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浜尾四郎「不幸な人達」


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浜尾四郎「不幸な人達」
「しかしそりゃ頭脳や教養の問題ではありませんよ。体力、もしくは体質の問題です。どんな偉い人だって、どんな頭のいい人だって、そんなことは関係ないはずです。分かりきった話じゃありませんか」
「汐山《しおやま》さん、あなたご自身はどうなの」
「ぼくですか。だからいままで申したでしょう。慣れてしまって充分効かなくなっちゃったんですが、でも極量の○・五グラムだけ嚥《の》めば本当に熟睡します」
「でも、あなたを標準になさることはないわ。わたし頭がそんなに単純じゃないんですもの」
 澄子《すみこ》はぴしゃりと一言、叩《たた》きつけるように言い切ったのであった。
 場所は大道寺《だいどうじ》伯爵家の大広間、シャンデリアの美しく輝く下で夢のようなワルツを踏む幾組みかの若い男女を傍らに眺めながら、広間の片隅の ストーブの前で場所に似合わしくない話題が弾んでいる。若い作家の汐山|広次《ひろじ》は伯爵令嬢澄子とシャンペンのグラスを隔てて、妙な興奮した気持ち で睨《にら》み合わなければならなかった。
 まったくそれは場所に似合わしくない話題だった。けれどその話題を初め提供したのは澄子だったのである。
「わたしこのごろどういうものか、よく眠れないんですの。たまに眠れてもすぐ目が覚めてしまうのよ」
 澄子にすれば、これは大した意味を持って言ったのではなかったかもしれない。しかし、若くして美しいかの女を繞《めぐ》る青年たちは黙ってこれを聞き逃 さなかった。聞き逃すのは失礼だと考えた。否、こんなことにも、かの女をいつも気にかけているということが示したかったのである。
 外務省に勤めている吉川《よしかわ》という若い法学士が、すぐに言った。
「そりゃ何か理由があるでしょう。ねえ、澄子さん、何かこう言われぬ悩みがこのごろおありになるんでしょう」
「あら、そういうわけじゃないけれど……」
 話はいたって気軽に進んでいきそうだった。
 ところで、澄子の不眠症をいちばん真面目《まじめ》に考えた汐山広次の言葉が妙にこの話をこじらしてしまったのだった。
「××××という劇薬をご存じですか。○・五以上嚥むと生命に危険が来るのです。しかしそれ以下なら、絶対に大丈夫です。そうして立派に睡眠剤の役をするんです。用いてごらんになったらいかがですか」
「まあ、薬なんかでわたし眠れるものですか」
 澄子が妙に嘲笑的《ちようしようてき》に言った。汐山は勢い、自分の言ったことを支持せずにはいられなくなった。
 はっきり言えば、汐山は澄子に密《ひそ》かに熱烈に恋をしていた。そうして澄子のほうでも、汐山を嫌っているようには見えなかったのである。その澄子からほかの人々のいる前で、こうあっさりと言い切られてはかれも黙ってはいられなかったのだ。
 恋をしているかれは、あくまでも妙な意地で自分の経験を述べはじめた。
 しかし、どういうわけか澄子は折れなかった。そうしてしまいには、
「それは頭脳の問題だわよ。何も考えない暢気《のんき》な人間なら薬も効くでしょうよ。だけど教養のある人間にそうたやすく薬が効くということは考えられないわ。ねえ、吉川さん」
 と言いながら、吉川のほうに優しく笑ってみせたのである。
 澄子の言っていることはまったく理屈になっていない。澄子だとてそれが分からぬほど愚かな女ではなかった。だから冷静な傍観者には、澄子が好意をもって いる汐山に対してただ理屈の遊びをしていることがよく分かっているはずである。かの女は純真な汐山広次を相手にして、自分ではっきり意識はしないでも恋愛 遊戯をやっていたのであった。
