|新しいページ|検索|ページ一覧|RSS|@ウィキご利用ガイド | 管理者にお問合せ
|ログイン|

三遊亭円朝 怪談乳房榎 十七

十七

 |毀《こわ》れるように門を叩きますから、何事かと思いまして、|所化《しよけ》と小坊主が眼をこすりこすり|閂《かんぬき》を外しまして潜りのところの扉を開けて、
「誰だえ。」
「わしだよ、正介でごぜえます。」
「なに、正介さんか。」
 と正介は飛び込むようにうちへ入りまして息を切って、
「|随連《ずいれん》様か、大変だよ大変だよ。」
「これ正介どん、大変とは何ごとだえ。」
「正介どん、お前草履を手に持って、それ方々が泥だらけだ。」
「いや泥だらけなんぞは構いましねえ、大変……たゝ大変、先生様が道で狼藉に出逢って、こ……。」
 と口がきけませんほど息を切りました。
「もし水を一ぺえ下せえ。」
「今あげるが、何だ先生が道で狼藉者に出逢ったって。」
「さア水をお上り。」
「えゝありがてえ、狼藉者が道に出逢って殺された先生を。」
「なにをそんなにせき込んで……冗談をいうのだよ。」
「冗談どころか、先生様が殺されたア。」
「それが冗談だ、まア気を落ち着けていなさい、ふだん先生がよくおっしゃったっけが、正介は正直名で|影日向《かげひなた》なく働いてよいがあいつその代りに酒を飲むと、主人も家来も見境いのなくなるには困るとおっしゃったが、お前たいそう今夜は酔っているね。」
「酔っぱらっていると見えて、正介どん、お前の顔が青くなっているよ。」
「お前喧嘩でもして来たのかえ。」
「イヤおれじゃアねえ、先生と狼藉者と……斬り台って、落合の田島橋のなだれで。」
「それがさっぱり分らない.先生はもうとうにお帰りになって、本堂で夜なべをしておいでだ。」
「え……先生様が帰ったって、そんな嘘をいっちゃアいかねえ。」
「なに嘘をいうものか、それだからお前のいうことが変なのだ。」
「えゝたまげたね、先生様が本当に。」
「疑るなら本堂へ行って見なさい。」
「え、それじゃアほんとうに、早えな、もう化けて来たか、あゝ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」
 と手を合せまして念仏を唱えております。所化も変なあんばいでございますから、正介を伴いまして、
「まアここから見なさい。」
 と云われました正介はぞっといたしましたが、もしやおれが眼をねぶって先生の後ろから夢中でぶったから、間遼えて浪江様をぶって、あの場でぶち殺しでもしたか知らん、そうならばありがたいが、どうぞ先生が助かってござればよいが、しかし浪江さんがわたしへこれこれ頼みました、と訳をお話し申したらすぐにお|暇《いとま》になるだろう、どっちにしても、あゝとんだことをやらかした。と所化の|随連《ずいれん》が見ろと申しますから、|怖々《こわごわ》ながら入り側のところから本堂の方を覗きますと、重信はいつものように障子|屏風《びようぶ》を立て廻しまして蝋燭をかんかんと照し中腰になって筆を持ち、何か書いております影が映りますから、えゝ、正介は驚いた、歯の根も合わず、びっくりいたしたから声も出ません。
「あれ屏風へ影が映るではないか、先生はいつものように昼は気が散っていかん、精神をこめるには夜がよいとおっしゃってあの通り、それを道で狼藉者に出逢って殺されたなんかと……つまらないことを云ってはいかん、人をばかにした。」
 正介はあまり不思議でなりませんから、ぶるぶる慄えながら、いわゆる怖いもの見たさで、障子屏風へ指の先へ唾をつけて穴を開けまして……中を覗いて見ますと、今菱川重信という落歎を描きおわりまして、筆を傍らへ置き、印をうんと力を入れて押した様子、正介は重信の姿を見ますとどことなく痩せ枯れて物凄いからがたがた慄えて……重信は印を右の手に持ちながら、こっちを振り向きまして、
「正介、何を覗く。」
 といった時の一声はなんとなく響き渡って、正介が|腸《はらわた》へ沁みわたりますから、「あっ。」と云ってそこへどさり倒れました。
 この途端にかんかんいたしておった蟷燭の|灯《あかり》は、一陣の風につれまして、ふっと消え真暗がりになり、正介が倒れましたから、所化の随連も小坊主もびっくりしまして我知らず大声を上げたので、何事が始まったかと和尚様も寺男も飛んで参って見ますと、正介はぶっ倒れておる様子で、所化も小坊主も呆気にとられておりますから、まず正介を抱き起こして介抱し、どうしたのだと聞きますので、正介は重信が落合の田島橋で狼藉者のために非業の最期を遂げたことを言葉短く告げましたから、和尚様を初め聞きおった人たちはびっくりいたしましたが、重信は本堂にさっき帰って来て夜なべをしておると聞いておりますから、なにしろ早く本堂へ行って見るがよいと、|手燭雪洞《てしよくぼんぼり》などを持って行って見ますと、今までありあり姿の見えました重信が形は消えておるが、昨日まで描き残してできずに船った雌竜の右の手が見事に描き上って、しかも落欸まで据わって、まだまだ生ま生まといたして印の朱肉も乾かず竜の画も隈取りの墨が手につくように濡れておりますのは、まさしく今書いたのに違いありませんから、お住持を初め一同驚きまして、しばし言葉も途切れますほどで、皆々溜息をついておりました。


メニュー

更新履歴
取得中です。