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春情鳩の街 三場 永井荷風人物向島鳩の街喫茶店の女 種子 年二十四五歳同じく 榮子 年二十二三歳同じく 民江 年二十五六歳喫茶店藤村の主人 年四十五六歳喫茶店藤村の女房 年三十五六歳民江の母 年六十歳花費の爺 年六十歳種子の客武田(遊び人)年三十四五歳種子の客 A(會杜員)榮子の客寺田(時計職工)年二十四五歳民江の客 B(闇屋)年四十歳肴屋 年三十歳街頭音樂師 三人客 三四人通行人 三人其他第一場向島鳩の街喫茶店。藤村《ふちむら》店の場。平舞臺、向正面、洋酒サイダの罎を並べた棚。花瓶に花。飮物を出す小窓あり。壁には桃色に塗り裸體畫をかく。上手《かみて》二重。梯子段の上口。上框《あがりがまち》の下に客の靴。女の下駄草履二三足ぬぎすてゝある。續いて二枚立出入《にまいだてでいり》の障子。(この内帳場のつもり)下手《しもて》廣き窓と硝子戸の扉。(この外道路)平舞臺に椅子三四脚。テーブル。其上に草花の鉢。雜誌二三册置いてある。午前十時頃。 幕あくと喫茶店女房、 (年の頃三十五六。もとは玉の井にでもゐたらしい様子)洋装男ヅボン。手拭をかぶり、硝子戸出入口の外に焜爐を持出し煉炭に火をおこさうとして焚付《たきつけ》を燃《もや》し澁團扇であふいでゐる。 年六十ばかりの花賣の爺、切花を載せた小車を曳き下手より出て、花屋 お早うござい。花はいかゞです。女房 もう櫻が咲いたね。花屋 牡丹櫻。一枝いかゞです。女房 さうねえ。(ト店の中を見返り)店の花はまだ取替へなくツてもよささうだよ。明日《あした》にでもまた寄つて下さいよ。花屋 姉さん方の御部屋はどうでせう。女房 家《うち》の子はみんな寢坊だからまだ起きやしないよ。一巡りして歸りに寄つて御覽なさいよ。花屋 ぢやア後《あと》で寄りませう。ト上手に入る。此の家の主人、年四十五六。大島紬の一枚小袖。紺足袋。金紗絞《きんしやしほり》の兵兒帶をしめながら上手出入の障子より出て草履をはき、主人 おいおい烟いな。そこで焚付しちやア。蚊えぶしにやまだ早いよ。女房 窓を明けて下さいよ。風で吹込むんだよ。こんどの煉炭は濕《しめ》つてるせいか、なか/\燃えつかないんだよ。主人 まだ事務所から誰も呼びに來ないか。女房 誰も來ませんよ。また何か會議でもあるのかね。主人 滿洲から澤木の家《うち》へ遺骨が屆いたつて云ふはなしだからね。またお弔ひで何がしか取られるんだらう。鳥渡《ちよつと》行つて來るよ。女房 行つてお出《いで》なさい。ト主人出入口より去る。榮子(年二十二三)シユミーズ一枚。寢起《ねおき》の姿。タオルを持ち鼻歌をうたひながら梯子段を降り障子の中へ入る。と其後より種子(二十四五)長襦袢の前を引合せながら同じく梯子段を降り上框の下にしまつてある靴を出し、 種子 危《あぶな》くつてよ。あなたの兵隊靴だつたわね。種子の客(A)會杜員らしき風俗。梯子段を降り、客A いゝ半靴があるぢやアないか。間違へたふりではいて行くぜ。種子 これは民江さんのお客さまンだよ。客A さうか。(卜靴をはき)電車通へ出るのはどつちへ行くんだ。種子 右の方へ曲つてそれから眞直に行くと廣い通に出るわ。そこから少し行くとすぐに向島の都電の終點だわ。バスの停留場もあるわ。客A さうか。グツトバイ。種子 またきてね。待つてゐるわよ。ト窓から顏を出し接吻を送る。榮子タオルで手をふきながら默つて梯子段を上ると、すぐに民江(年二十五六)と其客(B)ジヤンバア鳥打帽。闇屋らしき風體。話しながら二階より降りて來る。 民江 ねえ。あなた。まだ話があるのよ。明日《あした》か明後日《あさつて》、來てくれるでせう。