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外村繁「鵜の物語」

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amizako

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 鵜の物語

 
 
 大都会の停車場にはいつもその沿線の村々や、小さな町々から吹き送られてきたような希望に充ちた顔々が、不意に大都会のまっただ中に投げだされて嵐のような渦を|捲起《まきおこ》しているものだ。また反対に都会の哀愁に|彩《いろど》られたさながら|魂《たましい》の抜けてしまったような顔々が、それらの村や町へ送り還されんがために、静かに揺ぎ、あるいは|屯《たむろ》しているものだ。そうしてそれは人々の心に懐郷的な感傷と、|頽廃的《たいはいてき》な絶望とをかき起こさせるものなのだ。が、そうしたうら悲しい遽《あわただ》しさにとり憑《つ》かれている旅人たちとは一見して異る人々が、たとえば上野駅で、夜の十時三十分青森行急行列車の発車前などになると|駿馬《しゆんめ》のようにしゃんしゃんと乗りこんでくるのを見ることができる。彼らは皆お洒落《しやれ》で敏捷《びんしよう》で快活である。真白のカラーか、あるいはおろしたての白|足袋《たび》で、手には決ってその時々流行の鞄を提げている。彼らは停車場に乗りこむやまったく馴れきった手つきで所要の事務を処理して行く。たとえばまず切符を、それも上野より青森赤羽池袋経由大阪行とか、何々線乗換何々駅間往復とかいういたって複雑な切符を、二言三言駅員と談笑している間に、手品師のような素早さで手にしてしまうのだ。切符を手にすると彼らはさっさと売店に急ぎ、四五枚の夕刊と、好み好みの煙草とを買い求める。彼らはこの列車の食堂には敷島きり売っていないことを知っていたし、バットはあの色白のっぽのボーイがしこたま仕込んでおくのだが、それを求めるとなると、どうしてもチップなしではすまされないことも知っていた。あののっぽはけっして七銭のバット代は受取らないが、チップとなるとまた別である。だから彼らは、たとえ|馴染《なじみ》の女給と半時間の別れを惜んでいたがために発車前ぎりぎりに駆けつけたとしても、切符を買うとすぐあののっぽの姿を思いだし、売店へ走らねばならないのだった。彼ら、強烈なニコチン中毒者はこの大切な仕入れを終ると、|悠然《ゆうぜん》と入口の方へ引返して行く。するとそこへ機械のような正確さで、今自転車で乗り着けたばかりの小僧が|縞《しま》の風呂敷か、あるいはズックの大きな見本包を担いでやってくるのだ。彼らはそれをまた不思議なほど素速く見つけだし、さっと合図をすると、小僧はまるでラグビー選手のような勢で手荷物係の所へ走りこむのだ。そうしてそこでも彼らは落着き払って、それがためまた巧みな速さで、商品見本にして出してしまう。この洒落者にはおよそ不似合な大荷物には手も触れないで。それが終ると、小僧たちはちょうど桟橋を離れて行く小船のように無表情にさっさと帰って行ってしまう。するとそこで初めて彼らは煙草に火をつけ、静かにあたりの情景を見廻すのだった。が、それまでの行動はきわめて敏捷で、正確で、そうして石のように無表情に行われた。そこには初めて見る大都会の繁華と|雑鬧《ざつとう》と冷酷さに|震《ふる》えている小娘の心があろうと、生計の道を失ってまたあの疲れきった故郷へ帰って行かなければならない敗残者の心があろうと、あるいはまた酔払いや狂人がどんなおもしろいことをおっ初めていようと、また闇をつき裂いて急を告げるどんな恐しい警笛が鳴り響いていようと、彼らはそれを|視《み》もせず、聴きもせず、そうして感じもしなかった。彼らはちょうど競走馬のように重大な任務を帯びてい、またそれを十分果せるようによく調練されていた。彼らは各問屋の出張員である。日本橋あたりの呉服、洋反物、雑貨、薬品などの問屋から、あるいは浅草、神田あたりの|玩具《がんぐ》や既成品などの問屋から、東北、北海道、信越の各地へ派遣される出張員たちなのだ。
 第一線に立つ彼ら出張員たちは、もちろん勝れた売手でなければならない。快活で、敏捷で、そうして第一満満たる闘志がなければならない。彼らの血管の中には、昔天秤棒一つ担いで野を越え山を越えて売り歩いた祖先の血が今もなお脈々と流れているのだ。
「山一さん。もしこの|峠《とうげ》が一つごわせんけりゃ、信州廻りもわるごせんがのう」と言った同行の同業者に、「なんの。わしゃまたこんな峠がもう一つ二つもありゃええと思っとりますじゃ。そしたらあんさんもようお出でやごせんから、わしゃ一人で思う存分ぼろ口行けますからのう」と答えた、|木綿《もめん》問屋山一の先々代の物語は今もなお彼らのつねに聴かされる教訓の一つだった。今はその峠にも汽車が通じてい、一瞬のうちに過ぎ去ることができるのだがふそれがためにこそ彼らはなおいっそう|世智辛《せちがら》い闘争を行わなければならなかった。「カワセタカワタヤスメンシ××エン」そんな下げ相場の電報を受け取ろうものなら、彼らは一刻も早く、まだ他店の相場が知られていない問に|先占《さきじめ》の利を占めんものと、あらゆる交通機関を利用して|飛蝗《ばつた》のように飛び廻らなければならなかった。だから彼らは今何時何分には何号列車はどこを走っているかということも、某市から某町へ行く乗合自動車の終発は何時何分だということも、何屋の親爺は朝寝坊だから何時にならなければ店に出ないということも、皆手に取るように知っているのだった。
 彼らはまた|示威《じい》と宣伝と儀礼とを兼ねたよき外交官でなければならなかった。だから、彼らは皆お洒落で、派手で、|剽軽者揃《ひようきんものぞろ》いであった。宿は一等旅館で、金は湯水のようにぱっぱと使うように見せていなければならない。がそれでいて、彼らの給料は二十円ぐらいから高くて百円がせいぜいだった。だから店に対しては忠実な、得意先に向かっては巧妙な集金人でもなければならない彼らと、店との間にはあらゆる|智慧《ちえ》比べがいつも繰返されていた。
 貴店帳尻上記のごとく相なりおり候や御手数ながら御返事煩わしたく――こうした手紙が時々抜打ちに八方に飛ぶ。集金証、指定旅館宿泊証、翌日行動予定報告書等等、彼ら出張員はまるで|金縛《かなしば》りに縛られたようにまったく手も足も出ないはずであるのに、彼らは平気でのこのことカッフェへも行けば、土地の芸者と浮名を流すものさえもずいぶんとあるのだ。昨晩の酒代を昼飯を抜いたり、宿屋の番頭や女中のチップをちょろまかして埋めている間はほんの駆出しで、大店《おおだな》の帳場を酒と女で鰌《どじよう》にしたり、支払の悪い店の大将の顔を|舐《な》めるくらいは朝飯前である。だから専務や支配人は時々重い尻を上げて、視察に名を|藉《か》り不得手な|素人《しろうと》探偵になりすまさなければならなかった。赤字に次ぐ赤字の今日このごろ、社長や店主の必死の眼はますます鋭く彼らの上に投げられている。が一方彼らの敏捷を誇る腕は、無賞与や出張手当の減額などに|磨《みが》かれて、手品師のように鮮かさを増して行くのだった。
 が彼らは行かねばならない。万を数える彼ら出張員たちは雨が降っても風が吹いても、全国の|津々浦々《つつうらうら》を、|樺太《からふと》や満鮮の果までも、野を越え山を越え毎日毎日渡り歩いているのだ。一年じゅう、町から町へ、一日として落着いたこともない彼らの心は故郷を忘れ、家庭を忘れ、やがて自分をも忘れはてているのだった。名もない|田舎《いなか》の停車場で、汽車を待つ間、ふと秋の斜陽に浮んだ自分の影法師をいかに多くの彼らがしみじみと見入ったことか。が、それは一瞬の夢にすぎないのだ。朝はどこかの若大将の前で軽妙な軽口をたたきながら、御機嫌とりどり|算盤《そろばん》の玉を弾き上げていたかと思うと、夕方には金払いの悪い親爺の前で腕さえ捲くらんばかりの勢で詰寄りながら、なんとかしてお|嬶《かか》の|臍繰《へそくり》金でも取り上げてやろうと|企《たくら》んでいる彼らだった。
 しかし最近こうした酒と女と算盤の他は、煙草と冗談でふふんとばかり世の中を|嘲笑《あざわら》っていた彼らの中でも、自分たち出張員のことを「鵜」と呼ぶようになった。そうして「鵜の会」という集りさえできるようになった。「鵜」という名前の名づけ親は、東京のあの有名な鳩メリヤス株式会社の東北出張員岩田富蔵君であり、「鵜の会」の設立者は、洋反物商株式会社梶万商店東京店の東北出張員杉野市郎君であった。が、私がここで物語ろうとするのは、「鵜の会」とはどんな会で、なぜそうした結合が彼らの問に起ったかというのではなく、ただ杉野
君を主人公とする一篇の鵜の――すなわち出張員の物語である。
 
 十一月の東北はもう冬だ。一団の黒い雲が北の空を雲脚速く流れていた。樹々の|梢《こずえ》は雪を呼んで|戦《おのの》き、枯草は白い穂を波頭のように揺りながらざわざわと立騒いでいた。初めての出張に出た杉野市郎君はいつも汽車の窓に顔を寄せ、じっと外の風光を眺めていた。関西地方と違って、何の変化もないただ|寞《ばくばく》々とした東北の冬の野には何か身に迫る|荒寥《こうりよう》さがあった。杉野君はごとごと、ごとごとと汽車に揺られながら、どこか遠い国へ一人ぽっちに置き去られに行くような心細さを感じるのだった。
 |筑紫《つくし》のきわみ、|陸奥《むつ》のおく……
 ふと、螢の光の一節を思いだし、自分が今こんな所でこんなことを思っていようとは、田舎の母も兄も妹もゆめにも知らないであろう。人の運命というものはどこでどう変るものか。若い杉野君は初めて|嶮《けわ》しい人生の行路を|仰《あお》ぎ見るような激しい感情に襲われた。が、こうしたいろいろの感傷が、それは初めて旅に出たまだ二十歳にもならぬ杉野君にはむりからぬことであったが、それが今度の出張の非常な不成績の主な原因なのであった。
