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火野葦平「皿」


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 河童は立ちすくんだ。背の甲羅がひきしめられて枯葉のように|軋《きし》み、膝小僧が金属板のように鳴る。自分の目がつりあがってゆくのが自分でもわかる。こんな恐ろしいものを見たことがない。
苔のついたしめった石垣が上部からの光線に、円筒形に|鈍《にぶ》く光っている。昔はまんまんと水がたたえられていたのであろうが、今はほとんど乾いてしまって、古井戸の底にはわずかに点々と水たまりがあるきりだ。その水も腐って青いどろどろの糊になっている。しかし、路上の馬の足あとにたまった水たまりにさえ三千匹も棲息することのできる河童は、こういう腐水であっても、水分さえあれば姿をかくすに十分だ。相手に気づかれずにどんな観察でもすることができる。河童をこんなにおどろかせたのは、一人のうら若い女性であった。
|黄昏《たそがれ》、河童はさわやかに吹く春風のこころよさに、浮かれ心地で山の沼を出て散策していると、一匹の蛙を見つけた。冬眠からさめて地上に這い出たばかりらしく、まだ十分に手足の運動ができない様子で、きょとんとした顔つきで置物のように柳の木の根もとにうずくまっていた。河童は食欲を感じてその蛙をつかもうとした。すると意外にも蛙は飛躍したのである。自由がきかないと思いこんで、油断をしていたので逃がした。蛙はかたわらにあった古井戸のなかに飛びこんだ。河童もすぐ後を追った。そして、河童は蛙どころではなくなったのである。
暗黒の井戸の底に、その娘の姿だけぼうと浮きあがっている。年のころは十八九であろうか。頭髪はみだれ、そのほつれ毛が顔中にたれさがっているが、その頭の結びかたは当節では見られない古風なものだ。河童はまだ城があり、御殿があり、そこに大名やたくさんの腰元のいた時代のことを思いだした。そういえばその顔形も古典的で、このごろ銀座などを横行濶歩しているパンパン・ガールのような文明的な顔形とはおよそ対蹠的である。衣装も振袖だし、窮屈そうな幅びろい帯はうしろで太鼓にむすばれ、古足袋のこはぜはまだ錆びていず、金色に光っている。一口にいえば、絵草紙から抜けでて来たような女だ。しかし、その|瓜実顔《うりざねがお》のととのった顔は、|嫩葉《わかば》いろに青ざめていて、唇は|葡萄《ぶどう》色をしている。
(幽霊だ)
河童にはそのことはすぐわかった。しかし、河童が恐怖に立ちすくんだのは、彼女が亡霊であったからではない。河童とて|妖怪変化《ようかいへんげ》の一族であるから、幽霊くらいにはおどろかない。おどろいたのはその亡霊の動作であった。
若い女はしきりに皿の勘定をしている。じめじめした古井戸の底にやや横坐りになった娘は、膝のまえに積みかさねられた幾枚かの皿を、なんどもなんども計算しているのである。女は一枚一枚を丁寧にかたわらへ移しながら、一枚ごとに数を読む。
「一枚、……二枚、……三枚、……四枚、……」
その弱々しい低い声が河童の心を冷えさせる。こんなにも陰欝で消え入るような|声音《こわね》というものを聞いたことがない。それはただ弱々しいだけではなくて、そのなかに含まれている悲しみや恨みやがたしかに永劫のものであることを感じさせるような、絶望的なひびきを持っている。その声を聞いているだけで奈落へでも引きこまれてゆくように気が滅入る。
「五枚、……六枚、……七枚、……」
ゆっくりゆっくり一枚ずつをたしかめながら読んで行く声は、七枚目あたりからなにかの期待と不安とにかすかに調子づくが、
「八枚、……九枚」
九枚目でぽつんと切れると、まるでこれまで|点《とも》っていたかすかな灯がふっと消えたような、終末的な表情が女の美しい顔を|掩《おお》いつくす。女は暗澹とした顔つきになって、肩で大きなためいきをつく。うなだれる。唇を噛む。涙をながす。すすり泣く。
「やっぱり、九枚しかないわ」
と、呟く。
しかし、まもなく、きっと頭をあげ、意を決した希望のいろを青ざめた顔にただよわせて、また皿を数えはじめる。細く骨はった青臘のような手で、直径五寸ほどの皿は一枚ずっもとの位置へ返される。
「一枚、……二枚、……三枚、……四枚、……五枚、……」
河童は皿が九枚あることを知った。その模様は九枚とも同じである。紅葉の林を数匹の鹿がさまよい、清流にかけられた土橋のうえで、神仙のような老人が二人ならんで釣をしている絵がかいてある。空に紫雲がたなびいている。色どりはあざやかで、陶器の肌はつややかだ。しかし、そんな皿の美しさに気をとられているどころではない。
