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山本実彦「アインシュタインの片影」


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 アインシュタインの片影

山本実彦
 私は、自分が接したうちで、最もすぐれたと思った偉人は、アルベルト・アインシュタインであった。彼が改造社の招請に応じて神戸港についたのが、大正十一年十一月十七日であったが、日本を去ったのが十二月の二十九日であった。この日、彼は朝からお客を謝絶して門司清滝の三井倶楽部に静かな瞑想に耽っておった。私達夫婦、石原氏も三、四日間、この倶楽部の厄介にあずかっておったのであったが、朝飯をわれわれと一しょにとった彼は、何を思い出したのか、私たち夫妻にたいして、「ずいぶん長らく厄介になった、私は今まで各国をよく講演や、旅行やで歩いたが、こんな心からのもてなしにあずかったことは、今までかつてない。自分は、いま、何もあなた御夫妻に贈ることはできないが、ここに記念のために一つなにか、かいて見ました。そしてことさらに毛筆にて、したためたから、どうかおさめておいてもらいたい」とのことであった。
 うち見れぱ、彼自身が、日本の各大学の教授たちに、東京帝大で相対性原理を講演する自画像をかき、その下で、石原博士が筆記している禿頭を戯画し、そして、それに左記のような讃をしたものであった。
    Gedrangt das Volk, gespitzt die Ohren
    Sie sitzen alle wie verloren
    In Sinnen Lief, verzi ckt den Blick
    Ergeben in ein hart' Geschick
    Der Einstein an der Tafel steht
    Die Predigt rasch von Stapel geht
    Und Ishiwara f link and f ein,
    Schreibt alles in sein Buchlein ein.
               ALBERT EINSTEIN
                      1922.
    人々が押しよせ、耳をそばたてながら、
    みんな虚心に腰かけています。
    心を深め眼を見張って、
    ぎごちない運命に自らを委ねるように。
    アインシュタインは|黒板《ボールド》に立って、
    講義はずんずん進んでゆきます。
    そしてイシワラはすばやくまた繊細に、
    すべてを彼の手帖に書きこんでいます。
                    (石原純氏訳)
 われわれは彼が、はじめて持ったであろう毛筆でかき上げた、尺八の軸ものをながめつつ、彼氏に感激のあいさつをかわすと、こんどは、夫人エルゼが、毛筆をとって、いく枚も記念の色紙をかいてくれるのであった。
 この日の午後三時、榛名丸はまさに錨を巻きかけるというので、私はシャンパンをぬいて、四十数日、兄弟のごとくしたしんだ彼及びその夫人の一路平安を祈れば、彼氏たちは、まるっきり朗かさをなくしてしまい、遂にニルゼは、余が妻と握手しつつ、ハンケチを目にあててしまい、ア氏も眼に手をふれているので、わたしたちも、ものを言うことができなくなってしまって、三井のランチに飛び移ったのであった。曝世の偉人アインシュタインは、まったく、純情な、なつかしさを深く秘めている人であった。
 私たちは、榛名の煙が見えなくなるまで、門司の岸壁のほとりを、あちこちと、あるきまわっているのであった。
 私たちは、その夜の急行ですぐに東上したのであったが、その夜は、さすがに、四十余日、彼氏と一しょに、あちらこちらとかけずりまわったつかれで、すぐに横になりたいと思ったが、いろいろの思いでねむりもならず、それからそれへと彼と行動をともにした耀かしい口が、目の前に現われてくるのであった。
 彼は、宮島の景色を、ことのほか愛した。そのホテルの閑寂が気に入ったのであったろう。しかし、その日は寒い冬の日であったが、他にお客がないというので、スチームも入れてなかった。食いものも、あまり気をつけてくれてたかったので、教授夫妻にまずい思いをさせたことがあった。だが、彼は、そしらぬ態にてヴァイオリンをとりだしなどしたのであった。こうしたときにも、彼は決して不平を憩えるようなことはなかった。彼は、この地の山水がとても気に入ったらしいので、私は数日の逗留をすすめ、そして静養してもらいたいと言ったら、彼の喜びはこよないものであった。彼はいくらか疲れ気味があったので、この間、日程をつくらずに、気ずい気ままに漫歩して、無邪気な神鹿とたわむれたり、また清例たぐいなき岩清水のチョロチョロ流るるあたり、霜にたやめる紅葉を仰ぎ見つつ、日本にきてから一ばん、のどかなきもちになって、こころゆくばかり自然を観賞したのであった。
 もう、あと福岡での講演がすめば、彼は解放されて、日本よりの帰途に、あるいは極楽鳥の素的な声をジャワの旅にきくことも、ここ三旬の間に迫ってきたし、また、自分らの祖先の墳墓の地であるパレスタインにも、新春早々夫婦同道で訪れることができることなどのことを、思いうかべているのではなかろうか。