 杉野君は仙台の林呉服店の仕入方の前で、他店の出張員たちの白い眼を感じながら、緊張して初めて見本の風呂敷包を開いたのであった。
「この辺いけると思いますが」
「これがかい、梶万。あほ言うない。こんな二番手や三番手の古見本持ってきやがって。仙台や思てあんまり|舐《な》めたことしやがると承知せんで」
 関西出のこの仕入方は真向からその有名な毒舌を振るった。軽く受け流せばいいのだ。そう思いながら、なぜか若い杉野君の口は|硬《かた》く強張って、かえって思わぬことを言ってしまった。
「そ、そんなことありません。まったく新柄でして」
「シンガラ。ほれ何言うてんね。人をあほにすな。ほんまに。おい君ら、これが梶万さんの新柄やて。後学のために拝んどきなはれ」と言うと、その仕入方は荒々しくモスの見本を他店の出張員の前に投げだした。杉野君の眼に金魚の柄が赤かった。
 それ以来盛岡でも|八戸《はちのへ》でも、どこでも話にならぬ不成績であった。八戸の角甚呉服店では鳩メリヤスの岩田という、まるで寄席の万歳にでも出てきそうな、見るから歯の浮くような身なりをした、それでいていたって気心のよさそうな剽軽者の|口添《くちぞ》えでちょっと|纒《まとま》った商談ができたものの、値段は元値に近かった。
「|大抜擢《だいばつてき》やでな。ひとつうんと気張ってくれんとあかんで。ほら齢が齢やで難しかろ。けどやそこが一心や。できんことはないと思うて一心にやれぱ何でもやれる。齢が齢やでできんこともできる。断じて成績を|堕《おと》さんように気張ってもらいたいのや」
 支配人の山本さんから、|費込《つかいこ》みをして店を出された藤田の謙どんの後をやれと言われた時の驚きと喜び、新調の洋服のできてきた時の朋輩たちの|羨《うらや》ましそうな眼、上野駅を立つ時の胸の|慄《ふる》えるような意気込みーそれやこれやを思うにつけ、すっかり山本さんの期待を裏切った|不甲斐《ふがい》ない自分の姿をしみじみと感じながら、幾日、暮れはてた東北の町々を重い荷物を抱えてとぼとぼ宿屋へ|辿《たど》り着いたことか。そうしてそこでもまた情ない報告を毎夜毎夜書かなければならなかった。
 青森でも、ことにここには小さいながら二三の問屋もあるので相当の大口註文が取れるはずだったのにやはりだめであった。|弾《はじ》く算盤にどうしたものか心が乗らなかった。が、杉野君はあの|林檎《りんご》売りの並んだ青森の街を、ようやく本調子になってきた東北の寒さを背に感じながら歩いていると、何かほっとした幸福感が湧いてくるのだった。
「もう明日一日だ」と杉野君はほっとした喜びを、そう|呟《つぶや》いた。
 
二 
 
 田舎である。そのままの風景である。武右衛門水車のまだ水上のあの|藪《やぶ》の下で、手網を提げて|雑魚《ざこ》を捕っているのだった。|碧《あお》く|澱《よど》んだ水の中には|川楊《かわやなぎ》の根が白かった。地層のある|坡《つつみ》の上から、竹が重なり合い|叢《むらが》り合って、川を|覆《おお》うように垂下っていた。竹の葉はじっと昼の陽に|翡翠《ひすい》の色に静まっているかと思うと、やがてきらきらと輝いて金色の光が雨のように水面に降り注いだ。ちょうど川の|曲《まが》り角なので、その反対の側には、白い小砂の上をだんだんに浅くなった流れがぴちぴちと跳ねていた。遠く水車の音が時々人の心を意識の外に誘いこむようであった。と、不意に息の詰まるようなものを見た。幾百匹とも知れぬみごとな金魚が真紅の|鱗《うろこ》を花のように輝かせながら、あの屯の静かな姿でゆらゆらと|游《およ》いでいるのだった。豪華な友禅の模様だった。思わず戦《おのの》く手で手網を取った……
 杉野君ははっと眼を覚ました。反射的に枕元の腕時計を見るとまだ六時前であった。あたりはまだ暗く、階下でも何の物音もしなかった。ほっとした杉野君の頭はまたうつうつと夢の跡を|辿《たど》っていた。
 杉野君は父を知らない。母一人の手で兄妹三人が育てられてきたのであった。だから彼の家はもとより非常に貧しかった。子供の時分、彼は|雑魚《ざこ》取りではけっして友だち仲間に負けなかった。池にはいつも鯉《こい》や鮒《ふな》や鮠《はや》などが游いでいた。が、金魚だけはどうしても手にすることができなかった。あの紅い艶かな、まるで玩具のような美しい金魚。子供心によほどそれが欲しかったのであろう。杉野君は東京へ|丁稚《でつち》に来てからも、たくさんの金魚が游いでいたり、それを夢中で搬い上げている夢をよく見ることがあった。
 また|暢気《のんき》な夢を見ていたーと彼は思った。すると昨日来のことが、こうしてここに寝ていることまでが、何か夢のように思われてくるのであった。
 昨日は朝から非常な寒気だった。本線を捨て、玩具のような軽便鉄道に乗ったころから、杉野君はただならぬ雲の気配を感じていた。その辺は一目、ただ一面の林檎畑で、汽車の窓からでも手に取れるばかりの所に、みごとな林檎が花のように赤く熟していた。さらさらと不意に灰のようなものが窓に当った。杉野君が思わず眼を上げると、いつの間にかあたりは一面灰色の雲に|覆《おお》いつくされ、空から雪というより灰のような粉が、おりからの|木枯《こがらし》に吹き捲くられ、躍るがごとく跳ねるがごとく舞散りながら降りてくるところだった。彼はこの壮絶な風景に思わず心を奪われ、じっと眺め入っていた。汽車はみるみる白一色に塗りつぶされて行く|曠野《こうや》の中を、泣くような汽笛を鳴らしながらがたがたと走り続けた。
 G町に着いたころはもう一尺先も見えぬ|吹雪《ふぶき》であった。鈴をつけた馬、がたがたの箱馬車、雪止めの新しい|筵《むしろ》、そんなものが雑然と並んでいる駅前で、杉野君は呆然と立ちつくしてしまった。土地の人々は自然に柔順な人たちのみの持つ|敬虔《けいけん》さで、ただ黙々と動いていた。
 杉野君はまるで吹雪に吹きこまれた人間のように、近江呉服店へ|転《ころ》がりこんだ。店には誰もいず、黒々と古風にくすんだ店構がしんと静まり返っていた。|囲炉裡《いろり》に火が赤々と燃え、鉄瓶からは白い湯気が暖そうに立っていた。杉野君は雪を払いながら、何かほっと|安堵《あんど》した気持になって行った。ふと顔を上げると、奥の帳場に一人の少女が手に雑誌を持ったままこちらを向いて頬笑んでいた。|笑靨《えくぼ》が白い花のように美しかった。
「あの、菓京の梶万でございますが」
 杉野君ははっとしてお|辞儀《じぎ》をした。少女も学校でするように|丁寧《ていねい》に頭を下げると、そのままばたばた奥の方ヘ走って行った。|裾《すそ》の短い着物の下にすっくりと伸びた白い脚、そうしておさげ《、、、》に結んだ赤いりぼんが、蝶々のように奥へ飛んで行った後を、杉野君は夢のようにじっと見送っていた。
「ほうほう。それははあ」
 そこへ主人がそう言いながら、煙草盆を提げて出てきた。
「ひどい雪ではあ。さあ寒い時は火の側が一番す」と、炉辺に坐りながら、|煙管《きせる》で煙草を吸うのだった。杉野君も|挨拶《あいさつ》をして坐った。
「こうぞ、こうぞ」
 主人は突然大声で小僧を呼び、
「|座蒲団《ざぶとん》こさ持ってこ」と命じるのだった。杉野君は囲炉裡に心持ち手をさしだしながら、瞼のなぜか熱くなるのを覚えた。
「ここへは初めてだべ。この雪こはあ驚きなすっただべのう」
「何もかも初めてでして」
 杉野君はまるで訴えるように、種々の思いを|籠《こ》めてそう言った。
「ほうほう。よく来なすった」
 そこへ先刻の少女がにこにこ笑いながら、お茶を持ってきた。
「これが娘っこではあ、道ちゃ、お辞儀はあしなすったべのう」
 少女はくくっと笑ったまま、またぱたぱたと奥へ走って行ってしまった。白い額、黒々としたつぶらな瞳、そうしてまた白い花のような笑靨だった。杉野君は自分までが何かにこにこと今は心楽しかった。
「ひとつうんとやってください」と元気よく言い、例のようにまずモスの見本を開いた。
「ほう。この朱ははあよくできたっす」
 主人は見本を手にすると、いきなりさも感じ入ったように|呟《つぶや》いた。杉野君ははっとした。そうだった。今まで何をしていたのだ! 杉野君は初めてそう思った。
 梶万商店の冬物第三回新柄発表会の当日は店じゅう浮き浮きしていた。大将が大阪から来ているのに、まるで破れるような笑声や、|呶鳴《どな》り声でいっぱいだった。ことにモスの評判はたいしたものであった。日ごろ鬼のように言われているあるデパートの仕入主任まで、「朱だよ。要するに朱の勝利か」と言って、大声で笑ったではなかったか。
 ――商品は我が子のごとく思え。出来がよかったといって可愛がり、悪かったといって可愛がれ、人前でことさらに誇らず、卑下せず、抱きしめるがごとき心にて愛せよ――
 杉野君はこうした商人の格言を今まですっかり忘れていた。否、彼は今まで商人であることさえも、しばしば忘れていたのではあったが。
 モスは着尺だけで百反も買ってくれた。|綿《めん》モスは三百反近くもできた。不二絹、その他無地物も相当の手合せができた。金も|限《き》りまで全部くれた。そればかりではない。自家の畑で獲れた林檎だ。さあいかほどでも喰べろ。これは雪の下というのだ。これは酸味が強い。これは満紅だ。さあさあ、とまるで遠くから帰ってきた吾が子のように饗してくれるのだった。
「ありがとう。この御恩は一生忘れません」
 杉野君は心の中で両手をついて、堅く心に誓うのであった。
 丸甲呉服店秀寺島商店も上々の|首尾《しゆび》だった。杉野君は雪の止んだGの街を見本包を肩にして、身も心も軽々と歩いていた。灰色の空に一連の青空が水のように淡く流れていた。数羽の烏が|翩翻《へんぼん》と飛交っていた。風に向かって立上ったような姿で|撥々《はつはつ》と羽を動かしていたかと思うと、くるりと身を|翻《ひるがえ》し、矢のようにどこかへ流れて行くのだった。ぼっと街に灯が入った。杉野君は不意に白い花のような少女の笑顔を思いだした。
