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中谷宇吉郎「私の履歴書」


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  人間の履歴を知るには、履歴書を見るのが一番早い。しかし履歴書にあらわれているのは、決してその人の本当の履歴ではない。少なくも私の場合などは、大学の物理科を出ていることになっていて、それは事実ではあるが、今から考えてみると、全く偶然の機会の重なり合いが、自分を物理学者としたようなものである。私の歩んだ道は、履歴書の上ではきわめて平凡であるが、その内容はきわめて浮動の多いものであった。ただ全体を通じて、今までのところは、非常に運のよい道を通って来たものと、自分では思っている。ちょいちょい困ったこともあったが、あとから考えてみると、その苦境が却って幸運への橋渡しになったことが多い。

 一番感謝していることは、生まれた家が、非常に貧乏でもなく、また決して金持ちでもなかった点である。あまり貧乏で中学へも出せないようでは、もちろん困るが、家が金持ちであることは、決して子供のために仕合わせだとは限らない。無理をすれば、ようやく大学まで何とかやれるというくらいの家庭が、一番幸福な家庭であり、私の家はまさにその階級に属していた。

 北陸の片田舎で育ったことも、非常によいことだと思っている。日本は、田舎と都会の生活程度が非常にかけはなれている。これは日本の政治が悪いので、昔から田舎の人たちの生活を犠牲にして、都会をよくするようなやり方をして来た。
 道路にしても、家にしても、道を歩いている人の服装にしても、田舎と都会とではひどいちがいである。銀座の通りには、いつでもいっぱいになって大ぜいの人が歩いている。そのどの一人を見ても、綺麗な洋服を着て、本皮の靴をはいている。そして喫茶店へはいったり、飾り窓をのんきそうに覗いたりしている。田舎の人は生涯ああいう暮らしを知らないで過ごす。しかしああいう人たちの食べる食糧は、田舎の人たちが生産しているのである。ところが、大都会で育った、とくに金持ちの家に生まれた子供は、そういうことを知らない。大きくなってから、本で読んで知識は得られるかもしれないが、本当の田舎の生活はそういう人にはわからない。日本の本当の姿を知るためには、田舎で育つ必要がある。その意味で、私は子供の時代を田舎で過ごしたことを、非常に幸運だったと思っている。
 私の家は、田舎の温泉地で、呉服だの雑貨だのを売っていたのであるが、父が中年から九谷焼に凝り出し、庭にかまを造って、自分で九谷焼をやくという熱中ぶりであった。そして私を九谷の陶工にしようと思っていた。それで小学校を出たら、近くのK市の工業学校の窯業科に入れるつもりであった。私は中学校の方を希望していたのであるが、子供の頃から手工的なものが好きだったので、九谷の陶工になることも、そうきらいでもなかった。
 それでもし父がずっと健在でいたら、今ごろ私は九谷の名工になっていたか、あるいは瀬戸物屋の番頭になっていたであろう。ところが小学校を卒業して一週問もたたぬうちに、父が病気で死んでしまった。それで急に工業学校は止して、近所の中学校の入学試験をうけることにした。父が死んだのだから、上の学校へ行かずに、家の業をついだらという話もあったそうであるが、とにかく試験だけは受けてみた。ところが案外成績がよかったので、まあやらせてみようということになって、寄宿舎へ入れられた。五年間の寄宿生活の思い出のうちで、いちばん頭に残っていることは、食事がまずかったことである。体格は五力年間「丙」で通した。しかしそのおかげで、敗戦後のひどい食糧事情の時でも、案外平気ですごしてきた。
 ところでへぼ物理学者になるのと、九谷の名工になるのと、どちらがよかったかはわからないが、とにかく私が生涯物理学をやることになった第一の原因は、父が早く死んだからである。工業学校の窯業科から、大学の物理学科へというのは、少し無理なコースである。
 中学校は型の如く、無事卒業した。その頃になると、一人で家業をやっていた母が、こんな商売をやってもさきの見込みがないから、ずっと大学までつづけたらよかろうといい出した。中小業者の没落を、あの時代から見通していたのであるから、なかなか傑《えら》い母であった。これは冗談でなく、その後も時々ちゃんとした見通しをつけるので、感心したことがある。