 けれど、こうした遊戯がときとして恐ろしい結果を招く場合があることを、われわれは知らなければならない。
 呼びかけられた吉川法学士は、ばかばかしいという気持ちを隠して巧みに笑ってごまかしながらワルツの群れにと去っていった。
 広次はしかし真面目だった。かれは遊戯をしていなかった。ほかの人の前で自分の経験を、一言もなくやっつけられたと感じた。
 だからかれは、いまは引くにも引かれずあくまでも自分の説を主張した。
「わたし、頭がそんなに単純じゃないんですもの」
 という澄子のひと言は、真っ向からかれを辱めたように身に沁《し》みて感じられた。
「澄子さん、そりゃぼくは単純かもしれません、が、ぼくは自分ばかりを標準にして言ってるんじゃありませんよ」
「そう? じゃだれなの標準人物は?」
 かの女はこう言って晴れやかに笑った。標準人物という言葉をわれながら面白く感じているようだった。
「××××という薬は人を殺すことができるんですよ。自殺だってできるのです。偉い偉くないは問題じゃありませんよ。たとえば……カントだってショパンだってあれを一グラム以上嚥めば……」
「ショパン? まあ汐山さん、あなた素敵な知己があるのね」
 かの女は高らかに笑った。広次が何か言おうとしたとき、ちょうど浜島《はまじま》という医学士がかの女をワルツに勧めるためにやって来たので、かの女は浜島に腕を貸しながら立ってしまった。
 広次はまったく憂鬱《ゆううつ》だった。かれは明らかに澄子に辱められた。馬鹿にされた、と感じた。
{そうだ、黙って帰ろう)
 かれはだれの目にもつかぬように玄関のほうに出ていった。
 玄関の所で帽子と外套《がいとう》を受け取った。外套を自分で着て、ステッキを探してもらっている間に手袋を取り出そうとしてかれは外套の右ポケットに手を突っ込んだ。かれはそこでガラスの瓶に手が触れると、はっと思った。
 さっき行きつけの薬局に行ったので、自分の睡眠剤を貰《もら》ってきたのだ。長い年月のことなので、広次は薬局から絶対の信用を持たれている。いまポケットの中には二〇グラム入りの劇薬××××の瓶がそのまま入っているのだ。
 ゆうべでちょうどなくなってしまったのでかれは今日、大道寺伯邸へ来る前に薬局へ寄ったのである。
 かれがはっとした様子を見せたのは一瞬間だった。何事か思いついたとみえ、かれは素早くその瓶をズボンのポケットに突っ込むと、そこの壁にかかっている時計を見ながら、
「おや、まだ早いんですね。なに、ぼくの時計が違っていたんで帰ろうと思ったんです。またホールへ戻りますから……」
 とそこの書生に言うと、ふたたび外套と帽子を置いてホールのほうへ歩みを移したのだった。
「よし、黙って嚥ませてみよう。きっと効くに違いないんだ。澄子さんがぐっすり寝たらあした来て、昨夜はどうでしたかって訊《き》いてやるんだ。眠れたと答えたらしめたものだぞ。おれの薬を見せてあの鼻っ柱を折ってやるんだ」
 恋する男は妙な意地を持つものである。
 かれはあくまでも実験をして、澄子を閉口させる気なのだ。
 むろん、薬の量を計る秤《はかり》はそこにはなかった。
 しかし、毎晩自ら計りつけているかれは、粉末になった××××の○・五グラムという量は目分量で正しく分かるのである。
 広次はホールに戻る前、密かに手洗所に行った。
 人に見られぬようにしなければならぬ。広次は固く包装されたガラス瓶の口を開ける方法を見いだせなかったので、いきなり手洗場の金具に瓶の口をぶっつけて壊した。そうして、鼻紙を出して正に○・四と思われる量だけをそっと包み、あとは素早くポケットに戻した。
(酒がいい。そうだ、シャンペンかカクテルに混ぜて嚥ましてやろう)
 広次はそう思いながら、また明るいホールに現れた。
240
 ストーブの前には踊り疲れたとみえて、数名の男女がいた。澄子もいた。吉川もいた。
