|新しいページ|検索|ページ一覧|RSS|@ウィキご利用ガイド | 管理者にお問合せ
|ログイン|

科学への道 part5


※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

<!-- 十五 -->
<!-- タイトル -->
研究と労作
<!-- -->
 自然研究に当っては人々は極めて多くの労作に時を費さなければならぬ。一つの
事実を認めようとする場合においても、出来るだけ四囲の状況を確めてみてようや
く一つの事が判明する場合が多くて、これだけの労力は決して|厭《いと》ってはならぬ。し
かも事実の|穿整《せんさく》のみが科学の要素ではない。得られた事実を系統|統轄《とうかつ》することもも
ちろんである。このためにはたえず考えていなくてはならぬ。すべての事実を系統
立てる行為は頭の中の仕事であって、決して目には見えない。したがって外観的に
遊んでいるごとくに見える場合もあろうが、むしろこの頭中の労作ほど偉大なもの
はないのである。また頭中の労作は目に見えないために、これをよき|幸《さいわい》として、|獺惰癖《らんだへき》に|陥《おちい》る学者もまた絶無とはいえない。ともあれ、自然研究者は一方に体力的労
作をなすと同時に、他方に精神的労作を常に行なっていなくてはならぬのである。
前者は事実の|探索《たんさく》に当り、後者は仮説を以て系統づける行為に当るのである。
 およそ研究者は労を|厭《いと》うものではないが、ある場合には研究の岩壁に|衝《つ》き当った
かのごとく、一歩も前進出来ない|破目《はめ》に陥ることもあって、全力をつくしてあがい
てもなんら効果ないことがある。この時は果してどうすればよいのであろうか。
 かようの境地はいかなる研究者といえども味わったことがあろうと思うが、筆者
の経験によればそれは研究者の力の足りない故に原因するとも考えられる。即ち取
組むべき角力の相手が強すぎるのである。力弱きものはそれ相当の相手を選んで取
り組まなくてはならない。学校出たての若い研究者は容易なものから手をつけるこ
とが必要である。いたずらに大望を抱いて古来大学者の列に加わらん等と考えるこ
とが貯嵐いのもとである。たとえばアインシュタインのごとき大学者の業績を調べ
て見るに、二十歳頃から一ヵ年平均十個の論文は発表している。しこうしてその中
最高峰たるべき相対性原理も含まれているのである。彼の美事に|踏破《とうは》した最高峰に
登らんと試みる研究者の意気はよろしい。
 しかし、いかなる山岳|登撃家《とうはんか》も、ヒマラヤ山を|克服《こくふく》する前に比較的低くしかも容
易な山に登って、自己の能力を高めてから、ヒマラヤ山に戦を挑むのが順序である
と思われる。いたずらに|暴虎漏河《ぼうこひようが》の勇気を以て突進しても、決してヒマラヤ山は征
服することは出来ないのである。
 自然研究も同様である。初めから諸大家の業績に|憧《あこが》れることはほとんど危険であ
る。自分の能力相当の仕事をなすべきである。かような仕事をしている中に、|腕前《うでまえ》
もあがってくるし、経験も積む事によって、次第に困難な研究も出来てくるのであ
る。筆者が研究に従事したばかりの時であるが、研究の成果の出来上ったものは極
めて少なく、十度に一度位の割合であった。その中に経験も積み、手法も向上した
のであろう。現在にては十度の中九度は成功するようになったのである。しかもそ
の労作はほとんど同程度でありながら。
 この頃若い研究者に向っては、まず十編の論文を書くことを試み給えという、そ
うすれば研究者として一応|待遇《たいぐう》されることとなるから、また死ぬまでには百編の論
文を書いて見給えという、そうすればその中、二、三編は人に負けない良い論文が
必ずあるに極っているからという。誠に一生百編の論文を書くことは労作である。
二十年間働くとすれば、一ヵ年五編程度の論文を書くこととなる。これは|生半可《なまはんか》の
ことではやりとおすことは出来ない。人々はいうかも知れない。もし以上のごとく
に働いたら体を壊すか、あるいは|粗製濫造《そせいらんぞう》の|誹《そしり》は充分受けると。この点に関しては
さようの心配はあるかも知れぬが、働いたが故に病気となるのは、働き方を知らな
い人の言うことであるし、粗製濫造のものが果して発表出来るか、これは研究者の
良心に待つほかはない。|慎重《しんちよう》なるべきものは、かえって悪いことがある。自然研究
に充分以上の慎重を以てすれば、一生涯一編の論文も書けぬこととなる。慎重貴ぶ
べし、過ぎれば害毒ははなはだしいというほかはないのである。
自然の研究に|無駄骨《むだぼね》を折ることは屡々である。いくら働いてもなんら効果を
|齋《もた》らさぬ研究がある。これは初めの研究すべき対象の選定が悪かったということに
もなるが、およそいかなる問題が効果的であるかという反問も生ずる。この問題に
対してはポアンカレーの言えるごとく|偏《かたよ》らざる公正なる思想を以て事に当るには違
いないが、末梢的研究と根本的研究との差は充分あるはもちろんのことである。