 彼は夢を追っているように見える。私はまた、彼の夢のたかにはいってみようと思う。彼は、一平画伯を愛した。一平の描く漫画は、つかれた彼を慰籍するなにものかであった。一平は、彼の鼻が気になっていた。だが、鼻を言われれば、彼の心のなかは、暗くなるらしかった。自分の属する民族が、胸の一部にしまいこんである、ききたくない民族の声が頭をもたげてくるのであった。ユダヤ人! この三字を彼に思いださせることは罪悪のようにも思えた。しかし、私はこうした圧迫がいつでもつきまとったればこそ、彼が世界の偉人として今日のごとく、比類なき業績に歌わるるようになったのだと、思うのだ。放浪の民、一千五百万の人びとが、東に、西に、そしてジューと蔑まれ、貧慾の標本とされ、民族の屑と思わるるのであるが、屑どころか、人類の花であるアインシュタインもヂスレリーも、ベルグソンも、トロツキーも、ラッサールも、スピノザも、ハイネも、ロスチャイルドも、マルクスも、みんた鼻の大きいユダヤ人ではないか。ウィルヘルムニ世が黄禍を唱えてから、ムッソリニがこれを唱え、我が国などでは、赤禍とか、ユダヤ禍とかをシッペイがえしのつもりでか唱えるものが多くなった。そのよしあし、当、不当は批評家にまかせるとして、とにかく、大偉人とか、大天才とかをぞくぞく輩出して、人間最高位の役割りを果たしたことをも考えてみたくてはならぬ。そうした悩みや、苦しみやが、いく百回、彼のあたまを訪れたことだろう。この心しずかな自然、この澄明無比な自然、環境皆が詩の世界であるのに、偉大な彼の心境には払えどもさりがたい、こうした黒点が一生を通じてつきまとうているのだ。
 彼はくさ味のない人であつた。ジューの匂いも、性格も、それらしいいやしさも、物慾も。そして彼はあれだけ、いためつけられて人となったにもかかわらず、こせこせして、くらい気持をもっていなかった。彼は「他人と憎み合うために生まれてきたのではなくて、愛し合うためにこの世に生まれてきた」という言葉が一ばんすきであった。彼のうまれつきはこの文句のようになごやかであった。だが、半面に、正義感が強くて、身を以て当たろうとするところがあった。
 彼が来朝したとき、私は帝国ホテルで一ばんいい部屋を彼に提供したのであったが、彼は、あまりよすぎるから、他に部屋を変えてくれというのであった。私は、社賓としての最高の敬意を表する意味と、帝室でもいろいろお心づかいがあらせらるることをもれ承ったので、ぜひにと言ったが、彼は、とうとううベなってくれなかった。そして今後なにごとにつけても、質素にしてくれとのことであった。私は、千年か、二千年かに、一ぺん出るか、出ないかの偉人の一言、一行にいいしれぬ興味を覚えるものであったが、そのときも思わず頭がさがったのであった。
 彼の顔は、やわらかくまろみがあり、その言葉は音楽をきくように、澄みきって、きれいで、そして自然であった。私は、彼が相対性原理の講演をなした東京、大阪、京都、福岡、仙台、神戸、名古屋等でその紹介役をつとめたのであったが、いつか、どこかのサロンで私に向って「アナタの演説は、まるで、軍人が号令をかけるような言葉ですナ」と言った。そのとき、私はなんにも気にとめないで、笑ったまま聞いておったのであったが、彼が日本を去ってから、ふと、この言葉の意味ーそれを考えるときがあった。なぜ、彼は号令のようてあるといったのだろう。キット、声音の蛮的であることと、音楽的譜調のないこと、声に美的要素の欠如せることなどが、いかにも耳ざわりであったのであろうなどと思ったのであった。
 彼は、理論物理学でニュートン、ガリレオと並び称せられる世界的権威であるばかりでたく、実に音楽にかけても、独逸でも有数といわれるくらいであった。彼のような、始終頭脳ばかりを使っている人は音楽によりて、その疲労を医するの必要が、ことさらあるらしい。彼は日本古楽にたいしても、そうとうに興味が深かった。そのことを当時宮内次官であった関屋君に伝えると、関屋君は、直ちに宮内省の雅楽部の人びとにはかって、教授のために古楽を聞くの会を開いてくれたのであった。ちょうど、その日は東京帝大で特別講演のある第五日目であったが、その時間の切迫せる間にも、ゆったり熱心にきき耳を立てて需った。そして彼は、「日本音楽が欧州のそれと発達形態を異にしていること、日本音楽と西洋音楽との相違は根本的であること」等々を、きげんよく話しながら、帝大に自動車で急いだことをも記慮している。そして彼は、日本音楽は一種の感情画であると賞揚し、日本の音楽は、鳥の鳴く声、波のかなずる音より受けた人間の感じを形に表わしたものだと言ったりした。そして、日本音楽の特質は、あの小さな笛によりて代表さるるものであり、日本人のやさしい、可愛いものを好むのは、実にそうしたところに原由するものだと言った。
 そして彼は、日本の絵画と、木彫とを喜び見た。彼は、現在までの日本芸術の長所はそこにあると思った。そして将来日本芸術の伸ぶるであろうところも、そこにあると思ったらしい。彼は、いくたの仏教芸術に鋭い表情の現われがあることを看取し、巨勢金岡や、光琳の芸術にも、そのリズムの活きいきしているのを看取したのであった。