 広次が戻ってきたのを見て吉川が快活に話しかけた。
「汐山くん、どうしたんだい。怒ったんじゃないかって澄子さんがご心配だったぜ。実はいまぼくからも××××という劇薬のことを説明したんだよ。ぼくも実 はいつも眠れんので××××を○・五ずつ嚥んでるんだ。ぼくみたいにどこで泊まるか分からない男は、いつも懐にそれを入れてるのさ。このポケットにちゃん とあるんだよ」
「まったくよ、吉川さん、今日はどこでお泊まりになるの。ほんとに吉川さんくらい不良性をはっきり見せていばっているのも面白いわね」
 若い佐藤春子《さとうはるこ》という夫人がからかったので、みなまたどっと笑ってしまった。
「なんだ、きみも用いているのか、じゃ効き目は充分知ってるはずだね。澄子さん、吉川くんも言ったとおりです。そりゃ効くんですよ。ただ量をちょっとでも間違えると大変なんです。かりにぼくがあなたを殺そうと思えば……」
「まあ、わたしあなたに殺されれば本望よ」
 澄子は充分な媚《こび》をたたえながら広次を睨むと、ほほほほと笑った。
 劇薬の話は間もなく終わった。
 ふたたびみな踊りはじめたのである。
 機会は容易に来なかった。
 しかし、ついに来た。
 広次はだれにも気づかれずに、澄子が持つであろうグラスの中に巧みに××××の粉末を落とし込んだ。
 澄子はふたたび休みになったとき、何も知らずに飲み干したのだった。
 もうかなり夜は更けていた。
 客は各自、手厚い今夜の待遇を感謝しながら伯爵邸を辞しはじめた。汐山広次は澄子に別れを告げると、寒い冬の夜道を家路に着いたのである。
 かれの住居《すまい》というのは兄の家だった。
 広次が帰ったときは兄夫婦はもう眠っていた。
 自分の部屋に入って、外套を脱ぎ捨てて机の前に坐《すわ》ったとき、さっきからなんともいえず自分について回っていた不安がはっきりと頭に上った。
 澄子に薬を嚥ませて伯爵邸を出たとき、広次はうまくやったぞと感じてなんとも言いようのない満足に浸っていた。
 けれど、道の二町も行かないうちにかれは妙な不安に襲われはじめた。
 もしや、もしや間違って?  いや、断じてそんなことはない。
 かれは家に帰りつくまでこんな自問自答を繰り返していた。
 が、家人の寝静まっている静かな家に戻って、侘《わび》しい寒い自分の部屋の机の前に一人黙って坐っていると、急にその不安がはっきりと頭に上ってきた。
 もしや? もしや分量が違ってはいなかったか? あの薬は少しでも多ければ生命に危険を来すのだが――そんなはずはない。毎晩自分で計っているおれの目 に、ちょっとだって間違いはないはずだ。この目に狂いは断じてないはずだが――しかし、あれはいつもとは違うそ、部屋の中で落ち着いて計ったのではなかっ たぞ。人に見られはしないかと、あの手洗所の隅で慌ててやった仕事ではなかったか。とすれば、狂いがなかったと言えるか。もし極量の○・五を越していた ら?……もし一グラムも嚥ませたのだったら? まして相手は男ではない……。
 断じてそんなことがあるわけのものではない。
 広次は無理に自分に言い切って安心しようとした。
 遠く省線の電車が走っているらしい音が聞こえる。
 もう一時過ぎだ。
(寝よう)
 かれはそう思って、劇薬××××の瓶をポケットから取り出した。
 薬瓶を手に取るとまたしても新しく襲う不安、そして説明しがたき戦慄《せんりつ》!
 もし聞違っていたらどうなるのだ!
 澄子は死んでしまうのだぞ、そしてその下手人は? 下手入、はこのおれだ!
 かれは辺りが急に暗くなったような気がした。
 暗闇《くらやみ》の中にかれは何物かを求めた。そうだ、残った薬を全部計ったら分かる! 救われた! かれはそう思って瓶の中の粉末を全部、傍らの新聞紙の上に空けた。
 震える手で秤を持った。息を詰めながら、そっと計っていった。
 足りない! 四グラム完全に足りない!
