<br>  滝川の奥の大荷場の一つ家では、近くのむくろじ谷にいる狸が、毎晩悪戯をして仕かたがない。そして、しんその藤兵衛ぼっとぼとというてからかった。藤兵衛も負けてはいず、そう吐《は》くお主もぼっとぼとというて、一晩中呼ばりとおして、朝見たら軒下に大狸が死んでいたという。この大荷場は一つ家で、しかも藤兵衛が独り者のところから、狸と呼ばり合って暮らしているげななどと、悪口にも語ったのである。<br>  鳳来寺の奥の院などで、夏ぶん雨乞いのあった後には、夜になってきまって、同じような笛太鼓の音がしたというが、こっちは狸とはいわなんだ。天狗の所為だというている。雨の降る晩などに、ぼとぼとと聞こえたのが、狸の腹鼓であった。そんな晩に、坂を登ってゆくと、御坂の脇であっちでもこっちでも、ぼとぼとやっていたということである。<br> <br> 一〇 真っ黒い提灯<br> <br>  狸の話では、なんというても化け話が多かった。これは現に生きている某の実話で、某が四十五、六のおりのことだった。<br>  銭亀《ぜにがめ》(東郷村大字|出沢《すざわ》字銭亀)の行者下へは、毎度狸が出て、人をおどすという噂があった。県道に沿ったわずかな家並みで、藪陰の、日もろくろく当たらぬような所だった。居酒屋が一軒あって、近所の者がよく酒を飲んでいて、夜遅くなってから、谷を隔てた自分の家などにも、酔いどれの唄が聞こえたものである。そこの家端れから、一町ほど離れると昔の村境で、道上の岩の上に、サワラかなにかの大木が道にかぶさりかかって、根元に行者の石像があって、馬頭観音や六地蔵などもまつってあった。道下は目の下に寒峡川をのぞくえらい谷だった。<br>  ある晩そこを通りかかると、向こうから真っ黒い提灯が一つきたそうである。その提灯とすれ違いざま.ひょいと先方の顔を見ると、白髪頭のひどい婆さんだった。はて見たこともない人だがと思って、すぐ後ろを振り返って見たが、もう提灯も婆さんの姿も見えなんだという。そのときは身内がぞくぞくとしたそうである。するとこんどは行く手の道に、ながながと寝ている獣があった。イヌのようでもあり.またキツネだか狸だか、さっぱり、えたいがわからない。ふしぎなことにその獣が、あまり大きくもないのに、道いっぱいになったことである。またいで通るのも気持が悪いので、しばらく立ち止まって思案したが、結局、尾のほうをそっと通り抜けたそうである。すると急にあたりが真っ暗になって、一歩も前へ進めなくなった。うっかりすれば、一方の谷へ落ちる心配がある。仕かたがないので度胸をすえてそこへしゃがみこんだ。そうして腰からタバコ入れを出して、一服喫いかけたという。その間に前のほうを、見るともなしに.見ると、どうやら白いものがぼうっとある。だんだん見ているうち、気がつくと、それが行く手へつづいた街道だった。空を仰ぐと星が、からりと出ている。遠くの山も見えて、川瀬の音も聞こえる、まるで夜が明けたようでそのまま家へ帰ったが、それからは、なにごともなかったそうである。<br>  二十年ばかり前のことである。狸の悪戯だというているが、そこへ出るのはあるいは幽霊だという説もあった。村で確かに死んだはずの人が、そこを通ってゆく姿を見たという者もだんだんあった。現に九十いくつで死んだ婆さんが、杖にすがってきたのに確かに会ったという者もあった。してみれば狸の悪戯というたのは、狸のためにはあるいは寃罪であったかもしれぬ。しかしまた、一方では、ここから山つづきのふじうの峰の狸が、数町離れた算橋の藪下へ、かわるがわる出るともいうた。<br>  算橋は家が二軒しかない部落で、道下がずっと田圃になっていた。そこへもやはり婆さんに化けて出たという。ある夜更けに、出沢の者が飛脚にゆくと、そこを前に立ってゆく婆さんがあった。真っ暗い夜にもかかわらず、着物の唐棧の縞柄が、はっきり読めたという。滝川の入口の、大荷場の橋の袂までゆくと、そこから川のなかへ飛びこんでしまったという。<br>  この話は狸でないことはわかっているが、以前近くの淵で、砂利運びに雇われていた女房が、乗っていたかも(筏の一種)から落ちて溺れて死んだことがあった。その女房が溺れたときの姿で、いそがしそうに田圃を道のほうへくる姿を、確かに見たという者があった。乳呑み児を残して気の毒だともっぱら噂のあったさいだったから、あるいはそうした幻を見たのであろうが、場所はやはり同じだった。<br> <br> 一一 鍬に化けた狸<br> <br>  自分がまだ五つ六つのころだった。街道端に茶店を出していた独り者の婆さんがある雨の降る晩、追分から家へ帰る途中、北山御料林下の土橋から、下の谷へころがり落ちて死んだことがある。なんでもおきよ婆さんとかいって、そうとう小金もためていたという話だった。傘を差したまま死んでいたそうである。キツネが突ぎ落としたというが、近くの盗人《ぬすと》坂の狸の仕業ともいうた。<br>  盗人坂は追分の村端れだった。どうしてそんな名をつげたか知らぬが、村を出離れて北山御料林の、暗い森のなかへはいろうとする入口で、いまは道路改修で坂はなくなったが、以前は崖に沿った険阻な坂で、かつてウマかたが落ちて死んだこともあったりして、狸が出なくても、十分寂しい所だった。