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服部之総「わたしのはらわた」


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わたしのはらわた
この春半月ほど寝た。微熱があって、背中じゅうが凝る。どうにかよくなって、家族つれで母の一周忌のため帰国する途中、京都に一泊したら、猛烈な腹痛がおきた。
史学なかまの奈良本辰也君につれられて、内科の安井信雄氏にみてもらったら、胃かいようの再発とわかった。安井さんの紹介で外科の石野琢二郎氏にレントゲンをとってもらったら、胃のまんなか辺に小指大の穴がふかくあいている。一昨年福島医大病院で、故藤田五郎の解剖に立会ったとき見た胃かいようの傷あとが、ちょうど同じばしょで、同じくらいの大きさだったことを思い合わせて、即座に私は入院の決意をした。
石野外科は洛北白川の、奈良本家から歩いて十分くらいの高台にある。石野さんは、あとでわかったことだが、私が尊敬する経済史家大塚久雄君とは幼稚園から三高まで一緒で、世間はせまいものである。それにしても、私がまったく自覚しなかった左肺尖の空洞を、見つけてもらったのは、結核で京大助教授をやめて五年間闘病した経験をもつ外科専門の石野さんのおかげであった。石野さんの結核の主治医は同期の親友松田道雄、と承ってみると、その松田君は私もかねて交友がある。まったく、世間はせまいものだ。
ところで、その石野さんは、胃の切り方に「石野式」が知られているほどの外科の名手であるが、私の胃かいようは伜の十二指腸かいようよりは、ずっとかんたんにして明瞭な手術で処置できるだろうということであった。私の長男(二十三歳)もかねて十二指腸かいようをわずらっていて、そのため仏事の一行には加えないで鎌倉にのこしてきた。私は入院を決意するや、すぐに伜をよびよせて、石野さんに診断してもらい、父子ベヅドをならべて入院したのである。
ところが、いざ手術台に上ってみたら、私の手術は伜のばあいの約二倍の時間──二時間二十五分を要した。それは石野外科はじまっていらい、時間記録では第二位にあたるそうである。
石野博士のせいではなく、私の腸のからくりが、まちがっているせいであった。
横行結腸というものは、いっばんにへそちかい前方にあって、切った胃袋の残りを空腸につなぐばあい、この横行結腸を後方からささえている膜が一つのめどになるのだそうである。しかるに、へそ上まで割いて、指さきでいくら探ってみても、その膜がない。石野先生はこれまで約二、○○○人それをこころみて、こんな経験はしたこともきいたこともない。そこでさらにへそ下まで切りさげて、小腸をぜんぶひき出してみたら、なんと…横行結腸が、私のばあいは腹腔のいちばん底、立った姿でいうなら前方でなく後方に、見出されたそうである。膜がないはず…あるにはあるが、ごく短くてなきにひとしいという、私は片輪だったのである。
以上、自分のからだに関することとはいえ、素人の私の聞書だから、専門家からみればおかしなところがあるかもしれない。しかし、ともかく私の横行結腸のありようが、おそろしく異状であって、鉄腸といい断腸の思いといいはらわたをだしてみせるという、そのはらわたの不具者で私があるということが、一九五四年四月某日、石野博士によって発見されたことだけはまちがいないところである。
そこで、わたしはこの機会に申しのべておくのであるが、私が死んだら、どこで死んでもそのところの大学病院にその死体を寄付するから、とっくりしらべてもらいたいということである。切ってみるまでは人にもじぶんにもその異状はいつまでもわからない、というばしょが、わたしのはらわたであったということは、人間の精神が臍下丹田にあると信じている人々にとっては、それこそ、腹をも切りたい無念であるにちがいない。
(一九五四・七・二六)

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