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科学への道 part6

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第三章
<!-- タイトル -->
天才論
<!-- -->
 自然研究者の中にはとくに天才を要望するのであって、天才が出でて初めて研究
が|進捗《しんちよく》し、天才が出でざれば|停頓《ていとん》するのである。天才は出ずる事がはなはだまれで
あり、天才はまた|薄幸《はつこう》である。おそらくその時代においては理解出来ない議論を|吐《は》
く故でもあろうが、時の経過とともに|尊敬《そんけい》されるのである。天才は正に科学史を綴
る人である。|凡庸《ぼんよう》は単に科学を持続けるに役立ち、科学を横に|濃《みなぎ》らせることは出来
ても前進させることは出来ない。天オは果たしてその出現を期待し得べきものであ
ろうか、また天才は|栴檀《せんだん》の|二葉《ふたば》より|香《かん》ばしというがごとく、幼少よりして|聡明《そうめい》なる
ものであろうか、筆者の思索は|低迷《ていめい》する。
 天才は先天的要素を|如実《によじつ》に備えたものであるともいう。天才は生れながらにして
|凡庸《ぼんよう》とは全く異なった|頭脳《ずのう》を保ち、苦することなくして常人を|凌駕《りようが》して意表に出で
るともいう。また天才は絶えざる労作の結果、その位置を|克《か》ち得るものともいう。
結局は努力の結晶により、他人より|優《すぐ》れたる効果を|挙《あ》げるものであるという。仏国
科学者ブッフォン Buffon は、
<!-- ここから引用 -->
  天才は辛抱強いという一つの優れて大なる才能に外ならぬ。
Le genie n'est qu'une plus grande aptitue `a la patience.
Buffon
<!-- ここまで引用 -->
と叫んで、天才は後天的要素を充分備えたものであるという。この論を是とする
にしても|辛抱《しんぼう》強く研究し得るという才能も一種の天オであるかも知れない。しかし
ながら、現在自然研究に携る人の中にも単に辛抱強く、一つの事にのみ携って研究
に|没頭《ぼつとう》している人でも、天才とは考えられぬ人がいるのである。天才の才能中には
一種の見通しのごときものが必要で、よし一つの事物を研究しても、これを辛抱強
くやりとげる場合には、必ず大なる効果が|齋《もたら》されるという自信が出来なければな
らぬのである。またついにこの自信ある見通しがあればこそ、|熱意《ねつい》も生じ、辛抱強
く働くことが出来るのである。
 とにかく、外観からすれば全く努力の結晶のごとき態度も、本人は行き着くまで
の手段としか考えていないともいえるのである。筆者はこの見通しの出来るものを
天才の要素として考えたいのである。
 パスツール L.Pasteur は|血清療法《けつせいりりょうほう》を発明したその開祖として全く天才的の学者
として尊敬されるが、彼の手掛けた最初の二つの実験--狂犬病と羊の脾脱疽病
--はいかにして彼が手を染めたのであろうか。門外漢は全くその選択が偶然的で
あるかのごとくに感ずるが、彼の手掛けたこの二つの病気の処理こそ、現在のもっ
とも反応いちじるしき実験であるという。彼はそれを知っていたのではない、偶然
に|取扱《とりあつか》った二つの実験がもっとも容易に|認定《にんてい》し得べき実験と一致したのである。こ
の実験を手掛けたことによって彼の手法は全く天才的の|技禰《ざりよう》が認められたのである
が、彼は数多き他の実験に|一瞥《いちべつ》も与えなかったかということに疑問を有する。世の
中には極めて多くの研究すべき病菌があり、手を染める場合にいかなる病菌に接す
るか、偶然論にては答え得ないものでも、天才パスツールは研究にもっとも容易な
る二つのものを選び出したのである。
 天才なるが故に、知らずしてもかようなものを選び出すことが出来たというか、
偶然選び出したるが故に彼は天才となったといえるか、いずれにもせよ、偶然論的
立場を以てしては全く当てはまらないのである。
 また天才が極めて神秘的な存在であって、天才は初めからその研究が出来る、出
来ないの区別が|洞察《どうさつ》出来るのであって、出来ると思えばこそ着手するのであり、し
かももっとも容易に実験し得るものを選定出来ると考えるに到っては、あまりに天
才を過信し過ぎる|嫌《きらい》がある。即ち天才にかほどまでの能力あるは信じ難いところで
ある。然らば天才は単なる努力者であるかというに、筆者は決してさようとは思わ
ぬのである。思うに天才に|附与《ふよ》されたるもっとも大なる才能は直覚的行動であろう。
この直覚的行動が極めて神秘的なるかのごとくに考える人もいるかも知れぬが、実
はさように考えることも不当なることを、まず弁ぜんとするものである。