日暮れにそこを通ると、きっと狸が出て悪戯《わるさ》をするという。村の某の男だった。暮れがた通りかかると、まだ人顔のわかる時刻であったが、道の真ん中に大男が立っていて、それがどっちへ回っても通れぬようにじゃまをする。たいていの者なら恐れて逃げたのだが、血気盛んの剛胆者だけに、こいつといいながら、力まかせに胸元を突きのけた。すると男の姿は消えてしまって、なにかカタリと音がして倒れたものがあった。気がついて脚下を見ると、鍬が一梃倒れていたという。<br>  おおかた誰かが置き忘れたものだろうが、それを狸が利用して人間に見せたものだという。<br>  これはその坂がなくなって後の、明治四十年ごろの話である。追分の某が、よそ村へ田植えの手伝いにいった帰りに、そこの手前までくると、どこから出たか一人の怪しい影が先に立ってゆく、へんなことだと思っていると、木立を出離れる所で立ち止まって動かなくなった。某もすこし気味が悪くなって、そこに止まってじっとようすを見ていると、その怪しい影がだんだん山のほうへ寄っていって、最後に崖へはり付いてしまった。それでやっと歩き出したが、そばを通るとき見ると、もうその姿はなくなってなにか黒いものが、気のせいか見えたという。まだ人顔のわかるめそめそ刻だったそうである。そのときすぐ後ろからやってきた者があったので、聞いてみたが、その者はいっこう気がつかなんだと答えたそうである。もちろんこの話は、狸ともなんともいうわけではなかった。<br>  盗人坂の狸は、とくに狩人が撃ち殺してしまって、いまはもう出ぬともいうた。その狩人が煮て食ったが、古狸で肉がこわくて、さっぱりうまくなかったという。<br>  肉がこわくてうまくなかったとは、古狸を退治た話に、かならずついて回る文句だった。どこそこの狸を撃って煮て食ったが、おそろしく肉がこわかったなどと、よくいうたものである。<br> <br> 一二 狸か川獺か<br> <br>  狸が出たからとて、かならずしもそこにすんでいるとば決まっていなかった。自分の村の上の端れへ出る狸は、山つづきの倉木の山から通ってくるというた。化けたという話はあまり聞かなんだが、とぎどきえらい音をさせで通る人をおどすというた。<br>  村端れだけに、街道脇に張り切りのマツというのがあつた。赤マツがヘビのように街道の上へのたり掛かっていた。傍らには馬頭観音や愛宕神などの石像が並んでいた。道の下手《しもて》に弁天をまつった小さな池があった。夏ぶんはそこで雨乞いなどしたものである。あるとぎ某の男が夜遅く通りかかると、タケを一束かついできてすぐ脚下へ投げ出したと思うような、えらい音をさせたという。男はそれに驚いてそのまま引ぎ返してきて自分の家へ泊まっていった。ある大工は、たそがれどきに弟子と二人で通りかかると、張り切りのマツの上から、真っ白い獣が道下へ向けて飛びこんだ。するとつづいてえらい音がしたそうである。誰でもここへさしかかると、ぼんのくぼ(項)がぞくぞくするという。村の物持ちの某は、日が暮れるともうそこを通れなんだ。そのため生涯通らずに終わったとも聞いた。村の者ばかりでない、かえってよその者が気味悪がるともいうた。誰の話を聞いても、ここでおどされたのは、きまってえらい音だった。それで一方の説では、どうも狸ではないらしい、カワウソ(川獺)ではないかというた。弁天の池から、山をすこし下ると、寒峡川の鵜《う》の頸《くび》という淵がある。そこから川獺が上ってきて、遊んでいるのが、人の通りかかったのに驚いて、池のなかへ飛びこむ、その音ではないかというのである。<br>  なににしても気味の悪い所だった。ある男が日暮れがた通りかかると、道の脇の石に腰を掛けている人があった。そばへ寄ってみたら、それが男だか女だか、また前向ぎだか後ろ向きだかさっぱりわからなんだそうである。<br>  なにもここにかぎったわけではないが、真夜中などより、かえって日暮れがたのほうが気味悪かったそうである。ぼんやり人顔の見える時刻が、ふしぎなことが多かったという。<br> <br> 一三 娘に化けた狸<br>          <br>  鳳来寺村門谷の、高徳《こうとく》の山に、杣が小屋を差していたときのことだという。その小屋には三人泊まっていたそうであるが、ある晩一人が山を出て、門谷のなじみの女のもとへ寄って遊んできた。するとそのあくる晩三人が炉に向かっていると、だしぬけに小屋の垂れ筵を上げて顔を出した者があった。見ると若い女で、しかも一人が前夜寄ってきたなじみの女だった。ヘヘへと笑っていたそうである。どうも怪しい、これはてっきり狸の悪戯にちがいないとさとって、それでもおもしろ半分にからかってみた。おまえはどこだいというと、わしゃ門谷の田町だと答えたそうである。田町の誰だいというと、ヘヘへと笑って口を押えている。ちょうどそのときみんなしてハトを焼いて食っていたので、食わんかいというて一串差し出すと黙って受け取って食ってしまった。それなり娘は帰っていった。翌晩も同じようにやってきたそうである。