 店には外売から帰った番頭や小僧たちが列んでいた。
「先刻はどうもいろいろとありがとうございました。おかげさまですっかり用ずみになりましたので、明日の急行で帰らしていただきますから」
 杉野君は近江呉服店へ挨拶だけのつもりで立寄った。がそのままたって薦められるままに夕食の御馳走になり、いつの間にかつい時間を過してしまい、宿などむだだから、と言われとうとう思いも寄らぬ所で一夜の夢を結んだのであった……
 襖《ふすま》がちょっと開いた。昨夜の白い笑靨《えくぼ》が、今朝も花のように笑っていた。
「お早うございます」
 みっちゃんはそう言うと、そのままぱたぱたと梯子段を降りて行った。
「やはり夢ではなかったのだ」
 新鮮な朝の光のようなみっちゃんの笑顔を思いながら、杉野君は思わずそう呟いた。
 みっちゃんと小僧さんとに送られて、杉野君はG町の停車場へ着いた。改札が始まると、人々はぞろぞろと線路を渡り、形ばかりのプラットフォームに並んだ。灰色の空からは今にも白いものがさらさらと舞い降りそうであった。今日も明日も、これからは毎日こんな天気が続くことであろう。ポーポーと|喇叭《らつば》のような汽笛を鳴らしながら汽車が入ってきた。暖炉の煙突が天井に抜けている、小さな汽車に乗ると、杉野君は窓から首を出して、「ありがとう。ありがとう。……ありがと、ありがと」と口に出して言い、あるいは心の中で言い続けた。汽車が動きだした。みっちゃんは小僧さんと並んで、両手をきちんと垂れ、まじめな顔で丁寧に敬礼をした。そうして突然大きな声で言った。
「またすぐこらっしえっ!」
 みっちゃんは手に持っていた赤い首巻を、嬉しいような、羞しいような|頽《くず》れる笑顔にぱっぱっと叩きつけながら、くるくると打振り続けているのだった。杉野君はいつまでもいつまでも窓から首を出していた。
 
 
 それから、二年経ち、三年経った。さしもの欧洲大戦も終り、各地に平和克復のお祭騒ぎが続いていた。日本橋の問屋もうち続く好景気に、湧きたち返り、無我夢中の人気だった。街々には荷物を満載した車が、揉み合い、ひしめき合い、重なり合って、一町先も見透せないありさまであった。あちらでもこちらでも|喧《やかま》しい口争いが絶えなかった。
 ――あの娘と添《そ》わなきゃ裟婆《しやば》に出た甲斐《かい》がない。アラセノコラセノドッコイションヨ……「丸通! おい。この荷物もや」
 ある日横山町の鳩メリヤスの本舗岸山兄弟商会の店頭では、東北出張員の岩田富蔵鴦がワイシャツ一つの|凛々《りり》しい姿で呶鳴っていた。
「もうだめだぜ。積めやしねいから」
「頼む。たった五箇でええのや。頼むで」
「だめだぜ。だめだと言ったら。ほら見てみねい。もう一箇だって積めやしねい」
「ほんならまけとけ。一箇でよい。こいつや。拝むわ。な、ほしたら今晩おでんでな。一杯と」
 岩田君は拝んでいた手を離して、一杯呑む恰好をしてみせた。
「しようがねいな。ホラマタモ一ツドッコイションヨ」
 すると向かいの内山商店の小僧が呶鳴った。
「丸通! 何やい。うちのはもう積めんと言うたやないかい。岩田はんこすいそ!」
 岩田君は取り合わず、呶鳴りまわしていた。
「孫! 吉公! 何してんのやい。丸本が通りよるやないかい。丸本! 丸本! そこを通るは丸本やないかと。送状や、判取や。出荷は何しとんのやい。あんな爺ぼたはあかん。伊藤のがしんたれ。ほれ見。内山はんとこ調子よう積んでやはるやないか」
「岩田はん。ほれ何しててくれるのや。横からきゅうに飛びだしてきて。そんな勝手してもうたら出荷係の統制が取れへん」
 いつの間にか出荷の伊藤爺さんが岩田君の前に立っていた。
「トウセイ。聞いて呆れらあ。南京米!」
「何が南京米や。まあそれはよろしい。君なんか|歯牙《しが》にかけてえへん。ただ出荷や。荷物が間違うたらいったいそれは誰の責任や。聞いてもらいましょ。森さんに聞いてもらいましょ」
「もうええ、もうええ。君にかかったら肩が凝る。あっちへ行け。ショイ! ショイ! や、ほんまに」
 伊藤爺さんがぶつぶつ言いながら、椅子に坐ると、「南京米も喰えぬと|嬶《かかあ》が言うた。ビンビンビンビン」と、岩田君は|琵琶《びわ》の口真似をしているのだった。そこへブローカーの山谷が入ってきた。
「こんちは。おや、岩田はんでっか。いつお帰りでした。えらい景気だんな」
「景気もへちまもあるかい」
「あこわ! 朝っぱらから何怒ってやはるんや」
「娘が通らへんが」
「ワッハッハッハッ。相変らずだんな」
「朝から腹ぼてばかりや」
「腹ぼて」
「あほたれ! 車の腹ぼてやがな」
「ああん、さよか。時にまた高うおまっせ。ぼろくそだ」
「高いのはきまってんがな。それよか品物あるかいな。品物が」
「おまへん」
「ほんならあかんがな」
「あきまへん」
「話にならん」
「へ。話になりまへん」
「また何言ってるのだい。岩田君車知らんか。車帰ったか」
 森支配人が、小林と西村を連れてどかどかと奥からやってきた。
「車、車ってどの車だんね」
「ほれ。汐留へ行った車だ」
「ほんならまだだんが。亀公の車だっしゃろ。ほんなら晩になりましゃろ。ほれどんなに亀が急いでも」
「あほ言うない。誰か見にやり。誰か繁でも吉でも。与助でも」
「そっちは爺さんにでも言うとくなはれ。それよりだんな、荷物の方はどうなりまんね。出荷の方はどうなりまんね。出荷の一月以上遅れてるのもおまっせ。そんなん地方行ったらぼろかすやん。だいたい赤筋が話にならん」
「赤筋て何や」
「ほら南京米には赤い筋おまっしゃろ」
「あほな、あんまり言うてやるなよ」
「何んでだ」
「真実に喰べとる、爺さん。だが、この米の値ではなあ。それにあの大家族やで」
「さよか。ほんまにやってまっか。ほんなら言わん。断じてもう言わん。断じて人道問題やでな、と。そこでだんが」
「そら君の言うことは判ってる。それでや。こうしたらどうだ。今からや、できた荷物はどんどん秋葉原なり両国なり|自家《うち》の手で運ぶのや。そして|直《じ》かにどんどん積みこむのや」
「名案、けだし名案だす」
「そのかわりや毎晩誰か夜通し番せんならん」
「よろしおます。おおいにやりま」
 岩田君はおおまじめで|頷《うなず》いた。
 その日の夕方、お人好しの岩田君は数台の荷車の先頭に立って、|提灯《ちようちん》を振り振りわめき散らしていた。
「岩田君。提灯、提灯。消さんとだめだ。よその奴に気づかれたら何にもならん」
 行を盛んにしていた森さんが呶鳴った。
「そや、そや」
 岩田君はおおぎょうにぶうぶうと頬を|膨《ふくら》ませた。皆はどっと噴きだした。
「岩田さん、討入りですか」
 通りかかった梶万商店の杉野君が声をかけた。杉野君は今では押しも押されもせぬ若手の優れた出張員になっていた。
「やっ杉野君か。じつはな、これは|内緒《ないしよ》やけどな、これから秋葉原で直か積みやろうと思てるのや。君とこでもやり。こうせんとあかんで」
「いや、だめですぜ。岩田さん。うちでも昨日やってみたんですが、向こうもいっぱいですぜ。火事場のような騒ぎでね。お|神酒《みき》まで出してる店もあるんですから」
「へーん。さよか」
「いつお出かけです。明後日。そうですか。じゃ私も追っかけます。では失礼」
 と言って、杉野君はさっさといってしまった。
「あかん」
 岩田君は、きゅうに力の抜けた様子で店先に坐りこんでしまった。皆は今までの恰好が恰好だけに、どっと笑った。
 あちらでもこちらでも毎日毎日こうした騒ぎが起っていた。極度の品不足、天井知らずの物価、買手より売手の方がお客さんである。あほでも|儲《もう》かるー景気だった。梶万商店も岸山兄弟商会も、どの店もどの店も福々の景気であった。が一方、 「ゴンと突きゃつらいね」という歌の文句以外に知らなかった、ストライキというような言葉があちこちの店頭で話されるようになった。
「ほらやりにくうおますわいな。この|反物《たんもの》やかて前は二円そこそこでんがな。それが今では十円出てまんが。二十円の給料が百円という訳合いだすよってな。ちょっとそうは行きまへんでな」
 そんな会話があちこちで話されていた。
 
 
 杉野君は青森の神原呉服店の主人の前に坐っていた。ここの主人はこの地方きっての大地主で、F銀行の頭取で、多額納税者ででもあった。まだ四十になるかならぬ年輩で、変に取りすました、我儘な威厳さを持っていた。小僧はもちろん、半白の番頭までが、出入のたびごとにいちいち手をついて挨拶をして行くのを、小うるさいといったように|顎《あご》で答えるのみだった。
「さがらないね」
 主人は困ったような顔つきで言ったが、心の中でに売りとしているのが見え透いていた。奥の倉庫には、|年貢《ねんく》米が|唸《うな》るほど入っているのだった。今度鉄道院は米価調節の目的から、米の輸送運賃を全然無賃にすることになった。が米価はびくともせず、かえって小固いほどの勢だった。
「鉄道院で無賃にしているかと思うと、政府で買うたりしてましてね」
「ほう。そんなことしてるんかね」
「この八月に|糧秣厰《りようまつしよう》で買ったんで、またぴんと戻ったんですから」
「よう。杉野君来てやはるんか。やっ。|今日《こんにち》は」
 突然、車夫に大きな見本|行李《こうり》を負わせ、にこにこしながら岩田君が入ってきた。
「毎度!」と言うと、もうあぐらをかいて、低い鼻からふうふう息を吐いていた。
「それに第一輸送力があるか、どうか、|怪《あや》しいと思うんですが。実際貨車の不足はひどいらしいんでして」
「貨車? 君貨物でっかいな。貨物なら上野にうんとおましたで。来るとき」