 よくよく直覚なるものは、理由なくしてしかも説明することの出来ない判定能力
である。また今少しく言葉を代えていうならば、過去の経験による綜合判断と称し
ても差支えないものである。たとえば甲の人がある風景を見て、ここはいつか見た
ことのある風景と同じである、|然《しか》もそれが|何所《どこ》にあったか、またいつ見たかは思い
出すことは出来なくとも、確かに同じものを見たことがあるというのは、全く過去
に見たという経験が再び意識上に上ったことである。
 人間の意識は極めて複雑で、あるものを見た場合に、必ずこれと類似な|旧《ふる》い経験
が浮び上って来るのも当然であり、これらのことから全く|理窟《りくつ》はなしに判断の出来
るものである。これは程度の低い一種の直覚的判断といわれるであろう。この直覚
力の発達している人には|凡庸《ぼんよう》の考えるよりもよき判断、よき結論が得られる。即ち
一種の|閃《ひらめ》きとして判断の|結着《けつちやく》が行なわれるともいえるのである。この過去経過の即
時に|蘇《よみがえ》らし得る能力は全く天才の充分に具えた能力であって、何も神秘なることも、
不可思議なることも含まれてはいないのである。
 天才に附与された能力の中には、従来人々の考えた体系の外に、別の体系が考え
られるということがある。即ち我々のいう狂人は全く、一般人とは異なった考え方
を持っているものであるが、そこに|統轄性《とうかつせい》がない。天才に於ては同じく一般人と異
なった考え方を持つというよりは、狂人的考えを持っているが、その上に統轄性を
充分備えているのである。天才と狂人との区別はここにあるごとくに思われる。天
才は狂人と隔ることがわずかで非常の類似をもっているには相違ないが、この統轄
性いわば秩序性ある言動が相違点である。しかしながら、物の考え方はおそらく全
く同じ|轍《てつ》にあると考えてもよい場合が多いのであろう。
 物の考え方は、外界に存する事物に接して脳中に生ずる印象、連想、進展等であ
るが、その方法については、狂人、天才の行き方は|凡庸人《ほんようじん》と極めて異なるのである。
天才は自然研究者あるいは芸術家として大なる働きを示すのは古来からの歴史を見
れば判ることであり、その他の部門に携る場合においては全く狂人扱いされること
は当然である。この狂人的思索は全く常人の企て及ばぬ|境致《きようち》に突入するために、そ
の力量を重視するのであって、ある時は体系として無から有を生ずることがある。
しかも科学者、芸術家のみに於て天才が|厚遇《こうぐう》されるということは、全く独力を以て
仕事が行なわれるという特権に|起因《きいん》するとも考えられる。周囲の人とはいかに悪い
交際をしてもよい、他人の言動は一切|聴《き》かなくてもよいという立場にあること、一
人の気持をそのままわがままに発展できるという|境遇《きようぐう》なればこそ、天才も生ずるの
である。外部から制肘したり、一言動を|束縛《そくばく》したりしては天才の能力は発揮出来ない。
これは意識的に行なうばかりではない、無意識的にも社会の状勢がそのごとくであ
れば決して天才は生まれるものではない。天才といえども社会に|棲息《せいそく》する一人間で
ある以上、社会の無形的|圧迫《あつばく》が影響しないということはない。その無形的の事物が
天才をして、その能力を|発揮《はつき》させないのである。したがって天才の出現する時代に
は同時に数名の者が現出する事があり、また出ない時には皆目一人も出ないのである。
 この天才の出現に関しては全く一方には社会的状勢というか、天才の出現し得る
|素地《そじ》のあることが要求される。文化の流れが適当に|進展《しんてん》するところ、天才が現われ
て文化をますます高調たらしめるようにも感ぜられる。文化は起伏ただならぬもの
であり、ある時には咲き誇った花園も、一通り花が咲いてしまうとまた|幾何《いくばく》かの時
日を待たなければならぬと同じように、文化の花園においても絶えず、百花|捺乱《りようらん》た
ることはないのである。ある時期1それには長短の差はあろうがーを経過すれ
ば、やがて|凋落《ちようらく》の運命に遇うのである。全盛に向わんとする時、天才は出ずるに反
し、凋落を|辿《たど》る時期においては天才は影を|潜《ひそ》めるのである。
 おそらく天才の種は常に|蒔《ま》き|散《ち》らされてあるのであろうが、その生長はよき畑を
得なければならぬのであろう。乾地に蒔かれたる種、|荊棘中《けいきよく》に蒔かれたる種、いず
れも生長することは出来ない。|温床《おんしよう》に|蒔《ま》かれたるもののみ、自由にしかも豊かに伸
び上ることが出来るのである。即ち天才の出現する準備的要素には、よき温床とよ
き肥料とを必要とする。天オは内に向かってわがままであると同時に、外に向かっ
てもわがままである。その育つ環境のいかん、|摂取《せつしゆ》する養分、即ち社会的状勢に充
分左右されてしまうのである。
 この点において一般人がいかに努力し、いかに|辛抱強《しんぼうづよ》さを以てするともある程度
