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高浜虚子「愛居」


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  愛居
春江《はるえ》の駅から乗りこんできたのは美佐尾とふく子の二人であった。美佐尾はこの前逢って知っているばかりか、体が大きいので人込みの中でもすぐそれと判った。その後についておるのはふく子であろうということはすぐ想像がついた。ふく子はもとからこの春江に住まっているのであるし、美佐尾は最近再縁してやはりこの春江にいるということを聞いていた。私らが今度また三国へ行くのについて、二人は出迎えかたがたこの春江の駅から乗ったものであることはすぐ分った。
座席に坐っていた私ら三人は立上って二人に合図をした。二人は人込みの中を泳ぐようにして近づいてきた。美佐尾とは一別以来の挨拶を交《かわ》したり、ふく子とは初対面の挨拶をしたりしているうちに汽車はもう次ぎの駅に着いた。ふく子が提《さ》げてきた重箱の中のおはぎが取りだされたので、それをつまみながら柏翠のその後の容子を聞いた。一時は危篤《きとく》だと思われた自然|気胸《ききよう》も、医者の手当てが早かったのと、愛子やお母さんの熟心な介抱《かいほう》によってようやくこのごろは部屋のうちは歩くくらいになったということを聞いた。
福井の乗換には多少の時間があったので、係員のいるバラック建ての事務室に通されて、そこで火鉢に手を翳《かざ》しながら待つことになった。そこであらためて美佐尾に再婚の悦《よろこ》びを述べたのであるが、美佐尾は、大同にいる兄さんの丈子の消息がまだ判らぬことを心配していた。兄さんがぶじに帰ったなら実家に残してきた子供のことも相談してなんとか片をつけたいものだというようなことを話した。
混雑の電車を三国で降りてしばらく歩いて愛子の家に着いた。愛子の家の前に近づくとそこに袴《はかま》をはいて立っておる柏翠を見出した。肉つきは以前とはあまり変らなかったが、その顔色はたいへんに悪かった。愛子もそばに立っておった。二人はいそいそと私らを導いて座敷に通した。年尾《としお》は始めてであったが、私や立子はこの前一度来たことがあるのでこの座敷は知っていた。床脇にある愛子の姉さんの大きな写真がまず目にとまった。年尾に、これが若死した愛子の姉さんの写真だと話した。
ほじめ愛子の電報が小諸《こもろ》の家に来て、柏翠が自然気胸で危篤《きとく》の状態を続けている、ということを知らせてきた時は胸を衝《つ》くものがあった。かつて柏翠が鎌倉の私の家へ来た時、その友人の一人が自然気胸に罹《かか》って苦しんだ容子《ようす》を話したことがあった、自然気胸という病気は肺臓の壁に孔ができて、空気が肋膜《ろくまく》の中に溜まって、呼吸困難に陥るものだということを話した。その当時|他事《ひとごと》として話していたその病気に今は柏翠自身が罹ったわけであった。その後またつづけざまに電報が来て、危篤の状態がなお続いておるが最善の力を尽しておるとあったり、やや小康《しようこう》をつづけておるとあったり、ようやく良方に向いつつあるとあったりした。
柏翠はまず袴の膝を正して、その節ひとかたならぬ心配をかけたことを感謝すると言った。そうして私ら三人を前に竃いて、その病気当時のことを話した。坐ったままで襖《ふすま》にもたれて一時は失神していたが、ようやく医者が来てくれて、空気を排出してくれたので気がついた。がすぐまた溜まるので苦しみがまたもとのとおりになる。また排出する、というようなわけで、一時は自分も覚悟を極めたが、そうこうしておるうちにその孔が塞《ふさ》がって、ようやく生命だけは取り止めることができたということを話した。時々愛子も口をはさんでその話を補った。柏翠よりもかぼそくよわよわしい愛子のことであるからさだめて介抱に疲労したことであろうと思われたが存外元気に見えた。
その夜はこの前泊った芦原《あわら》の宿に行こうと思っていたが、かまわなければ泊ってくれその用意がしてあるからという愛子や柏翠の言葉に従ってここに泊ることになった。明方に柏翠の咳続ける声が隣室からいたましく響いてきた。
翌日の午前は九頭竜川《くずりゆうがわ》に面しておる裏の二階に上ってそこでぼつぼつ集ってくる人と小句会をすることとなった。そこの白い襖《ふすま》にあたかも人が坐っておるような染《し》みがついておるのを指して、
