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夏目漱石 - 文章一口話

文章一口話

夏目漱石

絵画に impressionist というのがある。これは Turner が元祖である。Turner 自身でこういう一派を創設主唱したのでもなければ、この時代の人からそう認められていたのでもない。ただずっと後世になって、かかる一派が事実上認められるようになり、遠くその系統をたどり、その根源にさかのぼってみると、この人に帰着するというのである。

 伝統はとにかく、インプレッショニストの特色は、いかなる色を出すにも間色を用いぬということに帰着する。かれらの考うるところによれば、すべての色は主色の重なったもので、混じったものではない、という立脚地から出立する。したがって、近寄ってはなんだかわからぬが、立ち離れて一定の距離から見ると自然の色彩を感じうるようにかきこなす。その方法は、あらかじめパレットで顔料を混じて、その混じたものを画布に塗りつけるのではない。単純なる主色 (pure tones)を一色一色にじかに塗抹(とまつ)して、その集まったものを一定の距離から見ると、目の作用で、それがその写すベき実在の色彩に接したと同似の感を起こすようにするのである。色彩についての技術はこうだが、そのほか筆の用い方についても、たとえばここが一筆に勢いを示しえているとか、あるいは筆つきであたかも音楽のハーモニーのような趣を表わしているとかいうふうで、おもに技術のがわに心を用いる。したがって、それがこうじていくと、取材の選択とか、結構のくふうであるとかは、自然第二第三以下の問題となる。したがって、composition (結構)から得る感じ、あるいは idea (思想)を表わすなどはどうでもよい。筆つきなどが巧みに運ばれておれば、絵画の能事は終わったように考えるほど極端になってくる。

 文章についても同じことが言えると思う。すなわち、文章のうえにもまたインプレッショニストがある。文章も、ある見方では、余のことには目をつけずに、ちょうど絵画に関して画家がその仲間で絵をほめ合うごとく、技術そのもののみをほめるようなことがある。ある意味からいうと、そういうのは、現在の写生文家が互いにほめ合うているところである。すなわち、今の写生文家の立場からいうと、要するに何を書こうがかってだ、ただその叙し方さえ巧みなればよい。極端にいえば、車夫馬丁のだじゃれでも、馬がへをひったことでも、犬が孳(じ)しているさまでも、その叙述が精緻であれば、すぐにうまいといい、おもしろいという。ただ巧みに書こうという弊は、その何を言うかの目的に多大の注意を払わぬようになる。描き出された部分は、それはきわめて明白に巨細に写されて、間然するところがないほどな技巧を示しているかもしれぬ。しかし、読んだあとでなんだか物足らない。淡泊であきたらないのではない。なんだか不満足である。で、その原因を探るといろいろになるが、分類をするのはめんどうであるからまずわかりやすい例でいうと、あるいは中心がない、あるいは山がない、あるいは人をひきつける力がないという場合が、比較的に多いように見える。たらいの中の水に春風が渡って水面を刷くさざなみのちりめんじわ一つ一つのこまやかに明らかではあるが、しかし、その水全体にこもる力がないという場合もある。面なめらかな大洋の波のなんの曲もなきがおのずから心ゆくカーブをなすのとはおのずから異むっているので、なんだか物足らない。そこで、かれらにきいてみると写生だという。なるほど、うまく写生ができているかもしれない。リアルかもしれない。しかしリアルであればそれでしゅうぶんだという場合ばかりはなかろう。リアルでもそのもの自身がつまらんときは、せっかくの技巧は牛刀をもって鶏を裂くと同じことであろう。余の考えでは、かかる場合において、よしありのままをありのままに写しおおせても、 attructive でなければ物足らぬ。 attructive であれば、如上の意味においてリアルでなくてもかまわぬ。神はクリエート(創造)する。人もクリエートするがよい。 一定の時の一定の事物をすみからすみまで一毫一厘(いちごういちりん)写さずとも、のみならず、進んで一葉一枝一山一水の削加増減をあえてするとも、あたかも一定時の一定事物に接したかの感じを与えうればよい。さらに一歩を進めると、いつかどこかに、はたして存在し、または存在すべきことを要せぬ、ただただちにまったく実在すると感じられ、実在するであろうかせぬであろうかと遅疑する余裕のないものならば、それでたくさんだ。これまた一種の意味においてリアルである。この意味においてのリアルとは、一定の時に一定の場所に起こった事物の証拠力ではない、歴史的考証力でもない、身まさにその説述の裏に同化し、真偽のまぎわにたゆとうことなき境涯の状態を意味するのである。かくて事物の証拠力としては許されぬクリエーションは、如上の同化の境涯を真覚せしめるためには、許されうべきのみならず、また実に必要である。ある場合にあっては、多少のクリエーションを許すがゆえにじゅうぶん attructive となり、 attructive であってはじめて芸術的にリアルとなる。こうやったら事実にちがおうか、そうしたらうそになろうか、と戦(せん)々競(きよう)々として、いたずらに材料たる事物の奴隷となるのは文学のことではない。感興のおもむくところ、クリエーションの思いきりがたいせつである。翼々として思いきれぬ写真術には、感興興趣の色彩はとれぬ。シェクスピアは、今の人ならばとてもそこまでは思いきって描くことができぬほどのあたりまで、興に任せ、筆を走らし、立ち入って描き出す。その思いきった点が、いつもその作を活躍せしめている。