三日めの晩に、小屋の入口ヘハトの肉を餌にして虎挾みを仕掛けておくと、翌朝一匹の古狸が掛かって死んでいた。それきり娘はもうこなんだ。あとでその狸を煮て食ったが、やはりこわくてうまくなかったという。<br>  娘に化けたわけではなかったが、熈来寺村|長良《ながら》の村端れの谷に出た狸も、狩人の掛けた虎挾みに掛かって、以来出なくなったつそれまでは崖の上から砂を振りかけた.り、石地蔵に化けたりして、通る者を悩ましたというた。.<br>  狸が石地蔵に化けた話はまだあった。化けたというよりも、使ったというほうが適当だった。出沢の村から谷下《やけ》へ越す山の途中に、村雀という神さまがあった。その傍らに鉢冠り地蔵というがある。その地蔵がときおり化、けて通る人をおどした。やはり狸の仕業ともっぱらいうた。ある月夜に村の開原某が通りかかると、地蔵がゲラゲラ笑い出したそうである。かねて覚悟をしていたので、、腰の刀を抜くや否や斬りつけて、そのまま帰ってしまった。翌朝いってみると、地蔵が胴を真っ二つに斬られていた。そのままいまに胴中から二つになって立っている。それ以来もう化けなくなったそうである。<br>  別の話では、鉢冠り地蔵は狸の仕業でなくて、地蔵自身が化けるのだともいうた。いずれにしても、確かにおれが化けたと名乗るわけでないから、にわかにどっちとも決められない。<br> <br> 一四 狸の怪と若者<br> <br>  自分の村の池代の山の大窪には、えらい古狸がすんでいて、地つづきの深沢の橋へ出て、通る者をおどすとはもっぱらいうたことである。ちょうど村の中ほどで、上と下の組の間の谷に架かっていた橋である。もう二十年ばかり前であるが、橋の近くに住んでいた某の男が、夜更けに一人帰ってくると、橋の欄干に坊主が一人もたれていたが、それが見る見る大ぎくなったのに、胆をつぶして逃げてきたというた。<br>  村の某の家の者であるが、五十年ばかり前、夜ぶんここを通りかかって、狸におどかされたのがもとで、死んでしまった話があ.る。まだ宵の口だったそうであるが、橋の近くにあった家へ、血相変えて駆けこんできたという。よくよく物の怪を見たとみえて、戸口でハアッといったぎり、土間へ倒れてしまって、あとは口もきけなんだそうである。その夜はそこへ寝かして、翌日家へ連れていったというが、四、五日して息を引き取ったそう'である。病んでいる間も、絶えず怖《おそ》がい怖がいといいとおしていたというが、はたしてどんな怪を見たことか、家人がかたく秘していていっさい他人には話さなんだというからわからない。まだ二十かそこいらの若者で、ごく実直な男だったそうであるが、なんでも下の村になじみの女があって、そこへ通っていく途中だったともいうた。 「三州横山話」にある、老婆を殺して山へ持っていったのも同じ狸の仕業ということである。深沢の橋には、くだキツネも出るというた。あるいはまたそこで幽霊にあったという者もあった。ごく新しい話で、近くの家に葬式があって、暮れがた村の者が橋をいったりきたりしていた。そこへ一人が橋の袂までくると、土手に男がよりかかってこっちを見ていたが、通りすぎて振り返ってみると、もう影も形もなかった。おおかた幽霊だろうというて、大騒ぎをやったそうである。<br>  村を出離れて、長篠へ越す途中の、馬くずれの森は、田圃を三、四町すぎた所に、一|叢《むら》大木が茂っていて、日中でも薄気味の悪い所だった。ここからずっと長篠の入口まで山つづきになるのである。ここにもまた悪狸がいて、通る者をときおりおどすというた。あるいはまたヤマイヌも悪いキツネも出るというて、いずれにしても問題の場所だったのである。自分などのここを通った経験でもそうであるが、暮れがたなどまだ明るい田圃道から、暗い森のなかへ足を運んでゆくと、地の下へでもはいるようでおのずと心持までめいってくる。また反対に暗い森のなかから、田圃道へ出るとほっとするが、それだけになんだか後ろから引っ張られでもするように不気味を感じたものである。そんなわけでもあるまいが、田圃の手前の、村の取付きにある家へは、以前は夜ぶん真っ青になった男が、ときおり駆けこんできたそうである。<br>  ある男は暮れがた森の手前に差しかかると、一町ほど前を、太いしっぽを引きずって、狸が歩いてゆくのを見たが、道の中央でくるくる回り出した、そして道下へ飛びこんだと思ったら、娘になって上ってきたなどと、キツネにでもありそうなことをいうていた。また某の修験者は、夜更けて一人ゆくと、行く手を豆絞りの手拭で頬かむりをした男が、鼻唄でゆくが、どうもようすが怪しいと思って、いっしんに九字を切ると、はたして道下の池へ飛びこんだと、まじめになって語ったものである。<br>  これは自分の祖母の話だったが、父がまだ少年のころで、夜遅く二人で通りかかったとき、ちょうど森のなかほどで、なにか怪しいものを見たという。おおかた狸の悪戯だろうというたが、なにを見たのか、それ以上聞いても話さなかった。<br> <br> 一五 塔婆に生首<br> <br>  狸の出たという場所が、申し合わせたように村端れや境で、塞《さえ》の神や道祖神をまつった跡であるのもすこし気になり出した。