「これは私が凭《もた》れていて失神した時の形見《かたみ》です。寝ることもできず、どうすることもできず、じっと襖にもたれたままで、ついに失神してしまったのでありました」
と柏翠がいった。その時全身が汗にひたってその汗が着物に沁《し》みて襖まで透ったその跡であるとのことであった。愛子はその襖を開けて白紙に刷った大きな鯉《こい》の形を見せた。その鯉は柏翠が病気になる前に、しばらく釣りに熱中してこの九頭竜川で釣った鯉に墨を塗って型をとったものであった。それはすばらしく大きな鯉であった。また同じような別の紙を見せた。それは前の鯉に較べたらやや小さかったが、それでもかなり大きな鯉であった。
今はそれらはすべてが語り草《ぐさ》になってここで楽しい俳句会を開こうというのである。そこには置炬燵《おきごたつ》が拵《こしら》えてあって、それには赤い美しい布団《ふとん》がかけてあった。
九頭竜川の景色はいつ見てもいい眺めである。河口に突立っておる白い灯台も、中洲《なかす》に枯れたままつづいている蘆叢《あしむら》も、中流に舟がかりしておるかなり大きな四五|艘《そう》の発動機船も、遠く対岸につづいておる松林も、すべて一望のうちにあるのであって、ことにきょうは時雨《しぐれ》模様の天気であって、一天が曇ってきたり晴れてきたりその変化具合もおもしろかった。ことに目の下には一艘の大きな朽《く》ち舟があって半ばは水に沈んでおった。柏翠が鯉を釣ったというのもこの朽ち船の舳《へさき》に乗ってのことであったということを愛子がいった。
私はこれらの景色に目をやりながら心はいつか柏翠のことに及んでいた。
柏翠は浅草の凌雲閣近《 りよううんかく》くの家に生れ、早く両親を失い、、兄弟もなく、まったくの独りぼっちであって、鎌倉の七里ケ浜の鈴木病院に入院患者として十年あまりもおって、まったくそこを自分の家のようにしていた。そうして病院に入院してくる同じ患者に俳句を勧《すす》めたりしていたが、その中に愛子もあった。愛子に親しくなったばかりでなく愛子についてきたお母さんとも心易くなり、愛子が三国に帰るようになってからときどきこの三国に行くようになった。始めは愛子の家の近所にあるお寺に下宿していたが、今は愛子の家に起臥《きが》するようになっているらしかった。ここに来ても俳句を人々に教えて三国俳句会という会を作ったりしていた。運命の二人は、こごに美しい俳句の師弟として共同の生活を営《いとな》んでいるもののように見えた。愛子は柏翠を先生先生と呼んでい
た。柏翠は愛ちゃんと呼んでいた。お母さんもまた二人の交遊を許しているように見えた。
晴れたり曇ったりしていた九頭竜の川面《かわも》はたちまち時化《しけ》模様になってきてにわかに大粒の雨が降りだしてきた。川中にもやっている大きな漁船の甲板に干《ほ》してあった網を慌《あわ》てて取り入れようと打騒いでいる船人や、河口の方から矢のごとく帰ってくる釣船などが目についた。目の下の朽《く》ち舟の周囲には今は白い波が立っていた。さいぜんから見ていると、その船の中に漂うている葉屑は、波のうつたびに舟の外に出るかと思われたが、いつかまた申に戻ってきて同じところを経《へ》めぐっていた。
夕食は私ら三人と柏翠と愛子だけで摂《と》ることになっで、また前記の裏二階に陣取った。そこには鍋がぐらぐら煮えたっていて、新鮮な魚がその鍋の中にあった。
柏翠がこの三国へ来る前のことであった。立子と晴子の姉妹が鈴木病院の病室に柏翠を訪ねたことがあった。その時ちょうどおひるであったので、その病室で弁当を開いて食った。柏翠もその病院の飯をいっしょに食った。それは丼《どんぶり》にさらっと盛ってある御飯に、西洋皿のような侘《わび》しい皿に、昆布《こんぶ》とにしんの佃煮《つくだに》、それに豆が二三十粒ほど添えてあるものであった。それも柏翠自身取りに行くのであった。おりふし隣りの病室で咳《せ》きこんでいる女の声が聞えた。それは喀血をしているものらしかった。柏翠は、この病院の食物がこの時勢のためだんだん貧弱になってきて、これでは栄養が摂《と》れないから、最近に三国に行くつもりだと話していた。十年間住み馴《な》れたその部屋の片方には三国に行く時に持って行く行李《こうり》が出してあった。これはいつか晴子が私に話したことであった。
その夜この二階に名前をつけて額を書いてくれぬかとのことであった。私は筆を執《と》って「愛居」と書いた。

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