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中谷宇吉郎「極北の神秘・氷島」


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 北極の氷

 
 百年前の北極は、現代でいえば「月の世界」であった。それはわれわれが住む世界の北の極点であり、人間の到達し得ない地の果てとされていた。
 世界中の探検家たちにとって、北極の征服は、生涯の夢であった。アムンゼン、ナンセン、ペリイなど、世界の探検史にその名をとどめた人たちが、北極の自然との闘いに、いかに辛酸をなめたかは、今さら説くまでもなかろう。
 北氷洋はかなり深い海である。グリーンランドの北端ペリイランド、ソ連側では、フランツ・ヨシフ群島のルドルフ島が、陸地の限界であって、それより以北には、島は全然見られない。全域が暗い青緑色の海であって、その大部分は、海氷で埋めつくされている。
 海氷は、その名のごとく、海水が凍って出来た氷であって、少し塩分を含んでいる。海氷は、浮氷とも呼ばれているが、これはあまり厚くはならない。初めに薄い海氷が出来て、それが海面をおおってしまうと、一種の断熱層になって、下の海水はなかなか凍らない。従って、北氷洋のようなところでも、一枚の海氷は、そう厚くならない。
 しかし極地の海は、始終《しじゆう》荒れているので、この海氷はこわされて、互いに重なり合って、だんだん厚くなる。そうなると、夏になっても、とけ切らないので、数年越しの厚い海氷が出来る。これを旧海氷《オールド・ブロウ》といっている。
 極に近いところは、この旧海氷で一而に敷きつめられた氷原である。旧海氷は、大きい氷のブロックとなって、互いに重なり合い、せり上がって、広い氷の原をつくっている。従って極地の氷原は、大きい氷のブロックの累積であって、少し大げさにいえば、コンクリートの建物をこわしたあとのようになっている。
 前世紀の末から、今世紀の初めにかけて、北極の英雄たちは、この累々たる氷塊の集積の上に、橇を走らせたのである。それは大震災に遭った氷の街の廃墟の上を、橇で行くような困難さであった。
「氷原に橇を走らせる」という概念は、全然あてはまらないのである。
 吹雪と烈風とに悩まされながら、この突兀《とつこつ》たる氷の荒野を、まるではうようにして、あえぎながらの困難な進行をつづける。体力はすでに尽き、前進の原動力は、世界の頂点に達しようとする異常の精神力だけである。しかし犬も同行のエスキモーも、もはやその力の限界にきている。
 この一事に半生を賭けた悲願も、ついに挫折という寸前に、これ等の探検家たちは、ときどきその前途に、坦々たる氷の大道がひらけているのを認めたことがあった。
 その一番顕著な例は、今世紀の初め一九〇八年のクックの探検であった。一九一一年に、彼は、彼の北極との戦いを公刊しているが、そのなかに、まる二日の行程の間、ほとんど凹凸のない平坦な氷の原を横切ったことがあると書いている。北緯八十七度から八十八度にかけてのところであって、「その間、陸上を走っているのか、海氷の上か、全然区別することができなかった。高度計は、ほとんど海面の高さしか示さなかったが」という。
 ペリイも、一九〇六年の探検で、同じような経験をしているが、彼の場合は、もっと話が不思議であって、その氷原は、泥で少し汚れた色をしていた。同行のエスキモーは、近くに陸地があるにちがいないと主張したが、この付近は、四千メートル以上の深海のはずであって、島が存在するとは、到底考えられないところである。
 
まぼろしの島
 
 ペリイの場合は、ほんの示唆にすぎなかったが、北氷洋の中では、今までに数個の島が「発見」されて、その後、その島の存在が、皆否定されている。すなわちまぼろしの島が、いくつもあったのである。
 戦後一九四九年に、私はカナダを訪れたことがある。丁度そのとき、北氷洋に面したカナダ群島の中で、新しい島が一つ発見されたといって、新聞で騒いでいた。この十年前に、まだ新島の発見があったくらいであるから、北極探検はなやかなりし時代に、二つや三つの島が発見されたとて、何も不思議な話ではない。しかし北氷洋に関する限りでは、新島の発見は、いずれもまぼろしの島に終わっている。
 記録に残っているまぼろしの島の中で、一番古いのは、グリーンランドとその隣のエルズミュア島との中間の沖合で発見された、プレジデント島である。一八七一年のことである。こういう昔の話は別としても、今世紀にはいってからも、いくつもの新しい島が発見されている。そしてその発見者たちは、いずれも著名な探検家であった。しかしそれ等がどれも皆、その後の捜索で否定されているのである。
 そのうちの主なものは、一九〇六年に、ペリイが発見したクロッカー島、一九〇八年にクックが望見したブラッドレイ島などである。同じような例は、ソ連の方にもあって、サニコフ島も、まぼろしの島であった。
 こういうれっきとした探検家たちが、一応「確認」して、その報告にも載せている島が、いずれもまぼろしの島であったというのは、いかにも不思議な話である。これについては、いろいろな解釈が行われているが、一番有力だったのは、蜃氣樓《しんきろう》説である。北極の大気では、気温の異常分布によって、そういうことも起こり得るといわれてきた。
 しかしどうしても説明のつかないのは、アラスカの沖合で発見されたタクプク島である。現在の氷島の位置に近いところで、一九三一年に、エスキモーのタクプクが、この島を発見している。
 ごく近年の話である。この島の場合は、発見者がこの島に上陸して、いろいろ詳しい記録をつくり、写真をとっている。島は約一キロ四方の面積があり、片側は海面上約十ニメートルの高さであった。そして土の露出した面積が相当あって、そこには苔が生え、草も茂っていた。ところがこの島もまた、その後の詳細な調査にもかかわらず、ついに再発見されるに至らず、現在では、その存在が否認されている。ずいぶん念の入ったまぼろしの島であったわけである。
 北極では、今までにいろいろ不思議なことが報告されているが、このまぼろしの島と、前に記した平坦かつ厖大な氷の平原とは、そのうちの大関格である。しかしこの両者とも、今日では、「氷島」の存在によって、ほぼ完全に説明されている。
 氷島の発見は、案外新しいことで、こんどの大戦後に初めてわかったのである。ソ連は二十年前から、たびたび北氷洋の浮氷上に観測所をつくって、北極の気象および海象の調査をしているが、それ等は氷島でなく、旧海氷であった。北氷洋の中に、いくつもの巨大な氷の浮島が漂流している。そういう顕著なことが、五十年間の北極探検時代を通じて、つい近年まで知られなかったのであるから、北極はやはり秘境である。
 氷島は、海水が凍って出来たものではない。これはエルズミュア島の北氷洋岸に出来た棚氷が、その母体である。棚氷は、初めフィヨルドに流れ込んだ氷河から出発し、それに降雪が加わり、また海氷も添加されたものである。したがって氷島には、氷河につきものの堆石《モレイン》が相当量存在している。これ等の堆石には、土もいくぶん加わっていて、氷島の一部をおおっている。外からみると、その部分は、「土が露出している部分」のように見えるが、本当は、堆石と土とが、氷の上に載っているのである。そこでは、苔も生え、草も成長して、ちっともおかしくはない。
 いままでに報告されたまぼろしの島は、たいてい現在知られている氷島の通路に近い位置である。それで大部分のこれ等のまぼろしの島は、氷島だったのであろうということになっている。
 
