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外村繁「最上川」

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amizako

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だれでも歓迎! 編集

 最上川

 
 いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむ、と知りながら、
 |有為《うゐ》の奥山今日越えず、浅き夢見て、酔ひ痴るる。
 
 
 悌吉は、素子が処女であることを知り、やはり彼女との結婚は思い止まらねばならない、と思った。彼女の清浄な体が、かえって心の重荷となるようにも感じとれたし、二十四を頭に五人の子供のある悌吉が、素子にそんなことを望むのは、惨酷なことのようにも思われた。悌吉は、素子への手紙を書くことにした。
 
 先日は失礼しました。
 夕風に、木々の若葉が揺れ、緑色の波の底でお話していたような気がします。心の中まで洗われたような、清清しい夕でした。あなたの瞹いお心づくしも、忘れられません。
 しかし、今日までいろいろ考えましたが、その時もお話したように、私はやはり思い止まらなければならないと思います。|無垢《むく》なあなたに比べると、私は心身とも、あまりにも汚れに汚れ、もはや、行き暮れた感じでさえもあります。あなたの|瑞《みずみず》々しい命が、私にはもったいないのです。
 私はそういう考えから、どれだけ逃げたいと思ったかしれません。しかし逃げてはなりません。私は私の、この疲れきったような心身を正視しなければなりません。私は、妻を亡くした哀しさに、甘えていたようです。私は私の無礼な申出を|撤回《てつかい》することに決心しました。万事、お許しください。
 お気が向いたら、遊びにお出でください。たいてい、在宅しています。草々
 
 最後の一句、書いてはならないか、と思いながら、書いてしまった。何か重荷を下したようでもあり、いまだに、心が残るようでもあった。
 悌吉は手紙を封筒に入れ、宛名を書き終ったけれど、子供たちは皆学校へ行き、彼一人なので、|投函《とうかん》に行くことはできない。悌吉は手紙を机の上に置いたまま、ぼんやり|肘《ひじ》を突いていた。
 庭の木々は年々成長して、緑の蔭を深めて行く。葉漏れの光線が硬質の葉に当って、緑の空洞の中に、|螺鈿《らでん》を|嵌《は》めたようである。風もなく、静かだった。悌吉の坐っている部屋は、その緑蔭に|蔽《おお》われて、昼も薄暗かった。彼は、この緑色に染ったような静けさの中に、ひとり坐って、いつか自分をさえ見失ってしまいそうであった。しかし悌吉には、やはりこうしていることが、いかにも自分の場所を得たようにも思われた。清潔に、このまま消え失せてしまえるようにも、|錯覚《さつかく》したのだ。
 夕方、学校から帰ってきた末子に、悌吉はその手紙を投函させた。すぐ素子から返事が来た。
 
 
 雨がようやく晴れた日にお手紙をいただきました。いただけるのか、いただけないのか、だんだん心配になりだした日に。
 先生が一番問題にしていらっしゃること、それが私には大へんつらいことです。なぜかというと、先生が考えていらっしゃるのと、全然反対な恐れを私は抱いているのですもの。あの時もお話ししましたように、ちょうど紺の木綿を、水にくぐらしたり、身につけたりしていると、紺の色も美しく冴えて、かえって丈夫ですけれども、|反物《たんもの》のまま何十年もしまっておくと、色は濁り、いつのまにか|繊維《せんい》の組織が自然に|冒《おか》されて、ひどくもろいものになってしまうでしょう。ちょうど私はそのようなものではないかと、気がひけて、私こそそうしたことの考えから逃げたいと思います。だから先生もそれをおっしゃってはなりません。
 今日はよいお天気で、ビルの三階の窓から、麻布や赤坂の高台の木立ちが、ひどく間近かに見えます。雨上りのせいでしょうか。
 そのうち、ぜひお邪魔させていただきます。
 
