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兼常清佐「名人滅亡」


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兼常清佐「名人滅亡」

1

 「芸術は長し」という古い言葉には、多少の真理はある。人間社会には芸術というものはまだまだ長く栄るであろう。音楽も芸術である限り、まだまだ容易に亡びることはあるまい。
 もちろんその人間社会自身が常に一定の状態であるとは言われない。それには昔から多くの変遷があった。この頃は新興階級ということも明確に人々の意識に上って来た。しかしそれにしても芸術というものはなかなか亡びまい。新興階級もまた芸術を持つであろう。
 「万法流転」という古い言葉もまた実に真理である。芸術がもしある時代の精神を表現し、ある時代の人の生活を表現するものであるならば、時代が変り、生活が変ると共に、その音楽の内容も形式も変るのがあたりまえである。どんなに時代が変り、生活が変ろうとも、芸術だけは変らないというような考えは、それは到底、今日では通用しない考えである。それは今日ではほとんど迷信のようなものである。従って古いベートーヴェンの音楽が今日の時代の人に本当に受け入れられるかどうか、という事はそれは確かに問題である。もしこの上に時代の想潮や興味が非常に変れば、ベートーヴェンのような過去の偉人の影はだんだん薄くなって行くであろう。
 私共はベートーヴェンの偉大さを知っている。その音楽の美しさも十分知っている。しかしその中には過去の歴史の非常な重みが加わっている。歴史上の偉人に対する尊敬の念も加わっている。歴史上の記念物に対する愛惜の情も加わっている。もし私共の心が過去の圧迫を嫌うようになったら、もし私共の心が私共の現在の生活に集注されたら、その結果はそもそもどうなるであろう。ベートーヴェンが私共に与えるものは確かに減少するに違いない。いわんや、私共が音楽にも階級性を考えるようになったら、その結果はいよいよますます悲観すべきものとなるであろう。
 過渡期の間はしかたないとしても、本当に新興階級の人々が、いつまでもこの古い純ブルジョア階級の音楽に心からの感激と愛惜を覚えるであろうか。もしそうであるならば、その事実自身が最も雄弁な音楽の超階級論となるわけである。しかしそれは将来の事である。誰も何とも予想は出来ない。
 ともかくも現代の機械文明は、一般に私共の生活の律動を激しくし、テムポを速くし、そして刺戟を強くする。ベートーヴェンのジムフォニーはもはやこの周囲の生活の状態に一致しなくなって来たらしい事だけは確かである。私共が一切の階級的な感情をぬきにして、ただ従来の聴衆の一人として聴いていても、ベートーヴェンのジムフォニーは、まず長すぎる。繰返しが多すぎる。変化が少なすぎる。刺戟が弱すぎる。そして一曲を終りまで聴けば退屈する。退屈を我慢して聴いてみても、さてその割合に感覚は楽しまない。私共にはやはり私共の生きたベートーヴェンがいる。
 私共の生きたベートーヴェンは誰であろう。シュトラウスであろうか、ストラヴィンスキーであろうか、それともまたホール・ホワイトマンであろうか。しかし、そんなことはどうでもいい。それはみなそれぞれに私共のベートーヴェンである。そして私共はこの紛糾混乱の音楽界をかえって非常におもしろいと思っている。
 私がただ従来の聴衆の一人である間は、もちろん、私共はこう言って安閑としていられる。そしてそれには従来のブルショア音楽のいろいろな発展と変遷を、目のあたり見ているという興味が必ず付きまとって来る。しかし、もし私共が自分を従来のブルジョア音楽の聴衆としてでなくて、新興階級の一員として意識したとなったら、どうであろう。どこに私共のベートーヴェンがいるであろうか。私共はいつ本当の私共のベートーヴェンを持つことが出来るであろうか。──私共はこの事で非常な不安と物淋しさを感じはしないであろうか。