客B あしたア土曜日だなア。民江 お願があるのよ。實はけふ。母《おつか》さんが來るのよ。だから明日《あした》のお金《かね》。今日借《けふママ》して下さらない。みんなで無くつてもいゝのよ。半分でもいゝのよ。 客B あしたの晩。半分で泊らせるつていふんだね。民江 えゝ。後《あと》はわたしが都合するから。今日《けふ》五百圓でもいくらでも借して下さいよ。客B その代りこの次はお前が半分立替るんだな。そんなら借さう。ト折革包から百圓札五六枚民江に渡す。民江 すみません。ぢやア明日《あした》きつと入《し》らつしやいよ。氣をつけてね。ト客を送り出して二階へ上る。種子壁の鏡に向ひ化粧を直してゐる。民江の母(年六十ばかり)風呂敷に包んだ布團を背負ひ、片手に山の芋の束をさげ上手より出て、母 お早うございます。女房 おいでなさい。民ちやん。降りておいで。民江 だアれ。女房 母《おつか》ざんだよ。民江 はアい。(ト降りて來て)母《おつか》さん、御苦勞さま。この間の敷布團、もうできたの。重かつたでせう。母 電車の中で好加減《いゝかげん》苦勞したよ。お米でも隱してゐるんだらうツて二度も三度も調べられたよ。民江 さう。すまなかつたわね。母 それから長襦袢の方はね。お尻のところがすつかり弱つてるからね。裏地につぎでも當てなくつちや持たないかも知れないよ。民江 さう。つい此間《このあひだ》こしらへたばつかりなのにそんなに弱つてしまふものかね。母 お前、寢てからどうするんだねえ。よつぽど寢相《ねざう》が惡いんだね。わたしなんぞ寢卷《ねまき》は二年や三年縫直さないでもちやんとしてゐるんだがね。民江 ほゝほゝ。母《おつか》さんにやわかりやしないよ。なりたけ早く持つてきてよ。母 もう別に用はないかい。このお芋。少しばがりだけど、おかみさんに上げておくれ。女房 まアいつも/\お氣の毒だね。今お茶を入れるからゆつくりしておいでなさい。ト焜爐を下げて障子口へ入る。民江 ぢや母《おつか》さん。今日は千圓あげとくわ。母 さうかい。照子も來月から學校へ行くからね。民江 あゝ承知してるわよ。二三日中に都合するから。長襦袢成りたけ早くお願ひします。母 それぢやおかみさん。おやかましう御在ました。旦那にもよろしく。女房 アラもうお歸り。まだお茶も上げないのに。母 またお邪魔に上ります。(ト下手に入る)種子 いゝ母《おつか》さんだねえ。だけど民江さんも責任があるから大變ねえ。民江 子供と年寄があつちやいくら稼いでも追付かないよ。そこへ行くと種子さんも榮子さんもほんとに羨しいわ。好い人さへできれば、やめたい時やめられるんだからね。 種子 民江さん、あなた。どう思つて。私の武田さん。眞實私のことを心配してくれるのかしら。民江 大阪から歸つて來ると直ぐ一緒《いつしよ》になるんぢやないの。その爲に大阪まで行つたんでせう。種子 私にはさう言つて行つたんだけれど、あれつきり手紙も何も來ないのよ。二度も三度も私の方から手紙を出したんだけど、うむともスンとも返事がないのよ。私だまされたんぢやないかと思ふのよ。 民江 まさか。そんな事はないと思ふわ。あなた。武田さんには何のかのと隨分お金の立替もしたんでせう。種子 立石《たていし》の喫茶店にゐる時分からだからね。お泊りの會計ばつかしぢやないわ。この間大阪へ行く時も、歸つて來たらすぐ私と一緒になるんだから、その爲には大阪へ行つて叔父さんに頼んで、家《うち》だの店だのを借りて貰はなくつちやならない。さうするには纏つたお金が入《い》るつて云ふから。あたし。貯金したお金、一萬五千圓、ありつたけ渡してやつたのよ。 