「九枚」
という最後の声とともに、死に絶えるような女の失意の姿が河童をふるえあがらせ、ほとんど発狂しそうな恐怖へおとし入れる。河童の胸にいいようもない女の孤独が氷の|鏝《こて》をあてるようにしみわたってきて、全身戦慄で硬直しそうになるのだった。
亡霊は三尺とは離れていない臼分のかたわらに、自分をのこるくまなく観察している河童のいることなど、気づく様子もない。いや彼女には皿の計算以外、いかなるものも関心をよぼないもののようだった。さっき井戸のてっぺんから飛びこんだ蛙は、一度彼女の右肩にあたって下に落ちたのだが、亡霊は眉ひとつ動かさなかった。時代を経た古井戸には、虫や、螢や、|蝙蟷《こうもり》や、|蛞蝓《なめくじ》や、|蜘蛛《くも》や、|蛭《ひる》や、|蜥蜴《とかげ》や、いもりや、|蚯蚓《みみず》など、いろいろな生物が同棲していて、ときどき出没したり騒いだりもするのであったが、なにひとつ彼女の注意を喚起するものはなかった。天井のない井戸のうえからは、雨や雪が降りこみ、風が花びらや木の葉を散らしこんでいることだろうが、恐らくそういう電のも彼女から皿への執心を|反《そ》らせることはできない。河童はこんなにも頑固一徹な情熱というものを見たことも聞いたこともなく、このほとんど頑迷といってよい計算のくりかえしに、甲羅の破れる思いを味わったのであった。
河童は女に話しかけたい衝動を感じた。沈黙に耐えられなくなった。それには好奇心も手つだっていたことは否定できないが、主としてあまりの息苦しさに負けたのである。
どろどろした青い糊の水をゆるがせて、河童は姿をあらわした。若い女も、あまりに唐突に、自分のすぐ横から異様な形のものが出現したので、さすがにはっとした面持で、皿を数える手を休めた。もっとも、河童は、女が九枚を数え終ったときに名乗りをあげるだけの注意はしていた。この悲しみに打ちひしがれている女を恐れさせることを避けたのだ。河童の措置は適切であった。河童が計算の途中で姿をあらわしたならば、女はおどろきで皿を取りおとし、幾枚か割っていたかも知れない。
「失礼しました」
無言で凝視する淑女にたいして、礼儀正しい河童は丁重に頭を下げた。しかし、女は答えようとはせず、凝結したまま、ただ|闖入者《ちんにゆうしや》を見まもっているだけである。冷たい目である。狼狽した河童は追っかけられるように、どぎまぎしながら、
「いったい、どうなさったのですか」
と、とりとめのない質問をした。こんな問いかたにはなにも答えられまい。河童もそれを知らなくはなかうたけれど、|咄嗟《とつさ》には上等の言葉が出なかった。冷汗が出てきた。
すると、思ったとおり、女はなおも無言で河童を睨みはじめた。最初のおどろきの表情は消え、女がしだいに不機嫌になってゆくことがわかった。河童はさらに狼狽した。そしてつまらない言葉を吐いた。
「わけを聞かせて下さいませんか」
今度返事がなかったら、河童は窒息したかも知れない。しかし、幸いなことに、女は口をひらいた。
「あたくしは悲しいのでございます」
そういった声の悲しさと、たったそれだけでぽつんと切れた言葉の余韻の恐ろしさとに、河童はもはや亡霊と対決している忍耐をうしない、脱鬼よりも早く、井戸の外へ飛びだした。
河童の|俄《にわか》勉強がはじまった。
(歴史を知らなくてはならぬ)
河童は唐突な情熱をたぎらせて、古典を|漁《あさ》り、史書や、小説や、口碑や、伝承のたぐいを探った。山の沼にいる仲間たちは彼の奇妙な変化に気づいて、そのわけを聞きたがったが、彼はなにごとも語らなかった。他の者であったならば、古井戸の底で女に出あったことを得意げに|吹聴《ふいちよう》してまわったかも知れないが。彼はこれを秘密にした。この経験を自分のなにかの発見や生長に役立たせたいという気持があり、謎は人の知恵を借りずに一人で解きたいという願いもあったからである。そして、いつか心の一隅で芽生えているひとつの感情、彼はそれを意識はしても意味づけることに混迷して、はじめのうち、それこそは人間を救う正義感のあらわれだと信じていた。秘密のこころよさや、誇りのようなものさえ感じていた。
河童は大して時日を要せずして、謎を知ることができた。それは彼の熱心さに負うところが大であったことは勿論だが、それ以上に、この古井戸をめぐる怪談があまりにも有名な歴史的事件であったためである。
(あの井戸の底の女は、お菊という名だ)