 2

 私共は、新興階級の人々が新興階級のベートーヴェンを持つであろう、という事には、何の疑問も感じない。音楽は誰かそれを作り出す人がなくては出来ないものである。それがどんなにして作り出されたにしても、とにかくどんな形でかのベートーヴェンだけはあるわけである。
 しかし音楽家というものは、もうそれだけにしておいてもらいたい。音楽家はただ作曲家だけで十分だという事にしたい。新興階級という事を別問題としてでも、私共はそうしたいと思わないでもない。いわんや新興社会に、まだ昔ながらの名人などが威張っていると思うのは、甚だ私共の空想を喜ばさない。
 私共はもちろん将来の機械文明が直接に音楽そのものの性質にいろいろの大変化を与えることを期待している。その一つが、とりもなおさず、この名人の無い音楽ということである。
 これまでの音楽には名人というものが付物であった。音楽会はつまり名人の芸当に感心するところででもあった。たとえばレオ・シロタの演奏会はベートーヴェンやショパンの名曲を聴く会ででもあるが、しかしまたシロタの巧妙至れる技術に感心するところででもあった。べートーヴェンの音楽とともにシロタの指の軽業を聴くところででもあった。そしてベートーヴェンが音楽を作り出したことと、シロタが指の軽業に熟達したこととを比べると──これには人々の判断の相違もあるが──すくなくとも私にはベートーヴェンの方が多少仕事が大きなように思われる。
 機械文明の進歩によって、音楽の世界から名人の一群を追いのけることは出来まいか。たとえば、もしピアノラの機械が音響学的にあらゆる音の性質に順応するようになれば、私どもは別に名人にピアノの演奏を頼まなくとも、私共が考え得る限りの巧妙な演奏をするように予め機械を調節しておけば、たとえビールを飲みながらでも、煙草を吸いながらでも、非常に美しいピアノの演奏を聴くことが出来る。そして馬鹿馬鹿しく高い銭を特に名人という一種の社会の人々に払うこともいらない。音楽は何処でやっても、誰がやっても、聴く人相当にみな同じように美しくなる。
 そうなれば、音楽は全く小説と同じで、ただ創作だけが音楽家の仕事になる。小説家の作った小説を活版が印刷するように、音楽家の作った音楽を音楽機械が演奏することになる。人間は指先が器用だとか、声が美しいとかだけでは音楽家は務まらなくなる。またあのピアノはうまいとか、この唄はまずいとか、証拠の残らないのをいいことにして、でたらめな批評をする批評家も仕事がなくなって来る。そうなると音楽界はさぞさっぱりすることであろう。さぞ清々することであろう。

 3

 機械文明は音楽をだんだん機械化して来た。蓄音器やトーキーはその場限りの名人の演奏を長く保存した。ラジオはその場限りの名人の演奏を広く普及した。いっそのこと、機械力はその名人の存在を打ち亡ぼしてしまう処まで行けないものであろうか。
 今ではこの事はただ一場の空想である。今ある音楽機械はピアノラくらいなものであろうが、それとても決して完全なものでない。完成の域にはまだまだ遠い。絃や声などになったら、その機械化などいう事は、考えようにも考える材料からして無いような状態である。今では名人のない音楽は、全く夢を語るようなものである。しかし、夢にしても、それは私共の極めておもしろい夢ではあるまいか。
 それともまた、名人は無くなすに忍びないと言う人があるであろうか。いつまでもこの英雄崇拝の感情に酔うていたいという人があるであろうか。ただ英雄崇拝の旧い感情を楽しんでいたいためならば、何も音楽にそれを求めるには及ばない。本当の英雄と言われている東郷元帥なり乃木将軍なりを神と崇めていたらよかろう。