民江 あなたの方で、それほど實《じつ》を盡してゐるのなら、男の人だつて仇やおろそかに思ふ筈がないからさ。心配しないでも大丈夫だよ。種子 民江さん。もしか此れつきり逢へなかつたら、私もう一思《ひとおもひ》に死んでしまひたいわ。民江さん。笑はないでね。わたし今まで隨分裏切られたり欺されたりしたんだけど、私、あの人ばつかり、どうしても諦められないのよ。 (ト民江の方に寄掛つて泣沈む)民江 種ちやん。大丈夫だよ。あんまりやきもきしないで、待つてる方がいゝよ。ト種子を言慰めてゐる。主人歸つて來る。民江 お歸んなさい。主人 みんな病院へ出かけるやうだぜ。お前逹も今の中《うち》早く行つて來なよ。民江 はい。ト主人上手障子口に入る。種子 今日は診療日だつたのね。忘れてゐた。ト種子民江手を取合つて同じく障子口に入る。梯子段より榮子と其客寺田。(年廿四五。時計職工。色白おとなしやかな顔立。新しき作業服)梯子段より出て榮子半靴をそろへる。寺田 歸りたくないな。夕方まで遊んで行かうよ。榮子 今日はおかへんなさいよ。そんな事言はないでさ。今日は診察日なんだから。これから病院へ行くんだからさ。寺田 榮子さん。(ト椅子へ掛け)あの話、僕の安心するやうな、ちやんとした返事聞してくれゝばすぐ歸るよ。榮子 あら、もう知らないわ。わたし。昨夜《ゆうべ》あんなに委しく話をしたのに、あなた。まだそんな事言つてるの。知らないわよ。(わざとらしく怒つた調子)寺田 また怒るのか。榮ちやん。僕の氣持。どうして分らないんだらう。ト榮子を膝の上に抱寄せる。榮子 分つてるわよ。分つてるからさう言ふんぢやないの。無駄なお金つかはずに今日はお歸んなさいつて、さう言ふんぢやないの。私のことを思つてくれるのなら毎日遊んでゐないで勉強してよ。 寺田 ちやんと約束してくれゝば、僕の氣のすむやうにちやんと約束してくれゝば、僕は勉強するよ。工場だつて一日も休みやしないよ。榮ちやんが來ちやいけないつて言へば一月《ひとつき》でも二月《ふたつき》でも來ないで勉強するよ。だから榮ちやん。お願だからきつと一緒になるつて云ふ約束してよ。え。もし出來ないつて云ふなら、僕にわかるやうに一緒になれない理由《わけ》を打明けて話しておくれよ。榮ちやん。誰か外に約束した人があるのかい。それならさうと遠慮なしにさう言つてよ。僕どんなに悲しくつても諦めるからさ。 榮子 そんな人なんかないわよ。そんな人があつたらこんな商賣なんかしてゐられやしないわ。寺田 それなら約束してくれるね。僕のお願きつときいてくれるね。榮子 えゝ。ですからさ。もう暫く待つていらつしやいつて、私の方からお願してゐるんぢやないの。寺田 榮ちやんの暫くつて言ふのは一體いつの事なんだよ。約束した其時分になると、もう暫くもう暫くでのび/\になるんぢやないか。ほんとうなら、去年の暮にこの商賣をやめて、僕と一緒に今頃は樂しい家庭をつくつてゐる筈ぢやないか。それが正月になり二月になり、もう櫻の花もさいてしまつたぢやないか。 榮子 だから、私申譯がないつて、逢ふたんびに謝罪《あやま》つてるぢやありませんか。この夏までにはきつと約束したやうにするわ。その時にはあなたの方で待つてくれと言つても私の方では承知しないからいゝわ。兎に角そこまで一緒に行きませう。私仕度してくるから、待つてらつしやい。 ト障子口の方へ行きかける。民江と種子の二人各好みの洋裝にて出で、種子 昨夜《ゆうべ》は御馳走さまでした。民江 この煙草。貰つたのよ。一本上げませう。トハンドバッグから舶來煙草を出してやる。寺田 ありがたう。トライターを出して火をつけ民江の煙草にもつけてやる。種子 榮ちやん。一足先へ行くわよ。あんたの番取れたら取つて置くわ。榮子 お願します。