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中谷宇吉郎「清々しさの研究の話」


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 この頃ハンチントンの『気候と文明』が岩波文庫に出たので、前から読みたいと思っていた矢先、早速買って見たが、大変面白かった。中には少しくだくだしいところもあるし、随分身勝手な資料を基とした議論もあって、勿論あのままに簡単に承服するわけには行くまいと思われる点もあるが、私はこの方面には全くの素人なので、この新しい地理学の全面的批判などをする気持ちは勿論無いし、またしようと思っても出来る話でもない。ただ少し身勝手だと思われる点は、例えば人種に本質的の優劣があるという例に、アメリカにおける黒人と白人との能率の比較をしている条《くだ》りなどがあるからである。例えば白人と黒人との農民が経営している農揚の広さの比較とか、収入の比較などから、白人が人種として本質的に優れているというような結倫を平気で出しているようである。その結論自身は或いは本当なのかもしれないが、その説明が少し私などには腑に落ちぬところがあるようにも思われる。いろいろな物質的条件が、特に南部では、白人にとっても黒人にとっても現在では平等であるのに、この差が出ているという意味の説明がついているのである。それもアメリカの事情をよく知らない私にとっては、真偽の程はわからないのであるが、もしそれが本当としても、過去数世紀に亙って、白人がどのように黒人を待遇して来て、そしてそのために黒人が精神的にどのような打撃を受けてきているかということを考えてみたら、軽々《かるがる》しくそういう結論は下せないのではなかろうかという気がする。
 それからもっとひどいのは「文明分布図」である。世界中の学者、政治家などから、いろいろな項目について「文明度の点数」をつけてもらって、それを地図の上に書き込んで作ったものである。その文明を測る項目というのは、創意や、新思想を形成してこれを実現する能力、哲学的体系を展開する能力などなど十二項目あって、十点を満点として勝手に点をつけてもらうのである。その一例を見ると、創意力は、英十、米十、仏六、独八、日三で、長期に亙り世界の広汎なる地域に遠大なる事業を経営する能力は、英十、米十、仏五、独六、日三などという類《たぐ》いである。そして五十四人中アメリカ人が二十五人いるところのそれらの資料を平均して、世界の文明分布図を作っているのであるが、その度胸には少々辟易《へきえき》した。その寄稿者の中には日本の有名な学者も三人いる。そういう人たちは、勿論もっと良い点数を日本のためにつけているのであるが、多勢《たぜい》に無勢《ぶぜい》ではとてもかなわない。
 幸いなことには、こういう議論は、ハンチントンの研究の中では全くの蛇足なのであって、正味の大切なところは、気候の刺戟が人間の精神的及び肉体的の能率に如何に影響するかという有名な彼の刺戟説なのである。そしてハンチントン自身の研究も面白いが、その中に引用されているいろいろな細かい研究には随分面白いことが沢山ある。例えば、植物をその生長に最適の温度に永く維持して置くと、かえって生長が止まるのみでなく、阻害作用さえ見られるというような話があって、植物を最もよく生長させるには、最適温度の上下に温度を適当に変化させる必要があるのだそうである。人間にも同じようなことがあって、スウェーデン式の入浴療法には、温湯と冷水との管を二条用いて、患者の上に交互に注ぎかけるという方法もあるという話などが引用されている。
 こういう話を読んでいるうちに、私はふと寺田先生の涼しさの説を思い出した。先生が塩原か何処かで、真夏の緑の林の中を散歩しておられるうちに、ふと涼しさという感じは冷たさとか寒さとかいう感覚とは別のもので、温度の或る種の時間的変化がある場合とか、または身体の各部分に温冷の空間的変化が感ぜられた時に得られる感覚であるらしいということに気がつかれたのである。云われてみればそのとおりであって、低温室の中にはいって涼しいという感じを受けたことは一度もない。
 涼しいというのは一つの快感であって、それが温度の時間的または空間的の変化に伴うという説と、ハンチントン流の人間の能率が気候的要素の変化によって向上されるという説との問には、かなり密接な関係がありそうである。暑いとか、寒いとかいう比較的簡単な感覚は、単なる温度という一つの物理的要素で決まるのに対して、涼しいというような複雑な感じは、その要素の時間的変化に支配されるというのは非常に面白いことである。人間の活動に適する気候的条件として、温度何度の範囲、湿度いくらの範囲というふうに、簡単な数値で表せる要素を採用していた時代もあるのであるから、それからみるとハンチントンの説のようにその変化に着目したのは、一歩進んだことになるのは争う余地が無いであろう。
