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科学への道 石本巳四雄

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part1
科学への道
石本巳四雄




 天地自然の|悠久《ゆうきゆう》なる流れは歩みを止めることがない。この間に各人が|暫時《ざんじ》生れ出
でて色々のことを考える。しかし、人々がいかなることを考えても、人間の能力に
は限度があって、自然現象を研究し|尽《つく》すことは不可能である。
 しかし、古来思想の卓絶《たくぜつ》した碩学《せきがく》が逐次《ちくじ》に出《い》でて、簡《かん》より密《みつ》に、素《そ》より繁《はん》に研究
が進められ、自然現象の中に認められた事実は|仮説《かせつ》と云ふ形式によって|綴《つづ》られ、今
日もなおその発展が続けられているのである。この綴られた体系は、即ち科学と称
せられるものである。自然の研究は、近時日本において、研究者の増加と|卓越《たくえつ》せる
人士の出現とによって、|急峻《きゆうしゆん》に行なはれて居るのは事実に相違ないが、その研究方
針に対しても自ら|省《かえり》みる処があっても宜敷いであろう。
 筆者もこの自然現象中に生を|享《う》け、自然現象の研究に|携《たずさわ》る一人として、或る時は
|自然微妙《しぜんびみよう》の現実に接し、ある時は自然の|麗《うるわ》しい調和も感じている。もちろん科学の
体系は諸先輩の労作によって組成されたものには違ひないが、筆者も|微力《びりよく》を致して
その体系に|寄与《きよ》せんとする|念願《ねんがん》を持って居る。
 しかし乍ら、|凡庸《ぼんよう》たる|生涯《しようがい》は全く科学体系を拡張すべき実力なきを|嘆《なげ》くは勿論
であるが、或る時は研究室に出入して自然より事実を|摘出《てさしゆつ》すべき|操作《そうさ》の|機巧《きこう》に
思を悩まし、ある時は|静夜《せいや》人なきに天を|仰《あお》いで自然現象の研究に|妙諦《みようてい》を|自得《じとく》せん
とし、|斯道《しどう》に|携《たずさわ》って二十余年、|無為《むい》に過ぎた年月を|顧《かえりみ》れば、|漸侃《ざんき》に|堪《た》へないが、一
自然研究者としての心機を|吐露《とろ》して、ここに自然研究の一面を語らんとするもので
ある。
 自然は固く|扉《とびら》を|鎖《さ》して、|凡庸《ぼんよう》の力を以て打ち開くことは難事である。|然《しか》りと雖、
また考へ方を変ずれば、一木一石に|宿《やど》る自然の|妙理《みようり》も現はさざちんとするも
現われぬはずはない。即ち天才は自然を|観破《かんぱ》して、世人にその理法を指示する。天
才に関する|所論《しよろん》は已に多いが、天才は狂人と列を並べると云ひ、或ひは常人の
努力の結果|到達《とうたつ》すべきものであるとも云ふ。此れ等の所論に関して、筆者の豫ねて
|抱《いだ》ける意を|逡巡《しゆんじゆん》することなく|説述《せつじゆつ》して天才論を試みたのである。

<!-- 6行略 -->

 自然現象に関する所説は一朝一夕にその価値が批判されるものでなく、多くの年
月--たとえは百年程度--の検討を経て、その決定の行なわれるものもある。し
たがって現今|妄説《もうせつ》と考えられるものも、復活の運命に|遇《あ》ふこともあれば、今日の名
説と雖、その間|死滅《しめつ》して|忘却《ぼうきやく》の運命に遇ふものもあろう。筆者も亦平生自
然研究者の一人として学会に名を連ぬるを名誉となし、自己の|忌揮《きたん》なき自然研究の
方法を|祖述《そじゆつ》せんとするに当り、柁谷書院主人の|尽力《じんりよく》を加へて、|上梓《じようし》する運びとなっ
たのは筆者にとってこの上なき喜びである。
昭和十四年四月
著者
<!-- 改ページ -->
目次
学者と自然
自然と研究
天才論
付録
地震の原因について
<!-- 改ページ -->
科学を志す人々へ
<!-- 「科学を志す人々へ」 は 初版にはない -->
第一章
学者と自然
 自然現象は我々の感覚を通じて認めることは当然であって、科学者のなすことは
第一にこの感覚を通じて、自然現象中に単純な事実を見出すことである。感覚の中
にも視覚に頼ることがもっとも正確を期す場合が多いので、眼による判定を採用す
る。|而《しこう》しておよそ事実は場所、時を|超越《ちようえつ》したものでなくてはならぬので、世界の諸
