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妹尾アキ夫「人肉の腸詰」

 妹尾アキ夫「人肉の腸詰」

  1
 |楠田匡介《くすだきようすけ》は食事がすんでも|食卓《テーブル》から立上ろうとせず、人待顔にいつまでも入口ばかり見詰めていた。|櫛跡《くしあと》あざやかにべっとり後ろに撫でつけた|頭髪《かみ》は、|濡鴉《ぬれがらす》のように黒くて、やや釣上ったばっちりした眼元には覇気と滑稽味が等分に漂い、頬は日本人に珍らしい薔薇色で、顔立が細長い割合に、厚くて大きい肉感的の唇のあたりには、どことなくボヒミアンらしい片鱗が表れ、ただ一つの欠点は、右の耳の後ろから頤へかけての火傷の跡だが、それでも|独逸《ドイツ》の紳士がその顔に残る|決闘《ノンズール》の|疵跡《きずあと》を誇りとすると同じ意味で、この火傷も或る種の婦人に却って不思議な魅惑を与える場合がないとは云われないのであるついかにも運動家らしい四脚の発達した健康な彼の体に、|倫敦《ロンドン》のウエストエンドの仕立屋が|裁断《カツト》したような上品な嫌みのない卵色の|絹中《けんちゆう》が素晴しくよく似合った。楠田匡介は幾つだろう? 二十八? 三十六? 恐らく彼の顔を見て|年齢《とし》を判断し得る人は一人もあるまい。彼の大きい眸に不安が漂って濃い眉のあたりに波のような皺がよる時には四十近く見え、またその眸が明るい希望に輝く時には初々しい青年の如く見えた。解らぬのは年齢ばかりでなく素養も同じであった。或る者は彼は神田辺の大学の法科を出た男だと云い、あるものは何処かの帝大の工科を出た男だと云い、外国の学校を出たと云う者もあった。ただ解っているのは、彼がこの数年来、何が原因かそれは解らぬが、堕落するだけ堕落して、徹底的な浮浪児になっていると云うことだけである。彼は満洲にいる間に、東京に残した妻の澄子が巨万の遺産を相続したと云う知らせを聞いた。が、複雑ないきさつから妙にこじれて澄子に反感を懐く彼は、澄子が大金を握ったと云う知らせを得ても、急に和睦する気にはどうしてもなれず、この東京へ帰ってからも澄子へは居処も知らさず暮しているのである。その理由は彼の持って生れた浮浪性や、だらしないずぼらな放縦性も手伝っているには違いないが、主なる|理由《わけ》は最近の彼がいささか不良に近い|猟奇者《ロマンスハンター》になっているからだ。この夏の夜「グリル銀座」の食卓に坐って、しきりに或る人を待っているのもとりもなおさず彼が不良に近い猟奇者だからである。彼は外国の犯罪実録や小説を読んで、新聞広告による千種万態の犯罪があることを好く知っていた。それで、日本にもなにかそんな面白い広告がありはせぬかと思って、毎朝都下十五六種の新聞を買い込んで、銀座の「珈琲店《カフェー》コズモポリタン」の二階で焼パンと|燻肉《ベーコン》の朝食をむしゃつきながら、眼を皿の如くして広告欄を|渉《あさ》った。ところが彼の心願がかなって、広告を渉りはじめてから十三日目に、ある大新聞の雑件欄に、面白い広告を発見した。それは彼が期待したような難かしい暗号文ではなかった。明々白々の文章で、こう書いてあった。
  、『勝田君今七銀グリ当純白胸青ハン待』
 これでも素人には読めないかも知れないが、一時道楽として暗号に凝ったことのある楠田にはすらすらと読めた。伸ばして書けば、「勝田君、今夜きっちり七時に銀座の「グリル銀座」で私は純白の服の胸のポケットに青ハンケチを插して貴方を待っています」と云うことだ。服装を知らせるぐらいだから、勝田なる人物と、無名の広告主とは、かねてから一種の示し合せはあっても、まだ一度も会ったことのないのは解っている。この未知の二人はどんなことを相談するだろう? 会合が常態でないのだから、必ず興味ある相談が行われるだろう。金! 左様、金の問題も出るに違いない。あるいは現金が出るかも知れぬ。楠田はこの勝田なる人物に化けることを思いついた。けれど七時になると本物吻勝田が来るから、広告主に会うなら七時以前でなければならぬ。が、広告主は先に「グリル銀座しで待っていると云うのだから、六時半ごろ行って待っていれば、|屹《きつ》と、勝田より先に広告主がやって来るだろう。彼はこの危機一髪の|機会《チヤンス》を掴むつもりなのである。