 私は、もちろん、相対性理論についての奥深い原理を究めたことはない。しかし、私どもはニュートンの引力論にたいし、別見地より宇宙の状勢を洞観し、時間と空間の融合をはかり、以て自然現象を究明するの針路を開いた暖世の偉人であることだけは知っているのである。東京帝大では私が、アインシュタインの約三十時間の特別講義を寄附したので、古在総長の名をもつて懇篤なる感謝状を送って来た。それと同時に、長岡半太郎博士から、私がア教授を我が国に招聰した費用の一部にもとて三千円を大学から出してもよいと言って来たが、私はそれを辞退したのであった。そして鉄道省からも、ア教授の日本各地で講演の旅をせらるるときは、車室を提供したいとのことであったが、それも辞退したのであった。
 その他、教授にたいしてはいろいろ有難い帝室からの恩命もあった。そのときのことをつくづく思い出だせば、そこに教授の具体的の大きさと、ユーモアと、人となりが現われてくるのであるが、しかし、このことにかぎり、後日稿をあらためて書くことがあるかも知れない。
 それから、あるとき服装のことで一つの議論が生まれたことがあった。ちょうど、そのとき、私の改造社では、黒の背広がほとんど正服ときまっておった。
 彼は、服装のことでかれこれ言うのは、小児病だと一蹴して笑って蔚った。そのときのあのやさしい目つきを思い出すと、とてもたつかしいものがある。当時、我が国の社会運動者が、なんでも、ルパシカ熱にうかれているときであった。要するにルパシカを着ていても、その魂をソビエット化することに、どれだけのかかわりをもつものであろうかなどの話も生まれたようだ。
 また、彼はいつも、「日本が大きな覚悟のもとに西洋の科学につくは、もとより喜ぶぺきであるが、自己が西洋に優越したものをも純潔に保って行ってもらいたい」と、言っていた。私は、このところをいつも穿きちがえさせたくない。すベてのことに国粋、国粋と言って西洋文明を絶対に排斥しては大きた文化を形づくることはできないが、しかも、たかには、我が国が千年以上もかかってつくりあげた、いろいろの文学や、美術の価値をも認識することのできないものが、だいぶんあるようである。彼が日本で一ばん感心したのは、日本の古代的な瀟洒な建築や、庭園のつくりかたの|さび《傍点》がかったところにあったらしい。
 彼は、すぐる日、ヒットラーによって独逸を逐われた。そのとき、彼は長い間に亙って集め得た貴重な書籍と、欧米各国を歩いてかせぎためた財産とを没収された。その財産は別として、自分の生命にも等しき書籍を彼らの手に委することを自分の愛児に別れる以上に怨み、悲しんだらしい。このことについては、私どもは無限の同情を彼に捧ぐるものである。彼の集め得た書籍の大部分ー彼は書籍蒐集癖はいままで、あまりなかったらしいがーが、われわれ人類にとってどれだけ高い価値のある文献であるか、そして、またその文献が今後の文明に、科学に、どれだけ大きな役割を遂げ得るのであったろうかを考え見るとき、いうにいわれぬ感慨をおぼえるのである。
 かれヒットラーは一世の雄であろう。民族を率いる、小じんまりした一世の英雄であろう。世は、彼をムッソリニと並び称している。しかしながら、冷静に考えて見ると、この二人は世界の文明にどれほどの寄与をしているか、人類のためにどれだけ、ありがたい頁献を遂げているか。彼らは一度死ねば、イタリアのムッソリニたるにとどまり、ドイツのヒットラーたるに止まる。同じ英雄でも、高貴な人道的経編を遂げた『プルターク英雄伝』中の人びとのごとく、戦の背後に民族を代表する大きな文化というような姿はないのだ。ただ、その日暮らしの苦しいイタリアやドイツの、一時的の民族の動向を象徴している一つの世話人にすぎないのだ。知事か、行政長官の毛のはえたものにすぎないのだ。彼らに永遠へのものが何一つあるであろうか。
 だが、かれ教授の世にも稀れな直観力で、きずきあげられた相対性原理の偉大な貢献は、万世に燦然たる耀きを加えるのである。人間が人類としての超特権に誇り得る第一の高き尊い功業であるのである。
 しかしながら、彼は、決して自分の大きな姿、自分の大きな功業を誇ろうとはしない。あらゆるところにおいて常に謙虚である。彼は自分が相対性原理の完成に成功したのは、グローズマンの数学的協力によることを挙げた。私は、さすがに、彼の姿が日月の如くであることが、世にも稀れなる謙虚の上にきずき上げられていることを、悟らずにはいられない。それから、もう一つは、彼が学界に出ることを、自分の弟が出世するがごとく喜んで世話した偉大なプランクの存在だ。プランクは生粋のドイツ人であるがため、今では敵人のような立場になってしまった。ナチスは憎いアインシュタインではあろうが、プランクにたいしては、アメリカの一角から朝夕感謝の念をささげているだろうと思われる。
 日本に来朝している時分でも、彼は数学の一権威である京大の園正造君や、石原純博士と、相対性理論の後に来たるべき大きな役割りについて、いろいろ相談している謙遜そのものの姿を、たびたび発見することがあった。東北大学では、本多光太郎君の丹精にかかる金属研究所の研究に、きくべきものが相当あることをも、私に話したこともあったのであった。
 それから、われわれに深く考えさせるのは、彼が科学的に徹底しているごとく、思想的にもはっきりした立場をもっており、そして勇敢なる実践者であるということである。何も彼の社会観に私か同意するとか、そうした問題を離れてー。