 かれは部屋じゅうのものがぐるぐる回りはじめたように思った。
 しかし、おおそうだ、おれはまだ大丈夫だぞ、あの時手洗所で瓶の口を壊したとき、確かに粉末が外にこぼれたのをおれは見たぞ。手洗いの所に白い粉がたくさん落ちたではないか。いやそればかりではない。ズボンのポケットにだってこぼれているに違いない。
 かれはいきなりズボンを脱いだ。そして丁寧にその右のポケットを新聞紙の上で裏返してみたのである。
 あった、そこには白い粉がいっぱいついているではないか。
 おれは救われた! 広次は思わず大声で叫んだ。
 一グラムある。確かに。――しかし二〇グラムになるには三グラム確かに足りない。
 あの時だ、あれに違いない、手洗所にニグラム以上落としたのだ、そうに違いない。
 広次はぼんやりとして、しばらく天井を見詰めていた。
 いくら考えてももう追っつかない、すべては運命に任せよう。かれは震える手で薬を計りながら、いつも就床するときに嚥むだけの粉末を秤にかけ、手早く水でひと息に飲み干した。
 三十分も経《た》たぬうちにいつもは眠りが襲ってくるのに、瓜ユ佼はどうしたのだ。
 眠られないばかりではない、だんだん目は冴《さ》えてくるばかりだ。
 あの薬を溶かし込んだグラス、つづいて異様な媚を含んだ澄子の目。白い粉末、手洗所の白い水出しの栓!
 これらがかれの目から離れない。
 あの時、落とした粉末がニグラム以上あったかしら。広次はまたしても考える。
 そうだ、そうに違いない。
 しかしもしや? もしそうでなかったら? 広次の頭は同じ所をぐるぐると回っていた。
 あの狼狽《ろうばい》していたときだ。間違いがなかったとは言えない。もし多かったら?
 澄子は死ぬかもしれない。いや、死ぬに決まっている。おれはどうなるのだ。おれは?
 かの女の死体が解剖されて身体《からだ》から劇薬××××が発見されたら、だれに嫌疑がかかるのだ。
 同じ円の周りをぐるぐる回っていた広次の考えの中心は、だんだんと知らぬ間に移っていた。
 円の中心にはもはや、もしや、はなかった。かれのぐるぐる回っていた円の中心には、紛れもなく澄子の惨殺死体が横たわっていた。
(かりにぼくがあなたを殺そうとすれば……)
 ああ絶望。あの時こう言ったおれの言葉を、吉川はじめいろいろの人が聞いていたはずだ。おおなんという愚かな言葉だったろう。このおれは、なんという馬鹿者だったろう。
 それに今夜、あんな所ぺあんな薬を持っていった人間は調べればすぐにばれるに違いない。おおそうだ、吉川も持っていると言って笑っていた。しかし、あんなに気軽に大っぴらに言い切ったかれに嫌疑がかかるはずはない。
 捕まればおれだ。おれだ。おれが捕まる。おれが人殺しだからだ。
 闇の中でかれはもがき回った。
 悩めば悩むだけ、苦しみは増していった。
 夜じゅうかれは手洗所にこぼれた白い粉、青褪《あおざ》めて倒れている澄子の顔、警察、これらのものの幻影に代わるがわる襲われていた。けれど苦しみの果てに疲れがきた。夢魔に悩まされながらもかれは眠った。そうして、目覚めたのは翌日の昼過ぎであった。
 広次は目を開くと同時に時計を見た。
 かれは飛び起きるとすぐ近所の酒屋に駆けつけた。いつもそこで電話を借りるのだった。
何よりもまず、大道寺家の様子を知る必要があった。
 酒屋の小僧は青褪めた汐山広次が、なんとも言えぬ苛立《いらだ》たしい様子で五度も六度も話し中と断られて受話器を置くのを、不思議そうに眺めていた。
 三十分ほど立てつづけに掛けてみたけれど、先は話し中でどうしても出てこない。
 明らかに何事か起こったのだ。
 このうえは行ってみるよりほかに手段はない。
 広次はそのまま引き返すと、着物を着替えて憑《つ》かれた人のように走りだした。