「グリル銀座」は本通りからちょっと入った小路の小さい|珈琲店《カフエー》で、主に宴会場として使われるのて、平常は割合に静かだった。現に楠田が待っている間にも、二三人の客が二階へ上ったきりで、階下には一人も客が来なかった。
 が、六時四十五分になると、果して彼の予期通り、表に|借自動車《タキシー》が止る音がして、純白の麻の背広を着た四十ばかりの小柄の紳士が入口に姿を現した。胸のポケットから覗く絹ハンケチは確に青かった。
 楠田はいちはやく立上つて、白服の紳士の濃い眉と深味のある眼を見た。二人の眼と眼が出会った。そこに黙々の理解と云ったようなものが交された。
 白服は楠田の堂々たる男振りに、いささか面喰ったらしかったが、それでも微笑しながら、つかつか彼のそばにやって来て、
「失礼ですが貴方が勝田君ですね。」と気持のいい声で云った。
「はあ。」
「お初にお目にかかります。」
 二人は軽い|会釈《えしやく》を交した。これでやっと第一の関門が通れたと楠田は思った。
 彼は七時になって本当の勝田なる人物が来るのが怖かったので、一時も早ぐ其処を出たいと思った。
「どうも私はこの|珈琲店《カフエー》では落着けないのです。銀座のコズモポリタンへ行こうじゃありませんか。」
 楠田は女給を呼んで勘定を済ますと、白服を伴って直ぐ近くの「コズモポリダン」のこ階へ昇った。
 そこでは明るい電燈の下に煙草の|烟《けむり》が渦を巻いて、人々の話声や、皿に触れる匙の音が海の遠鳴の如く聞えた。芝居や音楽会のビラをかけた壁際に、ずらりと十ばかりのヌックが並んでいて、白服の給仕が泳ぎまわる|食卓《テーブル》の坐席の慌しさに反して、そこはひっそりかんとして、高い仕切りのある坐席の各々に、多くは家族づれらしいのが入りひたって、つつましやかに菓子なぞつついていた。窓際から二番目のヌックが空いていたので、二人はそこに向合って腰かけた。
 彼らは「グリル銀座」を出てからここへ来るまで、一口も口を利かなかった。不思議な息苦しい沈黙を守りながら、お互いに相手の一挙綱動を監視していた。が、ヌックに向合って坐ると、白服の紳士は|黒口《ブラツクレーベル》のジョニーウォーカーとソーダ水を註文し、それからポケットから金の巻煙草入を出してパチンと開けて、「どうぞ」と押しやり、自分でも一本つまんで火を点けた。
「あの人の紹介ですから、私は絶対に貴方を信用しているんですよ。」しばらくして紳士がこう云った。先ず一石を投じた形だ。
 あの人とは誰だろう? 楠田は巻煙草を一本取って火を点けながら、無闇なことを喋ってはならぬと思った。で低い声で、「はあ」と軽く受け流した。
 紳士はぷッと煙草の姻を吹いて、深味のある眼でじろじろ楠田を見入りながら、
「君のようなしっかりした人を得たことを大変喜んでいるのですよ。」と云った。
「有難うございます」
「お見受けするところ、貴方は大変御丈夫らしいですね?」
「ええ、まアー」
 ズポーツは何をお|遣《や》りですか?」
「野球、庭球、ホッケー、ラグビー、一通りは何でもやります。深くはやりませんが。」
「結構です。私はゴルフ以外は何も駄目です。何しろこれから貴方にお願いするのは、生命がけの仕事ですから、体の丈夫な人でなくてはなりません。それかと云って、無教育な下等な人物でも困る。下等な人物だと、却って後で私がその男にゆすられると云う結果になりますからね。」皮肉な微笑を浮かべてちらと楠田の顔を見て、「しかしあの人は貴方の人格も保証してくれました。ですから私は安心して貴方に秘密を打ち明けるつもりです。」それからそっと|周囲《あたり》を見廻して、一段と声を低くして「仕事と云うのは他でもありません。実はある家へ行って私の友人がある女に送った一通の古い手紙を盗んで来て貰いたいのです。」
