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外村繁「澪標」1


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  私が生れたところは滋賀県の五個荘である。当時は南、北五個荘村に分れていたが、今は旭村とともに合併して、五個荘町となっている。

 村の西南部には小山脈が連っている。繖《きぬがさ》山脈と呼ばれている。その一峰に、往昔、近江守護、六角、佐々木氏の居城のあった観音寺山がある。その山頂にある観音寺は西国第三十三番の|札所《ふだしよ》である。西方の一峰は明神山と呼ばれ、その中腹に|古刹《こさつ》、石馬禅寺がある。観音寺山と明神山との狭間の峠を、俗に「地獄越」と呼んでいる。観音寺山城が織田氏の軍に攻略された際、城中の婦女子の逃げ落ちた、|阿鼻叫喚《あびきようかん》のさまを伝えているという。
 北東部にははるかに田園の風景が開け、北方には伊吹山、東方へかけて、霊仙山、鈴ケ嶽、竜ケ嶽、釈迦ケ嶽、御在所山等、滋賀、三重両県境の山々が望まれる。
 旧北五個荘村の北東部を|愛知《えち》川が流れている。|源《みなもと》を県境の山々に発し、琵琶湖に注いでいる。その上流は風光|明媚《めいび》次渓谷であるが、中流からしだいに流れは細り、下流では平時は水はなく、石と砂との河原になっている。また、繖山脈の谷水を集めて、小川が村の中を縦横に流れている。川水は量も少くなく、川底の小石が見える程度に澄んでいる。川添の家は門前に多くは花崗岩の橋を掛けている。
 周囲はどこでも見られる平凡な農村の風景であるが、いわゆる近江商人の主な出身地で、村の中には白壁の塀を廻した大きな邸宅も少くない、木立の間から、白壁の格別美しい土蔵も見られる。これらの家の主人は、ほとんどが大都会に出て、商業に従事してい、妻が子供たちとともに留守を守っている。
 新村宗左衛門家は代々百姓であったが、新村家の家乗には、元禄十三年、初めて布を|商《あきな》った記録が残っている。同じく十五年には|麻苧《まちよ》を仕入れている。正徳三年には名古屋へ行商に行き、享保十一年には江戸に入っている。同年、文庫蔵を建築、元文二年には本宅を改築、さらに延享三年には隠居所を新築している。宝暦三年、名古屋では定宿を取り、その商売形式は完全な問屋卸しとなっている。天明六年、|霖雨《りんう》。米、麦、綿等|暴騰《ぼうとう》し、施米《せまい》している。寛政九年には弟、孝兵衛に新宅を持たせた。
 新村孝兵衛家は、寛政九年、宗左衛門家から分家したが、共同で商売をしている。文化十年、独立し、京呉服、木綿の卸商を始めている。文政十一年には上州桐生市に糸質店を構え、天保十二年には江戸堀留町に開店している。同十三年、|苗字帯刀《みようじたいとう》を許され、文久二年には彦根藩(五個荘は郡山藩である) へ金千両を調達している。安政三年、江戸店が新大坂町へ移転している。慶応二年には京都店を開き、明治六年には横浜に貿易店を開いている。
 私の母は、明治十一年、三代目孝兵衛の長女として生れた。兄弟は五人、母は{人娘である。したがって、母は母の父や、祖父の|寵愛《ちようあい》を受けて育ったという。十八(数え年)の時、母は私の父を婿養子に迎えて、分家した。
 私の父は、明治元年、滋賀県の長浜の早川良平の二男に生れた。長浜は|縮緬《ちりめん》の産地で、早川家も古くから縮緬の地方問屋を|営《いとな》んでいたが、父の父が早世したので、家業を廃した。父は父の祖母に育てられたが、ひどく|腕白《わんぱく》者であったらしく、小学校でも原級に留められたこともあったという。が、とにかく小学校を終ると、すぐ新村孝兵衛家へ|丁稚奉公《でつちぼうこう》に上った。父は新村商店に十数年間勤続し、明治二十八年、母と結婚し、新村姓を名乗った。明治四十年、父はようやく独立を許され、東京新大坂町に開店した。
 明治三十五年十二月、私は父、信太郎の三男に生れた。私は七カ月の早生児で、祖母の肌に懐かれて、ようやく産声《うぶごえ》を上げたという。それでも私はどうにか肥立つて行ったらしいが、色の白い、女の子のような弱々しい子であったといわれる。しかしそのころの記憶はまったくない。
 私が数え年の四つか、五つの時のことである。私の|朦朧《もうろう》とした記憶の中に、より黒い影のような祖父の姿が浮かんでくる。母に手を引かれて(これは後からの想像であるが)、たしかに私は本家の内玄関の土間に立っていた。そこへ奥から祖父が出てきたのである。ただそれだけの記憶である。さらにその記憶には、祖父の顔ははっきりしない。しいてすれば、その顔の|輪郭《りんかく》は描きえないでもないが、それは後年、祖父の写真や、母の顔や、私自身の顔から|類推《るいすい》した、記憶の修飾になろう。記憶の限りでは、祖父らしい者という方が正しいかもしれない。
 この私の記憶はかなり|信憑性《しんぴようせい》があるように思われる。実際にも本家の内玄関は薄暗い。祖父は奥から逆光線を受けて出てきたものであろう。さらに母の話によると、日露の戰捷を祝う草競馬が行われ、本家の桟敷が組まれ、その借用を願いに行った時のことであろうという。すると祖父はすでに胃癌に犯されていたはずである。祖父の姿そのものも、俗にいう影が薄かったのではないか。
 それはともかく、これが私の|脳裡《のうり》に残っている|唯一《ゆいいつ》の祖父の姿である。同時に、私の最も古い記憶のようである。祖父が亡くなったのは明治三十九年五月であるから。
 祖父の葬儀の時の記憶もある。雨が降っていて、叔父たちが木の枝に照る照る坊主を吊っていたのをはっきり覚えている。しかしこんなたわいない|一齣《ひとこま》だけを残して、私の記憶は断ちきられ、その前後には深い昏迷の世界が拡がっているばかりである。
 祖父の葬儀の当日、私は白張|提灯《ちようちん》を持って葬列に加わった由であるが、女中の背中で眠ってしまったという。
幼い日のことである。このような時にも眠ってしまって、まったく記憶を刻まなかった場合もある。しかしまた、幼い脳裡のことである。記憶は刻まれても、すぐ忘れてしまったこともきわめて多かろう。が、私にとって、私の過去はけっして空白ではない。記憶は失われたが、幼いながら、数多い日々が埋もれている。空白ではなく、深々とした闇の感じである。そうしてその闇の中には、形は見えないが、さまざまなものが潜んでいるはずである。時には一瞬、ぼんやりその影を映すかと思うと、たちまち底深く沈んでしまう。
 私はお|化《ばけ》が恐しかった。鬼も恐しかった。幽霊も、人魂も、死びとも恐しかった。しかしそれらの恐しいものは、きまって暗いところにいたようで、もとより視覚的記憶はない。二|丈《ぼん》坊や、ろくろっ首の記憶にしても、かりにその形を描きえたとしても、それは後年の修飾である。しかし幼年期の、形のない、あの漠然とした恐怖の記憶は、今も|朦朧《もうろう》と、しかしたしかに残っている。
 六つの時、母が大病になった。ある夜、母が私の手を引いて、祖母の夢枕に立ったという。つまりそんな危険な状態がかなりの間続いたらしい。しかし母の大病や、その危機感についての記憶はまったくない。その時、私たち兄弟は祖母の許に預けられていた由であるが、その記憶もない。しかしその時も、その所も不明であるが、幼年期の、自分一人取り残されたような悲哀の記憶は、今も朦朧と、しかしたしかに残っている。
 私の家の|宗旨《しゆうし》は浄土真宗である。黒暗の闇の中に埋もれてしまった、私の幼い日々にも、読経の声は聞えていたはずである。|蝋燭《ろうそく》の光も揺れていたことであろう。線香の香も漂うていたことであろう。|鈴《りん》の音もあのきれいな余韻を|曳《ひ》いていたに相違ない。しかし聴覚的な、嗅覚的な、視覚的な、明確な記憶はない。しかしそんな仏教的な雰囲気の記憶は、今も私の脳裡に艨朧と、しかしたしかに残っている。
 幼年期の、このようなおぼつかない記憶の中に、今もきわめて鮮明な印象を刻んでいる、一つの記憶がある。地獄絵の中にいる女亡者の姿である。
 字の中央、観音寺山城の鬼門にあたると伝えられているところに、|小堂宇《しようどうう》がある。一人の老尼が守っている。春秋の|彼岸会《ひがんえ》に、地獄極楽の絵がその堂内に掛けられる。こんな小堂宇が所蔵しているものであるから、絵画としては勝れたものではなかろう。しかし私は文字どおり|戦慄《せんりつ》した。
 赤と黒の、あくどい色彩を背景にして、女亡者たちはいずれも半裸体である。肌はまっ白に塗られ、短い、赤い腰巻をしている。奇径なことに、私はそんな女亡者の姿に、生れて初めて女を感じた。しかも絵の中の形だけの女ではない。母や、若い女中の体との接触によって、いつともなく感じとっていたらしい女を感じた。しかしそれを性と言えば、言いすぎであるかもしれない。愛と言ってもよい。しかしその愛は肉体から肉体へのみ通じうるような、きわめて幼く、優しいものである。その優しいものが、酸鼻の極限の下に置かれているのである。私は強烈な恐怖に襲われた。
 あるいはその逆であるかもしれない。今の記憶によると、地獄絵の中の女たちは皆ひどい内股である。しかしそれはこの記憶が何回となく再生されているうちに、おのずから修飾されたものであろう。が、その時、女亡者の姿に女らしさを感じたのは事実であろう。極度の恐怖が、私に初めて女の女らしさを感じさせたとすれぼ、私の体内に潜在している性が、マゾヒズム的刺戟によって、一瞬、発現したのではないか。
 以来、突然黒い雲に|覆《おお》われるように、私は恐しい感情に襲われる。今言えば、絶望に近い感情とも言える。
「悪いことをしませぬように」
 朝夕、仏壇の前に坐って、私は|合掌《がつしよう》するよりほかはなかった。
 
 
 七つ、八つになると、私の記憶もよほど形を整えてくる。長兄は六つ、姉は五つ、次兄は三つ私より年上である。兄や、姉が学校へ行ってしまうと、私は私つきの女中の春枝に絵本を読んでもらうか、一人で庭に出て遊んだ。私は|口喧《くちやかま》しい母の側をあまり好まなかったようである。
 庭には梅、桜、桃、椿、山吹、夏蜜柑、|紫陽花《あじさい》、|柘榴《ざくろ》、金木犀、枇杷《びわ》、山茶花《さざんか》等、四季の花が咲く。私はいつもその季節の落花を拾って遊んだ。しかし東の裏は朽ちた木塀に|劃《かく》されて、まだ空家が残っていた。父がその屋敷跡を買い求め、花園を造ったのは後年のことである。
 また庭には蝶や、蜻蛉《とんぼ》や、蝉《せみ》や、馬追や、蟋蟀《こおろぎ》等がいる。蟻が長い行列を作っていることもある。小さい蟻が動いているのを見詰めていると、きゅうに無数の蟻がぼやけ、目全体が霞んでしまう。あわてて、目をこすり、瞬《まばた》くと、蟻は元のままに一匹、一匹|列《なら》んで、動いていたりもした。しかし梅の木には毒を持った毛むしもいたし、土蔵の大屋根の|軒端《のきば》には、十年蜂が大きな巣を作っていた。
「一がさした」
 私は相手にむりに右の手を出させる。
「二がさした」
 私は右の手を相手の手の上に重ねる。
「三がさした」
 相手が左の手を私の手の上に乗せる。
「五がさした」
 相手が一番下にある手を引き抜いて、私の左の手に重ねる。
「八がさしたあ」
 私は勢よく左の手を抜き、蜂の真似をして、相手に襲いかかる。相手は春枝の場合が多かっただろう。私はその手の柔かい感触を覚えているようにも思う。が、そう言えば、やはり嘘になろう。以来数十年、この手がそんな幼い時の感触を純粋に残しているはずがない。
 私の家の前にも小川が流れている。その川水を屋敷の中に取り入れ、|花崗石《みかげいし》で長方形に囲って水を溜め、その水は下手の口から川へ流れでる。俗に川戸と呼んでいる。私はその川戸の石段にしゃがんで、水が|緩《ゆる》く動いているのを見ているのが好きだった。