氷島の発見
 
 氷島の大きいものになると、長さ数十キロ、幅もそれに準じている。そういう大きい氷の一枚板が、海面上を漂流しているのであるから、飛行機の上から、一目で発見されそうなものである。しかし実際は、周囲の海面も一面に海氷でとざされているので、その中から、氷島を見つけ出すことは、非常にむつかしい。
 それに冬の間は、一日中夜であり、夏は濃霧で全海面がおおわれていることが多い。それで氷島の発見は、主としてレーダーによっている。広茫たる北極の海の中で、一面に敷きつめられた海氷の平原の中から、一枚の氷の板を見つけることは、丁度的を射あてるような困難さである。それで氷島の命名は、ターゲット(的)の一番、二番という意味で、T1、T2、T3というふうになっている。現在観測所のあるのは、T3である。
 太平洋戦争が終わった直後頃から、アメリカの空軍は、北氷洋へ、気象観測機を、だいたい隔日にとばしていた。一九四六年の八月、その観測機の一台が、アラスカのポイント・バロウの沖合、約五百キロのあたりで、途方もなく大きい氷の島を発見した。縦二十九キロ、横二十四キロの三角形に近い形であった。これが最初に発見された氷島T1である。
 当時この氷島の存在は、秘密にされ、ずっとその行方が追跡されたのであるが、この島はどんどん北方、すなわち北極点に向かって移動して行った。そして北極点のごく近くを通って、エルズミュア島の沖に碇着してしまった。この島には、上陸はなされなかった。
 T2は、一九五〇年に、北極点に近いところで発見された。これはT1よりもさらに大きく、三つの氷島の中では、一番大きいものであった。この氷島も、北極点のすぐ近くを通って、グリーンランドの方へ流れていった。そして一年後には、その行方がわからなくなってしまった。
 T3は、T2とほとんど同時に発見された。これは三つの氷島の中では、一番小さい。それでも縦十四キロ、幅七キロもあるので、ずいぶん大きい氷の一枚板である。最初の発見は、レーダーによったもので、一九五〇年七月二十九日のことである。
 このT3は、その後ずっと追跡され、一九五二年の三月には、その氷上に、初めての着陸が敢行された。それ以来、ときどき人員を撤収したこともあるが、だいたい半永久的の観測所が設置されて、今日におよんでいる。いわば北極の浮島の代表的なものであって、単に氷島といえば、このT3のことである。
 現在のところ、アメリカは、T3の外に、α《アルフア》Ⅱにも観測所をつくって、北氷洋の海洋学的および気象学的の研究をしている。このαⅡは氷島ではなく、旧海氷の大型のものである。旧海氷と氷島とは、成因が異なっているので、組成もひどく違っている。
 氷島は、氷の厚さが五十メートルないし六十メートルくらいあって、その寿命は、数十年以上と推定されている。ところが旧海氷の方は、厚さがせいぜい五メートル、ふつうは二、三メートルくらいのものである。人間がその上に住むと、寿命は一年か二年ていどしかない。
 αⅡに住んだ人たちの話によると、旧海氷の島は、ずいぶん頼りないものであるらしい。重い機械などを、氷の上に放り出しておくと、だんだんめり込んでいく。 一寸油断していると、すっぽりと抜けて、北氷洋の底まで落ち込んでしまう。他の海氷の横圧を受けると、圧力畝《うね》が出来て、氷がもち上がってくる。その畝がテントの近くまで押し寄せてくると、ずいぶん心細い思いをするそうである。
 北氷洋の地球物理学的研究は、ソ連の方でも、浮氷上に観測所を設けて、盛んにやっている。着手の時期からいえば、ソ連の方がずっと先輩である。一九三七年にすでに、パパーニンの一行を北極点の浮氷上に飛行機で運び、一行はそこで越冬して、観測をした。この壮挙は、当時の世界を驚かせ、この歴史的飛行を指揮した操縦士ヴオドピヤーノブの記録は日本にも翻訳され、岩波新書の『北極飛行』として出版されている。
 このときの観測は、翌年の夏、その浮氷がグリーンランドの方へ流れていって、やがて氷が二つに割れたので、中絶された。パパーニン隊は、危うく飛行機によって救い出された。これからみると、その氷の島は、旧海氷の大型のものであったらしい。
 パパーニンの観測以来、ソ連では、同様な観測を六回行っている。そのうち国際地球観測年用のものだけは、氷島らしいが、あとは、全部旧海氷の上につくった観測所であった。寿命はたいてい一年か二年のていどである。
 ソ連の北氷洋調査は、浮氷上に着陸して、観測を終えたら、すぐ飛び立って帰ってくるというやり方を、主としてとっている。一地点では、一回か二回の観測しかできないが、そのかわり北氷洋の全域にわたって、氷上着陸をして、観測を行っている。一九五六年が、一番盛んだった年であって、この一年間に、二百数十地点で、浮氷上に着陸している。これは驚くべきことである。
 