「岩田さん。よう言えますぜ。こないだの恰好どうでした。あの討入りみたいな」
「ああん。その貨物でっかいな。そんならおまへん。空いてる貨物なんて一台もおまへん。註文きいたて、荷が皆目出やしまへんが」
「そんなにひどいかね。それに今まで政府の対策なんて一度も効いたことがなかったからね」
「それについてですな。あてもコレにはよう言うときましてん」
「コレはん?」
 主人は例の重々しい調子で訊き正した。
「コレはんだ。是清はんだす。大蔵大臣のな。大将。あてこれでも日比谷公園でしししたことおますんやで、ししいうたてあんたおしっこやおまへんで。日比谷原頭あのほれほれししくそやおおいに|獅子吼《ししく》りましてん」
 主人はしかたなしに「また始めた」という顔で、思わず苦笑いしていた。杉野君は、「相互の時間経済のためここにては商談以外堅く御断り申しあげ候」と書いてある貼紙を眺めながら、なかなか笑いが止まらなかった。
 岩田君にとっては、どんな気難しい人も、|仏頂面《ぶつちようづら》も天狗面もへったくれもくそもあったものではなかった。ある店でこんなことがあった。岩田君はつかつかと上ってくると何にも言わず、いきなり高く積まれた商品の上に、犬のように顎を乗せたまま動かなかった。
「よう。奴来やがったな」
「買うて」
「おかしな奴だな。そこで何してるんだい」
「買うて」
「チェッ! また変なこと始めやがったな」
「買うて」
 それから、何を言っても買うて買うての一点張りだった。
「うるさい奴だなア。買うよ。買ってやるからこっちへ来いよ」
「舌出してみ」
「ばか」
「二枚舌やったら、またしまっせ」
 と、言いながら、のこのこ出てくる|恰好《かつこう》が|曾我廼家《そがのや》そづくりだつた。
 汽車の中で真実に、「失礼ですが次の御興行はどちらで」と、|尋《たず》ねられたことさえあったという――杉野君はそんなことを思いだしながら、岩田君の恰好を笑いながら見ていた。岩田君は時色のメリヤスの股引を高く捧げながら、「番頭はん。次は|子中《コチユー》(子供の中型)だっせ。しっかり調べてや」と、にこにこしながら呶鳴っていた。
 二人がいっしょに神原呉服店を出ると、岩田君はきゅうにそわそわしだした。
「岩田さん。どうかしたの」
「うん。田村の奴先手喰わしてけつかるらしいねん。今晩は泊ってられん。|弘前《ひろさき》までのして、ちょいちょいとやって明日の急行で秋田まで走りまっさ」
「そう時間はだいじょうぶ」
「三十分ほどおま。今晩久しぶりやで、浅虫ででも一杯やろと思てたのに。ほんなら失敬。また会いまひょ」
 大きな荷物を担いで小走りに走って行く太った岩田君の背に初秋の夕陽が|赫《あかあか》々と照っていた。それをじっと見送っていると、杉野君はふと、心の隅に何か陰げるようなものを感じた。が、「明日はG町だ」と思うと、込み上げてくる嬉しさをどうすることもできなかった。杉野君の鞄の中には、みっちゃんへの|土産物《みやげもの》がいろいろと入っているのだった。
 |夾竹桃《きようちくとう》の|褪《あ》せた薄桃色の花が散り敷いていた。花のなくなった枝が、さわさわと秋風に揺れていた。葉裏に、いくつも嬋の|抜殻《ぬけがら》が残っているのが見える。どこから
か、木犀《もくせい》の馨《かぐわ》しい香りが流れてきた。大空に津軽富士がくっきりと晴れわたり、頂に|〓《も》ぎ捨てたような浮雲が一つ、ふんわりと浮いていた。杉野君はあの浮雲のような、|無邪気《むじやき》な幸福感に浸っていた。
「杉野さん、ずっるい。そーんなに高くして」
 みっちゃんの|訛《なま》りのある声が、かえって甘く杉野意の耳に感じられた。
 ピタピタピタと走ってきて、ピョンと軽く|裾《すそ》を押えながら飛び上った。あっと思った瞬間、みっちゃんは地面に倒れていた。杉野君は思わず走り寄った。みっちゃんは美しく笑っていた。片一方の紐を結んだ|楓《かえで》の枝が、静かに大きく揺れていた。
 泥にまみれた膝小僧から赤黒い血が滲んでいた。
「おおつんめたい」
 みっちゃんは華かに笑いながら、水を掛けた。白いくるくるした膝小僧が現われ、赤い血がじみっと湧いてでた。
 夕方、林檎畑の見廻りに出た近江さんの伴をしての|帰途《きと》だった。借着の|浴衣《ゆかた》では、寒いくらいの夜気の中を、尻からげをした近江さんと並んで、杉野君はすたすたとする自分の足音に聴入りながら、黙々と歩いた。降るような虫の音だ。
「杉野さん。わすもはアこのごろは|伜《せがれ》のことはすっかり思わなくなったっす」
 ぽつんと近江さんが言った。近江さんの長男は、数年前家を飛びだしたまま、いまだに消息がはっきり判らなかった。東京にいるらしいこと、そうして新聞社か何かそんなところにいるらしいという、そんな噂を杉野君も聞いていた。が、なぜ今時分こんなことを、近江さんが書いだしたか、杉野君には判らなかった。紫紺の綿のような夜空には、冴返った星が象眼のように散り敷いていた。その下に、津軽富士の母の寝姿のような気高い姿が静かに浮上っていた。近江さんも、それっきり何も言わず、杉野君もただ黙って歩いていた。ピタピタスタスタピタピタスタスタ……。ただ、二つの足音だけだった。
 夕空晴れて秋風吹き、月影落ちて鈴虫啼く…… 振り返ると、みっちゃんの笑顔が夕顔のように白かった。
 
 
 大正九年のあの大暴落は、打ち続く好景気に夢うつつのように踊り狂っていた人々の頭を、|霹靂《へきれき》のように打ちのめしてしまった。あの店もこの店もまるで|津波《つなみ》の跡のように、跡方もなく消えて行ってしまった。
「へん。あそこさんまで。いけないですかね」
「親爺さん。いやへん。逃げてしもて」
「へえ。Kさんも危いって噂ですが」
 皆、自分の足下は忘れて、否ことさら忘れようとして、よその悪い噂話をこそこそと言い合っていた。あの今までの景気のよい騒音は、種々の夢のような話を乗せて、潮のように問屋町から退いて行った。
 出張員たちはまるで犬ころのように持場持場に追いだされた。そうして|飛蝗《ばつた》のように飛び廻らなければならなかった。
 幸い梶万商店も岸山兄弟商会も無事だった。梶万商会の受けた打撃はずいぶんと大きかったが、江州の本宅からさっそく莫大な資本が注ぎこまれた。そうして|微動《びどう》だもせぬ|老舗《しにせ》の貫禄を示していた。岸山商会は幸運にも、今まで製品に全力を注いでいた関係上、現物の値下り損程度ですむことができた。それでも|狼狽《ろうばい》した岸山商会の主人は、おりあしく関節炎で病床に|呻《うな》っていた岩田君を、集金のため追いだしてしまった。岩田君はそれでも松葉杖に|縋《すが》りながら、「えらいこっちゃ。親爺も伜も大病やん」と、|凛然《りんぜん》と書い放ちながら飛び歩いた。それでいて、その時の岩田君の行程は達者なもののそれよりずっと速かったと、後々まで仲間の話の種になったくらいであった。
 杉野君はめきめき腕を上げてきた。もう金魚の游いでいる夢などはみなくなった。悪どい得意のむり等をびたっと断ち切る|遣《や》り方を杉野式と言う者さえあった。それでいて、皆の気受けもよかった。それは、おおかた彼の人懐っこい性質から来ているのであろう。が、人気者の岩田君との親交も一つの大きな力だった。
「杉野君かいな。あら君どえらいもんだっせ」
 岩田君は誰にもこう言い言いした。その杉野君が岩田君の期待に|叛《そむ》かず、あの東京の大震災の時、目覚ましい働きをしたのである。
 ゴゴゴゴーと地震の来たあの時、杉野君は、|喘息《ぜんそく》で|臥《ね》ていた山本さんの側にいた。
「あわてな。あわてな。それより火。火に気をつけて。市どん|瓦斯《ガス》見てき」と、言いながら枕元の|行平《ゆきひら》のかかった火鉢に灰をかける山本さんだった。こうした病人の、その上一倍頑固な山本さんにつき添っていたがため、すっかり逃げ遅れてしまい、二人は皆と離れ、やっと上野の山に逃げこんだ。炎々と燃え上る街々、右往左往に逃げ迷う老若男女。もう東京もこれでおしまいだと思われた。が、その時、不意に、彼の頭にある考えが|勃然《ぼつぜん》と湧き起った。
「そうだ。今すぐ、この足で」
 杉野君は、ひどい喘息の発作に呻き苦しんでいる山本さんの前に坐って言った。
「山本さん。どうか私をやらしてください」
「どこへや」
「地方へです。これからすぐ、ここからすぐです」
 山本さんは苦しさに眼を白くむきながら、大きく息を吐いて、|頷《うなず》いた。
「あんたを置きっぽりにしてすみません」
「なに。わしか。わしはだいじょうぶや。それより市どん。気をつけて行くんやで。あんまりむりせんとな」
 杉野君の両頬を思わず熱いものが流れた。
 水が流れていた。いきなり口に含んでみた。いい水だった。
 「ありがたい」と喚んで空罎にいっぱい詰めた。
「水です。山本さん」
 山本さんはふうふう|呻《うめ》きながら頷いた。
 炎々と夜空に燃え上る|焔《ほのお》だった。あちらにもこちらにも、大きな音響とともに、地獄絵のような火柱が立ち上った。わあわあという喚び声が、盛り上ってくる|濤《なみ》のように響いてきた。杉野君は手早く用意を整えた。普通だったら二日から出発する予定だったので、用意は幸にも今ここへ持ちだしてきた鞄の中に整っていた。鞄を捨て、見本帳だけをぐるぐる風呂敷に包み、それを首にしよった。
「では行ってきます。お気をつけてください」
 山本さんは、むっくり身体を持上げた。
「北海道も奥羽線もや。頼むぞ」と、言った。
 杉野君はさっと立上った。そうしてそのまま歩きだした。あたりにどんな悲しいこと漢起っていようと、どんなおもしろいものがあろうと、もはや彼は視もせず、聴きもせず、感じもしなかった。汽車がなければ、ある処まで。仙台までも、盛岡までも歩かなければならないのだった。