学者の|賛同《さんどう》を得ることが必要であるのは申すまでもない。
 しかし乍ら、科学者は事実の|摘出《てきしゆつ》を以てのみ満足するものではなく、此れを或
る方式に従って系統づけることを|為《な》して初めて科学として受け入れることになる。
即ち単純な事実を自然現象中に認めて、これを科学の系統下に置くことが科学者の
務めとなるのである。|而《しこう》して此の系統下に置く場合に各学者の主観が|介在《かいざい》する事
となるので、この方法が常に議論されると同時に、その編入方法の良否、|巧拙《こうせつ》が問
題となるのは当然である。
 即ち科学者には以上二つの仕事が課されてあるのであって、第一に事実を自然現
象中から|摘出《てきしゆつ》することと、第二にはその現象を系統づける事とである。第一の仕
事は非常に努力を要することには|相違《そうい》ないが、|凡庸《ぼんよう》学者もなし得るに反し、第二の
仕事は恰も外見は努力少なく見える|思索《しさく》を以てなし得るのである。しかし、こ
の第二の行程が極めて重大なるものであり、数年の経験、数多の推理を以てしなけ
れば|到底窮極《とうていきゆうきよく》の目的に到達し得ないことを充分知っていなくてはならない。
 もちろん第一の行為においても、これには一種の|勘《かん》(過去の経験による綜合的判
断)を必要とし、已に多くの学者によって|渉《あさ》り|尽《つく》されたる部分をいかに探求して
も、新事実は出てこないのが当然であり、|未《いま》だ人々の手をつけぬ新部分を探さなく
てはならぬことは勿論である。この為に或る場合には|極《きわ》めて偶然的、云はば
|当《あ》て|物《もの》式の行為がよき成果を|齋《もたら》す場合もあるのであって、結果のみから見れば輝か
しき発見として現はれるものでも、その心底には全く偶然的の行為が充分存在する
ことがあるのである。
 しかし、勘の力とはいえ一面考へ方によればこれは程度の差であって、これは科
学的、それは偶然的の発見であるとは決し|兼《か》ねる場合に|逢着《ほうちやく》する。したがってこの
|行為《こうい》は全く学者の運、不運にも帰せられる。この事実は学者間にも常に問題となる
のであって、たとえば一学者は好運に恵まれているなどと|取《と》り|沙汰《ざた》するが、いかな
る手段を以てするとも、新事実を発見する人は常に発見し、発見出来ないものは常
に発見出来ないのを常とするから、此れは単なる偶然の結果とすべきではない。
斯様な人は得て何事か努力する傾向にあることも事実であり、又|些細《ささい》の事に対し
ても注意深いと云ふ特長から新事実を発見するものと云はざるを得ない。
 自然現象の中、我々が容易に|肉眼《にくがん》等により認め得るものは先人がすでに|摘出《てきしゆつ》して
居るので、今日我々が見出さんとするものの多くはいわば|荊棘《けいさよく》の下に隠れて居ると
思はれる。この故を以て我々は一層の努力を行なわなければ発見は不可能であり、
適当の科学器械を製作して、|然《しか》る後に研究という行為を行なわねばならぬ場合が多
い。即ち我々はここに科学器械について一言述べる必要がある。
 自然現象の認定は我々の感覚によるものであることはすでに述べた。|然《しか》るに感覚
には或る限界があって、その限界外の事物に対しては|施《ほどこ》す術がないのである。即ち
我々の眼はある限界より小なるものを見ることが出来ないのであるから、それを見
るためには顕微鏡を要する。また遠いものに対しては望遠鏡を必要とし、電流測定
には電流計を、|音響《おんきよう》測定にはマイクロフォン其他を必要とする。此らは何れ
も感覚の限界外である事物を対象とすると同時に結局何れも眼の判定に|委《まか》す方
法に外ならぬ。
 又我々の感覚判定は数量的に云ふいうことが出来ない。即ち二つのものを比較して
相対的に大小を云ふことは出来ても、例へば一つのものの重さを手でさげて数量
的にいうことは困難である。練習によって多少はその領域を拡張することは出来て
も、|秤《はかり》で測定するごとき量は感覚的に決定することは出来ない。即ち我々は科学器
械を使用することによって、これを感覚限界外に延長し、しかも現象を数量的に表
わすことが出来る次第である。
 また感覚により我々の外界認識は主観的分子を含むことを|余儀《よぎ》なくされたのであ
るが、ガリレオが十六世紀の末期、寒暖計を製作したことによって、我々の感覚に
従って暑い寒いと|唱《とな》へていたものが温度、即ち液体柱の長さによって云ひ表はし得