ト民江種子正面出入口より外へ行く。榮子好みの洋服にて障子口より出てコンパクトにて顏を直しながら寺田に目くばせして默つて出て行く。寺田その後について同じく出て行く。女房障子口より出て椅子を片寄せ掃除にかゝる。花賣の爺手車を曳き上手より出て、花屋 先程はおやかましう。女房 今日は檢査日でみんな出掛けてしまつたよ。花屋 殘物《のこりもの》だから置いて行きませう。(ト薔薇の花を出す)女房 おぢさんいくら。花屋 いくらでもお思召《ぼしめし》で能《よ》うございます。ト店に入り古い花と入れかへる。女房 さうかい。ぢや五拾圓に負けといてよ。おぢさんとも古いお馴染《なじみ》だね。玉の井時分からだからね。花屋 燒かれた晩の事を思ひ出すと、夢のやうだね。あの時にやお互に、かうして話ができやうとは思はなかつたよ。女房 全くだよ。玉の井は今でも原つぱになつたまゝかね。花屋 ちらほら家《うち》は立ち初めたやうだがね。みんな堅氣の家《うち》ばかりのやうだよ。女房 さうかね。ぢやこの商賣もどうやら此處で落付くんだね。花屋 淺草から都電で往來《ゆきき》が出來るから先《せん》の場處より餘程《よツぽど》いゝやね。且那はやつばり事務所へお出かけかね。女房 何のかのと言ふ中《うち》、今ぢやこの土地でも古顏になつたもんでね。旦那 おぢさん。相變らず逹者だな。ト障子口より出る。花屋 旦那も逹者で何よりだよ。旦那 かう云ふ世の中になつちや、雨の漏らねえ處に寢て、白いお米がたべられりや、何よりの仕合《しあはせ》だ。一服すひなさい。(ト煙草を出す)花屋 全くだ。一本頂戴します。ト此中《このうち》榮子の客寺田上手より出で出入口に立ち、寺田 忘物をした。鏡臺の傍《そば》に置いた筈だ。新聞に包んであります。女房 さう。取つてくるから、お掛けなさい。ト女房二階へ上る。旦那は上手に花屋は下手に入る。寺田立つたまゝテーブルの上の新聞を取上げてよむ。女房|紙包《かみづゝみ》を持ち下りて来て、女房 寺田さんこれ?寺田 さうです。すみません。(ト紙包を受取り) おかみさん。榮子の歸つて來るまで待つてゐてもいいですか。女房 えゝ。お掛けなさい。だけど病院から髮結さんにまはつたら、 一時間やそこらちや歸れないかも知れませんよ。寺田 いゝですよ。待ちきれなかつたら歸るから。(ト椅子に腰をおろし)おかみさん。用がなれけば僕のはなし聞いてくれない? 僕いろ/\話したいことがあるんだよ。 女房 何です。寺田 榮子の事さ。榮子は眞實ほんとに、僕と一緒《いつしよ》になる氣があるんだらうか。ねえ、おかみさん。おかみさんはどう思つてる?女房 さアねえ。私にやよく分らないけど、榮子がさう言つたのなら、さうでせうよ。だけど寺田さん。家《うち》の子供の事を悪く言ひたくはないけど、寺田さん。あんたも出世前の身體《からだ》だからね。榮子に限らず、お客商賈をしてゐる女の言ふことは、あんまり眞面目《まじめ》になつて聞かない方がよござんすよ。 寺田 それは承知してゐるよ。然し僕どうしても諦められないんだよ。一月《ひとつき》でも二月《ふたつき》でもいいから。一緒になつて見たいんだよ。駄目かなア? 女房 私の口からは何ども言へませんよ。寺田さん。私なんかよりあなたの方が知つてるでせう。あの子はほんとに氣立のいゝ、惡氣のない、おとなしい子なのよ。だけど生れつき浮氣つぽい性《たち》でね。自分から好きこのんでこんな商賞してゐるんだからね。堅氣のおかみさんだの奥様なんぞには向かない人らしいのよ。だからね。さう向《むき》にならずに、時々遊びに來てかわいがつておやんなさいよ。それが一番無事だし、あの子もその方がどんなに嬉しいと思ふか知れませんよ。 寺田 さうかなア。