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三遊亭円朝 怪談乳房榎 十六

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amizako

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十六

「浪江からくれた|肴《さかな》はなかなか新しいな、どうじゃ正介、きさまはいつも飲める口じゃアないか、一つ相手をいたしてくれ。」
 と出しますが、正介は今にも浪江が出て殺すだろうと思いますと、なかなか酒を飲むどころではございませんから、
「ありがとうごぜえますが、なんだか今夜胸が苦しゅうごぜえますからよしにしべい、あんたもう沢山上がれ、もう上がり仕舞だから、なにさ先生様、わしい長い間あんたのとけえ奉公ぶって、今年で九年になるだア、まことにこれまで御恩になって、やれ正介、それ正介とやれこれいって下すったことを考えると、わしい涙がこぼれてなんねえ。」
「これこれ何を感じてさようなことを申すのじゃか知らんが、そんなことはよい、申さずとよい。」
「それでも、お前さまが息のある、なにさ、いきますべい寺へ。」
「おゝ帰れと申すのか、なるほど.今日は昼間から蒸し蒸しいたして暑かったのは、空へ雨を持っておるからであろう。」
 と空を見上げまして、
「おゝだいぶ空合いが悪くなって参った、降らぬうちに帰宅いたそうかな。」
「帰らっしゃるがええ、雨が降ると、ここらは辷って歩けねえから早く行きましょう、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」
「えゝ、また念仏を唱えるよ、変なやつじゃな。」
 と支度をいたします。正介は喰い散らしました折りなどの蓋をいたして持ってゆくつもりと見えますから、
「こりゃこりゃ折りなどはそこへ捨てて参ってもよい、もう中には何もありはしない、段通をはたいて、泥がつぎはいたさぬか、あゝ雲もだいぶ途切れて、おゝ、月が顔を出したな、これでは降らんかも知れぬ。」
 重信はあまりふだんは酒を飲まぬお人でごさいますが、正介が相手をしませんから、手酌でやって思いのほか酔いましたから、一歩は高く、一歩は低く、ひょろひょろしながら、
「あゝよい心持じゃ、えゝい。」
 と田島橋を渡りまして、なだれに参ると小坂が、こざります。この傍らは一面の藪で|薄《すすき》がところどころに交っておりますが、まだ時候が早いから穂が出ませんで、|櫟林《くのぎぼやし》が片側で、夏草が茂っており、いろいろな虫が啼き連れて物凄うござります。正介はかの浪江がここらに隠れているかと思うと足が進みません。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、」
 と口のうちで念仏を唱えております。
「これ正介、早く来んか、えゝい、とかくそちは遅れるの。」
「へい足が痛えから歩けましねえ、旦那様、あんたは先だ、正介は供だから後だ、聞違えちゃアなんねえよ。」
「何をつまらんことを申す。」
「先生は先で正介は後だよ。」
「あれまたさようなことを、変なやつじゃ、今夜はどうかいたしておる様子じゃ。」
 と行き過ぎます。
 かねて藪の茂みに忍んでおった磯貝浪江は、遣り過した重信を目がけ竹槍をもって突かけました。重信は太股を突かれましたが、さすがは神影流の名人でございますから、うんと云いざま尻餅をつきながらに、腰の脇差をすらりと抜きまして、
「おのれ狼藉、何者じゃ、姓名も名乗らずに卑怯なやつめ。」
 と正眼にぴたりとつけました。こちらは手早く竹槍を捨てまして、一刀を引き抜き、振り上げは振り上げましたが、正眼につけられたので、打ち込むべぎ隙がございませんから、あっとうろうろいたし|躊躇《ためろ》うております。重信は手負いながら、
「正介、正介はどこにおる、助太刀をいたさぬか。」
「こりゃ正介、手伝え手伝え。」
 と息を切らして申します。困ったのは正介で、
「へい……」
「狼藉者じゃ、正介助太刀いたせ。」
「正介、約束じゃ、手伝え。」
 と困りましたが、浪江は手拭をもって面体を隠しておりますが、正介の方を正面に向いておりますから、睨みつけておりました。重信は後ろ向きでございますから見えません。正介は浪江が睨んでいますから、もし手伝わなかったら、後でどんな目に逢うか知れないと思いますから、正直者ゆえ、大恩受けた御主人ですまないが、仕方がないと観念いたしまして、目を塞いで木刀を振り上げ、後ろから重信の頭を一生懸命に、
「御免なせえ、許して下せえ.」
 と無暗殴りというやつに打ちましたから、重信は後ろに敵がないと思ったところを不意に打たれましたゆえ、
「おのれは正介か、うんおのれは。」
 と振向くところを浪江は重信の足を払いました。あっとよろめく重信をのっかかって横手なぐりに|肋骨《あばら》から腰の|番《つがい》にかけまして深く切り込みましたので、うんと俯伏せに倒れ、虚空を掴んで、
「うむ……。」
「きさまは早く逃げて帰れ、かねて申し含めた通りにいたせ。」
「浪江さま、やらしったね。」
 とぶるぶる震えております。
「もうこれでよい、早く早く早く。」
 とせぎ立てられました正介は、これで年が明けたと思いますから、弁当箱も|瓢箪《ひようたん》もそこらへ落しまして、足にまかして逃げたの逃げないのではございません。とうとう南蔵院の一町半ばかり先まで逃げて行きましたが心づいたからまた後へ帰り、締っております門を破るほどに叩きました。

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