 水の上を、あめんぼうが器用に渡って行く。突然、白い腹を|翻《ひるがえ》して|跳《と》び上ることもある。表面張力の理を知る由もなかった私は、軽業師のような早業の秘密は、すべてあの細長い脚にある、と思いこんだりもした。黒胡麻のような水すましも隅の方に集って、円を描いて廻っている。この虫は驚くと、いっせいに水中に潜る習性がある。水上では、小さい体全体が光沢のある黒色であるが、水中では、強い脂肪が水を弾くためか、銀色に光るのもおもしろかった。
 水中にも、小魚のほかにさまざまな小動物が棲んでいることを発見する。水中の石崖にはたくさんのたにしがくっついている。川えびが脚を|櫂《かい》のように急速に動かして、泳いで行く。|蟹《かに》が赤い鋏を動かして、何かを喰べている。不意に、異様な形の奴が現れることもある。私はいわば水中の小天地を|窺《うかが》って、飽きることがなかった。
 しかし私の遊び場は屋敷内に限られていて、臆病な私は一人で外に出ることはなかった。もはや、恐しいものは暗いところにばかりいるのではない。私は「子捕り」が恐しい。狂犬が恐しい。泥棒も、巡査も恐しい。
 春秋の衛生掃除の日には、巡査が剣を鳴らして家の中まで入ってくる。その日になると、朝から私は胸騒ぎがした。手落ちをするような母でないことは信じている。しかし万に一つということもある。また男衆《おとこし》や、女衆《おなごし》にどんな不注意があるかもしれない。土蔵の屋根下に、内側を赤く塗った消火ポンプが置いてある。そこの狭い空地は北に面していて、ほとんど陽の当ることがない。家人もめったに行くことはない。表の小門の鳴る音を聞くや、私は足早に逃げて行き、ポンプの下で息を潜めていた記憶がある。
 またある時、私は兵隊の絵本を見ていた。「ホヘイ」や、「キヘイ」は絵によってもよく判った。しかし「ケンペイ」というのはどういう兵隊であるか、私には判らない。私は傍にいた見習の|丁稚《でつち》に聞いた。
「ケンペイて、どういう兵隊さんやのや」
「ほうどすな、まあ、悪いことした兵隊をつかむ、兵隊さんの巡査みたいもんどす」
 たちまち私の顔から血の色が失せたらしい。私にその記憶はない。しかし丁稚がひどく|狼狽《ろうばい》したのを覚えている。
「晋さん、晋さん、どうかしやしたんか。ほの青い顔」
 一瞬、私は二つの疑問を持った。当時の多くの幼少年たちがそうであったように、私は「兵隊さん」というものは強くて、勇しく、正しい人ばかりだと信じていた。そんな「兵隊さん」でも悪いことをするのか。そんな強い人を捕える、より強い人がいるのか。何かが崩壊する感情とともに、疑問はたちまち恐怖に変じた。私は戦慄を覚えた。
 私は医者も恐しかった。外科の器具が恐しかったばかりでない。医者の前ではどんな偉い人も、強い人も等しく弱者の姿でしかないと思われたからである。
 ある日、座敷の隣室で、女中のいさが片肌脱ぎになっている。やすも帯を解いている。春枝もそこへ入ってくる。
「寒いことをせんならんのやな」と、やすが言う。
「何するのや」
「チュウシャ」と、いさが口を|尖《とが》らせて言う。
 突然、|得体《えたい》の知れぬ感情が湧き起った。その時、いさを呼ぶ母の声が座敷から聞えた。座敷には杉谷先生が来ているようだ。せめて春枝だけは座敷へやってはならない。春枝はすでに帯を解いている。その肌を脱がせてはならない。
「行ったらいかん」
 私は春枝の手にしがみついた。そこへいさが裸の腕を出したまま帰ってきた。私はさらに兇暴な感情に|煽《あお》られる。私は春枝の両手を前掛の|紐《ひも》で縛ってしまおうと焦っていた。
 私の記憶はここで断たれている。たぶん、母にひどく叱られ、泣きだしてしまったことであろう。しかし自分ながら得体の知れぬこの感情は、やはり性欲から発したものではないか。もちろん、一時的に突発したものであろう。そのころ、私は母と風呂に入った。母が留守の時には、春枝や、いさとも入ったはずである。しかしそんな女の肉体については、何の記憶も結ばれていない。母がきまって前に手拭を当てていた姿は覚えている。が、私は小学校の上級になっても、風呂へは母とともに入ったから、後年の記憶であろう。
 私の恩師、脇村先生は最初は長兄や、姉の担任の先生である。そのころから先生は私の家へよく遊びに来た。母は先生を非常に尊敬していて、夕食を供したりして歓待した。人見知りの強い私も脇村先生は少しも恐しくなかった。むしろ私は先生に馴れ親しんでいて、そのことが内心得意でもあった。
 ある日、脇村先生が来ている。私は座敷へ入ると、まっすぐに先生のところへ行き、先生の膝に腰を下した。
「失礼な、ことを、させておる」
 ちょうど、帰省していて、その席に居合わせていた父が、怒りを含めた声でそう言った。私はびっくりして、先生の膝から腰を上げた。父の怒りは母に向けられているようである。母が言葉を返す。しかし日常起居をともにしていない父の、突然の怒りに私は縮み上ってしまった。そうして例によって、その後の記憶は|喪《うしな》われている。
 なぜ、父があんなに怒ったのか、私には不思議だった。この出来事は後々まで妙に気にかかった。しかし私にはどうしても理解できなかった。
 そのころ、私には奇妙な癖があった。人が――それは道一つ|隔《へだ》てた本家から訪ねてくる祖母であろうと、|藪入《やぶい》りに在所へ帰る女中であろうと――帰る時、「お見送り」をしなければ承知できないのである。もしもそれを逸すると、私はじだんだを踏んで|悔《くや》しがる。幼い感傷というより、むしろ病的なものである。
「ほんなら帰るさかいな、おばあさんのよい後姿を、とつくり見てや」
 祖母などは帰るたびに、そんな風に声を掛ける。何が私にそんなことをさせるのか、私は知らない。しかし私の気持はそんな生温いものではない。そうしてそれを理解してくれない大人たちが、ひどく|歯痒《はがゆ》かった。
 次兄に連れられ、日の出を見に行った。門を出ると、幅二メートルばかりの川が流れてい、分厚い花崗岩の橋がかかっている。向かいは悌二郎叔父の家である。空はすでに明るかったが、あたりはまだ薄暗く、いかにも夜が残っている感じである。私は次兄の手をしっかり握り、小走りに歩いて行く。五十メートルばかり行くと、同じく石橋がかかってい、本家の表門がある。その反対に右折し、つまり悌二郎家の白壁の塀に沿って行くと、|上畑《かんばたけ》に出る。
 上畑は畠地で、ゆるく傾斜し、一筋の|往還《おうかん》を隔てて、遠く水田が連っている。|鎮守《ちんじゆ》の森を除けば、早朝の田園の風景はいたって清明である。はるか北方に伊吹山が聳えている。北から東へ、鈴鹿山脈の峰々が連っている。空は一面淡青色で、その一つの峰を中心にして、東の空が金色に光っている。
「あっこから、お日さん、出やすのや」
 次兄がその山の方向を指した。しかしその山の斜上の空には、灰色の雲が横たわっている。清々しい空に長々と横たわっている雲を見ていると、私はしだいに心細くなってきた。しかしそんな幼い感情を、今の私が語れば、どうしても嘘になろう。しいて言えば、「大自然」とでもいったものに対して原始人が抱いたような、感覚的な恐怖感ではなかったか。しかも白雲のある、壮大な風景はいちおう静止の状態にあると言える。その静止しているということが、かえって私を不測の不安にさせたのかもしれない。
 しかしその濃藍色の山頂の一点から、一瞬、真紅の宝玉が強烈な|光芒《こうぼう》を発したのは、さして時間を要さなかったであろう。そうして真紅の一点はみるみる朱金色の環となり、金色の半円となり、やがて黄金の円盤はゆらゆらと揺れながら、濃藍色の山稜を離れたことだろう。
 私の眼前の風景は一変した。朝の太陽は山野に照りわたり、それぞれの陰影はしだいにその色を濃くして行く。見ると、次兄の後にも、私の後にも、影法師が映っている。たちまち先刻までの心細さはすっかり消えた。私は朝日に向かって両手を上げ、万歳を叫びたい気持になった。
 八つの時、小学校に入学した。学校には脇村先生がいる。姉は六年、次兄は四年に在学している。しかし学校には、わが家などとはまったく異り、正しい秩序と、厳しい雰囲気とがある。私は敏感にそれを感じ、学校では緊張している。しかしその緊張感は私自身にとってもけっして不快なものではない。日ごろ、柔弱な自分を奮いたたせるようで、むしろ|快《こころよ》い。私は胸を張る思いで学校へ行く。私の帰りを待ちかね、春枝が橋の上まで出迎えていることもある。私はそんな春枝に不満の表情を装ったりした。
 一年の担任は長谷川綾子先生である。長谷川先生は髪を|束髪《そくはつ》に結い、紫の|袴《はかま》を着けている。当時、母や、祖母は丸髷、女中は蝶々髷に結っていた。私は丸髷という髪型を好まない。というより、積極的に|疏《うとま》しく思っていた。そのためか、その髪型ばかりにでなく、長谷川先生自身に、私は新味を覚えた。また長谷川先生は私たちには優しいが、半面、|凛《りん》として|侵《おか》しがたいものがある。私は全幅の信頼と尊敬とを持った。
 二年生になった。担任は新任の平井つや子先生である。平井先生は長谷川先生よりさらに若く、|庇《ひさし》の突きでた束髪に結い、同じく紫の袴を着けている。平井先生の若々しさは少年たちにも解るものか、運動場に出ると、私たちは競って先生の手にぶら下った。しかし平井先生の授業はかなり厳格で、私は快い緊張を解くことはなかった。
 そのころの田舎の子供たちは|猥褻《わいせつ》な言葉をよく口にする。もちろん、何の感情も伴うものでないから、かえってきわめて露骨である。それらの言葉が|禁忌《きんき》であることはうすうす知っている。しかしなぜ禁忌であるかは知らない。また少年たちにとって、禁を破るということはかなり魅力のあることでもある。
あちらこちらの壁や、柱に、妙な樂書もしてある。それに気づいた時には、というよりそれが記憶に残ったということは、私もそれが何を意味するかを知っていたことになる。特に人から教えられた覚えはない。少年たちの例の無邪気な会話から自然に知ったのであろう。しかし私は言葉としてだけ知っていたのである。もとより何の興味も起きるはずはない。しかしなぜそんなものばかり楽書するのか、私は不思議でならなかった。
 春枝が最初に暇をとった。それからいさも、やすもいつの間にか私の家にいなくなった。それに代って、みねと、とよと、かねが女中に来ていた。
 そのかねが大裏の物置小屋で死児を産んだという。母が顔色を変えて立ち上る。私もその後から|駆《か》けて行く。が、母が振り返って、私を制した。
「晋は来てはいかん」
 その語気の激しさに、私は足を停める。内心、私はひどく不満である。かねのことが気にかかり、しだいに不安になってくる。が、やがて和服に白い上衣を着た杉谷先生の姿を見ると、私はそっと家の中へ引き返した。あんなにうららかな太陽が照っている大裏の片隅で、ひどく不吉なことが起ったのに相違ないと思う。ふと地獄絵の血の池地獄が連想された。
 その夜中、かねは長持に入れられ、親許へ送り返されるという。しかし私は男衆の亥之吉の存在が妙に気になる。先刻から亥之吉は母に叱られてばかりいる。今も、定紋のついた|提灯《ちようちん》に灯を入れようとして、亥之吉は母から激しく|叱責《しつせぎ》されている。なぜ亥之吉があんなに叱られるのか、私はどうしても|腑《ふ》に落ちない。
 私は何とかしてこの疑問を解きたかった。しかし何か禁忌に触れるようでもあり、|躊躇《ちゆうちよ》される。ある時、とよが一人でいる。私は思いきってとよに尋ねた。
「赤ん坊はどうして生れるんや」
 なぜ私がとよを選んだか、不明である。しかしとよの美貌は私にも判っている。あるいは何らかの秘密を共有する場合のあることを|慮《おもんぱか》って、子供心にもとよを選んだか、と推測されなくもない。はたしてとよは当惑の色を示したが、やっと口を開いた。
「赤ん坊はなあし、神さんが授けておくれやすのどす」
「ふうん、誰にでも授けておくれやすのか」
「いんえ、お嫁に行くと、お祝いに、授けておくれやすのどす」
「ほんでも、かねはお嫁になんか、行ってやはらへなんだやないか」
「あれは、悪い神さんどしたんどす」
「ふうん、ほすと、悪い神さんはお嫁に行かん|女《ひと》にも授けやすんか」