 これらの判定は人々の思想傾向の問題であり、また趣味であるともいえるのであ
ろう。一般に見て根本的研究に携ることは人々の望むところであるが、研究者の趣
味、性格的に|末梢的《まつしようてき》のものに興味を有する人もないではないのである。考え方によ
れば、これも絶対役にたたぬということはない。しかし、同じく労作するならば効
果多き根本的研究を|遂行《すいこう》すべきである。少なくとも科学は新事実を探し出し、これ
を従来の系統の上に建設するものであるから、従来の系統をより多く拡張する態度
は充分もっていなくてはならないのであり、この気持の下に労作に従事しなければ
ならぬのである。
 人々の意表に出でんとする希望が念頭にあるあまり、従来の系統に無関係に建設
を行なわんとしても、この行為はかえって学界の|嘲笑《ちようしよう》を招くほかはないであろう。
 自然の研究は科学の発達として世界的仕事でもあるから、国際的に協調すること
が一面に極めで必要である。このために研究結果は世界的に読まれる国語を以て記
載する必要が生ずる。したがって自然研究者は外国語が読めるばかりでなく、書く
ことが出来なければならぬ。日本人は中学時代から英語を習う関係上、英語がもっ
とも得意である故、得て英語のみが世界語の感を深くし、欧洲を旅行しても英語で
押し通そうとする。英語を知っていることははなはだ|結構《けつこう》なことであり、学術論文
も英語で書くことは国際協力の目的を達する上に役立つことではあるが、英語のみ
が国際語でないことは充分知っていなければならぬ。たとえば測地学、地震学、火
山学に関する国際中央局の刊行物の表題は決して英文で書いてはない。英語のみが
世界的に通用する言葉でないことは明らかである。英語を以て論文を|綴《つづ》る労作もま
た必要には違いないが、それだけでは学者は未だ足りないのである。
「学者と外交官は仏語が出来なくては駄目である」という言葉は去年伊国を|巡遊《じゆんゆう》し
た時外交官から聞いたものである。確かに自然研究者は自然研究ばかりに|堪能《たんのう》で
あっても、外国語が出来なければ、国際的に自分の意思を発表することが出来ない
のであるから、外国語を理解し、外国語で発表の出来る程度の勉強に労力を費さな
くてはならない。自然研究者は一生を費して、この道に|精進《しようじん》するのであるから、そ
の中の数年を語学勉強に充当するも決して惜しくはないのである。要はその決意一
つである。
 以上のごとく自然研究者は常に自然現象に力を|竭《つく》して、常に現象に注意すること
に仕向けられればよいのであって、初めの中は少なくともつとめてその行動に|馴《な》ら
されることが必要である。野騨忘るる事なく自然現象の探究が念頭にあって離れな
ければ、自ら研究の|進捗《しんちよく》が見られる。またその目的のためにはなんでも勉強してか
かればよいのであって、この傾向が習慣となれば必ず一世の大学者となれるのであ
る。労作なきところに学なし、古来の自然研究者にて|怠惰《たいだ》なるものの大学者となっ
た例はない。しかも目的ある努力は一生中継続することはむずかしい。博士になろ
うと思って努力するもの、|賞牌《しようはい》を貰わんがために労作するもの、これらはその目的
が達すれば勉強を|放棄《ほうき》するのである。外観的にはいかに努力と見えても内心は楽し
んで学に携るものは、後世恐るべきものとなるのである。論語に、
<!-- ここから引用 -->
  之れを知る者は之を好む者に|如《し》かず
  之れを好む者は之を楽む者に如かず。
<!-- ここまで引用 -->
<!-- 十六 -->
<!-- タイトル -->
科学と功利
<!-- -->
 科学が役に立つか、立たぬかの議論が屡々なされるが、科学研究者以外の人々
はほとんど自然を研究すれば直接役に立ち、また直接役に立つ科学が研究価値ある
ものと考えている。科学は以上論じたごとく直接役に立つことを目的として研究し
ているものではなく、自然現象を|闡明《せんめい》するところに科学の本領があるのであって、
その研究が、直接役に立てば幸であるが、直接役に立たずとも価値がないというこ
とはない。ただし末梢的研究は役に立っても、科学的に価値なきものもある。自然
現象の中には理性的に|闡明《せんめい》されない部分が極めて多いのであって、その本体が明ら
かにされることによって、必然的に応用方面の道も開かれてくるのである。したがっ
て|既知《きち》の現象を|捉《とら》えて応用的、功利的の傾向に移すのも結構であろう。しかしなが
ら、この場合自然研究者の態度とはおのずから異なったものになるのは当然である。
 しからば自然研究者のなすことは全く社会には意義なきことのみであるかという
と、これは全く文化的、精神的の問題であるといえる。社会的にもっとも縁遠しと
考えられる天文学についていうならば、天文学の中には時刻の研究がある。しかも
一秒の千分ノ一までの議論が今日|為《な》されているという状況にある。しかるに社会的
の実状からすれば、一秒程度の時間の差は現在は不必要であって、汽車の発着など
も一分を単位としているくらいである。また運動競技用の時計にしてもようやく一