ることとなった。これは全く科学の一大飛躍であって、此の時から物理学が創立さ
れたと称しても|過言《かごん》ではないのである。即ち我々は感覚によってのみ寒暑の別を
云つて居たものが、外界にある液体の|膨脹《ぼうちやう》を見て、殆ど我々の感覚に一致する
|階段《スケール》を以て言ひ表す事になったからである。此れは全く我々の感覚を離れて外
界に温度の上下することを認めた初めである。当時ガリレオはまた望遠鏡を発明し
て天体に向け、木星の衛星、太陽の|黒点《こくてん》の存在を認めたのも全く科学器械の発明に
負ふ結果に外ならない。
 かく|観《かん》じ|来《きた》れば新事実の発見は全く科学器械の製作に|緒《ちよ》を発するものであり、其
の器械を採用して自然を探求することによって自然の実相が判明するのである。即
ち、今日いかなる科学の部門と雖も器械の採用を|躊躇《ちゆうちよ》しない。若しありとすれ
ば斯かる部門はたちどころに進歩は止まり、科学的に取り残された部門となってし
まふからである。
 科学器械の使用が如何ばかり今日の科学を進歩せしめるか、とくに新事実の発見
に|寄与《きよ》して居かは、今日の科学発達の道程を見れば直ちに判明することである。
又その器械も多くは写真装置を|具《そな》へて、現象移動を時間的に|明瞭《めいりよう》とすべき努力が
行はれているのである。即ち如何なる速き現象と雖も此れを写真に|写《うつ》して固
定し、|然《しか》る後、時間を充分|費《ついや》してその現象を|閑明《せんめい》せんとなしつつあるのである。
 次に科学者の第二行為である新事実を系統付けることについて述べよう。
 大部分器械の採用によって科学者が新事実を見出したならば、此れを説明するこ
と、即ち今まで存在した科学系統の中に入れること、もしまた入れることが出来な
ければ従来の科学系統を|毀《こわ》してまで、また言葉を代へていうならば科学系統を拡張
して新事実を|包含《ほうがん》せしめるのである。したがって先づ|齋《もたら》された新事実が真の事実で
あることが要望される。もし|然《しか》らざる時には科学系統を変更せしめるのに値しない
からである。一科学者の主張する事実が真の事実でない事は屡々である。これ
は|観測《かんそく》、|実験《じつけん》が誤れる場合もあるが、器械の悪い場合、あるいは器械の精度以上の
事を摘出した結果である。斯かる場合、一科学者がいかにその事実を指摘しても他
の学者が認めない限りは新事実として認めること|能《あた》はず、またその事実を|許容《きよよう》す
るために科学系統を拡張する事の必要もないのである。
 各時代に|亘《わた》って以上の如き|似而《えせ》|事実《じじつ》が屡々報告されるものであるから、
学者は充分の注意を必要とするが、余りに自重するために却つて保守的態度に
|陥《おちい》る学者も少なくない。確かにその|偏執《へんしゆう》は悪結果を|齋《もたら》す。
 扨て得られた新事実を科学に系統づける場合には、個人的、或ひは団体的主観
に|副《そ》ふものである為めに|偏見《へんけん》に|堕《だ》する恐れが充分あり、先入主観に左右されて、正
しき|偏《かたよ》らざる判断が行なわれぬ場合がある。斯様な|臆測《おくそく》が横行する場合に於ては、
科学は全く進歩せず、|停頓性《ていとんせい》を示すのであり、偉人が出づるに及んで|常道《じょうどう》に引き戻
され、正しき進歩が行なはれる。かかる場合に於ても多く|投機的《スベキユラテイブ》の考察が見えぬ事
はないので、その時代に於ては他学者は|誹誇《ひぼう》の言を発することも屡々である
が、新事実が集まれば集まるほど、天才学者の云ふことの正しきために、遂に結
局の|栄冠《えいかん》が彼に与へられることとなる。即ちある科学の部門のごときに於ては、数
十年の後初めて科学者の真価が判明した例も多くある程である。
 この系統づける問題は極めて|微妙《びみやう》なものであって、|何《いず》れが正道に属するやと云ふ
ことが当時は極めて不可解であり、学者の|去就《きよしゆう》に迷ふ事も屡々である。しかし
乍ら、今日科学者間の交通開け、決定は世界的に行はれる結果は有数の大学者
の判定に|侯《ま》つことが多いので、その判定には先づ|懸念《けねん》することが無用であらう。|而《しこう》
して科学系統を拡張するには単に学者のムラ気から行ふのでは無く、各学者の自
然観に従って行はれるのである。此の意味に於て各学者は充分其の自然観を持す