「へえ、うっかりしてると、授けやすのどす」
「悪い神さんやな。とよもうっかりせんといてな」
「ほんなもん、わたしら、だいじょうぶどす」
 が、とよはなぜか顔を赤らめる。その顔に鮮かに血の色がさして行くのを見ながら、私はとよはそれほど安全なのであろうかと、危ぶんだ。
 次兄と私は鶏を飼っていた。雄鶏は体も大きく、みごとな|鶏冠《とさか》を|戴《いただ》いている。羽毛も美しく、脚には鋭い蹴爪がある。雌鶏は雄鶏より体も小さい。雄鶏は威風堂々と胸を張って、時をつくる。雌鶏はあわただしく鳴きたてて、産卵を知らせる。歩き方も、雄鶏はもったいぶった風に重々しく交互に脚を上げて、|悠然《ゆうぜん》と歩く。が、雌鶏はまるでつんのめりそうな恰好で、尻を上げて小走に走ることもある。雄鶏の男らしく、雌鶏の女らしい様子が、私にはいかにもおもしろかった。
 突然、まったく何者かにとり|憑《つ》かれたかのように、雄鶏が胸毛を逆立て、羽を拡げ、二つの脚を|摺《す》り寄せるよ
うにして、雌鶏に襲いかかることがある。初めのうちは、雌鶏は素知らぬ顔をして、雄鶏を避ける。が、二度、三度雄鶏が迫ると、雌鶏は雄鶏の次ぎの行動を予期するかのように、不意に脚を屈して、尻尾を|慄《ふる》わせる。雄鶏は雌鶏の|項《うなじ》の毛をくわえ、荒々しく羽を叩きながら、雌鶏の背に乗りかかる。雌鶏の中にはそのため項の毛が|剥《は》げているのもいる。
 年によって、雌鶏に卵を抱かせることもある。抱き鳥は毎朝一回だけ、箱の外に出る。そうして水を飲み、餌を喰べ、脱糞をする。が、それ以外は、箱の中に|蹲《うずくま》って、卵を抱き続ける。まるで苦行者の姿のようである。私は自分を抱き鳥の身に代えて、その苦痛を想像してみた。
 しかし卵は二十日ばかりで|孵化《ふか》する。|孵《かえ》った雛はすぐ立ち上ることができ、親鶏の羽の下から小さい脚を見せている。また雛には玉子色の産毛が密生していて、可憐である。親鶏は雛を抱いて満足そうである。きゅうに母鶏らしい貫禄もでき、体も一廻り大きくなったように見えるのも不思議である。
 鳩も十数羽飼っていた。鳩は雌雄とも姿が優しく、その別ははっきりしない。突然、|喉《のど》を|脹《ふく》らませ、だみ声で、荒々しく鳴きながら、首を上下に振りたて、振りたて、つまりきゅうにすさまじい形相になって、追って行くものがあれば、それが雄である。その先を、首をつっ立て、ひょい、ひょいといった|恰好《かつこう》で、逃げて行くのが雌である。が、雄が二度、三度と雌に迫ると、鶏と同じく、雌は自分から地上にしゃがみ、雄は羽を|慄《ふる》わせて雌の背に乗る。
 鳩は一夫一妻で、一回に二卵を産み、雌雄交互に卵を温める。|孵《かえ》ったばかりの鳩の雌は赤裸で、目ばかり大きく、かなり醜い。また鳩の雛は鶏の雛のように孵ってすぐ餌を|啄《ついば》むことはできない。親鳩は一度噛み下した餌を吐きだし、口移しに与える。やはり雌雄ともに餌を与える。雛が大きくなると、かなり大量の餌を与えるようで、親鳩の|嘴《くちばし》のあたりや、胸の羽毛がきたなく汚れている。
 早春の夕暮、奇妙な鳴き声が聞えてくる。好奇心が私を声の方へ誘って行く。鳴き声は雑倉の横の溝の中から聞えてくるようである。上体を屈めて|覗《のぞ》いてみると、薄闇の中に、大きな|蟇《がま》が小さい蟇を背負っている。さらによく見ていると、その奥の方にも同じ形のものが見えた。
 春になると、白壁の上に、たくさんの脚長とんぼが留る。中には、一匹が上を向き、一匹は逆さまになって、尾を|繋《つな》いでいるのもいた。蝶も草の上で尾を繋いでいる。とんぼは尾を繋いで飛んでいる。|螻《せみ》も幹の上で尾を繋いでいる。
 秋も|長《た》け、息が白く見えるような…朝、|蛾《が》の大群が発生し、朝の空を埋めることがある。俗に「よび蝶」と呼ばれている。|翅《はね》は透き通り、黒い翅脈がある。触角は櫛型で、|漆黒《しつこく》である。いかにも弱々しいが、少年の私は、魔法使の中から生れでたような妖気を感じた。
 学校から帰ってくるころには、蛾はおびただしい死骸となって、大裏の隅のあたりに散り落ちている。しかし板塀の上などに、尾を繋いで生き残っているのも、幾組かいた。
 鳥や、昆虫のこのような行為が何を意味するか、私はいつともなく知った。しかし生徒たちの言うように、また時には大人からも聞かされたが、万物の霊長たる人間(当時、この言葉は私の尊敬する人々の口からもしばしば語られた)の男女の間に、そのような行為が行われるとは、とうてい信じられなかった。たとえば父母の間のそのような行為を、心中ひそかに|窺〓《きゆ》するだけでも、はなはだしい|冒漬《ぼうとく》であると思った。
 たつという、愉快な女中が来た。初めて私がたつを見たのは、私の家の小便所である。私が便所への戸を開けると、奇怪な姿が目に入った。女がこちら向きに腰を折って、用を足しているのである。女は脚を開き、着物は膝の上まで上げられている。厳格な母は女中たちにもそのようなことは絶対に許さなかったので、私は驚倒した。私はあわてて戸をしめた。私が男女の器官に相違があるらしいことを実感した、最初の記憶である。
「おまい、この家のぼんか」
 しかし女は私を見ながら、平気で言う。よく見ると、女というより少女で、|稚児髷《ちごまげ》に|結《ゆ》ってい、小学校を|卒《お》えたばかりの年ごろである。私は少し|悔辱《ぶじよく》されたように思ったが、
「ほうや」と答える。
「女みたい、白い顔してるな。わしおたつや。この家へ|女子衆《おなごし》に来たんや」
「ふうん」
「広い家やな。見せていな」
「おこられやへんか」
「ほやかて、ゆっくり休んでいって、言わはったもん」
 私は先きに立って歩きだした。裏庭には|公孫樹《いちよう》の大樹がある。その隣に枇杷の木もあるが、公孫樹の勢に圧せられ、反対側ばかりに枝を伸している。
「いかい木やな」
 たつは公孫樹の側へ走って行き、両手を拡げてその幹に抱きついた。
「西光寺さんのよりいかいな」
 私はかまわず歩いて行く。たつはすぐ追いつき、後から言う。
「おまい、何ちゅう名や」
「晋っていうんや」
「ふうん。ほんでも、女みたい顔してるな」
 私はばかにされているようで、少し腹が立つ。が、今度はたつが先きに立って歩いて行く。木戸を開けると、梅林である。
「梅ならうち|家《ね》にもあるわ。けんど、梅は酸いさかい、ほない好かん」
「砂の中へ入ると、おこられるぞ」
 自然石を土で重ね、その上にむべ垣がある。それを廻ると、|苔《こけ》を敷き詰めた|前栽《せんざい》である。赤松を主にし、高野|槇《まき》、五葉松、|檜《ひのき》、|椎《しい》、ゆずりは、山茶花等が植えこまれている。|楓《かえで》も目立って多い。私は飛石伝いに歩いて行った。
「苔を下駄で踏むと、おこられるぞ」
「ようおこる|家《え》やな」
 築山の|裾《すそ》に、幹が六本に分れた松の木がある。
「よし、あれに上ったろ」
 たつがそう言ったかと思うと、突然、|跣《はだし》になり、|駆《か》けて行き、その一本の幹を上り始めた。たつはじつに巧に上って行く。しかし私はすっかり|度胆《どぎも》を抜かれた思いで、声を発することもできない。たつははだけた膝を巧に屈伸して、すでに高く上って行く。
 たつは松の一枝に腰かけ、二本の脚を垂れた。それからひどく気取った恰好で、片手を額に当てる。小手にかざしたつもりらしい。たつが何か言っている。しかしその声は聞えない。私は初のうちは|呆気《あつけ》にとられたが、しだいに愉快になってきた。
「たっ、東京が見えるか」
 しかし私の声も聞えないらしい。たつはやっと下り初める。上る時と同じく脚を屈伸して下りてくる。地上近くになると、たつは脚を伸したまま、滑り下りた。たつは気負たった風に、|顎《あご》を突きだして言う。
「|九居瀬《くいぜ》が見えたわ」
「九居瀬てなんや」
「知らんのか、わしの在所やないか。|愛知《えち》川の|上《かみ》や」
「愛知川やったら、川並山へ登らな見えやへんわ」
「ほやかて、ほやかて、九居瀬はあの山の下やわい」
 しかしその翌朝から、たつは母に叱られ通しである。まず言葉遣いが悪いといって叱られる。
「目上のお方に、『来やはった』とはなんや。 『来なさった』とか、『お出でやした』とか書うもんや」
 また行儀が悪いといって叱られる。
「女のくせに、なんや、ほないに立ちはだかって」
 しかしたつはあまり悲しそうな顔はしない。むしろ何のために叱られているのか、|解《げ》せない風である。それがまた母の小言の種になる。
「ほんまに横着な、蛙の面に水とは、このことや」
 しかしたつは使い歩きはすばらしく早い。その点だけは、いたってせっかちな母の気に入ったようである。
「たつは、はい帰ってきたのかいな。手紙はたしかに入れてきたのやろな」
「うん、ちゃんと入れてきたが」
「ほれ、また『うん』、ほれがいかん。『はい』とか、『へえ』とか言うのやほん」
 三年生になった。担任は里内校長先生である。しかし先生は休まれる日が多い。代って、西村先生や、磯田先生から授業を受ける。西村先生は中学校を出たばかりで、和服に小倉袴を着け、威勢のよい先生である。磯田先生は老先生で、女生徒たちのお下げ髪を結び合せたりする。私は新学年になった緊張感をあまり感じない。
 母の厳格な|躾《しつけ》には、さすがのたつもかなり応えているらしい。母の目を逃れては、私が遊んでいるところへやってくる。
「何してるんや」
 そう言って、しばらくは神妙にしているが、たつはすぐ威勢よくなる。
「晋さん、|睨《にら》み合いしよ」
 たつは私の方を向き、折り曲げた両腕で勢よく自分の脇腹を叩きながら、大きな声で言う。
「だるまさん、だるまさん……」
 子供のくせに、私は睨みっこは強い。まったく別のことを考えていればよい。が、たつは私を笑わせようと、片目をつむったり、口を|歪《ま》げたりしては、みずから|噴《ふ》きだしてしまう。すると、たつはいきなり私の大きな太鼓を引きずりだし、足を男のように踏み開き、|檸《げち》を擴り上げて、勢よく打ち鳴らす。
「九居瀬の太鼓や」
 九居瀬の祭礼の太鼓の鳴らし方の意で、たつはひどく得意である。
 また木のぼりに限らず、高い所はたつの好む場所のようである。たつは水屋の屋根に上って、母に激しく叱られたこともある。
 ある時、たつが顎を上げ、私の前へ喉を突きだして言う。
「こそぼってみやい。わしらなんともないわ」
 私はちょっとためらったが、そっとたつの喉に指を当てる。たつは平気な顔をしている。
「ほれみ、どうもないやろ。晋さんもこそぼってみたろか」
「ほんなもん、わしらこそばいもん」
「あかんこっちゃな。わしら|腋《わき》の下かて、こそばいことないわ。ほら、こそぼってもよいわ」
 たつは両腕を上げる。私は誘われるように、たつの両脇に手を入れる。とたんに、たつは大きな声を発し、腕を|窄《すほ》める。
「わあっ、こそぼ。やっぱりこそぼいもんやな。ほうや、晋さん、こそぼり合いしやへんか。じゃんけんで負けた方がこそぼられるんや」
「ほんなこと、かなん」
「晋さんは喉だけやが、なあ、しようまいか」
 自分の手で、自分の喉や腋を|擽《くすぐ》っても、何の感じもない。もしも、睨みっこの場合のように、まったく別のことをでも考えておればどうだろう、と私は考える。すると、妙な好奇心も湧く。
 私は承知する。初めのじゃんけんは私が勝った。
「今度こっさり、こそぼがらんほん」
 たつは自分から腕を上げる。が、私が手を伸すと、たつはいきなり腕を窄め、また大きな声を出した。
「わあっ、こそぼ」
「こそぼいて、手もさわったらへんのに」
「ほやかて、何や知らんが、こそぼかったもん。今度こっさりや」
 たつはまた腕を上げる。私は素早く手を差し入れる。たつは腕を窄め、苦しげに笑いながら、上体をくねらせた。
「わああ、こそぼかった。けんど、これ、おもろいな」
 次ぎは私が負ける。私はたつの前に喉を突きだし、算術の加え算をする。たつの指が喉に触れる。やはりひどくこそばゆい。私は顎を引き、たつの手を外す。