この話もそうした場所でのことである。<br>  長篠の医王寺の近くにあるのっこしの山は、以前から古狸がすむといい伝えた所だった。水上《みずかみ》の部落と、長篠の本郷とを境した、ちょっとした窪合いの峠で、道が三つ辻になっていた。暮れがたそこを通ると、道になにやらきたない袋のようなものが落ちているが、うっかり拾ってはならぬ、狸のきんたまで、化かされるなどと聞かされたものである。道を挾んで古木が茂っていて、辻には石地蔵が立っていた。<br>  近所の若い衆がここの山つづきで狸の穴を見つけて、遊び日に掘っていると、そこへ医王寺の和尚がやってきて、みなの衆ご苦労というて去った。それがじつは穴の主の狸が化けたので、いつか抜け穴から逃げ出して、若い衆をからかったのだというた。あるいはまたそのおりよい天気だったが、急に雨が降ってきて、みんなが濡れしょぼれて掘っているところへ、和尚が傘を差してきて笑ったげな、村の某もその一人だったげななどと、まことしやかに聞かされたものである。<br>  自分には祖父にあたる人のことだった。あるとき長篠の本郷から日を暮らして、ここへ差しかかると、どう道を間違えたのか、医王寺の方向へ下るのを、どんどん脇へそれていって、気がついたときは、山つづぎの村の卵塔場へはいっていた。前に新仏の草があって、白張りの提灯と新しい塔婆が立っている。見るとその塔婆の尖端に、男の生首が突き通してあって、目を開いたと思うと、クスリと笑ったそうである。祖父は平素から剛胆な人だったので、それを見ると、はじめて狸の悪戯と気がついた、なんだ手まえの相手などしていられるかといいおいて、そのままあとも見ずにどんどん卵塔場を出てきたそうである。それから家へ帰り着くまで、もうなにごともなかったという。この話は祖父が若いころ幾度も物語ったそうであるが、自分は祖父の妹にあたる人から聞いた話だった。<br>  のっこしの峠近くの家では、夕がた狸に化かされて、ここの山へ連れこまれる者が、たびたびあったという。そして、また夕がたなどにそこを通りかかると、どこからともなく、負んでくれ負んでくれと呼ぶ声がするともいうた。内金《うちがね》の某の男は、ある晩医王寺のほうへ向けて峠を越してくると、突然闇のなかから負んでくれという声がして、なにやら背中へ負ぶさりかかったものがあった。男は恐ろしさに夢中で、そのまま駆け出したが、医王寺の明りが見える所までくると、ふっと背中が軽くなったように思ったという。内金の村の左官の某の話であった。<br>  ここの狸は、もうとっくに狩人が撃ち殺してしまって、その後出るのは、山つづきの吉村から通ってくるのだともいうた。そうかと思うと、いやまだいる、現に誰それが化かされたなどという。そうか、それじゃ撃たれた奴は別の狸かなどと、話がまた新しくなってきた。すっかり噂が根を断ってしまうのは、容易ではないのである。<br>  長篠の本郷と内金との境にある、施所橋《せしよばし》の上へは、晩がた狸が化けて出るともっぱら噂した。雨の降る晩、傘を差して先へ立ってゆく男が、ふいと後ろを振り返った顔を見たら、三つ目の大入道だったとか、またある男が夜更けて通りかかると、橋の欄干に寄りかかっていた男がそのまま下へ飛びおりていったともいうた。しかもこの橋などは、橋の袂にまで人家があって、狸の出る噂の場所はほんの五問か七閥の所だった。狸が出るには、かならずしも人冢を齔れた場所という必要もなかったらしい。<br> <br> 一六 緋の衣を纏った狸<br> <br>  三河の伊良胡岬のちょうど中央ごろ、田原の町からは南にあたって聳えている山を、御津《おつと》の大山《おおやま》というて、岬中では第一の高山であった。この山の大久保の谷には、普から悪い狸がすんでいるとはもっぱらいい伝えていた。まだ古い出来事ではないと聞いたが、山の南方にあたる福江村の者が、朝早く山を越して仕事に出ると、きまって行くえがわからなくなる。それが村の者だけではない、旅商人などで日を暮らして通りかかった者が皆目知れなくなったこともある。あるときは葬式帰りの和尚と小坊主二人が日暮れに山にかかったまま知れなくなった。それがあるとき、行くえのわからなくなった者の、身に付けていた手拭が、血に染まって山の途中の木の枝に引っ掛かっていたことから、なにか山の怪の禍いかもしれぬということになった。それで村中評議のうえ山狩りをすることになって、そのうちの一隊が、大久保の山深く入りこむと、一個所まだ誰も知らぬ岩窟があって、その奥に大きな狸の穴を発見した。しかもその手前に、かつて行くえを失った者の履き物が片方落ちていた。いよいよこの穴が怪しいとなって、穴の周囲に矢来を結っておい・て掘りにかかった。おそろしく深い穴で、三日つづけて、掘って、やっと最後の穴の奥へ掘り当てたというゆなかは広さ八畳敷ぎほどもあって、その奥にさらにいちだん高い所がある。見ると緋の衣を纏った大狸が、人々の立ち騒ぐのを尻目にかけて、端然とすわっていたそうである。村の者も一度は驚いたが、こいつ逃がすものかと、いずれも寄ってたかって撲殺した。