 同様な話は物理などの場合にも沢山あるように思われる。例えば、気象学の方面で天気予報をする時にも丁度良い例が見られる。天気図というのは、気圧と気温とを各地の測候所で測って、その値を地図に書き込み、同じ気圧または気温の地点をつらねて、いわゆる等圧線或いは等温線を作ったもので、その配置から天気を推測するのが普通である。この場合はそれで、気圧或いは気温という数値で表せる量を採用しているのである。ところがこの頃の天気予報では、よく不連続線という言葉が使われ、その不連続線がしばしば大雨などを齏して来るのであって、或る場合には、等圧線などよりももつと重要な役割を持つことがある。この不連続線というのは、気温、風向、風速などが不連続的に変化する境界を示す線なのであって、即ち二つの違った状態にある大気の大きい塊の境目を示すものなのである。それで不連続線を天気図の上で探すには、前に云ったような気象要素が地図の上で突然に変わっている所をずっと見て行けばよい。即ち数値で表すことの出来る気象要素の空間的変化が、この揚合重要な物理的意味を持っているのである。
 その外に、各地点で、気圧が前日よりも高くなったかまたは低くなったかということも、天気を予報する時に大切な意味を持っているのである。それで或る場合には、普通の天気図ではわからないことが、気圧の等変化図を作ってみると、推測の出来ることもしばしばある。この場合には、前の空間的変化に対して、時間的変化を、研究の一要素として採用しているのである。
 こういうふうにみると、物理学の場合と、生物学或いは文化科学めいた学問の場合のように、まるでかけ離れた領域でも、研究の方法或いは思考の型とでもいうべきものが、全く同様な場合もあるようである。もっともそういうことは従来もたびたび云われているので、別に耳新しいことでもないが、ただ或る量を一つの要素として採用するよりも、その時間的或いは空間的の変化を見た方が、現象のさらに詳しい説明が出来るという良い例が、文化地理学にも気象学にも見られるという点は、一部の読者には興味があることであろう。
 物理の場合には、今云ったように、或る数値で表せる量自身を採用するよりも、その変化に着目した方が一歩進んだ結果が得られる場合がしばしばあるが、その外にも極微量の含有物がとんでもなく大きい影響を生ずることがあって、従ってその極微量の物質の影響を調べることによって、研究が飛躍的に進歩する場合がある。研究の初期においては、その極微量の物質の検出が出来ないために、まるで原因なしに或る結果が生じたような形に見えて、何のことかわからなくなることが多い。例えば、普通の意味で綺麗に洗った硝子の表面とか、純粋な汚れのない絹布とかいうものは、大抵はその表面に極微量の有機物、例えば手の脂というようなものが付いている。そういう絹で、そういう硝子をこすった時の摩擦電気は、硝子が正で、絹が負に帯電する。これが普通に教科書などに書いてある綺麗な硝子と絹との間の摩擦電気である。ところが、硝子と絹とを特別な薬品で洗って極端に綺麗にして、表面の極微量の有機物まで除去してしまうと、今度は反対に、硝子が負に、絹が正に帯電するようになる。それで固体表面についている極微量の有機物の薄膜のことがわからない問は「綺麗」な硝子と絹との問の摩擦電気は、正負いずれとも決まらないということになる。現象の符号さえ決まらないうちは、それ以上研究の進めようがないことは勿論であろう。即ちこの場合は、量としては有るか無いかわからぬくらいの極微量の物質が、全現象を支配しているのである。従ってその極微量物質の影響を調べることによって、研究は新しい生面を拓いて行くことになる。
 栄養学におけるビタミンの役目が丁度この場合に相当することは、今さら云い立てるまでもないことであろう。カロリー専門の栄養学は、ビタミンという極微量物質の影響がわかってきて、新しい進歩をしたのである。
 これと似たようなことが、この頃気候医学の中へもはいってきたのである。それは大気中にある微量のイオンの生体に対する影響の問題であって、実は表題の「清々しさの研究」というのは、このイオンの話なのである。イオンというのは大気中にいつも少量に存在している帯電微粒子で、陰陽二種存在する。そして、特に生理的に影響を及ぼすのは、その中でも、空気の分子数個ないし数十個集まったくらいの小さい粒子が帯電したもの、即ち軽イオンということになっているのだそうである。
