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三遊亭円朝 怪談乳房榎 二十五


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二十五

 驚きました正介は|怖々《こわごわ》ながら重信の顔を見ますと、去年六月六日の夜、落合橋で殺された時のままで、|浅黄縮《あさぎちぢみ》の五つ|所紋帷子《どころもんかたびら》に|献上博多《けんじようはかた》の帯で、こう……肩先から乳の下へかけて、生ま生まとした血が付いて、総髪をふり乱し、真与太郎を抱きまして忽然と霧と共に形を顕わし、正介の方を睨みまして、憤怒の相は身の毛もよだつばかりで、正介はア丶と云って頭を両袖で隠し、|俯伏《つつぷ》してしまいました。重信は|大声《たいせい》で、「正介正介、|汝《おのれ》は|性来正路潔白《せいらいしようろけつぱく》なるがゆえに悪人磯貝浪江に強迫せられ、去年六月落合にてよくも大恩あるこの重信の頭上を打って、重悪人の助けをしたな、また妻おきせことも犬畜生に劣ったやつ、今にかやつらはわが|怨恨《えんこん》その身に付き纏い、苦痛をさせた上身は八つ裂にしてくれんが、汝とてもその通り、かりそめにも|主《しゆう》を殺せし大悪人、骨を砕いてもあきたらんやつ、このところで殺すのは安けれど、今|汝《なんじ》を殺しては、この真与太郎を養育してわが敵を討って欝憤を晴すものなければ、命を取ることは許しつかわす、その代り汝今より悪心を翻えし、この倅をいずくの地へなりと連れ参り、成人さした上で|敵《かたき》浪江を討たして、わが|修羅《しゆら》の妄執を晴させくれよ、だが汝浪江にたばかられたとは云いながら、大恩ある主人を殺害いたす助力をなして頭上を打ったな、思えば思えば憎きやつ。」
 と、|眼《まなこ》血走り、髪を逆だてて、いきなり正介の|髻《たぶさ》を掴んで、こう……草原へ引きずり頭をこすりますから、正介はただ、
「御免なさい御免なさい。」
「よいか今申したことを忘るるな、われ即座に汝が一命を取るぞよ。」
「あゝ許して下せえ許して下せえ。」
 と正介は総身へ脂汗を流し、言訳をして謝まろうと思いましても、口がきけませんから、ただ口のうちで南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱えております。
「よいか、改心いたしたか、改心いたしたら真与太郎の力となり、敵を討たせ無念を晴らさせよ、よいか。」
「はあゝ……ようございます、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」
 と一生懸命に念仏を唱えるそのうち、不思議や、必ず必ず忘るるな、と重信が大きな声でいった一声が耳に残ったばかりで、さっと吹き来る風もろともに重信の姿はいずれへか消えました。正介は汗でびっしょりになり、
「旦那様、御免なせえ、南無阿弥陀…。」
 と怖々|頭《つむり》を上げて見ますと、いつか滝壷へ打ち込んだと思った真与太郎がわが膝の上におりますから、またびっくりいたし、
「や、ぶっ込んだ坊ちゃまはここにおいでだ、あゝそれでは旦那様の幽霊……あゝ……。」ぞっといたして、
「あゝ情けねえ、まア旦那さまが我が子の真与太郎さんに引かれてか、あゝ御免なせえ。」
 と夢か現かわかりませんから、茫然と辺りを眺めておりましたが、耳へ残りましたのは、必ず必ず忘れるなという重信が声と、どうどうという滝の音のみ。頃しも九月の二十日の月はいったん雲に隠れましたが、また出まして樹の間を洩れてぼんやりと辺りは明るい……正介はすやすや真与太郎が寝ておる様子ですから、塵を払って立ち上り、
「あゝ悪いことはできねえもんだ、去年浪江さんに欺されて、金を五両貰ったが一生の|己《おれ》の過りで、いやだといえば|己《おれ》え斬って切腹するというから、余儀なくすまねえと知りながら、大恩受けた方の頭をくらわし、もってえねえ旦那を殺した手伝いをして、それからまた坊ちゃまをこの滝壷へぶっ込めって、あゝそう思っても身の毛がよだつだ、あゝ旦那様よく意見してくらしった、おのれ今日の今日という気いついたよ、けっしてお前様がいったことは忘れねえよ、これから坊様を育てて助太力をして悪党の浪江を殺してお前様の欝墳はらさせます、|坊様《ぼうさま》をすんでのことにこの滝壷へ、あゝこの谷から覗いてもぞっとする、あゝ……寒くなった、まだおれいいことにゃア、浪江から貰った二十両ここにあるから、これから練馬在の赤塚がおれの故郷ゆえ、そこへ坊ちゃまをお連れ申して行って、ともかくもしておれが成人させて、敵い討たせ、旦那の幽霊さまへ詫びするが専一だ。」
 と根が正直一図の正介でございますから、真与太郎を懐ろへ入れまして十二社を立ち出で、後へ戻りまして追分から新宿へ出ました頃は、まだちょうど九つ過ぎで、盛り場のことですから往来は賑やかだ、ここのうちが立派だからここへ泊まろうと、扇屋と申します宿屋へ入ります。
「いらっしゃい、お一人様で。」
「いえ独りじゃアねえ、坊ちゃまと二人連れだ。」
「おゝお子様をお連れなすって、奥の六畳へお連れ申しな。」
 と遅うござりますから六畳へ連れて参りましたが、正介は真与太郎が昼っから乳を呑みませんから、さぞ|饑《ひも》じかろうと我が膳に着きませんうちに、
「この子に乳を一杯貰いてえが。」
 と頼みましたが、亭主が出て参って、あいにく宿には乳呑みがないのでよそから貰いますのですから、なにぶん今夜は遅いゆえ明日にして下さい、というので、正介は余儀なくまた落雁を噛み砕いて喰べさせまして、床につきましたのは九つ半か八つ頃でこぎりました。

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