 もし英雄崇拝からでなく、実際に音楽は名人の手で演奏されなければ本当の美しい音楽でないと言う事なら、私はそれには大分おまけがあると思う。私は例をピアノにとる。──
 ピアノの名人は私共にそもそも何を与えてくれるであろうか。言うまでもなく、まず第一に完全な、間違いのない演奏を聞かせてくれる。正確に譜をピアノの音にして聞かせてくれる。ピアノの名人というものは、まず、楽譜を誤なく、正確にピアノの音にする人の事である。つまり正しい演奏家という事である。
 名人はつまり演奏家である。演奏家のうちの或る一種である。演奏家でない名人というのはあり得ない。そして私はまずその演奏家というもの全体に対して第一の疑惑を投げる。
 ピアノの演奏家は、ただピアノの譜をピアノの音に変えるだけの仕事をする。譜にcとあるから指でcの鍵を叩いてcの音を出す。譜にそのcを強くと書いてあるから、強く鍵を叩いて強い音を出す。そしてその次のdの音に早く移れと書いてあるから、その次のdの鍵を早く叩く。演奏家の仕事といえば、まずそういったような仕事である。
 それで譜にcと書いてある処は、必ずcの音を出さなければならぬ。自分にはdの音を出したくても、それは決して出す事は出来ない。もしそこでdの音を出せば、それは非常な誤である。演奏家としては、全くその存在を疑われるくらいな失敗である。この場合には自分は絶対にcより以外の音を出したいなどと思ってもいけないし、また間違っても、絶対にdより外の音を出してはならぬ。演奏家の仕事といえば、まずこういつたような仕事である。
 つまり作曲家は命令を下す人である。──お前はおれの言う通りに指を動かせ。まず強くcの鍵を叩け、それから一秒の五分の一の次ぎにはそのcの鍵を叩いたと同じ強さでdの鍵を叩け。──たとえばそのような命令である。演奏家はただその命令通りに働いていればいい。
 それはちょうどタイプライター嬢と同じ事である。事務家は手紙を書く。そしてタイプライター嬢にそれをうつ事を命じる。タイプライター嬢はそれを完全にその通りにうたなくてはならぬ。ここをこう書き直したいと思っても、それを一字でも直してはならない。完全に原稿のとおり一字の誤もなく、そして奇麗に字を揃えて、そして出来るだけ速くうって、それを事務家に届けたら、それでこのタイプライター嬢の仕事は終ったのである。作曲家の命令どおり指を動かして譜をピアノの音にするのと、事務家の命令どおり指を動かしてインキの原稿をタイプライターの印字にするのと、その仕事の過程は非常によく似ている。ピアノ演奏家はつまりタイプライター嬢である。ピアノの名人は、つまり一流のタイプライター嬢である。
 ただ作曲家がピアノ演奏家に下す命令は、事務家がタイプライター嬢に下す命令とは比較にならぬくらいむずかしい。タイプライターなら、どんなに早く打つにしても、指一本ずつである。同時に指を四本も五本も使う事はない。そして鍵の数も高の知れたものである。三、四〇の鍵から、一字ずつを撰び出して打てばいい。しかし作曲家の命令は一〇本の指に同時に下る。どの指一つ油断は出来ない。そして命令は全く矢継早やに下る。一秒の何分の一という速さである。そしてそれが一分間や二分間の事でない。曲によっては、章の切れ目の休みを入れて、ざっと三〇分くらいつづく。たとえばベートーヴェンが『ゾナーテ・アパシォナタ』で演奏家に下した命令は、最後のプレストの処では一秒間に実に、二三個弱の割合である。遅い処でも一秒間に七個弱の割合である。そしてそのような命令が四〇分ぐらいつづく。
 そしてこれがcやdなどの二つ三つの鍵の上でやることなら、まだいくらかやりいいが、ピアノには鍵が白黒合せて八五ある。その両端の方はあまり使わないとしても大体八○くらいある。その中から、正しく今どの鍵を叩けばいいかを撲り出さなければならない。それも一つや二つをゆっくりならいいが、一秒の何分の一という短い間に、しかも同時にいくつかの鍵を撲り出さなくてはならない。『アパシォナタ』のプレストの処なら一秒の間に実に二三の鍵を八○の鍵の中から撲り出さなくてはならない。そしてそれが一つでも間違えば大変である。それは演奏家としては、ほとんど致命的な失敗である。絶対に正確に撲り出さなくてはならない。