 紳士は言葉を切って|凝《じつ》と相手の顔を見た。楠田は心の中で「来たなッ!」と呟いたが、口へ出しては懶げに、
「どこです、ある家と云うのは?」
「貴方は横浜の地理をよく知っていらっしゃいますか?」
「知りません。」
「宜しい。では地図を書いて上げましょう。」紳士はポケットから万年筆を出し、|献立表《メニユ》を取って裏に地図を書きながら「桜木町から電車で元町へ来て、元町で下りると歩いてこの急な代官坂を登るのです……震災前はこの山の上は居留地でしたが、今は殆んど一軒も家がありません、……ただこの辺にフェリス女学校があるばかりです。女学校の前を通り抜けて、三町ばかりこちらへ来ると……ここに道が「く」の字なりに曲った処があって、そこからこの谷間を、こちらへ下りる細道がありますから、そこを一町ばかり下りるのですよ……するとこの辺に、草の生えた斜面の右側に粗末な西洋館――ちょっと工場風の家があります。そしてこの家の向って右の端の部屋に、北斎の浮世絵の額が掛っています。私が手に入れたいと思う手紙は、その額の中に隠してあるのです。どうです、一つ冒険をやって、その古手紙を盗んで来てくれますか?」
「盗むより他に手に入れる方法はないのですか?」
「ありません。私は今まであらゆる手段を講じて来ましたが皆駄目でした。これが私の最後の手段なのです。」
 云って紳士はウイスキーソーダの|杯《グラス》を唇へ持って行った。|杯《グラス》が電燈を受けてピカリと光った。
 楠田はいろんなことが訊ねたかった。しかし頓馬なことを訊ねて、自分が贋者だということを悟られるのは怖かった。そこでびくびくもので|捜《さぐ》りを入れた。
「その手紙の宛名は誰になっています?」
「そんなことは訊ねないで頂きたいのです。貴方に必要なこと以外に何もお話することが出来ません。私がこう云う奇抜な面会法を選んだのも、じつは私の姓名を知って貰いたくないからなのです。幾ら貴方があの人に私の名をお訊ねになっても、あの人も私の名は固く秘密にしてくれる筈です。どうせ手紙を盗むことに成功したら、貴方もその手紙をお読みになるかも知れませんが、たといお読みになっても、後で絶対に他人に口外しないことを約束して頂きたいのです。なに、私の友人のある男が卑しい商売の女に送った実に馬鹿らしい手紙ですけれどね、今はその手紙がその男に取って、非常に大切なものになっているのです。」
 「ある男と云うのは貴方でしょう?」楠田が大きい唇でにやりと笑った。
 すると紳士は暫らく相手を見入ったまま黙っていたが、やがて笑って頷きながら、
 「白状します。実は私です。私は貴方の人格を信用しています」
 楠田はウイスキーソーダを飲んで汗を拭いた。.
 彼は一週間ばかり前の新聞で見た面白い記事を思い出した。それは何とか云う若い代議士が横浜の富豪の娘と結婚しかけて、昔の放蕩がばれて弱っていると云うのであった。楠田は改めて相手の顔を見た。馬鹿に渋味のある凄い眼だと思った。
 やがて紳士がまた言葉を続けた。
「それから武器は何も決して持って行かぬと云うことを約束して頂きたいのです。武器を持っていると、万一失敗して捕えられた時に面倒です。向うには強い男がいますから隙を見て誰もいない時に入るのが一番いいです。しかし扉を締めてしまったら、絶対に入れませんから、今夜これからすぐ横浜へ行って、十時までに忍び込むのですね。どうです、行ってくれますか?報酬はうんと出しますよ。」
 「どのくらい?」
 「三千円ぐらいなら出せます。」
 古手紙一通が三千円とは何と云うべら棒な高値だ! 楠田は思わず眼を見張ったが、次の瞬間すぐ自分の頓馬を気附いてその表情を逆に利用した。
「これア驚いた! 生命がけの仕事が僅か三千円ですか! それでは御免こうむりたいですね。」