 私は、彼に接してからこう思うようになった。それは、彼の如く科学的の大革命を遂げようと思えば、他の何事にたいしても、徹底的でなければなるまい。すなわち、思想的の問題にたいしても、科学にたいするような妥協なき態度であるということが、アインシュタインをして、ニュートンを凌駕せしむる偉大性をはぐくんだものではないだろうか。なるほど、ロマン.ローランにしても、バルビュッスにしても、バーナード・ショウにしても、ゴールキイにしても、彼らは、大文豪という以外に、確乎たる思想的立場、社会的立場をはっきりさせている。ところが、我が国では、自分は単なる学者だからとか、芸術家だからという意味において思想的立場などはないというのが普通のようである。私は、そうした曖昧の態度を、かれこれ論議しようというのではないのだが、ただ、そうしたなまくらなことで真の大きな科学的革命ができるものであろうかということを研究してみたいのである。一つの仕事に立派な理論的立場を持ち得る人は、他の一面にも、必ず徹底的な、勇敢な立場を持つのが当然のように思われるのであるが、それが自分の持ち場の学問だけには忠実で、勇敢で、他の一面には腹ふくれどもの言わず、思想的にきまったものを持ってはいるが、それを発表するのは自分に不利益な結果を招来するから、黙っていた方が利巧だ、さわらぬ神にたたりなしの事なかれ主義から割り出されるものではあるまいか? 正を踏んで怖れず、死に面して自分の信念をまげないという大気魂とは、およそ正反対の生き方であるのである。真理の発見、科学の革命というようたものが、そうした二元的な生き方で、もうろうたる処世ぶりで、遂げ得られろものであろうかと、いろいろ考えさせられるのであった。
 彼は自分の研究や、思想にたいしては断じて妥協しないことは、すでにのベた通りであるが、こうした彼の思想をつきつめて研究するのは有益で、有意義のことではあるが、それは、別にその人があろうから、私は、これから、彼が、自分との関係において、経験した、いろいろの話材を基本として、日本における彼をもうすこし勇髭せしめてみたい。アインシュタインの演説は、日本各地でいたるところ、文字通りの満員で、公会堂や、劇場でも立錐の余地もなかったのであった。彼は、このことが、いとも不思議でたまらなかったのだ。二円、三円の入場料を支払って、私の顔を見にくるのだ、とても、相対性の理論などむずかしくてわかるものでないーなどと言った。厳密な意味でいえば、その当時は日本に幾人と指おるくらいしか、わかっている人はなかったのに、毎晩、千人も、二千人もという聴衆がくるので、彼はとても骸いていたのであった。もっとも、それは、米国でも、西洋各国でも同じことで、必ずしも私の学説に了解ある人びとのみ聴講するわけではないのだと彼は言った。
 それより、彼にとって大きな謎は、演説会のあるごとに、彼が講演することについて、いく段かの新聞広告をすることにあった。彼は、「どうして、こんなに大きな広告をするのか、広告料はいくらくらいかかる」と、私に耳打ちするのであった。そして、その実際を知るに及んで、彼は目をまるくして驚いて、「どうして、そんな馬鹿なまねをするのか、ベルリンその他では、私が講演するときは、ほんの小さい文字で一、二行かけば、私に関心してくれる人びとは皆集まってくれるのに」……。私は、その言葉にたいして、私が、日本の新聞広告は事実を報道する以外に、啓蒙運動もいささか加わっておることを、ことこまかに説明してきかしたら、彼は呵々大笑して、すべてが、はじめて解せたという顔をしたのであった。
 もう一つの奇蹟とさるるのは、彼の全集を出すときのことであった。いろいろの文字が印刷所にないものが多いので、わざわざ鋳造したりして取りかかったものだ。初めのほどは、二、三百部も出るだろうかくらいに思った。否、我が国の物理学界の第一の権威者は、まあ多くて五十部くらいだろうと言ったくらいだったが、それが二千三百という売行きがあって驚かされたのであった。この全集をやるときは、種々の点においてたいへん困難したものだったが、その全集の大部分は、あの大震火災のために、焼失されてしまったことを思うと、いささか淋しくなるのである。
 彼は、日本料理はあまり好きではないらしかった。欧米人の誰だって、そう好きだという人もいないだろうが、しかし、私の家で天ぷらや、肉のすき焼きのとき「うまい」と言って、むさぽり食ってくれたことは間違いのないことであった。これにはいくらかのお世辞がこもっているように察せられたが、しかしえびの天ぷらをいくらでもかえてくったことなどから見て、必ずしもそうばかりではなかったらしい。また、帝国ホテルでよく伊勢えびを好んで食った。夫婦ともこれはドイツでは一尾幾百マルクもするのだとかいって、とても喜んで食ってくれたものだ。
 それから、日本人の衛生思想の幼稚なことは、すくなからず、彼をして驚かしめた。すなわち、あの風呂場に、五十人も、百人もはいることの危険、そして垢がういていたり、徽菌がたくさんすてられているであろうなかで、からだを洗うなどいうことはあり得ないことであり、そして、あのWCに十日も二十日も汚物が積まれていることなどは、文明国にあり得ぬことであると笑っておった。