 ちょうど流してきた円タクを慌てて呼び止めた。大道寺伯の家までかれの所からかなり離れていた。五十銭と値をつけたかれを冷笑して車は走り去ろうとし た。こんな場合に、こっちから折れて、では、と乗るかれではなかった。しかしいまは一刻を争うのだ。広次はべつだん屈辱とも思わず、あらためて一円の約束 で自動車に飛び乗った。
 大道寺家には確かに何か起こっていた。立派な自動車が二台門の所に停《と》まっているくせに、玄関には一人も人がいなかった。それに沢山の靴がそこに揃《そろ》えられてあった。
 広次は案内も乞《こ》わず――たとえかれが案内を求めても、だれも出てきそうもなかった――いきなり玄関に上がった。そうして勝手を知っているホールのほうへ進もうとした。
 ちょうどその時だった。
 昨夜ダンスをしにきていた浜島医学士が青い顔をしながら、奥から出てきた。
「おお、汐山くん、だれに聞いたのだ?」
「え?」
「何も知らない? 知らずに来たのか? おい、汐山くん、大変なんだ。澄子さんが劇薬を嚥んだんだよ」
「……そ、それで、生命は?」
 広次はようやくこれだけ死物狂いで口に出した。
「危ないんだ、いや駄目だろう。いま帝大のM博士とS博士が見えているがね、ぜんぜんだめらしいのだ。ぼくも助手としていままで側《そば》に行っていたん だが、なにぶん心臓が平素から弱いらしいんで難しそうだよ。ぼくはいつもM博士の下で働いているのでよく先生の顔色を知ってるんだが、いまの様子じゃホフ ヌングスロース(絶望的)だね」
「いったい何を嚥んだんだい?」
「それがまだよく分からないんだが、どうも症状からみると××××か○○○○を嚥んだものらしい。教科書にあるとおりの経過を取っている。××××にして もどのくらい嚥んだか分からないが、少なくとも一グラム以上は嚥んでいるね。もっとも一グラムぐらいなら丈夫な男なら死にはしないよ。しかし澄子さんは非 常に心臓が弱いのだ。M博士もs博士もいま全力を尽くしている。しかし難しいようだ」
「自分で嚥んだんだろうか……」
ぞりゃぼくには分からない。また、ぼくらとしては知る必要もない。目下のところあらゆる手段を尽くして患者を救、三とを考えるばかりだ。しかし自分で嚥ん だとしても。どこであんな薬を手に入れたものだかちょっと分からないね。ともか六、七時間前に嚥んだものらしい。……ぼくはいまちょっと手洗所に出てきた んだ。また戻らなければならないから失敬する。-ああ、ちょっと、このことはまだ秘密になってるんだから。だれにも知らせないでくれたまえよ」
広次の頭は不田議にもこの時、昨夜澄子に吉川その他数名の青年が今日の午後またここへ来る約束をしていたことを思い出した。
「しかし吉川くんなんか来るぜ」
「ああ、友人には仕方がないだろう。ただ警察のほうへは、まだ知らせてないんだからそのつもりで」
浜島はこう言うと、右手でちょっと挙手の礼をして奥のほうに消えていった。警察! 広次はこのひと言を聞いたばかりで、夢中で伯爵の家を飛び出してしまった。

 どこをどう走ったか、市電に乗ったか省線を利用したかすら憶《おぼ》えがなかった。否、かれはすぐに家へは帰らなかったのだ。町の中を止《と》め処《ど》もなくうろつき回りながら、夕闇の中をようやく家に辿《たど》り着いた。
 帰ったときはもう暗かった。
 恐ろしいことがとうとう起こったのだ。
 おれは間違っていた。確かに薬の量を誤ったのだ。
 澄子! 助かってくれ。どんなことをしても助かってくれ。澄子! かれは電気のスイッチを捻《ひね》らず、闇の中で涙に泣き濡《ぬ》れて神に強く祈ったのである。
 自分の誤りは確かだ。間違いなく自分は重大な過ちをしたのだ。もはや疑いはない。
 しかし、澄子はどうなる? 助かるまい?