北氷洋に浮かぶ観測所
 
 T3が、初めて発見されたのは、一九五〇年のことであるが、その以前に、米加両軍の協同調査として、カナダ群島沖の浮氷の写真が撮ってあった。T3の発見後、その写真を詳細に調べてみたら、その中に、T3がちゃんと写っていたのである。それによると、一九五〇年以前のT3は、図に破線で示したような経路をとって流れていたものと推定される。それを計算に入れると、T3は、北氷洋内で、楕円に近い軌道を描いて、漂流していることがわかる。周期は約十年である。
 北氷洋に、十年間船を浮かべて、観測をつづけることはできない。その点、T3は、天与の「観測船」である。それでこの上に観測所を設けて、北氷洋の調査に乗り出したわけである。
 本格的の調査は、一九五七年から入年にかけて、国際地球観測年の事業の一つとして始められた。ソ連も同時に、氷島観測を開始した。この観測は、一九五八年以後も、続行されることになったが、アメリカの一つの悩みは、こういう場所に、長期滞在して、研究をつづける研究者を得がたい点にある。一人前の科学者は、どうも細君が承知しないらしい。若くて優秀な研究者は、北極などへ行かなくても、他にいくらでもよい職場がある。
 しかしこういう研究は、同一人の科学者が、少なくも一年間、氷島にとどまって、連続的な調査をしないと、本格的な研究はできない。こういう話が出たのは、一昨年一九五八年のシャモニイ会議の際であった。国際雪氷委員会のシンポジウムが、その年の九月に、フランスのシャモニイで開かれ、十六力国から、約六十人の雪氷専門家が集まった。アメリカから七人、ソ連からも六人というふうな盛大な会議であった。
 その際、アメリカの代表の一人から、この話があって、日本の研究者の協力を求められた。日本には無料《ただ》でもいいから南極へ行きたいという若い研究者が、いくらでもいる、という話をしたからである。
 昨年の春、この話が急に具体化して、北大の楠助教授と六車助手とが、アメリカの北極研究所の嘱託として、T3へ行くことになった。楠君は六カ月、六車君は一年の予定である。担当題目は、北氷洋の海洋観測と、T3の氷の研究である。楠君は、海氷の研究者で、日本の第一次南極観測隊員の一人である。極地の海の観測にも経験があるので、まず適任である。六車君は、今まで氷しか扱っていなかったが、六力月間楠君の海洋観測を手伝ったら、あとの六ヵ月、その観測をつづけることは、そう難しくはなかろう。そうすれば、同一人の研究者による、一年間の完全な観測資料が揃うことになる。
 二人は、昨年の三月に日本を立って、五月の初めには、T3へ着いた。米国の東海岸から、グリーンランドのチューレへ飛び、そこから輸送機で、カナダ群島の上を飛んで、T3へ行く。たいへんな遠廻りであるが、それより外には方法がない。船は近づきにくいし、接岸はさらに困難である。人員も、物資も、全部空輸によるので、空軍の基地にたよらざるを得ない。
 ところが、T3はその後もどんどん南西下して、夏にはアラスカの沖合にかかって来た。それで八月にはいって、T3の宛先が、グリーンランドのチューレから、アラスカの首都フェアバンクスにかわった。空輸機が、フェアバンクス郊外のラッド飛行場から飛び立つことになったからである。
 もっとも夏の間は、氷の滑走路の表面がとけているので、飛行機の着陸はできない。それで郵便も物資も、空輸は全部、落下傘投下による。手紙は届くが、返事はもらえないのである。
 氷島の滑走路が使えるようになるのは、九月の末である。北極の早い冬は、九月の中頃には、もうこの島を訪れてくる。滑走路の水溜まりは、ふたたび氷でおおわれ、簡単な手直しによって、離着陸ができるようになる。
 この夏の気象状態では、第一回の着陸は、九月二十五日頃に敢行され、その後は、天候のゆるす限り、毎日空輸が行われるという知らせがあった。それで私は、九月二十一日にシカゴを立って、アラスカへ向かった。シカゴは猛暑、ひどい宙雨の中を、北極の支度をととのえて、飛行機に乗り込んだ。
    T3への旅
 九月二十六日。フェアバンクスは、前日にひきつづき、朝から低い暗雲にとざされ、霙《みぞれ》まじりの冷雨である。
 七時にラッド飛行場に着いてみると、もう輸送機c123が、ずんぐりした胴体を横たえている。これは戦車でも運べる輸送機の由で、T3で現在使っているジープも、トラクターも、皆このC123で運んだのだそうである。双発であるが、馬力はひどく強く、それに離陸用のジエットも備えている。脚は、車輪と橇と両方がついている。
 この秋の第一回の飛行は、前々日に行われ、無事離着陸に成功した。しかしそれはテストの意味が主であって、正式の空輸としては、今日が第一回目である。交代のための人員、臨時の施設要員など、二十人ばかり、それぞれ大きい荷物を持ち込んで、集合は完了している。しかし天気は少しもよくなる気配をみせない。
 暗雲はますます低くたれこめ、冷雨は本式の霙にかわってきた。典型的な着氷の気象条件である。現在くらい進歩した飛行機にとっても、やはり着氷は、恐ろしい航空の敵である。翼や窓に、氷が凍りつくと、視界はきかず、浮力は減ってくる。不時着場のない極地では、着氷は、最近まで、何よりも恐れられていたものである。
 この調子では、今日はとても出発できそうもないと思っていたら、九時頃になって、大きいクレーンのついたトラックがやってきた。着氷防止用の多分子アルコールを、霧吹きで吹きつける装置をもったトラックである。クレーンは、自在桿のように、自由に折れ曲がり、その先端に、霧吹きのホースをもった人間が乗っている。これで翼や窓一面に、着氷防止剤をさかんに吹きつけている。
 着氷防止剤の研究は、われわれも、戦時中にだいぶやったことがある。そのころは、効き目があまりなかったので、これくらいのことで飛べるのかと、少し不安であった。しかしこの操作がおわると、すぐ乗り込みの指示があり、C瑠は、十時三十分に飛び立った。
 乗り込みと同時に、落下傘を手渡され、その使い方を教えられた。不時着の指示があったら戸口に集まり、命令と同時に機外にとび出す。そして、一、二、三とゆっくりかぞえてから、手前の環を強くひくと、傘が開くのだそうである。おどかされただけでも閉口なのに、厄介なことには、落下傘というものは、ひどく重いものである。肩から腰にかけて、しっかりとバンドで締めつけると、いっぱいに詰まったリュックサックを背負ったくらいの重さである。身動きもできない。落下傘がこんなに重いものとは知らなかった。
 飛行機は、すぐ密雲の中にはいり、周囲は全くの灰色の雲につつまれ、視界が全然なくなってしまった。翼の前縁が辛うじてみえるくらいである。着氷が起きはしないかと、びくびくもので、前縁を見守っていた。しかしその心配はいらなかったので、間もなく、この層雲の上に出た。上は全くの晴天で、太陽が燦々《さんさん》と輝いていた。
 飛行機はまっすぐに、T3を指して、アラスカの大平原の上を飛んでいく。幸いなことには、この層雲も間もなく切れて、下界には、見渡す限りのアラスカの大平原がつづいている。遙か地平線のかなたまで、山らしいものは全然みられない。どこまでもつづく陸の大洋である。一部には灌木と草原らしい緑がみられるが、大部分の土地は、茶褐色の裸地である。降りてみたら、恐らく、砂礫と塊石との荒野であろう。
 一時間たらず飛んだかと思うころ、ユーコン河にさしかかる。この付近で、ユーコンは、たくさんの支流を集めているが、そのいずれもが、典型的な蛇行《メアンダリング》をみせている。自然地理の教科書には、蛇行の例として、よくユーコン河の写真が出ているが、まのあたりにみると、いかにも、もの凄まじい姿をしている。
 カナダロッキー山脈に降った雪が、春になって解けて流れ出る。この水は、蜒々たる河流をなして、アラスカの大平原へ流れ入ってくる。しかし見渡す限り平坦なこの土地では、河はその河道をきめることができない。右に左に、いちじるしい蛇行を示しながら、辛うじて、海への道をひらく。しかしこの原始の川では、河床がみるみるうちに上がってきて、つぎの出水では、河はまた別の道をとらざるを得ない。いくつもの旧河道は、いずれも激しい蛇行を示しながら、互いにもつれ合い、重なり合って、人跡のない荒野を、のたうち廻っている。まさに原始以来の土と水との闘いのあとである。
 一昔前のアラスカでは、砂金掘りの人たちが、ユーコンの支流をさかのぼりながら、金を探したものである。道路はもちろんなく、食糧なども、とだえがちである。極北の雪嵐に悩まされながら、あらゆる窮乏に耐えて、奥地へ奥地へと、人跡のない土地へわけ入っていく。そして身を切るような冷水のなかで、黄金に憑《つ》かれた一生を終えた人も、かなりあったことであろう。
 いま、飛行機の上からみるこの土地には、人間の営みのあとは、全然みられない。全くの無人の境という感じである。あれほど豊富だったアラスカの砂金も、ほとんど採りつくされ、残っている金は、大規模な機械設備をもった大企業としてしか、採算がとれないそうである。フェアバンクスの近くには、そういう企業場もあるが、この奥地では、もちろん思いもよらないことである。
 フェアバンクスから、北氷洋の岸まで、飛行機で二時間あまりの距離といえば、日本だったら、東京から札幌近くまでの距離であるが、この間、人間の存在を示すあとは、何一つみられない。ただあるものは、極北の自然の荒々しさを示す地貌だけであった。
 