しかし狸は観念したようすで、すこしも荒れ狂うことはなかったという。傍らにはそれまで狸の餌食になった人々の衣類や骨がうずたかく積んであった。そのとき狸の着けていた緋の衣は、葬式帰りの和尚のものであったというが、それ以来大久保の山には、なんの禍いもなくなったという。この話は豊橋の町のある婆さんから聞いたが、本人は、土地の者から直接聞いたというていた。<br>  緋の衣は着ていなかったが、狸が人を殺して食った謡は、まだほかにも聞いたことがある。自分らが子どものころなど、キツネと狸といずれが恐ろしいかなどと比較論をやって、狸は人を殺して食うから恐ろしい、キツネはただ化かしたり憑《つ》くだけだなどというたものである。そのじぶん聞いた話で、八名郡|鳥原《とりはら》の山でも、狸の餌食になった者があったともっぱら噂した。<br>  狸が人を取り食らった話の一方には、女を誘拐して女房にしていた話がある。宝飯郡八幡村|千両《ちぎり》の出来事であった。娘が家出して行くえが知れなくて、ほうぼう捜していると、近所の病人に狸が憑いて、おれが連れていって女房にしているという。場所はこれこれと、村の西北に聳えている本宮山の裏山にあることをもらしたので、はじめて、山捜しをしてみると、はたしてえらいけわしい岩の陰にいたそうである。そこは雨風など自然に防ぐように出来ている場所だったという。後になって娘にようすを問いただすと、狸だかなんだか知らぬが、山の木の実やくだものの類を、ときおり運んできて食わしてくれたと語ったそうである。その娘は平生から、すこしたりぬようなようすがあったという。この話は自分が十二、三のころ、隣村の木挽きから聞いた話である。<br> <br> 一七 狸寄せの話<br> <br>  以前は村々の若い者が五、六人集まると、こくりだの西京《さいきよう》ネズミ、その他キツネや狸を寄せて、慰み半分に遊んだものであった。なかでも狸寄せは、もっとも早く滅びて、後にはめったにやる者もなかったという。かくべつ方法がめんどうというわけでもなかったから、やはり流行だったのだろう。寄せる方法のだいたいをいうてみると、目隠しをさせたり、白紙をしごいて幣帛のかわりに持たせることなどは、他の神寄せ、キツネ寄せの類と変りはなく、ただ呪文がすこし違っただけである。左に呪文の全部を掲げてみる。<br>  テンニトロトロ チニトロトロ<br>  アサヤマハヤマ ハグロノゴンゲン<br>  ダイミョウジン<br>  オイサメ メサレ オイサメ メサレ<br> ただこれだけの文句を、寄るまでは何回でもくり返すのである。狸が寄るという前後の状況をいうてみると、最初被術者の顔色が、だんだん蒼白くなる。つづいて呼吸がせわしくなるにつれて、こんどは顔色がしだいに上気して、ほとんど真っ赤になる。そうなるとからだじゅうが激しく震えて、とぎどきすわったまま踊り上がるようになる。このときは、狸が道中を急いでやってくるときなどという。そこをすぎると、再び顔からだんだん血の気が薄らいでいって、最後に真っ青になると、からだが急に落ちこんだように、小さくなってしまう。こうなるともう狸が寄ったのであるから、そろそろ問答を始めてもよいのである。もちろんこれは村の若い衆のやった方法で、あるとき旅の行者が狸を寄せたときは、呪文や方法がぜんぜん違っていたそうである。<br>  寄った狸を帰すときは、背中に犬の字を書いて、最後の点を強く打てば、それでよいのであるが、この方法を怠ったり、あるいは目隠しの手拭が自然に解けたため正気づいたときなどは、後になって近所の子どもや老人に憑いて困ったそうである。そのことについてある老人の話に拠ると、事が終わってから、自分の子どもに憑くとみえて夜泣きをして仕かたがなかった。抱いていればそうでもないが、床へ寝かすとからだが急に強直して、火のつくように泣ぎ出す、それでくる晩もくる晩も、女房とかわるがわる抱いていて夜を明かす。そうそう家のなかにもおられぬので、外に出て子どもを揺り揺り歩いていたが、あるときなどつくづく狸など寄せるものでないと後悔して、子どもといっしょに泣いて歩いたこともあったそうである。その間には、種々な魔除けの方法などもやってみた、短刀をそっと枕辺に置いてみたり、神社の御符を布団の下に敷いてみたりしたが、いっこうききめはなかった。そのうちふっと思い出して、ヤマイヌの上顎でつくった根付けを出してきて、布団の下へ入れると、それなり嘘のように夜泣きがやんでしまったという。以前はヤマイヌの上顎を干し上げたもので、根付けをつくって魔除けとして持っている者がよくあったのである。顎の内部を紅く漆塗りなどにして、腰に下げている人を、現に自分なども見たことがあった。<br>  狸寄せなども盛んにほうぼうでやっていたころは、わけもなく寄ったそうであるが、一度流行しなくなってからは、容易に寄らなんだともいう。こくりなどもそうで.あった。流行していたころは、めんどうな手数をかけないでも、酒の席で慰み半分に箸を三本結わえて立て、上に皿を冠せて唱え言をすると、それでもう膳の上をよちよち動き出したそうである。