「では四千円出します。」紳士が深味のある眼で捜るように楠田を見た。
「五千円ならお引受けします。」
「では五干円出します。今夜は手付として千円だけ差上げ、後の四干円は手紙と引きかえということにして下さい。無論失敗なすったらその四千円は差上げられませんよ。」
                   「承知しました。」
 楠田は一息にウイスキーソーダを飲んで|杯《グラス》をカチリと卓子の上に置いた。
 紳士は用意して来たらしい大型のぶくれた角封筒を出して楠田の前へ置いた。楠田は直ぐにもポケットに入れたかったが、どうしても手が動かなかった。封筒に眼を呉れるのさえ気がひけた。彼は悪党と呼ばれているに似ず正直者だった。この千円をポケットに入れたまま、横浜に行かずに姿をくらましても、この紳士は二度と自分を探すことは出来ないのだ。また仮りに横浜へ行って冒険に失敗したとしても、この千円は自分のものになるのだ。楠田は早く千円をボケットに入れて、一時も早く「コズモポリタン」を飛び出したかった。何だか顔が火照って気がふわふわして雲にでも乗っているような気がした。
「どうかおあらため下さい。」しばらくして紳士が低い声で云った。
 こう云われては絶体絶命だ。しかし彼も修業をつんでいる。静かに手を出して封筒から札束を抜いて二度勘定した。確に本当の百円札が十枚あった。彼は鷹揚に会釈してそれを内側のボケットに仕舞った。
 紳士はやおら立上って、釘にかけた麦藁帽を取りながら、「ではこれから直ぐ横浜へ行って下さい。明晩七時にまたここでお会いしましょう。私はあの一通の手紙の為に、この三年間、骨と皮になるほど油を絞られました。」
    2
 楠田匡介は繁みの蔭に立って、明るい窓を見つめた。その家は夏草しげる斜面に巨大な怪物の如く黒くうずくまっていた。明りは彼がこれから入ろうとする一番右の窓硝子から漏れるきりだった。その部屋には誰もいないらしい。家全体が死んだように静かだった。空には星、地には横浜全市の灯が宝石を撒いたように光っていた。港には赤青黄の船の灯が螢の如く、その向うには遙か神奈川から鶴見に続く海岸の灯が、チラチラキラキラ|線《すじ》を引いたように細長く|瞬《またた》いている。
 あたりは虫の声に満たされて、時々丘の下から吹いてくる冷たい夜風が、露にぬれた草葉を怒濤の如く|戦《そよ》がせ、その度に楠田はぞッと身顫いするのだった。
 彼は窓際に近づいて部屋の中を覗いた。右側の|机《デスク》の上に掛った浮世絵の額の|硝子《ガラス》が、電燈を映して微かに光っている。彼は風が一番烈しい時を選んで、|静《そつ》と窓硝子を上に押しあげ、ヒラリと身軽に部屋の中に飛び込んだ。
 部屋の中に入った彼は、直ぐ靴のまま机の上にあがって、わななく両手で額を掴みかけたが、ふと「この額に不思議な仕掛けはないだろうか、額に手を触れると同時に、家中に|轟《とどろ》き渡るベルが鳴りはしないだろうか?」と云う疑惑が起ったので、手を引っこめた。が、彼が|躊躇《ちゆうちよ》したのは一瞬間だった。次の瞬間、彼は思い切って両手で額を掴んで、勢よく引っぱった。紐がぷっつり切れて額が外れた。彼は机の上にしゃがんで額の裏の板を外した。すると果して羅紗紙と北斎の絵との間から、一通の古手紙――宛名や消印のある封を切った灰色の角封筒が出て来た!
 ところが彼が手紙を取り上げると同時に、さッと冷たい風が吹き込み、途端に物凄い音がして上にあげてあった窓硝子が下へ落ちた。彼はさッと顔色を変えて、手紙をポケットに|捻込《ねじこ》むと、机から飛び下り、力まかせに窓硝子を引き上げようとした。が、不思議なことには、窓は締ったままで少しも動かなかった。
 楠田は|会態《えたい》の知れぬ不気味さに襲われて、背骨をひやりとさせた。どうして窓がひとりでに締ったのだろう? どうして締った窓が開かないのだろう? この部屋のどこかに誰か隠れているのだろうか? あるいは窓の外に何者かいるのであろうか?