 仙台、盛岡、函館、小樽、札幌、引き返して、弘前、秋田、と、一分一秒を争って、ありとあらゆる機関を利用して飛び廻った。眠りながら歩いていて、何度も何度も電柱にぶつかった。ある時など、ぶつかったまま、電柱を抱いて、そのまま眠ってしまったことさえあった。こうした身心とも疲れはてた時、彼の心を神のように|励《はげ》ますもの、それはみっちゃんの姿だった。あの慎しい白い花のような笑顔だった。
 いつものままの馬糞と、|泥濘《でいねい》と、林檎の街、青森の停車場通りに降り立つ時、杉野君はみっちゃんへの|堪《た》えがたい|思慕《しぼ》に駆られた。ほんの一刻――と思った。が、その時浮んだのがあの山本さんの姿だった。まるで、みっちゃんと山本さんの幻に両手を取られ励まされ、人間業と思われぬ今度の旅行を続けたのであった。
「どうした。どうした」
 どこでも、向こうの方で|狼狽《あわ》てて、杉野君を取り囲んだ。
「幽霊かと思ったよ」と、言う店もあった。
 杉野君が思い出の深い仙台の林呉服店へ入るや、有名な毒舌家の仕入方は飛びだしてきて、杉野君の肩にいきなり手をやりながら、「やったな。杉野君。えらいそ」と、言い言い、抱きしめるようにして奥へ連れて行った。
「自動車や。すぐ呼ぶのや」と|呶鳴《どな》って、手早く用事をすますと、また抱きかかえるようにして送りだした。走り去る自動車に、
「元気で行きや」と言った。そうしてそこへ集ってきた小僧やお客に向って、「火をくぐって出てきよったんや」と言った。
 山形で、あらかじめ電報で打合せておいた大阪店の人と落ち合い、杉野君は今後の手筈万端を定め合った。山形へはぼつぼつ大阪の連中が来ていた。
「東京の梶万はんや」
「梶万もう来とるが」
「帰れんで、まごついてやはるのと違いまっか」
 連中はそんなことを|囁《ささや》きあった。
 杉野君は、山形から、酒田、鶴岡、新潟、長岡をすませ、飛ぶように帰ってきた。大川の橋々が近々と見える焼野原を、避難先を書いた立札を目当にして|呆然《ぼうぜん》と帰ってきた。変りはてた懐しい店の前に立った時、奥のトタン囲いの中から、由どんが飛んできて、「あっ。杉野さん。たた大へんだ。山本さんが、死にかかってられるんです」と、言った。
「それが、六日の日に判ったんです。滝野川です。あんたの名を呼んで。あんたを待ってたんです」
 杉野君は、そのままくたくたと|崩《くず》れてしまいそうだった。
「何も今、こんな時、こんな悲劇を」と、まるで仕組まれたような運命の冷酷さに、むちゃくちゃな分別のない腹立たしさを感ずるのだった。
「うわっ! うわっ1 す、すぎの……」
 力ない瞳を張り上げ張り上げ、山本さんは言った。
「ただ今帰りました」
 杉野君は山本さんの手をとりながら言った。山本さんはがくんと一つ大きく頷いた。
「ほ、北海道と、ううううわっ! ……奥羽線はわしが……わしが行けと言うたんやで……」
「判ってま。よう判ってま。山本はん、ほんな気を配らんと。あかんながらあてがついてますで、落ちついて。な、頼むで」
 副支配人の市橋さんが言った。一時間ほどの後、|痙攣《けいれん》が来て、微かに|喘鳴《ぜんめい》が聞こえた。
「御臨終です」と、医者が言った。市橋さんが、耳元に口を持って行って、「山本はん、山本はん。何か言うとくこと……へ。た大将にへえ。お礼言わんと……言うときま。あてからよう申しときまっせ」と、言うと、「泣けるがな」と、そのままその場に泣き伏してしまった。
 山本さんは三十数年の間、何一つの不平も言わず、|垢《あか》ほどの不正もなく、ただ一途主家のために働き続けたあげく、妻子とも遠く離れた、この見ず知らずの滝野川の小さな病院で死んでしまったのだ。杉野君は空を向いて泣き続けた。
 大暴落、大震災、銀行パニックと、次ぎから次ぎへ寄せては返す激変の大波に洗いたてられて、古いのも、新しいのも、大きいのも、小さいのも、色とりどりの店々が、まるで木の葉の散るように倒れて行った。
 岸山兄弟商会にも時々変な噂を聞くようになった。大震災では、時季を|控《ひか》えて店に倉庫いっぱい詰めこんだ商品を何一っ残さず灰にしてしまった。それに今度のパニックにも、0銀行に引っかかっていた。岩田君の頭も、心のせいかめっきり薄くなったように思われた。岩田君がこのごろせっせと金を溜めているという噂が仲間の間に立った。松下という|佝懊《せむし》の男(田舎町の二三流の店を、年がら年じゅう歩き廻り、問屋から売上げの歩合を取って暮している男)と、仲よしになっている。松下はあれで小金を貯めているから、それに目をつけているのだろう――そんな噂さえどこからとなく伝っていた。
 梶万商店は「焼け太った」というたいした評判であった。杉野君の壮挙に刺戟された主人は、すぐさま江州から大工を引き連れて東上し、仮建築に取りかかった。復興の第一声は男々しく梶万商店によって|挙《あ》げられた。市内はもちろん近郊近県からたくさんの来客が押し寄せた。品物は引張り|凧《だこ》である。大阪店との連絡はすでに完全についていた。店員は皆夜の目も寝ずに決死で働いた。山本さんの死の|訓《おし》えが、そのまま皆の胸に生き返っていた。加うるに、地方の一流といわれる一流処は、しかと杉野君の双腕に握られていた。
 杉野君は相変らず、仙台を振りだしに、石巻、一ノ関、水沢と順々に廻っては、青森につくのだった。そうしてまたいつものようにあの埃々した街に立って、「ああ。明日はG町だ」と|呟《つぶや》くのだった。が、杉野君のみっちゃんに対する切々たる|思慕《しぼ》の念も、それはただ杉野君の胸の中で「みっちゃん。みっちゃん。みっちゃん」と何回となく繰返されるのみで、それから一歩も|展《ひら》けて行くものではなかった。もし現実の問題として考えるならば、いったい彼には何が考えられるのであろうか。三十円の月給。否それよりも第一に「お店の結婚年齢」だった。先輩の岸君も平山君もまだ独身ではないか。その先輩をさしおいてちょっとの手柄を誇らしげに、そんなことが口に出して言えるものか。それを思っただけでも顔の|火照《ほて》るような感じだった。将来のこととして――そんなことが、どうして彼に、否、この数年来の恐しい移り変りを二つの眼に見せられてきた今の若い商人たちに今から考えられることか。身を投げだして――それはちょうどやけくそということにほかならなかった。資金もなく、学問もなく、そうかといって腕力もない若い彼らに、何ができよう。例外もなく、泥沼の生活へ。そうしてそのあげくが、とぼとぼと田舎へ帰って行かなければならないに決っていた。競走馬のように競い争わねばならなかった。勝てばやんやの|拍手喝采《はくしゆかつさい》だが、ちょっとでもそれに甘えようものなら、ぴしゃり! とただ一打ちに落される社会、それを杉野君はよく感じていた。だから――「みっちゃん。みっちゃん」と、今日も、明日も、白い花のようなみっちゃんの笑顔を胸に懐きながら、杉野君は歩き廻るばかりであった。
 みっちゃんとても、多くの日本の田舎娘がそうであるように、いつのまにか慎しみ深い、もの優しい、そうして辛抱強い美徳を|備《そな》えた美しい日本の娘になりきっていた。朝から母のいない台所に下りて、食事の用意を整えなければならなかった。また、父の着物や、|四季施《しきせ》の|繕《つくろ》いに、遅くまで夜なべ仕事を続けなければならなかった。夕方など背戸《せど》に立って、草々の戦《おのの》きに、風の光に、ふと、小さな胸に小さく小さくたたみこんだ彼の姿を思いだすことがあったとしても、それはちょうど三日月の光のように、淡く、はかなく、力ないものであった。
 ただ近江さんだけは静かに微笑みながら、世馴れた人の誰もがするように、時の来るのを待っていたのかもしれない。
 杉野君は八戸で、岩田君と珍しくいっしょに宿を取った。さっそく二人で風呂場に行くと、女中然二人、白い|膃肭臍《おつとせい》のようにぺちゃんと坐って顔を摩っていた。
「よう、ええとこへ来たな」
「まあ。いらっしゃい。お先に失礼して」と、年増のお千代が太いだみ声で挨拶した。
「よう。君公の奴。生やしよったな。ちえっ! 知らんでるまにはいちゃんと生やしてやがる」
 岩田君は突然そう言うと、湯槽から出て、若いお君の方を|覗《のぞ》きこんだ。
「ばか! 岩田さんのばか!」
 お君は、そう言い言い、手桶の湯を岩田君の顔に打ちかけた。
「まあ! 呆れた岩田さんだよ。そんなばかな、あたしこのたび生やそうと存じますが、いかがでございましようって、そんなことしと《、、》に相談して生やす人が、どこにありますか。ねえ杉野さん」
 お千代は得意の東京弁でそう書った。皆、どっと噴きだした。岩田君は、それからもなんだかんだと、女中たちに悪どい|悪戯《いたずら》をした。そのたびごとに女中たちはきゃっきゃっと、|下卑《げび》た喚声を挙げた。
「時に、岩田さん。松下さんが来てんのよ」
「このうちにか。ほう珍らしいな」
「このごろちょいちょい来てんのよ」
「ふん。奴さん。だいぶ景気がよいのやな」
「私。あんな奴大嫌い」
 お君がそう言うと、岩田君はきゅうにまじめな顔になって、「なんや。片輪やかて人間や。生意気やで、女中のくせに」と、言った。
「そんでも、この前、二階から降りてきたら、梯子段の下でじっと、こちらを見上げてるんだよ。にやにや笑いながら」
「ほら。あいつは、背が低いで、いつでも上見とるんやがな。こんなもんだっせ」
 岩田君は、湯槽に顔まで身体を沈めて、松下の恰好を杉野君にしてみせるのだった。
「これで爪先立ちだっせ」
「噂をすれば影とやら……」
 そこへ突然、自分でそう言いながら、裸の松下が女中たちの方を見ながら入ってきた。青黒い顔色、厚い唇、むくんと盛り上った肩。裸虫――そんな名前ででも呼びたいような、虫のように|醜悪《しゆうあく》な裸身だった。卑屈な瞳をちらちらさせながら、時々逃げるように身体を拭いている女中たちの裸体をじっと見入っては、気味悪くにやにや笑った。岩田君は、今までとは打って代った|丁寧《ていねい》な言葉で、松下を迎え、