 イオンの生理的影響の研究は、外国ではかなり前からあるらしいが、日本でもこの五、六年くらい前から、一部で急に盛んに研究され出したようである。そのうちの一人に北大医学部のK君がある。私はK君の研究の物理的方面の相談相手をしていたので、いろいろその方面の話を聞いて大変面白く思ったことがある。
 この方面の研究の起こりというのは、次のようないろいろの現象の説明から発したのだそうである。よく大きい病院などで、沢山喘息の患者とか、喀血性の病人などがいる時、或る日に一人の患者が発作を起こすと、他のまるで病歴のちがう患者も同じく発作を起こすというようなことがしばしばあって、それは単に偶然の一致とは受けとれない。またその日の気温とか、気圧とかに関係があると思って調べてみても何も見当たらないことが多い。それで何か今まであまり問題にしていなかった大気中の条件の違いというようなものがないかという疑問が起きるのである。それから活動小屋のような人いきれのしている所で、頭が痛くなったり、気分が悪くなったりする原因も、今までは単に炭酸瓦斯が多くなるというふうに思われていたのであるが、それもちゃんとした研究をしてみると、炭酸瓦斯というものはそれ程有害なものではないということがわかった。また人間の呼気の中にある微量の有毒瓦斯の影響ということも考えられるが、そればかりでも無いということがわかったのである。それでこれも何か空気中に人問の気分を支配する他の要素があるのではなかろうかという疑問を起こすに充分な課題である。それからもっと卑近な平凡なことで、その癖一番面白い問題は、日々の天候による人間の気分という問題である。同じく曇って陰鬱な天気の日でも、或る日は妙に頭が重くて気分が冴えぬのに、他の日ではそれ程にも感じないことがある。それから雨上がりの青空の下とか、微風が青葉をわたって来る朝とか、清々しい気分の日は、誰でも同じような感じを受けるのであって、この清々しさの気分は、幾分は主観的な要素もあるであろうが、大部分は客観的な実在のものである。こういう爽快な感じというような複雑な現象は、決して一つや二つの物理的要素で決まるものとは思えないが、この頃になってイオンの問題が此処で一つの役割を演じているということがわかって来たのである。
 K君のところでかなり沢山の患者について調べたところでは、前の喘息の患者などが発作を起こすのは、頭の重い陰鬱な日に多いのであって、そういう日には、大抵は陽イオンが大気中に多いということがわかったそうである。大気中のイオンの数と種類とは、天候特に風向《かざむき》によって著しい影響を受けるのが普通であって、毎日イオン数を測定していると、或る日は陰イオンが多かったり、また他の日には陽イオンが多かったり、または両者共に増減したり、いろいろ消長があるのである。そして多くの場合には、陰イオンの多い日は、誰でもまず気分が爽快で、それから患者の経過も良いということに気が付いたのだそうである。それで活動館の中での気分の問題も、このイオンではなかろうかということになって、満員の活動館の中でイオンを測定してみたのである。そうしたら果たして、陽イオンが陰イオンより多くなり、また全体としてのイオン数が減少してくると、多くの観客が頭が重くなったり気分が悪いといったりしたそうである。同様なことは、多人数の職工が狭い所で働くような工場についても云えるのであって、K君は、或る工場に陰イオン発生装置をつけることによって、能率を大いに高めることが出来たと、大分御自慢であった。もっともこれは自慢しても良いことなのであろう。
 ところでこういうふうに書くと、イオンがすっかり人間の気分だの能率だのを支配するもので、イオンの供給さえ適当にすれば、いつでも人間は、清々しい気分でいられるようにみえるかもしれないが、本当は事柄はそう簡単ではないことは勿論である。雨上がりの爽快な気分の夕方などに、イオンを測ってみると、大抵陰イオンが多いことはよく知られていることであるが、この時の気分を支配する要素の中には、ハンチントンの説のように、気温の変化による刺戟というようなことも重要な役目をしていることは勿論であろう。ニューイングランド地方では、或る季節には天候の循環がかなり規則正しいそうで、晴天の次に半曇天日が来て、次に暴風が来て、また晴天になるという径路をとって、何回も繰り返されることがある。そういう時に多数の職工について能率を調べてみると、暴風の過ぎ去る時に当たった日に著しく能率が上がることがわかったそうである。これはハンチントンの説明の如く、気温湿度の変化による刺戟が効いたものであろう。さらに同じく変化があるにしても、気温や湿度の最適値の上下に変化することが望ましいことは勿論である。そしてイオンの問題がこれに加わるとすれば、これらの諸要素に加わって初めてその効力が出て来るのであろう。