秒の十分ノ一を|測《はか》る程度であるから、一秒の百分ノ一、千分の一を測ることは必要
はないと考える人もいるであろう。しかし、これは立場の相違であって、必要説と
研究説との差異から生ずる結果である。
 人々には理想というものがあることは誰しも知っている。この理想に即して我々
が行動することが人間至上の徳行とされており、道徳が我々の行動を純潔ならしめ
るのである。世の中には道徳などはない、金を|儲《もう》ければよいと考えている人もあろ
う。また衣食の事が|先《さき》である、なんら道を聞いても仕方がないという人もあろう。
即ち「衣食足って|礼節《れいせつ》を知る」とか、「|恒産《こうさん》なきものに|恒心《こうしん》なし」とかいうことが言
われているごとくである。したがって功利説者に対しては道徳の美しきこと、理想
の存在ということは説いても|無駄《むだ》である。まず衣食を足らしめよである。
 科学者には理想がある。人間の出来得べき最高峰まで昇りつくさんとするのであ
る。理性的に現象を究めつくすまで働きたいとするのである。これはおそらく人々
が本能的に持っている欲望であろう。かような欲望の前には、必要性も功利性も眼
中にはないのである。やむにやまれぬ精神的行動というほかはないのである。人間
の文化向上のためにつくすのであって、自然現象を聞明あるいは学を保つために努
力するものである。
 人間はもちろん衣食を得んがために働かなければならない。科学者も人間である
ために生活をなすことが必要であるが、食うために働くのには非ずして、働かんが
ために食うのである。芸術家は己れの作品を|鬻《ひさ》ぐことによって衣食の道を講ずるが、
学者は教壇に立ってようやく生活するが、これは本領ではない。ある学者のごとき
は教壇に立つことが本領と思っているが、かようの人はよき教育者であっても、よ
き科学者と呼ぶことは出来ない。教育者にも|厳然《げんぜん》たる本領があるものであるから、
決して|卑下《ひげ》するものではないが、科学者としては当然自然研究に|没頭《ぼつとう》するものを指
すのである。
 功利論者のいうこともなんらか国家社会に奉仕してこそ学の存在理由があると主
張するであろうが、これは別個の人間、あるいは科学者が本領を替えて働いている
のである。科学者が自然|闡明《せんめい》のみに立ち|籠《こも》ることに相違ないが、応用学、社会国家
に直接ためになる仕事をなす場合には科学者という立場からは離れているのであ
る。あまりに心を狭く持って、自分は科学者である、他のことに携ることは|真平御
免《まつびらごめん》であるという科学者もあるかも知れない。また科学的根拠から出発して社会国家
に|稗益《ひえき》する行動をとる学者もあるかも知れない。これらは人々の適、不適、あるい
は性格の然らしむるところであるというべきであろう。
 科学者には確かに本領があり、自然を研究する事に対して天職を感じており、ま
た感じていればこそ、衣食の心配をすることなくして、各自の仕事に|没頭《ぼつとう》出来るの
である。即ち科学者は人間文化を高めんとする精神的労働に甘んずる種類の人間で
ある。したがって功利的の仕事に触れないばかりか、精神労働が応酬的に金持にな
ること等も夢みていないのである。しかも自然研究に数十年携って克ち得ることは
自然研究に必要な思想とその手法とであって、|汲々《きゆうきゆう》としてこの|道《う》の為めに尊き人生
を|捧《ささ》げつくして|悔《くい》ないのである。この科学者の高き理想はなんら曲ぐべきものはな
い。ただしある科学者に対して、一向つまらない研究に|没頭《ぼつとう》しているという非難は
どこから起こるのであろうか。
 考うるにこれは科学者の力量と思想問題とである。いずれの人達も科学の根元に
携る研究をしたくは思っていても、些々事に気が奪われてその方の研究に突入して
しまうのである。自然現象はどこにもあり手当り次第である。この中に研究対象と
して撰択せしめるものは、各自の脳中に|介在《かいざい》する思想の命令である。したがって、
些細の事にても研究は研究なりと考える者は、好んでもかかる研究に没入するので
ある。
 ある学者は些細の事にても研究しておけば何か役に立つというが、科学の本流が
方向を替えるに於ては一切役に立たぬことも生ずるであろう。些細の研究は必要が
生じてからなせばよいのである。また力量が足りない時においては、本源的の研究
が出来ないで、容易な小さい問題を捕えてお茶を|濁《にご》しながら、研究者として職責を
つくす態度を示しているのである。かような研究に対しては、少なくとも|具眼《ぐがん》の士
はその成果に対して鑑賞的|情緒《じようちよ》を|発露《はつろ》せしめないのである。
 科学は人間精神的労作であり、これに接する場合一種の美的情緒を感ずべきもの
であり、この情緒あればこそ、そのところに|尊敬《そんけい》すべき、理智的美感を生ずるので
ある。しかもその鑑賞を生ぜざる労作は価値的に劣ると称せられても致し方がない
のである。科学は正に芸術に対するとほとんど類似の感情を以て律し得べき点が多
