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馬場恒吾『自伝点描』「人生随想」処世訓」(2007/01/25 (木) 02:17:14) の最新版変更点

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処世訓<br>  人生行路難。人の世に処する道は困難だという。それは古来幾多の処世訓が伝えられているのでも判る。筆者は敢てここに道学者瀕して、今の時代の処世訓を述べようとするのではない。しかし古往今来の歴史を見て、人間の栄枯盛衰を考えると、自からその間に一種の処世訓が感得せられるように思う。それを今の流転弱りなき時代にあてはめて考えると、自から天地悠々たる感じが起る。<br>  道は中庸にありと中国の聖人が教えたかと思う。ところで、中庸の道とは一般の青年には軽蔑される。中庸とは、大抵凡庸で中位の人物を連想させる。驚天動地の快挙とか、乾坤一擲の事業とかは中庸の道でない。またそれは平凡な人間の成し得るところでない。それ故に血気にはやる青年から見ると、中庸の道とは生温い教えとしか考えられない。したがってかれらはそれを捨てて顧みない。<br>  しかし結局は中庸が勝利を占める。これを日本の歴史に例をとると、元亀天正時代の豪傑の信長と秀吉と家康との三人を比較する。信長の英気颯爽たる天才振り、秀吉の朝鮮出兵まで行った豪快振りは、ともに時代の壮観であった。それに比較すると、家康の平凡振りはとても青年の血を湧かすには足らない。家康は戦さをして必ずしも勝ってばかりはおらず、談判をして必ずしも歯切れがよくない。いつも不得要領と隠忍自重を頼みの綱としている。誰が眼にも、花々しい人物とは映らない。しかしその地味な存在が遂に勝ちを制して、徳川民約三百年間の平和を国民に与えた。この平和時代が日本の国力を養い、民族の教養を高め、明治になってからのわが国民が世界に大飛躍をする基礎を築いたといえる。ここに中庸の道が勝つという一つの哲学が含まれている。<br>  もとより人間には賢愚肖不肖の差別がある。力の強きもの、弱きもの、身体の大きなもの、小なるものの相違がある。だから、賢きものが愚者を軽蔑し、強きものが弱き者を苛《いじ》めることはしばしばわれわれの目に触れる現象である。これは尋常平凡のことで、たいして咎むるに当らないようであるが、この間に微妙な哲理があって、中庸を忘れたる者への罰が残る。人間賢愚肖不肖の別、強弱大小の差があるとはいえ、それは同時代、同人種の狭い社会でいうことである。千年前の賢者は今日の愚者に劣り、未開発国の強者は文明国の弱者に負けることもあろう。狭い社会で賢愚、強弱の少しばかりの相違を重視して、己れが優勝者、かれが劣敗者と称することこそ、かえって物笑いの種になる。されば中庸とは何ぞや、万民を包含して、その平均する常識を指すのである。<br>  一般民衆というものは平凡である。英雄豪傑の目で見れば、愚者の群れ、無力の集りとも見えるであろう。そして、それが一面の真理たることも事実である。しかし民衆の感情にも潮のさし引きに似た高低がある。静かな時は春の海のごとくのどかに、日ねもす、のたりのたりかなという景色だが、 一旦台風が来ると、怒濤狂…瀾、人間の力でどうすることも出来ない。それがたまたま満潮の時にでも際会すると、今まで陸地であったところまで、海が襲い来る。それは海国日本の今までにしばしぼ経験した通りである。<br>  このように荒れ狂う海でなくして、.漣の寄せる静かな海であっても、その紺碧の深みに如何なる力を蔵しているか測り知られるものでない。バイロンが地中海の閑かな海に愛撫するがごとく手を触れて、この海はギリシア帝国、ローマ帝国を呑んでそれで平気な顔をしていると言った.、世界戦争ではまたいくつかの帝国を呑まんとした。平生は文明の交通路として人間に奉仕している海が同時に無数の人間を海底に沈めて知らぬ顔をしている。<br>  水は方円の器に従う。これほど自由になるものはないと思われるが、またこれほど偉大なる力を蔵しているものはない。水に比較して一層自由になるものは空気である。科学知識の乏しい時代には、空気はそれが存在していることすら認められなかった。それほど軽視される空気で電それがなくなると、如何なる人間でも二分間とは活きていられない。人民は水のごとくあるいは空気のごとく、愚かで無力であるごとく見えるが、人民がいなくなって存在する国家はない。英雄豪傑が如何に多数輩出したところで、英雄豪傑ばかりで、国家も社会も成立しない。その英雄豪傑を浮び上がらせるのは人民の力である。即ち中庸の力である。天才的な織田信長や、天馬空を行くごとき豊臣秀吉が失敗して、地味な家康が成功した理由がそこにある。<br>  ある時代の日本の読書人は飢えていた。外国の出版物は来ず、国内の出版は企画統一である。それで多くの人は古い書物を探しては読んだ。本文の筆者もその一人である。司馬遷の『史記』を読むと、春秋戦国時代の武将呉起の伝の中に次のようなことがある。魏の国の武侯が西河に浮んで中流を下る。顧みて呉起に向って、美なるかな、要害堅固なこの山河、これ魏国の宝だと言った。呉起答えて、国を守るは徳にあり、山河の険にあらず、君もし徳を修めずんば、この舟の中の人間でも尽く敵国となると言った。徳とは人民を愛することだと思わしめている。<br>  また『唐宋八家文』の中に蘇東坡の「韓文公廟碑」というのがある。その一節に、「智は以て王公を欺くべし、以て豚魚を欺くべからず、力は以て天下を得べし、以て匹夫匹婦の心を得べからず」というのがある。匹夫匹婦の心を得るには、どうしても平凡中庸の道でなければならぬ。<br>  新聞将棋の講評を読むと、時々これは無理筋だったという言葉を見る。新聞将棋を指すくらいの人はみな高段者である。それでも時には無理な手を指して失敗する。力の強い者が力を頼んで無理に押し切らんとするからである。淡々として、無理のない手を指すのが最後に勝つ。ここにも処世訓があるのではないか。<br>  宋の馬子才の浩々歌という文の中に、「用いらるれば帯を解いて大倉官禄に食み、用いられざれば枕を払って山河に帰る」というのがある。無理に立身出世をしょうと焦る代りに、天地自然の流れに従って活ぎて行く。それが中庸の処世訓である。みんながそうすれば、その当人が幸福であるのみならず、他人もまた幸福になる。(一九四三・一)

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