 
 新仮名遣いだな、と悌吉は思った。しかし、素子は日本通信社に勤めているので、職業がら、止むを得ないこととも思われた。悌吉はいつか、素子の来る日がしきり
に待たれるようになっていた。
 ある日、外出から帰ってきた悌吉の所へ、長男が急いで出てきて、言った。
「見えたんです」
「誰が」
「誰がって、素子さんがです」
「そうか」
、悌吉は幾分照れ臭げに微笑した。長男も同じような微笑を浮かべたが、すぐ消えた。
「僕たち四人は|挨拶《あいさつ》したんですが、なぜか、路子だけは出てこないんです。そうして、僕ら、シャツだとか、皆|貰《もら》ったんですが、路子は、そら、あんなに、放りっぱなしにしておくんです。女の子ったら、何思ってるのか、解りゃしない」
 悌吉が見ると、次ぎの部屋に絹の靴下が、いかにも投げ捨てられたように、包み紙から飛びでていた。
「そうか」
「治ちゃんなんかは、まだいいんですけど、僕ら、でっかいのが、ぞろっと三人でしょう。恰好がつかなかったですよ。きっと、それこそ、ギョッ、となさったでしょうよ」
 悌吉の子供は男が四人、路子はただ一人の娘であった。
「けど、父さんの作品、読んでいなさるから、家のことは、みんな知ってなさるんだよ」
「だって、父さん、小説とは違いますよ」
「そりゃ、まあ、そうだ。すまなかったね。しかし、まだ何もそうと決まったわけでもないんだから、路子のことは、そっとしておこうよ、ね」と、悌吉は言った。
 彼の妻が亡くなってから、悌吉には、ただ哀しみだけの日々が続いて行った。一日一日、そんな日がいつまで続こうとも、もはや未来は空しく、思い出完けが、過ぎ去った日の闇黒の中に、はかない火を点じているようであった。ということは、来る日も、来る日も、過去の投影にすぎないのだ。そうしてその日も、過去を映したまま、また過去の中に過ぎ去って行く。空しい限りとも思われた。
 しかし、幸なことには、未来を感じえないような人間には、楽しみもないと同時に、苦しみもなかった。っまり何に対しても抵抗のない、むしろ平安な日々の連続であったとも言われようか。
 それぞれに、成長盛りの子供らは、彼らの母を失っても、誰一人涙など見せる者はなく、かえってそんな悌吉を、何かと|勞《いたわ》ってさえくれるのだ。したがって、悌吉は、毎日、机の前に坐っていればよかった。哀しみは自然に|溢《あふ》れでてくる。それは誰に妨げられることのない、ただ彼一人だけの世界だった。心安いともいえば、いわれよう。
 そんな日々の、静かな水面に、みずから小石を投げ入れておきながら、思わぬ波紋のような、今日の出来事であった。髪も半ば白く、|皺《しわ》も深く刻まれ、すでに老いをさえ、感じ始めたような身でありながら、|性懲《しようこ》りもなく、ふたたび愛憎の苦しみの中に、迷い入ろうとするのであろうか。
 が、不思議なことに、隣室に投げ捨てられてあった靴下を見た瞬間、空しく帰って行った素子に対し、もはや理性を越えた感情が湧き起っていたのだ。同時に、そんな路子が、いきなりかき抱いてやりたいほど、|愛《いと》しくもあったのだ。
 早くも、こんな糸の|縺《もつ》れができていたのか。この縺れを解くものは、ただ彼の純一な愛情よりほかにはないではないか。愛するということの苦しさが、今さら悌吉の胸を締めた。――が、はたしてそれは本当のことか。五十にも近い男の愛情などというものは、そんな生優しいものではない。亡い妻との初恋、あるいはまだ世間知らずの幼いものであったかもしれないが、二十数年の夫婦生活、五人の子供が生れ、そうして最後に妻の永い病気と、妻の死。それをしも愛情というならば、彼の愛惜は、もはや|瘤《こぶ》だらけのしたたか者であるはずだ。胸を締めるどころか、海千山千の愛情の|手管《てくだ》に、こんな路子を雁字搦《がんじがら》みにかけることなど、いと易いことだ。あるいは愛情などと、口にするもおかしく、もっと|不埒《ふらち》な奴なのかもしれない。
 いかにもそれに相応じるように、永い間忘れていた、何かへの――むしろ彼自身の生に対してかもしれない――愛着が、彼の頭の中にしぶとい頭を持ち上げた。
 悌吉はいきなり机に向かい、今日は不在にしていて申し訳けなかったが、次ぎの日曜日には待っているから、ぜひ来てほしい、由の、手紙を素子へ書くのだった。
 すぐ、素子からは、ぜひ伺いたい、という返事が来た。
 その日曜日の前日、悌吉は何気ない風を装って、路子に言ってみた。
「明日、素子さん、見えるよ」
「素子さんて、何しに来るんです」
「別に、何しにってことないけれど、いっしょに、御飯でもいただこうよ」
 路子は俯向いたまま、返事はなかった。しかし、あの靴下は、いつか路子の|箪笥《たんす》の引出しにしまわれたようであった。
 日曜日の午後、白いブラウスに、薄いグレイのスカート着けた素子が来た。
 悌吉はことさら何も言わなかったが、路子は彼の後に坐って、挨拶をした。
 彼の妻が亡くなってから、炊事は子供らが交代にしている。路子はその日、その当番であった。悌吉が、その路子に呼ばれて、台所へ行ってみると、路子は、水色地に、胸ポケットのあたりに、すみれ色の花模様をつけたエプロンを掛けている。胸の方が狭く、|裾《すそ》が短く拡った型が、きゅうに気取って見えた。悌吉は、見馴れぬそんな路子の姿に、目を見張った。
「路子ちゃん、どうしたの。その、エプロン」
「おばさんに、いただいたの」
「そうか」
「すてきでしょう」
「うん、とっても、よく似合う」
 さすがに、赤く染って行く、路子の白い顔を見詰めながら、思わず悌吉は涙ぐんだ。
 
 
「治ちゃんは、素子さんにいただいた、開襟シャツを着て行きなさい」
「私もおばさんにいただいた靴下、|履《は》いて行こうかしら」
「しかし、暑くないかな」
「ソックスも、いただいたの。この前、いらっしゃった時」
「そう、じゃ、それにしなさい」
「僕も、おばさんにいただいた白ズボン、履いて行こう」
「それがいい。もうすっかり夏だからね」
 悌吉は、下の子供、二人連れて、素子とピクニックをする約束をしたのだった。案内役は素子が引き受けた。
「お弁当は、おばさんがたくさん作って、持って行きますからね」とも言い、酒に酔えば、何も覚えなくなる悌吉のことを知っている素子は、次ぎのような親身な言葉を、紙切れに残していったものだった。
 
 
 路子さん
 治さん
 時日 七月十日、十二時。
 場所 新橋駅正面玄関。 (汽車の出入口)
 1 ストがおこって電車が危いとき、
 2 雨が降っていたときは、
   残念ですけれど、だめね。
 