までの成功は|克《か》ち得るにしても、考え方において異なった系統を組み立てるまでに
は達し得ないのである。この意味においては一般人は労作において天才に到達する
ことは不可能である。全く天才はその思索の傾向において、常人とは異なり、狂人
のそれと似通う点多きにかかわらず、天才としての才能は思索の|統轄《とうかつ》であって、か
くて科学として常人の開拓し得ざる新天地が出現するのである。狂人は正に思索の
統轄なく、たんに考えること、いうことは常人の意表に出でるかも知れぬが、なん
ら建設的に、またなんら従来の科学の拡張に|寄与《きよ》すべきところがないのである。
 ロンブロゾオ C.Lombroso によると、すべての天才はいずれも狂人であり、狂人
にして労作し得るものとなす。一見この二者における行動の中には多くの類似点を
見出すのである。しかしながら、彼のいう天才は全く狂人の列に置いて、天才の狂
人的言動のみを|挙《あ》げてもっばら天才的頭脳の傾向を|滅却《めつきやく》せんとする主張は筆者の賛
成し得ないところである。
 以上述べたるがごとく、天才には天才としての|風貌《ふうぼう》があり、あたかも狂人に似た
るところもあれど、その精神的労作においては全く異なったものを持っているので
ある。狂人の動作は全く、我々の夢の中における|挙動《きよどう》のごとく、全く|統轄的要素《とうかつてきようそ》を
欠くのを常とする。人々は夢の中において、すべて重力の法則を|無視《むし》したがごとき
現象を|是認《ぜにん》して決して不思議と思ったこともなければ、数十年前に死んだ両親と対
談してなんら疑惑を持たないのである。夢の中における我々の言動は全く理想を|超
越《ちようえつ》したものであり、おそらく狂人の行動と|軌《き》を一にするものであろう。
 然るに天才の思索の中に系統が立派に立っていることである。たとえば科学上の
問題としても、従来知られたることがいずれの範囲であり、将来開拓さるべき方向
が|奈辺《なへん》にあるかを察し、その言わんとすることに全く条理あるものである。この点
が全く狂人と異なるのであるが、科学者の中にも先入主を|固守《こしゆ》して、決して他人の
論説には耳を傾けず、いやしくも古来の説以外に対しては|賛意《さんい》を表せず、新説を以
て狂気の|沙汰《さた》となす人士においては、天才よりも全く狂人の列に接近するのである。
科学者の中には天才も狂人も二者ながら存在していると見られるのである。
 かかることは歴史上屡々あったことであり、天才と狂人との|作為《さくい》はその識別
に困難はあれども、科学発達の見地よりすれば科学系統を拡張すると否とにあるも
のであるから、この点に照合すればよい。立派な科学的研究においても十年、二十
年の歳月を経てようやく学会に認められたという労作も少なくないのである。即ち
天才の真価が認められないことが多いのである。
 天才の仕事は全く学会の諸会貝に対しては、新事実であり、理解すべき範囲外で
あるために、|罵署護諺《ばりざんぼう》されて|葬《ほうむ》り去られることが屡々であり、天才は狂人と
して顧みられなくなる。天才はこの意味においては、全く不幸で一生を暮した例は
いくらでもある。またあまりに順調に進むものの方がかえって仕事は|凡庸《ぼんよう》で、不幸
にして物質に恵まれざる者のかえって大なる仕事の出来た例は非常に多いともいえ
る。いずれにもせよ、天才の仕事は直ちに世人に評価されないことのあるを知るの
である。現在は科学者も多く、学会も多士済々にて、明正なる会員の備っている条
件においては、天才の功績もただちに認められる時運に接しているようではあるが、
その点は断定的にさようであるとは言えないのである。
 学会における業績の判定はもっばら当時生存する科学者によって行なわれる。し
たがって当時の学会に優秀なる判定者なき時には、当時の評価が|妥当《だとう》を欠くことは
当然であり、いかなる天才といえども一般に認められることは出来ない。即ち天才
の認められぬことを|嘆《なげ》いた文句は屡々聞かれるのである。しかしながら、研究
の業績は論文として留めて置くならば、いずれの日か有識者が出でて来て、必ず取
り上げる機会があるのである。古来多くの天才の中にはかかる運命に|遇《あ》った者が多
くある事に気がつくであろう。天才といわず優秀科学者はかような|覚悟《かくご》だけは持っ
ていなくてはならぬ。また学会においても、その問題に直接携っておる人が常にい
る訳ではなく、当時その方面に優れた人がいないと評価されることも、あるいはそ
の当を得ないこともあるかも知れない。またその方面の人はいてもかえって|嫉《そねみ》から、
その研究を事実に|悪《あし》ざまに言わぬともかぎらぬ。要するに、天才の業績はあまりに
尋常性から掛け離れているために理解が出来ないのである。
 天才はいかにして生れ出でて来るであろうか。天才は極めて数の少ないものであ