 彼は狼のような鋭い眼付で部屋の中を見廻した。その眼に部屋の一つの扉が映った。彼は飛ぶように部屋を横切り、|把手《ハンドル》握って扉を開け、廊下だか部屋だか解らぬ真暗い処に踏込んで扉を締めた。
 彼が扉を締めて先ず第一に感じたことは一種異様の匂いがすることだった。それは何物かの化合物が非常に好い条件のもとに醗酵したような、香ばしい、刺戟の強い、どこか酒に似ていて、それに多分の塩が交ったような好い匂いだった。それと同時に一方に何か有機物の腐敏しかけたような嫌な匂いもその中に交っているような気がした。
 彼は真っ暗闇の中を手捜りで壁に沿って歩いた。すると二間ばかり歩いたと思う頃、大きな樽とぶつかった。酒の混じった塩からい匂いはそこから発散するらしい。さぐってみると上に大きな重石が置いてあって、ちょっと大きな漬物樽と云った感じだが、塩水の中に手を突込んでみると、その中にあるのは大根ではなくて、なんだかぬるぬるした肉片のようなものだったので、急に気味が悪くなっ」て|身顫《みぶるい》しながら手を引込めた。
 だんだん眼が闇に馴れたので、あたりを見廻すと、彼が立っているのは、板張りのがらんとした大きな広い部屋で、中央に五尺に七尺ぐらいの大きな卓子があるが、椅子は一つもないらしく、壁際の潰物樽に似たものは一つではなく、他にも三つ四つあって、部屋の隅には戸棚や棚が沢山ある。窓も幾つかあるらしいが、どんな仕掛けか少しも動かず、外側には鎧扉が締っているらしい。ただ背のとどかぬ高い処の両側に開いた窓があって、そこから蒼白い夜の空が覗いている。部屋の中が朧ろながら見えるのは、その窓から微かな明りが差し込むからだと解った。
 彼は逃路のないことを覚ると、本能的にまた元の扉を開けようとしたが、その扉は先刻の窓と同様、どうしても開かぬ。
 もう彼は総てを覚った。手紙を盗んでいる処を誰かに発見されたのだ。あるいは部屋に忍び込む前、まだ繁みに身を隠している中に発見されたのかも知れぬ。そしてこの逃路のない部屋へ巧みに追い込まれたのだ。
 彼は急にひどい不安に襲われた。胸の動悸が高まって、息をするのが苦しかった。
 扉に両手を当てたまま、じッと耳を澄ました。何の物音も聞えぬ。扉の外に誰かいるだろうか? 何をしているのだろう? 自分を暗い部屋に押し込めて置いて、その間に警官を呼んで来るのだろうか? 警官が来たら自分はどう弁明することも出来ぬ、他人に頼まれて手紙を取りに来たと云って、それで許してくれるだろうか? 而も頼んだ紳士の名も処も解らないのだ。たとい頼んだ紳士の名が解ったにせよ、他人の家に忍び込んだ自分は罪はまぬかれない。愚図愚図してはいられぬ、逃げるなら今だ!
 彼はまた扉を離れ、闘を透かしてあたりを見た。下の窓は開かぬ。高い処にある窓を仰いだ。一つ二つの星がそこから見えた。何処かに繩はないだろうか? が、もとより部屋の中に繩などあろう筈はなかった。頭がふらふらして、膝頭が顫えて、立っているのが精一杯だった。
 今になって初めて、「生命がけの仕事だ」と云った紳士の言葉が解った。なるほどこれは容易な仕事ではない。あの紳士も度々の失敗でよくよく思い諦めたればこそ、この俺に頼んだのであろう。それにしても紳士の言葉に従って、武器を持って来なかったのは不覚であった。武器さえあれば、たとい相手に傷害は与えないまでも、とにかくある程度に威嚇してその隙に逃げ出し得ないものでもない。このまま捕えられて、数年間刑務所生活をするのは堪えられないことだ。けれどもこの家の者は、果して自分を譬官の手に渡すだろうか? 警官の手に渡すよりもっと非道い復讐をしないだろうか? 彼の頭に今しがた手を触れた肉片のような物の感触が甦って来た。そして不吉な予感に悪感を覚えた。
 折から不意にパッと電燈に灯がついて、あたりが急に明るくなったと思うと、静かに扉が開いて一人の年頃五十あまりの肥えた男が、口に巻煙草を|啣《くわ》えたまま入って来た。袖のないシャツにズボンをはき、その上に汚れた|前垂《エブロン》をかけた彼は、丸々した粗野な顔に薄気味悪い微笑を浮かべて、だまって楠田の顔ばかり見つめた。