 お風呂の話がでたついでに、仙台に講演にいったときの、しくじりの一つもあげておきたい。それは仙台のホテルで、、お風呂場が俄かづくりであったため、更衣場もなく、ゆかたをかける釘もなかったので、彼は流し場に脱衣するのやむたきに至ったのであった。そのため、ゆかたはずぶぬれになった。その水のポタポタ滴るのをきて階段を昇って行くさまを見て、私はしまったと思ったことがあった。彼は、そんなときは、にこにこ笑って、決して不快の色をせぬのである。そして磁石のように引きつける目で挨拶をするたど、寛容と、人柄とを示してくれる。こうしたとき、私のような短気な性質のものにいい何かを与えてくれるのであった。
 また、同じ仙台での話だが、大学の歓迎茶話会席上で、五十数人の教授たちに、いちいち握手や、挨拶を交わしたときなどは、うんとくたびれたらしかった。ところが、そのうえ、歓迎文の朗読、万歳などがあって、彼はすっかり、神格化されてしまった。しかし、仙台は、彼にとって思い出の深いものがあった。それは世界的の植物学者モーリッシュと久かたぶりに相見ることができたからであった。モーリッシュがまだドイツにあったとき、彼は年若き教授であった。そしてこの年若き教授から物理を教わったのであったが、今ではモーリッシュも、植物学の世界的な存在として、東北帝大からはびっくりするほど高い俸給で招かれて教鞭をとる身となったのであった。だから、両氏の会見は劇的なもので、どちらも、感慨ぶかそうに見えた。そのとき、両氏はなかよく大学会議室のあたらしき壁におのおのの姓名を毛筆で自署したことをも思い出さるるのである。そのとき両氏を祝福する万雷のごとき拍手が、いま、かすかに蘇えってくる。
 いったい、彼ほど、至るところで歓迎された人はあるまい。行った先きざきで、小学校生の堵列するものや、大学生の隊伍をくんで堂々出迎えるなど、全く凱旋将軍の趣があった。ことに、東京駅についた光景の如き、三十分も四十分も駅頭に立往生して、息のつまるのを感じた。そして数万の群集から嵐のごとき万歳をなげかけられたとき、そのときも、彼はにこにこして、すこしも興奮の色もなく、ただ、息が苦しい! と幾度も、いく度も軽い叫びをあげたのであった。
 私は、このごろ、アインシュタインが、できるなら、アメリカに国籍を移すようなことがないように祈っている。別に、たいした理由はたい。ただ、我が国とアメリカとが、いつも、せり合いをする。このうえ、どうにかなるようたことがあったならば、いままでレしおりの交遊をつつけて行くことができないから、そうした私情からであるのであるがーー。しかし、我が国と、アメリカとが不幸、争うようなことがあったとしても、彼は戦争反対の声を挙ぐるであろうか。
 彼は、南ドイツのドナウ河のゆるく洗うウルム市に生まれたのであったが、少年時代は血のめぐりのおそい、無口な質だった。だから、別に取りたてて話すほどの逸話もない。それでも、彼が六つのとき、楽天家の彼の父にたいして磁石がいつでも南と北とを指して動くのはどういうわけだ? と、きいたことのみが、深い印象に残るぐらいであったらしい。これだけでよいのだ、この一点のみが、偉人としての素質を遣憾なく持ちつづけさして加ったのだ。
 しかし、彼の親たちにも、周囲のものどもにも、彼の遅鈍な行動のみが、はっきり映認されるのみであった。彼の友達が「律義《ビ デル》な農夫《マイエル》」の紳名で彼を呼んだということから考えて見れば、鋭敏でなかったことだけは確実だ。それに、一面にはジュー、ジューの罵声でおどかしつけられていたので、遅鈍な彼は、ますます固くなり、自分の環境にたいして怨みの多い、いやな日を送ったことは、どの伝記記者も一致する書きかたをしている。さすが呑気ものの彼の父も、彼の前途と、彼が周囲から悪罵さるることによって、たいヘんな苦悩をしたらしい。六歳のとき、彼は父に伴われてュンヘンに移りすんだ。このとき、彼は誕生の地と離るるを、泣き悲しまずして喜んだということに徴して、いかにウルムの悪童どもから、いためつけられたかがはっきりするのである。
 されど、ミユンヘンの小学でも成績は思わしくなかった。いつでも、中位より上がれない悲しさだった。当時、ドイツの教育方法は、すベてが、軍隊式のつめ込み主義で、器械的に暗諦する科目が多かったので、そうした科目に不得手な彼としては、中ぶらの成績も無理もないことだった。しかし、このときから、数学と、音楽だけは抜群で、ことに数学のうちでも、計算する方面でなく、思索することだけは誰でも及ばなかったとある。いつか、彼は伯父のヤコブに珍しく「代数とはどんなものか」と質問の矢を放った。ヤコブは工業技師をしていて、そうした方面には造詣があったのだが、「代数という奴は、あれは無精ものの、ずるい計算術である、知らない答えをXと名をつけて、それを知ったかぶりに、知っているものとの関係式を書く、そこからこのXを決定することができるのだ」と、噛んではきだすように笑って答えてやったら、彼は、とても大喜びで、きいたそうだ。ところが、彼は学校で循環小数をやるじぶんに到達したら、俄然として頭角を現わしだし、もう微分学のすベてをわかるようになってしまったのであった。
 一千八百九十四年、イタリアのミランに移住した。まだ中等学校を卒業しないときではあったが、このときもう大学にはいるだけの実力は十分にあったそうだ。十六歳のとき、スイスのチューリッヒに移ったのであったが、この前後、すなわち、十六歳のときは「運動体の光学」について研究をすすめていたといわるるから、たいへんな進歩で、ここらあたりから、一大天才の風貌が徐々に展開されてきたのであった。