もちろんこの鍵を撰ぶという仕事が演奏家としては一番大きな仕事で、そして一番むずかしい仕事である。
 その上にタイプライターなら、指の力という事はあまり問題にならない。軽く打つ、強く打つと言ったところで、結局文字を紙に写せば事は足りる。しかしピアノではそうは行かない。左右の手の指の力の強さと弱さの割合や、あるいは片手だけにしても五本の指の強さと弱さの割合は非常に複雑で、そして全体として非常に重大な意味をもって来る。到底タイプライターの比較にはならぬ。
 またタイプライターには足は全然使わないが、ピアノでは足は極めて大切である。殊に右足の研究には、ピアノ演奏家は誰でもかなり長い時間をかけなくてはならぬ。その外に、全体として見て、ピアノはタイプライターによく似てはいるが、しかしタイプライターよりも技術として非常にむずかしい。その技術の中に含まっている心理的な内容が多いし、また肉体的な技術だけでも遥かに仕事が多い。それでタイプライターは高等女学校でも卒業した、ちょっと器用な女ならたいていは出来るようにはなるが、ピアノは決してそうはゆかない。どんな器用な女でも高等女学校を卒業してからピアノを習い初めたのでは、大成する望みは絶対にないと言ってもいいくらいのものである。ピアノはそのくらいにむずかしいものである。
 そこが誠に名人の尊ばれる理由の一つである。ピアノを弾くという事それ自身が普通の人には出来ない事である。それでもしピアノを弾ける人があるならば、そのピアノが弾けるという事だけでよほど常人とは違っている。その違いが十分ひどくなればその人は要するに名人である。非常にむずかしい譜を非常に正確に弾くという事と、そのように弾ける曲目をかなり沢山に持っているという事とは、疑いもなくピアノの名人の資格の一つである。
 それで極端に言えば、外に何も知らなくとも、何を考えなくとも、何を感じなくとも、とにかく与えられただけの多くの譜を正確に、誤なくピアノの音にすれば、それで名人の一資格はとれる。も少し極端に言えば、今弾いている処が何調だか、何の和絃だか、テーマだか、ドルヒフユールングだか、そんな事さえも何も知らないでも、少しもさしつかえないという事になる。ただcとある譜を正確にcに弾くだけでいい。ただ譜を音に変えるだけの仕事をする燕尾服を着た自動機械でありさえずればいい。
 この点で私は名人の滅亡という事を説いても、おそらく諸君には何の不平もあるまい。いうまでもなく、これだけの仕事では機械が最大の名人である。今の不完全な自動ピアノにしても、注意して譜を刻みさえずれば絶対に誤のない演奏は聞かれる。相当にピアノの仕事に恵まれた心理的、肉体的の条件を備えている人でも、また曲はベートーヴェンのゾナーテぐらいにしても、絶対に誤なしに弾けるようになるにはほとんど半生の努力がいる。しかし機械でやれば努力も何もいらない。もし今の自動ピアノがも少し完全になり、ピアノの音のあらゆる性質を自由に表現出来るようになったとしたならば、或る一人の有能な人が半生を費してその機械と競争するという事は、全く愚かな事になってしまうわけである。それはちょうど五分間で自働車でゆかれるところを、一時間もかかって草靴《わらじ》を履いて歩くようなものである。自働車のない間は、草靴履きの健脚家は偉い人であろうが、一旦自働車が出来て見れば、いくら走っても自働車にはとても追いつかれない。ただ走るだけが無駄である。もしタイプライターの例をとるならば、初めからの文句のきまりきった挨拶状を一枚一枚誤なしに、丁寧に長い時間をかけてタイプライターで打とうというのが今のピアノの名人である。それを活字で印刷するならば、見ている間に、楽々と、そしてもっと手際よく印刷する事が出来る。