 新橋駅で降り、|飴《あめ》と果物を買って、悌吉が駅の正面玄関へ急ぐと、そこに麻の上衣、だんだら縞のビーチシャツに、|焦茶《こげちや》のボヘミヤンネクタイを|締めた、素子が立っていた。
「遅くなったかな」
「いえ、私も今着いたばかりですの」
「さて、どちらへ、行くのでしょう」
「では、まいりましょう」
 怪訝顔の悌吉を促して、素子は歩きだした。汐留駅の前を過ぎ、なお少し行って、右に曲った。
「あそこですの」
 素子の指さす方を見ると、夏空の下に、緑の森蔭がしっとりと、その影を掘割りの水に映していた。
「浜離宮の跡ですのよ」
「ほう、こんな所に、こんな所が、あったんですかね。ちっとも知らなかった」
 両側に石垣だけの残っている、入口を入って行くと、幾本かの松の大樹が、|崖《がけ》の上から、みごとに枝を垂れ下げていた。
「このお堀で、徳川時代に、将軍が|鴨猟《かもりよう》をしたのよ」
 庭園の申を流れている掘割りを、素子は子供らに差し示した。
「|泥鰌《どじよう》なんかを見せびらかしておくと、鴨が海から一列に並んで、やってくるのですって。そこを網かなんかで、捕るのですのよ」
「見せびらかすは、よかった」
 悌吉がそう言い、二人は声を合わして笑った。
 やがて悌吉たちは、鈍色の水を湛えた池の畔に出た。海に近いらしく、潮の香を含んだ浜風が吹いてき、舟のモーターの音も聞こえていた。さっきまでの、都会の騒音は、不思議なほど、全然聞こえてこなかった。
 悌吉たちは|楓《かえで》の老樹の蔭の下に、素子の心遣いのハンカチや、風呂敷を敷いて、腰を下し、素子は、大きな、白い握り飯の弁当を開くのだった。
「山形のお米?」
「ええ、そうですの」
 山形は素子の郷里である。悌吉は何ということもなく、|感慨《かんがい》めいたものが湧いた。
「たくさん、召しあがれね」
 素子はそう繰り返し、路子や、治の膝の上の竹の皮に、手作りのおかずを載せたりした。路子も、治も、すっかり満腹の様子だった。悌吉は新橋で買ってきた白桃などを、素子に進めたりもした。
 食事を終ると、治は楓の木の上に登ったり、路子は水ぎわへ手を洗いに行ったりしては、すぐ悌吉たちの所へ走り帰ってきた。
「路子さんは、これね」
 素子は鞄の中から、赤い縁どりのあるハンカチを取りだして、路子の胸ポケットに狹んだ。
「これは、治さん。先生のは、ありません。これで我慢していただけますかしら」
 素子は悌吉のポケットに、治のと同じ、薄い緑色の縁どりのあるハンカチを挾んだ。
「まあ、お父さん、きゅうにハイカラ」
「よし、帰って、兄ちゃんたち、驚かせてやろうかな」
 悌吉は笑いながら、ハンカチの先を|撮《つま》みだした。
「お疲れになったでしょう。お休みになったら」
 悌吉が、そう言われるままに、横になろうとすると、急いで手に持っていた上衣を、彼の頭の下にあてがうような素子だった。
「蟻がいて、いけませんわ」
 素子は、悌吉の胸の上の蟻を、そっと撮んで、捨てた。海の方から、絶えず涼しい風が吹いていた。
「厳しい父でしたの」
 そう言って、素子は子供のころの話をした。
(少女の素子はいつも|稚児髷《ちごまげ》に|結《ゆ》っていた。が、素子は一度お下げにしてみたくてしかたがなかった。そんなある時、一里ほど離れた叔母の所へ使いにやらされた。素子は、途中、鎮守の宮の森の申で、稚児髷を解いて、お下げにした。嬉しく、素子は|跳《は》ねながら、叔母の所へ行った。
「あのなす、お前んどこの素ちゃんが、太子さんどこで、お下げに直していたでえ」
 誰かが、彼女の父にそう告げたようであった。それから一時間ほど後、わざわざ母がやってきて、彼女はまた稚児髷に結いなおされるのだった)
「そんな父が、破産して、その後、中気になったのでしょう。それでいても、なかなか気が折れず、気の毒な父でしたわ」
「それで、ずっと、あなたが働いて、家計を支えてきたのですか」
「ええ、弟たちは学校を出ると、すぐ兵隊でしょう」
「苦労したんだなあ」
「私、けれど、苦労などとは、ちっとも思ったことありません」
 子供たちはいつどこへ行ったか、その姿は見えなかった。|鵜《う》であろう。首を長く伸した黒い鳥が、二羽三羽、飛んで行く。
「何でしょう。あの鳥」
「鵜ですね。首が長いでしょう」
「そう、つまりあれが磯の鵜の鳥なんですのね」
 瞬間、悌吉は、時も、所も、自分も、消えてしまったような、虚脱の中に墜ちて行った。亡くなった妻と同じような会話を交わしたことを思いだしたからである。
 知多半島の野間で。その時、子供らはどうしていたのか、彼は妻と二人きりで、海岸を歩いていた。|塒《ねぐら》へ急ぐ鵜の群れが、二羽三羽と、少しずつの間隔をおきながら、絶えなかった。
「あれ、何の鳥でしょう」
「鵜だよ。磯の鵜の鳥、日暮に帰る、の鵜だよ」
「そう、あれが鵜ですか」
 |青海波《せいがいは》の模様の|浴衣《ゆかた》を着た妻は、空を見上げて、立っていた。「父さん、海の方へ行きましょうよ」
 治がそう言いながら、|駈《か》け帰ってきた。その後から、路子が含み笑いの顔をして、走ってきた。
 あのころ、治は三つくらいであったろうか。すると路子は六つだったことになる。
「ボートあるんです。おばさん、ボートに乗りましょうよ」
「治さん、ボート漕げるの」
「僕、とっても巧いんですよ」
「そう。まいってみましょうか」
 素子は後を片づけ、二人は子供たちを先にして、海岸の方へ歩いて行った。
「路子さん、あれ、かたばみよ、御存じ」
 素子は、|草叢《くさむら》の中の|鴾色《ときいろ》の花を指差して、路子に教えた。路子は走って行き、その花を摘んだりもした。
 コンクリートの山咼い岸壁の下に、さまざまな塵屑を浮かべて、潮は満ちていた。風が、素子と路子のスカートを、あおいだ。体格の大きい素子は、胸を張り、しばらく海に向かって、立っていた。
 が、ふと振り返ると、その辺の灌木の茂みの中には、あちらにも、こちらにも、日傘や風呂敷で日除けを作り、幾組もの男女が露骨な姿態で坐っていた。中には、二つの体を並べ、顔を合わせて、寝転んでいたりもした。
「なかなか、盛観ですね」
「日曜だからですわ。いけませんでした」
「しかし、考えれば、僕らだってその一組ですからね。年を取っているだけに、子供らをだしなんかにして、よけいずうずうしいのかもしれませんよ」
「あら、いやな先生」
 素子は彼女にもなく、赤く顔を染めた。治が走り帰ってきて、言った。
「そら、ポートに乗ってるでしょう。おばさん、乗りましょうよ」
「でも、乗り場は、ここにはありませんのよ。外へ出なくっちゃ、だめね」
「じや、外へ出ましようよ」
「先生が少しお疲れのようですけれど」
「ちえっ、つまんないの。乗ろうよ、おばさん」
「子供というものは、自分で何かしなければ、おもしろくないのですね。見て楽しむというようなことはできない。しかし、治はすっかりあなたに甘えちまっていますね。じゃ、出ましょうか」
 走り去って行く治の後姿を見ながら、悌吉はそう言った。が、軽い疲れを覚えないわけではなかった。
 街に出ると、アスファルトの照り返しが、にわかに激しい暑気を感じさせた。魚市場の悪臭も胸を突いた。
 貸ボートの看板のある石段を、悌吉たちは降りて行った。さすがに、水ぎわだけの涼しさはあった。ボートには三人以上は乗れないというので、悌吉が残ることになった。
 素子と路子を乗せ、治はいかにも得意気に漕ぎだして行った。素子と路子は、時々悌吉の方へ振り返って、手を振ったりしていたが、やがてボートは彼の視界から去
ってしまった。
 軽い疲労のためか、悌吉は自分ながら、ふと眠っていたのではないか、と思い返すような、無感覚の状態のまま、木の腰掛けに坐っていた。時々、進駐軍の兵などの乗った、大型のモーターボートが走り過ぎ、その後に大きな波を起した。だぶりだぶりと、岸を打つ波音の中に、空のポートが揺れているのを、見るともなく見ていると、悌吉は、自分の体も、ともにゆらゆらと揺れているように思われるのだった。
 