あのよく寄ったじぶんには、狸などもそこいらにどれほどでも遊んでいて、こちらが寄せるのを待っていたかもしれぬなどと、まじめになって話した老人もあった。<br> <br> 一八 狸と印籠<br> <br>  狸から福分を授かったという類の話が、ごくかすかではあったが残っていた。長篠村大字|富栄《とみさか》字|富貴《ふうき》の某家には、昔、諸国行脚の狸から譲られたという一個の印籠があった。諸国行脚の狸はちと怪しいが、おおかた僧侶に化けた狸のことでもあったろうか。そのため家がながく富み栄えて、家数三、四戸しかない僻村を、富貴と呼んだのも、その家によってできた名というた。その印籠が転々していまは近くの村の物持ちの家に秘蔵されている。したがって代々の持主であった家も、はや昔の面影がなくなっているのはぜひもないことだった。その印籠は、子細あって自分も一度見たことがある。黒塗りのなかは、粗末なナシ地に塗ってあった。惜しいことに蓋は久しい前に失ったとかで見あたらなかった。うち見たところでは、かくべつ狸がくれたらしいところもない、ただの印籠である。妙なことにその印籠の由来について、べつに柳生十兵衛が武術修行のおりに、遺品においていったともいうていることであった。狸と柳生の剣術使いと、なんの縁故もなさそうなのに、どうしてそんな説ができた.かはわからない。<br>  富貴の村から、谷一つ越えた長篠村内金には、文福茶釜をもち伝えるという家があった。街道からは山寄りの㍗村人が入りと呼ぶ家で、正福寺という古い禅寺の寺の門前に屋敷があった。つい先代までは村一番の物持ちで、兼ねて村の草分けでもあった。文福茶釜の由来として言い伝えているところでは、先祖が正福寺のずっと以前の和尚から譲られたもので、その茶釜のあるためにながく福運がつづいてきたというだけである。昔話にあるように、狸が化けた類の話は、自分はまだ聞いたことがない。したがって正福寺に狸の和尚がいたともなんともいわぬことである。どうも話がいくとおりもあってわずらわしいが、別の話では、その茶釜は天正時代、長篠の城にあったもので、城主が国替えの節残していったもので、したがってこの家は先祖が、武士であったという。<br>  もう十年ほど前になるが、その茶釜を見せてもらうため、わざわざたずねたことがある。以前の屋敷跡の傍らに、いまは小さな構えをむすんでいた。五十かっこうの、どこか暗い感じのする内儀が一人いて、詳しい話をしてくれた。二十年前までは、ここの炉に掛けて使っていたが、もうありませんとのことだった。もっともその以前から、蓋と蔓手は別物だった。あるとき鋳掛け師に持たぜてやると、蓋と蔓をなくしてきたのだそうである。それ以来蔓手はただの針金でまに合わせていた。その後引ぎつづく不運に、茶釜までもいくらかの代に、親類の者に持っていかれてしまったのだそうである。いまはそこに蔵《しま》ってあるはずだ、なんならそっちへいって見てくれとの挨拶だった。そのおりの話の模様では、肌が赤味を帯んだ鉄で、離れて見ると陶器のように見えたそうである。一方に鉄瓶のような口があって、口の付け根から、鹿の角のかっこうした三つ又の脚が出ていたというから、茶釜としては、ふう変りなものだった。<br>  あの茶釜だけは家の宝だで、なんとしても手放すまいと思ったがと、そっと目をふいたには、思わずつりこまれて悲しくなった。まだほかに、系図とりっぱな腰のものもあったが、ことごとくなくしてしまったと、さんざん情けないことを聞かされて帰ってきた。<br>  あとで聞いた話だが、その茶釜は、じつは昔話以上に、持っていった親類の男の手から、諸方を渡り歩いたそうである。豊橋から名古屋、東京と、じつは思惑で持ち回ったのだが、男の思うようには金にならなんだという。それで仕かたなく家へ持ち帰ってあるのだそうである。そんなことから、昔話の文福茶釜そのままに、再び元の家の炉口へ、かえるような日がないともいえぬ。<br> <br> 一九 古茶釜の話<br> <br>  文福茶釜の話のついでに、狸とは直接縁を引いていないかもしれぬが、在家の炉口に吊るしてあった茶釜の話がある。話の端が、いくぶんでも狸の問題に触れてくればめっけものである。<br>  近在で使用していた茶釜は、もっとも多く宝飯郡の金屋《かなや》で出来たものという。ナツメ形で底に疣《いぼ》が三つ出ている。肩の所に蔓が付いていた。別に丸形の中央がふくれて、腰鍔のある茶釜をば、文福茶釜と呼んだのである。文福茶釜を使っている家はめったになかった。炉に掛けるにぐあいが悪かったからである。<br>  前にもたびたび話した追分の村の中根某の家は、家としても古かったが、炉に掛かっている茶釜がおそろしく古いものだった。形は普通で心もち丸形だった。天正時代、艮篠.城三茶釜の一つで、たいしたものだなどというた。近ごろになって、その家の老人がときどき思い出したように、その茶釜を流れに持ち出して磨いているという話を聞いた。いまに三百両ぐらいでどこからか買手が出てくるだろうなどと、一人ぎめしていたそうであるが、このごろでもやはり炉に掛かっているという。<br>  自分の家の近所にも一個古いという茶釜をもっている家があった。