 その次ぎも私が負ける。が、奇妙なことに、この時は私の負けを意識したというか、少くとも予期したような記憶が微かにある。ところが、たつがいきなり私の腋の下に手を差し入れる。私はたつの違約を責めようとするが、あまりにくすぐったく、物も言えない。体をよじって、私はやっとたつの手から逃れる。たつがおもしろそうに笑いながら、手を振って言う。
「じゃんけん、じゃんけん……」
「もう、わし、せん」
「なんでや。ほんなこといわんと、もっとしようまいか」
 不意に、不思議な感情が湧いた。あるいはたつが約束を破ったことに対する、闘志のようなものであったかもしれない。
「よし、ほんならやろ」
「やろ、やろ」
 今度は私が勝った。たつはわずかに脇をあけたが、私が手を上げると、すぐ腕を縮める。たつは二度、三度と同じことを繰り返す。
「なんやい、たつて、わりにとろくさいのやな」
「よし、ほんなら、こうや」
 たつは両手を頭の上に上げ、両手の指を組み合せる。
「もう、どうなっとして」
 私は思いきってその腋の下に手を当てた。
「わあっ」
 たつはあわてて腕を下し、私の手を締めつける。が、そのため、私の手はかえって八つ口からたつの腋の中に入ってしまう。
「こそ……こ、こ、こそ……ぼ……」
 私の指はたつの肌に触れている。私は得体の知れぬ気持になる。報復の快感というより、あるいはより性欲的なものであったかもしれない。しかし私の両手はたつの両腕に挾みつけられ、引き抜くこともできない。私は逆に私の指を動かす。
「く、く、くるし……」
 たつは体を右に、左に|捩《よじ》って苦しむ。その顔は醜くゆがみ、紅潮している。最後に、たつは反りかえる恰好になり、斜め横に倒れる。その膝が割れ、膝小僧が出ている。が、たつは上体を伏せて、動かない。
「ああ、苦しかったわ」
 たつはやっと起き上った。その目には涙が光っている。が、たつは膝の着物を合せてから、意外なことを言う。
「けんど、なんでや知らんが、よい気持やわ。今度は、晋さんやかて腋の下やぞ」
 が、その時、たつを呼ぶ母の声が聞える。たつは舌を出して、出て行った。
 四年生になった。担任は小野先生である。脇村先生が校長になられる。この年、次兄が|膳所《せぜ》中学校に入学した。次兄はきわめて温和な性質であるが、体格が群を抜いて大きく、太ってもいる。したがって次兄の存在は無言のうちに生徒たちを圧していたわけである。その次兄がいなくなってみると、学校では私は自然に緊張を感じる。
 弟の明のことが私の記憶に残るようになったのも、このころからである。私の六つの時の母の大病は、弟を出産した後の|産褥熱《さんじよく》であった。以来、弟は本家の祖母の許で育てられていたからでもあるが。
 私は弟と本家の花園で遊んでいた。本家の花園は別屋敷になってい、上畑へ行く道を挾んで、悌二郎家と対している。その半ばは芝生になってい、ぶらんこもあって、私たちの恰好の遊び場になっている。開けっ放しになっていた門から、たつが顔を出した。たつは上畑の帰りらしく、手に提げた竹籠には青い豆が入っている。
「何してやすのや。明さんもおとなしいな」
 たつは言葉遣いもよくなり、行儀も改ったが、依然として快活である。
「あれ、ぶらんこや。ちょいと乗らしてもらお」
 たつはぶらんこに飛び乗り、脚を曲げて繰り初める。私はちょっとたつの方へ目をやったが、すぐ遊びの方へ目を返した。しかしそれがどんな遊びであったか、記憶はない。
 人の来る気配に顔を上げる。本家の男衆の万蔵が立っている。たつは威勢よくぶらんこを繰っている。万蔵はすっかり私たちを無視した態度で、片手を小手にかざして言う。
「これは、これは、絶景なり、絶景なり」
 しかしたつはぶらんこを少しも|緩《ゆる》めようともせず、上から言い返す。
「いやらしやの。ほんなところ立ってんと、早う、向こい行き」
「ひゃあっ、胸がだいこだいこ、腹がかっぶらかっぶら」
「あほいうてんと、早う行かんと、唾かけるほん」
「おたつどん、あきんどの節季や。もうけが見えたがな。後に未練はあるけんど……」
 万蔵は浪花節のような節で歌いながら、花壇の方へ引き返して行く。たつはぶらんこの上で、高く声を上げて笑つている。
 私にも万蔵の言った意味はもう判る。そう思うと、きゅうに好奇心が湧く。私はそっと顔を上げる。とたんに、裾《すそ》を翻《ひるがえ》した着物の中で、たつの二本の脚が弧を描いて、高く、私の視線を|掠《かす》め去った。しかし万蔵のいったようなものは何もなかった。
 五年生になった。担任は北村先生である。脇村先生は膳所中学校に転任された。次兄は先生の許に寄宿することになったようである。この年、弟も小学校に入学する。
 宿直室で身体検査を受ける。男生徒と、女生徒とは別である。当時の子供はパンツははいていない。男生徒たちは素裸で検査を受ける。しかしこの年齢の男生徒にはまだ|羞恥感《しゆうちかん》はない。むしろ解放された喜びから、騒ぎ廻っている。
 女生徒の場合は異る。この年齢の女生徒にはすでに羞恥心は目覚めている。宿直室の戸をしめ、女生徒たちは軽く興奮した声を発している。しかし廊下に面した宿直室の窓は紙障子で、ところどころ破れている。女生徒たちの半裸の姿も見える。
 女生徒たちは障子の破れに気づくと、大騒ぎをする。しかし男生徒の目が女生徒の羞恥を呼びおこしたのではない。むしろ逆である。女生徒の恥しそうな姿態が、男生徒の目を障子の穴に誘い寄せたのではないか。
 私だけの記憶によると、このころの私の性欲はまだ自分自身のものとしては目覚めていない。しかしもうたんなる好奇心だけで「女の子」を見ることはできない。女生徒の羞恥に誘われたかのように、そこはかとない感情を伴うようになった。
 そういえば、今までの身体検査も男女別であったか、どうか、というより、学校の身体検査などというものは全然記憶を刻んでいない。したがって、このころになって、「男の子」と「女の子」との区別をはっきり意識するようになった、と言える。さらにそのころの私にはまだ性欲はないが、すでに|仄《ほの》かな色情は|発芽《はつが》していた、と言えるのではないか。
 庭には雨が降り|頻《しき》っている。強い雨である。空は白い雲に|覆《おお》われているが、かなり明るい。私は中の庭の方へ歩いて行った。中の庭に面して、離れの間がある。女中部屋になっている。ふと見ると、とよが一人で昼寝をしていたが、その着物の前が乱れ、赤い腰巻の間から膝法師がわずかに|覗《のぞ》いている。私は見てはならないものを見たと思い、かなり動揺する。急いで視線をそらし、軒下伝いに歩いて行く。
 竪樋がある。雨が激しいためであろう。ごぼごぼと、いかにも過分の水量を吐きだすような音を立てている。雨水も泡立っている。私は何ということもなく、そこへしゃがみこむ。
 雨の中に|柘榴《ざくろ》の花が咲いている。朱塗りの小|燭台《しよくだい》のような、堅い|萼《がく》の上に、数片の赤い花弁が乱れている。雨は屋根の瓦を打ち、|軒廂《のきひさし》を叩き、木々の葉を鳴らして、かまびすしい。濁音や、半濁音のさまざまな雨音の中に、突然、梅の実の落ちる音がする。意外に大きい音である。
 夏季、七月に入ると、昼食後二時間、女中たちは休息の時間を与えられる。その間、彼女たちは多く私用を弁じるが、昼寝することも珍しくない。
 しかし、とよの先刻の姿は寸時も私の頭から離れない。なぜかといえば、とよが美人だからでもあろう。人もそう言うが、 この年ごろになると、私にも女の年齢や、その容貌の美醜も何となく判ってくる。その上、とよは不断からいたって行儀がよい。ひどい恥しがり屋でもある。が、あの時はとよの羞恥もうとうとと眠っていたのかもしれない。
 とよの羞恥が目を覚ました時、とよははたしてどんな顔をするか。それともとよはまだ眠っているか。さらにとよの姿には何らかの変化が生じているか。ひそかに好奇心が動く。
 しかし私の好奇心は今までのように、たんなる探究心だけではない。すでに何となく罪悪感を伴わないわけにはいかない。少くとも恥ずべき行為であることを知っている。また実際にも恥しい。が、女の示す羞恥の姿は、ひどく|甘美《かんび》な匂いを放つ。私は心にもなく、いつかその匂いに誘われて行く。
 そのころ、東の屋敷はすでに家屋は取り払われ、南を受けて物干しが立てられている。しかし厳格な母は女の下穿の類をその物干しに干すことを許さない。裏庭の物置小屋の軒下に、女中たちのそれらのものは干されている。そんな布切さえも、もはや、私は何気なく見過すことはできない。しかしそれらの布切に包まれているであろう、女中たちの肉体に想像を|逞《たくま》しくするほど、もちろん、私の色情は成熟しているわけではない。
 赤いのもある。|鴇色《ときいろ》のもある。新しいのもある。洗いざらして、色の欝せたのもある。とよのであるか。たつのであるか。まるで若い女の秘密が|曝《さら》されているようである。陛私は女中たちのつつましい羞恥を感じる。ことに森閑とした裏庭で、その色に白壁を染めながら、落日の斜陽に照り映えているような時、私はむしろ哀しみにも似た感情に襲われる。しかしそれは虚空に笛の音を聞いているような、はるかに遠い感情のようにも思われる。そうしてそんな感情が何に起因しているのか、もとより私は知る由もない。
 いつともなく、たつもすっかりおとなしくなった。たつはよく働いたが、その立居は見違えるばかりに女らしくなった。何がたつをこんなに変えたか、私は不思議でならない。また、人々もいうように、たつはめっきり美しくもなった。
「来やはった時は、雀の巣みたい髪してやはったが」
 するとたつの髪は|稚児髷《ちごまげ》ではなかったか。たしかに、あの時、前屈みになっていたたつの頭は稚児髷であった。しかしもはや、羞恥の感情を伴わないで、たつのそんな姿を回想することはできない。私は片手を額にかざし、たつをからかう。
「たつ、たつ、九居瀬が見えるわ」
「もうほれだけは、言わんといておくれやす」
 たつは赤く顔を染めた。
「たつ、またこそぼり合いしようか」
 私がそう言えば、たつは何と答えるか。私は少なからず興味を覚える。しかしたつのふくらかな姿態を見ていると、私はどうしてもそれを口にすることができなかった。
 そのころから、私はテニスに熱中するようになる。学校のコートは六年生がほとんど独占する形になっている。私は母にネットを買ってもらう。ラケットは兄たちのが何本かある。私は東の庭の空地をコートにし、友だちを誘ってきて、球が見えなくなるまでラケットを振る日が多くなった。
 テニスだけではない。私は野球や、相撲にも興味を覚え、新聞の運動記事をまっ先に見るようになる。当時の野球記事は美文調で、ひどく勇ましい文章が多かった。
 私がスポーツを好むようになったのは、もちろん、兄たちの影響である。しかし私の中の男性的なものが発育して行くにつれ、私はいつともなく自分の容貌や、性格に嫌悪を感じ初め、つねにより勇しく、より男らしくありたいと、無意識のうちに願い続けていた、その一つの現れであると思われる。
 私はまた私の家の古臭い家風に反感を抱き初める。そうしてその厳格な|遵奉者《じゆんぼうしや》である母と、よく言い争うようになった。
 六年生になった。担任の先生は堀先生である。私は最上級生になり、緊張感を新しくした。
 が、ある日、私の名前と、同級の女生徒、新村淑子との名前を連ね、例の女のものを描いた楽書を発見する。しかも楽書は私の家の、道路に面した白壁の塀の上に、大きく書かれている。私は自分の顔の上を汚されたようで、ひどく不愉快である。淑子の家と、私の家とは遠縁になるが、二人は学校以外で顔を合わせたことはない。まったく無意味というべきである。しかしけっして名誉なことではない。私は何となく腹が立つ。
 翌日、私は学校へ行った。奇妙なことに、私はいつものように虚心でいることはできない。それでいて、それとなく淑子の姿を探している。淑子は学業も勝れ、体格も近来きゅうに成育し、女生徒の先頭である。容貌もすでに美しい|輪郭《りんかく》を整え初めている。そんな淑子を見出すのに、私はさして時間を要するはずはない。