 
「先生、こんなの」
 出張の帰途、郷里へ立ち寄り、写真など持ち帰った素子は、それを悌吉に示すのだった。
 稚児わっかに、白い前掛をした幼い素子が、椅子に腰掛け、素足を二つ、宙に浮かべている写真であった。
「こりゃ、いい。いくつぐらいだったのかな」
「たしか裏に書いてありましたわ。五つでしたか」
 裏を見ると、 「大正五年旧三月沢上村山田佐野素子 五歳」と、古風な書体で書いてあった。
「小学校と、女学校のころのもの、どうしたのか、一枚もありませんの。その代り、こんなの一冊だけ残っていました。私の自由詩」
素子は古い「赤い鳥」の、自分の自由詩の載っているところを開いて、悌吉に見せた。
 
 日和
         佐野素子(十四歳)
 しずかな日和だよ。
 何にもないのに、
 みんな笑ってる。
 けしの花のほこりが
 となりの花へとんだよ。
  秋の昼
 秋の昼、
 何にも音しない庭のすみに、
 草花がまっかよ。
 「昼だよう」とお母さんをよぼうか。
 
 農家の庭、|罌粟《けし》の花の傍に、前掛の下に手を入れた少女の立っている、さし絵が入れられてあった。
「いいじゃないか。なかなかうまいよ」
「ここにもありますの」
 素子は別の頁を開いた。
 
  最上川の夕暮
 さらさらと
 さざら波、
 夕月が光って、
 釣る人が二人かえるよ、
 あしの葉をわけて、
 「いい月だよ」と言うている。
 橋の上に真白な|洋傘《こうもり》
 すうときて
 月に光ってすぼめた。
 