炉に吊るしてあるところを通りかかった棒手振りが見て、これなら五両まで買うと保証したとかで、たいせつにしていた。かくべつ見たところ変わってもいなかったが、底に疣のないのが普通の茶釜と違っていた。<br>  長篠村酉紐の赤尾某の家は、たいしてりっぱな暮らしもしていなかったが、長篠戦争時代からつづいた旧家というた。この家の炉に掛かっていた茶釜は、戦争当時用いた陣茶釜であるという。ごく小形のもので、いかにもただの茶釜でないことはうなずかれた。しかしながい間問題にもならずにきたが、家が不如意になって、小さな所に住むようになってから、近くの医王寺の和尚が目を付け出して、たいへんな執心でついに主人を口説き落として、永代祠堂金の代に寺へ引き取っていったという。和尚はそれを、前からあった長篠役の遺物のなかに加えて、来客に茶をたてたりして珍重していたが、明治三十幾年医王寺の出火にあって、ほとんど形ばかりになってしまった。寺へやったばかりにあんなことになったと、元の持主の老人が、こぼしているのを聞いたことがある。<br>  長篠城の倉屋敷の跡に住んでいた林某の家の茶釜も、珍しく古いもので、この家で家財整理をしたおりに、買い取った者が意外な金儲けをした噂があった。林某の家も旧家で、長篠合戦の勇士の後裔であった。<br>  八名郡山吉田村|新戸《あらと》の某の家の茶釜も、古いものだったそうである。珍しく大きな茶釜だったが、形は変わってはいなかった。湯が沸いてくると、釜の肌色が赤味を帯んできて、なんともいえぬ光沢が出てくるのがふしぎであるというた。後に主人が床の間に持ちこんで花を活けてあるという話を聞いた。<br>  こうして並べてみると、古い茶釜の話の家が、どれも旧家であるが、いずれも家運が以前ほどでなくなっていたのである。もちろん不如意になってこそ、自在鉤に掛けられた茶釜も問題になるのであるが、べつに茶釜と家の福分とを、むすびつけた何ものかがあって、こんな話もできてくるのでないかと思う。茶釜のなかに福の神がいるというて、自分なども幼少のころからやかましくいわれたものであった。「三州横山話」に書いた村の長者の家は、主婦が誤って茶釜に錘《つむ》を当てたために、家の福の神が逃げ出して、たちまち没落したというている。いまいちだんと材料を集めていったら、福の神の正体が意外な姿を現わしてきそうにも思われる。<br> <br> 二〇 古い家と昔話<br> <br>  鳳来寺村峰の某の家は、おそろしく古い家で、何代前に建てたことか想像もできぬほど煤に埋もれていたという。どうしたわけかこの家には、昔から狸がすんでいるという噂があった。姿を見せるとはいわなんだが、夜など客が炉に向かって主人と話していても、ときおりバサリとへんな音がして、急に燈火が暗くなることがある。そのときは自在鉤の上から、なにやら箒のようなものが下がっている。それが狸のしっぽだともいうた。それでいてかくべつその狸が悪いことをするとも聞かなんだが、あるとき若主人が、近所の噂を気にして、狸退治をすることにした。炉に青スギの葉を山と積んで、どんどん燻したてると、さすがの古狸も閉口したとみえて、壁から壁へさっと尾を打ちつけては、天井から天井を逃げ回る音を聞いたが、ついに取り押えることはできなんだそうである。しかしそのこと以来狸は屋敷を逃げ出していったらしく、それらしいこともなかったという。あるいはなおいるなどともいうたが、十数年前家を取りこわしてしまったというから、いずれにしてももうどこかへ宿替えしたことであろう。<br>  北設楽郡本郷の、某という酒屋の土蔵にも、狸がすんでいるというた。ながいこと酒を飲んで、腹のあたりが赤い色をしている。それでその土蔵を取りこわしたときには、たくさんの同類とともに、つぎからつぎへ逃げて出たともいうた。<br>  長篠の城跡の近く、寒峡川と三輪川の渡合にあった長盛舎という運送問屋の荷倉にも、狸がすんでいるともっぱらいうた。その荷倉は久しい前に取りこわしてしまったが、おそろしく長い建物で、なかへはいると、一方の端は見かすむほどだったという。いかにも狸がすみそうだというた者もあった。そこの狸が、ときおり近所へ出かけて、人を化かすともいうたが、ときおり倉のなかで乱痴気騒ぎをやって、その太鼓や笛の音が川を越した乗本《のりもと》や久間《ひさま》まで手にとるように聞こえたそうである。<br>  この荷倉の話でもそうであるが、古い大ぎな健物の形容に、狸が出そうだとは一般にいうたことである。<br>  これで狸の話もほぼ材料が尽きるから、八畳敷きの昔話をしてそろそろ終りとする。自分らが聞いた昔話のなかで、狸を扱ったものは文福茶釜にカチカチ山ぐらいなものであったが、別にきんたま八畳敷きというのがあった。この話は二とおりあったようで、子どものころたびたび聞かされたものであるが、話が下品とでも思ったせいか、詳しく記憶せなんだのは遺憾である。<br>  まず一人の博奕打ちがあって、どうしたわけだったか狸の化けた賽《さい》ころを手に入れる。その賽ころは男のいうとおりに目が出るので、だいぶぐあいがよい。