と、まっさきにそれを|憶《おぼ》えた。そして、お菊が数えている皿の数が九枚あって、それを幾度となく計算しているのは、もとは十枚あったからだということを知った。お菊はその足りない一枚の皿のために殺されたのである。昔、徳川時代、音川家に浅山鉄山という悪逆な執権があって、お家横領を企てた。鉄山は兄の|将監《しようげん》と結託して着々と陰謀をすすめていたところ、ふとした機会にその秘密を腰元お菊に知られた。そこで、一策を案じ、音川家のまたなき家宝として大切にされていた色鍋島十枚揃いの皿をお菊にあずけ、その一枚をこっそり隠したのである。お菊はたしかに十枚あった皿がなん度数えても九枚しかないのに仰天した。
「一枚、二枚、三枚、四枚、五枚、六枚、七枚、八枚、九枚、……一枚、二枚、三枚、四枚、……」何十ぺん数えても、十枚はない。そして、鉄山に殺されて、井戸の中に投げこまれてしまったが、お菊の|怨霊《おんりよう》はその時以来、井戸の底で皿の計算をつづけているのであった。そのときから、何十年、何百年と歳月がすぎたけれども、お菊の努力は|撓《たゆ》むことがなく、今はからずも偶然の機会から、河童の知るところとなったのである。時代の変遷は目まぐるしく、徳川、明治、大正、昭和となって、皿屋敷は跡かたもなくなり、荒野と化した一角に水も|涸《か》れてしまった古井戸だけが残っているけれども、お菊の皿の計算だけは数百年間、一貫していささかも変ることがなかったのであった。
(なんという哀れな女だろう)
河童は一切を知ると、お菊の運命に涙がながれた。井戸の底では恐怖におののいたが、事情がわかってみると、幾千万べん、幾億べん数えても、絶対に、十枚にはならない皿をお菊があきらめもせず数えていることの気の毒さに、深い同情心がわいた。そして、河童は大決心をしたのである。
(お菊のために、皿を探しだしてやろう)
河童は俄勉強をして唐突に歴史家となったように、今度は突如として探偵に早変りした。
またも河童の活躍がはじまる。浅山鉄山が隠した一枚の皿はどこにあるであろうか。河童は捜索をはじめるまえに、その皿をあやまりなく認識するために、ふたたび、古井戸の底へ潜入した。お菊に気づかれぬように、水分のなかに隠れて、綿密に皿を調べた。
お菊の動作は前に見たときと寸分ちがっていない。青い顔にたれたほつれ毛や、葡萄色の唇や、痩せ細った手や、消え入るように陰気くさい声や、絶望的なため息や、悲しげな目や、頬をつたう|口惜《くや》し涙などはなにひとつ最初見たときと変らないけれども、河童の心の方は正反対になっていた。恐怖心は消え去り、いまは女をいじらしく思う同情心が胸一杯だ。そして、早くお菊をこの悲しみと不幸とから解放してやりたい気持で、すでに焦燥をおぼえているのだった。
(お菊を救う方法はたった一つだ。なくなった一枚の皿を探しだし、ここへ持ってきてやればよい)
そして、そのときのお菊のよろこびを考えると、自分までわくわくする思いになって、河童はどんな困難をも冒険をも恐れぬ勇気が身内にわいてくるのであった。たしかに、もはや河童はお菊を愛するようになっていたといえる。彼が最初のとき、恐怖におののきながらも逃走しなかったことのなかに、その萌芽があったというべきであった。彼がどろどろした青い糊の水のなかで、ふるえながらも、不気味なお菊の動作をいつまでも見つめ、遂には声をかけずには居られなかったのも、愛情の最初の兆候といってよい。お菊がお岩か|累《かさね》かのように醜悪むざんの亡霊であったならば、河童はその姿を|暼見《べつけん》しただけで逃げだしたであろう。河童を古井戸の底に釘づけにしたのは、お菊の美しさに外ならなかった。河童はここに|淑女《レデイ》のために犠牲をいとわぬ|騎士《ナイト》となったのである。
(きっと探しだしてみせる)
その成功の日の予感は、河童をすばらしい幸福感で有頂天にさせた。
お菊が数を読みながら移動させる皿を、河童は写生した。同じ皿を探しだすためには見本が要る。九枚とも同じであるし、お菊の動作も単調で緩慢なので、この色鍋島の皿をそっくりうつしとることはそんなに困難な仕事ではなかった。おまけに、河童はそのスケッチが妙に楽しくてならなかった。それが絵を描くことよりもお菊のそばにいることの方に原因があることは、もはや彼にも明瞭に自覚された。河童はいつか模写の手を休めて、うっとりとお菊に見とれている自分に気づく。はじめのときは奈落へ引きこまれるように陰惨にひびいたお菊の声も、今は音楽のようにこころよく鼓膜をくすぐるのであった。
河童は心のなかで、お菊に声をかける。