「ありがとう。僕には、何よりの写真、見せてもらった」
「女学校へ入って、生意気にフヲンスの詩など読むようになってから、すっかりだめになってしまいました」
「さらさらとさざら波、もうそのころには、蔵王には雪が来ているだろうか」
「ええ、蔵王や、月山や、朝日岳の|頂《いただき》は、もう十月になると真白になります」
「いい所だろうなあ。行ってみたくなった」
「いいえ、どうして、ひどい所ですわ。けれど、村の人たちはいたって|暢気《のんき》です」
「お早う、って、どういうの」
「早いなす、お早うす、とも言います」
「晩は」
「お晩です、ええお晩だなす」
「そうか」
「女子大時代のは、たくさんあります。これ、誠さんのおっしゃる、まさにギョ、ッ的ですわね」
 ひときわ背高く、素子は黒い上衣を着、手を後に組んで、級友たちと並んでいる、いかにも山形育ちらしい、野性的な姿だった、
「外苑にて」
 糸杉のある芝生を背景にして、ようやく都会の風に染みた、素子は友だちと四人、華やかに笑っていた。
「上級生ともなれば」
 素子は振袖の着物を着て、級友たちと並んで、椅子に腰掛けていた。その大柄の体が、ひどく派手やかな感じだった。
 「女子大卒業、突如父倒れ、|敢然《かんぜん》就職、生活戦線へ」
 素子はひどくおどけた調子でそう言い、自分で、ほ、ほ、と笑った。
 それは、黒い地色の和服を着た素子が、 一人の同僚と、ビルディングの屋上に立っている写真だった。その後には、都会の街々が見下された。
「体がこんなに大きいのですもの。私、和服はいやらしいでしょう」
「そんなこと、ちっともない」
「先生は洋服、ほんとにお嫌いね。この間も、ロケットはめてて、叱られました」
「嫌いというわけじゃないんだが、洋服は判らないんだね。何か感覚的に実感できないのだよ」
「和服や、和服的なものが、ほんとにお好き。私も和服着ますけど、しばらく待ってくださいね。そら、戦前は、私、ずっと和服だったんです。ね、ビルの秋って感じですわね。彼女、悩んでる」
 そういえば|絞《しぼ》り模様の羽織を着た素子は、何かに堪えているように、固く口を結んで立っていた。ビルディングの廊下らしく、そのメカニックな背景がいっそうその感じを強くした。
 悌吉が次ぎに渡されたのは、いかにも慰安旅行らしく、舟に乗った一行の中に、手拭などかぶって坐っている素子の写真であった。
「やはり、職業婦人て、どこか哀れね。でぶでぶに太って、おかめみたい」
「しかし、これはまたばかに|颯爽《さつそう》としている」
「もうだいじょうぶね。オールドミス、ついに板につきにけり、ですわ」
 素子が外人とインタビューしている写真だった。
「これはもっと颯爽、でしょう」
「ほんとだ。どうしたの」
 ちょぼ髭など生やし、戦闘帽子に、国民服を着た四人の男たちの前に、黒い上衣に、モンペ姿の素子が、一人|跪《かが》んでいた。勝気な、引き緊まった顔で、上衣の上に、折り返した|襟《えり》の白さが、清潔な感じだった。
「北海道です。某省の|嘱託《しよくたく》で、学徒農地開発隊の活動状況を調査に行った時のですわ。私、北海道大好きですの。駒ケ嶽の|山麓《さんろく》、石狩川河口の村々、浜頓別、音威根府、オホツク海岸では、網走、猿澗湖畔へも行きました。馬にも乗りましたし、雪の中を、|犬橇《いぬぞり》を走らせたこともありましたわ」
「へえ、あなた、馬に乗れるの」
「乗れますわ」
 林の中で、炊煙を上げて、食事の支度をしている学徒の間に立って、何か差図している、白い腕章を巻いた素子の写真もあった。
「これはまた、何とした」
「満洲派遣団女子隊長、それこそギョ、ッね。新京ですわ」
「おいおい、いったい、どこまで飛んで歩けば、いいんだろう。それこそ。とんでもないお嬢さんだ」
 日章旗を持って、縦隊に整列した女子隊員の先頭に、素子は列んでいた。
「やれやれ、まったく|呆《あき》れた」
 奉天の街中で写したという写真もあった。
「|靖国《やすくに》の母、二番目の弟が戦死した時ですの。これ、母です。これが伯母」
 その後に、素子は喪服着て立っていた。
「涙拭いて、少年勤労隊指導者。されど、戦、ようやく利あらず。終戦、かくて、今日に到る。以上のとおりでございますわ」
 素子は言い終ると、半ば本気のように、半ばふざけたように、両手を突いて、お辞儀をした。
「そうか」
 その夜、悌吉は酒に酔い、素子にも酒を強いた。素子はすぐ酔い、目の縁を赤くして、ともすると閉じようとする目を、むりに見開いている風であった。
「哀しいなんて、ちっとも哀しいことなんかございませんよ」
「人間が、まして女の人が、一生懸命生きて行く姿なんて、哀しいものだ」
「先生は何でもかでも哀しいんですのよ。ちっとも哀しかなど、ありませんよ、だ」
「だけど、あんな生活をしてて、よく今までヴァージンを通せたね。感心した」
「感心なんかすることありません。私、男の方見たって、何ともないんですもの。社では、私のことを『|木石《ぼくせき》』と申します」
「………」
「皆、私が怖い、と言いますわ」
「こんな素子の、どこが怖いんだろう」
「恐しがらないのは、先生だけ」
「そうか。今日のような写真を見ると、やはり少し恐しくなったかな。素ちゃんが、あんな|凄《すご》い人とは知らなかった」
「いや、怖いのは、先生の方。この間も、おもしろいことありましたの。最近、職場結婚した人があって、その話から、部長が『さて、この次ぎは誰かな』って、言うから、『はあい、私』と言って、私、手を|挙《あ》げたんですの。すると、皆が『ああ、佐野さんか』と言って、あははあははと笑ってぼかりいてね、全然、相手にしてもらえないの」
「そう、じゃ、おもしろいことがある。二人の結婚通知には、こう書こう。『私たち儀、木石|効《こう》なく、ついに墓穴に入りました』とね」
「んだ」
 素子は少女のように声を立てて笑った。
「しかし、そんな素子が、どうしてこんな僕の所へ、来るつもりになったの」
「そんなこと、私にだって、解らない」
 酔った素子は、しばらく考えている風だった。が、不意に|無邪気《むじやき》な微笑を浮かべて言った。
「魔がさしたの。いけない先生。世界でたった一人の、いけない先生」
 悌吉は、いきなりそんな素子の肩を抱き寄せ、唇を当てた。素子は目をつむったまま、しかし|拒《こば》もうとはしなかった。
「今夜は、ここで泊りなさい」
「でも……」
「でもじゃない。泊るんだ」
「はい」
「覚悟は、いいね」
 素子は|俯《うつむ》いたまま、じっと一点を見詰めていた。が、不意に、微かに|頷《うなず》いて、聞き取りかねるような声で言った。
「いいわ」
 悌吉はふたたび激しく接吻した。今度は、素子もわずかに唇を開いて、それに応じた。宿縁あって――悌吉は唇を当てたまま、ひどく運命的な感情に、身を任せていた。
 三十八歳まで、処女であった素子の体を、蒲団の中でかき抱いて、悌吉は素子の耳に|瞬《ささや》いた。
「可愛い子供を生もうね。心を綺麗にしてね」
「いや、子供だけは、絶対に産まない。どうしても、産まない」
「どうして。それでは素子が、あんまりかあいそうじゃないか。最初に、僕が取り消すと言ったのも、それを考えたからじゃないか」
「いいの、いいの。私は、おとくさんのお子さんたち、育てればいいの」
 素子は恥しがって、悌吉の胸に、ぐんぐんその顔を押し当ててきた。無邪気で、大きいばかりの、素子の体だった。
 