ぢやアやつぱり諦めるより仕樣がないかなア。女房 あなたより外《ほか》にこれと云つて馴染《なじみ》のお客があると云ふ譯ぢやアないから、無理に急がないでも大丈夫ですよ。もしか外にお客でも出來て貴方《あなた》の言ふ事を聞かないやうだつたら其時は私が注意してやります。内《ない/\》々あなたに知らせて上げるよ。ですからね。月に二度なり三度なり細く長く遊ぶやうになさいよ。 寺田 ありがたう。ぢや今日《けふ》はおとなしく此儘かへらう。女房 さうなさい。榮子には私から能くさう言つて置きます。ト寺田萎れ返つて出て行くのを女房心配さうに窓から首を出して見送る。主人上手障子をあけ、主人 どうしたんだ。あのお客は氣でもちがつてるんぢやないか。女房 あゝ夢中にさせてしまつちや手がつけられない。榮子も好加減《いゝかげん》人を見てサービスすればいゝのに。主人 しやうがねえな。男も女も、此頃の若い者のすることは全くおれ達にやわからねえ。榮子も榮子だが、それよりか、おれは泣蟲の種子の方が心配だよ。お前、どう思つてる。大分男に入り上げてるやうだが、あの武田つていふのは何《なん》だい。筋《すぢ》のよくねえ、お尋者《たづねもの》ぢやあるめえな。氣をつけた方がいゝぜ。 女房 私も心配してゐたんだよ。内《ない/\》々さぐつて見やうよ。ト此時窓の外から肴屋《さかなや》の男大聲に、肴屋 配給があります。女房 あゝ。びつくりした。肴屋 鯖《さば》にほうぼう。比目魚《びらめ》の配給でありまアす。呼びながら入る。女房 毎日鯖と比日魚にや飽《あ》き/\するね。ほうぼうツて云ふのはどんな肴だらう。主人 赤くッて目の大きな、口のとんがつた肴だ。事務所の大澤見たやうな顔をしてゐる。鹽焼にすりやアまんざらでもねえよ。女房 へえ、さう。ぢや、ついでに野菜も買つて來るから。あなた。留守番して下さい。主人 うむ。ト女房買物籠を手にして出て行く。主人椅子にかけて新聞を讀んでゐると榮子歸つて來てすぐに二階へ上りかける。主人 おい。榮子。榮子 なアニ。主人 こゝへおいで。すこし聞きたいことがあるんだ。榮子 かアさん。居ないの?主人 お肴《さかな》買ひに行つたよ。すこし話があるんだ。お前の、アノ若いお客様。何て言ッたつけな……榮子 寺田さんのこと?主人 さう/\寺田さんよ。さつきお前と一緒《いつしよ》に出て行くと、まもなく一人戻つて來たよ。嚊《かゝあ》をつかまへて、どうしてもお前と一緒になりたいツて言ふんだ。榮子 アラさう。かアさん。何て返事をして?主人 榮子。あの寺田さんていふのは全く見たところから、おとなしさうな純情な青年だな。榮子 えゝ。さうよ。主人 榮子。お前、あの人と一緒になる氣はないのか。榮子 とうさん。ひやかしちや。いや。主人 おい。眞面日《まじめ》な話だよ。丁度誰もゐないし。今日はまじめな話をするんだ。おれだつて今ぢや、こんな商賞をしてゐるが、戰爭前には學校の教師をしてゐた事もあるんだからな。榮子。おれの言ふ事を能くきゝな。女は男とちがつてぢきに年を取つてしまふからな。好加減のところで見切をつけて行先一生の事を考へなくツちやいけないぜ。 榮子 えゝ。主人 お前。あのお客、きらひぢやないんだらう。榮子 えゝ。嫌ひぢやないわ。好きなのよ。だけど、わたし今から世帶の苦勞なんかしたくないのよ。とうさん。わたし、まだ二十二になつたばツかりですもの。もうすこし、もう暫くのあひだ、面白をかしく暮して見たいのよ。着物ももつとこさいたいし、それから (ト主人の手を握り)もつと獵奇的な、いろんな事して見たいのよ。主人 さうか。 (ト驚いてぢつと榮子の顔を見詰める)どんな事がして見たいんだ。榮子 とうさん。わたしの氣性知つてる癖《くせ》に。