いのである。芸術に美を感ずると類似の感情が科学に接する場合に起こるものでな
ければ、科学の価値は|云々《うんぬん》することが出来ないのである。この心持は人間根本の本
能的処作として存するからであろう。
 自然の研究は本能に|立脚《りつきやく》しているのであるが、これは精神的の|所作《しよさ》であるが故に
尊く、またこれをどこまでも発展せしむべきものであると信ずる。人間には道徳も
あり、理想もある。これらはいずれも精神的行動であると同じく、自然研究はただ
精しく写真のごとく、自然をそのままに叙述することではない。もちろん事実とし
て自然現象を明らかに誤らずに見ることは必要であるが、その事実を基にして系統
を組み立てるところに自然研究の本領があるのであって、これ即ち精神的労作にほ
かならぬ。一切功利的行動を|脱却《だつきやく》して自然の|風貌《ふうぼう》を画き出すところに理想を持って
いるのである。学者は貧に甘んじ、素を保ちて精神生活に精進しているのである。
 自然中の事実をただ報告するものは、科学者として低級のものであって、かかる
人間の多きためにややもすれば、科学者なるものは自然現象を|克明《こくめい》に叙述するもの、
正確を主として働くものと思う人もいるであろうが、これは善意に解釈しても、科
学殿堂の建設に於ける石材の運搬者程度の役目をするに過ぎないのであって、設計
者の精神生活、石材の積上に関する力学的計算等がなければ、結局建物は出来上ら
ないのである。かかる行動を無視したる科学は全然成立しないことを知らなければ
ならないのである。
 かように論じ来れば科学は全く功利主義とは歩調の同じく採れないものであるこ
とは判明するであろう。即ち二者は別個のものであるが、自然科学的研究の結果は
人生に役立つものの|随時《ずいじ》に生ずることも確かである。利用すべきものは大いに利用
して、人間生活の|恰懌《いえき》を満し、苦悩を減ずべき方法を講ずべきである。
 しかし、科学者の本領はあくまで、精神生活であり、自然微妙の境地に|俳個《はいかい》して、
調和ある自然の美しさをますます|湛《たた》え、
いものである。
ますます系統づけることを念願して止まな
<!-- 十七 -->
<!-- タイトル -->
研究と学徒
<!-- -->
 高等学校から大学に入ろうとする時悩むことは、理学部に入ろうか、工学部に入
ろうかという問題である。それにはもちろん家庭の事情もあって大学を卒業すれば
ただちに家庭の経済を見なければならぬから少しでも余分に収入のある方に行こう
という人もあろう。また家庭は裕福であって、なんら生活に差支えないから一生学
問の研究に身を捧げても|差支《さしつか》えないという条件の人もあるであろう。
 しかしながら、これとは別に今一つ考えさせられることは、果して自分の能力が
一生学問をなすに適するであろうかという問題である。よく高等学校を経て大学に
入学せんとする人に聞かれることは、この問題である。筆者はかかる質問に対して
直ちに答えることは、「頭が人並であるならば差支えない、ただし学が好きであるこ
とがより以 必 である」と答える。自然の研究といっても、これは人間の行なう
ことである、難かしいには違いないが、人の出来ることで自分に出来ないというこ
とはない。また自然研究の中たとえば物理学の中にも色々な部門がある。|難解《なんかい》な数
学を使うのみが研究ではない。むしろ自然現象を|熟視《じゆくし》してその中に事実を認め、こ
れを単純の方法で取り上げることが科学を発達せしめる重要な因子であるから、自
然現象に|執着《しゆうちやく》を感じ好きであるならばそれでよろしい、やりたまえと付け加える。
 大学の使命は|奈辺《なへん》にあるか、学の|蘊奥《うんのう》を極め、|人格陶冶《じんかくとうや》にあることはもちろんで
あろうが、その目的を達するための手段が、学生生活三年間に完成されるとはだれ
しも考えていないであろう。考えられることは三ヵ年は準備時代であって、卒業し
てから人格的にも技術的にも優れた自然研究者として立つことが要望されるのであ
る。正に自然研究は一生を費しても未だ足りないのである。たんなる努力主義、功
利主義を以てしてはとうていやりとおすことは困難である。心から好きに生まれた
ものでなければ、自然研究者にはなれないのである。自然研究を夢寝忘ることの出
来ない人でなければ、やりがいがないのである。
 自然研究者を見ておると、学生中は秀才として|謳《うた》われ、これほど頭の明敏なるも
のはまたとあるまいと信じられた人間が、だんだん年をとるに従って、才能現われ
ず、研究者として凡人化する例は多いのである。|惟《おも》うに学生中の優秀さは何か目的
があって、努力をした結果であろう。両親を喜ばすためとか、自己の単なる野心を
満足せしめるためとかで努力を重ねていた結果であろう。この目的が達成されれば、
もう努力する必要がなくて|凡庸化《ぼんようか》するのである。
 これに反して、学を好むものは、たとえ在学中の成績はいかがあろうとも、その
研究は常に続けられ、何歳になっても絶えることはないであろう。研究は一生の事