る事が正しくなくてはならぬ。自然観は一種の哲学であるために、学者は哲学思
想を持って居る事が要求される。恐らく自然科学者は|自《みずか》ら|顧《かえり》みて各自に哲学を
持つて居ることを公言するものは少ないであらうが、多少に拘はらず、又良否を
問題とせず科学系統を拡張すべき態度は持ち合せて居るのである。此の自然観が適
当でない場合には発展性を失なつて、此の人にとっては科学の拡張は|覚束《おぼつか》ないもの
となつて仕舞ふのは当然の事である。
 世の中では科学者は自然そのままの状態を綿密に|叙述《じよじゆつ》することが科学者の本分と
思ひ、科学者自身の中にも斯く信じて居る者もあるが、此れは宜敷くない。科学
者は自然其のものを明細に書き表わしたと考へても、無限の拡がりと無限の自由度
とを有するものを|凡《すべ》て書き上げる事は絶対不可能であり、ある一部分、ある状態
を|指摘《してさ》するに過ぎないのである。これはある事実を認めるに役立つことがあるかも
知れぬが、一般性は全く失はれているのである。此れを系統づけることの行為に
よつて一般性を|克《か》ち得て科学として永久に取り扱はれることとなる。日本の多くの
科学者の中には事実を|精確《せいかく》に認めることを以て科学と|心得《こころえ》、此の方法にのみ走るを
以て足れりとするが、此れは真の科学に|寄与《きよ》する道ではないのである。西洋文化を
輸入して已に数十年を経過したが、今日にてはその|面目《めんぼく》を稍々変更し、事実
を系統立てることに努力する学者も|輩出《はいしゆつ》する気運に接したのは、誠に喜ぶべき現象
である。
 また屡々聞かれる事であるが、人々は如何なる故に自然を研究するかと云ふ
問を発するが、これに就いて述べて見度い。
 人間は自然現象を観察するにおいては、此れを何とか理性的に説明しようとす
る欲望を持つ。即ち人間は本能的に自然を理性的に解釈せんとする傾向を持つと称
して|差支《さしつか》へないのである。此に就いては先づ各国の神話を読んで見れば解るで
あろう。無知単純の|野蛮《やばん》時代においても人間のまず第一に驚くものは、太陽が毎日
東から出て西に没する現象であるが、此の現象を|捉《とら》へて|巧《たく》みに説明したものが多く
あることを知る。また地震発生に疑問を持つが、此れは多くは大地を支へる動物が
存在して、其の運動によつて説明せんとする、科学的に見て極めて|幼稚《ようち》な考へでは
あるが、理性的に説明せんとする努力の存在することは確かである。
 以上の意味を以てすれば、人間は自然現象に対して本能的に此れを了解せんとす
るものであり、其の欲求を満たす為めに|荒唐《こうとう》なる説も|敢《あ》えて辞せずと云つたやうな
行動をとる。科学の進歩に伴って、或る時代には宗教と|葛藤《かつとう》を生じた事もあるが、
科学者は|敢然《かんぜん》として立うてこれに反抗した事実がある。此れは同じく本能の|然《しか》らし
むる処と思われる。今日と雖も科学研究、或ひは科学所論に|圧制《あつせい》が加へ
られるにおいては再び中世紀の|所為《しよい》を|繰《く》り返へすかも知れない。
 自然現象の研究はいかなる理由において行はれるかと云ふ問題に関して古来主
として哲学系科学者の考へたものが多いが、此所にポアンカレーの所論を紹介する
と、
<!-- 引用 2字下げ -->
  科学者は実益あるが故に自然を研究するのではない。自然に|愉悦《ゆえつ》を感ずればこそ、此れ
  を研究し、また自然が美しければこそ、これに|愉快《ゆかい》を感ずる。……この特特殊な美を
  求める心、宇宙の調和に対する感覚が吾人をして此の調和に|貢献《こうけん》するに最も適した事実を選択せしめるのである。

  Le savant n'etudie pas la nature parce que cela est utile; il l''etudie
parce qu'il y
  prend plaisir et il y prend plaisir parce qu'elle est bell. …… C'est
donc la recherche
  de cette braut'e sp'eciale, le sens de l'harmonie du monde, qui nous fait
choisir les faite
  les plus propres `a contribuer `a cette harmonie.
