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そのころ――とある男が話しはじめた。そのころ、私は徹底的な嫌人病に冒されていた。ひとと話をするのが、ただわけもなく嫌で、大儀で、億劫で、まア、ちょっと例をあげると、自分の家の近くで、お隣の人に出会うと、ただちょっと会釈するだけで、それでいいのだけれど、それがどうも億劫でならないので、遠方から姿を見つけると、逃げるように横道へ折れるというありさまだった。そんなわけで、私は少々便利は悪くても、文明の雑音の響いてこない、隣近所のない、静かな一軒家で、しかも出入りすることに靴を脱いだり履いたりする煩わしさのない、粗末ながらも簡素な洋式生活のできる家を、長い間探していたのであるが、とうとうどうにかこうにか、まずこの条件にかなうと言っていい家を見つけたのである。それは横浜の本牧岬の、俗に八王子という村の西の海岸の谷間にある家で、一の谷という畑中の停留場から、右に山、左に森や畑の問の細道を海のほうへ行くと、海のすぐそぼの、右手の山の麓に、その家があった。海岸というのはわずか百坪にもたりない狭い砂原で、しかも両方に切り落としたような高い崖があって、どっちへも行けないので、この小さい砂浜へ来る人はめったになく、したがって、停留場からわずかしか離れていないのだけれど、私の家の下の細道を通る人は、ほとんどまれだった。そのうえ、その細道のそばには、大きな木が黒々と茂っているので、段々替わりに古い丸太を幾つも横たえた家に通じる坂道を、下から半分ほど、見通すことができても、家は道からはまるきり見えなかった。その昼でも暗い梢のトンネルみたいな坂道をちょっと登ると、右手に私の家の管理人の小さい家があり、その家の上の高い石垣の上に、私が借りた昔外人が住まっていたらしい古いバンガローがあった。それは段々を登り切ったところの庭――というより足の踏み出しようのないほど一面に草の生い茂った空き地の、片方に建った昔は緑色だったらしいが、今では風雨にさらされて、どす黒くなったペンキ塗りの南京下見の家で、二、三段の木造のステップを登ると、そこが白ペンキ塗りの手摺のあるポーチで、そこのドアを開けると、かなり広い居間兼食堂、その隣に小さい寝室と、水道の通った浴室と台所があった。部屋はこれだけだったが、一人の生活にはむしろ広すぎるくらいで、私が借りた時には蜘蛛の巣の煤だらけだったが、私はそれをきれいに掃除し、壊れかかった天井や、ひびの入った壁に、一面に明るい白っぽいウォールペーパーを貼り、床には厚い絨緞を敷いた。家付きの家具は、直径四、五尺のぐらぐらの円テーブルと、エナメルを塗った鉄製の浴槽だけだったが、私は引っ越しのたびごとに持って歩く楢製のベッドを寝室に置き、居間には螺旋のたくさん入った大きい安楽椅子やソファを置き・窓には厚い海老茶色《えびちやいろ》の窓掛けをかけて、ほとんど見違えるばかりりっぱな部屋とした。私がこうして部屋の中を飾る理由は、ちょうど冬ごもりする動物が、自分の穴を念を入れて作ると同じであって、あまり外出しない私は、なるべく家の内部を飾りたてて、いつまでも落ち着いていられる住み心地のいいものにしたかったのだ。また、実際、昼はそうでもないが、夜なぞあたりがあまり静かなので、外へ出るのが怖いほどだった。風のある日は四方から家を包む森や、下の海の吠える音が、いぐら窓をしめても部屋の中へ入ってきた。
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