――お菊さん、もうすこしの辛抱ですよ。私があなたの欲しがっている十枚目の皿を見つけて来てあげる。そうしたら、あなたはそういう永遠に到達する可能性のない企図や、馬鹿げた絶望の計算から解放されるんだ。何百年間もつづけてきた奴隷のような重労働が停止されて、あなたは自由になるんだ。一週間とは待たせません。あと五日ほど御辛抱なさい。
一度はお菊にそのことを打ちあけてしまおうかと思ったが止めた。打ちあければ、お菊はよろこんで、いきいきと目をかがやかし、
「ぜひお願いしますわ。五日などといわず、三日のうちに、いや、今日中にでも……」
というであろうが、河童はそんな目前の小さなよろこびを捨てた。よろこびは意外で突然であるほど大きい。皿を見つけだし、いきなりそれを持参した方が効果的だ。この忍耐もまた楽しいものといえなくはなかった。
古井戸のなかに棲息している鼡や、蟹や、蝙蝠や、蛞蝓や、蜘蛛や、蛭や、蜥蜴や、いもりや、蚯蚓などが、河童の作業を不審そうに見ていた。けれども、だれ一人、声をかける者はなかった。彼等はこの狭い井戸のなかでおたがいに生きてゆくためには、争いをおこさないこと、他人へ無用なおせっかいをしないこと、自分の意見を述べないこと、沈黙しているにかぎることなどを悟りきっていたので、河童の行動を不思議には思っても、これに|容喙《ようかい》したり、まして妨害したりする者は一人もなかった。
皿の模写が終ると、河童は勇躍して井戸から出て行き、十枚目の皿の探索にとりかかった。
「このごろすこし君は変だなあ」
これが仲間のうちでの定評である。原因不明の行動をしている者は変に見える。正しい立派な理由があっても、他人は理由などは問題にせず、外部にあらわれた行動だけを批判する。秘密を一人だけの胸におさめ、血眼になって皿をさがし歩く河童は馬鹿のようにも狂人のようにも見えた。彼が独身であったのが不幸中の幸だ。女房がいたら、そわそわしている彼はいくたびとなく折檻にあったことであろう。しかし、内心に期するところのある河童は仲間のどんな悪評にも耐え、今にみていろと考えていた。さらに、
(おれがどんなに美しい目的のために働いているか、おまえたちのようなうすよごれた精神の者たちにわかるものか)
昂然と胸を張って、仲間たちの低級と無知とを蠏鑽い、|蔑《さげす》んでさえいたのである。
ところが、日が経つうちに、河童はすこしずつ狼狽し焦燥しはじめた。あてが外れたのである。皿の捜索は彼の考えていたような簡単なことではなかった。意外の困難だ。三日、五日、一週間と経っても、ほんのちょっぴりした手がかりも得られない。またたく間に、十日間がむだにすぎた。
(お菊に打ちあけて、約束などしなくてよかった)
河童は自信を喪失しかけると、今はせめてそのことだけでも気休めであった。
文献のあらゆる頁に鋭い眼光をみなぎらせ、幾度も皿の行方をつきとめ得たと確信したのに、その場所に行ってみると、皿はないのだった。河童は歴史の記述がいかにまちまちで当てにならぬものかを知った。浅山鉄山が皿を隠したという点は一致しているが、その方法や場所にいたっては、千差万別に記録されている。まるで正反対に書かれているのもある。十五日、二十日と経ってもなんの片鱗も発見することができないので、河童は出たらめな記録をしたりげな筆致で書いている歴史家や作家にはげしい憤りをおぼえた。しかし、彼が今ごろになっていかに|切歯扼腕《せつしやくわん》してみたところで、問題はすこしも解決しないし進展もしない。
二十五日、三十日と徒労の日がすぎると、河童はへとへとに疲れた。食欲もなくなって痩せ細り、見るかげもなく憔悴してしまって、彼の方が亡霊に近くなった。古井戸の底にときどき行ってみると、悲しげに皿を数えているお菊の顔は、青ざめているけれどもふっくらと丸味があり、頬から顎にかけての豊かな線には、内部になにか充実しているためから来るいきいきとしたものさえ感じられるのだった。三百年近くも絶望的な計算をつづけているのにお菊はすこしの衰えも見せず、わずか三十日の捜索で河童は疲労|困憊《こんぱい》の極に達し、|気息奄々《きそくえんえん》としているのである。河童はとまどいし錯乱して、
「こんな変なことがあるものだろうか」
と、呟かざるを得なかった。
しかし、河童は勇気をうしないはしなかった。いったん定めた偉大な目的を放棄はしなかった。
(こうなったら、意地だ)