る。およそ人間を分類して見るに、平凡というか、通常とかいう人間がもっとも多
く、優れた人および低能なる人間の数はいずれも少ない。いわば確率曲線を以て分
類出来るのである。即ち天才なるものが少数である事は自然の法則であり、また多
くの人の間には必ず少数の天才が生存すると考えなければならない。然も天才に階
級があって、十年に一人出る程度の天才か百年に一人出る程度の天才かという区別
もあるであろう。
 かように少ない人間が出るについては、果してかかる人間のためにのみ教育制度
があるべきであるか、一般|凡庸《ぼんよう》の人間に制度の備わるべきかをいえば、諸人は|異口同音《いくどうおん》にその凡庸のために教育を確立せよというに違いないであろう。しかし、実際
の学の発達は天才のみにて保持されるという有様であるから、十年に一人の天才を
現出せしむれば以て|冥《めい》すべしである。かかる学校教育の是非はとかく|穏健《おんけん》に取扱う
ことを主とするものであるから、はなはだ不徹底には相違ないが、もちろん天才教
育を主とすることは要望されなければならない。
 この天才教育なるものは以上述べたごとく、極めて少数のためには適当であるが、
大部分の人間には不向きである。仏国は天才教育の本家のごとく見える。
|中学校《リセー》を
卒業すればバカロレアの試験を受ける、これは国家試験で上級の学校に進む資格試
験である。これを|及第《きゆうだい》しなければ上級の学校には行けない。上級の学校には大学と
専門学校の二系統があるが、大学は上級普通教育を主として、いかなる人士も|聴講
することが出来る。ただしバカロレアの試験を通っていなければ正当の学生として
講義に出席し、大学を卒業することが出来ないのは当然である。専門学校の中にも
高等教授学校《エコールノルマル・シユーペリオルー》と|綜合工学校《ポリテクニツク》とが|屈指《くつし》の優秀学校として認められている。即ちノ
ルマリアンとテクニシアンとが幅をきかしているのである。いずれも歴史的に見て
優秀な学者を|輩出《はいしゆつ》している故にほかならぬ。かかる学制によって仏国では人士の養
成に努めているのであるが、これが直ちに天才教育ということは出来ない。むしろ
教育は逆効果を示しているのではないかとさえ思われる。天才の生ずるのはむしろ
民族といおうか、社会構成とでもいおうか、その方にあるのであって、社会は人間
の|完壁《かんぺき》を論ずる前に天才的人士の業績を賞し、民族は天才的行為を尊敬するからで
ある。
 天才の出現は全く社会的要望であるということが出来る。世間の|風潮《ふうちよう》が天才を育
てしむるごとき態度を示さなければ、決して天才の大成は行なわれないのである。
日本の社会においては天才を重んずる傾向よりも、人間の欠点を探し出すことに|努《つと》
めるようである。また人間がわずかの欠点もなく完壁に達成されることを望んでお
るかのごとくである。確かに|儒教的《じゆきよう》完壁はおそらく数十年、死ぬまでを費して修養
することに迫られ、天才的才能を|発揮《はつき》すべき時機を|抑圧《よくあつ》してしまうのではないかと
思われる。あるいは社会が|事勿《ことなか》れ主義を主張して偉人を|抜擢《ばつてき》することをよくせずし
て、いたずらに|凡庸《ぼんよう》の|徒《と》と相具するために、天才も|腐《くさ》ってしまうのである。全く社
会の天才に対する冷淡からの問題である。即ち良き事にも動ぜず、悪しき事にも制
裁を加えない結果である。
 学会の批判がまた天才の発育を|妨《さまた》げる。日本人は人を|賞《ほ》める事は決してしない。
悪口をいうことに|長《た》けていると見えて、発達せんとする|発芽《はつが》も直ちに|潰《つぶ》される。偉
大なる天才はあるいはなんら|障害《しようがい》を|蒙《こうむ》らないかも知れないが、いかなる仕事といえ
ども出来たては赤児のごとく、その腕を|捻《ひね》り|上《あ》げんと試みる。然も自己の不明から
その不当なるを|詰《なじ》る者さえ出現する。これは彼の間違った先入主的判断からである。
かかる状勢にては、いかなる業績の発育も難かしい。花園はわがままの犬に荒され
ることが屡々である。学会は清き花園である。凡庸は天才の芽の生い出でるの
を|監視《かんし》するはもちろん、その発育を助長せしめる態度でなくてはならない。
 少なくとも世界各国を|通覧《つうらん》して、天才の出現する国は決っているのである。それ
はいわゆる文明国と呼ばれる欧洲の諸国である。オリンピック競技に於ても|目覚《めざま》し
き選手の出るのも同じく欧洲諸国である。これらは正に各人の特長を伸ばす社会組
織であると考えるほかはない。科学の発達も天才も競技選手として送り出すと同じ
である。ただし知的競技は肉体的競技ほど明らかに勝敗を決することが難かしい。
もしも知的優秀性が明らかに決定出来るに於ては、必ずや一層の発展が出来ると同
時に、天才の価値も充分明らかになると思われる。