それでいろいろなものに化けさせたが、あるとき隣家に婚礼があって、なにか祝いものをせねばならぬがあいにくなにもない。そこで賽の目にタイと出うというと、みごとな赤ダイになる。男がそれを持って隣家へ呼ばれてゆく。タイはいろいろほめ言葉をうけて、やがて台所へ下げられ、料理の段になって、爼に載せられると、急に跳ね出して、とうとう床下へとびこんでしまう。そんなわけで男がむりな注文ばかりするので、狸が愛想を尽かす、いよいよ別れる段になって、八畳敷きを見せることになる。そしでりっぱな青畳を敷き詰めた座敷になるが、男が見惚れでタバコの喫い殻を落とすので、ジジと音がして座敷はたちまち消えてしまって、男は一人広い野原の真ん中にすわっていたというようなすじだった。<br>  いま一つは、一人の小僧が道で皺くちゃになった、袋のようなものを拾う、さわると暖かで、柔らかでもじゃもじゃしたものである。その袋が、前の話と同じように、小僧のいうままいろいろのものになってみせる。最後に小僧が八畳敷きというと、みごとな座敷になったが、なかに一個所へんな括り目のような所がある。小僧がそれを気にして、針の先でちょいと突くと、ジジと音がして元の毛だらけのへんなものになってしまって、もう役にたたなんだというのである。<br> <br> 一二 狸の最後<br> <br>  村の狸の話もはやすえであった。屋敷近くの森や窪にいた狸は、家の者と呼びくらして負けて、腹を上にして、とくに軒下へきて死んでいた。その他の古狸の多くも、おおかたは狩人に鉄砲で撃ち殺されたり、かんしゃく玉を噛まされて、口中を打ち割って死んでしまった。煮て食ったが肉がおそろしくこわかったくらいで、簡単に結末がついていた。かつて多くの物語を残したものにしては、あっけない最後であった。それからもう一つ、呼び負けたり鉄砲で撃たれたでなく、やや狸らしい最後を遂げたものがある。鉄道が通じたと同時に、汽車に化けて、かえって汽車に轢き殺されたのである。どこにもある話で、あまり煩わしいが、一とおりいうてみる。<br>  明治三十幾年であった。豊川鉄道がはじめて長篠へ通じたときである。川路の正楽寺森の狸が、線路工事のために穴を荒らされた仕返しに、ある晩機関車に化けて走ってきて、こちらからゆく汽車を驚かした。初めのときは機関手もうっかりして、あわてて汽車を止めたが、つぎの晩には、向こうも同じように警笛を鳴らしたがかまわず走らせると、その機関車は、ふっと消えて、なにやらコトリと轢いたと思ったが、ただそれだけでもうなにごともなかった。あくる朝見ると、線路に古狸が一匹轢かれて死んでいた。それを線路工夫が拾って煮て食ったげな、あの川路の停車場からすこし長篠寄りの、山をえらく掘り割った所だと、もっともらしい話だった。それから正楽寺の森へは、ちっとも狸が出ぬという。<br>  妙なことにこの話の生まれる前に、同じ類の話を自分などもすでに聞いて知っていた。話は川路よりは遠かったが、初めて東海道へ汽車が通じたときだという。宝飯郡の五油と蒲郡の聞のトンネルで、古狸が汽車に化けて轢かれたともっぱらいうた。トンネルが出来て穴をこわされた恨みというのも前の話と違わなかった。汽車が第一に運んできたみやげだったことはよくわかる。いかな狸の奴でも、汽車にはかなうまいなどと、感心したものであるが、一方から考えると、狸にとっての汽車は、トンネル工事で穴をこわされる以上に、憎い憎い敵であったかもしれぬ、そうして結果は狸が負けて滅びていったのである。<br>  トンネルのことから、もう一つ連想する話があった。明治の初年、長篠の湯谷から、川伝いに牧原《まぎはら》へ越す峠を、独力で開鑿してトンネルにした者がある。その後そこの山の狸が、穴を荒らされた腹癒せに、毎晩出て悪戯をする、日が暮れると、まんぼ(トンネル)のなかほどに傘をさして立っていて、おどすというた。穴を荒らした主でなしに、通行人に仇をしたのは聞こえぬわけあいだったが、こっちは汽車でなかっただけ、狸のほうは太平楽でやっていて、結局、通行人がながいこと迷惑したのである。しかしそこの狸は、かくべつ殺された話も聞かなんだが、近年人道の下をさらに汽車のトンネルが通じた.から、あるいはまたへんな真似をして轢き殺されたかしれぬ。しかしまだ聞いていなかった。あるいはとくにどこかへ安住の地を求めて去ったのかもしれぬ、もうたいした噂も聞かなかった。<br>  半殺しの狸ではないが、まだいい残したことが一つある。横山から東へ、遠江引佐郡|別所《べつしよ》寺では、夜になると狸が雪隠にきて悪戯《わるさ》をするという。あるとき寺にいた娘が用足しにいって、青くなって逃げてきた。寺婆が検分にゆくと白髪のえらい爺が、なかにしゃがんでいたという。明治初年のことで、その婆さんから直接聞いた話が伝わっていた。また狸が雪隠の戸を鳴らす話はほかにも聞いたものである。誰もいないのに、キーと音がするのは、狸だなどというた。この話と関係があるかどうか知らぬが、山小屋などでも、狸が雪隠について困るということをたびたび聞いた。<br> <br>

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