 駄目だろうと浜島は言った。
 かの女が死んだら、自分はどうしたらいいだろう。
 自分は決してかの女を殺す気ではなかったのだ。決して決して! しかしこの弁解はどうして通るだろう。
うして通るだろう。
 いや、たとえ通ってもそれがどうなる。過ちであろうと故意であろうと、この汐山広次があの伯爵令嬢に劇薬を嚥ませて殺したと新聞に謳《うた》われるだけでも、堪え切れることだろうか。
 かれは闇の中で警察署を見た。検事局を見た。裁判所を見た。そうして浅ましい囚人の着物を着て労役するわが姿を見た。
 忍べない。堪えられない。しかも自分はいったいだれを殺したのだ。愛するあの澄子ではないか。
 断じて縄目の恥は受けまい。断じて囚人となって天下の嗤《わら》いの的にはなるまい。
 よし死のう、澄子が確かに死んだとなれば、おれも死のう、
 広次はとうとう決心した。この決意は前夜から無意識の中に朧《おぼろ》げながらもかれの脳裡《のうり》に浮かんでいたものであった。
 それにしても、第一に知らねばならぬのは澄子の生死である。もう一度行ってみよう。
 そのうえで死んでも遅くはあるまい。
 自殺の手段としては××××を自分も多量に服すれば足りる。
 広次はこう決心して部屋の電気を点《つ》けた。劇薬の瓶を傍らに置き、かれはペンを執った。
 いざ死ぬというときまでに、自殺の理由を書き残しておこうと思ったからである。しかし、広次がペンを執って遺書を書きはじめたとたん、不意に外から、
「汐山くん、いるか」
という浜島の声がした。
 かれははっと思って、劇薬の瓶をいきなり懐に突っ込んだ。
「いる。入りたまえ」
 という声がようやく渇いた喉《のど》から出た。
「兄貴夫婦は二人ともどこかへ行って留守なんだ。そこを開ければいいんだよ」
広次はまだ落ち着かずに部屋から声をかけた。
次の瞬間に、重々しい足音がしてかれの前に立ったのは浜島と吉川とだった。
 二人とも青褪めた、苦しそうな表情をしていた。
広次は座蒲団《ざぶとん》を勧めるのも忘れて言った。
「どうした、澄子さん? だめか」
浜島と吉川は黙って畳の上に坐《すわ》った。しばらく沈黙が続いた。しかし浜島が口を切った。
「駄目だ。澄子さんは死んだ。ーiどうにもならなかったのだ。そして嚥んだのは××××なのだ」
「―― 」
「口の中に多少それが残っていた。確かにあの薬に違いないのだ。汐山くん、しかし澄子さんは自分で嚥んだんじゃないのだ。嚥まされたんだぞ」
「え?……なに」
「嚥まされたんだ。ある男に嚥まされたのだ。ぼくらはこれから警察へ行くつもりだ。その前に一応きみの所へ寄ったわけなのだ。きみに会っておく必要があるのだ」
 吉川が何か言おうとして、また黙った。
 広次は全身が戦慄するのを感じた。
 懐中の劇薬の瓶をしっかと握った。こう早く発覚するとは思わなかった。
 しかし、いまどうしてこの薬が嚥めるか。こんなにぐずぐずしていていいのか。
 かれは二人の顔をじっと見た。浜島も吉川も深刻な顔をしてじっと畳を見詰めている。
 広次の左手がそっと伸びて机の横にいった。蛇のような素早さでその手がその場にあったナイフを掴《つか》んだ。
「ちょっと失敬」
 不意に立ち上がった広次は障子を開けて廊下に出るとすぐ、突き当たりの便所に入った。
 浜島も吉川も畳を見詰めたままだった。
 二人ともひと言も言わずに坐っていた。
 しかし、三十秒ばかり経《た》ったとき、かれらは便所の戸に何か重たいものがバタッとぶつかる音を聞いた。つづいて人の断末魔の呻《うめ》きを聞いた。
 二人は飛び上がった。そうしていっさんに便所のほうに駆けつけた。
 かれらはそこに血みどろになって呻いている広次を見いだしたのである。
「汐山くん、どうしたんだ、いったいどうしたんだ」
 絶叫しながらも浜島は医師としての立場を忘れなかった。広次を抱き起こしてかれはすぐに事実を見て取った。広次はまず心臓をひと突きに突くつもりだったのである。