                             H.Poincar'e
<!-- 引用ここまで -->
と述べて居るが、即ち彼の思想の根本は「自然に対して|愉快《ゆかい》を感ずるから、自然
を研究する」と云ふ。吾々は確かに自然研究に対して愉快を感ずることは事実であ
るが、その愉快が立所に研究と云ふ行為を取らしめるか否かは今少しく検討
を要する。自然を研究しつつ了解領域の次第に増加するを見て喜び、|結着点《けつちゃくてん》に達す
る愉快を心に描き、勇気の百倍してますます研究に|励《はげ》む事は我々の経験し見聞す
る処であるが、自然研究の発芽が|已《すで》に愉快から発するとは考へ|難《にく》いものである。
 又シュレディンガーによると、
<!-- 引用 2字下げ -->
  人間は生活の|余力《よりよく》を以て肉体的|遊戯《ゆうぎ》または競技を|為《な》すが、このほかに智的遊戯をも行
  ふ。智的遊戯の諸例としていわゆる机上遊戯、即ち|骨牌《かるた》、|将棋《しようざ》、ドミノオ、または謎
  の類を挙げる。然し自分は此の種の中に凡ての智的活動、科学の如きも同様に
  含有せしめる。此れは科学の全部でなくとも、少くとも科学の|前哨《ぜんしよう》である研究行為自体を意味するものである。
<!-- この引用の英文が省略されている -->

<!-- 引用ここまで -->
 と書いて居るが、彼は自然研究は競技の一種として主張しているのである。少な
くとも、研学者は外に目的を求めることなく、自然研究自体に意味ありということ
を強調するものであって、功利的立場を|排撃《はいげき》するのである。この点に関しては全く、
競技的精神と自然研究精神とは一致するのである。百メートルを十秒程度で走って
みても、何の役に立つか、早く行きたければ自動車、汽車に乗っていったらよいであ
ろう。人は水上を百メートル泳ぐに一分程度の時間がかかるが、汽船を以て行けば
もっと短時間に到着する。人間は何を好んで競技をなすかなどと|反問《はんもん》する人々には、
科学精神の根本は|未《いま》だ|悟《さと》れないのである。
 ポアンカレーの|所説《しよせつ》は|浪漫的《ロマンテイツク》であるのに反し、シュレディンガーの所説は|適切《てきせつ》で
ある。前者は夢を見ているに対し、後者はこれを競技と解釈したのである。競技は
上述のごとく、なんら目的を有せずその行為自体に意味あることを思わしめ、相互
に|切磋《せつさ》すると同時に勝負を必然的に|暗示《あんじ》する。またある場合には個人的の|優越性《ゆうえつせい》を
認めることもあるが、また団体的の優越性をも|考慮《こうりよ》される。以上を思い合せれば、
自然研究精神は正に競技的精神と極めて協調する点の多きことを思わしめるのであ
る。
 功利的精神に|培《つちか》われた人々は決して科学者になることも理解することも出来な
い。自然を研究しても今日直ちに実益を得ることは困難である。人間はその欲求と
して自然の構成を了解するのであって、人間の生活に対していかなる影響を与える
かという事を|考慮《こうりよ》する|暇《ひま》がないのである。世間では工学者と科学者とを屡々混
同することがあるが、工学者は全く功利的立場にあり、人生直接の交渉の下に企図
されたのであるが、科学の根本精神はなんら人生と直接関連を保つものではない。
したがってこの意味において科学者は全く世間と|没交渉《ぼつこうしょう》となり、|偏見《へんけん》的学者の|輩出《はいしゆつ》
する|弊《へい》をも生ずる。
 しかし、この偏見的学者は科学が社会と関係なきものの結果生じた|所産《しよさん》と考える
のは|当《あた》らないであろう。科学者は自然研究に|没頭《ぼつとう》する|余《あま》り、常識を|欠如《けつじよ》する事とな
るのであるから。
 上述のごとく科学者が自然を研究する態度は、|愉快《ゆかい》を感ずるからであるといい、
また研究は|遊戯《ゆうぎ》であるというが、自分はこれを本能的|所作《しよさ》であると考える。誠に人
間の行動を説明するに種々の説があるには違いないが、この科学的研究の説明にも
種々の|仮構《かこう》ができるのである。根本は本能でありながら、研究が順調に進む場合に
於ては確かに愉快を感ずるものであり、ある場合とくに研究の|進捗《しんちよく》が行なわれない
時には、世の中にこれほどの不愉快はないのである。しかし、|素人《しろうと》科学者は知らず、
自ら科学者を以て任ずる者は不愉快だから止めるということは出来ない。人生これ
ほどの|悲痛《ひつう》はないのである。研究が順調に進むものは、その愉快に誘われてますま
す研究が行なわれて大科学者となり得るが、不愉快を長年月に|亘《わた》って繰り返えすも
のは中絶して他方面の職業に転ずるものさえあるのである。
 自然の研究には|難易《なんい》のあることは事実であり、初めは易より入って難に|赴《おもむ》くべき
性質のものが、初めより大望を|抱《いだ》いて大研究を夢みるために、成るものも成らずし
て失敗を招く事が屡々である。このためにはよき指導者を必要とし、自然研究
に携《たずさわ》るにおいて、常に愉快に進捗しなければならぬ。ポアンカレーの自然に愉悦を