北極の海
 
 飛行機からみる北極の海は、濃い暗緑色をしている。陸地から離れるに従って、その色はますます濃くなって、インキのような青黒い海になる。二千メートル以上の深海で、プランクトンなどは非常に少なく、水が恐ろしく透明だからである。
 アラスカ沖では、夏の間は、かなり広い開水面があり、細かくこわれた旧海氷が、その中に点在している。濃い紺色の水と、その上に浮かぶ真っ白い浮氷との対比は、非常にあざやかである。
 少し沿岸を離れると、九月の末というのに、もう新しい海氷が出来始めている。この極北の海面を薄く蔽った新しい海氷は、濃紺の下地に紗をかぶせたような色彩である。この薄い海氷は、縦横に割れて、寄せ集められ、重なった部分だけが、白い線になって見える。線といっても、重なり方によって、いろいろの幅がちがい、紙テープを少し縮らせたような形をしている。
 初冬の北極の海は、いかにも美しい。紗をすかしてみたように、なかば透明な青磁色の海氷が、海面の大部分をおおい、その中に、紙テープの線が、縦横に走っている。ところどころには、濃紺色の開水面が、その中に割り込んで、力強いタッチを与えている。まさに抽象画の傑作である。
 この新しい海氷の平原の中に、ときどき旧海氷の大きい浮氷がみられる。この方は、不透明で、色は真っ白である。しかし夏の間に出来た水溜まりが、一面に散在していて、その水が、非常に鮮やかな青緑色を呈している。真っ白い画布に、チューブから出したばかりの青緑の絵の具を、無数にたらしたようである。
 北氷洋へ出てから、一時間ばかりも飛ぶと、旧海氷からなる浮氷の数も大きさも、だんだん増してくる。中には、長さ一キロ以上と推定される、大きい浮氷も混じっている。しかしそれらは、まだ氷島ではない。
 もうそろそろT3が見えそうなものと、小さい窓から、前方をよく見張っていたが、T3らしいものは、なかなかやって来ない。貨物輸送機のことであるから、特二式の椅子などもちろんない。胴壁にそって、幅のせまいベンチがあるだけである。外の写真を撮ろうとすると、中腰のひどく窮屈なかっこうをしなければならない。脚も腰も、だいぶ硬ばってきたので、一休みしようかと思っていたところに、突如、眼の前に、真っ白な氷の平原が現れてきた。T3である。
 さすがに浮氷の王者だけのことはあって、たいへんな広さである。小さい窓の限られた視界では、島の一部しかみえない。しかし幸いこの付近では、開水面が広く、島に定着した浮氷が少ないので、輪郭がよくみえる。飛行機は、どんどん高度を下げながら、氷島の上で旋回を始めた。
 高いところからみたときは、全く平坦な氷の板のように見えたが、近づいてみると、たいへんな凹凸がある。あとでわかったことであるが、北極地方は、今年の夏、異常高温に見舞われ、島の表面の氷がひどく解けて、池や川がたくさん出来たためである。これだけの凹凸のところにつくった氷の滑走路では、相当のショックは覚悟しなければなるまいと思っていたが、飛行機は平気で着陸した。ショックもふつうの滑走路と、そうひどくはちがわなかった。パイロットは、北極飛行の第一人者だとは、聞いていたが、さすがと感心した。驚いたことには、滑走距離は、四百メートルでよいという話であった。
 