 世の中の|諺《ことわざ》に、「十で|神童《しんどう》、十五で|才子《さいし》、二十過ぎれば|只《ただ》の人」、ということがあ
る。小さい時には天才と騒がれた人間も年の経過とともに、|没落《ぼつらく》して成人の後には
なんら常人と変りがなくなるという例の多いことをいったものである。天才という
ものはさほど沢山いるのでもないという|誠《いましめ》であり、また同時に偉い人も|没落《ぼつらく》して|凡庸《ぼんよう》に化することのあるを|諷刺《ふうし》したものであるともいえる。確かに二十歳過ぎにも未
だ天才と考えられる人が四十歳頃になると常人になったり、二十歳頃まではなんら
|頭角《とうかく》を表わさなかった人が、それからめきめき腕を上げて偉くなる人もある。この
へんの消息は果していかなることを物語るものであろうか。ラ・ロッシュ フコオ
La Rroche Foucault がいったように、
<!-- ここから引用 -->
  神は自然の中に色々な樹木を植えたように、人間の中にも色々な才能を置き並べた。
  だからそれぞれの才能はそれぞれの樹木と同じように特有な質と働きとを持ってい
  る。だから、どんな良い|梨《なし》の木でも、極く普通の|林檎《りんご》の実すらつける訳にもいかない
  し、またどんなに|秀《すぐ》れた才能でも極く普通の才能と同じ仕事すらしでかす訳にはいか
  ない。
<!-- ここまで引用 -->
 即ち才能が早く現れても年を経るにつれて|凡庸《ぼんよう》と同じくなるものが多いというこ
と、また才能も分業的である結果は、しばしば年が成長してから、各自の特種な才
能が鶉蝋と現われて来るのである。もちろん今日においては分業的の才能を必要と
するのであって、二十歳頃まではただの人であって差支えないが、それから人の追
従出来ない技禰を示せばよいのである。ただし才能の根本にはいずれにも共通なも
のの存在するを忘れてはならぬ。自然研究者中天才として、各部門に尊敬される人
が出現するであろうが、その根本をなすものはなにものであるかというに、これは
すべての事実を綜合し、体系づけ得る能力である。
 確かに自然研究として一つ一つの現象を見極めなく解析し、我々の目前に事実と
して示すといえども、その技巧、労作については|賞讃《しようさん》は|惜《おし》まないが、その人を天才
として|賞揚《しようよう》することはいかがであろうか。およそ天才なるものは、以上の措置が出
来るというよりも、得られた事物を取り上げ綜合してここに体系を出現せしめ得る
才能を持っているのである。
 狂人は常人と異なって、従来ない考え方を案出することはあっても、組織的なら
ざるところが異なるのである。狂人の案出した例として、「熱は圧力によって生ずる」
という問題を|固守《こしゆ》してすべてを|証明《しようめい》しようとする。地球の内部は高圧であることは
だれも認める。即ち高圧なるが故に高温である、物を|摩擦《まさつ》すれば熱が生ずる、即ち
圧力をかけて摩擦するから熱が生ずるのであるという。狂人は身辺のある特種現象
に目をつけて万象を解決せんとする。また「太陽は冷たい」などという論も現われ
る。地上から昇って行くと空気は|冷却《れいきやく》状態にある。したがって太陽に近づくに従っ
て冷たいならば、太陽本体は正に冷却されたものの極でなければならぬという。地
上を離れて上昇する場合、空気の冷たきことの一事を以て太陽へまでも延長しようと
する。狂人は|頑《がん》として自説を固守して、裁判までにも持ち出した例は最近の出来事
である。
 天才の考えは確かに一面狂人と似たところがあるといえども、ただちに旧系統を
思い出すことが出来るのである。従来の系統は天才も常人も優れた多くの人が考え、
多年の批判を経て出来上ったものである。今日その体系を改正せんと試みても、根
本的というよりはむしろ、研究途次にある部分から入り込むことの方が多いのであ
る。即ち事実として認定される部分の中に|曖昧《あいまい》のところがあれば、それから入り込
み得るのである。事実の中に例外を認めて一時を|弥縫《びほう》する態度は全くよろしくない、
例外のあるところから我々は自然現象の|闡明《せんめい》に突入出来るのであって、そこからし
てなお一層|麗《うるわ》しい現象に直面出来るのである。
 天才の多くは努力したものであるか否かと云う議論は筆者の再三述べたことであ
るが、世人の中には|辛抱《しんぼう》強き人士を以て天才と早合点するものもなきにしもあらず
である。天才の要素としては、学の有無、智の|多寡《たか》よりも|超越《ちようえつ》して、あたかも無よ
り有を生ずるがごとき才能を|発揮《はつき》しなければならぬ。ヴォーヴナルグは、
<!-- ここから引用 -->
  学無きは精神の|欠陥《けつかん》に|非《あら》ず
  また智は天才の|証左《しようさ》にも非ず。

Ni l'ignorance n'est d'efault o'esprit, ni le savoir n'est preuve de g'enie.
