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E.S.モース・石川欣一訳『日本その日その日』「日光への旅」

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 日光への旅行――宇都宮までの六六マイルを駅馬車で、それからさらに三〇マイル近くを人力車でいくという旅――は、私に田舎に関する最初の経験を与えた。われわれは朝の四時に東京をたって駅馬車の出る場所まで三マイル人力車を走らせた。こんなに早く、天のごとく静かな大都会を横ぎることはまことに奇妙なものであった。駅馬車の乗り場でわれわれは行を同じくする友人たちと顔を合わせた。文部省のお役人が一人通弁としてついていってくれるほかに、日本人が二人、われわれのために料理や、荷ごしらえや、荷を担ったり、その他の雑用をするために同行した。われわれの乗った駅馬車というのは、運送会社が団体客を海岸へ運ぶために、臨時に仕立てる小さな荷馬車に酷似して、腰掛が両側にあり、膝と膝とがゴツンゴツンぶつかる――といったようなものであった。しかし道路は平坦で、二頭のウマ――八マイルか一〇マイルくらいでウマをかえる――は、いい勢いで走りつづけた。
朝の六時ごろ、ある町を通過したが、その町の一つの通りには籠や浅い箱に入れた売物の野菜、魚類、果実などを持った人々が何百人となく集まっていた。野天の市場なのである。この群衆のなかをいくとき、御者は小さなラッパを調子高く吹き鳴らし、先に立って走る馬丁は奇怪きわまる叫び声をあげた。このときばかりでなく、徒歩の人なり人力車なりに乗った人なりが道路の前方に現われると御者と馬丁とは、まるで馬車が急行列車の速度で走っていて、そしてすべての人が聾で盲ででもあるかのように、叫んだり、どなったりするのである。われわれにはこの景気のいい大騒ぎの原因がわからなかったが、ドクター・マレーの説明によると、駅馬車がこの街道を通るようになったのは、ここ数ヵ月前のことで、したがっておおいにもの珍しいのだとのことであった。
この市場の町を過ぎてから、われわれは重い荷を天秤《てんびん》棒にかけて、よちよち歩いている人を何人か見た。たいした荷である。私はいくどかこれをやってみて失敗した。荷を地面から持ち上げることすらできない。しかるにこの人々は天秤棒をかついで何マイルという遠方にまでいくのである。また一〇マイルも離れている東京まで歩いて買物にいく若い娘を数名見た。六時半というのに、子どもはもう学校へと路を急いでいる。ときどきあたりまえの日本服を着ながら、アメリカふうの帽子をかぶっている日本人に出くわした。薄いもめんの股引きだけしか身につけていない人も五、六人見た。しかし足になにもはかない人も多いので、これはべつにへんには思われなかった。
われわれが通った道路は平らでもあり、まっすぐでもあって、 ニューイングランドの田舎で見うけるものよりも、はるかによかった。農家はこざっぱりと、趣ぷかく建てられ、そして大きな葺いた屋根があるので絵画的であった。ときどきお寺や社を見た。これらにはほんの雨露を凌ぐといった程度のものから、巨大なカヤ葺き屋根をもつ大きな堂々とした建築物にいたるあらゆる階級があった。これらの建築物は、あたかもヨーロッパの寺院《カセドラル》がその周囲の住宅を圧して立つように、一般市民の住む低い家々におおいかぶさっている。おもしろいことに日本の神社仏閣は、たとえば渓谷の奥とか、木立の間とか、山の頂上とかい弓ような、もっとも絵画的な場所に建っている。聞くところによると、政府が補助するのをやめたので空家になったお寺がたくさんあるそうである。われわれは学校として使用されている寺社をいくつか見うけた(3図)。かかる空家になったお寺の一つで学校の課業が行なわれている最中に、われわれは段々の近く、を歩いて稽古に耳を傾け、そして感心した。そのお寺は大きな木の柱によって支持され、まるで明け放したパヴイリオン(亭《ちん》)といった形なのだから、前からでも後ろ、からでもすどおしに見ることができる。片方の側の生徒たちはわれわれに面していたので、なかにはそこに立ってじろじろながめるわれわれに、いたずららしくほほえむものもあったが、ある級は背中を向けていた。