 昔自働車のなかった頃は健脚家は草靴で走った。そして群集はそれを見て大喝采を送った。それがタールベルグであり、ツェルニーであり、スターヴェンハーゲンであった。今のクロイツェルも、ホフマンも、コルトーも、やはりそのように草靴を履いて走っている。私共は早く彼らにその草靴をぬがせたい。そして心地よいパッカードに乗せてやりたい。

4

 ここで諸君がやっきになって反対するであろうという事は、もちろん私はよく知っている。
 諸君は必ずそう言うであろう。──ピアノの名人はただ機械的に楽譜を演奏するのではない。それには深い感情が織り込められている。大きな思想が流れている。美しい夢が漂うている。それが名人の芸である。名人の名人たるところはここにある。そして機械ピアノでは、どんなに正確に演奏しても、この美しい夢は消えてしまう。機械は結局機械だけのものである。名人の境地は別にある。
 そこで話は一躍して神秘の世界にはいる。話は一種の信仰談のようなものになって来る。名人のピアノには、はたしてそれほどの美しい夢が漂うているものであろうか。はたしてそれが本当であろうか。それがどれほどまで客観的な事実であろうか。些《すくな》くも或る程度の客観性がその事について証拠立てられるものであろうか。
 名人の権威にうたれた批評家と、英雄崇拝の感情に酔うた聴衆は、一も二もなくそう言う。──この名人の指がピアノに触れると、ピアノはこの世のものとも見えぬ美しい夢を唄う。それが実に名人の名人たるところである。もしそれがわからないなら、お前は音楽を聞く耳が無いのである。
 私はこう言う言葉を聞き飽きた。しかし今でもこの言葉は私には大きな疑問である。私には誰でもほとんど同じような過程を踏んで進むピアノ演奏の仕事の途中で、いつ、どこでこの美しい夢というようなものがまぎれこむか、それがわからない。どんなむずかしいピアノ教則本にも、美しい夢を弾き出す術は教えてない。どんなピアノの教師にしても、弟子に美しい夢の塊はこんな形のもので、それをこうして鍵盤の上に移して行くというような事は教えない。もしそんな事を言う教師があるとしても、それは極めて漠然とした言葉のあやである。たかだか何かのジムボールで、そして何のジムボールであるか、考えれば考えるほどわけがわからなくなる。
 昔の名人はその技巧を自分の音楽を表現するために使った。ベートーヴェンも、リストも、ショパンも、ブラームスも、みな当代第一流の名ピアニストであった。彼らはみな非常なピアノ演奏の技巧を持っていたらしい。しかし、彼らは人に作曲を依頼しなかった。曲は人に作ってもらって、自分は僅かにそれを弾くというのではなかった。作曲家の命令どおりに指を動かすことが彼らの技術の目的ではなかった。自分の音楽、自分の芸術、自分の夢を唄うためにこそ、彼らの技巧はあったのである。楽曲そのものが芸術家の夢を語るという事は、それは私にもよくわかる。ベートーヴェンのゾナーテは、正にベートーヴェンが夢みた美しい夢の姿である。しかし今の名人がそのベートーヴェンのゾナーテを一音の誤もなく弾くことで、このベートーヴェンの美しい夢の外に、さらに名人自身のどんな夢が表現せられるものであろうか。ピアノの演奏という事は、もともと作曲家の命令に正しく従うという事である。作曲家がcをうてという。それで演奏家はcをうつ。作曲家がdをうてという。それで演奏家はdをうつ。この仕事のどこに演奏家自身のものを表現しうる余地があるであろうか。もし本当にそんな事がありうるならば、それは名人というものは、人の書いた小切手の金額を自分勝手に増減するようなものである。全くでたらめ千万な話である。