 しかし狙《ねら》いが外れて肋骨《ろつこつ》を突いた。それで返す刃《やいば》で自分の左頸部《さけいぶ》を掻《か》き切った。傷は見事に頸動脈に触れていた。
「どうしたんだ、汐山、おい、おれだ、吉川だ」
 吉川が突然泣き声を上げて広次に抱きついた。
 浜島は満身の力を込めて広次を部屋に抱え込んだ。広次を抱き起こしたとき、広次の懐から何か瓶のようなものが落ちたけれども、この場合、浜島がそれに注意しなかったのは無理もないことだった。
 吉川は泣き声を続けた。かれは広次の右手をしっかと掴まったまま、浜島と一緒に転げるように部屋に入った。
「おい汐山。吉川だ、分かるか。おれが悪かった。おれが……。ああおれのためにきみまでもこうなるとは! 澄子さんが死んだいま、きみも生きている気がな くなったのか。無理はない、無理はない。しかしおい、汐山、聞けよ、おれは決して殺すつもりじゃなかったんだ。こんなことになるとは思わなかったんだ。い やいや、おれはきみのために働いたつもりだったんだ。昨夜、澄子さんときみが薬の話をするのを聞いていて、おれはきみにほんとに同情していたんだよ。一 方、澄子さんのあの鼻っ柱を折ってやろうと思ったおれは、ちょうど自分があの薬を持っていたので、澄子さんの知らない間に酒に入れて飲ませてしまったん だ。今日になって澄子さんに事実を打ち明けて、きみの言葉を証拠立ててやろうと思ったんだ」
 吉川は泣きながら叫びつづけた。
「おれアどうしても自分の嚥む量以上には嚥ませなかったんだがなあ、確かにそうなんだが……いや未練だ未練だ。大丈夫と思って入れた量が多過ぎたのだ。お れがきっと間違っていたんだ。たくさん嚥ませ過ぎたのだ。とんでもないことをしてしまった。……今日、澄子さんの死を聞いて驚いたのだ。汐山、聞いてく れ、許してくれ、おれはすぐ自首して出るつもりだったんだ。けれど、ほかの人にはともかく、きみにだけはほんとのことを信じてもらいたかったので、警察へ 行く前に浜島くんと一緒にここに来たんだ。汐山、それにこんなことになるなんて……汐山、死んじゃいけない、死んじゃいけない、許してくれ」
 生と死の敷居のちょうど上に立っている広次にしがみついて、吉川は涙をぽろぽろと流しながら気狂いのように叫びつづけた。
 突然広次の目が異様に輝いた。かれは何か言いたそうだった。しかし声の代わりに喉が不気味な音を立てて鳴った。新しい血潮がだくだくとほとばしった。
 吉川は嘆願するように浜島を見た。
「駄目だ。……ここを切っちまっちゃどうしようもない」
 浜島は青い顔をして、自分の喉を指しながら吉川に囁《ささや》いた。
「おれはこれから自首して出る。汐山、恨まないでくれ。おれは自分の過ちは身体で償う。許してくれ。……たった一つ信じてくれよ、おれはきみのためにあれを嚥ませたばかりなんだ。……それに……それに」
 かれは気違いのように広次と浜島に言った。
「やったのは確かに安全な量だったはずだがなあ……」
 広次が急にまた呻った。かれは最後の努力で目をかっと見開いた。
 かれは言おうとする。が、声は出なかった。
 しかし、かれは最後の力を全身から掻き集めたように見えた。
 かれはいままでぐったりと垂れていた右手を、そろそろと持ち上げた。
 後ろから抱きかかえていた浜島は思わずぞっとした。
 吉川は泣きつづけている。
 広次は、なんと思ったか、震える右手の指で自分自身の顔を指さした。
 けれど、かれが最後の力を絞って自分の顔を指した意味は、吉川にも浜島にもまったく分からなかった。
 かれらは断末魔の広次が、苦しみの極、妙な真似《まね》をするとしか考えなかった。
 息の絶えた汐山広次の身体にかじりつきながら、吉川は泣きつづけたのである。
「おれが悪かった、おれが悪かった。おれがとんでもない間違いをしてしまったのだ!」
と。

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