見ると支柱に乗った大きな黒板に漢字若干、その横にはわれわれが使用する算用数字が書いてある。先生が日本語の本から何か読み上げると、生徒たちはもっとも奇態な、そしてそうそうしい、単調な唸り声で、彼の読んだとおりくり返す。広い石の段々の下や、また段の上には下駄や草履が、生徒たちが学校へはいるときぬいだままの形で、長い列をなして並んでいた。私は、もしいたずらっ児がこれらの履き物をこちゃまぜにしたら、どんな騒ぎが起こるだろうかと考えざるをえなかったが、さいわいにして日本の子どもたちは、嬉戯にみちていはするものの、もの優しく育てられている。わが国の「男の子は男の子なんだから」()という言葉――わが国にとって最大の脅威たるごろつき性乱暴の弁護――は.日本では耳にすることがけっしてない。
午前八時十五分過ぎには一五マイルもきていた。われわれの荷物全部――それには罐詰のスープ、食料品、イギリス製工ール一グースなどもはいっている――を積んだ人力車は、われわれのはるか前方を走っていた。しかも車夫はわれわれとほぼ同時に出立したのである。多くの人々の頭はむき出しで、なかには藍色の布をまきつけた人もいたが、同時にいろいろな種類のムギわら帽子も見うけられた。水田に働く人たちは、きわめて広くて浅いムギわら帽子をかぶっていたが、出78くから見ると生きたキノコみたいだった。
街道を進んでいくと各種の家内経済がよく見える。織りがだいぶ盛んに行なわれる。織機はその主要点においてわが国のと大差ないが、紡車をわれわれと逆に回すところに反対に事をする一例がある。
道に接した農家は、裏からさしこむ光線に、よく磨きこまれた板のまが光って覓えるほどあけっぱなしである。靴のままグランドピアノに乗っかる人がないと同様、このような板のまに泥靴を踏みこむ人間はいない。家屋の開放的であるのを見ると、つねに新鮮な空気が出入していることを了解せざるをえない。ツバメは、ち.出うどわが国で納屋に巣をかけるように、家のなかに巣を営む。家によっては紙や土器の皿を何枚か巣の下に置いて床を保護し、また巣の真下の梁に小さな棚を打ちつけたのもある。ハエはすこししかいない。これはウマが少ないからであろう。イエバエはウマこえで繁殖するものである。
この地方では外国人が珍しいのか、それとも人々がおそろしく好奇心に富んでいるのか、とにかく、どこででもわれわれが立ち止まると同時に、老若男女がわれわれをとり巻いて、なにをするのかとばかり目を見はる.そして、私が小さな子どものほうを向いて動きかけると、子どもは気が違ったように泣き叫びながら逃げていく。馬車で走っている間に、私はいくどか笑いながらあとを追ってくる子どもたちを早く追いついて踏み段に乗れとさし招いたが、彼らは即時まじめになり、近くにいる大人に相談するような目なざしを向ける。ついに私は、これは彼らが私.の身ぶりを了解しないのにちがいないと思ったので、有田氏(いっしょにきた日本人)に聞くと、このような場合には、手の甲を上に指を数回すばやく下に曲げるのだということであった。そのつぎに一群の子どもたちの間を通ったとき私はおそわったとおりの手つきをやってみた。すると彼らはすぐに、にこにこして、馬車を追って駆け出した。そこで私は手まね足まねで何人かを踏み段に乗らせることができた。子どもたちが木の下駄をはいているにもかかわらず――おまけに多くは赤ん坊を背中にしょわされている――敏捷に動き回るのは驚くべきほどである。
田舎の旅には楽しみが多いが、その一つは道路に添う美しい生垣、戸口の前のきれいに掃かれた歩道、家内にある物がすべてこざっぱりとしていい趣味を現わしていること、かわいらしい茶呑み茶碗や土瓶急須、炭火を入れる青銅の器、木目の美しい鏡板、奇妙な木の瘤、花を生けるためにくりぬいた木質のキノコ。これらの美しい品物はすべて、あたりまえの百姓家にあるのである。
この国の人々の芸術的性情は、いろいろな方法――きわめて些細なことにでも――で示されている。子どもが誤って障子に穴をあけたとすると、四角い紙片をはりつけずに、サクラの花の形に切った紙をはる。この、ぎれいな、障子のつくろいかたを見たとき、私はわが国ではこわれた窓ガラスを古い帽子や何かをつめこんだ袋でつくろうのであることを思い出した。