Vauvenargues
<!-- ここまで引用 -->
 といったが、確かに天才は知識の蓄積によって達せられるものではないのである。
むしろ知識の蓄積をよぎなくされる時においては、天才は|消滅《しようめつ》するのである。学校
教育はむしろ知識の蓄積を|強《し》いるために、|可惜《あたら》天才の出現を拒否するとも考えられ
るが、また大天才はかかる|障壁《しようへき》を乗り越して、進展するところにその本領があると
も考えられる。天才の本領は正に自然現象中より得られた事実をいかに体系づける
かという思索であり、常人の企て及ばない体系を案出するところに偉大さがあるの
である。古来の天才学者はすべてかかる動作をあえて行なったが故に、この言をな
すのである。天才の定義としてとくに自然研究に携る者に対して、筆者は、
<!-- ここから引用 -->
  科学として新しき体系を樹立する者
  これ天才なり。
<!-- ここまで引用 -->
という。その行動が常人と異なり、いわゆる狂人と例を同じゅうしても、その仕
事が全く、自然現象中の事実をある考えの下に系統づけ得るならば、これ疑いもな
く天才である。天才の中にも大きさにおいてまた|多岐《たき》にわたる事実を系統づけ得る
ものは大天才と呼ぶほかはあるまい。また自然現象中より事実の|摘出《てきしゆつ》に大なる才能
を持ち、我々をして知識を豊富にせしめる人士がいても、これはよき研究者であっ
ても天才と呼ぶことを|躊躇《ちゆうちよ》する。事実の摘出はもちろん必要であるが、これよりは
精神的活動たる体系を組立てる労作を優位に置くからである。即ち天才の出現が科
学の|拡張《かくちよう》を豊かにする結果にほかならない。新しい体系は全く無より有を作り出し
たるがごとくに感ぜられる。否、感ぜられるのみならず、実際無より発足して有形
的に|齋《もたら》せたのであろう。この行為ほど人間文化として貴きものは、またとないので
ある。
 一般に天才を目指さすに、普通人よりも|優《すぐ》れた能力のあるものを以てするが、自
然研究者にとっては、単に努力的に労作してもこれは駄目である。何故かといえば
科学は、かかる行動で一部分しか目的が到達されないからである。
 然るに従来日本の学会の風潮の中には単に労作をなすことを尊しと考え、飛躍的
仮説の創造のごときは、あるいはかかる行動の出来ない人が多かった故でもあろう
か、|評価《アプレシエート》されることが少なかったのである。確かに無より有を生ぜしめる努力の中
には全く独自的色彩の|発露《はつろ》することは争われぬ事実であって、その自己的行動を|卑《いやし》
めたものである。即ち科学は人類共有のものであり、|猥《みだ》りに自己的意志を|挿入《そうにゆう》する
ことは|目漬《ぼうとく》であるとさえ考えていたように思われる。したがって自然の研究におい
ても、全く従来確められた事実を延長し、範囲を拡げることは差支えないが、当時
までに確立された事実に疑いを持ち、あるいは|毀損《きそん》して新しき系統を作ることは禁
じられたがごとき状勢であったのである。かかる学風の下においては決して天才は
出でることはないのであり、学的には全く外国の属国的立場にあったと称して差支
えないのである。
 この主張に|附随《ふずい》するものと考えられるのは、従来の科学は全く欧米諸国にて研究
されたるものが、欧語(とくに英語)により輸入されたものであるから、欧語にて
書かれたるものは真理を伝えるが、日本文にて認められたるものにはなんら価値な
しと無意識に信じられていたがごとくである。今日といえども欧語にて認めてこそ
研究論文であると考えている人がないでもない。この心理的傾向は正に科学は人類
共通のものであるがために、己の研究したものも世界科学人に知らせる義務がある
と考える結果でもあろう。
 確かに一面にはこの考えにも意味があるが、欧米人が自国語で書いて世界的と成
るに反し、日本人に大なるハンディキャップのあるは、いずれの日か克服出来るで
あろうか。この問題に関してとくに大切なることは、たんに小事実の報告を欧文に
てなすよりも、大なる思索的所物を欧文にて認めることである。然るに今日日本の
科学人は欧語の習得はますます低下する」途を辿りつつあるのであって、おそらく