T3の生活
 
 現在のT3の建物は、三年前に、国際地球観測年のために、つくられたものである。テントではなく、外側はアルミニウム、内側をベニヤ板で張ったトレーラーである。幅約三メートル、長さ十メートルの細長いトレーラーであって、これを二つ直角に組み合わせたものが、一単位をなしている。こういう単位が四つあって、それが正方形の四隅に配置され、真ん中が広場になっている。これがいわばT3の街である。
 正規の建物は、これだけであって、この街の中で、すべての生活および研究がなされる。海洋や気象の観測、すなわち野外観測のためには、この外にかまぼこ型のテントが、四つばかり建てられている。
 グリーンランドの氷冠上の生活は、ほとんど全部、かまぼこテントの中でなされる。トレーラーは、ここが初めての試みであったが、これは内部の感じが清潔で、居住性も案外によく、大成功であった。暖房は重油ストーブである。それにしても、こういう大きい建物を、飛行機で運んだのであるから、たいしたものである。
 単位の一つは、食堂、厨房および浴室《トイレツト》になっている。これがまず一番大切なところである。食事が第一の楽しみであるが、ふつう一週間の献立がきまっていて、それが毎週くり返される仕組みになっている。
 材料は、ほとんど全部、罐詰めか冷凍品であって、日本流に贅沢《ぜいたく》をいえば、うまいとはいえない。しかし、アメリカの大都市に住んでいても、カフェテリアで食わすものは、大部分これと同じものである。とにかく、昼晩隔昼晩と、連日ビーフ、ハム、チキンを食べさせられるのであるから、肉好きの若い仲間には天国であろう。楠君も、六車君も、この半年の間に、一生涯分の肉を食べたといっていた。
 ここは、グリーンランドと違って、人数が少ないので、甚だ家庭的である。食堂はいつでも空いていて、出入り自由である。それで夜中でも、腹がへれば、何か食べられる。パン入れは出しっ放しであるし、冷蔵庫をあけてみれば、チーズや冷肉はいつでもはいっている。
 食堂の隣は、「映画館」である。ここでは、夕食後、毎晩映画がある。短篇一本と長篇一本とを、毎晩みせている。「もう六ぺんくらい同じ映画をみてるんじゃないのか」と聞いてみたら、「同じ映画を二度みることは、滅多にありません」と言う。たいへんなフイルムのストックをもっているものである。
 居室および寝室は、研究室とは別の建物である。トレーラーを、二つに仕切って、一方が居室、今一方が寝室になっている。居室には、ソファーと肘付き椅子とがある。ベッドは二段になっていて、一つのトレーラーで、六人寝られる。
 居室もベッドも、アメリカの安ホテルよりは、かえってよいくらいであるが、研究者たちは、ほとんど一日中研究室の方で暮らしている。ホテルの方は、寝るだけである。楠君と六車君とは、トレーラーを一つもらって、立派な実験室に仕上げていた。
 実験台と、仕事机とを、壁に沿って、ずっと並べ、部屋の一端には、海水の分析装置を、すっかり調えていた。分析用のガラス装置が、ずらりと並んだところは、なかなか見事である。とても北氷洋の氷の上とは思えない。よく壊さずに運んだものである。
 壁の上の方には、棚をつくって、記録用紙や、参考書を、きちんと並べてあった。よく整理されているので、部屋が広く使える。休息用の軟らかい肘付き椅子に腰をおろして、部屋の中を眺めてみると、なかなか快適である。「北大へ帰っても、実験室を、こういうふうにきれいにしておくといいんだがね」と、にくまれ口をきいて、三人で笑った。
 こういうふうに書いていると、いかにも文化的のようであるが、北極には、北極なりのこともある。まだ雪嵐《ブリザード》の時期ではないが、夏の厄介ものは、白熊である。島がアラスカ沿岸に近づいたので、ことしは白熊が盛んにやって来た。
 この頃は、白熊も飢えているらしく、人間を食いに来るので、話が厄介である。私が着く二日前にも、ここの司令が、白熊におそわれて、危うく逃れたそうである。
 便所から出てきて、自分のトレーラーへ戻ろうとしたら、広場の真ん中で、映画館のかげから出て来た白熊と、ばったり出会った。あわてて逃げたが、白熊の方が、もちろん速い。今一歩でつかまるところで、飼っているエスキモー犬が、白熊の後から吠えかかった。それで白熊は、ふり返って、エスキモー犬の方へかかっていった。そのすきに、司令はピストルを取り出して、一発放った。もちろんピストルでは、白熊は殺せない。しかしその音をきいて、皆が銃をもって出てきて、無事射止めたそうである。
「ここですよ」と、氷上に残っている自熊の血のあとを示されたのは、食堂の入り口から、四メートルか五メートルしか離れていないところであった。エスキモー犬の方は、一寸やられたが、大した傷ではなく、私が着いた日には、もう元気にとび回っていた。
 それ以来、おふれが出て、トレーラーを少し離れるときは、かならず銃をもって行くことになった。野外観測に出かけるときは、もちろんのことである。
 九月の末のT3は、もう冬の初めであって、毎日のように、少しではあるが、雪が降る。氷の表面は、新雪でおおわれているので、それを払わないと、島の氷の模様はわからない。それで氷の観察には、箒が必要である。鉄砲をかつぎ、箒をぶら下げて、氷の観測に出かける姿は、ちょっと珍妙である。
 