穀物を碾《ひ》く臼は手で回すのだが、よほどの腕力を必要とする。一端を日石の中心の真上の桷《たるぎ》に結びつけた棒が上からきていて、その下端は臼の端についている。人はこの棒をつかんで、石を回転させる(4図)。 イネの殻を取り去るには木造で石を錘《おもり》にした一種の踏み槌が使用される。人は柄《え》の末端を踏んで、それを上下させる。この方法は、漢時代の陶器に示されるのを見るとシナではすくなくとも二、○○○年前からあるのである。この米つきは東京の市中においてでも見られる(5図)。 搗いている人は裸で、わら縄で出来たカーテン(縄のれん)によって隠されている。このカーテンは、すこしも時間を浪費しないで通り抜けうるから、まことに便利である。帳《とばり》として使用したらよかろうと思われる。
このうえもなく涼しい日に、このうえもなく楽しい旅を終えてわれわれは宇都宮に着いた。目新しい風物と経験とはここに思い出せぬほど多かった。六六マイルというものを、どちらかといえば、がたぴしゃな馬車に乗ってきたのだが、見たもの、聞いた音、一として平和で上品ならざるはなかった。田舎の人々のもの優しさと礼譲、生活の経済と質素と単純! 忘れられぬ経験が一つある。品のいいお婆さんが、何マイルかの間、駅馬車内で私の隣にすわった。私は日本語はほとんどわからぬながら、身ぶりをしたり、粗末な絵を描いたりして、ぐあいよく彼女と会話をした。お婆さんはそれまでに外国人を見たこともなければ、話を交えたこともなかった。彼女が私に向かって発した興味ある質問は、わが国の知識的で上品な老婦人が外国人に向かってなすであろうものと、まったく同じ性質をもっていた。
翌朝、われわれは夙《と》く、元気よく起き出でた。今日は人力車で二六マイルいかねばならぬ。人力車夫が宿屋の前に並び、宇都宮の人口の半数が群れをなして押し寄せ、われわれの衣類や動作を好奇心に富んだ興昧で観察する有様は、まことに奇妙であった。暑い出なので私は上衣とチョッキとを取っていたので、ひとかたならずはでなズボンつりが群衆の特別な注意をひいた。このズボンつりは意匠も色もあまりに野蛮なので、田舎の人たちですら感心してくれなかった。
車夫は総計六人、大きな筋肉たくましい者どもで、犢鼻褌だけの素っぱだか。皮膚はつねに太陽に照らされて褐色をしている。彼らは速歩で進んでいったが、とある村にはいると気が違いでもしたかのように駆け出した。私は人間の性質がどこでも同じなのを感ぜざるをえなかった。わが国の駅馬車も円舎道はぶらんぶらんと進むが、村にさしかかると疾駆して通過するではないか。
ときどきわれわれは、不細工な形をした荷鞍の上に、すてきに大きな荷物を積んだ荷ウシを見うけた。またウマといえば、なんマイルいっても種馬にばかりゆきあうのであった。東京市中および近郊でも種馬ばかりである。ところが宇都宮を過ぎると、ウマは一つの例外もなく牝馬のみであった。この牡馬と牝馬とのいる場所を、こう遠く離すという奇妙な方法は、日本独特の本のだとの話だが、疑いもなくこれはシナその他の東方の国々でも行なわれているであろう。
村の人々が将棋――わが国の将棋《チエス》よりもこみ入っている――をさしている光景はおもしろかった。私はニューイングランドの山村の一つに、このような光景をそっくり移してみたいと想像した。
あばら家や、人が出来かけの家に住んでいるというようなことは、けっして見られなかった。建築中の家屋はいくつか見たが、どの家にしても人の住んでいる場所はすっかり出来上がっていて、足場がくっついていたり、屋根を葺かず、羽目を打たぬままにしてあったりはしないのである。屋根の多くはカヤ葺きで、地方によって屋背の種類が異なっている。柿《こけら》葺きの屋根もすこしはある。柿《こけら》はわが国のトランプ札と同じくらいの厚さで、大きさもほとんど同じい。靴の釘くらいの大きさのタケ釘がわが国の屋根板釘の役をつとめる。一軒が火を発すると一町村全部が燃えてしまうのにふしぎはない。柿というのが厚い鉋屑みたいで、火の粉が飛んでくればすぐさま燃えあがるのだから……。
日本人の清潔さは驚くほどである。家は清潔で木の床は磨きこまれ、周囲はきれいに掃き清められているが、それにもかかわらず、田舎の下層民の子どもたちはきたない顔をしている。畑に肥料を運ぶ木製のバケツは真っ白で、わが国の牛乳罐みたいに清潔である。ミルクやバタやチーズは日本では知られていない。しかしながら料理については清潔ということがあまり明らかに現われていないので、食事を楽しもうとする人にとっては、それがいかにして調えられたかという知識は、食欲促進剤の役をしない。これは貧乏階級のみをさしていうのであるが、おそらく世界中どこへいっても、貧民階級では同じことがいえるであろう。