「これ梶万はんの杉野君だ」と、松下に紹介した。
「これ、お女中はんひとつ背中を流してもらいとうがすな」と、松下が言った。
「はい、すぐ番頭さんに申しますから」
「申しますから。――ほれなんや。何もほんなにつんつんせんかてよいやないか」
 岩田君はそう言いながら、お千代の手を取って引張ってくるのだった。
「はい。はい。行きますよ。行くってば。離してよ。しつこい」
「お君もや。なに。逃げるのか」
 岩田君はお君の方へ走ってきた。お君は腰巻を巻くと、手早く着物を抱えたまま、逃げて行ってしまった。
 杉野君は、このあくどい悪い|仕種《しぐさ》に|堪《た》えがたい不快を感じた。
「岩田君。今晩いっしょに一杯やりましょうや。お先へ」と、それでも笑顔で言い、さっさと出て行った。にやにや笑っている裸の|佝僂《せむし》男、その肩をしかめっ面しながら、大きな乳房をぶるんぶるん動かして洗っている裸のお千代、それを視ている岩田君――まるで、怪奇な小説の挿絵を見るような|醜怪《しゆうかい》さを、杉野君はぞっと感じるのだった。
 酒が入って騒がしい夕食を終ると、岩田君は松下を誘ってどこかへ出て行ってしまった。杉野君は方々で聞いた岩田君の噂のまんざら嘘でもないことを知った。もう四十をよほど越したであろう松下。彼には家もなく妻もなく、年がら年じゅう旅から旅を続けているのだ。商売女さえ、さすがに彼を客に取ることを承知する女はほとんどなく、それがため彼は、彼と一夜をともにする女のためには、どんな法外な大金も惜しまない。そうしてそのためにこそ、せっせと汗脂の金を貯めているのだ――という噂だった。岩田君はその金に目をつけ、松下に女を世話しては、彼に近寄って行くのだ――仲間たちはまたそんな噂をし合っていた。杉野君は、しだいに堕ちゆく、またそんなにまでしなければならぬであろう一人の仲間を見、暗然と自分たちのことを思うのだった。
 ――五千円の大金行方不明。遺失か猫ばばか?―― 杉野君は青森で、地方新聞の社会面を読んでいると、ふとそんな見出しが眼に入った。何気なくちょっと読んでみると杉野君は飛び上るような|駭《おどろ》きに打たれた。それは二三日前八戸で別れた岩田君のことである。
 ――十四日、午後二時H署へ一人の男が青くなって駆けこみ「五千円ほど入っている財布を落しました」と訴えでたのでさっそく署員が取調べると右は東京市日本橋区高砂町メリヤス商岸山兄弟商会の東北出張員岩田富蔵(三七)とて同日午後一時半ごろ東京本店に送金のためH町-銀行に|赴《おもむ》きしところ該|財布《さいふ》の紛失しているのに気づき取るものも取りあえず訴えでたとのことであるがその申したての経路に不審の点もあり身柄をそのまま留置厳重取調べ中であるこの不景気にこの大金はたして紛失か猫ばばかしかしながら近ごろこれら不良出張員らの事故|頻出《ひんしゆつ》は|苦《にがにが》々しき限りである―― だいたい右のような記事だった。杉野君は|咄嗟《とつさ》にH町に行く決心をした。
「今日はいよいよG町へ」行くのだったが。そうして今度こそ、将来のこととしても、否そんな具体的なことでなくともただ自分の思いを素直にほんのちょっとでも伝えようと思っていたのだったが。
 H署で、さっそく杉野君は岸山商店に電話をかけ、主人の許しも得た。保証人にもなった。また町会議員の得意先の主人を引張ってきて保証もしてもらった。どんなぼかの出張員でもこんな|下手《へた》な手は使わないに決っていたから。やっと正午過ぎ、岩田君は釈放された。二人は並んで警察の門を出た。岩田君は、いつになくしょんぼりと物もろくに言わなかった。
「おおきに。杉野はん」
 岩田君は丁寧に頭を下げたまま、よう顔が上げられなかった。もうだいぶ薄くなった岩田君の頭髪をじっと見ていると、杉野君もたまらない感情に襲われた。
「災難だった。なあ岩田さん。けど……」
 と、言ったが、杉野君はその後を続けるべき言葉がなかった。抱くように岩田君の肩を持って歩きだした。
 ただ黙々と二人は歩いていた。突然岩田君は立ち止ると、
「杉野はん。あてじつは東京に二千円の定期がおまんね。それで弁償するで使うてくれ言うて店へ電報しまっさ。店やかてあてにしてた金だすが。弱ってやはるやろで。な、ほしてあとはすまん話やが、給料で月々差引いてもらうとしまっさ。な。どうでっしゃろ」と、きゅうに|活《い》き活きした顔で言った。岩田君の落すか、|盗《と》られた金は三千円足らずであった。岩田君は郵便局で電報を打つと、
「ああ腹がぺこぺこや。昨日から飯粒なんて一粒も喉へ通らしまへんが。あんまり|吃驚《びつくり》して、あての定期まで忘れてしもてて。どうなることかと思いましたがな。うどんでも食いましょ」と、晴々と言った。二人はさっそくうどん屋へ入り、岩田君はがつがつとうどんを食った。
「岩田さん。私は失礼だが、あんたにそんな心懸けがあるとは思わんかったなあ。頭が下がるな」
 杉野君も何がなし、ほっとした思いで、そう言った。
「可哀そうに。あてかて田舎にはぼんが一人おまんでなあ。こうなってみると、若い時遊んで使こた金が|尾《つ》いて行きたいほど惜しおまんな。もうあきまへん。昨日であての運は尽きましてん」
 そんなことあるものか。生れ代ったつもりで働いてくれ――と、杉野君は義理にも言うべきだと思った。が、どうしてそんな白々しい嘘が口に出せるものか。
「もうあきまへん。この景気では。店やかて今四苦八苦だ。あてみたいもんの首がようまだあるちゅうもんだす。情けないこっちゃ。二十年間働いて、すっぺらぽんや。な、けど、杉野はん。あては|愚痴《ぐち》言うの嫌いや。もうこうなったら馬車馬で行きまっさ。働いて働いて。ほんな|銭貯《ぜにた》めよの、何しよのとそんな慾一つ出さんと、むちゃくちゃに働きまっさ」
 岩田君は、ふと時計を見て、
「ほや。まだ間に合う。杉野はん。ほんならお礼もろくろく言わんとやけど走りまっさ。一時二十分のM行に間に合いますで。あんたは青森へ。な。すまんこっちゃ」と言いながら、杉野鴦の手を両手で|固《かた》く握りしめた。そうしてばたばたと、岩田君は太った身体を前にかがめて走りだした。
 ぼん《、、》のために走ってくれ! 走ってくれ! 杉野君はその後姿を見送りながら、心の中でそう言った。
 じょぼじょぼと昨日も今日も、雨だった。そうして、もう七月だというのに毎日薄ら寒い日が続いた。灰色の雨雲が東北の地一帯に低く|垂《た》れ|籠《こ》めて、もう降るという感じさえも起らない。ただ灰色の布を一面に|覆《おお》いかぶせたような、息苦しささえも感ずるのだった。田には苗があちらにもこちらにもちりちりと赤く|縮《ちぢ》み上っていた。植え代え、植え代えしているうちにもう七月になってしまったのだ。さすがに辛棒強い東北の百姓たちも今はもう手を拱《こま》ね、ただ天を仰いで嘆《なげ》くのみだった。
 店にはもうすっかり夏物が並んでいるのに、まだ羽織さえ手離せぬ陽気であった。横着ものの出張員もさすがに皆陰鬱な顔をして、ぽそぽそ話し合っては、何か大事でも起りそうな不吉な予感に襲われて、ただいらいらと走り廻るばかりだった。八戸のS呉服店も青森のNも弘前のあの古いKも整理を発表してしまった。その他、あちらにもこちらにもよくない評判の店がごろごろしていた。買えば安く、持てば下る、このごろのじり貧相場に、本店からの通信はいつもいつも彼らの心を暗くした。
「売れ売れってだいたいどこへ売れって言うんだ」
 本店からの通信を|鷲掴《わしつか》みにしたまま、幾人の出張員が灰色の空を睨みながら呟いたことか。ちょうど眼に見えぬ雨雲のように|覆《おお》い|冠《かぶ》さっているこの不況の前には、彼らのいかに|熟練《じゆくれん》された口も腕も何の役にも立たなかった。
 岸山兄弟商会もとうとう鳩メリヤス株式会社となってしまった。もちろん株主には、債権者の名前がならんでいた。三割の滅俸と、出張手当を半減された岩田君は、それでも例の見慣れた鞄を下げながら、
「捨つべきものは、この鞄や」と、言いながら、歩き廻つていた。
 杉野君にも、毎日|煩悩《ぼんのう》の日が続いた。さすがに梶万商店はこの不況の嵐の中にも|微塵《みじん》の動揺も見せず、大木のようにざわめく業界を見下していた。が、秀敏な杉野君には、眼に視えぬ、それでいてうち勝つことのできない強力な敵が、ひしひしと身近に|逼《せま》っているように感ぜられた。あの大資本を|擁《よう》している兼甚や佐藤彦と競争になる場合など、もうヤールに一厘以上の口銭を見ることは難しかった。十ヤールで一銭、百ヤールでただの十銭ではないか。それだのにこないだ見切った人絹帯など、一本に五十二三銭の損失である。大阪店と両方で三万本はあったのだから、一万五六千円の金が瞬くうちに消えてしまったわけなのだ。それにあちらでもうち続く整理、分産である。その貸倒れ金だけ|儲《もう》けようとするにはどれだけの努力と時間とを必要とすることか。二三年前までほとんど一本もなかった手形の割引も、このごろでは相当の額に上っている様子だった。
 値下りに次ぐ値下り、それにこの死滅した|需要《じゆよう》。ことに彼の持場である東北地方のこの悪天候。杉野君は決然と主人に商況報告かたがた、この際思いきった縮少の必要なことを書き送った。が、主人からは、
「若いものはおのおのその持場持場に奮闘しておればよろしきこと。さような自分の地位を越えた生意気なことを考えるようでは、お前の日ごろの働きも思いやられること。今後きっと|慎《つつ》しむべきこと」という返事であった。杉野君は、唇を噛んで|項垂《うなだ》れた。ことに彼、杉野君に気の毒なことには、近江呉服店の家運も彼の陰に陽にの力添えにもかかわらず、日に日に傾いて行った。