 淑子の視線が私を捕えた。そう思った瞬間、淑子はさっと顔を赤らめ、急いで視線をそらした。すると、私の意志には関係なく、私は私の顔も淑子のそれと同じ色に染っていくのを覚えた。
 とよが嫁入りするので、暇を取るという。とよに限らず、女の人が嫁入りしても、友だちが口にするようなことをするとは、私は信じられない。しかしとよのむしろ悲しげな笑顔を見ると、ふと、疑いが湧かなくもない。さらに私にそんな疑念を抱かせたことが、とよにとっても、私にとってもひどく恥しいことのように思われる。とよの生家は伊吹山麓の農家である。|嫁《とつ》ぐ家も農家であるという。とよからよく聞いた、|鄙《ひな》びた山家の風景の中にとよの姿をおくことによって、私は私の心をまぎらすよりほかはない。
 とよに代って、清子が来る。清子の故郷は山上であるという。たつの話によると、山上も愛知川に沿っているが、九居瀬よりずっと下流で、町のように|賑《にぎ》やかな所もあるという。清子はたつより一つ年下であるが、高等科も出ていて、たつの場合のようなことはまったく見られなかった。
 六年生になると、かなり忙しい。私は学校の運動場のコートでテニスをする。選手にも推され、対校試合にも出場する。堀先生は授業に熱心であるから、うっかり復習を怠るわけにはいかない。中学校の入学試験の準備もしなければならない。
「お尻まくりやはった」
 誰かが大きな声で言う。二三の生徒がそれに和する。するとこのばかげた遊びが始ったことになる。そうして全校の生徒は否応なしに参加したことに、まるで習慣法のようになっている。その代り、よほどの無法者でない限り、不意打ちは行わないことに、これまた同様決まっている。しかし私は|袴《はかま》を|穿《は》いているので、自然に参加しないことになっている。
 こんなぼかげた遊びが始っても、何分小学生のことであるから、さして重苦しい変化は生じない。むしろ屋内運動場にはどこかおどけた、はしゃいだ空気さえ漂っている。
 下級の女生徒の中には、着物の裾を股の間から持ち上げて、走り廻っているものもいる。上級の女生徒たちも今までの遊戯を中止したりはしない。しかし周囲に注意は怠らない。また、お手玉をつきながら、壁を背にする位置に後退するものもいる。
 男の生徒たちもせっかちに追い廻したりはしない。そ知らぬ顔をして、女生徒たちの隙を|窺《うかが》っているのである。つまり男生徒たちと女生徒たちの問には微妙な心理作戦が行われている。そうしてそのいずれもが複数であるところに、複雑な興味が生じる。
「ばかげた遊び」と言った。が、小学校も上級になると、女生徒たちははっきり羞恥の色を示すようになり、私の心の中にもそれを反映するものが生じた。もはや、私には「ばかげた遊び」などと言える資格はない。私は何知らぬ顔をして、一人雑誌を開いているが、私の目は誰よりも強い興味を持って、この「ばかげた遊び」に参加していた、と言えなくもない。
「今日こっさり、お淑をやったうまいかい」
「うん、やったろ」
 清九郎と与吉との話声が、私の耳に入る。一瞬、私はぎくりとなる。しかし私は二人の話に驚いたのではない。奇怪なことに、私もひそかにそれを期待していたのではないか、と気づいたからである。
 上級の女生徒たちは数人ずつ集ってそれぞれの遊びを続けている。が、もちろん、少しの油断もない。最近、背丈もさらに伸び、娘らしい|恰幅《かつぶく》も増した淑子の存在は、すでに先刻から私の視線の中に入っている。淑子はお手玉をついている。六つ玉くらいであろう。かなりの数のお手玉を無心に操っている。しかしそんな淑子の姿はいかにも隙だらけのようで、ひどく危い。
 清九郎と与吉とがゴム|毬《まり》を投げ合っている。与吉がその毬をそらし、それを追っかけて行く。すると淑子はお手玉をつきながら、ゆっくり足を廻して向きを変え、与吉に後を見せない。
 一見、淑子はむしろ男生徒をいざない戯れているかに見える。しかし敏感な淑子は容易に乗ずる隙を与えないのであろう。私は今までに淑子がこの難にあったことを知らない。
 |山羊《やぎ》の一群を率いているような、年を経た山羊は、むしろみずから進んで、その姿を猟師の視野の中におくという。あるいは淑子もみずから進んで、男生徒たちの視線を引きつけておくことによって、逆に相手の行動を|窺《うかが》い、自分の注意力をつねに緊張の状態におくのかもしれない。
 淑子がお手玉を落したようである。代ってまき子がつき始める。突然、反対側の女生徒たちの間に動揺が起り、専太郎がその間から抜けだしてくる。五年生の菊枝である。菊枝は着物を押えたまま、床板の上に坐っている。
 相変らず、生徒たちは右に左に駆け廻っている。その間を縫って、またゴム毬がまき子の後方へ転って行く。今度は清九郎が追っかけて行く。
「清やん、ここや」
 与吉は両手を挙げ、毬が投げ返されるのを待っている恰好である。淑子がまき子に注意を与えている。まき子が急いで向きを変えようとしている。その時、寅吉が便所の出入口から顔を出した、と思った次ぎの一瞬、淑子の|裾《すそ》が開き、二本の脚が見えた。が、淑子は素早く裾を押え、激しく体を|捻《ひね》って、背後の手を振りきったらしい。淑子は両手で顔を|覆《おお》い、片隅に身を寄せる。寅吉と清九郎は、大物を射止めた猟師のように、小躍りして帰ってくる。私は急いで雑誌の上に目を返す。
 私は淑子の|悔《くや》しさがよく判る。身に染みて判る。私が一人の女生徒にこんな強い気持を抱いたのは初めての経験である。楽書のせいかもしれないが、自分のことのように恥しい。しかしいったい、恥しいとはどういうことだろう。どう考えてみても、判らない。しかしとにかく、女でなくとも、あのようなことをされれば、恥しいに相違ない。理由はない。
 それにもかかわらず、なぜ、私は先刻あのような恥ずべきことを期待したのか。しかもあの一瞬の、淑子の羞恥の姿は、私に淑子の丸いお尻を幻覚させるに十分であつた。つまり私の恥ずべき期待は満されたわけである。しかしこれを逆に言えぼ、もしも淑子が羞恥の表情を示さないとすれば、女生徒の|臀部《でんぶ》などに興味があろうはずがない。するとまた、羞恥とは何だろう、ということになる。
 私は教室へ入ってからも、ぼんやり同じことを繰り返して考える。じかしもとより解決のつくはずはなかった。
 私たちの村に電灯が|点《とも》るようになったのは、その年の晩秋のことである。電柱に人が上っていると聞き、私は表へ|駆《か》けだした。淑子がいる。淑子だけである。二人は顔を赤らめ合って、会釈をする。電柱には工夫が上っている。私は淑子に何か言葉をかけなければならないように思う。しかし顔を赤らめないではできそうにない。私は思いきって言う。
「今夜から、ともるんどすやろか」
「ほうどすて。けんど、あの方が下りやさんと、ともらんそうどす」
 やがて工夫が電柱から下り始める。私は淑子と別れ、私の家へ駆け帰った。しかし電灯はなかなか点らなかった。
 十四の時、膳所中学に入学し、次兄とともに脇村先生の許に預けられる。脇村先生は淡水魚問屋の離れ家を借り、私たちは自炊していた。
 その離れ家のま下は掘り池になっている。鯉や、鮒や、緋鯉や、緋鮒が|活《い》けてある。|鯰《なまず》や、|鰻《うなぎ》や、ぎぎの類は丸い籠に入れて、漬けてある。その池のある庭を隔てて、すぐ湖の岸である。先生と兄の机は横に向かい合い、私の机は正面むきに並べておくので、私は机に向かいながら、うららかな春の湖の風景が眺められた。
 また、その庭の石段を下りると、石を組んだ突堤が湖水の中に突きでている。左手には、近く長等山や、比叡山や、比良の山脈が見られる。右手には、三上山のある風景を中心にして、湖東地方の山野が望見される。私はよくこの突堤に立って、故郷の家を思った。小学校も上級になると、勝気な上に封建的な母とは、私は毎日のように衝突した。しかし家を離れてみると、私は無性に母が|慕《した》わしい。突然そんな私の耳に、湖上を渡る汽船の上から、女学生たちの華やかな合唱が聞えてきたりもした。
 中学校では、小学生のような露骨な言葉は口にされない。私は少なからず誇らしい気持になる。が、それに代って、「稚児さん」とか、「少年」とか呼ばれる、妙な風習のあることを知る。
 小学校の六年生の時、私は京都の女学校に行っている姉から、「カチューシャの歌」を教えられ、男女の間に恋愛の関係があることを解した。というより、ひどく哀切なことのよらに思われ、むしろ私は|憧慢《どうけい》に似た感情を抱いた。男と男との間にも、それに似た関係があるのかと、不審に思う。しかし上級生の間で、私も「少年」の一人にされていることを知り、中学生になった誇りを、すっかり傷つけられてしまう。
 私は男らしくありたい、勇しくありたいと虚勢を張ろうとする。が、旧制中学校の上級生たちはすでに一人前の男である。声も太く、髭も生えている。私はまず肉体的に圧倒されてしまう。そんな上級生たちに遠巻きにされ|囃《はや》したてられたりすると、私はもはや収拾がつかなくなる。私は心にもなく顔を赤らめ、校庭の隅の方へでも逃げて行くよりほかはなかった。
 七月に入り、梅雨が明けると、私らの中学校では必修科目としての水泳が始まる。しかし私は全然泳ぐことができない。赤帽組である。泳ぐことのできる距離によって、赤、赤白、青の帽子に別けられている。水泳の教師は黒帽である。が、一年生の中にも、すでに青帽の生徒もいる。まったく|羨《うらやま》しい。ようやく終り近く、私は浮き上ることができたばかりである。来年を期すよりほかはない。
 そんなある夕方、私は食器を洗いに突堤へ出た。ほとんど同年配と思われる娘が三人、少し離れた|汀《なぎさ》にいる。娘たちはいずれも|浴衣《ゆかた》に|兵児帯《へこおび》を締め、その素足を小さい波に洗わせている。魚問屋の娘の加代もその中にいる。加代は私と同年で、高等科へ行っている。笑うと、白い八重歯が印象に残る。娘たちはわずかに着物を|紮《から》げ、笑いながら、少しずつ深みへ進んで行く。
 隣家の|崕《がけ》の上に、若い男の姿が現れる。男は無言のまま、いきなり娘たちの方へ石を投げる。娘たちはいっせいに振返ったが、やはり無言で笑いながら水中を逃げてくる。その娘たちの背後に、石は続けざまに飛沫を上げて落ちる。娘たちは勢よく水を飛ばして、私のいる突堤に向かって進んでくる。着物の裾は膝のあたりまで捲くられている。しかし娘たちはまるで水遊びを楽しんでいるかのように、始終笑いを浮べている。が、突然、娘たちは足を停め、少し|迂回《うかい》して方向を転じ、反対側の突堤の方へ進んで行く。
 まだ少女のようなしなやかな脚が、活撥に水を蹴って動くたびに、水は飛沫を上げて乱れ騒ぐ。その娘たちの後姿を明るい斜陽が照している。石を投げる男たちの目的は、娘たちをもっと深みへ追いやることにあったらしい。しかし彼女たちの快活な行動が、私にそんな興味を抱かせなかった。私はむしろ三人の娘のいる、きわめて明るい色彩の風景画を見ているような、清潔な印象を残した。
 一学期の試験を終った。私は間に合う汽車で母の許へ帰ることにしている。無性に|嬉《うれ》しく、まったく心もここにない思いである。が、そんな時、一人の同級の生徒から一通の手紙を渡される。
「えんしょ(艶書)や」と言って、その同級生は逃げて行ってしまう。私は何事か、了解に苦しむ。急いで寄宿先に帰り、とにかく封筒を開く。差出人は五年生の庭球部の選手で、石鹿公園で会いたいという。が、私はそれどころではない。帰心で、胸がいっぱいである。
 しかし私はその手紙にーあるいはそんな男と男との関係に――|朧《おぼろ》げながら罪悪的なものを感じたのは事実である。私はマッチの火でその手紙を焼いた。しかし紙の焼けた|残滓《ざんし》は始末の悪いものである。やっと新聞紙にくるみ、湖水に投げ捨てる。そうして私は停車場に駆けつけた。
 汽車が瀬田川の鉄橋を渡る時、私たちの間で「グリーンランド」と呼びならされている、石鹿公園の緑の突端が見える。その時、ふとあの五年生のことが私の頭を|掠《かす》めないでもなかったが、初めて帰省する喜びがあまりに大きく、それ以外のことは、私の頭に長くは留らなかった。