とある川の岸で、漁夫が十本の釣り竿を同時に取り扱っているのを見た。彼は高みに立って扇の骨のように開いた釣り竿の端を足で踏んでいる。このようにして彼は、まるで巣の真ん中にいる大きなクモみたいに、どの竿に魚がかかハ、たかを見分けることができるのであった(6図)。
われわれは東京ゆきの郵便屋にゆぎ会った。裸の男が、竿のさきに日本の旗を立てた、黒塗りの二輪車を引っ張って全速力で走る。このような男はちょいちょい交代し、ウマよりも速い(7図)。
日本のカヤ葺き屋根の特異点は、各国がそれぞれ独特の形式をもってあい譲らぬことで、これら各種の形式をよく知っている人ならば、風船で日本に流れついたとしても、家の脊梁の外見によって、どの国に自分がいるかがすぐ決定できるほどである。画家サミュエル・コールマンはカリフォルニアからメインに至るまで、どの家の屋根も直線の脊梁をもっていて、典雅な曲線とか装飾的な末端とかいうものは、薬にしたくも見あたらぬといって、わが国の屋根の単純な外見を非難した。日本家屋の脊梁は多くの場合において、精巧な建造物である。編み合わしたわらから植物が生える。ときに空色のカキツバタが、祭日中、とくに男の子のための祭日が設けてあり、みごとな王冠をなして、完全に脊梁をおおっているのを見ることもある。8図け手ぎわよく角を仕上げ割りタケてしっかりと脊梁を締めつけた屋根を示Lている。檐《のき》から出ているのはハナショウブの小枝三本ずつで、五月五日の男子の祭礼日にさしこんだもの。私はこの国で、多くのそれがかくまでも一般的に行なわれていること――なんとなればどの家にも、もっとも貧困な家にも、三本ずつ束にしたこのような枯れ枝が檐から下がっていた――に心を打たれた。女の子のお祭りは三月三日に行なわれる。
日本の犂《すき》は非常に不細工に見える。だが、見たところよりも軽い。鉄の部分は薄く、木部は鳩尾《ありさし》のようにしてそれにはいっている。これを使用するためにぱ、ずいぶんかがまねばならぬが、この国の人々のふかく腰をかがめたり、小さいときに子どもを背おったり、田植えをしたりする習慣は、すべて、非常に力強い背中を発達させる役にたつ。赤ん坊や小さな子どもが両手の力をかりずに床から起き上がるのを見ると、奇妙な気がする。彼らの足は、腕との割合において、われわれのよりもよほど短い。これは一般にすわるからだとされているが、そんなばかなことはない。
路に沿ってわれわれはおりおり、丸い、輝紅色のクサイチゴを見たが、これはぜんぜんなんの味もしなかった。いままでに私は野生のクサイチゴを三種類見た。人家の周囲には花が群れ咲いている。カラアオイは非常に美しく、その黄色くて赤い花はあまり色が鮮やかなのでほとんど造花かと思われるほどである。いや、まったく、花束にはいっていたのを見たときには、造花にちがいないと思った。もっとも美しいのはザクロである。門の内には驚くほどみごとな赤いツツジの生垣があった。わが国の温室で見るのとまったく同じ美しい植物である。
小憩するために車を止めた茶屋で、われわれはいたるところを見回した。部屋はきれいに取り片づけられている、畳は清潔である、スギ材の天井やすべての木部は穴を埋めず、油を塗らず、仮漆《ニス》を塗らず、ペンキを塗ってない。家の一面は全部開いて、太陽と空気とを入れるが、しかも夜は木造のすべり戸で、また必要があれば、昼間は白い紙をはった軽いわくづくりの衝立《ついたて》で、きっちりとしめきることができる。室内のわずかな装飾品は花瓶と掛けものとである。掛けものは絵のかわりに、訓言や、古典からとった道徳的の文句を、有名な人か仏教の僧侶かが書いたものであることがある。
9図は女髪結いに髷を結ってもらいつつあった一婦人のスケッチである。木製の櫛と髪結いの手とは練り油でべっとりしていた。彼女は使用に便利なように、自分の手の甲に練り油をひとぬり塗りつけたものである。このようにして結った髷は数日にわたって形をくずさない。

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