 およそ世の中のことは、発達するにしたがい単純から複雑になる。本来をいうと、文章もどこまでが思想で、どこまでが技術かわからぬほど単純なものである。ところが、漸々人が文章を縦に見たり横に見たりしてこねまわしているうちに、おのずから実質と技術とが分かれるようになってきた。同じものが分かれる訳はないが、人間の目のつけどころが複雑になると、一つのものをいろいろに差別してみることができるから、こういう現象が起こるのである。たとえば、形と色との関係のようなものだ。一の物体についていうと、そのものから色を取ればその形はなくなる。その形をとればその色はなくなる。二相帰一、色は形で、形は色である。しかし、人の知識が進むにしたがい、アナリシス(解剖)ができるようになるから、このわかつことのできない色と形とをも、仮に分けて見ることができる。同一物体から色だけを抽象し、もしくは形だけをぬいて見ることができる。それと同じことで、文章も実質と技巧とを分けて見ることができるようになる。ある人は技巧のみをぬいて見るし、ある人は実質のみをぬいて見る。すなわち、前者後者の区別から、 form (形)に重きを置く技巧派と、 matter (質)を主とする実質派とも名づくべき二流派を生ずる。しこうして、前者は現今の画界におけるインプレッショニストと同傾向のものである。

Art of artは、文章もしくは絵画をかく分解してこれを技巧的にのみ観じうるほど、吾人(ごじん)の頭脳が発達したときにはじめて勃興(ぼつこう)すべき現象であって、また必ず起こらねばならぬ一派である。それで、今のいわゆる写生文家には大いにこの傾向がある。この傾向のあるのは、時勢の発展上こういう一派が認められべき機運に到着したので、一方からいうと、むしろ社会がこれを産出するまでに進んできたのである。歴史上漸次文章界も複雑になってきた結果、古くよりあった思想派のほかに近ごろ技巧派ができた、というのは開化の潮流がそこまで達したのであろう。ただ、この技巧派が極端に走るときには、まえに述べたような弊害に陥ることは自覚せねばならん。

 前述のしだいだから、いわゆる写生文は現今の社会からはすこぶるけいべつされて、なんらの価値もないもののように言われているにもかかわらず、自分はそうは思わぬ。日本人の全体、今のいわゆる小説家などの多分の思うごとく、写生文は短くて幼稚だというのは誤りで、幼稚どころか、かえって進歩発達したものというてもしかるべきことと考えている。否、むしろ発達しすぎてその弊に陥ったもの、一方の極端に走ったものと思う。すなわち、実質そのものはどんな平凡なことでも、写す技巧さえ確かであればかまわない。平たくいえば、事がらはおもしろくないが叙述はうまかろう、という傾向になっている。それだから、ある人は大いに感服すると同時に、大いに不満足なのだろうと思われる。

 議論の原則としては、技巧で書いたものは技巧を見る。趣向が主なら趣向を見る。人情の機微を写したものなら人情の機微を見る。ただ極端に走り、余弊に陥った今の写生文家は、趣向、結構(composition)、筋、しくみ(plot)を考えなければならぬ。

 技巧派の弊がこのへんにあるに対して、実質派の堕落の一は、ただ筋を運ぶよりほかに何も知らぬことであろう。その筋もおもしろければだが、つまらぬ人情話を容赦もなく運んでいく。まるで地図を開いて見ているようだ。あるいは造船の設計をながめているようだ。

 文章上について、こんなとっさの際に思ったことを述べるとよく尽くさぬことがあるので、しばしば人の誤解を招くことがある。この議論でももっと秩序をたてて長いものにして、はっきりと納得のいくようにしなければならんが、座談だから、そううまくはいかん。だいいち、考うべきことは、文章において考うべき条項は何と何であるか、それから詳しく考えて、そうして相互の関係を論じてみなければならん。しかるのち、小説でも戯曲でも完全な批評はできるのである。現今の批評というものは、ごうも系統的でない。おのおのかってしだいに気のついたことをいいかげんに並べるばかりである。そのかわり、どれも機械的でない。そこがたのもしいところで、そうしてまた科学的でないところである。

(明治三十九年十一月一日『ホトトギス』)

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