ただ、方法はすこし変えたのである。もはや肉体的にこの捜索を自分一人でやることは不可能といってよかった。あくまでも独力でやりとげるという最初の決意を変更し、心ならずも仲間に協力を求めることにした。しかしながら、なお最後の部分だけはあくまでも秘密にした。お菊のことは絶対に打ちあけたくない。皿さえ出て来ればよいのだ。彼は仲間に集まってもらうと、模写してきた皿の絵をみんなに示して、
「こういう皿を探しだすのに、諸君の力が借りたいのだが……」
と、いくらか残念そうな口調でいった。
そこは山の沼の|土堤《どて》で、柳の木がならび、蓮華の花がマットをひろげたようにはてしなくつづいていた。もうすっかり冬眠を終った蛙たちが沼の岸や芭蕉葉のうえに三々五々たむろして、聞くともなしに河童の会議の模様に耳をかたむけている。空は青く、まだ陽は高い。
「それはなんという焼物だ?」
と、一匹の河童がきく。
「色鍋島だ。天下の名器だよ」
「ははアン」と、他の一匹が鼻を鳴らして、「君はその皿が欲しいばっかりに、こないだうちからきょろきょろして、そんなに痩せてしまったんだな」
「そのとおりだ」
「その皿を見つけだして、どうするんじゃね」
皮肉な口ぶりでそうたずねたのは老河童である。
「どうということはないんです。ただ欲しいんです」
「ただ欲しいだけで一ヵ月も血眼になって、痩せてしまうんかね。その皿はよっぽど珍奇で高価なものとみえるのう。どんな手問をかけて屯手に入れさえすれば、いっぺんで身代のできるような宝物らしい。|骨董屋《こつとうや》に売るのかい」
「とんでもない。そんな下品なことはいわないで下さい」
「下品も上品もねえやしと、意地悪で有名な黒河童がせせら笑った。「取引で行こう。お前さんがその皿を是ぶ非でも手に入れたい気持はよくわかった。だけど、おれたちが、お前さんの大儲けの片棒をロバでかつがねばならん理由はねえ。たんまりとお礼をもらいてえものだな」
「それはいうまでもないことだ」
「いったい、その皿はどこにあるんです」
円陣の隅っこから、狡猾と敏捷できこえているいなせな若い河童がどなった。爪先立ちしていて、これからでもすぐ捜索に駆けだしそうな姿勢である。
「どこにあるかがわかっているなら、君たちに相談しやしない」
「方角の見当をきいているんですよ」
「日本のどこかにあるんだ」
この言葉に河童たちはどっと笑った。しかし実際はあまりにも茫漠とした探し物にいささか当惑して、笑いにまぎらしたにすぎなかったのである。よい儲け口らしいけれども、結局は代償と労力との比例にあるのだから、不精な者たちの中にはこの宝さがしを断念するものもあったのである。円陣はしばらく騒然となった。やがて、
「お願いします」
頭を下げながらそういった彼の言葉で、解散された。彼が日ごろ軽蔑している仲間の前でへりくだったのはいうまでもなくお菊のためであった。
それから三日、五鼠、七日と、また日が流れた。成果はなかなかあがらなかった。数百匹の仲間を動員したにもかかわらず、こんなにも混沌としているとすれば、彼が一人でやろうと考えたことは無謀といってよかった。独力であくまでやることは死を意味したかも知れない。欲と二人つれの河童たちはもう記録やあやふやな文献などは相手にせず、自分たちのかんや運をたよりに日本中を彷徨した。
さらに、十日、十五日、二十日と日が流れる。
河童は衰弱のためもう動くことができず、山の沼底の|棲家《すみか》に横たわって、ただいらいらしながら吉報を待っていた。あたりが|静謐《せいひつ》で孤独になると新しい思想が生まれる。藻がゆらめいている間を、口から吐く真珠の玉をつながらせながら、編隊になって鮒の一群が通りすぎる。車えびが透明な身体を屈折させて岩の穴から出たり入ったりする。そういうものをうつろな眸でながめていた河童の心に、これまでは想像もしなかった一つの疑念が浮かんだ。
(十枚目の皿はもうないのではあるまいか?)
青天の|霹靂《へきれき》よりもっとはげしい|衝撃《シヨツク》であった。背の甲羅が枯葉のように軋み、膝小僧が金属板のように鳴りはじめた。自分の目がつりあがって行くのがわかる。その疑念の恐ろしさに河童は悶絶しそうであった。しかし、その惑乱のなかで、彼の脳髄だけは冷静に残忍な思考をすすめる。
(たしかに、皿は浅山鉄山によって隠されたと記述されている。しかし、歴史は嘘だらけだ。権謀術数の大家であった鉄山は、皿を隠したものとみせかけて砕いてしまったのではないか。鉄山が砕かなかったとしても、どこかに隠された皿は三百年の時間の暴力によって破壊されたのかも知れない。でなければ、これだけ探しても行方の片鱗だけも知れないというわけがない)
また、別の考えが河童を愕然とさせる。
(皿はもう、日本にはないのじゃないかしらん?)