業である、十年二十年で終るものではない。この故に最後の勝利は絶えず、中絶し
ないものに与えられるのである。
 また年の経過とともに家庭を持ち、家族を養うに於ては勉学の気勢の|削《そ》がれる者
がある。家庭の雰囲気というものは極めて大切なものである。学を尚ぶ風潮がなけ
れば、いかなる|剛気《ごうき》の研究者といえども学より遠ざかる傾向に引きずられる。博士
にもなった上は、そう|汲々《きゆうきゆう》として|勉強することもいらない、身体を大切にして長命
することを心懸けては等と、家庭ではいう妻君もいるかも知れない。こんな家庭の
空気では科学者は育たないのである。もちろん勇猛心ある学者はこんなことに引き
ずられないであろうが、家庭経済の泣き事にはさすがの学者も心を弱めずにはいら
れないこともあろう。
 現状日本の制度においては学者に遇するに極めて薄く、大学を出て十数年後にて
も完全に自己の|俸給《ぼうきゆう》を以て家庭を養い得ることは困難である。|恒産《こうさん》なきものの学に
携ることの不明を責めるならばいざ知らず、このままならば多く子供を教育するに
当って極めて低級の生活をするに非ずば事態は不可能である。かかる環境中にいて
研学する人士は志の極めて強固の者であることを必要とし、さもなければ自然に|凋
落《ちようらく》の道を|辿《たど》るほかはない。かような例は常に見聞するところであるが、筆者思うに
四囲の状況に影響されるのは学者として未だ志の|修練《しゆうれん》の足らざるものか、学者とし
て|貧《ひん》に|甘《あま》んじ、学を楽しむ天分に欠けるところがあるかとも解釈出来るのである。
 要するに学者と貧乏とはつきものである、貧に甘んじ、これを克服してこそ学者
の本領が輝いてくるのである。学者はかかるが故に学を好むものでなければ、貧に
打ち勝つ事が出来ないで中絶してしまうのである。若き学徒もこれだけの決心がな
くてはならない。
 学徒の心配はその性質が自然研究に適するか否かよりも、生活の間にいかに科学
者に作り上げられるかの方が心配である。質の良否よりも、作り上げられる思想の
良否である。生活中の修養いかんによっていかなる道にも入り込むのであるから、
常に心の舵を正しき方に執ることを忘れてはならない。あるいはこれらの思想は先
天的のものの多くあるかも知れない。しかし、いかなる玉も磨かなければ光を放つ
ものではない。正しき思想あってこそ研究の選択と|進捗《しんちよく》とが実現するのである。末
梢的|些細《ささい》の研究に|可惜《あたら》人生を費してしまう実例が多いのである。
 また研究能力を養うことを忘れてはならない。この力の|培養《ばいよう》を|等閑《とうかん》に附するなら
ば、いかによき研究対象を捉えても取り上げることが出来ないで、そのまま小問題
として発表するほかはないのである。この意味では常に研究能力を養うことを心掛
けていなくてはならぬ。
 学校における勉学は全く準備時代であって、それから自然研究に乗り出すのであ
るが、この時にはよき|先達《せんだつ》を必要とする。先達なくして登山することが出来ないと
同じく、研究中には途方に暮れる時に方向を示してくれるのは先達の存在である。
よき先達を得るか、よき先達を得ても軽視するかによって、その人の研究生涯は定
まるのである。くだらない思想が|培《つちか》われるならば、その人の一生はそのまま駄目に
なってしまうのである。考えの方向がつけられてこそ充分発達の余地が残されてい
ることが判ると同時に、また新しき開拓が生ずるのである。この思想の問題はいわ
ゆる頭の良否とは別である。もちろん頭の良きことは欲するまでであるけれども、
頭だけよくても方向の定まらない研究者であるならば、いかに働いても成果は挙げ
難い。よき思想の人ならば頭の良否は次の間題となる。
 今別の話を以てこの間の消息を述べるならば、あるとき嵐蘭が|芭蕉《ばしよう》に向かって|俳譜《はいかい》の|要訣《ようけつ》を|質《ただ》したところが、
<!-- ここから引用 -->
一、器の優れたるもの第一
一、此の道に熱心にして寝食を忘れ、財宝色欲に替える人
一、歳四十を越えざる人
一、暇ある身に非ざれば行い難し
一、貧賤にして朝夕に苦しめられず、富貴に非ずといえども、商売農土に穢れず
一、博識にあらずとも和漢の文字に乏しからぬ人 云々
<!-- ここまで引用 -->
 と六ヵ条を以て答えたという。蓋し此の六ヶ條は自然研究に携わる人士にも極めて
適切なる教訓であると感ずるのである。
<!-- 十八 -->
<!-- タイトル -->
自然研究と知識
 |往古《おうこ》の学者は万巻の書を|読破《どくは》してことごとく脳中に納め、|博覧強記《はくらんきようき》を以て誇りと
したものである。今日においてもある種の学者はかかる才能のあることも欠くべか
らざる要素であろうが、自然研究者はむしろ別処にその才能を|閃《ひら》めかす頭の働きを
必要とするのである。それは自然現象より事実を|摘発《てきはつ》して系統づけ得る才能である。
 確かに、我々は読書することによって、古人の業績を知り、我々の進まんとする
方向も自得するのであるが、いたずらに|多読《たどく》して物事を知的に吸収する場合に於て