そんな事。明《あかる》いところで言へやしないわ。ね。とうさん。とうさんはかアさん位な年の女でなくツちや、面白くないんでせう。わたし見たやうなものは、いゝも、わるいも、てんで何《なんに》も分らない子供だと思つてるんでせう。 主人 仕樣のねえ女だな。お前にあつちや眞面《まじ》目《め》な話はできねえ。榮子 とうさん。かアさんのやうな三十女の愛慾ツて一體どんななの。ね、とうさん。わたし一度でいゝから、とうさんと浮氣してみたいわ。(ト抱ぎつく)主人 榮子。お前、ほん氣か。榮子 ほん氣だか、冗談だか、とうさん次第だわ。かアさんの歸つて來ない中よ。ト榮子突然主人の頬に接吻して上手に入る。主人頬邊の紅をふきながら、主人 町内で知らぬは亭主ばかりの反對で、家中で知らぬは女房ばつかりとでもしやれるかな。ト主人出入口へ氣をくばる。榮子早くもシユミーズ一枚になり半身を障子口より出して手招ぎする。双方の見得よろしく黒幕を引く。第二場後《うしろ》一面の黒幕。夜十時頃。上手袖際にハメ板の背景。「ぬけられます」と書きたる横板を見せ、門付のギタア段《だんたん》々近く聞えてくる。前の場の榮子、片手にドレスの裾をかゝげ、林檎をかじりながら、上手より出て下手に行きかけると、其客寺田同じく上手より後れて出て、 寺田 榮ちやん。(ト呼ぶ)榮子 アラ今夜駄目なのよ。濟まないわ。(トわざとらしく悲しい調子)寺田 いそがしいのか。榮子 えゝ。お泊り二人受けちまつたの。寺田 かまはないよ。僕一人で寢て行くからさ。今日。晝間から何だか、急に逢ひたくなつて、たまらなくなつたんだよ。榮子 こんな晩に上つたつてつまらないわ。お金捨てるやうなもんだから。明日《あした》の晩になさいよ。寺田 でも。このまゝぢや、歸れないなア。(ト未練らしい調子)榮子 ぢや、お店でお茶でも飮んで入らつしやいよ。種子さんも民江さんもまだ店にゐるから。暫くみんなと話でもして行くといゝわ。氣がまぎれるわ。寺田 種子さん。どうした。彼氏に捨てられたつて悲觀してゐたけど、どうした。榮子 あの人、何か言ふとすぐ悲觀して泣くのが癖なのよ。あの人見たやうに悲しいことばつかり考へてたら限《き》りがないわ。わたし煙草買ふのを忘れてゐたわ。ト喰べかけた林檎を寺田の口へ押付け、其手を取つて、下手に入る。素見《ひやかし》の若い者三人。摺れちがひに下手より出で、×× いゝ女だなア。○○ 知らねえのか。向角の藤村にゐる女よ。もう三年越の古狸だ。□□ 女は化物だな。ト上手より種子の客武田(年三十四五。にがみ走つた好い男ぶり。ジヤンバア)摺れちがひに下手へ行きかける。×× お、兄貴。どうした。暫く會はなかつたな。この頃はどこへ河岸をかへたんだ。あの兒が心配してゐるぜ。武田 あの兒ツてな誰だ。□□ 藤村の種坊よ。手紙を出しても返事もくれないツて。ふさぎ込んでゐるぜ。たまにや顏を見せてやんな。惡くすると、言問橋からどんぶりやらねえとも限らねえよ。 武田 まさか。そんな馬鹿な眞似もしねえだらうが、實はあの女にや持てあましてゐるんだ。×× 早く行つて嬉しがらせてやんな。□□ おれ逹はいつもの處でとぐろを卷いてゐるからな。武田 ぢや、後で逢はう。グツドバイ。ト捨臺詞《すてぜりふ》よろしく三人は上手に、武田は下手に入る。街頭唱歌師一、伴奏二人。流行唄(股旅物)を歌ひながら下手より出で舞臺好き處に立止り一曲歌ひ終る。ギタアの合方《あひかた》そのまゝ引流して上手に入る。黒幕を引取ると喫茶店藤村二階女逹部屋の場。第三場平舞臺。中央より上手にかけて狹き部屋二間あり。正面に各室とも出入の障子。上手袖際に窓。上手の方は種子の部屋。鏡臺、違棚、其上に硝子箱入の人形。