割れてはいなかったとしても、美術品として外国に持ちだされることが想像される。そんな例はたくさんある。もし海を渡って西洋にでも渡っているとしたら、いかに河童の神通力をもってしてももはや絶対に発見の可能性はない。河童は人間よりは数十倍の能力を持ってはいるけれども、名探偵をもってしてもその力は地球全体には及ぼない。日本だけでも持てあますほどだ。限界の自覚は悲しいことであるが、希望も冒険も自己の圈内だけの話にすぎないのである。河童はこの突然わいた疑念の恐ろしさに耐えかねて、ぶるぶると濡れ犬のように頭をふりまわし、この悪魔の想念を追っぱらおうとしたが、一度生まれた思想はいかに努力しても消え去りはしなかった。しかしながら、もともとはじめからこの疑念をいだかなかった河童の方が|魯鈍《ろどん》というべきであろう。三百年という歳月を無視していたとはおかしな話だ。ただ考えられることは、河童が古井戸の底で三百年の歳月にすこしも影響されていないお菊の姿を見たために、錯覚をおこしたのかも知れないということだ。
(そうだ。たしかにお菊のせいだ)
溺れる者が藁をつかむように、河童はやけくそに心中で叫んだ。
ところが、皿はあったのである。
或る日、一匹の仲間の手から、彼はその皿を受けとった。それは彼が古井戸の底で見た色鍋島と寸分ちがわぬものであって、お菊の死の原因となったあの皿であることに疑いはなかった。骨董品には偽物の多いことを彼も知らなくはない。しかし、仲間が探してきてくれたその皿は偽物とは思えなかった。彼が随喜の涙をながして、その友人に感謝したことはいうまでもない。
「ありがとう、ありがとう。君は命の恩人だ」
そんな平凡なことしかいえなかったが、彼はまったく蘇生の思いがしたのである。大願成就のよろこびのため、衰弱し憔悴しきっていた河童はたちまち元気を回復し、宙をとんでお菊のところへ駆けつけたい思いであった。
しかし、実はこの一枚の皿を得るまでに河童はすでに破滅に瀕していたのである。仲間が皿を探してきてくれたのは友情でもなんでもなかった。その皿を持ってきたのは、沼の土堤で会議を召集したとき、嫌味な|啖呵《たんか》を切って、取引で行こうといいだした張本人の黒河童である。黒河童は徹頭徹尾欲と道つれであったから、二人の会見はまったくの商談であった。彼がどんなにこの皿を欲しがっているかをよく知っている黒河童は足元を見こんで、|搾油機《さくゆき》のように彼をしぼろうとする。しかし彼はすでに皿を手にするまでに、多くの仲間たちから|搾《しほ》られつくしていた。捜索のためには旅に出なければならない。そのためには旅費が要る。心あたりがあるとまことしやかにいわれれば|一縷《いちる》の望みをつないで、そこへ行ってもらう。旅費、日当、酒代、前借り、はては|恐喝《きようかつ》に類する強談で、金をまきあげられる。あまりの失費に彼は仲間へ依頼したことを後悔しはじめたくらいだ。しかし、皿を探す手段はもはやこれ以外に考えられなかったので、沼の縄張り、食餌圏、茄子や胡瓜の耕地、漁場、山林、貯蔵庫等、財産の大部分を仲間に提供してしまったけれども、最後の希望をうしなわなかった。
今、その望みが達せられたのである。しかし相手が商売人であったために、皿の代償として、わずかに残っていた財産の一切をまきあげられ、彼は裸一貫になって一枚の皿を得たのである。しかし、彼は満足であった。彼は涙をうかべて心に呟く。
(この一枚の皿は、地球全体くらい価値があるんだ)
三百年間も陰惨であった古井戸の底に、はじめて明かるい笑い声が満ちた。
「これだわ、この皿にちがいないわ。まあ、うれしい」
お菊の歓喜の表情を見て、河童も自分の献身と犠牲とが報いられたことをよろこんだ。お菊は最初の|邂逅《かいこう》のとき失礼な態度をとったことを詫び、河童の持ってきてくれた十枚日の皿を手にとって、いく度もいく度も裏表をかえして感慨ぶかげに眺めるのだった。それから、河童にちょっと、というように会釈しておいて、重ねた皿を数えはじめる。
「一枚、二枚、三枚、四枚、……」
それは前の陰欝な声ではなくて、明かるく弾んだ調子だ。数を読むテンポも早い。青蝋に似た女の手はせかせかと動き、皿は迅速にぞんざいに移動させられて、がちゃがちゃと音を立てる。
「五枚、六枚、七枚、八枚、九枚、十枚、……ああ、十枚あるわ」
お菊の計算はもはや渋滞することがなく、三百年目にはじめていった「十枚」という言葉に、フッフと気恥かしげな微笑を洩らす。
「よかったですなあ」