は、かえって自然に対する感受性を|没却《ぼつきやく》してしまうのである。人々の研究論文を読
むことはさして|弊害《へいがい》はないが、教科書類は、すべて自然は現在の知識にても|完壁《かんぺき》の
ごとく教えるものであるため、水も|漏《もら》さざる完全さを眼前に|開陳《かいちん》する故を以て、人々
は自然を心に|画《えが》いて、|疑義《ぎぎ》を生じない|弊《へい》を生ずる。これはおそらく書籍の罪という
よりは読む人の心構えの罪ではあろうが、書籍の得て人を誤るのは|見逃《みのが》し得ない状
態である。
 即ち自然研究者の読むべき書は自然現象を|解析《かいせき》的に取り扱う手法の書いてあるも
の、正しき思想を|漉養《かんよう》するに適するもの、研究に当って|不退転《ふたいてん》の心の生ずるもの以
外には読むべき書は極めてわずかである。我々の知識は多く書から得ると思い読書
を|励《すす》める人士が多いのであるが、じつは科学者の知識は自然現象の観察から直接受
けるのである。書籍に書き上げる時には|遺漏《いろう》なきを期するため、自然現象がすべて
判ったような書き方をするから迷わされるのである。
 我々はまた一面に知識の多いことを以て誇りとなす傾向があるが、じつはこの知
識の多いということがかえって研究の妨げをなすのである。このために自然研究者
は知識の少ないことの方が適当であるともいえるのである。知識の中には誤ったも
のもあるであろうし、半可通のものもある。これらを正しき知識として覚えるに及
んではかえって不結果を来たす。
 また正しき知識であろうとも、かえって物事を知っているために勇気が|挫《くじ》けて前
進することの出来ないことがある。人のいうことに信を置くよりも自ら進んでこと
に当ることを心掛けなければならない。
 古人の|糟糠《そうこう》を|嘗《な》めたり、|後塵《こうじん》を|拝《はい》したりするのはくだらないことの例に挙げられ
るが、古人より後に生れたる人々は古人に追いつき、追いこすためにはそれだけの
|道程《どうてい》を踏まなければならぬのである。古人の|糟糠《そうこう》を|嘗《な》めて|止《とどま》っていることは感心出
来ぬが、追い抜く一つの過程ならば、喜んでその道に突入しなければならないので
ある。
 自然研究には勇気というか、迫力というか、かかるものがなければとうてい進展
を続けることが出来ないのである。研究論文を書けば必ず他学者の|誹諺《ひぼう》を浴びなけ
ればならない。|黙《だま》って研究を発表しない方が平安を保っていられるのである。勇気
に欠けているものは前者を捨てて後者をとる。したがって一個人としては|気迫《きはく》の欠
けた人間となるが、研究所のごとき団体においては、火の消えた幽霊殿のごときも
のとして現われる。この意味において、研究者は知識を増加して勇気を|挫《くじ》くよりも、
知識を減らしても|気迫《さはく》を充実する方が望ましいのである。しかし、もし知識がいか
に増加しても勇気の欠けない人があるならば、それこそ尊ぶべき限りである。
 科学者としても知識が増加するのが決して|窮極《きゆうきよく》の目的であるとは考えられない。
むしろ自ら手を下して自然現象を取り上げ、仮説を以て系統を拡張する行為に即す
ればよろしいのであって、いたずらに|読破《どくは》せる書籍を|書架《しよか》に飾って、|眺《なが》め入ってお
ることが科学者の喜びではない。即ち科学者の喜びは智の増加でなく、自然研究
の結果、如何にに科学を拡張したかと云うことにある。確かに教育者は智の増加を喜
ぶであろう。即ち教壇に立って知識の豊富なるを以て講義し、絶大の|讃辞《さんじ》を受ける
ことが願わしきことでもあろうが、科学者の喜びは自らそれと|趣《おもむき》を|異《こと》にするのであ
る。
 筆者は知識の|蓄積増加《ちくせきぞうか》することを不可なりと断ずるのではなくして、その影響と
して自然の研究力が|消滅《しようめつ》するのを恐れるからである。
 学校生活中極めて優秀の成績を持して秀才の|誉《ほま》れ高き人も一度自然研究に携わる
において何ら優秀さを示さない者の屡々あるのを聞く。これは自然研究の才能
なき故であると考えるよりは、よって来る行動に|欠陥《けつかん》なきかと考える方が適当では
ないかと思われる。
 世の中に学校における|智育偏重《ちいくへんちよう》の声が屡々|喧《やかま》しいが、学校の先生は生徒の
|鵬鵡《おうむ》返し的試験に優秀な成績を示す者を|奨励《しようれい》し表彰する。この結果は学生はいわゆ
る秀才型の知識の吸収に|汲々《きゆうきゆう》として|務《つと》めるのは当然のことに違いない。またかくす
ることによって入学試験等は見事に合格する。学校教育は決して自然研究者をのみ
作り上げる所ではないから、それに適する人のみを作ることは出来ないというかも
知れぬが、智的偏重の|余波《よは》は研究者の思想、動向にも反映して、自然研究の何もの
たるかを|弁《わきま》えず、智的向上を以て自己の優位を感じ、あるいはこれこそ研究者の使
命と信ずる者もないとはいえぬ。しかし、自然の研究は自己独創の下に自然像を組