 ただ今の楽譜は物を記述する方法としては非常に不完全である。全体が数量的でない。pと言っても、fと言っても、その程度が数量的にわからない。クレスセンド、デクレスセンド、リタルダンドなどいう数限りない術語も、みな大体の言葉で、人々によってどうにでもなる。これが建築だとしたならば、今の楽譜の程度のあいまいな、非数量的な設計図では、決して家は建てられない。この非数量的な設計図から、どうにか一軒の家を建て上げるだけが名人の仕事であるというならば、それなら話がよくわかる。
 作曲家はcの音を強くうてとは命じるが、どのくらい強くという事は数量的に言わない。或る名人はそれを自分の考えどおりに極めて強くうつ。他の名人は、またそれを自分の考えどおり多少強くうつ。こんなような事が複雑にごんぐらがれば、全体としては或る程度の印象の相違が出来る。その相違がそれぞれの名人の独自の境とも考えられる。また或る一人の名人の或る一曲の演奏にしても、この数量的に音を与える実際の方法が違えば、多少違ったようにも弾かれる。このような事を非常に文学的に言葉を飾れば、名人自身の美しい夢もと言えない事もないかもしれない。しかしそれでは誠にはかない夢である。
 ベートーヴェンはその夢を多くのゾナーテを作って唄おうとした。名人にももし夢があるならば、僅かにそのベートーヴェンの夢に実際上の数量を与えることで唄われる。誠にはかない夢である。
 そしてもしベートーヴェンが自分の夢を唄ったゾナーテを全部数量的に記述したとしたら、鍵盤をうつ指の力や、楽曲の進行する時間の変化を全部数字で記述したとしたら、さて名人はどこにその存在の理由を求めようか。そして機械ピアノが如何に進歩してもそのくらいな記述も出来まいとは誰も想像しまい。もし機械ピアノが進歩して、ピアノの音のあらゆる性質に順応するようになったとしたら、作曲家は自分の曲を一度それで弾けばいい。曲のメロディがきまり、和絃がきまり、その曲の進行の速度や強さがきまり、ペダルがきまれば、その曲の印象や表情はきまる。或る一曲はそれの持つ印象や表情とともに、全く固定する。もはやそれ以上に誰も何もする事は出来なくなる。名人などが後から勝手に手を入れたりなどする余地は全くなくなってしまう。ちょうど詩人が詩を作り、活字がそれを印刷してしまえば、その詩は全くそれで固定して、後から誰もそれに勝手に手を入れる事は出来ないのと同じわけである。
 音楽の世界では音楽その物が甚だ漠然としている。捉え処がない。それに楽譜は甚だ非科学的である。曲の形は科学的に十分に決定しない。そこから種々な矛盾が起る。名人などいう中間の存在物さえも現われて来る。そこに英雄崇拝の感じがっきまとう。機械力を軽蔑する感じもまじって来る。また神秘な話も話されるし、迷信もその威力を振う。前時代の伝説めいた名人への讃美の言葉は、今日でもただわけもなく批評家や聴衆にくりかえされる。私はこの音楽の世界の有様を甚だ興味のあるものだとも思う。芸術などいうものは、あるいはこんな渾沌とした姿こそ、かえっておもしろいかも知れない。
 しかし私はまた時々は、こんな渾沌とした有様は機械力の進歩で断然明快な、合理的な状態に改められていいとも思う。音楽は全く作曲家と聴衆との間の単純な、そして明瞭な関係であっていいとも思う。
 ことに私共の将来の音楽では、音楽家と聴衆の間の関係が、も少し簡単で、も少し明瞭なものであってほしいと思う。私共は今までの旧い階級の音楽の中で考えても、作曲者と聴衆との関係が複雑すぎて、甚だうるさい。もし新興階級がそのために新しい音楽の組織を試みるとしたならば、まずこの点は断然改めなくてはならぬもののようにも思う。そして名人のない、単純明快な音楽を楽しみたいと思う。
 しかし、これはすべて私の夢である。私の最も愛する楽器のピアノについて、その演奏家というものの仕事を考えて見たまでの事である。今では機械力はそれほど深く音楽の世界には行きわたっていない。声やヴィオリーネなどに比べて遥かに機械的なピアノでさえ、まだ本当に機械力の統制の下にはおかれていない。あとのいろいろな楽器では、その機械化などは今日では、まだほんの夢である。