感ずる態度もおそらくかかる|消息《しようそく》を物語るのではないかと思われる。
 確かに物理学を研究するものには数学を必要とし工学を研究するものには|概《おおむ》ね
物理学を必要とする。しかしながら、数学、物理学、工学は|厳然《げんぜん》たる区別のあるこ
とは周知の事実である。数学者は物を離れて、数の存在を系統的に|閲明《せんめい》することを
要し、物理学者は実益を|度外視《どがいし》して物の性質を|窮《きわ》める。工学者は人生と関連を求め
て働く。けだし科学と工学の|差異《さい》は実益の有無を対象と|為《な》すか否かと見えるが、こ
の区別方法に対しては筆者は不満を感じ、ここに別途の区別方法を提案する。
 即ち以上二学の区別を有象的、無象的を以てその差となすのである。即ち理学は
無象的であり、いかなる大学者出ずるとも地上に創作する有象物は絶無であり、た
だ自然界の法則、原理の存在を人々に教えるのみである。これに反し工学の|齋《もたら》すも
のは全く有象的であって、建築物をたてる、汽車を作る、|燧道《すいどう》を掘る等一つとして
有象物を生産しないことはないのである。このために、有象物は相当の価格の推定
が出来て経済問題と密接の関係に置かれる、工学に携わる人の中にはよき教師で
あっても、有象的に事物を取扱わざる限り、これはよき工学者と呼ぶことは出来な
い。
 またよき理学者は事を作る事は知らずとも、自然界に存する新事実、法則、原理
等を|閑明《せんめい》し、人々に知らしむるならばそれにて足るのであって、彼の死後残るもの
は、論文の外はないのである。世人はややもすれば、有象的事物を以て科学の進歩
と考えるかも知れぬが、これは工学の進歩であって、決して純正の意味において理
学の進歩ではない。理学は即ち無象物であるために世人一般に認められること少な
く、また|鑑賞《かんしよう》されることも少ないのである。
 工学の世を益するということは人生と直接関係あるが故であり、理学は人類最高
の理想を現出せしめんとするのである。世人は多く功利的立場に立つものであるか
ら、世を益する、益しないの判断を下し、理学を以ていわゆる利用価値なきと判定
するごとき|軽挙《けいきよ》を|敢《あ》えてする。科学者は数百光年の先の星の光を分析して、その中
に含まれる原素を知っても何になるか、原子の構造が陽電子、陰電子、中性子から
成立していても何ら役にたたぬと考える人には、すでに科学の何たるかを論ずるに
値しないのである。科学はたんに自然現象の構成を明らかになすを以て足り、科学
者はこれを行なうを以て天職と考えているのである。我々は先天的にすでに自然現
象を理性的に解釈せんとする欲求を持ち、これを以て自然を表現せんとする理想を
抱いている。もちろん今日科学者は自然に直面してすべてのものを理性的に解釈し
得たりとは信じていない。とくに精神的方面においては|然《しか》りであるが、年月の経過
によりまた努力によって何時の日にかは全ての自然を理性的に解釈し得ることのあ
るを信じている。
 かくて科学者は自然とともに生き、その調和ある美しさを理性的に|閲明《せんめい》し|尽《つく》さん
としている。即ち|得難《えがた》き人生もこれに|費《ついや》してあえて|悔《くい》なく、以上の生活を|至上《しじよう》のも
のと感じて生存しているのである。(知性第二巻一号)
<!-- 改ページ -->
第二章
<!-- タイトル -->
自然と研究

科学者と思想

 自然科学者は自然現象を研究するには|相違《そうい》ないが、その研究たるやたんに子供が
楽しげに|玩具《がんぐも》を|玩《てあそ》ぶごときものではない。|既知《きち》の知識の上に追加すべき知識を系統
立てて積みあげることである。即ち一面には新しき知識の開発と他面にはそれらを
系統立てるために、ある時は極めて|大胆《だいたん》な仮説を必要とする。即ち科学者は以上二
段の手法を|体得《たいとく》する者でなくてはならないし、その行動も、これに|合致《がつち》する作業を
しなくてはならない。
 確かに多くの学者は|新事実《しんじじつ》を見出すために働き、|仮説《かせつ》を作るために|奔命《ほんめい》するには
違いないが、その|報償《ほうしよう》は決して大なるものとはいえない。一生働いて大した新事実
も見出せず、また価値ある仮説も|呈供《ていきよう》し得ないで死んで行く多くの学者がある。こ
れらは正に能力なき研究者と|卑下《ひげ》してよろしいのであろうか。|惟《おも》うに、確かに無能
な研究者はなんら|為《な》すことなくして、時日を|費《ついや》し、一生を|無為《むい》に送るのは当然であ
るが、相当に|頭脳《ずのう》の|明晰《めいせき》な人間といえども、研究者として大なる働きの出来ないも
のもある。これは自然研究者に適しないといえばそれまでではあるが、その天分に
ついて少しく|吟味《ぎんみ》して見ることも|徒労《とろう》ではあるまい。
 自然研究者が新事実を見出す行為において、極めて|偶然《ぐうぜん》的要素のあることは|誰《だれ》し
も認めるところである。古くは|彼《か》のガリレオのごとき、偶然にもオランダの眼鏡屋
の言葉を聞き、これを基として望遠鏡の製作に志し、完成後望遠鏡を天体に向けて