 翌朝、故郷の懐しさの、まるで余韻を楽しむかのように、私は散歩に出る。
 太陽は東の空に上っているが、その陽ざしはまだそれほど烈しくはない。幼い時から見馴れた風景の中には、伊吹山も、県境の山々もある。首を返すと、観音寺山や、明神山の懐しい姿も見える。朝風は清々しく、|草叢《くさむら》の露は私の素足を|濡《ぬ》らす。|上畑《かんばたけ》のゆるい傾斜を下ると、見わたす限り青田である。稲は絶えず緑の波を立て、その中に降り立っている鷺の姿が目に染みて白い。
 私は街道に出、さらに左に折れて、村の中に入る。私は膳所中学の徽章のついた麦藁帽子をかぶっている。かなり得意である。少し行くと、庄右衛門の藪である。私の家の前を流れている川はこの藪に突き当り、きゅうに左折して流れている。ここの淀みで、二十センチばかりの鯉を捕ったこともある。
 川に沿って進み、石橋を渡って右に折れ、本家と私の家との間の道を歩いて行く。私の家の塀に書かれている例の楽書を思いだす。路上には人はいない。私はそっと白壁の方へ目を向けた。
 思わず、私は息を詰めた。「晋」と「およし」と、名前は以前のままである。しかし例の女のものには、その周囲に数本の線が引いてある。陰毛のつもりらしい。たしかに新しく書き加えられたものに相違ない。少しあくどすぎる。あるいは同一人でないかもしれぬ。別人が意味もなく、筆を加えたのかもしれない。初めから陰毛のある楽書はどこにもある。別に何の感じも与えはしない。しかしこの楽書が変化したということが、私に妙に実感を起させる。淑子は隣村の高等小学校に通っている。いかにも惨酷に過ぎる。私は淑子の羞恥を思い、不意に、私は強い性欲的刺戟を受ける。
 夏休みが終り、私は膳所の寄宿先へ戻った。毎朝、この淡水魚問屋の突堤を目ざして、漁船が多く集ってくる。そうして問屋の庭で魚市が立つ。売手は|袖《そで》の中に手を隠し、買手はその中に手を入れ、指と指とで、取引が行われるらしい。もろこ、ひがい、はす、ぎぎ、いさざ、かまつか、小えび等、淡水魚の種類は少くない。
 買手の中には、女の|棒手振《ぼてふり》も二三人いる。ほとんど同じ装束で、短い着物の下に、袷《あわせ》の腰巻をはき、紺の脚絆《きやはん》をつけている。市を待つ間などには、かなり|卑猥《ひわい》な会話も交されているらしい。私たちの部屋では話し声は聞きとれない。しかし変な笑顔と、表情で、私にもそれと察しられる。
 ある日、|牀机《しようぎ》に腰かけている男が、突然、その前に立っている女に、両手を拡げる。すると女は尻を突きだして、男の膝に乗る。男は後から両手で女の胴を抱いている。女は盛んに腰を揺っている。例の笑声が起る。女の前は割れ、膝頭の奥まで、その内側を|覗《のぞ》かせている。しかし女には少しも羞恥の表情はない。大口を開いて笑っている。
 もちろん、二人がふざけていることは、私にも判る。しかし私は今までにそんな女の姿を見たことがない。そのころ、私は人間の性の行為を疑うことはできなくなっていた。しかし強い羞恥の感情を伴わないで、それを考えることはできない。したがって、私は女の振舞をまったく|唖然《あぜん》とした気持で見ているよりほかはなかった。
 二年生になった。脇村先生が京都大学の国文科に学ばれることになり、私たちは大津市の関寺町に移った。関寺町は大津市の西南端にあり、学校までは四キロ近くある。しかし乗物を用いることは校則が許さない。毎日、私は往復の道を歩いた。
 私の胯間に、薄く発毛しているのに気づいたのは、その夏休み、風呂場でのことである。その夏、私の水泳はおおいに進歩した。十町の試験を通過して、赤白の帽子になり、ついで青帽になり、最後に石場、石山間の三里の遠泳にも合格した。しかしそんな日々の脱衣、着衣の際にも、その徴候は見えなかったのである。
 初め、私は驚きとともに、羞恥を覚える。しかしその恥しさの中には、自分もどうにか大人になるのかと、妙に得意な気持も交っていた。が、私はしだいに不安になってくる。自分の意志には関係なく、自分の体が変化するのである。まったくの無断であり、無理強いである。しかも|拒《こば》むことができない。ひどく惨酷なことのように思われる。さらにこれからもどのような変化が起るか、判ったものではない。自分の体が無気味である。
 自分の体の変化につけても、私はいよいよ男らしくありたいと願う。この四月、私は庭球部から野球部に転じた。野球の方がより男性的であると思ったからである。が、すぐ投手である五年生の「少年」にされる。
 次兄はその性質は温和であったが、体格はひどく肥満している。ボートの選手で、四番を|漕《こ》ぎ、柔道は初段である。そんな関係もあって、柔道の時間には、上級生の選手たちによく引張りだされる。私は勇敢に立ち向かうが、すぐ寝業に押えこまれる。私の皮膚は他人の皮膚にじかに接触されるのをあまり好まない。その上、上級生のこわい髭が、私の頬を刺して痛い。私は相手の体を叩いて、すぐ「まいった」をする。
「新村、もっと頑張って」と、私は柔道の教師に叱られる。
 私が「よくない行為」を覚えたのも、そのころのことである。私の場合、誰かに教わった覚えはない。しかし最初は意識して行ったわけでもない。気がついた時には、私はすでに自暴自棄のような|昂奮《こうふん》に襲われていた。どうしてそんな成行になったか、まったく判らない。しかしひどく恥ずべき行為であることは判る。何かの罪を犯したようでもある。得体の知れぬ恐怖を感じる。
 しかし次回からは、私は意識して行ったと言わなければならない。もちろん、初のうちは強く自戒している。たとえば、ファーストバッターとなって、バッターボックスに立っているような、きわめて勇しい自分の姿を頭に描いてみたりする。無念無想、というようなことも考えてみる。しかしこの時ほど、自分というものが完全に二つに分裂していることを自覚させる場合は少い。そうして一方の自分がしだいにもう一方の自分に征服されて行くのを意識する。それでも強い罪悪感を伴った羞恥が、一方の私に懸命の抵抗を試みさせる。しかし一定の限界を越えると、奇怪なことに、羞恥までが私を裏切ってしまうようである。つまり何ものかが私の手で私の羞恥を裸にすることを命じる。私の羞恥は|狼狽《ろうばい》する。が、命令者はきわめて|執拗《しつよう》である。私は被虐的な快感を伴って、ついにその命令に服するよりほかはない。
 
 
 三年生になった。その三月、次兄は卒業した。野球部の投手も卒業した。私はやっと独立ちした感じで、おおいに男性的行動を取ろうとする。が、私はいつの聞にか四年生の柔道部の選手の「少年」にされてしまう。彼は六尺近い肥大漢である。私の次兄の後継者というよりは、より有望視されている生徒である。私などの|適《かな》うものではない。
 生徒ばかりではない。さらに若い教師たちからも妙な目で見られたり、変なことを言われたりする。生徒たちは|囃《はや》したてる。すると私の顔は、私の意志に反し、すぐ真赤になる。表情だけではない。私の物腰にも受身の形が現れるらしい。私はそんな自分を嫌悪する。しかしどうなるものでもない。
 次兄がいなくなったので、私は脇村先生と床を並べて寝る。ある日曜日の朝のことである。私が起きようとすると、先生の手が伸び、私を先生の蒲団の中に引き入れようとする。私は少しく驚く。しかし私は先生を誰よりも尊敬している。幼い時、先生の膝の上に腰をかけて、父に叱られた記憶もある。肉親的な近親感も持っている。私は先生の手を|拒《こば》むことはできない。私は先生の蒲団の中に入れられる。先生は私を強く抱き締める。日ごろは、先生は絶対にといってもよいほど、感情を表さない。私は先生の腕の中で、自分はこんなに愛されていたのかと、そんな自分を幸福に思った。
 以来、日曜日の朝の一刻を、私は先生のごつい木綿の蒲団の中で過すようになる。先生の腕の中で、私はきわめて快活に甘ったれることも覚える。しかし、もとよりそれだけのことにすぎなかったことは言うまでもない。
 四年生になった。あの柔道部の選手が原級に止ったので、私と同級になる。つまり私は中学校を卒業するまで、「少年」であることを|免《まぬか》れないことになる。がっかりする。
 その五月、次兄が亡くなった。|粟粒性結核《ぞくりゆうせいけつかく》であった。次兄はきわめて頑健で、今まで病気らしい病気をしたことがない。私は|愕然《がくぜん》とした。そうして悲歎した。しかし弱年のゆえであろう。私は死そのものについては深く考えることはなかった。
 本家の伯父には子供がなく、私の長兄が本家を継ぐことになっている。したがって次兄の死によって、私が私の家の|後嗣《あとつぎ》になる。しかしそれについても、私は何も考えない。やはり年齢のゆえであろう。
 五年生になった。弟が膳所中学に入学した。脇村先生の許でともに起居することになる。弟は祖母育ちで、私にずいぶん世話を焼かせる。
 私は野球部の委員になる。来年からA新聞の全国的な大会に出場できることになり、チームは下級生中心に編成する。したがって他校へ遠征する場合、私がチームを引率する恰好になる。しかし相手校の運動場に入ると、私は私に注がれている、特殊な視線を敏感に感じとる。
「ええ子やないか」
「どうや、一晩、抱いて寝たうか」
 そんなことを言われたりする。たちまち私は面目を失してしまう。
 私はまた弁論部にも加わり、正義派的な言動をするようになる。下級生のために、教師に喰ってかかったこともたびたびある。休暇中女中を|庇《かば》って、母と衝突したことも数えきれない。しかし修学旅行で旅館に泊ると、女中たちがかわるがわる私の部屋を|覗《のぞ》きに来たりして、私の男らしい|矜持《きようじ》は一ぺんに吹き飛んでしまう。
 いつか、私の|腋窩《えきか》にも毛が生え、胯間には、臍下から会陰部へかけ、陰毛が生え揃った。亀頭は包皮で包まれているが、陰茎も、睾丸も大きくなった。かなり醜悪である。もちろん、性欲を|催《もよお》すと、私の意志とはまったく関係なく、私の陰茎はその現象を呈する。私は恥しく、情なく、|苦々《にがにが》しいが、どうなるものでもない。つまり好むと好まないとにかかわらず、否応なく、私は一人前の男になってしまったのである。
 小学生のころはその覚えはないが、中学生になってから、私はよく脳貧血を起した。頭がふらつく程度で、やがて治る場合もある。が、突然、その場に倒れ、教師たちを驚かすこともある。そんな時は、一時は意識もなくなり、顔面は蒼白で、唇の色も失われてしまう。
 また始終頭痛がした。ことに午後になると、|顳額《こめかみ》に動悸を打って痛んでくる。あるいは「よくない行為」のせいではないか、とも疑う。私はさらに不愉快になる。とにかく、そのころの私は感情が変りやすい。事実以上に|憂鬱《ゆううつ》を装いたくなるかと思うと、きゅうにひどく快活に振舞ってみたりした。
 もちろん、学校では性は厳しく|禁忌《きんき》されている。恋愛も禁じられている。異性との交際も不可能である。しかし上級の生徒たちは、彼らが好むと好まないとにかかわらず、すでに一人前の男であることは、私に限ったことではあるまい。しかし彼ら(もちろん、私を含めて〉の性はどこにもはけ口がない。言ってみれば、性の中に密閉されている、|俘囚《ふしゆう》のようなものである。したがって彼らはどんな|些細《ささい》なはけ口でも、見逃すようなことはない。たとえば漢文の教科書に「蛟竜得雲雨、云々」とある。するとそれだけで彼らの間にはただならぬ動揺が伝わる。「蛟竜」の解釈が問題なのである。そういえば「少年」などというのも、彼らにとっては、禁じられた恋愛感情の、はかない発散なのであろう。
 しかし彼らはきわめて健康ではあるが、まだ分別も定らぬ年齢である。ラブレターを送って、停学になった友人も幾人かいる。|鬱屈《うつくつ》した性欲に操られたかのように、寄宿舎を抜けだし、娼家に上って、退校処分に附された同級生も一人いる。また一人の親しい友人が私に言う。