電燈スタンド。壁のところどころに映盡女優の写眞。衣桁《いかう》に浴衣《ゆかた》、細帶、長襦袢。部屋の樣子何となく賑かに見ゆ。下手の方は名代部屋(空室)の體。疊んだ夜具の外何物をも置かず。此外狹き廊下を中にして下手袖際に二枚立の障子。此の内民江の部屋のつもり。廊下の奥物干臺。夜十時過。中央の室室に榮子の客寺田洋服の上着をぬぎ獨夜具に寄掛り小説をよんでゐる。上手の室に種子の客武田。夜具の上に胡坐《あくら》をかぎジヤンバアを着やうとしてゐる。その膝に種子寄りかゝり涙を拭いてゐる。 流しのギタア聞える。武田 たね子。まだ泣いてゐるのか。困《こま》るなア。おれの言ふことまだ分らないのか。種子 いゝえ。わかつてます。武田 わかつたらもう泣くなよ。何もこれつきり逢へないと言ふわけちやなし。今夜は泊つて行かないといふだけの話ぢやないか。種子 えゝ。もう泣きません。武田 ぢや機嫌よく笑顔をして返してくれ。なア種子。種子 あなた。ほんとに逢つてくれるわね。きつと此れつきりぢやないわね。わたし、何だか、これつきり逢へないやうな氣がして仕樣がないのよ。 (ト取縋つて男の胸の上に顏を押付ける) 武田 何を言ふんだな。お前とおれとは、昨日《きのふ》今日《けふ》の仲ぢやなし、何ぼおれが極《ごう》つく張《ばり》だつ てお前の親切を忘れちや濟まねえくらいの事は知つてゐらアな。さつき話をしたやうに、こゝのところ一寸の間辛抱してくれ。今までのやうにちよいちよい來られなくつても、月《つき》に二度め、三度どんな無理をしても、きつと逢ひに來るからな。やきもきせずと安心して待つてゐな。 種子 えゝ。わかりました。ほんとに來て下さるわねえ。武田 あゝ。きつと來る。ぢやアいゝね。今夜かへるぜ。笑つた顔を見せて返してくれ。種子 もう泣きません。泣いてやしないでせう。ト目をぱち/\させながら顏を差出す。武田靜に女の顎に手をかけ仰向かせぢつと見詰めながら、武田 かわい顏してゐやがるなア。男殺《をとこごろ》し奴《め》。(トわざと突放して立上り)風邪ひかねえやうに用心《ようじん》しな。陽氣がわるいから。種子 あなたもね……(ト堪《こら》へかねて覺えず涙を畷る)武田 四五日したら暇《ひま》を見てまた來《こ》やうや。種子 うれしいわ。きつとよ。お忘物なくつてね。ト種子ジヤンバアを着せかける。武田 ちよいと上野まで行つてくるんだ。千圓貸してくれ。車賃だよ。ト種子の懷中に手を突込み、札をポケツトに押込み、障子をあけて先に入る。種子後より送つて入ると榮子。浴衣。卷煙草を啣《くは》へながら下手より出で、障子をあけ、 榮子 今すぐ來るわね。あつちのお客もうぢき歸るから、もう暫く待つてゝね。寺田 あゝいゝよ。本讀んでるから。榮子 寢卷《ねまき》きかへてしまひなさいよ。ト疊んだ夜具を敷きかける。寺田 おれが敷くからいゝ。早く行つておいで。榮子 煙草置いてくわ。ト煙草|光《ひかり》の箱を投げやり障子をしめて下手へ入る。種子上手の部屋の障子をあけいぎなり夜具の上に倒れ枕の上に顔を押當てゝ忽び泣きに泣き沈む。寺田その聲を聞きつけ襖越しに耳をすましてゐる。新内の流し。蘭蝶をかたりかける。種子鏡豪の抽斗《ひきだし》から小さきビンに入れし藥と用箋とを出し書置《かきおき》をしたゝめ、簪の先にて粉藥を呑殘《のみのこし》の茶碗に入れ、ぢつとそれを眺めてゐる。この樣子を寺日初は襖の隙間より、やがて障子の破穴《やぶれあな》より見すまし、いきなり障子をあけ摺寄つて、 寺田 種子さん。お待ちなさい。その藥。どうするんです。種子 ア。これ。何でもないのよ。あの風《かぜ》の藥よ。寺田 僕、びつくりした。ほんとに風の藥ですか。種子 えゝ。さうよ。あなた。