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科学への道 part7


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 しかしながら、一人の天才、一人の賢者によって、自然研究の大方針は樹てられ、
方向づけられることは古来の科学発展経過の我々に教えるところである。我々は万
骨の枯るるを|惜《おし》みながらも、一将功なる輝きをなお仰ぎ望むものである。
 自然研究の大道が指示されて、その道に従って努力すれば、科学の発達が出来上
ると考えるものは|愚者《ぐしや》の意見である。自然研究に、いかなる事物が飛び出すかは誰
人も|臆測《おくそく》することは出来ない、ただ天才が出でてその方向を明示するのである。天
才は常人の考え得る以外の範囲を|思索《しさく》するのであ奄この思索の力は、幾人かかっ
ても|比敵《ひてき》することは出来ない、全く一人一人の力の競争である。|毛利元就《もうりもとなり》が|臨終《りんじゆう》の
床に子息を呼んで与えた|教訓《きようくん》はこの場合、決してあてはめることは出来ないのであ
る。天才は何人の助けをも|借《か》らずして一人にて自然の研究を進めて行くのである、
その頭脳こそ|至宝《しほう》といわなければならない。天才の頭脳の構造は常人より力強いと
か、|繊細《せんさい》であるとかいうのではないと思う。なんとなれば全く質的に異なったこと
が考えられるからである。
 したがって努力により、あるいは研究時間を倍加したりしても、決してよきもの
が出来るのではない。たとえば通常の画家がいかに努力をしても、また、|画布《キヤンバス》の前
にいかに長時間坐ってもよき画が出来るということはなく、むしろ長く書いていれ
ばいるほど拙い画が出来るというほうが当っているのである。これに反して、天才
画家はむしろ努力をするというよりも、あたかも短時間働いて作り上げてしまうの
である。これはいかにも理に合わぬようであるが決してさようではないのである。
 およそ自然研究に携る研究者にもこの傾向があるのではないかと思われる。それ
は必ずしも机に向かっていることが勉強でもなければ、研究室で実験に|没頭《ぼつとう》するの
が努力でもないのである。もちろん、ある種の予備的労作は必要には違いないが、
それのみではなんら持ち来すところがなく、それらの労作に|魂《たましい》を打ち込む思索行動
が大切なのである。即ちその人に|具《そなわ》った思想の現われが活躍しない限りは、作品と
してまた成果として人々に仰がれるものが出来ないのである。思想の|鍛錬《たんれん》は全く人
格の修養と同じである。万人は何程かの人格はあり、何程かの思想あれども、これ
らを正しき、力あるものとなすところに|涵養《かんよう》を要する。人一生の年月を費してもこ
の道から離反することは出来ないのである。
 自然科学者は常に自然の動向に心を用いること、古来天才科学者の業績に接する
こと、かくして自然の何たるか、自然研究の方法が|体得《たいとく》されるのである。いたずら
に凡庸学者の言を信じて、いささかも自然の|風貌《ふうぼう》に接することなく、|蟄居我説《ちつきよがせつ》に|棲存《せいそん》するはもっとも悪しき行動といわなければならぬ。
 天才といえども決して生まれながらにして自然現象を|熟知《じゆくち》するものに非ず、また
研究方法を体得しているものではないのである。この世に生まれて来て初めて、自
然現象に接し、学に携って自然研究の|徹進《てつしん》を|探索《たんさく》し得たのである。この研究方法の
中にも古来の諸学者の方法に|暗示《あんじ》を得てその方法を進展しているものの多いことは
確かであろう。天才の異なる点は凡庸学者の手法を範としているのではなく、古来
の天才学者に|倣《なら》って卒直にその行動を起こしたとも思われるのである。
 要するに凡庸と天才との|分岐点《ぶんきてん》は正にその思想の動向である。いたずらに試す必
要なき研究を|墨守《ぼくしゅ》して、貴重なる人生を費すか、思想的に必然性を認めて自然現象