 あの頃の高等学校の入学試験は、七月にあった。それで三月の末に中学を出てから、家で商売の手つだいを少ししながら、受験準備を始めた。といっても今日のように受験参考書なども揃っていなかったので、当時評判のよかった『考え方』の本だの、つれづれ草の註釈本だのを註文して買って、それをぼつぼつ読んでいた。しかし試験には美事に落第した。
 試験に落第することは、決して名誉な話ではないが、そうかといって、人生の上において損をしたことになるとは限らない。落第した当時は大いに悲観もするが、一年間の浪人時代に得たいろいろな経験は、人生勉強という意味で、大いに得るところがあった。これは負け惜しみではなく、この頃になってますますそういうふうに考えるようになった。
 実は大学を出て寺田寅彦先生の助手になって、理化学研究所で働いていた頃、或る晩お宅へ遊びに行っていて、この落第の話をしたことがある。そうしたら先生が「そうか、それはよい経験をしたものだ。落第をしたことのない人間には、落第の価値はわからない」と褒められて一寸驚いた。それから先生は「僕も落第したことがある。中学校の入学試験に落第をしたんだが、あれはいい経験だった。夏目(漱石)先生も、たしか小学校で一度落第されたはずだ。人世というものは非常に深いもので、何が本当の勉強になるかなかなか簡単にはわからないものだ」という話をされた。これで大いに安心した。
 落第は奨励すべきものではない。一体、皆が落第してしまったら、学校の方では、学生がいなくなって困るであろう。それにこの頃のように、経済事情が何処の家庭でも苦しくなっている場合は、落第などせずに早く卒業した方が、両親のためにはよい。だから私は決して落第をすすめはしない。しかし落第して自暴自棄になる学生には、決してそういうものではないということを、自信をもって告げ得る。そういうことを威張っていえるのも、落第をした経験があるからである。
 つぎの年の入学試験を受けるために、半年くらいしてから、東京へ出て予備校というものに通ってみた。そこで知ったことは、これでは田舎の中学を出た生徒は、入学試験に落第するはずだということであった。受験技術というものが、東京の学校ではちゃんと教えられているのである。都会と田舎の問題は、こういうところにもあることを知った。
 予備校は、某私立大学の中にあったので、私立大学の学生の生活というものも、垣間見ることが出来た。弁論大会のようなものを一寸覗いてみると、髪をぼうぼうにした学生が、紋付きの羽織などを着て、官学閥の打破とか、機会均等とかいうことを、大声疾呼して大いに熱弁をふるっていた。この私立大学はあまり有名でもなく、また恵まれない条件下にあったので、こういう熱弁の裏には、何か絶望的な暗いかげがあった。国際間に強国と弱国とがあるように、国内にも特権階級と下積み階級とがあって、それが眼に見えない壁で判然と分けへだてられていることがよくわかった。高文華やかなりし当時の話である。予備校時代にもいろいろな収穫があったわけである。
 つぎの入学試験には、無事通った。予備校が大いに役に立った次第である。はいったのは金沢の四高であった。当時の四高は、柔道と剣道と弓術とが、はなはだ盛んであった。毎年京都で全国高等学校の大会があったが、其処でこの三部そろって優勝した年もあった。そのかわり野球だのテニスだのという西洋風のものは、全く駄目であった。
 私は入学するとすぐ弓術部へはいって、三年問いわゆる部の生活をした。三年生になった時、主将にされたので、対校試合の悲壮感は充分味わった。あの頃の四高は、対校試合に敗けると、主将は頭をくりくりに剃って学校へ出たものである。中には一年わざと落第して卒業をのばし、次の年の必勝を期するというような男もいた。そういうことを本気で考えるような雰囲気であったのである。
 今から考えてみると、まるで夢のような話である。そのことの良し悪しは別として、こういう非功利的な考えが許されたのは、要するに、日本の国力が充実していたことが、一番の原因であろう。そういう雰囲気で教育された学生が、国家組織の運営にあたっていたから、国力が充実したと、そう簡単にはいわないが、この両者の問に或るつながりがあったとは思っている。
 こういう雰囲気であったから、いわゆる点取り虫が仲間の間ではひどく軽蔑された。それが昂じて、成績の良いことを恥とする気分さえあった。学課目とは関係のない文学や哲学の本を耽読することが大いに流行したのも、当然の成り行きであった。私も御多分《ごたぶん》に洩れず、わからない哲学の本を無暗と読んで、得意になっていた。カントの『純粋理性批判』の英訳本を図書館から借り出して来て、机の上に飾っておいたこともある。もちろん少しもわからないのである。あの頃、夏休みになると、信州の木崎湖に夏期大学が毎年開かれた。これは現在までも続いているそうであるが、あの時代の木崎湖の夏期大学といえば、若い連中の間に大した人気のあったものである。夏休み前から大いに小遣いを節約して、木崎湖まで出かけて行き、朝永三十郎先生のカント哲学を聴講したこともある。非常な名講義で、これは後になって大いに役に立った。