 
 悌吉はひとり机に向かって、机前の庭先を眺めていた。こんな小庭にも、秋の色は濃く、昼も夜も、虫の音は絶えなかった。そんな秋の日光の中に、時々、一筋の斬り|疵《きず》の|痕《あと》のように光るのは、|蜘蛛《くも》の糸であった。
 しかし悌吉は、今は亡くなった妻のことばかりを考えているのではない。むしろ、女の体というものは、こんなに温いものだったかと、久しぶりに味わった女の、その素子の体が、しきりに慕い求められた。が、素子の来ないような日には、彼女を知って以来、すっかり甘えてしまった彼の体は、かえって|拗《す》ねたように、妻の亡い淋しさの中に、みずからを追い入れるのだった。あるいは秋の季節のゆえもあったかもしれない。
「まいりました」
 夕方、靴音が停り、玄関の戸が開いて、素子の声が聞こえると、悌吉は初めて|蘇《よみがえ》ったように生気づく。
「お帰りなさい」
 悌吉は反射作用のように立ち上って、玄関に素子を迎え、そのまま食卓の前に坐って、動かないのだ。
「山形の話をして」
 悌吉はいつもきまってそう言い、素子の田舎話を聞きながら、いかにも満足そうに晩酌の盃を傾けるのだ。まるで、乳房を含んだ嬰児のように、たわいないとも思われた。
「田舎の人って、とっても|暢気《のんき》ですから」
 素子は静かに語りだす。
(「いや、いや、あんどきあ、ひどがったなあ、かがはん」
 |藁《わら》の焦げる高い香、湯の音。しかし彼女の母は何とも答えないようだ。また湯の中の人の声が聞こえてくる。
「いや、ひどいもんだっだな」
「なに言ってんだべ。この人あ……何がひどがったんだあ」
「あんどきよ、ほーら、むじなあ、出だときよ」
「ほだってお前、あれや三十年の前の話だべな、山形さ共進会がかかった時だからよ。ばかくさい」
「いや、ひどがったでや、あいつばせめんのによ」
「……」
「あーあ、ええお湯だでや、なむまいだ、なむまいだ…」)
 悌吉は始終笑いを浮かべて聞いていた。
「ほんとだ。ほんとだ。田舎の人って、自分の周囲のこと以外、興味を持たないんだからね。その代り、何年経っても、その興味は失われない」
「そうですわ。まだ海を見たことのない年寄も、たくさんいるような所ですからね。牛が『べこ』で、蛙が『べっき』、お玉じゃくしが『がえらご』。親から子へ、子か
ら孫へ、代々変りはしません」
 悌吉たちは、毎夜、そんなことを話しながら、時の経つのを待つ。子供たちの眠り入るのを待っているのだった。
 その夜も、悌吉は酒を飲みながら、素子の山形話を聞いていた。彼はもうよほど酔っていた。
(「なんだって、ひどえつづれ頭だべ」
「この人あ、生れつきだべか」
「ほだやあ」
「なんだて、|因果《いんが》だなあ、おめえ」……)
 素子がパーマネントをして、初めて帰省した時、往来で見知らぬ女の人に|見咎《みとが》められて、交わした会話だった。が、その時、話しながら、素子が|酒瓶《さけびん》を戸棚の後に隠したのを、悌吉は素速く見逃さなかった。
「お酒、もう少し飲む」
「もうありませんでしたわ。ほら、ね」
 素子は別の酒瓶を持ち上げてみせた。
「だめだよ。事、酒に関する限り、どんなにごまかそうたって、ごまかされないから」
 悌吉は戸棚の方へ手を伸ばした。素子はその手を強く押えて言った。
「先生、今夜はこれで止しにしましょう。ね、ほんとにお体を考えてくださらなくっちゃ」
「うん、止すよ、酒なんか止すよ。だから、今日だけもう少し」
「お止しになんかなれませんし、お止しにならなくったっていいのですわ。ただもう少し節していただきたいの。私の父が亡くなった病気のことを思うと、私、ぞっとするんですもの」
「判ったよ、判ったよ。だから、今日だけもう少し」
 悌吉は素子の手を押しのけて、酒瓶の首を|握《にぎ》った。
「先生、どうしても聞いてくださらないの」
「こればっかりは、たとえどなたの頼みでもね」
 悌吉は酒瓶の首を傾けて、酒をコップに注いだ。
「こんなにお願いしてるのに」
 にわかに素子の顔が|歪《ゆが》み、涙が|溢《あふ》れでた、その顔を、素子は悌吉の肩に押し当ててきた。
「あなたのような偉い人が、酒くらいのことで、泣くってあるか」
「エゴイスト」
「そうだ、よくも見破ったり、そのとおりだ」
「私、帰ります」
「帰るって、どこへ」
「Aへ、帰ります。私、どうしても、ゾラの、居酒屋のジェルベーズにはなりたくないわ」
「そうだ、それを、もっぺん山形弁で言ってごらんよ」
「申します。何べんでも申します。おら、ジェルベーズにはなったくないずは」
「か、あ、いい」
 悌吉はいきなり素子の肩を抱き寄せようとした。が、素子はその手を強く振り離した。
「帰ります。私、もうまいりません」
「何だって。来ないなんて、そんなばかなこと、言うものじゃありません」
「だって、先生にはやはりおとくさんのような方がいいの。全然、私とは性質が違うんですもの。先生は私小説。私は風俗小説。先生は貴族、私はどん百姓」
「とんでもない。貴族じゃない。町人だよ」
「先生は新古今、私は万葉」
「あなたは新仮名遣い、私はこんこちこんの旧仮名遺い」