「君のような人に、こんなこと言うて、悪いけんど、僕は、あの人の胸の中に手を入れたんや。柔かいお乳の下で、あの人の心臓が鳴ってるやないか。うちらもう富もいらん、名誉もいらん、と思うたんや。あほな奴やと、笑うてくれやはるかしらんけんどね」
 二人は大津の県庁裏の堤に腰を下していた。月見草が咲いている。空には、星が光っている。私も恋愛に対しては感傷的な|憧慓《どうけい》を抱いている。彼を笑うことはできない。が、私には、若い女の胸に手を入れるほどの勇気はありそうもない。
 しかし私の男性の肉体と女性的な感情とは互いに倒錯し、鬱屈して、かなり異常な性欲癖を作ったようである。強い羞恥を感じる時、ひどく無念な時、私の性欲は昂進する。ある時、暴力が弱者を凌辱する記事を読んでいて、突然、私は下着を汚した。
 翌年、膳所中学を卒業し、京都の第三高等学校を受験する。身体検査の時、私は初めて性器の検査を受ける。私はカーテンの中に入り、医者の前に立つと、あらかじめ命じられたとおり、ズボンを下げ、性器を出す。腹の皮まで赤くなる思いがする。
 医者は私の陰茎をつまみ、包皮をむく。強い痛みを覚える。が、医者はすぐ包皮を返し私の顔を見て言う。
「マスをやるな」
 私は蒼白な感情になる。しかし私は弁解のしようがない。またその暇もない。私は急いでズボンを引き上げる。そうして私はひどく屈辱的な気持を抱いて、カーテンの外に出るよりほかはなかった。
 前日の数学の試験の時である。どうしても解けない問題がある。時間はしだいに迫ってくる。ほかに自信のないのが二題もある。私はますます焦ってくる。頭はかっと上せてしまい、思考力をどうしても集中することができない。ついに鐘が鳴りだした。突然、私の性欲が昂奮し、扁瞬のうちに下着を汚してしまったのである。
 三高の試験に失敗する。以来、一年間、私は|憂鬱《ゆううつ》な日日を送った。
 翌年、私は第三高等学校に入学した。初め私は脇村先生の許から通学する。先生の許には、弟が引続き厄介になっている。昨年、先生は結婚された。が、私は依然として先生に心服している。むしろ先生の新家庭を祝福している。弟と違って、私は新夫人にも好感を持たれている。が、私は電車という乗物をあまり好まない。ことに京津電車の揺れ方はひどい。また内心にはやはり独立してみたい好奇心もなくはない。
 ある日、友人と素人下宿の部屋を見に行く。中年婦人が狭い|三和土《たたき》の小路を通って案内してくれる。部屋は都合よく離れ風に独立している。が、ふと見ると、狭い庭に腰巻が干してある。赤や、|鴇色《ときいろ》や、模様のあるのや、色とりどりの腰巻がたしかに五六枚は干してある。娘が多いのかもしれぬ。が、私は少なからず|辟易《へきえき》する。
「さあさあ、お茶いれまっさかい、一服しとくれやす」
 私が田舎風に菓子箱など持参したためか、いたって愛想がよい。
「新村はんて、江州の新村はんどすか」
「そうですが」
「ほんなとこのおぼんはんに下宿してもろうて、ほんまに光栄や思いまっせ」
 私はすっかり当惑顔で外に出る。
「新村、惚れられるぞ」と、いきなりその友人が言う。
「娘がいるらしいね」
「うん、娘だけじゃない。あのおかみだって、嫌な感じだったじゃないか」
 私は気味悪くなる。そういえば、狭い露地に干してあった腰巻の色にも、私は何か不吉なものを感じた。女に対して、そんな感情を抱いた最初の経験である。もちろん、私はその素人下宿は破談にした。そうして今まで気の進まなかった、父の店の旧番頭の貸家を借りることに決める。
 その私の仮寓は三条大宮を東へ入ったところにある。京の三条通も堀川を西へ渡ると、あのしっとりと落着いた気品は失われる。小さい小売屋が軒を並べ、客を呼ぶ声もかまびすしく、かなり|猥雑《わいざつ》な街になる。
 通りに面した商店と商店との問には、きわめて狭い露地が幾筋も通じてい、それを通り抜けると、決って二軒、三軒と|仕舞屋《しもたや》が建っている。私もそんな一軒を借りていたが、階下は昼も薄暗いので、二階を書斎に当てていた。
 その二階の窓の下にも狭い露地が通ってい、その奥の家には若い、|琵琶《びわ》の女師匠がその妹と住んでいた。夜になると、近所の若者たちが習いに来て、|賑《にぎ》やかな話声が止むと、琵琶の音が聞えてくる。時には、女師匠が練習しているのか、昼問も琵琶の低い音が鳴っていることもあった。
 当時の京の町家の小便所は、朝顔がなく、壷がむきだしになっていて、わずかに板で仕切られているにすぎないものが多かった。その上、京の女は後向きになって、立ったまま用を足すので、その音はひどく庶民的な音を立てる。
 私の書斎の窓下からもその音は聞えてくる。隣家には一人娘のいる初老の夫婦が住んでいるので、露地の奥からも聞えてくる。京都に住んで、ひどく不粋な話である。が、いつの時代にも、権力者の華やかな文化の底で、京都の庶民はこのようにして生き堪えてきたのではないか。彼らは消極的に見えるが、その生活力はかなり|執拗《しつよう》である。
 しかし私の下宿からは神泉苑も近かった。神泉苑は当時すでに池には水もなく、埃っぽい小庭園にすぎなかったが、私の好む休みの場所となった。二条城も私の散歩の範囲にあったし、二条駅も私の好きな場所であった。散歩のついで、私は二条駅の木柵に|凭《よりかか》り、単線のレールが鈍く光っているのを眺めながら、花園、嵯峨、保津峡、さらに胡麻、和知、安栖里、山家などと、しきりに旅が思われたりした。またある日、春風の中に笛や、|鉦《かね》の音が聞えているのに誘われ、その音を頼りに行ってみると、|壬生狂言《みぶきようげん》が行われていたりもした。
 三高在校生の膳中会に出席する。初めて芸者のいる席に|連《つらな》ったわけである。美しいとは思うが、精神的には何の|感銘《かんめい》も受けない。酒は飲まないつもりでいた。が、尊敬する先賀に|盃《さかずき》を進められ、生れて初めて酒を口にする。最初、酒が私の舌端に触れた時は、少し異様なものを感じたが、喉を過ぎるころには、私の舌に魅惑的な後味を残した。一人の盃を受けて、他の人のを受けないわけにはいかない。私は次ぎ次ぎに盃を受ける。軽い酔いを発する。ひどく快い。
 ある日のことである。私は私の下宿へ二人の友人を伴ってきた。その一人が座に着くなり、壁の横木の釘に白線の帽子を投げる。が、帽子は的を外れ、窓の下に落ちる。私たちは顔を並べて窓の外に出す。が、次ぎの瞬間、あわてて顔を引っこめる。すでに薄暗くなった露地の隅で、琵琶の師匠が行水を使っていたのである。
「お帽子、じきに久子に持たしてやりますえ」
 窓の下から女師匠の声が聞えてくる。甘ったるい声である。
「醜態」
 若い私たちはいつもそんな風にして、互に運動神経を競い合っていたのである。けっして他意はない。しかしどんな弁解も役立たない。私たちは自尊心を傷つけられ・苦々しい沈黙を続けているよりほかはなかった。
「久子はん、お湯わいたか」
 それ以来、夏の日が西の空に傾くころになると、決って女師匠の声が聞えてくる。続いて、|盥《たらい》を|据《す》える音、湯を注ぐ音。やがて手拭を使う湯の音まで聞える。
「久子はん、すまんけど、さし湯持ってきてんか」
 例のひどく甘ったるい声である。
「ああ、ええ気持やわ」
 独言としては少し大きすぎる。それにひどく浮き浮きともしている。たしかにその声は何者かの耳を意識しているとも取れなくない。するとさらにその声は人の目を厭うというより、しきりに誘っているように思われてくる。が、私にはそんな女の気持はまだ全然理解できない。
 しかし私の目前に開かれている窓の空間が、ひどく気になっているのは事実である。私は机の前に坐っている。が、私はどうしても心が落ちつかない。先刻から、盥の中に中腰になって、窓を見上げていた女の体を、私は繰り返し思い浮かべている。自尊心などというものがまったく当てにならないことを、私は知った。
 
 
 いつからともなく、私は私の日々に満ち足りないものを感じ初めていた。友人たちと寮歌を歌い、乱舞していても、以前のような感激は湧かない。むしろそんな時、私は激しい「虚」を感じる。|寂寥感《せさりようかん》といってもよい。もはや、自分の感情を誇張することができなくなった自分に気づいた隙に乗じ、その感情は突如として突き上げてくる。たとえば、こんな大勢の友人に取囲まれていながら、私には一人の友人もない、といった感じである。あるいはたんに恋愛がない淋しさかもしれない。しかし私はそうは思っていない。むしろ人を愛するほどには、私自身が充実していない淋しさである。つまり「虚」は私の外にあるのではなく、私の中にあるようである。
 一見、私は善良で、幸福そうに見える。しかし善良とは何か。真の幸福とは何か。少くとも私のそれは、いずれも私の外側にしかない。かなり美しく見えるかもしれないが、しょせん、修飾品にすぎない。しかも、それは修身的、習俗的で、さらにそれが形式化し、惰性化した模造品で、私自身のものは一つもない。私の中身はからっぽである。私自身が自分の飾りものに|騙《だま》されていたのである。まず私の|贋《にぜ》の飾りものを打ち|毀《こわ》さなければならない。
 ある夜、私はことさらに近所の、あまり上品そうでないカッフェに入る。第一に三高の生徒を避けるためである。さらに学生風な雰囲気に巻き入れられてはならないからである。私は不断着を着流したままである。
「おいでやす」
 女給が迎える。私は酒を註文する。女給は私と同年配である。丸ぽちゃの顔に濃く|白粉《おしろい》を塗り、唇がまっ赤である。そういえば、このカッフェ全体が、色彩の強い泥絵の感じである。
「君も、一つ」
「おおきに」
 私は女給に台つきカップを差し、それに酒を注ぐ。しかしそれだけが、私にとっては精いっぱいである。後が続かない。女給の返したカップを、私は私の口に運ぶだ
けである。
 先客が一人いる。ジャケツにズボン、板草履をはいている。三十くらいの女給が相手をしている。男はかなり険相な容貌をしている。しかし存外静かに酒を飲んでいる。
「お客はんどこどすの」
「近くだ」
 この女給はけっして利口そうではない。上品などというものとは、さらに縁遠い。しかし幸にもそれほど|饒舌《じようぜつ》ではないらしい。
 中年の商人風の男が入ってくる。私の隣の席に坐るなり、相手の女給を笑わしている。よほど|猥褻《わいせつ》なことをいっているらしい。「知らん、ほんまにいけずやわ」とか、「よう言わんわ。いやらしやの」とか言っては、相手の女給は声を上げて笑っている。
 しかし私はほとんど気にならない。むしろこんなカッフェの片隅で、自分を失いながら、泥酔の底に沈んで行けるなら、どんなに気楽だろう、と思ったりする。が、意識はかえって妙に冴え、少しも酔いを発しない。やはりこの場違いの雰囲気に、小心な私はより厳重に自分を自分の中に密閉してしまったからであろう。すると、今夜の行動もいたってばからしく思われでくる。きゅうに激しい「虚」を感じる。
 不意に、ジャケツの男が声を発した。見ると、男はカップを口に|銜《くわ》え、歯をむいて、噛み|砕《くだ》いた。私は恐しくなり、急いで席を立った。
 ある日、二人の生徒が「三高劇研究会」のビラを貼っている。その一人は色の浅黒い、いかつい顔をしていて、見るから不興気な表情である。こんなくだらない仕事から一刻も早く離れたい、というような態度である。じつに厭そうである。
 私は劇研究会にも、ビラを貼っていた生徒にも妙に興味を覚え、当日、会の|催《もよお》される、円山公園の「あけぼの」へ行ってみる。その席に今一人、より|魁偉《かいい》な、きわめて彫りの深い容貌の生徒がいる。脚本が朗読されている間、彼は厳然と腕を組み、その態度を崩さない。やはり興味を覚える。前者が中谷孝雄であり、後者が梶井基次郎である。
 研究会では、著名の戯曲を選び、それぞれの役割を決め、|台詞《せりふ》風に朗読するのである。中には台詞廻しの上手な生徒もいる。有名な役者の声色を巧みに使い分ける生徒もいて、私は驚かされる。しかし中谷も、梶井も台詞廻しはあまり得意ではなかったし、また重視してもいないようでもあった。中谷は梶井のように熱の入った熊度は示さないが、なみなみならぬ関心を抱いていることは判る。彼らにこれほどまでに興味を持たせるものは何か。私はしだいに劇研究会のグループに近づいて行った。