思索的態度の結果優秀なる|仮説《かせつ》の脳中に現出し、これによって事実を系統づける試
みが生じても、これを欧文を通じて充分に発表することが出来得るかは全く疑問で
ある。たんなる事実的報告においては、その可能性は充分にあるにしても、|思索《しさく》的
論文においてその意味を徹底せしめることははなはだ困難であると考えられる。然
らばいかにすればよいかというに、まず日本に思索的に優秀なる労作を作ることが
第一であるには違いないが、その次には日本語によって発表して世界的に認められ
る努力をすることである。
 今日世界において学術語として認められる言葉は数種あるが、|惜《お》しいかな日本語
は未だ認められていないのである。これは|創作権《プリオリテイ》の問題であって、いかに日本人が
研究し、いかに日本人が自らの研究を日本語にて発表するもなんら世界的に価値な
く、発見の|栄冠《えいかん》は永久に彼らのものとなる現状である。即ち日本科学の優秀さある
いは世界共有の科学の進歩は全く、日本語をして世界語たらしむる努力である。日
本語をローマ字化せんとする努力も、|仮名文字《かなもじ》化せんとする努力も、一方には漢字
を覚える|栓桔《しつこく》から|免《まぬが》れることも確かであろうが、日本学術を世界的になすという大
望までが含まれているのである。いずれにもせよ、日本人の自然観、科学思想を世
界科学界に自由に|横溢《おういつ》せしめることははなはだ大切なことである。
 天才の出現はむしろまれであり、その出現を待ち設けることは一切に不可能であ
る。また天才は当時の人々から敵対されることがないでもない。そのいうところ、
その|為《な》すところは従来の体系から見れば相容れないところがあるからであり、旧系
統保持者から見れば|無《な》くも|哉《がな》の存在であるから。|予言者《よげんしや》は故郷に貴ばれぬという|諺《ことわざ》
があるごとく、天才はその生国よりは外国においてより良く|評価《ひようか》されるという例も
ある。また天才の業績といえども、その時代にただちに評価されるとは限らない。
学会の人々にその業績を評価すべき能力がなければ致し方のないことである。これ
らの問題に関してはその部門に良き研究者の|陸続《りくぞく》として輩出する場合に於てのみ|正鵠《せいこく》を得るといえるのである。
 日本における自然の研究はその歴史浅く、わずかに徳川時代にその|痕跡《こんせき》があると
も考えられるが、真の発達は明治以後である。今日といえどもある種の研究は世界
の標準にまで達し得たものもあろうが、多く追従の出来ないものもある。しかし、
この優れたものとても世界に|先駆《せんく》するを必要とし、幾多の研究者、学習者あれども、
いずれも|団栗《どんぐり》の|脊《せ》くらべにて、その部門の第一人者を出さざる限り、日本科学の優
秀さを示す訳にはいかないのである。
 これはあたかもオリンピック競技会に於て第一等を|獲得《かくとく》するや否やの類似のごと
くである。世界的競技会に於て、日本人が第一人者となるもならざるもなんら影響
なしと|泰然《たいぜん》たる人士も、実際競技場において競技会の第一等を日本人が勝ち得たる
時の感じは、全く日本に生まれたるを喜ぶほかはない。君が代の|吹奏《すいそう》とともに日の
丸の高く|蒼空《あおぞら》に|翻《ひるがえ》るを望む者、だれか感激なくして見送ることは出来ようか。ある
人は競技を以て青少年の行なう|遊戯《ゆうざ》類似の行動と思うかも知れぬが、それにしても、
|感激《かんげき》は筆紙につくしがたいものである。ましてや学問の|争覇戦《そうはせん》において勝を占めた
る場合、全く心を動かさざるものがあるであろうか。
 自然研究の競争は一刻も休むことなく行なわれているものである。その国の文化
施設が適当でなければ、天才は出現してこないのである。その道に携るものの|安閑《あんかん》
として日を送るべきではない。五十年に一人の天才を出すためにすべての学会は|渇仰《かつごう》しているのである。日本国の|津々《つつ》|浦々《うらうら》までも探し出して天才の出現を心掛けなけ
ればならない。
 現今の教育制度は大学を除いて、すべて上級学校の受験を目的とするかのごとく
である。試験あるが故に勉強するということは一般に大なる|通弊《つうへい》である。この欠点