海洋観測
 
 海洋観測には、寒暖計や採水瓶を、海底まで降ろしてやる必要がある。そのためには、氷島の氷を突き抜けて、孔を掘らなければならないが、厚さ五十メートルもあるこの氷をぶち抜くことは、機械力がなければできない。それで、この氷島の氷の底までのボーリングは、まだなされていない。
 ところが、この氷島の周囲には、ところどころに、ふるい海氷が凍りついているところがある。その海氷は、厚さ三メートルくらいである。それでこの旧海氷の上に、かまぼこテントを張り、そのすぐ近くに、測器用の孔を掘って、観測をしている。
 楠君たちは、五月にここへ着くと、すぐこの孔を掘ったのであるが、北極のことであるから、すぐ氷でふさがってしまう。それで夏のあいだじゅう、島の氷の解けた水が、この孔のなかに流れ込むように、水路《みずみち》をつくってやった。これは大成功で、孔はラッパをふせたような形に、下ひろがりに、ど
んどん大きくなっていった。表面では一メートル角くらいの孔であるが、底では直径三メートルくらいにもひろがった。これなら、冬になっても、相当な期間、孔がふさがることはないであろう。
 九月の末でも、海氷はかなりの速度で、生長するので、二、三日放っておくと、孔の表面にけ、十センチていどの氷が張る。その氷をつるはしで割って、なかをのぞき込むと、いかにも、北氷洋の神秘を思わせる色をしている。ラッパ型をなしている氷壁は、あざやかな緑色、孔の底は、濃い暗緑色である。そして水は、底へ行くほどだんだん暗くなり、果ては、極地の海の永遠の闇につながっている。
 この付近の深度は、約二千二百メートル。水はおそろしく透明である。孔の縁に立って、なかをのぞきこむと、いかにも深淵をのぞく無気味さである。どんな深海でも、船の上からは、この感じが得られない。不思議なものである。
 そのうちに、およそ生命とは無縁と思われるこの深淵の中に、何かものの動く気配が感ぜられた。初めは錯覚かと思ったが、よくよくみると、小魚が泳いでいる。体長三センチくらいの稚魚である。大きい眼玉だけはばかに黒いが、全身はほとんど透明で、体内の骨格がよくすけてみえる。稚魚の典型的な形をしている。そのうちに、また一匹出てきた。
 濃い暗緑色の水を背景として、全身すき透った小魚が無心に泳いでいる姿には、処が北氷洋のはるか沖あいだけに、なにか、妖精の世界を思わせるものがある。ところが眼が馴れてくると、そのほかにも生物がいる。非常に小さい水母《くらげ》である。笠の直径は、ニセンチくらいもあろうか。この方はさらに透明なので、なかなか見つけにくい。しかしよく見ると、繊細に笠をふるわせながら、きわめて静かにうこいている。ここにも生命があるという言葉が、ぴったりとあてはまる情景である。
 観測要素は、水温と成分とであって、海底までの各層で、それらを測り、垂直分布をしらべる。水温は、深度二百メートルまでは、五ないし二十五メートルおき、以下五百メートルまでは五十メートルおき、それ以下は百メートルおきというふうに測る。深度二千メートル以上のこのあたりでは、一度に五本の寒暖計を使っても、二人がかりでまる七時間かかる。昼飯は抜きである。
 成分は塩素と酸素と珪酸との三つを測る。この方は、採水したあとの分析が、大仕事である。酸素は、その日のうちに測らねばならないので、夕方研究室へ帰ったら、すぐ始める。たいていは徹夜仕事になる。塩素もいそいだ方がよいので、翌日測ることにしている。昼飯ぬき、七時間の重労働のあと、徹夜をして、また翌日もというのであるから、楽ではない。
 しかし両君とも、実によくやって、だいぶ資料がたまった。これらの要素の垂直分布をくわしくしらべると、北氷洋の水の動き、とくに太平洋および大西洋との水の交換の研究に、よい材料を提供することになる。
 もちろんT3の観測だけでは不充分であって、ソ連の調査資料とつき合わせて、調べなければならない。要するに、こういう地球物理学的な研究は、国際間の協力がなくては、できない仕事である。
 海洋に関係した問題で、ひとつおもしろい現象が見つかった。それは、T3自身が自転をするという問題である。北氷洋のなかで、約十年かかって、楕円にちかい軌道をえがいて漂流するといったが、これはいわば公転である。この公転の方は、その軌道の形の循環海流があるということに、現在はなっている。
 自転があることは、前からもわかっていたが、極に近いところでは、海水にとじ込められているので、そういちじるしくは廻らない。ところが、この夏は、アラスカ沿岸に近づき、海氷群から解放されたので、自転が速くなってきた。この七月からもう三回転して、今は四度目にかかっているという話であった。速いときは、一日に三十度近くも廻る。それで天測のできない日は、方向がわからなくなるので、非常に困る。風向きが東から東北に変わっても、風向きが変わったのか、島が廻ったのかわからない。磁石は、北極では、ほとんど役に立たないからである。
 自転の方向は、だいたい右廻りである。このことは前からわかっていて、地球の自転の影響として、数学的なとりあつかいをした論文もある。かならず右廻りならば、それで説明がつくのであるが、根気よく測ってみると、自転の速度は、始終変化し、ときには、止まることもある。そして逆の方向に少し廻って、また右廻りに戻った例も観測された。こうなると、話は非常にふしぎになるので、地球の自転の影響などと、簡単には、片づけられない。この大きい島の廻転を止め、逆の方向に廻す力は、たいへんなものである。
 もっとも、厚さは五十メートルあっても、大きさは約十キロメートルであるから、大きさに比しては、非常にうすい氷の板である。それで板がすこしねじれる場合があるかもしれない。それもふつうの天測では、島の自転のようにみえることもあるので、もうすこし観測資料がたまるまでは、何ともいえない。しかしこういうおもいがけない現象がみつかっただけでも、北極まで来たかいがある。
 T3がカナダ沿岸に近づいてから、すなわち自転可能になってから、もう四年にもなるのに、こういう顕著な現象が、今まで見逃されていたのは、ちょっと不思議なようである。しかし本当は、不思議ではないので、本腰をいれて、測ってみた人が無かっただけのことである。
 従来、天測は、島の位置をきめるため、詳しくいえば、公転軌道上の現在点を決めるためになされてきた。その目的には、観測は、数日おきにすれば・充分である。天測といっても、夏.のあいだは、夜がないので、太陽によるより仕方がない。それだと一地点の決定に、二時間おきに三回観測する必要がある。こういうところでは、三回も太陽観測をして、島の位置をきめてしまうと、やれやれという気持ちになるのは、人情であろう。あとは三、四日経って、またやればよいのである。
 ところが、六車君は、元気がよくて、太陽が見えているあいだは、何回でもつづけて、根気よく天測をつづけた。そうしたら、このような奇妙な自転がみつかったのである。ばか正直な男にはかなわない。
 