 この大天才の大業を完成するには、彼が少年時代からいじめられたことが、たいヘんよかった。誰とも馬鹿げた交際をせずに、孤独と剛情とを守ってゆくことが、どれだけよかったか。しかし、彼の家庭はなかなか裕福ではない。どうしても、自分で戦って行って、両親を養わなければならぬ事情にある。そこで彼は、チューリッヒの教員養成所にはいった。十七歳から二十一歳までここで勉強したのであったが、卒業してもなかなか口がなかった。それは、人種と国籍とが禍をなしたのであった。彼は、やむな/、家庭教授などをして、ささやかなくらしを立てておった。このとき物理の研究に南ロシアからきておった一女学生と結婚したが、あまりうまく行かないで、三、四年で離婚し、いまのエルゼと結婚したのであった。エルゼは彼の従妹にあたる女であった。
 一千九百二年に、彼と一生涯の友だちになった、数学の大家グロスマンの斡旋で、やっとのこと、チューリッヒ特許局の技師となることができた。ここから、いよいよ彼は本腰の物理学研究をなすことができたのであった。しかしながら、彼は、どうしても大学の助教授となって、物理学の研究をしたい、そういう希望が満ちあふれていたのであった。それに、そのときは、一つの研究の方向を決定していたので、一層大学へ移りたい気持にもえていたのであった。
 彼は、千九百五年に、「運動せる物体の電気力学」の題下に堂々たる一つの研究論文を発表した。この論文こそ実にニュートン引力を葬り、ガリレオを埋没せんとするの創造に富めるものだったので、ドイツではプランクの樗きは一方ならぬものであった。そしてわざわざ懇篤の書面を送って彼の成功を祝福したのであった。ああ、これまでであった、これまで漕ぎつけるまでの苦しさであった。これがためドイツでも、スイスでも、どちらからも大学助教授の地位を以て迎えにきたのであった。学問の力は、人種問題をも、国籍問題をも超越し、克服するに至った。彼のそのときの喜びは、たいしたものであったろう。彼は三十一歳でチューリッヒ大学助教授に就職したのであった。
 これからはトントン拍子で千九百十一年プラーグ大学の正教授になり、その型年またチューリッヒのポリテキニクムの正教授となり、千九百十四年再びベルリンにかえって相対性原理を完成したわけだった。彼の名声が世界的となり、もう、どの学者の地位より偉大となるにつれて、彼にたいする排斥はますます強大となり、さては団体をつくり、排斥同盟までできるに至った。だが、そうした排斥熱が加わるとともに、学者を中心とする擁護党も生まれてきた。彼の科学的貢献の偉大であり、超人的であることを知った学者たちは、彼をいかにかしてドイツに留まらしめんとし、連名で、彼を攻撃するの不当なるを署名して新聞に出したくらいであった。
 相対性原理の完成は、彼をして国際人たらしめた。英、米その他よりの招請はもちろんのこと、ドイツと相戦ったフランスでさえ、国家の賓客にも均しき待遇を以て彼をパリに迎えたことでも、彼の声名は、もはや、動かしがたいものになってしまったのであった。
 彼が、日本におったじぶん、つくづく彼の生活にたいする態度の真剣なところを見せつけられた私は、あれでなくてはだめだ、あれでなくては第一義的の仕事はできないであろうことを思った。それは、彼があくまでも、あたまと心とを過度に苦しめないことだった。根のつづくかぎり、精力のあらんかぎり、馬車馬的に駆けずりまわって、疲れたあげくには、一杯ひっかけて倒れるがように床の中にもぐりこむのが、われわれの毎日毎日のくらし方、生きかたであるが、彼は毎日、余裕をのこし、余地をのこし、元気をのこし、そのうえ、晩方からは、音楽とか、芸術の話とかに余念なく、その日でくるしめた頭と心とは、その夕でいたわって、朝がたの元気のように、白紙の状態にまで取り返しておくのである。私どもは、たいてい臥床に苦しみと、もだえと、疲れと、憂えと、悩みとを持ってはいるが、彼は、臥床に疲れや、苦しみを持ってはいらない。ゆったりした、のびやかさでベットに横たわるのであった。この点が、私の彼に学んだ最も大きな土産であった。興奮をもっで、眠ってはいけない。悲しみをもって眠ってはいけない、失望や、煩悶や、落ちつきをもたず、おどおどして床についてはいけない。ことに、それは、大望、大業を念とするものは、とりわけ、ここのところに静かた思いを潜むべきである。
 彼は愛煙家である。彼のゆくところ、マドロス・パイプの伴わざるはないが、しかし、彼の監督者は一日いくらと分量を決定してくれる。この監督者のいいつけは、とても厳格で、彼はいつも弱らされる。だが、ときたまには、その目をぬすんで、プカプカ、のどかにくゆらしているのを見る。そこに監督者が突如、姿を現わそうものなら、それこそ大変である。こうしたことは、コーヒーの場合も同じことで、夜ぶんなどは、ぜったいにのませない。その監督者のエルゼであることは、もちろんである。彼は、相対性原理の後に来たるもののために、それほど自分の頭脳をいたわっている。そして、自分の一代において成さるるであろう大業に向かって、いつまでも年の若さ、頭脳の若さ、鋭さ、健やかさを保持せんと努力しているのである。一つの大きな事を成し遂げて、それに満足せず、一歩は一歩と科学の殿堂を究めんとするには、何が大事だといえば頭脳の健全が第一でなくてはならない。この点において彼の周到無比の注意ぶりに、ただ、驚くのほかはない。彼が詩を愛し、音楽を愛するのが、生を愉悦せんがためのみにあらずして、実に科学を完成せんがため、人格を潭成せんがために、なさるるであろうことを思わしめるのである。