「あけぼの」の例会には、私は毎回出席した。トルストイの「闇の力」、チェホフの「熊」、「桜の園」、シングの「鋳掛屋の婚礼」、シュニツラーの「臨終の仮面」、それに武者小路氏の作品等を朗読したことを覚えている。
 倉田百三の「出家とその弟子」を朗読することになる。私は私の書斎で下読みをした。
 私は感動した。読みながら、私は何回となく落涙した。涙はまったく突然に溢れでた。悲しかったからではない。悔しかったからでもない。私はただ感動しただけである。俗に「涙を|催《もよお》す」という言葉がある。いかにもそのような涙の溢れ方である。
 この「出家とその弟子」に対しては、中谷も、梶井も文学的にはそれほど高い評価を与えていないようである。しかしそんなことは問題でない。私にとっては、もはや、文学に限られたことではなかったからである。
 私を泣かせたものは何か。私にこんな清らかなバイブレーションを起させたものは何か。私はこのきわめて不思議なものについて考えないわけにはいかない。もちろん、この年齢の私には、仏や、神の存在を信じることはむりであろう。しかし私に生に対する希望を抱かせたものは何か。そうしてこのような喜びにも似た感情を私に与えてくれたものは何か。
「出家とその弟子」が私を「歎異鈔《たんにしよう》」に導いたのは、きわめて当然のことであろう。ある夜、あのひどく庶民的な小便壷の音の聞えてくる書斎で、私は胸をときめかしつつ、「歎異鈔」を開いた。
 はたして、私にはすべて驚異である。親鸞は「法然上人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」と言っている。また親鸞は「父母の孝養のためとて、一遍にても念仏まふしたること、いまださふらはず」とも、「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」とも言っている。宗教家に対する私の既成概念とは、およそはなはだしい違いである。私は脳細胞を|逆撫《さかな》でされるような違和を感じながらも、大きい力に引き寄せられて行く自分を感じる。
 しかし「悪人成仏」とか、「絶対他力」などという親鸞の思想は、私の常識的倫理感では、なかなか納得できない。
「出家とその弟子」の親鸞は、偽善を殺人よりも罪深いものと言っている。そうして赤裸々な入間の姿そのままで|赦《ゆる》されているとも言っている。親鸞の思想は強い否定の上に立った、より強い肯定であろう。そうして親鸞の徹底的な人間肯定に対して、私は涙を流して喜んだはずである。が、私の正義派的なもの、清教派的なものが、未練がましく抵抗を試みて止まないのである。卑近な例でいえば、自分が|自涜《じとく》を行いながら、童貞を誇っているようなものである。が、弱年の私には気がつかない。
 三年生になった。文芸部の委員になる。私の軽薄な性質によるが、中谷孝雄の好意的な策謀と、|煽動《せんどう》によるところもあった。が、梶井と中谷の作品を得て、三高の文芸部の雑誌「嶽水」誌に掲載することができた。
 徴兵検査の予備検査を受けるため、私は和服に袴を着け、別に医者の当てもなく、下宿を出る。京都の町医院には、門構もなく、仕舞屋風なのが多い。街路に直接面している扉の梨地ガラスの上に書かれている医院名と、電灯の赤い笠とがわずかに医院であることを示している。私は行きずりに、姉小路のそんな医院の扉を押した。
「御診察どすか」
 看護婦が出てきて言った。
「徴兵検査の予備検査を受けたいのです」
「ほんならお上りやす」
 待合室に他の患者はなく、すぐ診察室に通される。机に向かっていた中年の医者が、私の方へ振り返る。生白い顔である。が、いかにも生気の抜けたような表情である。見ると、診察台の上には、男枕の横に女の箱枕も置いてある。京都の、猥雑な場末町に住みついた町医者の感じでもある。
 看護婦が乱れ籠を私の前に置く。私は袴を取り、帯を解き、その中に入れる。
「シャツも脱いで」
 私はシャツを頭にかぶって脱ぐ。しかしズボン下だけの恰好はあまり見よいものではない。私は素肌に着物をかける。
「ここへかけやはって」
 私は医者の斜め後の丸椅子に掛ける。
「あんたはんて、恥しがりやな。学生はんのくせに」
 看護婦は私の耳許にささやきながら、私の肩から着物を脱がせる。看護婦が小うるさく、少し不愉快になる。
 医者は尻を|据《す》えたまま、廻転椅子を廻して、私の前に向き、私の胸に聴診器をあてる。私は努めて|毅然《きぜん》とした態度をとろうとする。しかし私の皮膚は外気にきわめて敏感である。夏の暑い日、私は自分の部屋にいても、肌を出すことを好まない。女性的な、青白い皮膚を恥じるからでもある。背後に看護婦の視線を感じる。
「後を向いて」
 私は着物を押え、医者の方へ背を向ける。看護婦と視線が合う。熱っぽく濡れているような黒目である。清潔な視線とは言いがたい。しかし私はことさらその視線を避けようとはしない。ようやく看護婦の方が視線を外す。
 看護婦はかなり美人である。しかし|瓜実顔《うりざねがお》式の容貌は、なぜか看護婦の制服と似合わない。その不調和感がかえって妙に好色的な気持を懐かせる。
 医者に命ぜられ、私は診察台の上に仰臥する。その目に看護婦の白衣の肩が映り、看護婦が私の着物を開き、猿股の紐を解くらしい。私は今までに性器の検査を受けた経験はある。しかし仰臥しては初めてである。看護婦といっても、私にとっては若い異性であることには変りはない。私は少なからず動揺する。
「ちょいと、腰を上げて」
 しかたなく、私が腰を浮かすと、看護婦がズボン下とともに股の下に押し下げる。代って、医者が私の腹部を触診し、例のとおり包皮を剥く。やはりかなりの痛みを覚える。
「ひどい包茎だね」
 私はズボン下を引き上げ、診察台の上に起き上って、聞き返す。
「ええ?」
「つまり皮かむりやね。ちょいとした手術ですむが、まあ、嫁はんでももろたら直るやろ」
 看護婦が笑いを殺して、顔を背ける。医者や看護婦の態度を、私は非礼だと思う。しかし私は彼らの前に自分の性器を曝したばかりでない。自分の性器の異常まで知られてしまったのである。むしろ私は強い屈辱感を抱いて、この医院を去るよりほかはなかった。
 私は十二月生れであるから、数え年二十二で徴兵検査を受ける。前に小布を当てただけの、全裸に近い恰好で全身を検査される。性器の検査の次ぎは、肛門の検査である。床板の上に、手足を置く位置が示されている。それに従って、はなはだしく屈辱的な姿勢を取らなければならない。しかし相手は国家権力である。拒むことはできない。私は思いきり脚を開いて、四つ|這《ば》いになる。
「もっとけつを上げる」
 とたんに、私の性欲は昂奮する。私は|狼狽《ろうばい》する。が、自分の力でどうすることもできない。しかし私の胯間には睾丸が垂れているので、かろうじて検査官に見つかることはなかった。
 後日、私はあの無惨な自分の姿を思いだすだけで、私の性欲は昂奮することを知った。私の性欲が少しく変っているのではないかと私は疑い始める。
 二年前から、母は祖母の方の親戚の娘を預っている。美保子といい、私より四つ年下である。ひどく内気な娘で、無口で、ほとんど感情を外に表さない。しかし私が休暇で帰省するたびに、背丈も伸び、姿態にも女らしさが加わり、|初心《うぶ》に、すぐ顔を染めるようにもなった。
 美保子は新村淑子も行っている、村の裁縫の師匠の許へ通っている。しかし朝夕は女中とともに忙しく立ち働く。
 私はそんな美保子に好意を感じないわけではない。あるいはすでに愛情といってもよいかもしれぬ。しかしそれに類するいかなる感情も、二人の間には禁忌されねばならないことを、私は知らされていた。
 私たちの一族には忌むべき遺伝がある。劣性遺伝であるから、血族結婚は避けなければならないのである。が、ともすると私の目は美保子の体を追いたがる。私の目はすでに美保子が縁側に上る時、その|脹脛《ふくらはぎ》に白い力瘤が入るのを知っている。また美保子は風呂場に入る時、かならずガラス窓を締める。が、私の目はすでに消しガラスに映る、美保子の肩の丸さを覚えている。
 ある日、私が門を出て、石橋の上に立った時、向こうから連れだって帰ってくる淑子と、美保子の姿を認める。淑子の大柄な肢体に、私はあの楽書を思いだし、思わず顔が真赤になる。淑子の顔も、美保子の顔も同じく赤くなったかもしれぬ。私は色欲の厭らしさを痛感する。
 八月、私は旅行に出た。「藤村詩集」などの影響から、私は長野県の風物に憧憬を抱いていた。長野県の伊那にいる、三高の友人を訪ねる。友人の母はさっそく|茄子《なす》を刻んで、茶を進めてくれる。そんな|鄙《ひな》びた振舞いがすっかり私を|愉《たの》しくさせた。
 友人は私をさらに高原の別宅に伴い、そこで起居することになる。朝露、散歩、夕立、涼風、夕映。私は心身ともに爽快な数日を過すことができた。
 友人と別れ、茅野に出、|蓼科《たでしな》行きの馬車に乗る。今度の旅行にはまったく計画はなかった。地図も持っていない。馬車がどこをどちらへ走っているのか、全然見当がつかない。しかしそれが今度の旅行の目的であるかのように、私は放心状態のまま、馬車の固い腰掛けにかけている。馬車には窓もなく、外の風景を楽しむこともできない。馬の蹄《ひづめ》の音と、轍《わだち》の響きとが単調に繰り返されている。
 馬車が停った。客が馬車から下りる。|馭者《ぎよしや》も下りるらしい。私も下りる。しかし終点に着いたのではない様子である。林の中に茶店がある。皆はその中へ入って行く。私も大きく腰を伸してから、茶店の椅子に腰を下す。馭者も昼の弁当を使うらしい。私も友人の家で作ってもらった、握り飯の竹の皮を開いた。
 高原の日光は意外に強烈である。しかし木蔭には湿度の少い涼風が吹いている。しばらくその中にいると、ふたたび陽に当りたくなるほど涼しい。馭者たちはなかなか腰を上げそうにない。私はあたりを歩いてみる。|草叢《ぐさむら》には秋草の花が咲き乱れている。
 ようやく馬車は走りだした。ふたたびきわめて退屈な時間が続く。前方に開いている長方形の空間には、馭者の背中がある。その上に、真白い積乱雲が紺碧《こんぺき》の空に躍《おど》り上っているのが見える。時には真正面に見える。時には半分以上も欠けてしまうこともある。また時には緑の疎林越しに見えることもある。
 いつか積乱雲は見えなくなる。しかし馬車はいっこうに終着駅に着く様子もない。尻も痛くなる。私は別に宿泊を決めているわけではない。馬車が滝湯という停留所で停った時、私は何となく馬車を降りた。
 私は宿を取った。かりにも上等の旅館とは言いがたい。しかし今度の旅行にはその方がふさわしいとも思う。部屋に通される。二人の相部屋であった。
 浴場へ行く。思いがけず混浴である。私が色情を懐かないでは女を見ることができなくなって以来、初めて女性の全裸を見るわけである。もちろん、私は虚心で見ることはできない。たんなる好奇心でもない。やはり色情というべきだろう。しかし性欲的刺戦を受けるほどのことではない。
 若い娘たちも滝湯に打たれている。腰には手拭をまとっているが、その肢体には、肩のあたりといわず、腰のあたりといわず、柔かい曲線を描いている。ことに二つの乳房は形よく均斉美を保って隆起している。美しい、と思う。|白膩《はくじ》を盛る――そんな言葉も浮かぶ。|初心《うぶ》な私には、世にも貴重なものに思われ、色情的な視線は向けがたい。
 しかし娘たちの乳嘴の色はいかにも可憐である。豊麗なボリュームに、まるで睛を点じているようで、さすがに好色の想いをそそる。が、私のそんな|淫《みだ》らな視覚にも、不思議に悔いを残さない。むしろ私はほのぼのとした幸福感に浸っているようであった。
 翌日、私は蓼科山に上り、夜行で上京した。数日滞在して、帰省した。
 
(つづく)
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