「先生は二二が三にもなれば、五にもなるけれど、私はいつでも二二が四」
「僕は男で、あなたは女。それでいいのだよ。愛というものは広大無辺。あなたが千島の果から、満洲まで飛び廻ってみても、つまりは孫悟空同様、慈悲の|掌《てのひら》の上に乗っているのだ。慈悲とはいつくしみ、あわれむ、と書くではないか」
「しかし、とにかく、私、帰ります」
 素子は寝巻や、タオルや、歯磨や、そんな小物の類を、風呂敷に包んだ。
「素子、どうしても帰るの」
「はい、どうしても帰ります」
「じゃ、送ってあげよう。そして、今度はいつ来る」
「あら、もうまいりません、と、私申しました」
「ばか、かりにも、そんなこと、言うものじゃない」
 外に出ると、路の上に、塀の上に、鮮明な|輪郭《りんかく》の影が映り、外はこんなに美しい月夜だったのかと、びっくりするほど、明るかった。降るという感じではなく、絶えず、ひたひたと寄せているような月光だった。屋根の|甍《いらか》が、木々の葉が、|濡《ぬ》れたように光っている。
「いい月夜だったんだね。少し歩いてみないか」
「はい」
 悌吉は停車場とは反対の方向へ歩きだした。素子も黙って|随《つ》いてきた。
 悌吉は左に折れ、右に折れ、暗い小路を通り抜け、ふたたび広い通りの月光の中に姿を現して歩いて行った。その後に、絶えず同じ間隔をおいた、素子の靴音が響いていた。しかし、彼の酔った頭には、どうしてもその道筋が思いだせなかった。彼は不意に立ち留った。
「田圃の方へ行こうと思ったのだが、道順、忘れてしまった。帰ろうか」
「はい」
 二人は引き返して行った。
「ね、家へ帰ろうよ」
「いや」
「だって、Aへの、乗り換えの電車なんか、もうないよ」
 不意に、月光の中をふらふらと、素子は路傍の石の上に坐り、風呂敷包の上に顔を伏せたまま、動こうとしなかった。
 広い空地があった。溝川も流れていた。中天にあまりに|冴《さ》え返った月は、かえって丸い|硝子《ガラス》を|嵌《は》めたように、あっけなかった。それよりも、白い流れ雲が、空の青さえしるく、いかにも月明の実感があった。
 何のざまだ。四十八の男と、三十八の女が、いったい何をしているのだ。が、悌吉はそんな愚かな自分が、恥しいのではなかった。むしろ悌吉には、自分がひどく惨酷な人間のように思われてならないのだ。|羽交締《はがいじ》め、そうだ、先に路子の心を奪い返したように、今度は素子までも、愛情という、美しげな|蜘蛛《くも》の糸で、縛り上げてしまったのだ。しかも何よりいけないことは、初めからそのことを計算していたのではなかったか。
 エゴイスト。そうだ、蜘蛛だ。が、|赦《ゆる》してほしかった。甘えているようだが、素子がなくては、悌吉はもはやこの淋しさに耐えがたいのだ。じっと石の上に坐っている素子への感情が、激しく高まって行くのを、どうすることもできなかった。
「帰ろう、ね」
「いや」
「こんな所で、こんなことしてたって、どうしようもないじゃないか」
「帰って」
 しかたなく、悌吉は人影もない道路の上に立っていた。その足下で、虫が鳴いているのに気がついた。が、そう気がつくと、不意に、月光の中一面に、虫の声が湧き上っているようにも感じられるのだった。
 その翌日、子供たちが学校へ行ってしまった後、新聞見ていた悌吉の後から、素子が、いきなり顔をすり寄せてきた。
「ごめんなさい」
 昨夜、あるいはもう今朝になっていたかもしれない。
「負けた。負けた。とうとう負けてしまった」と、彼の腕の中で、|身悶《みもだ》えしていた素子の姿を、悌吉は思いだした。
「いや、僕が悪かったのだ。|勘弁《かんべん》して。しかし、もう来ないなんて、絶対に言わないこと。いいね。よい齢をして、あまり見よいことではないからね」
「はい、先生にまで、あんなことさせて、ごめんなさい」
「僕もお酒は節しよう、節しなければならない、とは思っているのだが、あなたが来てくれると、ほっとしたような気になって、つい度を過すようになるし、いないと、いないで、淋しくって、夜など、どうしようもないんだよ」
「すると、結局、どちらでも同じことね」
「まあ、そういうことになるらしい」
「私、この間、心臓がいくつもいくつも、不気味な色したのが、びくびく動きながら、踊っている夢見ましたの」
「そうか。気味の悪い夢だったね。僕もできるだけ節することにするからね」
 素子は畳の上に片手を突き、しばらく顔を伏せていた。が、不意に激しく頭を振って、顔を上げた。その目には、涙が浮かんでいた。
「ああだめ、私、もうどうしても、先生から離れられない」
「だめなことがあるものか」
「今まで、私は思ったこと、はきはきとできる|性《たち》でした。それがもうだめ。こんなこと、生れて初めてのことですわ」
「そうだろうね。昨夜からのこと、お互に、二二が四ではないようだね」
「ええ、もう、五になったり、九になったり。むちゃくちゃ。私をこんなにしてしまって、憎らしい人。なんて、いい方」
 素子は頬を寄せてきた。その頬に、悌吉は頬をずらして、口づけした。
 