何だと思つたの。(ト淋し氣に微笑《ほゝゑ》む)寺田 そんならいゝけど、ほんとにびつくりした。種子 榮ちやん、もうぢき來てよ。寢て待つてらつしやい。わたしも風引いて心持が惡いから今夜は一人で寢るわ。寺田 ぢや二人とも一人で寢ることにしませう。ほんとに大丈夫ですか。種子 大丈夫よ。心配させてすまなかつたわね。寺田 雨が降つてきた。種子 アラ。しみ/゛\さむい晩ねえ。寺田 さむしいねえ。たまらない程さむしい氣がするねえ。寢やうたつて寢られやしない。種子さん。すこし話をしてもいゝだらう。種子 えゝ。いゝわ。寺田 たね子さん。僕、たね子さんの心持、僕にはよく分るよ。たね子さん。彼氏に別れて生きてゐてもつまらないと思つたんだらう。その心持、僕には能《よ》うく分るよ。僕いくら榮子のことを思つても、榮子は到底僕の心持を分つてくれる女ぢやないんだ。この間、こゝの家《うち》のおかみさんからも、榮子は僕見たやうなものゝ言ふことをきく女ぢやないつて忠告されたんだよ。僕の淋しい遣瀬のない心持、捨てられた男の心持、分つてくれるのは、種子さん、あなたばつかりだ。 ト寄添つて手を握る。種子 私の心持。同情して下さいね。寺田 種子さん。僕お願がある。聞いてくれないか。その藥。僕に分けて下さい。ト茶碗を取らうとする。種子 いけません。あなた。寺田 あなたの迷惑するやうな事決してしないから。種子 でも、あなた。寺田 こゝで、こゝの二階で呑みやしませんよ。人の知らない處へ行つて飮むから。お願だ。分けて下さい。種子 でも、わたし、そんな事……寺田 あなた。自分一人自由に死んでしまつて、あなたと同じ境遇、同じ心持の私には、さうさせないと云ふんですか。それは無情です。種子 寺田さん。あなたは男ですもの。若いんですもの。今死なないでも。まだ/\生きて行ける未來がありまずよ。私はあなたと違つて女だもの。こんな魔窟に落ちてしまつた女だもの。頼る人に裏切られてしまつたら、死ぬより外に仕様がないぢやありませんか。お願だわ。見ない振して私だけ死なしてよ。 ト寺田の膝に泣伏す。民江でつぷりした年輩の客の手を曳き、下手袖より出で、民江 あなた。こつちよ。お泊りできないの。雨が降つて來たちやないか。客 省線竜車のある中《うち》だ。お早く願ひますだ。お乘りの方はお早く、ぐつと奧の方へだよ。(ト醉つて抱きしめる)民江 知らないわよ。たまにやアゆつくりなさいよ。ト下手の部屋の障子をあけて入り疊んである夜具を敷き障子を締める。寺田種子をいたはり、寺田 種子さん。お互に知らない振をして、二人別々にその藥を呑まうよ。そんならいゝだらう。種子 あなたと私。こゝで一緒に死んだら心中したと思はれるでせうね。寺田 さう思はれてもかまはない。僕は却つて嬉しいよ。種子 若しかあなたが、私の彼氏だつたら……寺田 種子さんが若しか僕の榮子だつたら……種子 どんなに嬉しいでせうねえ。寺田 いくらさう思つても、駄目だ。さうなれないのが運命だ。仕樣がないよ。種子さん、一緒に死なうよ。種子 えゝ。あなた。寺田 もつと、しづかな暗い處へ行つて、しづうかに死なう。ト寺田藥を掴んでボケツトに入れ上手袖際の窓をあける。雨の音一際張く聞える。種子男の丹前をはおりスタンドの灯《あかり》を消し二人手を取合ひ窓の外へ姿をかくす。この前より民江の部屋の障子に民江の着物をぬぐ影。やがて民江の聲、 民江 アラ。もう眠ちまつたの。あなた。あなたア。榮子その客と二人下手より出で障子の影繪に心づき拔足《ぬきあし》して樣子を窺ふ體《てい》。雨の音またく烈しくなる。幕。
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