氷島の氷
 
この氷島は、エルズミュア島の棚氷がちぎれて流れ出したものであるから、島を形成している氷は、棚氷の氷と同じものである。
 ところが棚氷は、氷河性の氷と、旧雪と、海水とから出来ているので、複雑な構造になっている。従って、T3でも、いろいろな種類の氷がみられる。
 そのうちで比較的簡単なものは、真水から出来た氷であるが、これにも二種類ある。一つは蝋燭氷《キヤンドル・アイス》と呼ばれているものである。湖水に出来る氷は、しばしばこの蝋燭氷になるので、前からよく知られているものである。この氷は、春さきになって、太陽光線に照らされると、蝋燭《ろうそく》の束のような恰好になって融けるので、この名前がついている。一本の蝋燭は、太さニセンチ前後、長さ十ないし二十センチくらいの大きさである。
 今一つの種類は、蜂巣状氷といわれる。これは旧雪が氷化したもので、直径五ミリないし一センチの氷粒が緊密におしつめられたような構造になっている。この氷は、太陽光線にあたっても、表面から融けるだけで、氷粒がばらばらになることはない。それで夏になって氷がゆるんだときでも、この氷を壊すことは、非常にむつかしい。つるはしでカいっぱい叩いても、刃先の痕だけ、ちょっと氷がかけるくらいで、コンクリートよりも始末がわるい。氷は粘性があるので、石やコンクリートよりも、こわしにくいのである。
 ところが蝋燭氷のほうは、少しとけかかってくると、ざくざくになって、脚でけとばしたくらいでも、簡単にこわれてしまう。この点は、実用問題としても、重要な意味がある。
 氷島の氷の表面は、後に述べるように、非常に凹凸がある。夏の融氷期に、表面が一様に融けないからである。滑走路は、氷をならしてつくってあるが、夏の間に、ほうぼうに水たまりが出来て、その水が流れ出ると、大きい穴がたくさん残る。
 九月の末になって、表面の融解がとまると、滑走路の修理にかかるわけであるが、このときには、たくさんの氷が要る。氷で穴を埋めて、その上をブルドーザーでならすからである。ところで、一つの穴を埋めるにも、一山《ひとやま》の氷が必要であるが、それだけの量の氷を集めるのは、大仕事である。峰巣状の氷を、つるはしでカチンカチンとかいていたのでは、ひとかかえの氷を集めることもたいへんである。
 その点、蝋燭氷の方は、非常に話が簡単であって、スクレーパーで一度かくと、みるみるうちに、一山くらいの氷が集められる。それを穴のところまで押していけば、簡単に穴が埋まってしまう。その上を、ブルドーザーで圧しつけると、平らな滑走路になるわけである。
 グリーンランドでは、雪を固めて滑走路をつくる。この場合は、粉雪をいかにして固めるかという問題が、基礎研究として必要である。氷島では、氷を大量に集めることが問題であって、それは、いかにして氷を壊すかという問題に帰する。
 T3の場合、とくにT3が南下しているうちは、融解期の蝋燭氷をあつめればよいので、なにも新しく研究などする必要はなさそうに思われる。しかしいつでも、またどこでも、蝋燭氷があるとはかぎらない。むしろこういう巧いものがある方が、例外的な場合である。それで氷をこわす方法の研究も、雪氷工学の方では、重要な課題である。.砕氷船など、直接にこの問題と当面しているわけである。
 この研究は、こわす方、すなわち機械的の力の方は、今日の機械工学の進歩の度からみて、じゅうぶん進んでいることと思われる。しかし壊される方、すなわち氷の組成およびその物性の方は、まだほとんど手がついていないといっていいであろう。第一、蝋燭氷のように、前からその存在がよく知られているものでも、なぜ蝋燭状に、ばりばらになって解けるかという点すら、まだ明らかにされていない。
 ふつうの氷は、どの氷でも、小さい結晶がたくさん集まったものである。この微結晶間の境界は、ふつうに見たのではみえないが、偏光板を使うと、はっきり見ることができる。そして太陽光線や、熱線をあてると、境界のほうが、結晶自身よりもさきに融けることがわかっている。それで蝋燭氷の一本一本が、一つの結晶であれば、融けるときに、ばらばらの蝋燭になるはずである。それならば、何も問題はない。しかし厄介なことには、一本の蝋燭は、一つの結晶ではなく、数本ないし数十本の結晶の集まりなのである。
 それで蝋燭氷ができたことは、一本の鑞燭の中の結晶境界は融けなくて、蝋燭同士間の境界だけが、融けたことである。そうすると、結晶間の境界に二つの種類があることになる。上からみた場合を考えると、結晶がたくさん集まって、境界は網の目のようになっている。それに太陽光線があたると、だいたい十個くらいの結晶が一群となり、その一群内の境界は融けない。しかしその群と、となりの群とのあいだの境界は融ける。それで氷の大きい塊は、蝋燭の束のような形になって融けるのである。
 ここまでは、実験をしてみなくてもわかることであるが、それでは、群間の境界と、一つの群の中の境界とは、どう違うか、なぜ一方は融けて、他の方は融けないか、ということになると、全然わからない。氷にきいてみるより仕方がない。
 それでわずかな滞在期間中ではあったが、蝋燭氷の原型を、薄い板に切って、偏光顕微鏡の下におき、熱線ランプでとかしながら、その融け方と結晶方向との関係を調べてみた。現象は非常に複雑であって、もちろんこれくらいのことで、全貌がわかるはずはない。しかし結晶主軸の方向が、並行に近い場合は、その境界が融けにくく、直角に近い場合は融けやすい、ということは、どうも確からしい。それだと、結晶境界面の安定度は、結晶方向と関係があることになって、少なくも、あたらしい問題が一つみつかったことにはなる。
 さらに面白いことは、この群の存在である。今までの氷の概念は、「微結晶の集積が氷の塊である」という考え方であった。これは昔の分子論で、「分子の集まったものが物質である」と考えていたのに、ちょうど相当する。ところが、膠質科学という分野がひらけて、物質と分子との間に、分子が数十個ないし数百個集まった一つの群、すなわちコロイドが存在するという考え方になった。少しこじつけであるが、氷の場合にも、コロイド的な考え方を導入する必要があるのではないかという気がした。そうすると、微結晶から氷河や氷山へとぶ前に、微結晶の群、すなわち蝋燭氷のようなものの性質を、調べる必要があることになる。
 分子から原子、原子から原子核、原子核から素粒子と、物理学は、とどまるところなく進んでいる。そういう時勢に、蝋燭氷はコロイドであるというようなことをいって、それで何とかごまかしていけるのは、原始物理学のおかげである。
 
地球の歴史
 
 北極の氷島で、地球の歴史を見たといっても、たいていの人は信用されないであろう。しかし本当に、地球の歴史を、この氷の島の上で見ることができる。少なくも私には、そういうふうに思われたのである。
 もっとも、厳密にいえば、これは地表の歴史であって、地貌学《ジオモルフオロジイ》の問題である。風光明媚などといっても、結局は、地表に山や谷があって、いろいろ地貌上に変化があるということである。
 もっともこの変化は、考えてみれば、ふしぎなことである。変化の骨格をなすものは、水と岩石とであるが、この水と岩石とが、両方とも非常な曲者なのである。天竜峡谷を一度通った人は、諏訪湖にたたえられたあの静かな水が、磐石の堅岩を数百メートルも切りて、現在の天竜川をつくった天工の怪に、驚異の感を深くされたことであろう。
 しかし天竜峡谷なども、世界的にいえば、まだまだ赤ん坊の姿といわれても仕方がない。アメリカの中西部で、コロラド河が沙漠の岩壁を切り開いてつくったグランド・キャニオンなどは、それこそ人間のはかない知識をはるかに超越したものである。懸崖一千メートルの断崖が、蜒々として、東京から静岡までの距離のあいだつづいている。両岸とも、眼もくらむばかりの断崖であって、その底には、はるかにコロラドの本流が、銀線を屈したような形で流れている。
 水の流れが、岩をけずる速度、すなわち浸蝕の速度が、どれくらいであるかは知らない。岩の種類と、流速と、水中の砂礫の量とによって、それは広い範囲にわたって違っていることであろう。しかしごく大ざっぱにいって、一年に一ミリか、せいぜい数ミリ程度のものではないかと思われる。一ミリでも、百万年たてば、一千メートルになる。ところが、百万年というのは、地質年代では、ごく若い時代である。
 水流による岩石の浸蝕は、ひとりの人間の寿命の単位では、ほとんど無視されるていどのものである。しかしわれわれが見る地表の姿は、百万年を単位として、生起している現象である。いわゆる常識では、ちょっと歯が立たない。
 地貌を変える今一つの重要な要素は、岩石の粘性である。動かざること大地のごとしなどというのは、近代科学以前の言葉であって、大地すなわち岩石は、水飴のようなものである。褶曲《しゆうきよく》の例として、よくアルプスの岩壁の写真がしめされるが、岩の板は、まるで水飴のように、くにゃくにゃと曲がっている。非常に長い年月のうちには、岩は水飴のような流動性を示すのである。
 岩と限らず、単一結晶以外のすべての固体には、固体の性質と、粘性流体の性質と、両方の性質がある。そして短時間作用する力にたいしては、固体の性質がはたらき、長時間はたらく力にたいしては、流体的性質があらわれる。
 原則は、このとおりであるが、短時間、あるいは長時間というのが、どれくらいの時間であるかということになると、それは物質によって、著しく違う。ハチミッは、どろどろしていて、確かに粘っこい流体であるが、非常に急激な力を加えると、割れる。すなわち固体の性質をしめす。アスファルトの塊は、見たところは固体であるが、十年くらい放置すると、だらだらと崩れる。アルプスの岩の褶曲は、数百万年か、数千万年か知らないが、非常に長い地質年代の時をかけて流動したものであろう。いわゆる硬いものほど、流動性をしめすのに長い時間を要する。そして物理学では、その硬さを表すのに、粘性係数という量を用いている。その数値が大きいほど、硬いことになる。
 ところで岩石の粘性係数は、もちろん非常に大きく10^22程度とされている。これは1のあとに、0が二十二並んだ数字のことである。蜜蝋くらいの軟らかさになると、ずっと下がって、10^4くらいになる。氷はだいたいその中間であって、10^10から10^11程度である。
 この数字からみると、氷は硬いようにみえても、岩石とくらべると、十桁《けた》くらい流動性が大きいことになる。それで褶曲のような、流動性にもとつく現象についていえば、岩石の場合に、数百万年か数千万年かかって起こった現象が、氷の場合は、一年か半年で起こっても、ちっとも不思議ではない。
 浸蝕についても、同じようなことがいえる。水流が岩石を浸蝕する速度を、一年に一ミリとして、水の流れが氷を一ミリ融かすには、一分もかからないであろう。浸蝕速度は、百万倍ちかく大きいことになる。それで、岩石の場合、百万年かかって起こった浸蝕作用が、氷の場合は、一年で見られることになる。
 実際のところ、T3では、いろいろな地貌の変化が見られるのである。一日、風のない日に、両君が、名所案内をしましょうといって、島の方々へ連れていってくれた。それはほんとうに名所案内であって、山あり、谷あり、溪谷あり、あらゆる地貌の変化が、箱庭的のスケールで、全部そろっているのには、全く驚いた。
 今年の夏は、異常高温に見舞われたので、とくにこういう現象が著しく現れたのである。氷の融け方がひどくて、いたるところに池が出来、その水がはけ口をもとめ、たくさんの支流が一本に合流したところなど、滔々《とうとう》たる奔流をなして、海へ流れ込んでいたそうである。そういう本流の両岸は、まっすぐに断ち切られて、氷の断崖をつくっている。まさにグランド・キャニオンである。もっとも深さは三メートルか四メートルしかないので、きわめて可愛いグランド・キャニオンである。それでも、人間を入れないで、写真に撮れば、どこかの峡谷の景色として、立派に通用する。
 氷の断崖の模様もなかなか面白い。いろいろ組成の違った氷が混じっているので、浸蝕のされ方が違い、その点も、岩壁の場合とよく似ている。
 一番驚いたのは、車石と全くおなじ構造の氷が見つかったことである。北海道の東部で、放射状の構造をもった岩が発見され、鈴木醇博士によって、車石と命名され、たしか天然記念物にもなっているはずである。氷の崖のまんなかあたりに、小さい空洞があり、それを中心にして、八方に氷の脈が走っている。
 ちょうど車輪のスポークのような形である。この氷の車石の方は、初めから観察をつづけていたら、その成因をはっきりと確かめることができるであろう。
 T3は、こういう意味では、地貌学の研究にも、一つの宝庫となり得るであろう。とにかく百万年かかる現象を、一年に縮めてみることができたら、それだけでも、非常に面白いことであろう。
 