 名人滅亡──すべて私の夢である。しかし私には確かにおもしろい、愉快な夢である。そして広い世の中には、、あるいは私と共にこのような夢を楽しむ人もなくはあるまいと思う。


 附記 この篇の一例として、当代の名人コルトーが弾いたショパンの『プレリュード』の蓄音器レコードを、コルトー自身が出版したこの曲の楽譜を読みながら、一度よく聞いて見るのもおもしろかろう。
まず技術として、私共の腑に落ちない処はいろいろある。そのうちの最もわかりやすい処を試みに一つ二つあげる。
 第二曲。第一三小節が全然弾いてない。
 第四曲。第一二小節と第二〇小節の装飾音は彼自身の譜より倍長い。
 第一五曲。第一五小節の最後の八分音符を十六分音符のように弾いている。
 第二曲。六-八小節あたりでは、前から続いた四拍子の感じが薄くなるように思われる。
 第一七曲。第一七小節のメロディの前半は、メロディとしては非常に聞きにくい。
 第二四曲。第一五小節の左手のcの音は弱すぎる。彼自身の譜もそのcには注意を払っている。
 この例の始めの三つは楽譜と演奏と違う場合で、あとの三つは弾き方の技巧の問題である。物は蓄音器であるから、これにはいろいろな意見もあるであろうが、とにかく機械力をかれば、こんな事を訂正するのは誠にたやすい。コルトーが身をもって機械と競争し、ほとんど機械のような確実さでピアノを弾いていることは甚だ勇ましくもある。しかし、御苦労千万ででもある。私はこのような例を見ても、結局演奏は機械にやらせていいものだと思う。
 しかしコルトーは人間であるから、音楽に対して十分な心の働きをも示している。第一彼はショパンの『プレリュード』全体に詩的な短い言葉を添えて、それで自分の感じたこの曲の内容を言い現わそうとしている。第二に彼は楽譜をただ楽譜通りに弾いていない。一曲の中でもテムポの早い遅いもあるし、一小節の中でさえ音の長短もある。もちろん音の強弱の変化は非常に多い。そしてそれはいつも甚だよく私共の感情に訴える。第四曲や第一七曲などその好適例である。このような点だけは遥かに機械力を超越している。つまり機械をこのように調節する心の働きがある。ここが名人の名人たる処だと誰も言うであろう。
 しかし、これははじめにショパン自身がした事である。ショパンの音楽は正にそんなものであったに違いない。しかし楽譜に音楽を科学的に記述する能力がないから、彼の音楽はその一半だけしか今日まで伝わっていない。そしてコルトーはその一半を仮に自分で補って見たというだけである。コルトーは、楽譜の序文で自分は決して解釈者の分を越えないと言う。その解釈者という事を狭義にとれば、実はただこの一半を補うというだけの事である。そしてそれがいつもよく私共の鑑賞を喜ばすというだけの事である。これがすなわち名人コルトーである。それならば、ピアノが完全に作曲者の音楽を記述し、表現するようになれば、音楽を作り出した人が、自分の考えどおりに一度機械を調節して、それがいつまでも自分の音楽として保存されるようになれば、第一演奏者としても、第二に狭い意味に考えての解釈者としても、百年後の名入コルトーの仕事の余地はなくなるはずである。そしてコルトーは、新たに自分の音楽を作り出す人になるか、あるいは人の音楽を聞く人になるか、他に道はなくなるはずである。
 重ねて言う、──これは私の夢である。そんな時代はまだ当分来ない。私はただ演奏家の仕事というものを考えて見たまでの事である。それをただジムボーリッシュに名人滅亡と言って見たまでの事である。

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