 近江さんは、四年前、|無尽《むじん》のことで第一の大きな打撃を受けた。町内の県会議員の磯田氏の|発起《ほつき》で、近江さんは他二三人の人と責任者となり、無尽のような旅行会の講をつくったことがあった。ところが磯田氏はその講の金を先の選挙のときの穴うめに融通してしまったのだ。融通ということが、文字どおりの意味に巧く行った例はほとんどない。磯田氏の場合もそれは事実的には横領という文字に代っていた。他の人たちは、それを前からよく承知しながら黙っていたほどの人々であるから、責任など持ちそうなわけがなかった。結局近江さんは一人でその後拭いをしなければならなかった。
 そのころ、また近江さんは、一人の|贅沢《ぜいたく》な|居候《いそうろう》を置かなければならなかった。それは東京から長男の謙一君が帰ってきたからだった。彼は東京で何をしていたのか、はっきり判らなかった。大きなことを平気で言い、大臣の名前などをさんづけで言ったりした。国粋団体の巨頭のことを親しげに話しているかと思うと、「牢獄の歌」などを高らかに歌うのだった。午ごろまで寝ていて、夕方になるとぶらりと出て行ったきり、夜中にならなければ帰ってこなかった。けれども、無尽での失敗に深く自責していた近江さんは、こんな謙一君に対してもよう|叱言《こごと》が言えなかった。
 みっちゃんは、ますますその美しさを増したはうに思われる。傾き行く家運、それを彼女は常日ごろ|仕《つか》えている父の老にありありと見ることができた。そうしてそれは|直《じ》かに彼女の心に伝って行った。どこかに心やつれといった風のものが感じられた。がそれはかえって彼女の気高い謙讓の美しさを増すものだった。そうして、それは微かなほんの微かな女としてのあるものへの情炎にほんのりと染まった皮膚《ひふ》の艶やかさに加って、香気高い白い花の美しさを感じさせるのだった。が、彼女は今何事も考えなかった。ただ、この不幸な、老いた父に、一心に抱きかかえるようにして、仕えているのみであった。が、このみっちゃんの一途の孝心も、それはただ濁流に押し流されている小さな花のように力ないものだった。
 二分作やっとだ。三分作も難しい。ーと、いう、その秋の穫高はとうてい|生優《なまやさ》しい言葉では言い現すことができなかった。
「東北地方の飢饉を救え」という声が、方々で高くなったのは、野も山ももうすっかり雪に埋もり、人々は越す当もない年の瀬を前に黙々と項垂れていたころだった。
「借金取町に入るを許さず」
 そんな立札が、町の入口に立ってあることもあった。
「金か。金は払わんぜ」
「御冗談を……」
「何が冗談だ。このごろのお百姓から金が取れるか。問屋には払わん。その代りお得意さんには|催促《さいそく》せんと決めたんだ。ばか。何が冗談だ」
 そんなむちゃを言う店主もあった。が、そんなことには|馴《な》れきっている彼ら出張員にも、今度という今度は、なぜか冗談として笑いきれないものがあった。
「子供もんはぼつぼつだがね」
 そんな、何気ない話を聞いても、|惻《そくそく》々と身に迫るものを感じた。
 銀行が危い――杉野君がそれを聞いたのは仙台でだった。当然来るべきものが来たのである。予期はしていた。がこうして今事実となって現われたとなると、いったいこの先どうなるのだろうと、手の着けられないような絶望を彼は感じるのだった。この地方の人々は、得意先は、そうしてこの自分たちも、いったいどうすればいいのか。杉野君は、この眼に見えない敵を、どうすれば防ぐことができるのか、あるいはまた戦いきる方法はないものかと、はったと宙を|睨《にら》むのだった。
 杉野君らを乗せた乗合自動車が、|躍《おど》りこむように、八戸の街に飛びこんできた。そうして、そこに杉野君は、ぴたっと閉ったD銀行と、その前に群っている十数人の人人を見たのだった。赤と黒のネルの腰巻に|脚絆《きやはん》を|履《は》いた行商の女の人も交っていた。もう誰も物一言言わず、ただ黙々と項垂れて立ちつくしていた。杉野君は、D銀行の重役である角甚呉服店に飛びこんだ。が、主人は重役会で、いつ帰るか判らなかった。そうして、夕方空しく立ち去らなければならなかった。杉野君はD銀行の前に立って一人去り、二人去り、薄暗の申に黙々と消えて行く人々の後姿を、いつまでもいつまでもじっと見送っていた。
 青森のF銀行も、盛岡のE銀行も閉めてしまった。近江さんもF銀行にやられたであろう。しかし、今となってそれがどうなろう。杉野君は青森の神原呉服店の主人の前に坐っていた。主人はF銀行の頭取だった。が、主人は相変らず|鷹揚《おうよう》に高ぶった風をしながら、人々を鼻の先から見下していた。番頭も小僧も、いつものように、出入のたびごとに主人の前でぺこぺこ頭を下げて行った。店には、四五人の百姓風のおかみさんが、遠慮がちに小さな買物をしていた。杉野君はこのいじらしい人たちの姿を見、そうしてこの主人の恥を知らぬ高慢ちきな面を見るにつけ、今まで学校で、店で、あるいは店の講演会でたびたび聞かされてきた、正義とか、誠実とかいうものの、今になって何の力もないことを、まざまざと知ることができた。今、どんな誠実が、この主人にその|因業《いんごう》の恥を知らすζとができるというのか。否どんな正義も、この一人の恥知らずをさえ、うちのめすこともできないではないか。皆、皆、嘘の、嘘の、嘘カッパだったのだ……
 Gの街には、いつものように低い屋並が|黝《くろぐろ》々と列んでいた。雪溶けの|泥濘《でいねい》の道を、ガタ馬車が鉄輪の音を高く立てて走っていた。ビジョビジョの水溜りに光輪を失って|色褪《いろあ》せた太陽が月のように浮んでいた。飲食店、宿屋、農業倉庫、運送会社等の並んでいる駅前通りを突き当ると、横に呉服店、時計屋、本屋、薬屋等が並んで、わずかに赤や青の色彩を街に投げかけている、町噌番の本通りに出ることができる。杉野君は、町角のF銀行の貼紙をちょっと見たままいつものように大きな荷物を担いで、近江呉服店の中に入って行った。
 近江さんはすっかりまいってしまっていたが、杉野君は、もうそれを|慰《なぐさ》める言葉もなかった。みっちゃんの|睫毛《まつげ》にはいつも白い小さな露が光っていた。時々、それが、ころころと美しい|珠《たま》となって顔の上を転んで行った。お茶を注いでいる彼女の手のひどく荒れているのを、じっと眺めていると、|忽然《こつぜん》十数年前の光景が|幻灯《げんとう》のように、杉野書の心に映った。雪に追われた小鳥のように、突然飛びこんできたまだ小僧小僧していた自分の姿、もったいないほど親切だった近江さん。そうして、中にも一輪の白い花のようにあざやかに映ったのは、それ以来忘れることのできぬみっちゃんの笑顔だった。が、この楽しい幻灯の原板を、杉野君はするりと手から落してしまった。それは悲しい音を立てて|粉《こなごな》々に砕けてしまった。突然そこへ酒気を帯びた謙一君が入ってきたから。
「謙一さん。ちょっとお坐り願いたいのですが」
 杉野君はそう謙一君に声をかけると、彼を見上げた。
「僕かい。何か用事でもあるんですかい」と、謙一君は言いながら、どっかとあぐらをかいて坐った。
「ちょっとお|伺《うかが》いするんですが、あなたはだいたい御自分のことをどうお考えなんです」
「おおそうだとも」と、近江さんが言った。
「僕か。僕のことか。僕の志が君たち商人の金の奴隷みたいな奴に判るか。弁明の限りにあらずじゃ。それより聞こう。君はどうして僕にそんな風なことを言う権利があるんだ。この僕にだ」
「いや権利とか、そんな難しいことは捉きにしてです。実際この御家も今大へんな時期だと思うのです。今後はたして続けてやって行けるか。正直疑問です。それに第一この御主人の御苦労を思うと、口幅《くちはば》ったいようですが、あなたは子供として、よくそれがそうしてのんきに見ていられると思うのですが」
「ちょっと待った。いや御忠告はありがとう。ただ一言君に言うことがある。君は他店の外交と違って、前から僕の家とはずいぶん親しくしているように見える。あたかも家族の一員であるかのようにだね。だが、それは今後絶対に止すことにしてもらおう。どうやら道子に|思召《おほしめ》しがあるようだが、それは絶対に僕が許さんから、前もつて……」
「まあ兄さん」
 みっちゃんは、黒い|眸《ひとみ》をぱっと見開いて、兄を見た。その上気した頬を、白い珠が走った。
「前もって断っておくよ。生意気な、外交の分際で。それより金でも|貰《もら》ってさっさと帰れ」
「いただく金があるくらいでしたら、何もこんなことは申しません。気楽なことを言うもんじゃありません」
 杉野君は、思わず、かっと言い捨てた。謙一君は、荒荒しく出て行った。
「なんと、ばかな奴だべ」と、近江さんは彼の出て行く後を見送りながら、力なく|呟《つぶや》いた。
 杉野君は、その後で、近江さんと顔を見合せて相談しあった。F銀行の預金は七千円ほどだった。そうして、それが近江さんの残っていた財産のほとんど全部である。後には、この家屋と、お得意先の死んだと同様の貸金と、そうしてわずかばかりの林檎畑とだった。そんなものが、いかほどの値打があるものか。今年の林檎の相場は一箱東京渡しで一円前後だ。箱代と運賃とを差引けば、一杯一杯時には損さえ立つのである。だから、今年は番人のいない林檎畑だった。ー番人を置けば、その費用だけは明らかに損となったから。しかるに一方には、こちらが倒れない限り、びた一文も滅らない問屋の品代金である。
 涙や人情があっては商売はできん――杉野君は、そういう商人の格言を聞いていたし、知っていたし、また事実行ってもいた。が、今の場合、それはどこか遠くで|呻《うな》っている、一つの騒音のようにしか思われなかった。彼はふと立って、外に出た。廊下の角のところにみっちゃんが一人ぼんやり立っていた。みっちゃんは、彼が側に近寄った時、