    T3の寿命
 
 T3の氷が、どれくらい昔に出来たかということは、偶然の機会に発見された。それは、約三千年の昔である。
 T3の年齢は、その母体であるエルゾミュア島の棚氷の年齢と、だいたい同じと考えられる。ところで、ケンブリッジ空軍研究所のクラリイ博士が、この棚氷を調べるために、エルズミュア島の北氷洋岸へいったときに、珍しいものを発見した。それは、海岸の岩地の上に、木材が三本横たわっていたことである。この付近は、全くの裸の岩山で、草も灌木も生えていない。北緯八十三度のところである。したがって、この木材は、流木であって、どこかから流れてきて、岸に打ちあげられたものにちがいない。
 ところが、この付近の海岸には、ずっと棚氷が出来ていて、沖あい十マイル以上まではり出している。流木が、十マイルの氷原をとび越して、岸までやってくることはできない。それでこの流木が流れ寄って来た時代には、棚氷が無かったと考えるより仕方がない。
 この流木について、炭素14の分析を行ったところ、三千年という値が得られた。それでエルズミユア島のこの付近では、三千年前には、棚氷が無かったということがわかる。したがって、棚氷も、その分身であるT3も、氷の年齢は、三千年以下ということになる。
 この推定は、ほかの方からも確かめられた。雪氷永久凍土研究所のマーシャル氏が、T3でボーリングをしたとき、深いところに有機物の混じった泥の層があることを発見した。この有機物について、同様に、炭素14の分析を行ったところ、やはり約三千年という値が得られた。
 棚氷の年齢が約三千年であることは、これでわかったが、いつ頃、T3がこの棚氷からちぎれて、北氷洋に流れ出したかはわからない。しかしT3が漂流をはじめてからは、南下すると、表面の氷がひと夏のあいだにどんどん融ける。今年などは、とくに融解が著しく、夏にニメートル以上も融けている。北上すれば、そんなに融けないが、いずれまた南下してくるので、この調子だと、あと三、四十年すると、氷島が薄くなって、壊れてしまいそうである。したがって、棚氷から分離した時代も、そう旧い昔とは考えられない。
 T3の寿命など、そう大した問題ではないが、エルズミュア島の北氷洋岸に、三千年前には、棚氷がなかったということは、気候の長い変化の研究者にとっては、重要な資料である。今世紀にはいってから、北半球の気温の上昇は、非常に顕著である。この調子で、気温の上昇がつづけば、百年後には、グリーンランドや、極地方の氷がみんな融けて、海面が三十メートルちかく上昇するという説もある。しかし今度の流木の資料では、三千年くらい前は、北極はずっと暖かく、その後寒冷期がやってきたことになる。それだったら、今世紀にはいってからの気温の上昇は、二回目の温暖期に相当するわけである。
 地球上には、氷河時代が、何度もおとずれ、北アメリカやヨーロッパが、そのつど、氷河の下に埋められたことは、よくわかっている。しかしそういう地質年代的の変化は、現在の人類とは、至く関係のない遠い昔のことと、一般におもわれている。気候の長期変化なども、同様に、地質年代的な昔、あるいは遙か遠い将来の問題と考えられている。しかし案外ちかいことかもしれない。三千年といえば、「神武天皇」時代と、そう桁ちがいに旧い話ではない。そういう人間の生活と関係のある年代のうちに、顕著な気候の変化があったとしたら、ちょっと面白い問題であろう。
 一九六〇年代には、いわゆる宇宙時代がやってくるだろうという人がよくある。もしそういう時代がきたら、人智は飛躍的な進歩をすることであろう。しかし地球上にも、まだまだ知られない土地だの、思いがけない問題などが、たくさん残されているようである。
                                 (昭和三十四年十二月)
 
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