それで、今までわかっていることだけを並べてみても、人間の気分や能率を支配する気候条件としては、まず気温や湿度が最適の範囲にあることが第一、次にそれが適当に変化することが第二、さらに陰イオンの供給が望ましいというふうに、いろいろの要素が挙げられるのである。そしてそれがまた、こういう方面の学問が一歩一歩と出来て行った順序をも示すことになるのであろう。それでこの歴史からみてもわかるように、次にはまた何か新しい要素が見付かって、こういう説明が再び変更される日が来るであろう。イオンの影響がわかったから清々しさの研究は完成したというふうに考えるのは飛んでもないことである。もっともこの方面の専門家は、これらの要素の外に、通風度とか、乾燥速度とか、いろいろの要素も考えているようであるが、それらはむしろ第二義的のものであろう。
 イオンの話であるが、K君のところの研究では、陰イオンは人体に沈静的に作用し、従って多くの場合は、病人や虚弱者にとって、良い影響を与えるという結果が出たそうである。そして陽イオンはその反対に興奮的に働くので、或る種の発作を促進したり、生理作用を抑圧したりしがちで、とかく健康上からいうと、悪影響が多いということであった。こういう種類の実験でいつでも採用される方法というのは、何か一つの研究をする場合に、資料を三組に分けて、一組には陰イオンを呼吸させ、他の組には陽イオンを与え、今一つの組にはイオンの無い空気を送って、その三組を比較して見るのである。その時イオンを与えなかった組の結果を示す曲線が真ん中にあって、陰イオンを与えた組の曲線が例えば上に出て、陽イオンの方が下に出るというふうになれば、陰陽両種のイオンの作用は全く反対で、一方が治癒に効けば、他の方はかえって悪影響を及ぼすというふうに云えるのである。K君のところでいろいろな研究をしてみると、大抵の場合には今云ったようになったという話であった。
 ところがイオンの生理学的研究をしている所は外にも沢山あって、その中でもK大学の研究室がなかなか盛んに業績をあげているのだそうであるが、其処の結果はどうも少しちがうらしいという話をK君がもって来た。そういう話があると、とかくジャーナリズムの良い餌になり易いので、両大学の論争というふうに書き立てられると一寸困るのである。もう一昨年の夏の話であるが、丁度北大で医学会の大会があって、その席上でイオンの論文が沢山発表されたことがあった。とにかく他の大学の研究も一度聞いてみてくれというので、K君につれられて、その席へ行ってみた。
 なる程医学会というものは大変盛んなものであった。イオンの論文も沢山あって、なかなか面白かった。その中にK大の研究室の論文が次々に発表されたのであるが、なる程大分結果がちがうようである。その研究室の仕事はどれも基礎的のものが多くて、例えば兎か蛙か忘れたが、とにかく生きた心臓を取り出して、その運動をグラフに描かせながら、イオンを含有している空気を送ってその影響を見るというふうな仕事が多いようであった。そして結果は大抵、イオンを与えなかった時の曲線が一番下にあって、その上に陽イオンを与えた時の曲線があり、さらにその上に陰イオンの曲線が配置されるというふうな場合が多かった。即ちその結果ではイオンを与えない時の曲線が中間にゆかないのであるから、イオンは陰陽共に同じ性質の影響を与え、ただその量がイオンの符号によって少し異なるという解釈にするより仕方がないのである。
 ところがそれらの研究と並んで、K君のところの研究が沢山発表されたのであるが、その方は生体を自然のままの状態で使っている場合が多くて、その結果では、大抵の場合陰陽両種のイオンの作用は、反対の性質の影響を示しているのであった。講演が一通りすんで、さて討論ということになると、何しろこういうはっきりした差が出ている以上、誰も彼も皆一言ということになって、大変賑やかであった。しかしそれをよく聞いていると、結局誰もが、自分の研究の結果には問違いがないと思われるから、その反対の結果の方はどうも信ぜられぬというふうに主張されているようであった。私が不思議に思ったことは、誰も両方の結果が共に本当だという解釈をされた人が一人もなかったことである。
 どの方面の研究でも、全く条件を同じくして実験をして、それで反対の結果が出たのならば、一方が問違っているのにちがいないのであるが、この場合はそうではない。第一、兎か蛙かの心臓を取り出したものと、生きた兎や人間とでは、何も同じ結果が出る必要はないのではなかろうかと、専門外の私たちには思われた。もっとも生理学者の立場から云えば、人間の生体にも蛙の心臓にも、同じ法則が適用されなくては一寸困るかもしれないし、また事実条件が同じだったら同じ法則に支配されるはずのものであろう。しかしこういう場合によく云われることであるが、この条件が同じだったらという言葉が実際は大変な曲者なのである。