各々の星を|窺《うかが》ったことに|起因《きいん》して、天文学上の多くの発見をなした。発見をなした
ることは真に偉き事なれども、その本源は単なる|聞《き》き|込《こ》みから発しているのである。
当時存命中の仏国哲学者デカルトはその発見を聞き、
<!-- ここから引用 -->
  我々の生活のすべての作用は感覚に|拘《かかわ》っている。|而《しこう》して感覚の中、視覚はもっとも一
  般的でもっとも高貴である故に、その力を増すに役立つ発明は確かにもっとも有用な
  ものである。中にも驚くべき眼鏡の発明以上に視力を増加するものは見出し難い。こ
  れはつい先頃から用い始められたにも拘らず、すでに天空に新しい星を、また地上に
  新しい事物を以前に見たよりも|遥《はる》かに多く観測した。...... しかし我々の学問に対して
  恥ずべきことには、これほど有用で驚くべき発明は、初めはただ経験と偶然とによっ
  て発見されたのに過ぎなかった。
<!-- ここまで引用 -->
と言って、望遠鏡の発明が我々人間にとって、偶然性という恥ずべき行為によっ
て成されたことを指摘している。確かに哲人にとってはその偶然性を|卑《いやし》めるかも知
れぬが、偶然的事物を取り上げ得る能力は正に科学者として非凡人と考うべきであ
ろう。古来物理学、化学上の発見にして偶然ならざるものが果して|幾何《いくぱく》あったであ
ろうか。熱電気、X線、放射性物質等、考え来たればいずれも偶然の発見といわざ
るを得ないものの多くあることに気がつくのである。昔時は我々の経験により自然
現象と|接触《せつしよく》していたものが多かった関係上、容易に研究に立ち入ることが出来たの
であろうが、これらの経験を|辿《たど》って充分に自然現象を研究し尽して後は、我々の意
表に接触する偶然の現象を|把握《はあく》するほかはないようになったのである。
 かように偶然的の現象を|捉《とら》えることの出来た人間は少数であったに違いないが、
接触する多くの人々のあった中に、それに|留意《りゆうい》して初めて発見の|栄誉《えいよ》を|担《にな》うことと
なったのである。発見の行為が|恥《はず》べき偶然の行為から出発していると考えるのはど
う考えても|酷《こく》としか思えないのである。確かに今日といえども発見の偶然性を|卑《いやし》め
る人がないでもないが、さようならば新事実の発見者に対して栄誉を贈ることも意味
なきことになるといわなければならない。
 次に仮説の設立に対する行為について述べよう。
 新事実の発見があれば、これをいかにして|旧来《きゆうらい》の系統の中に|挿入《そうにゆう》するか、また旧
来の系統を|破壊《はかい》して挿入するかという問題に直面する。従来、日本人の自然研究者
の中にはかようの仮説を設立することを喜ばぬ傾向が充分あった。西洋人の打ち立
てた仮説に賛意を表することが、誠に忠実な行為であり、これに異説を唱えるは狂
人であるか、|然《しか》らずんば学者としての教養なき者として|白眼視《はくがんし》されたものである。
これは明治時代に欧米の文化を輸入するに|忙殺《ぼうさつ》され、自己発展の機を|蔑《いやし》んだ影響で
もあったであろうが、とにかく、仮説設立に対しては反対的立場を持する学者の多
かったことは|否《いな》み難き時勢であった。学は確かに仮説を作って、|統轄《とうかつ》するところに
真意があるのであって、ポアンカレーは、
<!-- ここから引用 -->
  人々は科学を建設するに事実を以てする。これはあたかも家屋を建築するに石材を用
  うるに等しい。それ故、秩序なき石材の|堆積《たいせさ》を家屋と呼ぶことの出来ないと同じく、
  たんなる事実の集積を以て科学と呼ぶことは出来ない。

On fait la science avec des faite comme on fait une maison avec des pierres,
mais
une accumulation de faite n'est plus une science qu'un tas de pierres n'est
une
maison. H.Poinca'e
<!-- ここまで引用 -->
 と叫んでいるのは、仮説なき科学は石材の|累々《るいるい》たるに等しく、一つの系統、人間
の考える設計あって初めて家屋の出現することに科学を|讐《たと》えたのである。科学の系
統は国境の有無を問わず、時の古今を|超越《ちようえつ》したものには相違ないが、その手法、そ
の設立の可能、不可能については、正に国境内に|培《つちか》われなければ発育出来ないので
ある。これは砂漠の中に植物の生育せざるごとく、|培養《ばいよう》の要素が|無《な》き限りは|覚束《おぼつか》な
い。またあるいはピアノ無きところにピアニストは出でざるがごとく、自然研究設
備とその精神の無きところには決して科学者は出ないのである。中にもこの科学精
神なるものが極めて貴重なものであって、この精神の|酒養《かんよう》なければ科学者の大成は
決して|覚束《おぼつか》ないのである。
 誠に科学を進歩せしめんとするには、まず科学者の精神の根底思想から打ち立てら
れなくてはならぬ。ポアンカレーは公正にして、|偏《かたよ》らざる心を|培《つちか》うことの必要性を