 高等学校の三年になると、理科の学生たちは、将来の希望に従って、課目の選択をする必要があった。工科及び数学物理方面を希望するものは力学と図学《ドローイング》をやり、医学及び動植物方面希望のものは、顕微鏡実習及び解剖を修めることになっていた。哲学青年にとっては、力学やとくにドローイングは、まさに軽蔑すべき学問であった。それで私は力学と図学を止めて、顕微鏡と解剖との方を志望した。大学へ行ったら動物学をやって、生物学と哲学との境を研究しようと思っていた。顕微鏡ではいろいうなものを覗いたが、歯くその中の虫を見た時の気味悪さと、松葉の断面を覗いた時の美しさとは、その後いつまでも印象に残っている。自然の研究は、まず自然を見ることから始めなければならないというのが、一人《ひとり》立ちで研究をするようになってからの私の信条であるが、この気持ちは高等学校時代の顕微鏡実習に、その根を引いているのかもしれない。もちろん寺田先生の学風によって、この考えは一層強められたのではあるが。
 解剖の方も大いに面白かった。馬鹿貝や蛙は一匹ずつ貰って、その解剖をしながら、丹念に写生図を作った。最後は犬の解剖までやったが、これはクラス全体で一匹を解剖した。学校がすむと弓の道場に暗くなるまでいて、家に帰ると夜は、進化論方面の本を無暗と読む。こういうふうにして、自分ではもう一廉《ひとかど》の生物学者になった気でいた。ところがたしかその年の暮れ頃になって、田辺元博士の『最近の自然科学』を読んで、今度はひどく理論物理学に熱中し始めた。アインシュタインの相対性原理が、日本でも有名になりかけた頃で、石原純博士の名がジャーナリズムの中に浮かび始めた時代である。
 相対論にもとついた新しい物理学は、ひどく魅惑的なものであった。ちょっとかじっただけで、私はすっかり心をとらえられてしまった。それは当時の私には雲の間から洩れる一筋の日光のように思われた。もちろんよくはわからないのであるが、何か前途に一大光明を望むような気持ちで、夢中になっていろいろな物理関係の本を読み出した。生物学などけろりと忘れてしまったのだから、まことに他愛のない話である。
 卒業間近になり、いよいよ大学へ願書を出す時になって、一寸迷った。動物学科をよして物理学科を志望することにすると、入学試験に力学がある。こんなくらいなら力学を修めておけばよかったのであるが、今さらどうにもならない。しかし決心して、力学は速成に独学をすることにして、物理の方へ願書を出した。弱ったのは、手頃な力学の教科書がその頃はまだなかったことである。仕方なく図書館からダッフの力学教科書を借り出して、二週間くらいのうちに大急ぎで読み上げた。乱暴な入試準備である。
 それでもどうにか東大の物理学科へ入学できた。随分ふらふらしたわけであるが、これでやっと生涯の職業がきまるようにみえた。
 ところが大学へはいって、当初志望の理論物理から、また実験物理の方へ転向した。それは二年生になって、寺田先生の実験指導をうけたのが機縁で、その影響によるものである。今から考えてみると、これも非常に運がよかったので、私には実験物理の方が、性に合っていた。理論物理をやるには、無暗と頭がよくなければならないので、私などの柄にない話である。一時あれほど熱中したのも、全く青年客気の致すところであった、とあとになってよくわかった。
 考えてみれば、最後の実験物理学に到達するまでには、ずいぶん廻り道をしたものである。しかもその廻り道の角々《かどかど》では、大真面目でその時々の志望の方向へ邁進する気でいた。こういう廻り道をしなくて、その方向に向かって準備的な勉強をしていたら、ずいぶんよかったであろうとは決して考えない。途中の道草がどれも、後になってみると、それぞれ役に立っている。
 将来の希望を早く決めて、その方向に着々と進むなどということは、普通の人間には出来ないことである。だからその時々に若気の至りでもよいから、ちゃんとした希望をもって進めば、それで充分である。それが何度変転してもかまわない。その時々に大真面目でさえあれば、きっと何かが残るものである。注意すべきことは打算的な考え方をしないという点だけであると、この頃考えるようになった。
(昭和二十六年八月)
 
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