「今夜のお客はお前さんだね。」しばらくして|肥大漢《ふとうちよう》が落着いた声で云った。
「逃がしてくれたまえ、手紙は返すから。」|干涸《ひから》びた声で楠田が云った。
「俺に頼んだって駄目だ。俺はこの家の奉公人だ。」
「じゃ、主人を呼んでくれたまえ。事情を話すから。」
「駄目だ。ここを何処だと思ってる?」
「知らない。」
「一度入ったら、二度と出られぬ処だぜ。」
「どうして?」
「|罠《わな》だ。」
「罠!」楠田は真っ青になって叫んだ。
「そうだ。人間の屠殺場だ! 驚いたかい。はははは!」
 肥大漢が毛むくじゃらの腕を組んで、腹を揺すぶって笑った。
「ここはね、表向きは豚のハムや|腸詰《ソーセージ》を作って売ってるのだけれど、本職は人間のハムや腸詰を作って輸出する処なんだよ。」
 楠田は素早く部屋の中を見廻した。暗かった時には見えなかったが、明るくなって見ると、中央の大卓子と思ったのは実は大きな|俎《まないた》で、一面に庖丁の傷跡が残り、洗っても落ちぬ人間の血で桃色に染っている。彼は息をはずませながら、ポケットから千円の金を出して、低声で囁いた。
「おい、君……千円だ……ね、逃してくれたまえ!」
 が、肥大漢は手を出さなかった。
「冗談じゃない! 東京でお前にこの金を渡した人が、この家の主人なんだよ。」
「では、あの白服の人と君が共謀なのか?」
「そうだよ。二人でこの商売をやってるのだ。額の中の古手紙とこの千円を餌に、お前をここへ連れ込んだのだから、どうせその金は俺たちのものだよ。旦那が帰るまであずかっていてくれ。」
楠田はガンと頭を叩かれたような気がした。眼がちらちらして倒れそうになったので、そばにあった空箱の上に腰かけた。
「人間の腸詰やハムを作ってどうするのだ?」暫くして楠田が訊いた。
「それア、無論食べるのさ。人間の肉は美味いぜ。」
「鬼ッ」楠田が喘いだ。
 「人肉を食う奴は昔ならあった。昔の方が|盛《さかん》だったぐらいだ。|羅馬《ローマ》時代には随分盛だったそうだ。それが一時下火になってまた欧洲大戦争で復活した。世間の奴らは料理法を知らないけれど、酸味を抜いたら素晴しい味だ。中国の|燕巣《えんそう》や|鮫《さめ》の|鰭《ひれ》や、|仏蘭西《フランス》の|蛙《グルヌイエ》も人肉の味には及ばないね。」
「君は怖ろしい人だ! 君のような入が日本にいようとは思わなかった!」
「はははは! 表向き豚の|腸詰《ソオセージ》をしているから、事実を知った者は一人もないが、日本で人肉を取扱っているのは、恐らく此処だけだろう。しかし|犠牲者《たま》を連れ込むには随分骨が折れるよ。まず第一に犠牲者の目星をつけたら、そいつの係累を調べなくちゃならん。それからこいつは殺しても大丈夫と定まると次に今度は|瞞《だま》して此処へおびきよせるのだ。そのおびきよせる方法は三十種ばかりあるが、同じ方法でやると発見されるから、始終手を変えなくちゃならん。それでも一週間に一人ぐらいはお前のような馬鹿な男や女がやって来るよ。」
 |肥大漢《ふとつちよう》がにやりと笑った。楠田は腰かけたままその男の顔を仰いで、何と云う冷酷な奴だろうと思った。しかし相手がにやにや笑っている|中《うち》はまだそこに隙があると云うものだ。その隙を掴んで、反対にこちらが肥大漢を殺すことは出来ないだろうか? 彼はもしや何処かに肉切庖丁がありはせぬかと見廻した。が、武器になるようなものは棒切一つなかった。彼は表面相手の言葉に耳を傾けながら、頭は稲妻の速さで活動させた。ちょっとでも隙があったら、鼠に飛びかかる猫の素速さでそれを掴もうと思った。彼は一時も長く相手を喋らせて置きたかったので心にもない質問を浴びせた。
「誰が人肉を食べるのだ?」