河童もお菊のよろこびに釣りこまれて、身体をゆするようにして笑った。笑うとは妙なことである。なぜ笑うのであろうか。滑稽なことはひとつもなく厳粛な勝利の悲しみがあるだけではないか。実際に胸が迫っているのである。一人だったらわっと泣きだしたかも知れない。しかし顔を見あわせると、二人は笑ってしまうのであった。三百年目にはじめてお菊の顔にあらわれた笑いは、しかし河童をとまどいさせる。悲しみにうちひしがれていたとき、お菊の顔いっぱいにあらわれていた静かで沈んだ美しさはどこかに消えてしまった。昔のお菊の高貴な顔は、たわいもない、痴呆のような賤しい笑顔の面ととりかえられている。そして河童はその新しいお菊の楽天的な顔を見ると、わけもなくげらげらと笑いだしてしまう。
古井戸の生活者である鼡や、蟹や、蝙蝠や、蛞蝓や、蜘蛛や、蛭や、蜥蜴や、いもりや、蚯蚓などはこの笑劇を呆気にとられて眺めていた。かれらはこの静かで住み心地のよい古井戸の世界の空気が、俄かに変って、生存をおびやかされるにいたるのではないかという不安を、一様に感じているらしく思われた。空気の震動だけでも大変である。お菊が笑い、河童が笑うたびに細長い円筒形の井戸の中はわんわんと鳴りひびく、革命的な現象といわなければならなかった。
ところが、腑抜けのように笑いころげていた河童は、ふとなにかに気づいたように緊張した顔つきになると立ちあがった。突然、河童の顔に不思議な苦痛の表情がうかんだ。彼は井戸の世界いっぱいに鳴りひびく笑い声の|谺《こだま》に、われに返ったのである。そのだらしのない愚劣な音響が自分の声だと知ると、この|真摯《しんし》な河童の心に俄かに狼狽と反省の思いがひらめいた。
河童は羞恥でまっ赤になると、もの竜いわず、地底を蹴って、井戸の外へおどり出た。
「待って、……待って頂戴」
深い井戸の底でお菊のそう呼ぶ声がきこえたが、耳をふさぎ一散に逃げた。
(堕落してはならぬ)
河童の心を領したのはそのことであった。河童はお菊へ待望の皿をとどけたけれども、目的と現実との不可解な混交を、古井戸の底に行ってみるまで気づかなかった。河童は犠牲の美しさというものをつねつね無償の行為のなかに求めたいと考えていた。ところが、皿をとどけてお菊のよろこぶ姿を見たとき、なにかの代償を求めようという不純の気持が、ふっと胸の一隅に|兆《きざ》したのにおどろいた。心中にどんな妖怪が棲んでいるか、自分でもわからない経験は前にもあった。しかし、こんな妖怪が頭をもたげたことは生真面目な河童を恥じさせた。お菊になにを求めようというのか。その恐ろしいみずからの詰問に逢った途端、円筒のなかにひびきわたっただらしのない笑い声の餝が、河童を羞恥で|赧《あか》らめさせた。同時に、罪の意識が電気のように彼の胸をかすめた。また、仲間への裏切者となることの恐れがそれに重なった。
(堕落してはならぬ)
河童はそうして古井戸からあわてふためいて脱出したのであった。
それから、数日がすぎた。
沼の仲間たちは、彼が皿をどこにやったのか不思議がった。あんなに欲しがっていた皿を手にした途端、もう持っていない。仲間たちの間では、その皿を彼がいくらの金に換え、いくら瀦け、そしてどんな大金持になるかが問題であったのに、彼は皿をなくしただけで相かわらず尾羽うち枯らしている。そして、ただ身一つを入れるだけになったうすよごれた穴のなかに横たわったきり、まったく出て来ない。仲問とのつきあいも忘れたようだ。しかし彼のそんな不精たらしい|蟄居《ちつきよ》の様子を偵察しに行った者の一人は、彼はさびしそうではあるが、どこかに楽しげな満ち足りた様子も見られると、不思議そうに報告するのであった。
また、数日がすぎた。
河童は忍耐をうしなった。もう二度と古井戸の底には行くまいと決心していたのに、お菊に逢いたい気持をどうしてもおさえることができなくなったのである。河童はこの自然の情をやたらに抑圧する必要はないと考えた。自分は死ぬかも知れない。そのまえにもう一度お菊に逢いたい。お菊へなにかを求めようという不純な気持などはまったくなかった。皿を渡した日、彼が一散に逃げだすとお菊はうしろから呼びとめた。そのお菊のやさしい声は耳にこびりついている。彼はそれだけでも満足であった。そこで、もう一度逢い、あんな風な奇妙な別れかたでなく、きれいに納得ずくでもう二度と逢わないことを約束しようと思った。お菊は悲しむかも知れない。
(しかし、それがおたがいのためだ)
と、河童はせつなくなる胸をおさえて、強くひとりでうなずいた。
河童は軽い足ど蔘で、古井戸に行った。初夏の|嫩葉《わかば》のうつくしい朝である。蝉が鳴いている。もうこっそりと忍ぶ必要はないので、河童の姿で堂々と、井戸の円筒形の石壁を降った。苔むした垣の間から顔を出していた鼡や蟹や蜥蜴が、闖入者におどろいてひっこんだ。
地底に降り立った河童は、つよい親しみを含んだなれなれしい語調で、
「お菊さん」
と、声をかけた。
青いどろどろの糊水のなかに|蹲《うずくま》っていたお菊は、顔をあげた。
