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三遊亭円朝 怪談乳房榎 九


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 さアどうだ。と我が子の胸へ|刃《やいば》を差しつけられたおきせは、しばし言葉もありませんでしたが、男と違いまして女は胸の狭いもんで、心に変な考えをつけたものか、
「それじゃアたった一度ですよ。」
「え、それでは得心なさるか、それは不思議、いえ、それはよい御分別じゃ。」
 と色よい返事を聞きました浪江は、ぞっこん惚れておるおきせが得心したから、すぐに首っ玉へでもかじりつきたく思いましたから、傍へ寄りますのを、
「まアあなたお待ちなさい、きっとあなたたった一度で。」
「よろしい、得心さえして下されば、拙者も武士の端くれ、二度とは申さぬ。」
「それでは花でも聞くと悪うございますから、お待ちあそばせ。」
 と前を掻き合せまして、おきせは立ち上がりまして、有明の行燈の灯を暗くいたしまして、そっと葭戸を開けて廊下へ出ますから、逃げられてはならぬと思いまして、裾のところをしっかり押えております。
「花はよく寝ておりますからこれで私も安心いたしました、あなた、きっと一度で。」
「よろしいと申したら。」
「本当にもう一度であきらめて下さいまし。」
 と嫌ではございますが、可愛い子供のためとついに枕を交しましたはあさましいことで、まことにこれが生涯を過ります初めで。さアこういう仲になりますと深くなるのがこの道で、浪江はなおなおおきせが恋しいから先生のお見舞い、またはつい御近所まで参ったからお訪ね申したの、なんかと用にかこつけましては参りまして、いろいろごまかしで、一泊を願うなどと泊り込みましては口説きます。おきせはまた嫌だといったら、この間のように真与太郎を刺し殺すなどと云いはせぬかと思いますから、一度が二度、二度が三度とたび重なります。
 さて、こうなりますとおかしなもので、初めのうちは嫌で嫌でならなかった浪江が少し可愛くなってまいるのがいわゆる悪縁で、この頃ではおきせもまんざら浪江が憎くなくなりました。なるほど浪江だってまんざらな男振りではございません。色こそ少し浅黒いが、鼻筋の通った、眼のぱっちりした、苦味ばしった、只今の役者ならトント左団次のようで、しまいには、
「あなた明晩もきっといらっしゃいよ、そのつもりでお花をよそへ使いにつかわしますから。」
 などとおきせの方からいうようになる。浪江は心中に思いますには、おきせとこういうわけになったものの、師匠が高田から画を描き上げて帰って来れば、それっきり逢うことができぬ、どうか帰って来ぬようにしたいものだと考えましたが、元より大胆の浪江でございますから、ふと悪心が起こりまして、これはいっそ重信を亡きものにして、おきせと天下晴れて楽しもうというので、五月も過ぎまして六月になりましたある日のことでございましたが、浪江は黒の紗の五|所紋《ところもん》の羽織に、何か縮みの|帷子《かたびら》を着まして、細身の大小、菓子折りを風呂敷へ包んで提げまして、暑いなかを高田の砂利場村の大鏡山南蔵院へやって参りました。あの寺は御案内の通り|八門寺《やつもんでら》と申しまして、上様がお鷹野におなりのござりました時、お|拳《こぶし》の鷹がそれてこの寺内へ入ったという、名高い旧幕様の頃にはやかましい寺でございましたが、浪江は折りを提げて玄関へ参りまして、
「お頼み申す、たのむー。」
 と案内をいたしますと、奥から十二、三になります小坊主が取次ぎに出まして、
「へいどちらからおいでで。」
「手前はせんだってより御当山へおいでになっておる、菱川重信の門人磯貝浪江と申すもので、師匠の見舞いにまいったので、どうかお取次ぎを願いたい。」
 と|慇懃《いんぎん》に述べます。小坊主は、
「はい。」
 と云って奥へ入りましたが、引き違えて出て参ったのは重信のところの下男で正介と申す当年五十一になる正直もので、
「やア、こりゃア誰かと思ったら浪江様、まアよく訪ねてござらしゃった、さアこちらへ。」
「いや正介どのか、まことに御無沙汰を、とうにも伺わんければならぬのじゃが、つい何やかや繁多で存外御疎遠をいたした、先生はお変りはないかな、まことに今日も暑いな。」
「いや途中はさぞお暑かったろう、この寺なんどはだだっ広いから風はえらく入るが、それでせえ暑っくるしい、まアよく訪ねておいでなすっただ、さアこちらへ、今しがたも先生様がお前様の噂あしておいでだった。」
「それでは御免。」
 と玄関の脇の方から上がりました浪江、|天地金《てんちきん》の|平骨《ひらぼね》の扇へ何か画が書いてあるのを取り出しまして、暑いから煽いでいる。
「さアずっとこちらへ、奥の方が涼しい、あっちへおいでなさい。」
「それでは御免を蒙って奥へ。」
 とくだんの包みを持ちまして座敷へ通ります。
「旦那様、浪江様がおいでなさいました。」
 と、立ち出でました重信、
「よーうこれは珍しい、よくまアこの暑きに、え歩行でおいでで……それはよくお訪ね下された。」
「これは先生、まことにはや御無沙汰を、とくにも伺わんければ相成りませんが、ついこの暑さで、いえ暑いと申してはすみませんが、まことにはや。」
 と菓子の折りを包みました包みを出しまして、
「正介どん、これはまことに軽少だが、先生へ。」
「へえ、これはなんでございますか。」
 と解きまして中から折りを出します。
「いえ、召し上がるような品ではございませんが、先生は|下戸《げこ》でいらっしゃるから、|金玉糖《きんぎよくとう》を詰めて腐らんようにいたして持って参りました、どうか召し上って。」
 と折りを出しました。

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