み立てるところに本領を|発揮《はつき》すべきである。
 東洋儒学に於ても|知行一致《ちぎよういつち》ということが唱えられているが、科学に携る人も智の
みではなんら役に立たず、行に移すところから科学者の本分が始まるのである。智は行
動の準備であり、また行動を制限する障壁である。我々の行動が|手綱《たづな》を放れた
|奔馬《ほんば》のごとく|縦横《じゆうおう》に|駆《か》け廻るを|馴致《じゆんち》する役目を持っているのである。適当に馴致
することは充分必要でありながら、かえって|角《つの》を|矯《た》めて牛を殺す行為もたえず行な
われているのである。薬もあまりに|嚥用《えんよう》すれば害をなすごとく、智も多きに過ぎれ
ばかえって害となって、|気迫《きはく》から遠ざかるのである。科学は行の上に立つものであ
るから、この本領を充分知っていないと研究者として優秀性を|発揮《はつき》する者とはなれ
ないのである。
 研究者は学に最も|寄与《きよ》すると考えられる題目を選んで研究に従事する。|而《しこう》して研
究に適当なる器械を採用するが、多くの場合、自ら器械の製作あるいは装置の組立
に従事しなければならない。かようの行為が相当年月続いてから、実験であるとか
観測であるとかの行動が始まる。器械あるいは装置がよろしくない場合には、窓ガ
ラスが|歪《ゆが》んでいると同じく、現象は正しく見えないで|歪《いびつ》に見えるのは当然である。
この意味において自然現象中から事実を摘発するに於ては、まず器械の正当性を|吟
味《ざんみ》してかからなければならないのである。世の中のすべての科学器械は|厳密《げんみつ》な感度
試験を施してからでなければ使用してはならないし、その精度以上の議論をしては
ならないのである。確かに器械は我々の感覚である、感覚なくしては現象もないの
である。
 智の蓄積は結局、科学者の求めて止まざるところであるにもかかわらず、そのた
めに自然研究の態度は|阻《はば》まれるのである。これは全く個人の場合であって、一般文
化という見地から見れば、自然について智が増加すればするほど、結構なことはな
いのである。この個人の問題にしても、個人的思想があって、その思想を命ずる下
に、解析が順次に行なわれて行くならば、その考え方においては、もはや論ずべき
ものが|皆無《かいむ》に近づくのであるかも知れない。一面に智の増加が研究心を鈍らすこと
は肯定出来ると同時に、個人の思想下の労作が満足の域に達した結果であるともい
えるであろう。
 この意味においては各個人は各自思想の|開拓《かいたく》に心掛けて、|洞渇《こかつ》せざることを第一
としなければならぬ。豊かなる思想、発展極りなき思想は永久に研究者を労作に向
わしめ、知識の|豊満《ほうまん》によって研究を|放棄《ほうき》することはないのである。
 しかしながら、古来の科学史上に現われたる思想を以てすれば、思想も歴史的の
発達によって順次に繰り広げられるところを見れば、個人的思想といえども各時代
の科学主張を反映しているに過ぎないのであって、ただ大天才のみが階段的に思想
の|飛躍《ひやく》的発展を試みるに過ぎないともいえるのである。
<!-- 十九 -->
<!-- タイトル -->
研究と啓示
<!-- -->
 自然研究に携るものの行動はあくまで|真摯《しんし》公正であることはもちろんであり、次
から次にひた押しに進むことが研究の本道であるかのごとく考えている人も多いの
であるが、筆者は決してさようには思わない。なんとなればかかる研究法は同質の
ものの発展にはよろしいであろうが、決して異質のものに研究を延ばそうというこ
とは出来ないのであるし、また研究がなんら|感興《かんきよう》もなき日常工作に終ることによっ
て、精神的に|萎縮《いしゆく》することを知るからである。
 たとえば化学的に自然を研究せんとするものが、果して|黙々《もくもく》として化学分析
--|天秤《てんびん》と|濾紙《ろし》との|操作《そうさ》--に|終始《しゆうし》して貴き人生を|濫費《らんび》してよいものであろうか。
化学分析の必要なるは筆者も人後に落ちず、もちろん認めるには相違ないがなんら
科学向上の光明を認むるなく、自己の理想を実現すべき行為なくして、一日一日の
暮れ行くを見送る態度であって差支えないのであろうか。
 自然研究者は少なくとも科学向上の一途を|念願《ねんがん》して、|比処《ここ》に理想あり、その理想
に適合する行為に生きなければならないのである。それには、よき思想の下に科学
向上に資する考えをなさなければならないのである。
 またもっと|極言《きよくげん》するならば、単に考えるのみでは足りないで、空想が生む飛躍的
考えまでも必要である。|水瓶《みずがめ》の縁の周囲を歩いている|蟻《あり》はおそらく、出発点に|帰着《きちやく》
してもその歩みはつづけるごとく、人々がいかに考えても同じ道を幾回廻っても同
じことである。いかに新しいものを探そうと思って努力をしても見つけることは出
来ない。研究者の考えはある時は空想的と思われ、|空中楼閣《くうちゆうろうかく》的と|誹諺《ひぼう》されるかも知
