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豊島與志雄「『斜陽』」

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豊島與志雄「『斜陽』」
 太宰の文学は、こゝに一つの大きな花を咲かせた。「斜陽」がそれである。
 変転自在の柔軟な筆致、例へば蜘蛛の糸に露の玉を連ねたやうな流麗さは、行文の巧拙といふ域を越えて、独特の姿態を保つ。形象のさまざまな角度を捕捉した描写ではなくて、形象をぢかに抱き込んだ表現である。
 だから、これは散文よりもむしろ詩に近い。太宰治は元来が詩人であつた。世俗に必死と抗議する詩人であつた。
「人間は恋と革命のために生れて来たのだ。」
 女主人公のこの結論は、人生観でもなんでもない。世俗に対する詩人の抗議なのだ。
 この種の抗議を、小説の構想の中で温め育てたのが、この作品である。
 温め育てる、そのことが、二つの方面に於てなされた。母親の方面と、直治の方面と。女主人公は両者をつなぐ機縁にすぎない。女主人公自身、母親と直治との両方に分身してるのである。
 この一家は、身分高い貴族として措定されてゐる。この作品に現実の素材があつたにせよ、なかつたにせよ、またその素材がどういふものであつたにせよ、とにかく、作品の中では貴族の一家なのだ。父親の臨終の折の蛇、山荘の蛇の卵、母親の臨終の折の蛇、さういふ幻想的なものがしつくり落着くほどの貴族の家柄だ。ところが、母親にしても、娘の女主人公にしても、小説的に検討すれば、大貴族の人柄としては形が崩れてゐる。なぜか。要するに作者は、彼女等を自分から遠く引き離して描くことが出来なかつた。所謂小説的な塑像を作ることが出来なかつた。切実な問題を余りに多く寄託したのだ。
 母親の方は、女性に対する太宰の夢想の延長である。嘗ては「同行二人」の相手の女性として夢みられたものが、こゝまで成長してきた。
「気取るといふ事は、上品といふ事と、ぜんぜん無関係なあさましい虚勢だ、」としても、上品といふ事は無条件に肯定されてゐる。そして何の気取りもない、真に上品な、つまり「高等御乞食」的なところがみぢんもない女性が、愛人としてゞはなく、母親として夢想される。然しさういふ女性は、今の世には生存し難い。彼女は病死しなければならなかつた。
 女主人公は、世間的道徳に反抗して、男の許へ奔る場合、「私はあなたの赤ちやんがほしい」と訴へる。嘗て或る男は、熱愛の表現として、「いまにおれは、あのひとに、おれの子供を生ませてやります、」と言つた。──その男の子供を産むこと、その女に自分の子供を産ませること、それが愛情の最高の表現となるであらうか。最も確実な表現ではあらうが、現代人はこのことについて、眉を顰める者が多からう。だが然し、太宰はこれを反語として語つたのではない。真正面から語つた。つまり、太宰が夢みる女性は、古典的な女性の伝統に通ずる。
 それにしても、「赤ちやんがほしい、」と言ふこの女主人公は、あらゆる方面での革命を求め、恋のためには身も魂も地獄に投ぜんとした。
「身を殺して霊魂《たましひ》をころし得ぬ者どもを懼るな、身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ。」
 太宰が愛読してゐた聖書のこの文句、それはもはや女主人公のものではなくて、太宰自身のもとに返つてくる。と同時に、それは直治のものともなる。──直治は殆んど一分の隙間もないほど作者の身辺に引き寄せられてゐるのだ。作者を離れては存在しないとも言へるのである。
「僕は下品になりたかつた。強く、いや強暴になりたかつた。さうして、それが、所謂民衆の友になり得る唯一の道だと思つたのです。お酒くらゐでは、とても駄目だつたんです。いつも、目まひをしてゐなければならなかつたんです。」そのために、麻薬に親しみ、家を忘れ、すべてを拒否し、反抗しなければならなかつた。
 それでも、直治は民衆と親しくなれなかつた。そしてもはや、所謂上流のサロンに立ち帰ることも出来なかつた。札つきの不良と周囲からは見られながら、人の御馳走になることさへ嫌だつたのである。──根本的な反抗があるのだ。
「人間は、みな、同じものだ。
 これは、いつたい、思想でせうか。僕はこの不思議な言葉を発明したひとは、宗教家でも哲学者でも芸術家でもないやうに思ひます。民衆の酒場からわいて出た言葉です。蛆がわくやうに、いつのまにやら、誰が言ひ出したともなく、もくもく湧いて出て、全世界を覆ひ、世界を気まついものにしました。
 人間は、みな、同じものだ。
 なんといふ卑屈な言葉であらう。人をいやしめると同時に、みつからをもいやしめ、何のプライドもなく、あらゆる努力を放棄せしめる言葉、マルキシズムは、働く者の優位を主張する。同じものだ、などとは言はぬ。民主主義は、個人の尊厳を主張する。同じものだ、などとは言はぬ。ただ牛太郎だけがそれを言ふ。」
 それではなぜ、同じだと言はずに、優れてゐる、と言ひ切れないのか。言ひ切ることは、実行することだ。その実行が困難なのだ。そのやうな行動は、気取つてるみたいで、どうにも気恥しいのである。
「いまの世の中で、一ばん美しいのは犠牲者です。」と女主人公は言ふ。
 彼女の言ふのは、道徳革命の犠牲者の意である。だが、直治に言はすれば、更に太宰に言はすれば、人間革命の犠牲のことだ。こゝで太宰の眼には何が映つてゐたであらうか。赤裸な人間、無垢の人間、先天的に高貴な品位を具現して而も自らそれに気附かぬ人間。そこから眺めると、貴族も、知識階級も、民衆も、ともに鼻持ちならぬのだ。
 こゝまで、理窟でなしに、実感で突き進めぼ、もうただ十字架を荷ふ外はない。太宰はこの十字架を荷って、どこへ踏み出さうとするであらうか。──その行く方については、次の作品を見なければならぬ。そして今はたゞ、内に苦悩を秘めてるこの美しい花を眺めるだけに止めよう。    (1948.10)

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