「輸出するのだ。」肥大漢は自分の仕事に誇りを感じているような得意な口振で話しはじめた。「人肉の腸詰、ベーコン、ハムの製造の一番上手な奴は|独逸《ドイツ》人だが、この頃では独逸では仕事がうまく出来ないので、皆アメリカへ行ってしまった。俺が知ってるのは、シカゴのヘルツマンと、|紐育《ニユーヨーク》のローゼンベルグだけだが、まだ他に二つ三つはあるらしい。ローゼンベルグは独逸系の|猶太人《ユダヤじん》だが、実に遣りかたが巧妙だよ。俺は、ローゼンベルグの家で三年間働いたことがある。ここで作った腸詰やハムは皆んなそのローゼンベルグへ送るのだよ。」
「どのくらいの値段で売れるんだ。」
「それア、眼の玉の飛び出る高値だよ。早い話が元町の大木で豚のベーコン百|匁《め》が六十銭、数寄屋橋のローマイヤーとなると、べーコンでも腸詰でも大木よりずっと品が落ちるくせに七十銭も取りゃアがるが、人肉のベーコンとなると、どうしても百匁が五十円以上だ。腸詰やハムとなるともっともっと高いよ。」
 肥大漢は毛だらけの手をズボンのポケットに入れて巻煙草を出して|燐寸《マツチ》をすった。
 楠田はその隙に立上って彼を殴りつけてやろうかと思ったが、彼が愚図愚図している間に肥大漢ば手早く火をつけ終って、燐寸のすりかすを床の上に棄てた。楠田は第一の機会を逃がした。咽喉が|干涸《ひから》びて烈しい|渇《かわき》を覚えた。
「製法は?」かすれた声で彼が訊いた。
「どうせお前さんは腸詰になってしまうのだから、詳しい話を聞かしてやろう。先ず脳味噌は生なら卵と一緒にフライ|鍋《パン》の上で油でいためて食うのが一番だが、此処では大抵肉片を加えてヘッドチーズにしてしまう。舌は生のまま|沸蕩《ボイル》して、熱い間に皮を剥いで水で冷して薄く切って、|芥子《からし》とウォスターソースをつけて食べるのが美食中の美食なんだけれど、ここでは輸出本位だから、皆んな
燻製にしてしまう。女の肉はハムにでもベーコンにでもなるが、男の肉は内臓と一緒に、大抵腸詰にしてしまう。ことに長持ちがすると云う点でサラミが一番いい。」それから彼は片隅の棚を指差して、「ほら、あの棚の上に腸詰が沢山あるだろう。フランクフルト、サラミ、ヘッドチーズ、プレスコップ、ウインナ、リヴァー、クラカワ、血の腸詰から中国の|蝋腸《ロウチヨー》まである。あれは人間の血や内臓や肉を、挽肉器で刻んで、葡萄酒や塩や、硝石や胡椒と一緒に腸に詰め込んでこの部屋の奥にある燻烟室でくすべて作ったのだ。」
「人間の腸?」
「うん、あの樽だ!」と、肥大漢は楠田が先刻手を突込んだ樽の隣の樽を|頤《あご》で示して、「あの樽の中に人間の腸の内側の軟かい処を棄てて外側の薄膜だけにしたのが塩水に漬けて訪る。あの中に肉を詰め込むのだ。まア来てみろ!」
 云って彼は楠田に背を向けて、二番目の樽の方へ行きかけた。
 楠田は彼の背後から飛びかかり、必死の力でその太い咽喉首を締めてやろうと思い、興奮に顫えながら立上りかけた。が、その途端に肥大漢がふと後を振り向いたので、彼は度を失って尻餅をつくように、また空箱へ腰かけた。彼は二度目の機会を失ったのである。
 後を向いた肥大漢は|鱶《ふか》のような冷たい眼で彼を眺めながら、
「見たくないのか、見たくなけれヤ見んでもいい。」と云ってまた楠田の処へ戻って来た。
 楠田は熱病患者のように体が顫えた。唾がかわいて、舌が強張って、唇を動かすのが苦しかった。彼は相手の肥った堂々たる体格に威圧を感じた。もっと弱々しい男ならいいのだが……もっと間の抜けた男ならいいのだが……。
 彼は第三の機会を作るためにまた質問をあびせた。
「ハムはどうして作るの?」
「ハムか、ハムはね、女の肉の軟かいところを塩と硝石と砂糖と硼酸と胡椒と|丁子《ちようじ》とブランディーを混ぜた樽の中に一ヶ月ばかり漬けとくのだ、ほら、あの一番こちらの樽だよ。塩漬が出来たら二三日風乾しして、それから燻烟室の天井に釣して、檜や欅の鋸屑で二三週間くすべるのだ。それからまた二三日風乾しにして、ズックの袋に入れ、赤いペンキを塗ると外見豚と同じようになってしまう。棄てる処は骨だけだが、こいつは電気で焼いて灰にしてしまうから世話はない。」それからにやりと笑って、「どうだ、この世の思い出に、人間の|股《もも》で作った美味しいハムを一片食わしてやろうか?」
