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四つの袖 (part1)

四つの袖

岡鬼太郎

上之巻

女の操といふは、心か、体(からだ)か、われ/\稼業の仲間には、堅気の人達の察しも附かぬ義理人情 のある事なり。

わたしがまだ松廼家(まつのや)に出て居た頃、姉妹(きやうだい)のやうに仲よくした三歳(みツつ)年下のお貞(てい)さん、これが笹家(ささや) の空看板(あきかんばん)を買つて自前(じまへ)になツたのには、いろいろのゆきさつあツての事なれど、つまりは持つて 生れた意地つ張(ぱり)をとほしての一本立、さすが旧幕御直参(きうばくごぢきさん)の家に生れた江戸つ子の血すじと、わた しは其の時、からかつてやつた。

わたしも続いて年が明け、今の若松廼家(わかまつのや)の分看板(わけかんぽん)の手前稼ぎ、いくぢ無ければ身すぎ世すぎも 無事なれど、お貞さんの身の上、気の毒とも可哀想とも、これも意地つ張からの心がらとたゞ一口にいへやうか。

お貞さんことし二十八、其の二十一の時にかうした事。

徳川の御家人(ごけにん)と、世が世の時にパリ/\して居た人達はいつか死に絶え、お貞さんが一本にな ツた頃には、もうその両親も無く同胞(きやうだい)も無く、笹家(ささや)の看板を出した時に喜んでくれた親族(みうち)といつ ては、おつかさんの弟のおかみさん、お貞さんには義理の叔母さんに当る寡婦(ごけ)さんたつたひとり、 お貞さんいよ/\もつてうから/\とはして居ぬ訳なり。

されど世にいふ思案のほか、日頃は何んの男なんぞといつて居た其の男を、可愛いと思つたが 苦労の初め、これが自前になツたお貞さん二十一の春。

昔の稗史(ほん)やお芝居によくある筋、新年宴会のお座敷で顔を合はせたがそも/\にて、だん/\ お貞さんの方から深くなツたは、日本画を稽古して居る書生さん、名は磯上重雄(いそがみしげを)といつて年は二十(はたち)、女の子より一つ年下なり。

磯上ざんは、常陸(ひたち)の土浦と水戸の間の石岡といふ処に、代々の造酒家(つくりざかや)として有名(なうて)の豪家の二番 息子、惣領のにいさんは、先祖からの通名(とほりな)を名乗つて調四郎(てうしらう)、年は二十七、相応に東京の学校で 勉強したのだといふ。

お貞さんの磯上さんも、十九の春中学を卒業して、それから首尾よく専門の学校へはひり、画 のお稽古はするもの」、可愛がられるが毒になツて、にいさんの奥さんの御実家(おさと)、京橋本八丁堀 の岩佐回漕店の世話になツて居るにもかまはず、昼はもとより夜さへ時々明ける始末、まことに 不行跡不身持には違ひ無けれど、自分は女めづらしい若い身上(みそら)、相手は年上の商売人、堅気さん のお耳には聞辛くとも、われ/\の口からいはせれば、磯上さんの迷ひ少しも無理で無し。

しかもよく/\深い縁でがな、逢つて間も無くの事と見え、其の年の師走のはじめ、お貞さん は女の子を産み落し、これにお花と名は附けたれど、うちのつがふ、稼業のてまへ、折角産んだ 楽しみの初めての子も手もとでは育てかね、お喜びにと出掛けたわたしに、お信(のぶ)さんどうしたものだらうねエといふ、

腹帯を固くして、随分無理な勤め方もしはしたものゝ、冬からはもう人目に立つにぞ、病気といつての商売休み、其の揚句の今、春は目の前。 「わたしだツて、ひとりや半分お客の無い事も無いけれど、こゝまで我慢をして来たものだから、 此の子ひとりぐらゐのことで、今さらひとに弱い音を吹くのも。」

トさすがの負けぬ気にも溜息、後見(うしろみ)代りなり寄食人(かかりうど)なりの叔母さんお友さんも、いはず語らず苦労の様子。

人はあひみたがひ、殊には姉妹(きやうだい)同様の仲、お貞さんの内輪の事も知り抜いて居るわたしは、ど うぞして春をやす/\稼がせてやりたいものと思案のうち、ふと思出したは、以前松廼家に居た 女中お定といふが、その後宇都宮在の実家へ帰り、近所の小商人(こあきんど)へかたづいて、此頃子供が出来たよしを、松廼家の姐(ねえ)さんから聞いた一条。

「ねエお前さん、気にはすむまいけれど、せめてかうにでもして見たらどう。」

ト子供を里に出すはなしをすれば、物の十分も黙つて侑向いて居たお貞さん、

「里つ子にやると、親子の情愛が薄くなるさうですねエ。」

ト、ホロリと一雫、産んだばかりでも我が子はかうも可愛いものか。

それでもほかに差当つての分別なく、叔母さんとふたりしてまア/\と慰め諭(さと)し、松廼家の姐 さんとも相談の上、宇都宮在の干瓢(かんぺう)屋兼百姓の、関口久蔵といふかのお定のつれあひのところへ、 わたしからきゝあはせの手紙。


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