 彼は日本の至るところで、心からなる歓迎を受けた。わが武の国に加いて武将の歓迎さるるものとは、いささかことなるもののあるのを感じた。彼には母国がない、母国がないだけにこのことが骨身にしみてうれしかったらしい。彼は日本には住んてもよいーと考えるに至った。そういうささやきをもらしておった。彼が、日本行をほぽ決したのは大正十年の九月下旬であった。十月二日には正式に日本に赴くことを我が社の特派員室伏君に明言したのであった。その当時、各国からの招聴がたいヘんに多かったが、彼にどうしても日本を訪問したい心願の切なるものがあったので、東京行きが決定したわげだった。当時、駐独日本代理大使松原一雄君が、このことに介在して努力して下さったことは、ここに改めて感謝の意を表して置く次第である。
 いつでも、新聞にユダヤ王国建設のニュースが出るごとに、彼の名前をきかないことはない。彼はそれほど、ユダヤ国建設に熱意があるのであろうか。また、事実そうした計画があるのであろうか。私のきくところ、見るところでは、彼はこうした計画の中心であったことは一度もなく、また、新しい国家というものにたいして、彼にどれほどの期待と希望と"かあるであろうか。ことに、実在せるユダヤ国建設の運動には、かなり大きな不満、むしろ根木的の不満をもっているのではなかろうかと、思われるふしがある。もちろん、その運動の動機にたいして反対であろうはずはなく、心中では、できるなら、そのことが可能性を帯びてきたならば、と軽く思っているのではないかと思われるところもあるが、自分が中心となるとあれば、あれほどの宇宙観、世界観に生きている人であるから、何か、そこに異なったものがあることを思わせる。だから、過去において彼のユダヤに関する一、二の議論を以て、ただちに、それで付度はできがたいものと私は思っている。
 彼は、国からくる圧迫、人種からくる大きな圧迫、それにたいして、どういうように見ており、感じておるか。たいていの人びとはそうしたものが二つも、三つも重なって圧迫すれば、その面貌のごときもトロツキーなどの顔のごとく戦闘的になってくるか、憎悪を象徴するような顔つきになるものだが、彼は、自分の心の渕で悠々と生活しているがゆえに、正面から押しよせてくる荒波にも、暴風雨にも、ものともしない。まことに深い心池のごとくである。あんなに、圧迫されて、始終、童顔童心で通せるところに、天資と修練の二つが魏々として從耳え立って、凡俗に同じからざるを示している。彼は、そのような重圧のもとにあるが、表面に反抗的色彩を見せたことは、たえてないといわれている。いな、それどころでなく、弱き人びとにたいして思いやりが、とても深いものがあるそうだ。これはごく卑近な例であるが、彼が日本にきてからも、電車に乗っては、どんなに疲れていても、彼は席を婦女子にゆずった。そして人間虐待で見るにしのびないと言って、人力車には、かたく乗らなかった。彼は、我慾を極端に節制していた。そして相互の人類愛によって、なにごとでもうまくやって行けると信じていた。だが、決して安価な人道主義者ではなかった。彼は、強烈な刺激は嫌いであった。しかし、内心には正義に殉ずる心が、はちきれそうに強かった。
 彼の平和にあこがるるの声、それはカントのごとく、組織的、哲学的のつめたいものではなかった。彼は純理論に立って恒久平和を提唱するものとばかり見ることができない。そこに彼の境遇からきた実際的、実現可能的と見らるる功利的の部分が含蓄されているのを否むことはできない。彼が昭和九年四月号『改造』にかいた論文のなかに、彼が平和主義者として把持する綱要は見られるのであるが、それで見ても、恒久平和の形式、道程にくさくさしているのでなく、また、軍備撤廃によりて、永久平和ヘの道がすぐに招来さるるものとも断じていない。しかし、彼が近時、抱懐する平和思想を窺うことのできる重要な論文ではある。今の場合、彼の立場は一国にとらわるるところがないから、こうした議論をするにはもってこいの地位にある。私どもは、空想的な平和主義ばかりにはあきあきしたから、この点についても彼の努力が、そうとうに期待さるべきだと思っている。
 私は、これから先きも、彼の科学的完成に期待をもつものだ。彼の相対性原理が永劫不変であり、絶対であることを望んでやまないものだ。彼が、プランクによりて認識されたじぶんは、まだ年齢三十そこそこで壮年の域に達したばかりのときであった。当時は、数学の大家であったパンルヴェー、ルルーらが敢然として相対性原理に反対したものだそうだが、今はそうした反対の声もなく、彼の宇宙観、世界観は絶対の真の姿のごとく、当年のニュートン、ガリレオが神様と見られたと同様、もしくは以上の栄光に耀いているのである。いまの私にとりては三次元のユークリッド幾何学も、非ユークリッド幾何学も、縁なき衆生である。時間と空間の問題でも、量子論のそれにしても、猫に小判と同様だ。それよりは、彼が門外漢と称する音楽や、絵画の話などが、私どもにとりては、どれだけ、したしみ深いものであったかわからない。