河童は仰天した。河童はお菊が彼の来訪を待望し、井戸の口からのぞいただけで、もうよろこびの声をあげて迎えてくれるものと思っていた。ところが、お菊は彼が底に着くまで}口もきかず、声をかけると顔をあげたが、その眸は歓迎どころか、憎悪の光に満ち満ちていた。さらに河童の|胆《きも》を冷えあがらせたのは変りはてたお菊のむざんな姿であった。これがあのお菊であろうか。まるで骸骨である。お岩や|累《かさね》よりもっと醜悪だ。ふっくらと丸味のあった頬や顎の線は|鉈《なた》でこそいだように削りとられ、二つの目は|眼《がんか》窩の奥に落ちくぼんでいる。葡萄色の唇は腐った茄子の色になって、|蟇《がま》のように歯をその間にむきださせ、乱れ放題の頭髪は全身に|棕櫚《しゆろ》をかぶせたようだ。痩せて針金のようになったお菊の膝のまえに、十枚の皿が積まれている。
河童は茫然となって、そこヘへたばりこんでしまった。甲羅が枯葉のように軋み、膝小僧が金属板のように鳴りはじめる。その河童の耳に、お菊のすさまじい怒声が憎々しげにひびきわたった。
「なにをしに来やがったんだ。悪魔、この皿を持って、とっとと帰りやがれ」
河童は耳を疑った。しかし、それはお菊の口から出た言葉にちがいなかった。動転してしまった河童はもうなにを考える余裕もなく、お菊がつきだした一枚の皿をつかみとると、一散に井戸から飛びだした。
(なんたることか)
錯乱は極に達した。どう考えてもなんのことやらわからない。河童は皿をかかえて山の沼に帰ると、やけづばちに寝ころがって|呻吟《しんぎん》した。河童の頭のところに皿が置かれてある。紫雲たなびく空の下、紅葉の林をさまよう鹿と、釣をする二人の白髪老人を配した色鍋島の皿は絢爛としている。
古井戸の底で、お菊はしだいに|終焉《しゆうえん》に近づきつつあうた。現在のお菊の絶望は、十枚目の皿の見つからなかった前の絶望にくらぺて、さらに絶望的であった。お菊は九枚しかない皿を数えながら、十枚あるかも知れない、なくともいつかはきっと十枚目が見つかるという希望だけで、わずかに生命を支えていたのである。河童はそれを永遠に到達の可能性のない企図として、彼女の不幸を哀れみ、その絶望へ光をもたらそうと考えたが、お菊はその絶望の計算への情熱だけで、いきいきと内部を充足されていたのであった。しかしながら、彼女は自分ではそのことを気づいていなかった。だから、河童が皿を見つけてきてくれたときは本心からよろこんだのであった。三百年の絶望に終止符が打たれたと思った。ところが、それはもっと恐ろしい絶望への出発点であったのだ。
「一枚、……二枚、……三枚、……四枚、……」
十枚あればよいがと祈りっつ、期待と不安とにおびえ数えてゆくときの充実感と、やっぱり九枚しかないと知ったときの、悲しいとはいえ次に望みを託し得る生活の持続感とは、お菊にとっては魂の火花であった。それなのに、皿が十枚揃ったとき、 一切の情熱も充足感も、それから来る美しさも生命力も消え去ってしまった。お菊はなにもすることがなくなったのである。彼女はただ退屈になっただけだ。皿を数えて行っても十枚あるとわかって居れば、全然無意味だ。はじめは河童の親切をよろこんだのに、もう翌日には河童のおせっかいが恨めしくなった。二日目には憎くなった。三日目には呪わしくなった。お菊は内部を支えるものをうしなって、急速に憔悴し萎縮し死へ近づいた。そこへ河童が得々としてやってきたので、思わずどなりつけたのである。それはお菊の魂の叫びであった。
「やっと一枚減った」
そう思って、また生日のように、 一枚、二枚、三枚、と数えてみても、もはや挽回することのできない空洞が、お菊の心のなかにぽかんと倦怠の口をひらいている。なんらの情熱も希望もわいて来ない。十枚目の皿が河童のところにあるという事実を、突如としてお菊が忘れ去ってしまわないかぎり、事態は復旧しないのだった。
お菊は絶望して、九枚の皿を石垣にたたきつけた。その散乱した欠片のなかに横たわり、しずかに目をとじた。
山の沼で、錯乱から容易に脱することのできなかった河童は、お菊を忘恩の徒だと断定することによって、ようやくなにをすべきかに思いあたった。
(向こうが向こうなら、こっちにも考えがあるんだ)
河童は山の沼を出た。人間に化けて大都会にあらわれた。一軒の骨董屋に入った。持参した色鍋島の皿を売った。鑑定のできる骨董屋の主人はそれが天下の珍品であることを知って、客のいいなりに莫大な現金を払った。客は皿を渡し、金をふところに入れて店を出た。骨董屋の裏口から、目つきのわるい屈強の若者が四五人、そっと抜け出た。惨劇はどこで行なわれたかわからない。目的をはたした若者たちが店にひきかえしたとき、骨董屋の主人は粉微塵になった皿のまえで、茫然と立ちつくしていた。
(昭和二十七年)
 

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