の|帰趨《きすう》を|看破《かんぱ》するかにある。しかしながら、思想とたんに|命名《めいめい》するが、これは哲学
者流の思想とは全く異なるのである。科学者の思想は全く自然現象中の事物を基と
して発足するのである。いやしくも自然現象中の事実に反した事物を論じてもなに
ものにもならないのである。事実は最後に決定を与える|宣言書《せんげんしよ》である。この前には
いかなる科学者といえども決定権に服さざるを得ないのである。
 以上の意味を以てすれば、尊きものは事実であるという|風潮《ふうちよう》が|漲《みなぎ》るかも知れぬが、
これは自然そのままの姿であって、決して人類の存在あるが故にという問題ではな
い。人は自力を以て研究し、自力を以て仮説を作る、そこに尊さがあるのであって、
事実を|聯接《れんせつ》して科学という一大体系を作るところに尊さがあるのである。科学者は
事実の前に服するのは当然であるが、それなるが故に事実の発見のみを|尊敬《そんけい》すべき
ものではない。これはあたかも裁判官の前に於てその判定に服すといえども、裁判
官は尊敬すべき人士であるや否やは別問題である。いわんや自然に備なわるものと
して、これを|摘出《てきしゆつ》する動作は自然研究上欠くべからざるものには相違ないが、科学
の本体に対して系統づけるところに絶大の意味のあることを思わなくてはならぬ。
 確かに古来科学上の論争が新事実の出現によって|終結《しゆうけつ》を告げた例は多い。たとえ
ば太陽系の遊星が太陽を中心として回転する事実を渦巻説を以て説明したものが
ニュートンの|万有引力説《ばんゆういんりよくせつ》によって置き替えられ、今日何人も|不審《ふしん》を|抱《いだ》くことがない
が、またニュートンの光粒子説は、フレネルの波動説によって完全に光の|伝播《でんば》は波
動によって行なわれるということが確立された。また電子粒説はブロイの集合波説
によって大なる展開を示したが、いずれも観測、実験に照してその真相が|窺《うかが》われた
結果にほかならない。然もその実証に携るものは天才として認められるのである。
なんとなれば余人はかかる現象を|夢想《むそう》し得ないからであり、天才のみその思索範囲
が常人のそれと異なって拡張されているからである。この常人を|超越《ちようえつ》した思想、こ
の思想が結局実験を行なわしめ、事実を確立せしめたのであった。
 天才の思索は全く常人の考え得ない範囲にまで延長するため、その言動はしばし
ば|奇異《きい》の感を起こさしめ、いわゆる常軌を|逸《いつ》すといえるのである。天才は常に系統
の改善あるいは延長を考えることに気が奪われているために、かかる言動が自然に
現われるのである。よく若き芸術家が好んで赤いネクタイを結び、荒い|縞《しま》ズボンを
|履《は》いて人々の意表に出でんとする行為と混同してはいけない。一方は万事に無関心
になるに反し、一方は|事毎《ことごと》に人目につくような|振舞《ふるまい》をする。天才の言動は思索の|高潮《こうちよう》に|浸《ひた》る結果、世事には|無頓着《むとんちやく》になるのであって、全くある場合には監視人をも要
する。天オは全く常人と異なった種類の人間であり、全く思索上に|卓越《たくえつ》した学者で
ある。このために従来|樹立《じゆりつ》された系統にあきたらず新系統を創立するのである。し
かしながら、天才といえども従来の系統がいかなるものであり、また事実を解析理
解するに充分の能力あるを必要とし、ある点までは常人と同じ過程を踏まなければ
ならない。
 天才としてまた必要なるものは、その生まれ時期であるとも考えられる。研究は
全く事実を自然現象中から|摘出《てきしゆつ》する行為を必要とするのであるから、もし当時得ら
れた事実がすべて系統づけられて、|手腕《しゆわん》を|振《ふる》う余地がないこともあるであろう。即
ち、大天才の|没後《ぼつご》ただちにその道に向かってもおそらく大発展を|遂《と》げることは困難
であろうと思われる。即ち当時までの事実はすべて系統づけられてあますところが
ないからである。即ち科学の発展に於ても新事実の集るまで、事の経過を待たねば