 モスコウスキーによれば、彼は音楽の鑑賞において、ヴァイオリニストとして玄人の域に達している。絵画の方面ではさほどでもないそうだが、ある我が画壇人や、鑑賞家の言うところによれば、この方面にも優に一家の見があったらしい。現に、彼は当時ドイツ帝展派の首脳とも見るべきリーベルマンとは別懇の間柄であった。そのため、我が国に来朝したときも、リ氏へ土産へのためとて、幾枚かを我が画壇人にかかせたことは事実だ。そんなことは、彼の絵画鑑賞家としての地位を語るなにものでもないが、彼が光琳や、雪舟、応挙、光信、等々の絵画を一瞥したときの評語、態度からして、駆けだしの素人ではたいと、いく度も思わせたのであった。彼はインドや中国をよく視察して来なかったが、我が仏教諸芸術にも、そうとうの関心を持ったようであったので、できるなら、中国やインドを見てきてもらいたかった。それでないと、ほんとうの鑑賞はてきまいと思うからー1。別に、日本の仏教芸術にケチをつける意味ではなくして。
 それから、彼が日木にきて、ときおり、私たちにきかしてくれたのは、ベートーヴェンのソナタとバッハのシャコンヌとであった。ヴァイオリンには自信もあり、それに夫人エルゼもすきであったので、この点は大びらでやってもらった。彼は本来瞑想的な人で、宗教的気分もそうとうあるように見受けられたが、それよりは音楽なしには生きて行けぬ人、そうした横顔をいくども見せつけられた。彼がヴァイオリンをかなでるときの、あの満足そ5な相貌、あの輝きのある目、それだけでも歓喜の殿堂という感じをさせるのであった。彼のヴァイオリンをきいた人は我が国でも数百人はあったと思うが、これには玄人も素人もひとしく感心しておった。
 わけて、それが我ら三、四人しかいない小人数のときに弾いてもらうときの感激は、妙にしめっぽくなった。そんなとき、私は、よく彼が少年時代をくらしたミュンヘンの、あの静かな自然、牧羊、森影、そうしたものを思い浮かべた。パレスタインの廃櫨のあとのベンベン草をも頭に描いてみたりした。
 それから文芸にたいしては、とりたてて、どうというようなことはなかったように思うが、それでも、 シェークスピアものや、『ドンキホーテ物語』、『カラマーゾフ兄弟』などはすきらしかった。ところが、一つの宇宙観、世界観があまりはっきりしていると馬鹿らしくてよむ気になれないじゃないかーと、そう思わした。なんでも軽い気持で読んでいるのじゃないかとも思われた。だが、詩集には愛着があるらしかった。こんなことで、もっとゆっくり話しておけばよかったにと、今になって思うしだいである。
 彼にたいする思い出はいくらでもある。書けば、書くほど、それからそれヘと、いろいろの感想の展開を示すのであるが、もう、このヘんでペンを欄くことにしたい。日本では四十二日間の滞在ではあったが、知識階級の人びとは幾千人とも接触した。そして、我が大学の大半を一瞥した。諸教授とも懇話を交わした。こうした方面には非常にしたしみ多い存在となった。そのほか、観菊会も、三、四の芝居見物も、お能も、日本料理も、雅楽も、琴や三味線、尺八も、日光、厳島、奈良、松島の風景も、宮殿やお寺も、お茶の会にも、仏画瞥見にも、それぞれ、ひと通りをすましたわけであった。この点において、我が国に一年、二年の滞在客とひとしいほどの、努力の跡づけがあったと見てよい。ふりかえって自分のささげた誠意が全身的のものであったことに、今でも満足できるのである。また、当時、いろいろの方面に亙って、援助していただいた方々にたいして本、ここにあつい感謝のまごころをささぐるものである。
 
 その当時、どういう気持で、アインシュタイン教授を招聰したか、それを語らしてもらおう。はじめ、ラッセル教授が、我が社の招きで来朝したとき、ふと、私が世界第一の偉人は誰と思う? と質問したとき、ラ氏は言下に、アインシュタインと答えた。私は、そのとき、それでは相対性原理の論文を一般大衆に了解できるようにかいてほしいとねだった。ラ氏は唯々として承諾したのだった。それから直ぐ、私は西田幾多郎教授を京都に訪ねたとき、相対性原理が、ニュートン引力論の根本をくつがえし、ユークリッド幾何学を不用にした画時代的の業績であるを具さにきいた。それから西田さんは、石原さんに逢ってきいた方が、一層よくわかると言われたので、さらに、仙台に向かって石原さんに逢い、それから、社議をまとめて、室伏君に交渉のためベルリンヘ行ってもらったわけであった。当時の気持、それは一個の大偉人を憧憬する心、我が国の文化に全力をささげたい気持ーそれにほかならなかったのだ。
 私は、だんだん、彼に接触して行くうちに個人的にとても好感のもてる人だと思った。もちろん、思想上の立場において、私は彼と全然一致するものではないが、彼の墳遇からくるいくたの圧迫には、そうとうに私の心を動かすものがあった。それはゾラや、スコットのユダヤ人にたいしていだいた感情や、人道的憤りやとある点においては一致するものもあるが、私は日本においての彼とのつながりにおいて、彼の物理学的貢献、文明ヘの貢献にたいする盲目的の一個のファソーそうした微力なものにすぎないのである。私は、文明のため第一義的の前衛に立つの戦士の資格はないかも知れない。だから、せめて彼の何かのたしにでもと思って、ああした招聰という形をとるに至ったものであった。
                               (昭和九年六月二十四日)
 
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