 
 その後、素子は土曜日になっても来なかった。その翌日の日曜日、悌吉は路子と治を連れて、素子を訪ねてみることにした。それほど素子のことが心配になったというより、何となく、郊外のあたりを歩いてみたくもなったのだ。
 いくつかの鉄橋を越えると、あたりは秋の郊外の風景だった。いつか空は曇り、風の中に、|芒《すすき》の穂が乱れていた。子供たちは窓に顔を寄せ、目を放とうともしなかった。遠く来た思いのようでもあった。
 Aで降りると、悌吉は道を尋ね尋ね歩いて行った。
「おばさんてお元気ね。毎日、こんな遠くから通っていらっしやるの」
「そうだね。毎日、大へんだろうね」
「何だか降りそうですね。おばさん、お留守だったら、弱るな」
「そしたら、弱るね」
 しかし悌吉はやはり|緩《ゆる》い歩度で歩いていた。何となく留守のように思われた。が、悌吉は、こんな所を歩いている自分が、いかにも不思議なようで、留守の方が自然なようにも思われるのだった。
 以前、工員の寄宿舎だったという、それらしい一棟の建物が目に入った。
「あれだね。きっと」
 悌吉は子供らを連れて、その中に入り、一つ一つ名札を見て歩いた。すぐ「佐野」とだけの、木の名札が見つかった。彼はそっと扉を開けた。
 後向きに、一人の女が食事をしているところだった。
その無造作な服装のゆえか、何だか女の大学生とでもいった感じで、一瞬、いかにも戸迷った悌吉は、路子の方を振り返った。路子も怪訝そうな顔を見上げている。が、目が馴れると、やはり素子だった。素子はまだ気づかぬらしく、無心に箸を動かしている。その素子の後姿に、秋の日、女ひとりの暮し方が染み入るように感じられた。
「素子さん、出てきた」
「あら、先生、いらっしゃってくださったの」
「ちょっと、来たくなって」
「路子さんも、治ちゃんも、よくいらっしゃったわね。朝から、すっかりお洗濯して、やっと食事してましたの」
 窓の外には、大きな|楠《くす》の枝に|竿《さお》を渡し、それに掛けた洗濯物が、濡れ布の音を立てて、はためいていた。
「住宅、アプレゲールでして」
 押入れがないので、蒲団は積み上げて、その上を毛布で|覆《おお》うてあった。しかし素子らしく、室内は綺麗に整頓されていた。素子は子供たちには砂糖をたくさん入れて、紅茶を進めたりした。
「弟からの便りでは、蔵王にはもう雪が来たようですわ」
「そう、もう十月だからね」
「斎藤先生の歌ですの。『秋ぐもは北へうごきぬ蔵王より幾なだりたる青高原に』 結城先生の蔵王の歌はたくさんあります。 『ひむがしの蔵王の山にかたまれる夕焼雲は動かざりけり』私、好きです」
「蔵王はいいだろうね。来年は、いっしょに行こうね」
「ええ、行きましょう。先生、こんな歌、御存じ。 『最上川のぼればくだる稲舟のいなにはあらずこの月ばかり』」
「万葉かな」
「万葉のようですけど、古今ですの。エロね」
「エロといっても、とても健康なエロね。いかにも最上乙女といった感じね」
「最上川を歌ったのもたくさんありますわね」
「第一、そら、さらさらとさざら波……」
「あら、いやな先生」
「夕月が光って、釣る人が二人かえるよ」
「まあ、覚えていてくださるの」
 風が強くなったらしく、楠の枝が窓ガラスの中で激しく揺れていた。どうやら雨が来るらしかった。空の暗さも増した。
「ちょっと出てまいります。路子さんも、治さんも、すぐお昼にしますからね。しばらく待っててね」
 素子の末の弟が残して行ったという」アコーディオンを取りだして、子供らはさっきから|喧《やかま》しい音を立てたり、その番を争ったりしていた。
「どうだい、どうだい、お姉さん」
「ぎんの、さばくを、はあるばると……」
 どうやら歌の調子になって行くようだった。悌吉は見るともなく、雑誌の頁を繰っていた。
「あっ、雨よ」
 路子が立ち上って、窓を開けた。風が激しく吹きこんでき、その風の中に、大粒の雨が吹き散っていた。悌吉は急いで洗濯物を竿ごと部屋の中に取り入れた。毛糸などもいくつもの輪にして乾してあった。それを路子と治とが、騒がしく中に入れた。
 洗濯物はまだ濡れていたので、そのまま部屋の中に、斜に掛けた。しかし下着類なども真白く洗われていて、いかにも素子らしく清らかだった。
「おばさん、傘持っていらっしゃったかしら」
「そうだね」
 雨は激しく降ってきた。が、素子はそこへ帰ってきた。
「ありがとう。入れてくださったのね」
 素子は下着類だけを素早く取り外すと、竿を部屋の横隅に掛けなおした。
 食後、白い洋服の上衣にアイロンをかけている素子の、よく動く手を、悌吉はぼんやり眺めていた。雨はまだ強く斜に降っている。治の鳴らし続けるアコーディオンの音が、かえって単調に響いている。
「路子さん、上衣にアイロンかけましょう。ちょっとお脱ぎになって、これお召しなさい。これさしあげますわ」
 草色の毛糸で編んだ、網目のジャケツだった。路子は微笑して、それを着た。
「とっても、よく似合うじゃない」
「似合いますわね」
「いいなあ、いいなあ、お姉さん」
「治ちゃんには、この毛糸で冬のジャケツを編んであげます」
 素子はますのすにひどく力を入れて言い、すぐ笑いだした。
「そりゃ、すばらしい。太い毛糸だね。暖いだろうね」
「これ、山形の家で、取りましたのよ」
「そう、これをね。|緬羊《めんよう》まで飼ってるの」
「私、戦争中、こういう物に困るだろうと思って、緬羊を二匹、買いましてね、母に頼んで飼ってもらいましたの。そして、今年は弟の番、来年は私の番、その次ぎの年は妹の番、というように決めましたの。今年は三度目の私の番ですの」
「えらし、姉ちゃん、ひどく頭がいい」
「私、いつでもそういう風にしますの。弟が田を買うので、お金を借りた時は、アンゴラでした。兎はすぐ殖えるでしょ。すぐ大きくなるでしょ。それを売っては、年年お金返しました。するとお給料に関係がないから、暗くならないでしょ。明るいでしょ。それに第一、確実でしょう。妹の結婚費は豚公」
「感心した。これだけは、すっかりお素さんに感心した」
「ほんとに、これだけは、ですわね」
 素子は|嬉《うれ》しそうに笑った。
 雨はしだいに小降りになり、ようやく|熄《や》んだ。時計は四時に近かった。
「幸い雨も上った。そろそろ帰るとしようね」
「そう、では、私、お送りしますわ。ちょっとお待ちくださいね」
 素子は机の上に鏡を立てて、顔を直した。風が残りの雨を散らしながら、窓を鴨らして行った。素子は風呂敷包みと、勤めの鞄を持って、悌吉の前に立った。
「お待たせしました。路子さん、これ一つ、持ってね」
「じゃ、駅まで送ってもらおうかな」
「いえ、お宅までお送りしますわ。こんな所まで来てくださったのですもの」
「そう、家まで送ってくれるの。ありがとう」
 外は雨が|霽《は》れて、秋冷の気が一段と深かった。路上には、街路樹のプラタヌスの葉が散り敷いていた。しかし、悌吉は喜びが、微笑となって溢れでるのを、どうしようもなかった。
 電車を降りると、日はもうすっかり暮れていた。悌吉と素子は、途中夕食の買い物などして、帰って行った。子供らは手を取り合って、先の方を歩いて行く。自家の前の小路の方へ曲ろうとした時、素子はすっと寄り添ってきて言った。
「先生、私、最上川なの。そんな予定じゃなかったのですけれど。二日ばかり早かったのです。ごめんなさいね」
「そんなこと、いいとも、いいとも」
 悌吉は素子の手を両手に包んで、強く握り締めた。
 悌吉はたわいなく嬉しかった。というより、何かへ感謝したい気持でいっぱいだった。心の中に、絶えず|麗《うらら》かな陽が当っているようで、この世にも、こんな一刻があ
95最上川
ったかと、静かな酔いの廻って行くのに任せていた。
 初めて和服を着た素子が、彼のそばに坐っているのだ。悌吉はそんな素子の姿を見まいとしても、自然に目が走り、笑うまいとしても、勝手に微笑がこぼれでた。
「嬉しそうですね」
「ほんと、父さん、うちょうてん」
「おごつてもらいましょう」
 |科白《せりふ》めいた言い方で、三郎が言った。
「その調子、その調子レ
 子供たちは賑《にぎや》かに囃《はや》したてた。素子は半ば艶かしく、子供たちに対しては、半ば|慎《つつ》しみ深い表情で坐っていた。
 子供たちが去ってから、素子は言った。
「そんなに喜んでいただいて、私、嬉しいですわ。けれど、私、先生に喜んでいただきたいばかりで、和服着たのではございませんの。私、社ではてきぱきと仕事して、その代りここへ帰りましたら、先生の妻としての気持になりきりたいと思いまして。これから、いつも着物着ますわ」
「ありがとう。生けるしるしあり、ね」
 と、悌吉は素子の耳に|囁《ささや》くのだった。
 

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