ならぬのではあるまいか。またある考え方によれば、事実はどこにも|転《ころが》っているの
であって、以上の|杞憂《きゆう》はなんらないものであるという論者もあるようであるが、筆
者の論説としては、ある時代、その時には事実の|蒐集《しゆうしゆう》がもっともよく行なわれ、事実
の|堆積《たいせき》が|混沌《こんとん》としてある場合に生まれた天才は幸福であるという。
 即ち石材は已に集まっているが、それに彫刻を施すべき|巨匠《きよしよう》の出でざるためにい
たずらに原石のまま横たえてある状態であるのに|匹敵《ひつてき》されよう。ミケランジェロの
伝によれば、数年来フィレンツェの町に|大理石《だいりせき》の大塊が人の手がつけられずに横た
えられていたのであるが、彼は二十七歳にしてこれに手をつけて立派なダビデの立
像を|彫《きざ》み上げたという。果たしてこの大理石の大塊なくして、、、、ケランジェロは、
彼の|怪腕《かいわん》を振い得たであろうか。もちろんミケランジェロ出でずしてその巨大な像
の出現の|覚束《おぼつか》なきはもちろんであるが、石塊なくしてもかかる巨像の出来上ったこ
とも望めないのである。
この意味を以てすれば、筆者は天才の出現すべき時代にも大いに意味あることを
信ずるのである。おそらく各時代に、質的には天才として|謳《うた》われる程度の人士が生
まれ出ずるのであろうが、時を得ずしてそのまま力量を示すに到らず、朽ち果てる
のではなかろうか。また朽ち果つべき充分の理由を感ずるのである。天才の種子は
四方に|蒔《ま》き散らされるが、育たずして枯れるというのは聖書中の言であるが、確か
にその|比喩《ひゆ》は場所的にも時間的にも言えることである。またある場合には学制の不
備であることから、天才の出現すべき道が断たれ、|可惜絶世《あたらぜつせい》の才を以て生まれ来た
れる天才も、そのままに葬り去られて、なんら|為《な》すところがないのである。
筆者はかつて、イタリアのルネッサンスに主として芸術方面ではあるが、偉人の
籏出せる事実を見て、その伝統の然らしむるところもないとはしないが、当時特別
の事情のあるを窺知せんと試みた。たとえば幾百年前の出来事であろうが、新星の
発現により、当時宇宙線がもっとも大量に地球に降り注いだ結果ではないかと疑っ
た。もしかかる宇宙線の影響とすれば、世界各国平等に天才の現出するはずである
が、日本に於ても|足利《あしかが》時代の文化|爛漫期《らんまんき》であり、|能楽《のうがく》創始者たる|世阿弥《ぜあみ》のごとき、
あるいは|雪舟《せつしゆう》のごとき|不世出《ふせいしゆつ》の天才の出現等と思い合せて、その威力の並ならざる
を思ったこともあるが、天才の出現はむしろ社会的状勢を|看破《かんぱ》すべきことの大なる
を信ずるに至ったのである。
天才は地球上常に|蒔《ま》き散らされているが、育つものは幾人であるか、天才の種子
こそ|凡庸人《ぼんようじん》に比較して極めて少なきものであり、また生長しにくいものである。社
会は天才を生育すべく制度化されていないのである。即ち各所に|障壁《しようへき》があって、天
才はこれを越えるに大なる|困却《こんきやく》を感ずるものである。天才を育てしめる制度の良否
を考えて後ルネッサンスのそれに比すべき偉人群の出現を望むほかはないのであ
る。天才はこの意味に於て全く人為的に出現し得るのである。しかし、多数の人間
中より少数の人間を選び出すことであるから、その点には多くの|操作《そうさ》を要すべきは
もちろんであり、多くの当事者の充分の理解を必要とするものである。
 天才の出現が極めてまれであるために、その出現にはなにか不可思議の存在があ
るかのごとく|瑞摩《しま》する人もないとはいえないが、筆者はそれにはなんらの|疑惑《ぎわく》も考
えない。自然現象の通則として、人類の中、|偉人《いじん》と|白痴《はくち》とは全体に較べて少数であ
り、ほとんど全部は凡庸人である。統計的にはこれらの分布度を判定をなすことが
試みられていないし、また出来ないからでもあろうが、かような分散は必ず存在し
ているのである。すなわち天才の少数なる事は統計上の問題であり、また少数なる