 例えば、此処に取り出した生きた心臓があるとして、それを何かの台の上にのせて、さらに実験机の上に置いたとする。それにイオンを含んだ空気を送ってやると、イオンは心臓に付着してその電気を標本に与えるので、心臓は帯電するはずである。それで標本の電位が上がり、その電気は標本と実験台とを通って地面の方へ逃げて行くこととなる。そのことは即ちその標本の心臓を通って電流が流れることである。そしてその電流の強さは、与える空気中のイオン量によるばかりでなく、標本台や実験机の電気容量と絶縁度とにもよることは明らかである。ところが大抵の論文には、こういう場合に、実験台の電気的条件までは記載してないものである。もっともこの場合これらの電気的条件はそれ程大切な役目はしていないのかもしれないが、とにかくこれはほんの一例であって、外にもこれに似たしかもまだわかっていない現象について、条件の記載洩れが沢山あるだろうということは考えて置く必要がある。寺田先生の云われたように、一枚の紙が空中を落下する時でさえ、その外的条件をちゃんときめることは不可能に近いくらい困難なことである。学問上の論争というものが、結局条件の差を論じていたに過ぎなかったというような場合が、案外多いのではなかろうかとも思われる。特に医学や生理学のように、事柄が複雑になる程、そういうおそれがしばしばあるのであろう。
 条件のちがいの外に、今一つ量のちがいということも充分考慮に入れて置く必要がある。というのは、或る場合には、量の差が質の差のような外観を与えることがあるからである。今の場合、イオンの例をとってみると、もしその影響が、イオンの電量をeとしてae+be^2というふうな形で現れるものとすると、そういう結果が出て来ても良いのである。a及びbは常数で、これは与えられた条件で決まる一定の数値に過ぎないとすると、aeの項はeの符号の正負によって正にも負にもなる量である。ところがbe^2の方は3が正負いずれになっても常に正になる項である。それで全体としては、陰イオンの影響はeが小さいうちは、即ちイオンを少量与える時は第一項が大きく効いてくるので負になるが、eが大きくなると第二項が勝って、正になるのである。この場合陽イオンの影響は、イオン量の如何によらず正になることは勿論である。こういうふうに考えてみると、陰陽両種のイオンの影響は、イオンの量が少ないうちは反対効果を現し、多くなると同一効果を示すという場合があっても良いであろう。後で話を聞いてみると、K大の方の実験に用いられたイオン量は非常に多かったという話であった。そうすると、僅かこういう簡単な考察をしただけでも、両方の結果が共に本当であったということになり得るのである。実際には、もしこの場合にこういう説があてはまるとしても、イオンの影響はae+be^2というような簡単な形でなく、φ(e)+φ(e^2)というような形になることは勿論であろう。もっともこのように学会で立派に問題になったような論争を、まるで門外漢の私などが、これで解決をつけようというのでは勿論ない。ただ自然界の現象というものは非常に複雑で、一見反対の結果が出た時にも、必ずしも一方が本当で他が間違っているとは限らないのであって、両方共本当の場合がしばしばあるということを云っているに過ぎないのである。むしろこういう場合には、両方とも本当としてそれを説明するような考察を進めるのが本筋であろうという気がする。
 こういうふうに考えてみると、この論争の由来した主な点は、言葉の濫用から発したもののように思われる。誤解のもとは、陰イオンと陽イオンとは反対の影響を与えるという言葉にあったのであろう。もっともこういう誤り易い一般化(ゼネラリゼーション)をする機会は到る処にあるのであって、別に学問上の論争の場合と限ったものではない。むしろ学問上の論争の場合は少ない方であって、この頃の世論の多くは、この誤り易い一般化というのに陥ちているのではないかという気もする。もっとも多くの場合、そういう一般化の方は、間違いがすぐわかるから大した害もないのかもしれない。
 初めは清々しい話を書くつもりであったのが、書いているうちにだんだんイオンが枯渇して来て、ひどく重苦しい気分のものになってしまった。清々しさの研究を、清々しい気分で遂行出来るのはよほどの天才のことであって、現在の科学はとかく渋面を作りながら研究することになっているのだから、この場合もその例に洩れぬのも致し方ないことであろう。
                                    (昭和十三年九月)
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