説くが、東洋人の思想の中にも、|王陽明《おうようめい》の|思索《しさく》、|参禅《さんぜん》の|要諦《ようてい》等はいずれも偏らざる
本性の自然に|発露《はつろ》するを工夫しているのである。科学者たるものも|不偏《ふへん》なる心を養
うことを忘れては学の大成することはむずかしい。曲げられた思想ほど恐るべきも
のはないからである。
 科学者の思想はあたかも船の|舵《かじ》のごとき役目をなすが、人々はその船の|何処《いずく》に行
くという事をはっきり自覚しないために、なおさら方向の向け方が難かしくなるの
である。船にはしっかりした舵があり、船長の命令によって、思うがままに目的地
に進むのである。科学者も心の中にしっかりした方向を定める舵のない場合には、
行きつくところは全く不明となり、|尊《とうと》き人生も|無駄《むだ》にしてしまうのである。この確
保された思想、これによって我らの方向は定められ、力を|掲《つく》して前進が行なわれる。
 またこの思想は、自然観と呼んでも差支えないものである。我々は|朧気《おぼろげ》であるい
は明確を好くかも知れぬが、自然はかくあるべし、自然はかく進展すべしという観
念をもっており、この観念が自然現象に接して、ある時は正しき例証を得、ある時
はその正しくないことを見る。正しき例証を得て初めて研究者の進み行く道が指示
されるのである。自然研究に接してもっとも|唾棄《だき》すべき行為は、|撓曲《どうきよく》された観念を
自ら抱いてしかも自然現象と|照合《しようごう》することを行なわず、ついには自然現象さえも自
己の不正観念に|束縛《そくばく》することである。我々はかかる例を屡々見るのであるが、
かかる研究者は自己の研究発展が行なわれぬのみか、他研究者に対しても害毒を散
布する|似《え》而|非《せ》学者であることを|極言《きよくげん》するのである。
 即ち我々は公正不偏の思想を有する研究者をもっとも|貴《たつと》ぶと同時に、かかる研究
者の行動は正に大成することを思わなくてはならない。自然科学は全く、自然現象
中の事物を|堪念《たんねん》に|描写《びようしや》することが研究者の|務《つと》めのごとく信じている人々もいるか
も知れぬが、それは間違っている。研究者はまず自己の思想を正しく持することの
修養から出発しなければ、自然を正しく見ることは|覚束《おぼつか》ない。自然の中に調和ある
法則を見出すことは、結局自己の心の中にある調和的のモチーフを自然に|照合《しようごう》して
見出すのである。心の中に|無《な》きものが果して見出せるものであろうか。眼底に映ず
るすべての事物も注意することなければ、認めることは出来ないのである。
 ニュートンの万有引力の仮説は|林檎《りんご》の木から果物の落ちるのを見て考えついたと
いわれているが、この伝説の|真偽《しんぎ》をここに問うのではない。一つのあり|得《う》べき話と
して|請《う》け入れ、かつその道程を考えて見れば充分である。幾万人の者がニュートン
以前にも果物の木から落下するのを|眺《なが》めたであろう。|然《しか》るにニュートンが初めてそ
の落下する有様を見てから引力の存在が考え出されたのである。ニュートンの心の
中にはすでに万有引力説が芽生えており、準備的の行動がすべて出来上っていたが
故に、林檎の落下によって|点火《てんか》されたまでである。思想が先にあったか、林檎の落
下が先にあったかというならば、筆者は即時に思想の先在を主張するのである。こ
の点から見ても思想の大切なることは充分判るであろう。
 即ち研究者の心に画くものがあれば、自然現象の中に実相が|把握《はあく》出来るのである。
したがってここに不正の思想によって心に画くものが間違っておれば、極めて|妥当《だとう》
を欠く表現が行なわれる。この故に研究者は絶えざる心の教養を|積《つ》むことを必要と
し、|漫然《まんぜん》自然研究に携ることを深く|慎《つつ》しまなくてはならぬ。この意味を強調するた
め筆者がかつてものした短文を以て|結語《けつご》とする事を|許《ゆる》されたい。
<!-- ここから引用 -->
  科学者は自然研究に熱心であるというのみでは未だ足りない。人間知性の構成せる科
  学という体系に|基《もとづ》き、その拡張を|敢行《かんこう》する研究行為を必要とする。|而《しこう》して科学者の自
  然現象に直面して自己の研究を|遂行《すいこう》するに当っては、もちろん技術的方法を以て自然
界より純粋に現象を取り上げる。したがって世人の中には単にかかる能力あるものを
目して科学者と呼ぶ場合もあるであろう。しかしながら、真の科学者はその技術の優
秀なるに加えて、科学体系の拡張を正しき方向に進ませ得る、いわば|舵手《だしゅ》のごとき役
目までも|具備《ぐび》していなくてはならぬ。これはたとえばいかなる船といえども舵なくし
て目的地に進行し得ざるごとく、たとえ自然研究の目的地は明確でなくとも、舵なく
して科学の拡張に合致すべき研究はいかなる努力を費すとも、実現性の|覚束《おぼつか》なきを知
る故である。

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