れぬが、決して自ら|恥《はじ》入ることはない。かような空想から質の異なった貴きものが
生まれ出るのである。天才は狂人と|隔《へだた》ることはわずかであるということは屡々
聞くところであるが、狂人の空想が実果を生むものが天才である。とうてい常人に
は考え得ないものが天才には考えられる。これは正に狂人の空想に|似通《にかよ》うところが
あるからである。
 日本における自然の研究なるものが、ややもすれば同質の研究を以て、その本領
と考える傾向の多いことは従来の|慣習《かんしゆう》のごとく思われるが、これは従来の研究の中
に異質の研究が少なかったことにも|起因《きいん》すると思われる。|然《しか》るに当今に於ては、そ
の傾向がやや|脱却《だつきやく》されて異質に及ぼす研究--いわば精神的活動--の方向に向う
傾向になりつつあるのは喜ばしきことである。また同質の研究は肉体的活動ともい
えよう。この精神的活動は自然研究者にとってもっとも必要とするものであって、
これからすべての科学向上が出発すると称してもよいのである。もちろん肉体あっ
ての精神ではあるが、精神的活動が肉体的活動を|制御《せいぎよ》することは思わなくてはなら
ない。
 精神的活動の中には極めて不可解の要素を含むもので、研究の問題においてもな
  んら表面的に現われぬ心の活動がある一方に、極めて急激な、いわば神の|啓示《けいじ》に|遇《あ》
うような|事柄《ことがら》が生ずる。筆者はキリスト教的の神の存在は否定するものであるが、
世間一般の慣習語として神の啓示する言葉を使用するに過ぎない。即ち数年来夢寝
忘れる時なく考えていて、全く|暗中模索《あんちゆうもさく》的研究にあったものが、一瞬にして光明下
に輝く大道が眼前に|貫通《かんつう》するを覚えるものがある。また数年来|励《はげ》みつつ器械の完成
に急いだものの、いくら考えても出来なかったものが、一夜人静まって思いを|巡《めぐ》ら
す時に不意に考えついて、たちどころにすべてが解決したという例もある。事の成
るは一瞬のごとくであるが、その準備と考えられる行動は数年を費すもののあるを
思わなくてはならない。
|斯様《かよう》な精神の働きについて、科学者は決して神の|啓示《けいじ》などとは思わぬであろう
が、あまりに瞬時的に解決が到来するので意外の感に打たれるに違いない。ローマ
は一日にして成らずと云う古諺があるが、自然研究の場合にも解決は一瞬であって
も準備には数年を要したのである。しかも古来の科学的業績の多くはかくのごとく
して出来上ったといえるであろう。ニュートンが林檎《りんご》の木から果物の落ちるのを見
て|万有引力《ばんゆういんりよく》の原理を見出し、ガリレオは洋燈の動揺するを見て等時性に思い及んだ
のである。数年努力した思想が心の中にあれば、外界の現象に口火が切られて、一
瞬にして解決された訳である。いたずらに一瞬に成る事を|翼《こいねが》って貴き|光陰《こういん》を費して
しまっては取り返しのつかぬものである。いかなる研究も心の営みが根底となって、
結局解決という終局に持ち来されるのである。|果報《かほう》は寝て待っていても来るもので
はない。瞬時というものの根は実は長いものであることを思わなくてはならない。
 研究者にとっては|啓示《けいじ》が極めて必要であり、この飛躍的解決がまた勇気を|附与《ふよ》し
て研究が急進的に成果を|齋《もたら》すのである。常に行なっている研究は、時を費せば費す
時間に比例して研究結果が見られるものであろうが、人間はあきることもあれば|疎略《そりやく》になることもある。また時の経つにしたがって日常経験事となって、なんら|感興《かんきよう》
も伴なわず、時間に比して研究の実の|挙《あが》らぬものである。かような方法に|堕《だ》するこ
とは|相戒《あいいまし》めて、比較的短時間の中に研究は|進捗《しんちよく》するよう、またある時は多少不備で
あっても己れの業績を発表するように|力《つと》める。かかる時にはかえって研究が進捗し、
従来考えなかったことが|突如《とつじよ》として脳中にも浮ぶのである。要はある機会を充分活
用して、乾燥無味的研究に陥らぬことを注意しなければならないのである。
 啓示的|閃《ひらめ》きは常にあるものではない。多い人でも一生の中三、四回程度であろう。
しかも問題の大なる場合も小なる場合もあろう。また年齢的に見ても四十歳を越え
てははなはだ|覚束《おぼつか》ないごとくに思われる。研究者は絶えず天の一角からなにごとか
|囁《ささや》くものあるを感知し、働かずにはいれない境地に置かれ、時あってか天の啓示に
接して瞬間的にものの解決が|齋《もたら》される。これは外界に存する神の|仕業《しわざ》ではない、
各自の心の働きであり、常に思索する事の結果齎らされるものである。
<!-- ここから引用 -->
  常に考えよ、心は自然の扉を開くのである。
<!-- ここまで引用 -->
と叫ぶほかはないのである。神の啓示に遇わんと|翼《こいねが》っても効果はない、常に考え
ること働くこと、そのほかにつくす術はないのである。
<!-- 改ページ -->
メニュー

更新履歴
取得中です。