が故に偶然的に発生するともまた考えられるのである。
|然《しか》るにこの偶然的発生において、その因子は全く社会的状勢によるものの多きを
思えば、天才は全く社会の産物であり、良き花園には良き花が咲き誇るのである。
花園を耕すことを忘れて天才の出ずるを待ち|焦《こが》れていても駄目である。花園の|開拓《かいたく》
こそ、全く天才出現の|素地《そじ》である。
 然らばいかにして天才の出現を待望すべきか、美しき花をいかにして咲き出でさ
すか、ここに|結着《けつちやく》の問題がある。天才を発育するためには、一律的な試験制度を|廃《はい》
止することである。もちろん試験あるが故に勉強もし、学力もつくのであろうから
全廃するには及ばないが、ことさらに門をせまくしていたずらに競争試験を激甚《げきじん》た
らしむるは不可である。
 またいずれの学課も一人にして完全に習得するごときことを賞揚《しようよう》せずに、むしろ
特長ある人間を養成すること、即ち数学と体操とを二つながら上達せしめるような
ことはしないことである。もちろんいずれも出来る者があれば|慶賀《けいが》に|堪《た》えないが、
人間中平等に恵まれている者は少ないのである。|頭脳《ずのう》の優れたるものは体力劣り、
体力の優れたものは頭脳の働きは|鈍《にぶ》る。かかる二つの動作を画一とせず、優れたる
技倆があれば、それを充分発達努力せしめること、これは正に天才を見出す一つの
方法である。
 世の中に天才教育を|標榜《ひようぼう》して、その到達を図る企てはあるにしても、一校、一団
体がこれを行なっても社会一般がこれと歩調を合せない限りにおいては実現は難か
しいのである。社会はその学歴を以てその人の能力を|査定《さてい》し、|差別待遇《さべつたいぐう》をあえてす
る。かかる現状においては、なんら進展する術がないのである。これはまた徳川時
代の封建制度下において、各人独特の才能をもっていても伸ばすことが出来ず、制
度下に坤吟したものよりは確かに進歩しているには違いないが、天才を育むべき理
想的制度からすれば、未だ|前途遼遠《ぜんとりようえん》といわなければならない。天才教育の|主旨《しゅし》は正
に万人の頭脳の改正から始めなくてはならない。その|暁《あかつき》に於ては自然に筆者の主張
する天才教育に一致するのである。要は正しき教育を|漲《みなぎ》らして社会一般の文化を高
めれば、その中には制度の改革が叫ばれるに違いない。
 要するに天才論なるものは多くの人々によって唱えられ、天才の本質について、
また天才の出現について多くの論議が闘わされたにもかかわらず、今日|依然《いぜん》として
天才教育には程遠き教育が実施されているのである。要路の人々に改正の意志なき
を|詰《なじ》るよりも、現状のままにても、より多くの人々を教育する方が先決であるかも
知れない。天才教育よりもより多き凡庸教育を前以て|為《な》すべき努力を、必要とする
かも知れない。天才は数においては極めて|僅《わず》かである、少人数の偉人を作るよりも、
力量はそれよりも劣るが人数の多き凡庸中の優秀なる人間を作る方があるいは近道
であるとも考えられるであろう。現在は正にその通りを行なっているともいえる。
多数の優秀凡庸人が作られる時において、おもむろに天才教育が議せられてもある
いはよいのでもあろう。現在教育の主義の中にはおそらく少数という理由を以て|却下《きやつか》される傾向もあるのであるから。
 かくて天才に要望するものは、我々の思索する範囲を充分拡げて、この領域に未
だ凡庸人の労作する余地を示すならば足るのであって、この領域に再び進歩、発達
が|齋《もた》らされるのである。天才といえども人間である、ある領域においては凡庸人に
敗けるところがあるは必然である。しかし、思索的領域拡張に対して、充分の手腕
が振えるならばそれでよろしいのである。したがって天才の一生は迫害の多きを知
るが、死後その努力の順次に展開されて|麗《うるわ》しき科学の園に百花|捺乱《りようらん》たるを現出する
のである。
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