を|匡正《きようせい》するために、|敢然《かんぜん》と立って試験を|眼中《がんちゆう》に置かない主義の学校もあったが、結
局上級学校に入れぬという|痛《いた》い|目《め》に遭い父兄等の攻撃に遇って改悪(?)が|余儀《よざ》な
くされたという。これは現今の制度上の問題である。また父兄の|虚栄心《きよえいしん》の結果でも
あり、また社会的欠陥でもある。結局学力のいかんよりは大学を卒業することが目
的で、借金をしてまでも大学を出そうとする。統計によれば東京帝国大学で学生の
二五パーセントは家庭以外からの援助金を得て勉強しているという。筆者は家庭以
外から絶対に金銭の援助を受くべからずとはいわぬが、あまりに大学を卒業せんと
する念願の強さに驚くものである。これは確かに大学卒業生という美名に|憧《あこが》れるこ
とと、社会が単にその肩書によって区別をするという|弊《へい》から生じたものである。
 なお日本有数の会社において社員の出世、--おそらく上級社員--を標準とし
て統計を取ったところが、小学校のみを卒業したものと、大学を卒業したものとを
比較するに、その数に於て約半分半分であるということがかつて報告された。|而《しこう》し
てその説明として、会社においては決して学閥的色彩のないことが証明出来たと
いっているが、筆者の見るところにおいては、この事実は全く学閥あることを|如実《によじつ》
に示すとしか受取れないのである。それは小学校を卒業した人数と大学を卒業した
人数との差が|隔絶《かくぜつ》しているからいうのである。
 東京市内における小学校数は約六百なるに反し、大学の数は十にも足らぬのであ
る。卒業生一ヵ年の数を比較するに、小学校卒業生がおそらく五千人あるに対し、
大学卒業生は約五百人程度であろうから、約十分ノ一程度である。
 然るに会社において小学卒業生にて上級社員が約半数であるということは全く大
学卒業者に対してはなはだしき|優遇《ゆうぐう》が|齋《もたら》されているということになる。これは一
方に|頭脳《ずのう》良きものは、小学教育に満足せずして、無理しても上級学校に入学すると
いうことも考えられることには相違ないが、以上の統計をそのままに|鵜呑《うの》みして、
社会が大学出のみを|尊重《そんちよう》しないといっても|承知《しようち》出来ないのである。
 かように社会までが学校卒業の有無について甲乙をつけるにおいては、父兄たる
ものの、争って子弟を上級学校に入れんとするは火を見るよりも明らかなことであ
る。
 父兄が自己の子弟に高級なる教育を施さんとする意志は誠に|尊重《そんちよう》すべき動機なれ
ども、その|出世栄達《しゆつせえいたつ》をのみ図って、自己の|困窮《こんきゆう》までも|犠牲《ぎせい》にし、また子弟の頭脳ま
でも|顧《かえり》みずして、|驚馬《とば》に|鞭打《むちう》つごとき|振舞《ふるま》いに出ずることはいかに考えても正道に
|確歩《かくほ》するとは思えない。子弟の学に携わらんことを|願望《がんぼう》するはよし、子弟を苦しめ
て父兄の|虚栄《きよえい》を満足する行為は|睡棄《だき》すべきものである。
 仏国における制度のごとく、大学の講義はすべて公開とし、何人といえども学欲
あるものは|聴講《ちようこう》差支えなしという制度は誠に理想的である。しかしながら、極めて
多人数が押しかけるかと思うと決してさようではない。学を好むものは東西いずれ
も極めて少数なのに驚く。学生は単に卒業証書を得んがために毎日通学するのであ
る。この意味を以てしては、天才の出ずるということはむしろ不可思議とさえ考え
られるのである。
 天才なるが故に入学試験には落第する、日常の学校の作業の中には良き点を取る
学課のみではない。学校制度は正に天才を殺すともいえるのである。学校は天才を
|育《はぐく》むところではなく、|凡庸《ぼんよう》をある程度まで引き上げるのであるというならば、とも
かく、天才にとっては現今の教育制度は全く|迷惑《めいわく》である。天才は五十年に一人、百
年に二人という程度ならば、かかる人間を標準にする必要なしと|嘯《うそぶ》く態度が現在の
教育方針である。

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