「杉野さん。許してください。兄さんのこと」と、言った。
「いいえ。そんなこと何とも思ってません。それよりあなたこそ」
 杉野君はそう言うと、もう堪えがたい彼女への|思慕《しぼ》と|愛憐《あいれん》の激情に動かされた。彼は思わず、みっちゃんの荒れた手をしかと両手で握りしめた。みっちゃんは子供のように彼の胸に顔を当てて、堰《せき》の切れたように歔欷《すすりな》いた。懐しい黒髪の臭いだった。
 十数年の問、彼に楽しい懐しい夢を見せてくれた|写絵《うつしえ》の中の白い花のようなみっちゃんが、むくむくときゅうに動きだして、はっと彼の前に現れたように思われた。彼は、きゅうにこの重々しい闇のような現実を思った。
「お父様のために。あなたのために」
 が、杉野君は、力強くそう言った。
 
 
 杉野君は支配人の市橋さんに、自分の預け金は今どれほどあるかちょっと知らしてもらいたいと申しでた。
「目がちらついてきたな。あかんぞ。君ともあろうもんが。君こそ、行く行くわしの後に立ってもらわんならん人やのやで」
「お預け金というもんをや、わが金や思うで間違うのや。まだほれは大将のや。御苦労やった。これがお前の預り金や、ちゅう大将のお言葉があって初めて、わがもんとなるんや」
 とも、市橋さんは言った。一生の御願いだから、ぜひ聞くだけでも聞かして欲しいと、押返して頼んだ。市橋さんはしぶしぶ立って、金庫の中の帳簿を調べると、
「二千円とちょっとだ」と言うた。
「奉公人がほんなこと聞きたがるようになったらもうしまいや。悪い虫でもついたんと違うか」
 杉野君は黙って、|俯向《うつむ》いたまま答えなかった。
「二千円。そんなはずではないが」と、思ったが、それを押して|訊《き》き|正《ただ》すことは、どうしてもできなかった。彼は、この不思議な制度、そうしてそれを今まで不思議とも思わなかった自分たちお|店《たな》ものの|道化《どうけ》のようなばか気た存在を今さらここに考えなおすのだった。
 こうした、杉野君のお店ものとしては精いっぱいの努力にもかかわらず、近江呉服店は日に日に傾いて行った。今まで梶万商店が力を入れているがゆえに、内輪内輪ながらともかくも援助を続けていた他の問屋連も、そろそろ手を引き始めた。その厳しい|督促《とくそく》に堪えかねて、近江さんはF銀行の預金帳を二割足らずの金で、手離してしまった。
「さすがに杉野はんも今度ばっかしは弱らはったやろ」
「恋の闇路というもんや」
 そうした取々の噂が、仲間の間に立ち始めた。もうそのころには、近江呉服店は、しがない杉野君の預け金くらいでは、どうすることもできない状態に立ち至っていた。
 津軽地方は今年の秋も、またまた洪水に襲われてしまった。津軽富士の頂には、いつも悪魔のような黒雲が湧きたっていた。村や町はその下に息を殺し、じっと|耐《た》え忍んでいた。
 ある日の夕方、みっちゃんは黒い雲が長々と寝そべっているその下で珍しくちろちろといくつもの星が輝いているのをじっと眺めていた。黒い雲は、じりじりと拡って行った。一つ消え、二つ消え、星はだんだん黒雲の中に|呑《の》まれて行った。奥で近江さんの呼ぶ声がした。急いで行ってみると、一通の手紙を示された。杉野君からのであった。
 道子さん。これが私のあなたに書く最初の手紙であり、最後の手紙となってしまいました。私は、今日まで、父上のため、あなたのため、あらゆる努力をしようといたしました。この細腕でもできることなら、なんでもしようと考えました。が、私は今それがいかに愚かなことであったかということを知りました。父上を、そうしてあなたを苦しめているものは、私たちのような人間が二十人三十人束になって行ってもとうてい刃向かうことのできぬ絶大な力を持っているのでした。それを知らずに私は今までなんという道化た|真似《まね》をしていたことでしょう。私は今はっきりそれを知りました。私はちょうど犯罪人が縄につくような気持で、観念の眼を閉じました。
 道子さん。今までの私はどこかへ消えてなくなったと思ってください。私は、あなたとお別れすると同時に今までの私自身にも永久に別れるつもりでおります。
 道子さん。永い間一家族のように親しくしていただいたこと、ありがとうございました。
 最後に、いかにも恥しく残念なのは昨年のいつか、お兄様との愚かな口論の末、せっかく十何年の間大事に大事にしていた、私の楽しい美しい思出の種板を粉々に砕いてしまったことです。私はあなたのまで叩き落しはしなかったでしょうか。許してください。どうか道子さん観念してください。
 お父様には別紙いたしません。あなたから静かにお伝えください。近く参上して、お|店《たな》と|店《みせ》との整理をいたし
ます。
近江道子様
さようなら   杉野市郎
 杉野君のこの手紙、否、この観念は早すぎはしなかった。ある日、彼は市橋さんに呼ばれ近江呉服店をどうするつもりかと、問われた。
「そこの娘に惚れてるそうやがほんまか」
「ほんとでした」
「ほやろ。ほうでなかったら君ほどの人があんなへませへん。商人にはそれが一番禁物や」
「すみません」
「商人はやな。いったん算盤持ったが最後、人が死のうが生きようが、そんなことかもてたらあかん。死ぬもん死なしとき。生きるもん生かしときや。ほれがなんやい。女一匹に」
「ようく判りました」
「ふん。ほんならよいが、だいたいどうするつもりやね」
「今度行って品物引き上げてきます」
「ほんな言うたかて、ほんなに品物おますかいな」
「ありません。でまたこれ言うとお叱りをうけるかもしれませんが、私のお預け分で差し引いていただくわけにはまいりませんでしょうか。そうしてそれで足りぬ分は、月々の頂き分から、少しずつでも返さしていただくとして」
「えらい」
 市橋さんは、ぽんと自分の膝を叩いた。
「さすが、君や。ほんでこの間も聞いてたんやな。ほらすまんこっちゃった。こらいてや。ほらまあ君の手落と言えば手落やったが、ようそこへ気がついた。いや|潔《いさぎよ》う決心できた」
「大将の『御苦労やった』というお言葉もいただかないでですけれど」
 杉野君は|皮肉《ひにく》のつもりで言った。が、相手にそれは通じなかった。
「いや。ほらわしから申しとくよってな。ほて娘さんのほうはいな」
「思いきりました」
「ほらなんでや」
「文なしには嫁相場じゃありません」
 杉野君はそう言い放った。
 杉野君は今度の出張は、機械のように無心でいようと決心していた。が、行く駅々では満洲事変に出征する兵士を見送る人々でいっぱいだった。勇ましい軍歌と、たくさんの小旗に送られて威勢よく出征して行く若い人人の場合は、まだよかった。ある寒村の駅で、数人の村人に見送られて、一人の中年の人が出征するのに出遇った。赤坊を負い、一人の男の子の手を引いたおかみさんが、先頭に並んでいた。灰色に垂れ|籠《こ》めた東北の荒野の背景に、つくねんと並んでいるこれらの人々の姿を見ていると、何かこう込上げてくるものを感じないわけには行かなかった。
 青森では、杉野君は神原の主人がF銀行の預金を集めているということを聞いた。が、もうそんなことはどうでもよかった。さっそく飛びこんでうんと手合せをした。皆他の問屋がびくびくしていたので、値ごろも上々に通った。がもうそれとても、何の喜びも感じはしなかったけれど。
 それでも、さすがにG町に着いた時には、杉野君は何か足の縮《ちぢ》む思いだった。ぽんと肩を叩《たた》く人がいた。そこに、思いがけず、岩田君がひょっこり立っていた。杉野君は、|此度《こんど》の話を岩田君にうち開けた。岩田君は|頷《うなず》きながら聞いていた。
「畜生! 笑いこっちゃおまへん。あんただけはと思てたんやに。ほれもまるごとや。あほくさい。地震のときの働きも何もかもただ匁ただ分や」
「しかしまあそれがようおま。そやけどこの方、ほう早く|諦《あきら》めんかてよいやないか」
 岩田君は、太短い小指をぴんと立てながらそう言った。
 近江呉服店の相変らずくすんだ店構はしんと静まり返っていた。近江さんは静かに頭を下げて、承知の|旨《むね》を言った。梶万商店の商品だけでざっと五六百円のものはあった。岩田君もさすがに冗談一つ言わず、ちょこなんと坐つていた。
「わすもはア、この歳してはア」と、近江さんはぽつんと言った。
「謙一ははア、もうしかたのねい奴では。この道ちゃを、この道ちゃをさ売るべなんてことばす言ってるんすだでのう」
 杉野君はむかむかと腹が立った。近江さんまでに腹が立った。
「売れるものがあるなら、なんでもお売りになればいいでしょう」
 杉野君は白い毒薬を一気で飲みこむ気持だった。
「杉野はんまでがはア。おお道ちゃ。道ちゃ」
 近江さんはおろおろ声でそう言うと、手拭で顔を|覆《おお》うてしまった。隣りの部屋でばたりと音がした。みっちゃんの激しく|歔欷《すすりな》く声がした。
 何を! と、杉野君は自分で自分を|励《はげを》した。そうして、
「岩田さん。ちょっと手を貸して欲しいんだが」と、言った。
 杉野君は立ち上り、モスの反物に手をかけた。そこへ柄こそ違え、金魚の目覚めるような友禅が目に入った。杉野君は、がばと反物の上に倒れたまま男泣きに泣いてしまった。
 突然、岩田君は両手を首に廻して、両足でばたばたと畳を叩きながら、
「これだ! これだ!」と、言い続けた。
「これだ。な、これだ。大将。|鵜《う》だ。な、鵜飼の鵜だ。杉野君かてあないに思とるねん。ほやけどこないにな、首に縄が巻いとるよって。な、大将。悪う思わんとな。あてらは皆鵜だ。でっかい鵜やら小っちゃい鵜だ。みんなこれだ! これだ!」
 岩田君は両手で首を巻きながら、太短い|脚《あし》でいつまでもいつまでも畳を|叩《たた》き続けるのだった。
 

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