「人肉はごめんだ。それより水を一杯めましてくれ、咽喉が渇いて今にも死にそうだ。」楠田が|皺涸声《しやがれごえ》で云った。
「よし、水なら幾らでも飲ましてやる。」
 肥大漢は棚の上からエナメル張りの大きなコップを取って大跨に歩いて部屋の隅へ行き、そこの水道の栓をひねって、水晶のような水をなみなみと注いだ。
 遅ればせにそこへ行った楠田は、毛むくじゃらの大きな手からコップを受取って、ぐッと一息に飲んだ。
「もう一杯。」
「よし。」
 肥大漢がコップを受取って楠田の方に背を向けて水道の栓をひねりかけた。とうとう楠田が待っていた機会が来た。彼は眼に見えぬほどの素速さで、肥大漢の右足先を両手で掴み、死にものぐるいに引っぱった。引っぱられた肥大漢は「あッ!」と叫んで、どさんと床の上に倒れた。
 楠田は彼の右足を掴んだまま、ありたけの力で床の上を曳きずり廻した。二三度彼が片足で楠田を蹴ったが、それは必死の楠田に何の打撃をも与えなかった。部屋の中央までくると、どうしたはずみか、肥大漢の片肘が猛烈な勢でごつんと料理台の脚にぶつかった。
 楠田は手を放すと、稲妻の如く扉の処へ走りよって急いで把手を廻した。彼は扉に鍵がかかっていないことを前から知っていた。扉は果して訳なく開いた。したたかに肘を打った肥大漢は直ぐには起き上れなかった。
 その間に楠田は次の部屋――額の掛っていた部屋へ帰った。硝子窓が開いている。
 彼は夢中でその窓から飛び出し後をも振向かず一目散に曲りくねった細道を下りた。草の中をすべったり転んだりして彼がやっと麓へ辿りついたのは、それから五分間とたたぬ中であった。
 時計を見れば十一時、夏の夜の十一時はまだ宵の口だ。明るい元町通は浴衣の人に埋もれていた。ポックリ履いた小娘が通る。青服の|仏蘭西《フランス》の船乗が通る。どこからか蓄音器のジャズバンドが響いて来る。
 楠田は不二屋の大きい扉を開けて片隅に坐ると、額からぼろぼろ落ちる玉のような汗を拭きながら紅茶を註文した。眼は落ちくぼみ、頬のあたりに深い皺がよって、まるで一時間に十年も年齢をとったように見えた。
 彼は強いて心を落ち着けて、今夜の出来事を廻想しようとした。が、どうしても胸が激流の如く騒いで、急には心が落着かなかった。
 やがて紅茶が来た。おお、美味きことよ! 彼は紅茶を|啜《すす》りながら、片手をポケットに突込んで金を出してみた。確に千円ある。次に彼は手紙を出してみた。封筒は無意味な封筒だった。封が破ってあるので、中味を出してみたら、見覚えある字でこう書いてある――。
「匡介様。
 これで性根が入りましたか、性根が入ったら今の生活から足を洗って、早く家へお帰りなさい。
 貴方が毎朝降っても照っても「コズモポリタン」で熱心に新聞広告ばかり見ていられた心理は、この私にはよく解っています。今夜のプログラムの作者は、あなたが今夜「グリル銀座」でお会いになった小説|家谷蠣俊一郎《たにかきしゆんいちろう》さんで、一つには貴方に性根を入れさせたく、また一つには私が今度始めた|腸詰《ソーセージ》ハム製造所を一度あなたに御覧に入れたいので思いついたのです。無論人肉でなく豚肉ですからその点は御安心下さい。工場は経験のある肥えたしっかり者にまかしてありますから心配ありません。千円は当分のお小遣いとして……
                          妻澄子より」
 
 彼の手からコップが辷り落ちて微塵に砕けた。
そして彼はさながら微妙な芸術に|恍惚《うつとり》と魅惑された人のように、いつまでもいつまでも|身動《みじろ》ぎもせず宙を見つめていた。……
 

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